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「ベ戦時代、米国議会の戦い」 |
*意訳や注釈もあります。イラク反戦の米国議会の動きを理解するための一助にと。伊勢平次郎
「べ戦時代、米国議会と大統領の闘争」
U.S.NEWS & WORLD REPORT
BY KENNETH T. WALSH (5・17・07)
“われわれの世代はベトナム戦争から教訓を学んだ。その教訓とは、アメリカがその戦力を行使するときは、1)行使する理由が正当でなければならない。2)ゴールが明瞭でなければならない。さらに、3)勝利は圧倒的でなければならない”(ジョージ・ブッシュ 8・21・2000 在郷軍人会における演説)
これが、大統領選に出たときのジョージ・ブッシュの戦争に対する基準だったのである。以来、その基準はイラク開戦のときには大いに変わった。ブッシュはイラク開戦には正当な理由があると信じていた。一方、ほとんどの人々にとって、どう見ても、ゴールが明瞭であり、勝利は確かであり、さらに、勝利は圧倒的である、との確信はなかったのだ。このイラク戦争は30年前のベトナム戦争時代の大衆の戦争に対する否定の推移によく似ている。今、このイラク戦争に対する米国国民の反対意見は大きくなりつつある。先週、ついに、米国議会と大統領府は深刻な衝突に至った。ブッシュが、議会の、124ビリオン・ドルの戦費に付帯した米軍撤退条件に大統領拒否権を行使したのだ。つまり、ブッシュにとって、米軍撤退は絶対に受容れられなかったのだ。
“これはデイジャブの繰り返しだ”と、歴史家のダグラス・ブリンクリー。ボストン大学の、ジュリアン・ゼリザー教授は、“今日の状況は、1969~1970年の期間に議会が始めた、いわば、戦争の水質検査だ。つまり、財布を預かる議会の力で大統領を脅し、やがて、戦争に幕を降ろす手法だ” 今、長いそのプロセスが始まったばかりだ。議会は行ったり来たりする制度だ。今、議会がプレッシャーを大統領にかけ始めたばかりだ。そのプロセスは全くベトナム戦争時代の議会に似ている。
30年、一昔前、民主党議会はアメリカ国民の怒りが増加するにつれて、ベトナム戦争をコントロールしようとした。まず、ベトナム周辺の国の米軍の展開を制限しようと試みた。ついで、ベ戦そのものに充てる予算を締め上げようとした。ニクソン政権の終章とフォード大統領の初期には、その勢いはフルスピードになっていた。それだけではなく、共和党大統領の軍司令官の権限に対して真っ向から反対した。現在の民主党議会がそれだけの力があるのかは不明だが、そのように希望していることは確かだ。ベ戦時代、議会がほんの一握りのコントロールを入手するまでにはたいへんな時間がかかった。最初の反戦公聴会が開かれてから、1973年の撤退開始まで7年間もの年月がかかったのだ。最初の公聴会とはこうだ。1966年、2月、アーカンサス出身の外交専門家であった、ウイリアム・フルブライト議員がベトナム戦争に反対するスピーチを行ったときだ。同じ民主党員の、リンドン・ジョンソン大統領は、フルブライトをハーフブライトと呼んだほど激昂した。
しかし、現在のイラク反戦運動家を失望させる歴史がある。1970~1973年の期間のべ戦反戦派の敗北である。この期間、18のインドシナ軍事費への制限案が提出されたが、ほんの5案が可決されて実行されただけだ。米軍が駐屯していた間、ベトナム戦費そのものには制限はかからなかった。試みはあったが。結局、終戦に至るために効果があったのは、1960年代の終わりから、1970年の中期までの、議会による絶え間ない圧力だったのだ。1969年12月6日、議会はついに、ラオス戦費、タイ戦費、そこでは、米軍の共産軍(ソ連・中共の支援による)との戦闘があったが、戦費の打ち切りが法制化されたのだ。
ニクソンはこの法案に大統領拒否権を行使すれば自派の共和党内に反乱が起こると感じていた。それで、承認に踏み切ったのだ。しかし、議会がカンボジア戦費の打ち切りに至ると、ニクソンは頑迷に拒んだ。ニクソンは「自分の戦争に勝つ努力を台無しにする」と主張した。これは、先週のブッシュの演説に酷似している。「背中に刺すナイフだ。忠誠心のない非愛国者だ」とニクソンの仲間の議員たちも呼応した。そのとき、ニクソンがアドバイザーたちに言った言葉は、「奴らの内臓を殴りつけろ」というものだった。
1970年6月30日、7週間の論争の後、ついに議会は、58票を以って、チャーチ・クーパー修正法案を成立させた。それは、カンボジアにおける、米兵、戦闘支援軍、アドバイザー、爆撃作戦に予算を与えないというものだった。それまでに、ニクソンは既に米軍をカンボジアから撤退させていたが、ベ戦に必要ならば、再び派兵するオプションを持っていたため、この法案は大きな打撃となった。しかし、議会にとっても、大統領の司令官としての権限にあまり制限をかけることは好まなかった。そこで、地上戦闘員の制限だけにするという妥協案を出した。その時期、巷では、ベトナムにおける米兵を「戦犯だ」と叫ぶ声が大きくなっていた。上下両院とも即座にこの妥協案を可決した。この修正案は12月に大統領の署名を得るために送られたが、ニクソンが署名したのは、1971年の1月になってからだ。歴史家ゼリザーは、「これが、議会の戦費における大統領の権限に待ったをかける最初の成功例となった」と書いている。
ニクソンが拒否権を行使せず署名したのには理由がある。それは、全米に反戦運動の火の手が廻っていたことだ。また、コーネル大の歴史家は、「このプロセスの特徴は立法手段ではなく政治手段であった」と語っている。ついで、マクガバーン・ハートフィールドと呼ばれる修正案が、1971年までの撤退を提案したが、これは多数票で拒否された。理由は既に、ニクソンは撤退を開始しており、南ベトナム軍に後を任そうとしていたからだ。しかし、そこまでしても、反戦法案の寄せる波は終わらなかった。
1972年、上院は東南アジアにおける米軍の戦費を撤退の費用と戦死者、捕虜引取りの費用を除き全て停止する修正案を通過させた。これが、米国史上で初めての上下両院による進行中の戦争の、戦費全面停止法案の可決となったのである。しかし、その執行方法では上下院は同意に至らなかった。しかし、大統領府が支持したのだった。その理由は反戦の機運の大きさだった。1971年の1月のギャラップ世論調査では、なんと、米国国民の73%が、マクガバーン・ハートフィールド修正案を支持したのだ。現在のイラク反戦世論はそこまで行っていない。ウォールストリート・ジャーナル・NBC世論調査では、56%の米国国民がイラクからの撤退のデッドラインを設定することを主張している。
1972年のクリスマスに北爆が頂点に達し、それに続く1973年のパリ会談において、ニクソン大統領は議会がまもなく国家の財布を預かる権限(POWER OF PURSE)を行使してベトナム戦争を終わらせるものと理解していた。大統領の要求が何であれだ。ゼリザー教授はTHE AMERICAN PROSPECT で以下のように述べている「北ベトナムとの和平合意を以って、大統領は残りの米軍を全て撤退させる決意をした」。それにトドメをさすように、1973年には、その年の8月15日以後の戦費の使用を禁止する法案が可決されたのである。上院で、64票(3分2以上が必要)で可決したのだ。米国史上初めて上下両院が進行中の戦費の打ち切りに合意したのだ。
ついに、ベトナムからの米軍撤退は決定された。それだけで決議は終わらなかった。次に議会が行ったことは、WAR POWER ACT だった。これは、ニクソンの大統領拒否権に対抗する手段だった。つまり、大統領は、1)これ以上の戦争遂行には議会と相談をしなければならない。2)戦費を使ってはいけない。3)南ベトナムの援助金を打ち切る、であった。この決議によって、大統領の戦争遂行の権限はシビアに制限されたのだ。
この年、1973年の1月だが、パリ会談の北ベトナムとの合意によって、ほとんどの米国国民は戦争は終わったものと思っていた。しかし、北ベトナムは数ヶ月もしないうちに約束を破ってしまった。北ベトナム軍は30万人を増派し合計で46万人の大部隊を編成して南へ下った。一方、ウォーターゲート事件で弱体化したニクソンには、WPAを超えて、平和合意を翻した北ベトナムを叩くための北爆開始や、米軍再動員をする、また、南ベトナム政府支援の資金を断つ決議をした議会を押し返す体力は失せていた。
1974年の8月、ついに、ニクソンは辞任に追い込まれた。副大統領だった、ジェラルド・フォードが大統領になり、北ベトナムが交戦を続けるならば、南ベトナム支援資金の復活と米軍を再び投入するようにと議会に迫った。しかし、11月の中間選挙になると、民主党は、ニクソン・フォードのベトナム戦争を「名誉と平和」と括って終わらせるよう迫った。アメリカはこの戦争に疲れ切ってしまった。1974年の12月、中間選挙の1ヶ月後、ついに米国議会は、FOREIGN ASSISTANCE ACT を大多数で可決し、南ベトナムへの援助金を完全に断ち切ってしまった。議会に完全に敗北した共和党の足元はよろめいた。「フォードが出来ることは、一刻も早く、戦争を終わらせることしかなかった」と、デービッド・ブリンクリーは自伝の中で書いている。
1975年の1月、北ベトナムは大規模な全面攻撃を開始した。3月になると、北ベトナム軍は、弾薬と物資を断たれてほとんど抵抗できない南ベトナム軍を易々と破り、南ベトナムの各都市を制圧してしまった。フォードは、南ベトナムとカンボジアに、1.4ビリオン・ダラーを緊急援助するように議会に求めた。議会は1ビリオン・ダラーを許したが、実際に許可されたのは、700ミリオン・ダラーに過ぎなかった。やがて、古都のフエが陥落し、ついで、ダナンが陥落すると、米軍と南ベトナム軍は敗走し、米軍と避難民はサイゴン脱出を余儀なくされた。
頑固に南ベトナム援助を拒む上下両院に対して、フォードは最後の演説を行わねばならなかった。国防長官のキッシンジャーは、「この破滅的状況を作ったのは議会だと言え」とフォードに助言した。しかし、フォードは、そのような演説を行えば、アメリカは真っ二つに割れてしまうと感じていた。フォードはキッシンジャーの助言を退けた。そこで、「アメリカは友人(南ベトナム)を見捨てることは出来なかった。しかし、われわれの敵(ソ連・中共)は彼らの友人(北ベトナム)を支援し勇気ずけたのだ」という苦い演説となった。
しかし、このベトナム戦争で米国議会が責められることはなかった。勢いに乗り、米国の立法府は南ベトナムに一切の資金援助を断った。サイゴンが陥落する間際には、もう、フォード大統領になすべき手段は残っていなかった。南ベトナムの大統領、グエン・バンチュウは辞任し国外へ去った。アメリカのヘリコプターが屋根を飛び立つのは良いが、多くの人々が恥辱の中に置き去りにされたのだ。これが、11年もの年月、アメリカが介入したベトナム戦争の終章であった。
***
(解説)この11年間のベトナム戦争を終結に追い込んだのは、ウオルター・クロンカイトなどの、反戦世論を作っていったジャーナリストの不断なき努力だった。今日のワシントン・ポスト紙は、民主党大統領候補のヒラリー・クリントンや、バラク・オバマが、イラク軍事費に制限を」と主張したと報道。しかし、地上員に対しての戦費制限は、ベトナム戦争時代でも行われなかった。この記事の要点は、「絶え間ないプレッシャーを大統領にかけろ」なのである。平次郎はこのイラク戦争終結の鍵は米国世論にあり、上院の3分の2が同意することである。今週の世論調査(ウオール・ストリート・ジャーナル、NBC では、66%の国民が撤退を選んでいる。一方、ブッシュ大統領の支持率は、28%と史上最低記録(カーター)に並んだ。まもなく、この支持率記録は更新されると、CNNの報道である。 伊勢平次郎 ルイジアナ
「べ戦時代、米国議会と大統領の闘争」
U.S.NEWS & WORLD REPORT
BY KENNETH T. WALSH (5・17・07)
“われわれの世代はベトナム戦争から教訓を学んだ。その教訓とは、アメリカがその戦力を行使するときは、1)行使する理由が正当でなければならない。2)ゴールが明瞭でなければならない。さらに、3)勝利は圧倒的でなければならない”(ジョージ・ブッシュ 8・21・2000 在郷軍人会における演説)
これが、大統領選に出たときのジョージ・ブッシュの戦争に対する基準だったのである。以来、その基準はイラク開戦のときには大いに変わった。ブッシュはイラク開戦には正当な理由があると信じていた。一方、ほとんどの人々にとって、どう見ても、ゴールが明瞭であり、勝利は確かであり、さらに、勝利は圧倒的である、との確信はなかったのだ。このイラク戦争は30年前のベトナム戦争時代の大衆の戦争に対する否定の推移によく似ている。今、このイラク戦争に対する米国国民の反対意見は大きくなりつつある。先週、ついに、米国議会と大統領府は深刻な衝突に至った。ブッシュが、議会の、124ビリオン・ドルの戦費に付帯した米軍撤退条件に大統領拒否権を行使したのだ。つまり、ブッシュにとって、米軍撤退は絶対に受容れられなかったのだ。
“これはデイジャブの繰り返しだ”と、歴史家のダグラス・ブリンクリー。ボストン大学の、ジュリアン・ゼリザー教授は、“今日の状況は、1969~1970年の期間に議会が始めた、いわば、戦争の水質検査だ。つまり、財布を預かる議会の力で大統領を脅し、やがて、戦争に幕を降ろす手法だ” 今、長いそのプロセスが始まったばかりだ。議会は行ったり来たりする制度だ。今、議会がプレッシャーを大統領にかけ始めたばかりだ。そのプロセスは全くベトナム戦争時代の議会に似ている。
30年、一昔前、民主党議会はアメリカ国民の怒りが増加するにつれて、ベトナム戦争をコントロールしようとした。まず、ベトナム周辺の国の米軍の展開を制限しようと試みた。ついで、ベ戦そのものに充てる予算を締め上げようとした。ニクソン政権の終章とフォード大統領の初期には、その勢いはフルスピードになっていた。それだけではなく、共和党大統領の軍司令官の権限に対して真っ向から反対した。現在の民主党議会がそれだけの力があるのかは不明だが、そのように希望していることは確かだ。ベ戦時代、議会がほんの一握りのコントロールを入手するまでにはたいへんな時間がかかった。最初の反戦公聴会が開かれてから、1973年の撤退開始まで7年間もの年月がかかったのだ。最初の公聴会とはこうだ。1966年、2月、アーカンサス出身の外交専門家であった、ウイリアム・フルブライト議員がベトナム戦争に反対するスピーチを行ったときだ。同じ民主党員の、リンドン・ジョンソン大統領は、フルブライトをハーフブライトと呼んだほど激昂した。
しかし、現在のイラク反戦運動家を失望させる歴史がある。1970~1973年の期間のべ戦反戦派の敗北である。この期間、18のインドシナ軍事費への制限案が提出されたが、ほんの5案が可決されて実行されただけだ。米軍が駐屯していた間、ベトナム戦費そのものには制限はかからなかった。試みはあったが。結局、終戦に至るために効果があったのは、1960年代の終わりから、1970年の中期までの、議会による絶え間ない圧力だったのだ。1969年12月6日、議会はついに、ラオス戦費、タイ戦費、そこでは、米軍の共産軍(ソ連・中共の支援による)との戦闘があったが、戦費の打ち切りが法制化されたのだ。
ニクソンはこの法案に大統領拒否権を行使すれば自派の共和党内に反乱が起こると感じていた。それで、承認に踏み切ったのだ。しかし、議会がカンボジア戦費の打ち切りに至ると、ニクソンは頑迷に拒んだ。ニクソンは「自分の戦争に勝つ努力を台無しにする」と主張した。これは、先週のブッシュの演説に酷似している。「背中に刺すナイフだ。忠誠心のない非愛国者だ」とニクソンの仲間の議員たちも呼応した。そのとき、ニクソンがアドバイザーたちに言った言葉は、「奴らの内臓を殴りつけろ」というものだった。
1970年6月30日、7週間の論争の後、ついに議会は、58票を以って、チャーチ・クーパー修正法案を成立させた。それは、カンボジアにおける、米兵、戦闘支援軍、アドバイザー、爆撃作戦に予算を与えないというものだった。それまでに、ニクソンは既に米軍をカンボジアから撤退させていたが、ベ戦に必要ならば、再び派兵するオプションを持っていたため、この法案は大きな打撃となった。しかし、議会にとっても、大統領の司令官としての権限にあまり制限をかけることは好まなかった。そこで、地上戦闘員の制限だけにするという妥協案を出した。その時期、巷では、ベトナムにおける米兵を「戦犯だ」と叫ぶ声が大きくなっていた。上下両院とも即座にこの妥協案を可決した。この修正案は12月に大統領の署名を得るために送られたが、ニクソンが署名したのは、1971年の1月になってからだ。歴史家ゼリザーは、「これが、議会の戦費における大統領の権限に待ったをかける最初の成功例となった」と書いている。
ニクソンが拒否権を行使せず署名したのには理由がある。それは、全米に反戦運動の火の手が廻っていたことだ。また、コーネル大の歴史家は、「このプロセスの特徴は立法手段ではなく政治手段であった」と語っている。ついで、マクガバーン・ハートフィールドと呼ばれる修正案が、1971年までの撤退を提案したが、これは多数票で拒否された。理由は既に、ニクソンは撤退を開始しており、南ベトナム軍に後を任そうとしていたからだ。しかし、そこまでしても、反戦法案の寄せる波は終わらなかった。
1972年、上院は東南アジアにおける米軍の戦費を撤退の費用と戦死者、捕虜引取りの費用を除き全て停止する修正案を通過させた。これが、米国史上で初めての上下両院による進行中の戦争の、戦費全面停止法案の可決となったのである。しかし、その執行方法では上下院は同意に至らなかった。しかし、大統領府が支持したのだった。その理由は反戦の機運の大きさだった。1971年の1月のギャラップ世論調査では、なんと、米国国民の73%が、マクガバーン・ハートフィールド修正案を支持したのだ。現在のイラク反戦世論はそこまで行っていない。ウォールストリート・ジャーナル・NBC世論調査では、56%の米国国民がイラクからの撤退のデッドラインを設定することを主張している。
1972年のクリスマスに北爆が頂点に達し、それに続く1973年のパリ会談において、ニクソン大統領は議会がまもなく国家の財布を預かる権限(POWER OF PURSE)を行使してベトナム戦争を終わらせるものと理解していた。大統領の要求が何であれだ。ゼリザー教授はTHE AMERICAN PROSPECT で以下のように述べている「北ベトナムとの和平合意を以って、大統領は残りの米軍を全て撤退させる決意をした」。それにトドメをさすように、1973年には、その年の8月15日以後の戦費の使用を禁止する法案が可決されたのである。上院で、64票(3分2以上が必要)で可決したのだ。米国史上初めて上下両院が進行中の戦費の打ち切りに合意したのだ。
ついに、ベトナムからの米軍撤退は決定された。それだけで決議は終わらなかった。次に議会が行ったことは、WAR POWER ACT だった。これは、ニクソンの大統領拒否権に対抗する手段だった。つまり、大統領は、1)これ以上の戦争遂行には議会と相談をしなければならない。2)戦費を使ってはいけない。3)南ベトナムの援助金を打ち切る、であった。この決議によって、大統領の戦争遂行の権限はシビアに制限されたのだ。
この年、1973年の1月だが、パリ会談の北ベトナムとの合意によって、ほとんどの米国国民は戦争は終わったものと思っていた。しかし、北ベトナムは数ヶ月もしないうちに約束を破ってしまった。北ベトナム軍は30万人を増派し合計で46万人の大部隊を編成して南へ下った。一方、ウォーターゲート事件で弱体化したニクソンには、WPAを超えて、平和合意を翻した北ベトナムを叩くための北爆開始や、米軍再動員をする、また、南ベトナム政府支援の資金を断つ決議をした議会を押し返す体力は失せていた。
1974年の8月、ついに、ニクソンは辞任に追い込まれた。副大統領だった、ジェラルド・フォードが大統領になり、北ベトナムが交戦を続けるならば、南ベトナム支援資金の復活と米軍を再び投入するようにと議会に迫った。しかし、11月の中間選挙になると、民主党は、ニクソン・フォードのベトナム戦争を「名誉と平和」と括って終わらせるよう迫った。アメリカはこの戦争に疲れ切ってしまった。1974年の12月、中間選挙の1ヶ月後、ついに米国議会は、FOREIGN ASSISTANCE ACT を大多数で可決し、南ベトナムへの援助金を完全に断ち切ってしまった。議会に完全に敗北した共和党の足元はよろめいた。「フォードが出来ることは、一刻も早く、戦争を終わらせることしかなかった」と、デービッド・ブリンクリーは自伝の中で書いている。
1975年の1月、北ベトナムは大規模な全面攻撃を開始した。3月になると、北ベトナム軍は、弾薬と物資を断たれてほとんど抵抗できない南ベトナム軍を易々と破り、南ベトナムの各都市を制圧してしまった。フォードは、南ベトナムとカンボジアに、1.4ビリオン・ダラーを緊急援助するように議会に求めた。議会は1ビリオン・ダラーを許したが、実際に許可されたのは、700ミリオン・ダラーに過ぎなかった。やがて、古都のフエが陥落し、ついで、ダナンが陥落すると、米軍と南ベトナム軍は敗走し、米軍と避難民はサイゴン脱出を余儀なくされた。
頑固に南ベトナム援助を拒む上下両院に対して、フォードは最後の演説を行わねばならなかった。国防長官のキッシンジャーは、「この破滅的状況を作ったのは議会だと言え」とフォードに助言した。しかし、フォードは、そのような演説を行えば、アメリカは真っ二つに割れてしまうと感じていた。フォードはキッシンジャーの助言を退けた。そこで、「アメリカは友人(南ベトナム)を見捨てることは出来なかった。しかし、われわれの敵(ソ連・中共)は彼らの友人(北ベトナム)を支援し勇気ずけたのだ」という苦い演説となった。
しかし、このベトナム戦争で米国議会が責められることはなかった。勢いに乗り、米国の立法府は南ベトナムに一切の資金援助を断った。サイゴンが陥落する間際には、もう、フォード大統領になすべき手段は残っていなかった。南ベトナムの大統領、グエン・バンチュウは辞任し国外へ去った。アメリカのヘリコプターが屋根を飛び立つのは良いが、多くの人々が恥辱の中に置き去りにされたのだ。これが、11年もの年月、アメリカが介入したベトナム戦争の終章であった。
***
(解説)この11年間のベトナム戦争を終結に追い込んだのは、ウオルター・クロンカイトなどの、反戦世論を作っていったジャーナリストの不断なき努力だった。今日のワシントン・ポスト紙は、民主党大統領候補のヒラリー・クリントンや、バラク・オバマが、イラク軍事費に制限を」と主張したと報道。しかし、地上員に対しての戦費制限は、ベトナム戦争時代でも行われなかった。この記事の要点は、「絶え間ないプレッシャーを大統領にかけろ」なのである。平次郎はこのイラク戦争終結の鍵は米国世論にあり、上院の3分の2が同意することである。今週の世論調査(ウオール・ストリート・ジャーナル、NBC では、66%の国民が撤退を選んでいる。一方、ブッシュ大統領の支持率は、28%と史上最低記録(カーター)に並んだ。まもなく、この支持率記録は更新されると、CNNの報道である。 伊勢平次郎 ルイジアナ
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「チェィニイと、サウジアラビア」 |
「チェィニイと、サウジアラビア」 5・9・2007
ワシントン・ポスト紙、DAVID IGNATIUSの記事の和訳です。意訳の部分があります。 伊勢平次郎 ルイジアナ
***
ライス長官が中東の旅へ出発すれば見出しになるのだが、影の実力者チェィニイ副大統領の今週のサウジアラビア訪問をちらっと覗いてみた。
サウジのキング、アブダラーは、ここ9ヶ月間で、ブッシュ政権にとって、もっとも重要な人物となった。そして、アラブにおける強力な同盟者として台頭してきた。彼は去年の秋、イランがアラブ世界に影響を持つことを封じ込めるという攻撃的なキャンペーンを開始した。さらに、現在、アメリカがイラクで苦戦をなめているにもかかわらず、アメリカのこの地域への関与に対する支援者なのである。サウジアラビアのアブダラーに匹敵するアメリカ側の重要人物はライスではない。それは、そっけない物腰の、微笑すらしないチェィニイ副大統領なのだ。さらに、サウジアラビアの概念では、チェィニイはアブダラーの財産のマネージャーなのだ。
チェィニイのサウジ訪問は相互確認が目的だ。イラク政策とパレスチナ問題では意見が一致しないにもかかわらず、双方とも同盟関係(軍事・経済)を再確認したいのだ。さらには、サウジは誤解を避けるためにホットラインを設けたいのだ。現在、プリンス・バンダア・ビン・サルタン(元サウジ駐米大使、現在は国防アドバイザー)が間に入っているが、この人物は自由奔放な性格なのだ。
アブダラーは、最近のコメントによれば、ワシントンと距離を置こうとしているように見える。今年2月には、メッカ巡礼合意をスポンサーして、ハマスと比較的に温和なファタァを融合させ、「パレスチナ統一政府」を創出させた。これは、ハマスを孤立させようとするアメリカの努力に反する行為なのだ。3月、リヤドで行われたアラブ・サミットにおいては、「アメリカ軍のイラク占領は不法行為だ」とスピーチし、アメリカの政府主導者を驚かせた。さらには、4月に予定されていたホワイト・ハウスの晩餐会を拒否したのだ。
アブダラーの「アメリカ軍のイラク占領は不法行為だ」という批判は、サウジアラビアのアメリカのイラク戦略に対する深い懸念を表すものだ。サウジの情報筋によれば、キングは、イラクのシーアイ派の、ノウリ・アル・マリキ首相が宗派争いを克服してイラクを統一するという能力を見限ったとされる。サウジの首脳は、アメリカの兵員増派は失敗すると見ており、米軍増派はイラク内戦が前面戦争へと発展する危険を孕むと見ている。
サウジは、マリキ政府はイランの支援によるシーアイ派が独占していると見ており、元イラク暫定政府首相のアヤド・アラウイが首相に好ましいと考えている。アラウイは、シーアイ派ではあるが宗派に偏らない。元バース党員であったことから、スンニ派にも支持者がいる。アラウイのアドバイザーたちは、シーアイ派は割れており、スンニ、クルドと、宗派に偏らないシーアイ派を連立することが可能と信じている。連立政権を樹立するのに必要な得票に近ついていると信じている。有り難いことには、サウジが政治と財政において支援をしていることだ。
一方、ブッシュ政権は、マリキには苛々するが、アラウイの反乱に対しては情熱がほとんど湧かない。ブッシュ政権の主導者は、バグダッドの政府を変更すると、イラクは混迷し、米国内では撤退の声が高まると恐れている。
中東には、「ブッシュがなんと言おうが、米軍はいずれ出て行く」という認識が醸成されている。そういった認識を薄めるために、ブッシュは、サウジに対して、自分が大統領である期間には米軍の撤退はないと言い続けてきた。「ということは、われわれには18ヶ月間も計画を立てる時間があるということだ」とあるサウジ情報筋が言った。
米国・サウジ同盟の心臓部は、アラブ圏に存在するイランとその代理人たちとの戦闘だ。この戦闘だが、昨年の夏のレバノン戦争が最初のものだ。イスラエルと、イランが支援する、シーアイ派のヒズボラとの戦闘だ。サウジはアメリカと一緒となり、レバノンの、スンニ、キリスト教徒、ドルーズ党などに資金を供与して、ヒズボラの影響力に対抗した。米国・サウジ同盟は、レバノン国軍というレバノン警察に協力して、スンニ派であるレバノン首相のファウド・シノラにも効果的な情報を提供した。
米国・サウジ同盟の、対イラン政策上の協力 はイエーメンにも及んだ。イエーメン政府は、イランが資金供与するグループを摘発していた。そのグループは、シーアイ派の宗教学者の、フセイン・アル・ホーシが2004年に殺されたときの信徒たちである。
チェィニイが最後に持ち出す議題はシリアだ。サウジは、先週ライスのやり始めた、シリアがイラクの安定に加わる案を支持している。実際にサウジは3月のアラブ・サミットで、シリアとの緊張を緩和する方向に出た。それは、シリアのバシャ・アル・アサド大統領が、キング・アブダラーと他のスンニ派のアラブ人を、レバノン紛争でヒズボラを支援しなかった理由から、「半端な男たち」と糾弾したことだ。アサド大統領は、私的な場所で、キングに対して、謝ったのだ。しかしながら、ブッシュ政権の主導者たちは、サウジは、シリアのアサド政権反対グループになおコンタクトがあると見ている。
サウジアラビアは、かって、その有り余るキャッシュを平和を買う目的で、ベールの陰で、しぶしぶ施してきた。イランの大統領で、火付け人の、マアムード・アーマデイネジャドだが、この大統領の最大の失敗は、サウジを脅かしてしまい、そのサウジの伝統である抑制心を捨てさせ、鼻柱の強いチェィニイと秘密の戦略会議を持つことに追いやってしまったことだ。
(DAVID IGNATIUSと、ニューズ・ウイークのFAREED ZAKARIAとの、国際問題オンライン討論から)
***
(解説)たいへん複雑で理解しがたい中東の世界。現在、アメリカの最大の問題はイラクなのだ。イラク戦争によって真っ二つに割れているアメリカ。来年初頭に始まる大統領選挙とともに、ここ数年間、世界を揺るがすのがイラクなのだ。旧日本軍の、「あったか、なかったか」の従軍慰安婦や中国共産党政権以前の南京事件が問題なのではない。私はこうした日本の命運を決めるアメリカの動きを報道して、日本の知識人の視野を広めたいのである。 平次郎
ワシントン・ポスト紙、DAVID IGNATIUSの記事の和訳です。意訳の部分があります。 伊勢平次郎 ルイジアナ
***
ライス長官が中東の旅へ出発すれば見出しになるのだが、影の実力者チェィニイ副大統領の今週のサウジアラビア訪問をちらっと覗いてみた。
サウジのキング、アブダラーは、ここ9ヶ月間で、ブッシュ政権にとって、もっとも重要な人物となった。そして、アラブにおける強力な同盟者として台頭してきた。彼は去年の秋、イランがアラブ世界に影響を持つことを封じ込めるという攻撃的なキャンペーンを開始した。さらに、現在、アメリカがイラクで苦戦をなめているにもかかわらず、アメリカのこの地域への関与に対する支援者なのである。サウジアラビアのアブダラーに匹敵するアメリカ側の重要人物はライスではない。それは、そっけない物腰の、微笑すらしないチェィニイ副大統領なのだ。さらに、サウジアラビアの概念では、チェィニイはアブダラーの財産のマネージャーなのだ。
チェィニイのサウジ訪問は相互確認が目的だ。イラク政策とパレスチナ問題では意見が一致しないにもかかわらず、双方とも同盟関係(軍事・経済)を再確認したいのだ。さらには、サウジは誤解を避けるためにホットラインを設けたいのだ。現在、プリンス・バンダア・ビン・サルタン(元サウジ駐米大使、現在は国防アドバイザー)が間に入っているが、この人物は自由奔放な性格なのだ。
アブダラーは、最近のコメントによれば、ワシントンと距離を置こうとしているように見える。今年2月には、メッカ巡礼合意をスポンサーして、ハマスと比較的に温和なファタァを融合させ、「パレスチナ統一政府」を創出させた。これは、ハマスを孤立させようとするアメリカの努力に反する行為なのだ。3月、リヤドで行われたアラブ・サミットにおいては、「アメリカ軍のイラク占領は不法行為だ」とスピーチし、アメリカの政府主導者を驚かせた。さらには、4月に予定されていたホワイト・ハウスの晩餐会を拒否したのだ。
アブダラーの「アメリカ軍のイラク占領は不法行為だ」という批判は、サウジアラビアのアメリカのイラク戦略に対する深い懸念を表すものだ。サウジの情報筋によれば、キングは、イラクのシーアイ派の、ノウリ・アル・マリキ首相が宗派争いを克服してイラクを統一するという能力を見限ったとされる。サウジの首脳は、アメリカの兵員増派は失敗すると見ており、米軍増派はイラク内戦が前面戦争へと発展する危険を孕むと見ている。
サウジは、マリキ政府はイランの支援によるシーアイ派が独占していると見ており、元イラク暫定政府首相のアヤド・アラウイが首相に好ましいと考えている。アラウイは、シーアイ派ではあるが宗派に偏らない。元バース党員であったことから、スンニ派にも支持者がいる。アラウイのアドバイザーたちは、シーアイ派は割れており、スンニ、クルドと、宗派に偏らないシーアイ派を連立することが可能と信じている。連立政権を樹立するのに必要な得票に近ついていると信じている。有り難いことには、サウジが政治と財政において支援をしていることだ。
一方、ブッシュ政権は、マリキには苛々するが、アラウイの反乱に対しては情熱がほとんど湧かない。ブッシュ政権の主導者は、バグダッドの政府を変更すると、イラクは混迷し、米国内では撤退の声が高まると恐れている。
中東には、「ブッシュがなんと言おうが、米軍はいずれ出て行く」という認識が醸成されている。そういった認識を薄めるために、ブッシュは、サウジに対して、自分が大統領である期間には米軍の撤退はないと言い続けてきた。「ということは、われわれには18ヶ月間も計画を立てる時間があるということだ」とあるサウジ情報筋が言った。
米国・サウジ同盟の心臓部は、アラブ圏に存在するイランとその代理人たちとの戦闘だ。この戦闘だが、昨年の夏のレバノン戦争が最初のものだ。イスラエルと、イランが支援する、シーアイ派のヒズボラとの戦闘だ。サウジはアメリカと一緒となり、レバノンの、スンニ、キリスト教徒、ドルーズ党などに資金を供与して、ヒズボラの影響力に対抗した。米国・サウジ同盟は、レバノン国軍というレバノン警察に協力して、スンニ派であるレバノン首相のファウド・シノラにも効果的な情報を提供した。
米国・サウジ同盟の、対イラン政策上の協力 はイエーメンにも及んだ。イエーメン政府は、イランが資金供与するグループを摘発していた。そのグループは、シーアイ派の宗教学者の、フセイン・アル・ホーシが2004年に殺されたときの信徒たちである。
チェィニイが最後に持ち出す議題はシリアだ。サウジは、先週ライスのやり始めた、シリアがイラクの安定に加わる案を支持している。実際にサウジは3月のアラブ・サミットで、シリアとの緊張を緩和する方向に出た。それは、シリアのバシャ・アル・アサド大統領が、キング・アブダラーと他のスンニ派のアラブ人を、レバノン紛争でヒズボラを支援しなかった理由から、「半端な男たち」と糾弾したことだ。アサド大統領は、私的な場所で、キングに対して、謝ったのだ。しかしながら、ブッシュ政権の主導者たちは、サウジは、シリアのアサド政権反対グループになおコンタクトがあると見ている。
サウジアラビアは、かって、その有り余るキャッシュを平和を買う目的で、ベールの陰で、しぶしぶ施してきた。イランの大統領で、火付け人の、マアムード・アーマデイネジャドだが、この大統領の最大の失敗は、サウジを脅かしてしまい、そのサウジの伝統である抑制心を捨てさせ、鼻柱の強いチェィニイと秘密の戦略会議を持つことに追いやってしまったことだ。
(DAVID IGNATIUSと、ニューズ・ウイークのFAREED ZAKARIAとの、国際問題オンライン討論から)
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(解説)たいへん複雑で理解しがたい中東の世界。現在、アメリカの最大の問題はイラクなのだ。イラク戦争によって真っ二つに割れているアメリカ。来年初頭に始まる大統領選挙とともに、ここ数年間、世界を揺るがすのがイラクなのだ。旧日本軍の、「あったか、なかったか」の従軍慰安婦や中国共産党政権以前の南京事件が問題なのではない。私はこうした日本の命運を決めるアメリカの動きを報道して、日本の知識人の視野を広めたいのである。 平次郎