2007/12/16 (Sun) 「LIES OF THE LADY CHANG」 の出版計画
dark china

「暗黒大陸・中国の真実」(芙蓉書房)は、“WAYS THAT ARE DARK ・ THE TRUTH ABOUT CHINA” BY RALPH M. TOWNSEND が原書だ。

ラルフ・タウンゼンドは、アメリカ南部の南カロライナ生まれ。マンハッタンのコロンビア大学卒。新聞記者、コロンビア大学英文科教師を経て国務省に入る。1931年、上海副領事として中国に渡る。満州事変に伴う第一次上海事変を体験。その後、福県省の副領事として赴任。1933年初めに帰国。外交官をやめ、大学講師のからわら著述と講演活動に専念。親日派の言論を展開したため、真珠湾攻撃後、国家反逆罪で、1年間投獄される。5冊の著作すべてに極東アジアに関する鋭い知見を披露している。

英書は、1997年、アイリス・チャンが、「ザ・レイプ・オブ・南京」を出版した同じ年、THE BARNES REVIEW から出版された。出版人の、WILLIS A. CARTO氏は、フランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)を極悪人と呼んで憚らない。アメリカの出版界では「極右」とされるユニークな人物である。CARTO氏(81)が序文を書いている。伊勢はこの方から、去年の12月に「この書から得た、知識の全てを使用して良い」と署名入りの許可を得ている。英文小説「DUO」を書くためだった。 伊勢平次郎
 

「LIES OF THE LADY CHANG」 のアメリカでの出版計画。

来年1月1日、伊勢は、上の表題(仮名)の英文原稿に着手します。「暗黒大陸・中国の真実」からヒントを得た。以下、CARTOさんの出版社の編集長さんからメールを頂いた。

Dear Nobuyoshi Ozaki:

December 12, 2007

Willis Carto turned over your letter to me and recommends that I do the editing work for you on your book “Lies of the Lady Chang”

As you may know, I am the editor of the Barnes Review magazine, and have been interested for years in the lies about the Nanking incident. I have studied the writings of Dr. Shudo Higashinakano and others. I have helped other Japanese people such as Eki Oyama. We could agree to $25 an hour, or you could send me a sample of your material so that I could tell you what the whole project would cost. I look forward to hearing from you.

Sincerely, John Tiffany (Chief Editor)

(CARTO氏が、名誉会長の、THE BARNES REVIEW は ワシントンDCにある。JOHN TIFFANYさんは、この出版社の編集長である)

                             ***

中国共産党は、太平洋の覇権を握る目的のために「歴史」をカードに使う。今年の4月、胡錦涛のナンバー2、温家宝が日本を訪れた。次のように、ぬかした、、「今日、両大国が、過去の戦争の傷を癒すにあたり、そして、経済関係を推進するに当たり、日本人は、第二次世界大戦で、日本が侵略戦争をしたという歴史を忘れるべきではない」と、中国の指導者として、22年ぶりに日本に来て、国会で演説したのだ。

しかし、この「雪解け」と言う、仲直りをするはずの演説の期間中も、中国は東シナ海における海底ガス田掘削を続行していた。こうして、仲直りを演技しつつ、一方では、壊れやすい日中関係を脅かしているのだ。いかに、中国という国が「やくざな国」であるかという証左なのだ。


「隼機関の目的」

隼同士が柱時計なら、12時30分の右翼と言える。アメリカに拠点をおく隼機関は、「英字出版」「英字広報」「訴訟理由を探る」という三つの機能を持っている。これらの手段を効果的に使って、アメリカ国内に「親日派の味方」を増やすことが目的なのである。


「募金のお願い」

「隼機関」は、任意団体口座を開設致しました。NPOになるまでの暫定口座です。代表の尾崎信義(伊勢)に、他の二人を加えた、三役が管理を致します。

「隼機関」では、同じ志を持つみなさまに「5千円」からの出版資金のご献金をお願いしております。ご献金を、「倅(せがれ)に学資を出すもの」と、お考え頂ければ幸いです。

(注)実は、「一口五千円とはなんだ。バカモノ。千円でも献金は献金だ」というお叱りがあった。だから、そうします。一円でも、一億人なら一億円だからなあ?「おどけるな、バカモン!」かな、今度はさ、、ここは謝りますわい。

A) 振込口座

1)金融機関   みずほ銀行・上大岡支店・支店番号 364
2)口座番号   (普通)    2917217
3)口座名    隼機関   ハヤブサキカン

B) 海外からご送金は、

1) MIZUHO BANK LTD
2) KAMIOOOKA BRANCH
3) MHBKJPJT (SWIFT CODE)
4) 364-2917217 (A/C)


C) 郵便局口座

1)口座番号  10940-26934811
2)口座名    隼機関   ハヤブサキカン

*恐れ入りますが、振込み手数料は各自のご負担でお願いいたします。ご献金頂きました同志には、出版時に、著者の署名入りの単行本を進呈させて頂きます。

*ご献金後、「ブログの隠れ投稿」または、NIPPONFALCONS@GMAIL.COMへ、ご氏名(HN・匿名も可)・ご連絡先・金額・送金日付けをご一報下さい。照合の目的です。

*個人情報は三役員のみが管理します。(信用出来る三人の山賊です)


「募金の使途」

1)尾崎信義(伊勢)・VENOM・GRIPENの三役、ARAGON(妻・第一編集者)・TIFFANY(出版社の編集長)の合計5人が出版チームである。実費・通信費・少額時間給・雑費、それに、TIFFANY氏(時給$25ドル)が加わる。

2)ホームページ管理人の経費・低額時給。

3)広告費(LA・SF・NYの日系新聞の広告欄)

4)その他、募金講演旅行などの費用。

5)脱稿・締め切りを、8月31日とする。つまり、8ヶ月のマラソンだが、幾らかかるものかは未知である。WPの広告「THE FACTS」1800万円ではない。

                            ***

*VENOMさんは、46歳・大阪は、うまいもん食いの街にお住まい・メーカー勤務・家族4・海外出張多し・英語・韓国語(京城の大学に留学した)に強し。高いモラルの持ち主、100%純粋の日本人である。

*GRIPENさんは、31歳・日本中央アルプスは、長野の名物りんご県・商社勤務・独身・中国・朝鮮半島事情に強い。PCを得意とする。お若いが大変な大人。100%純粋の日本人である。

*NPOが完成するまで、代表以外の2役員の、実名・住所を明かさないことに決定した。勤務先・ご家族の安全を考慮した。伊勢は、各位の個人情報を持っている。また、郵便局に提出した規約もある。伊勢の代理人を、VENOMさん~GRIPENさんの順位で行うことが出来る。彼ら二人は、尾崎信義の情報の全て・横浜の顧問弁護士A氏を知っている。

*さらに、全ての口座関係・印鑑・規約は、みずほ銀行の貸し金庫の中に保管されている。伊勢に事故が発生したとき、役員が出納可能である。だが、A弁護士の介入がある。

伊勢平次郎(おざき・のぶよし)  ルイジアナ

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2007/12/14 (Fri) 「アイリス・チャンの死」 最終章
rugar old army

ルガー・アメリカ南北戦争時代・北軍ピストルのオリジナル。アイリス・チャンは、模造品を買った。生涯を自分の手で終えるために、、クリックで拡大。 伊勢平次郎


「アイリス・チャンの死」 最終章

“アイリス・チャンは、数々の闘いに勝った女性だ。だが、最後の戦争に敗れた。それは、心の内部で猛威を振るった戦争だった”

サンフランシスコ・クロニクル
Heidi Benson
Sunday, April 17, 2005

精神科の医師たちは、brief reactive psychosis(短期反応性精神病)と診断したと父親。さらに、医師たちは、一過性か、bipolar disorder(躁鬱病)の兆候であると両親に話した。
躁鬱病は70人にひとりいると言われる。サイクルがある。ムードが、躁から鬱へと極端に変化する心の病気である。治療を受けないと、症状は悪くなる一方のものである。アイリスは自分は病気ではないと、抑鬱薬を拒んだ。絶対に病院にはいかないと言った。

「8月から11月の間、アイリスは二人の医師にあった。自分の言うことを聞いてくれる医者を選んだ。彼女はその医師を欺いた。良くなっているように振る舞ったのです」と父親。

アイリスに近い人たちは、彼女の気分が上下するのを知っていた。だが、それは才能のある者、エネルギーのある者、覚悟のある者の証拠だと思っていた。今は違った。家族は一岩となって、彼女の病気を勉強した。

ブレットが「アイリスが良くなるためのリスト」を考え出した。海岸へ行く・友人と話す・楽しい食事・各種体操などだ。ブレットは地下室に体操室を作った。ダンベルを両手に持って一緒に体操をした。だが、鬱病は襲ってきた。

二歳になった息子は、ルイビルから帰ってきた母親の異常に気が付いていた。同じ母親ではないと感じた。ブレットは、アイリスの症状が悪くなると、息子をイリノイの祖母の所に預けた。

スーザン・ラビナー女史は「アイリスが電話で、今、バターンの企画は出来ないの」と言ってきたと語った。「機関車じゃないんだから、休むことよ。子供のためにね」と返した。

アイリスが自殺する三日前、ブレットは、彼女のために週末を考えていた。フレッシュ・チョイス(菜食カフェテリア)へ行って食べてから、レイ・チャールスの自伝映画を観た。彼女は以前に、レイ・チャールスの音楽を聞いたことがなかった。音楽がアイリスを元気付けた。その夜、彼女は二階へ上がって行き、インターネットで、レイ・チャールスの全てをサーチした。

翌日の日曜日、サンタ・クルーズ・マウンテンへ、ドライブした。桟橋でランチにした。その跡、スパへ行った。ユ-カリと赤すぎの森の中にある寺院の中です。アイリスはマッサージを受けた。「それが、最後に過ごした週末なのです」と夫は涙ぐんだ。

11月8日、月曜日の真昼、「リードのスポーツ店」を出たアイリスは、リボルバーに弾を込めた。撃鉄を引いたが発射しなかった。この南北戦争時代の模造品のピストルは黒煙火薬を使うものだ。鉛の弾はひとつひとつ、火薬を詰めてからキャップを締めなければならなかったのだ。

サン・ホゼ警察のレポートでは、彼女は鉄砲鍛冶に電話をした、、この鍛冶屋は骨董品のピストルに精通していた。彼らは、午後に会う約束をした。時間があったので、彼女は、ミルピタスの「富士山寿司」へランチに行った。マネージャーは、有名な作家のアイリスをよく知っていた。「彼女は幸せに見えなかったんです。大急ぎで食べて、緑茶をテイクアウトした。$15ドル11セントを、カードで払って出て行った」と刑事に話した。

アイリスは、2時に鍛冶屋に着いた。アイリスが差し出した紙袋の中には、旧式ピストル一式と火薬の缶がひとつ入っていた。「缶は別に保管しないと、爆発しやすいから危険なんだよ」と彼女に注意した。「知らなかったわ。弾の込め方を聞かなかったの」と答えた。鍛冶屋は、装填・安全・撃ちかたを彼女に教えた。「彼女は、注意散漫だった。なにかに気を取られえているようだった」と刑事に語っている。

「ガン・レンジへ練習に行こう」と彼女が言った。鍛冶屋は、その黒煙火薬は室内で発砲するには危険だからと、安全な火薬を勧めた。二人は水曜日にガン・レンジで会うことを約束した。彼女は鍛冶屋に$10ドルを払った。

その夜、ラビナー女史から電話があった。「いいニュースよ、企画課がね、子供用の“アメリカの中国人”を出版しようと言ってきたのよ」と二時間も話した。「楽しい会話だったの。でも、突然、アイリスが、“あなたは宗教を信じる?”と聞いたのです。いや、全く宗教には感心はないと言ったんだけど、彼女は何か、決心があるように聴こえたのよ」と想い出したようにラビナー女史は語った。

ラビナー女史は、アイリスを、ニューヨークのウエスト・チェスターに招待した。それから、その企画の目次が出来るまで、毎晩、電話で会話するようにと言った。「電話を切ってからとても心配になったのです。わたしはあまりにも、精神病のことに疎かった。この電話で、アイリスが、サヨナラと言ってきたことに気が着かなかったんです」と語っている。

その夜、アイリスとブレットは深夜12時に就寝した。ブレットは目が醒めた。2時だった。アイリスが廊下を行ったり来たりしていた。2時だから寝るように」と言ったが、アイリスは話しがしたかった。彼女が寝るのを確認して、ブレットも眠った。

ブレットが5時に目を醒ますと、隣りのアイリスがいなくなっていた。車も消えていた。二階へ上がると、机の上に置き手紙があった。ブレットは電話に飛びついた。

三通の遺書が発見された。その全てに11月8日の月曜日と、日付けが記されていた。最初に見つかった「アイリス・チャンの声明文」という題名の遺書は短かった。「わたしは、毎朝、起きることを約束します。それから外へ出ます。始めに、両親を訪れます。それから、長い散歩をします。医者の言うことを聞きます。薬を飲みます。自分を傷つけることはやめます。自殺サイトを覗かないことを約束します、、」

次に両親・ブレット・弟に遺書を書いている。今度は推敲された長い遺書だった。

書き出しは「将来を信じているときは、何世代や何年という感覚で思考する。そうでないときは、一日、一日、、または、一分、一分なんです」 続いて「みなさんは、わたしがどんな人間であったかと憶えている方がよっぽど良いのです、、私の最盛期、ベスト・セラーの作家だったとか、、ルイビルから帰ってきた狂った目つきの敗残者を覚えているよりも、、.息を吸うのも難しいの、、海中におぼれていくような不安でいっぱいなの、、今、わたしの取る行動で、痛みが他の人々にも伝わっていくことは分かっているの、、わたしを愛してくれた人たちが一番、傷つくことは間違いない、、どうか、自分をゆるすことが出来ない、そのわたしをゆるして下さい」と。

三番目の遺書には次のような節が加えてあった。「ルイビルで起きたことには多くの面がある。それを、私は完全に理解できることはないでしょう。さらに、心の深いところで、みなさんは、わたしよりも分かっているのではないかと、それを言わないんではないかと不信を抱いているのです。わたしは、自分が想像も出来ない巨大な力でリクルートされた。そして、後になると、迫害されたと信じています。その疑いを打ち消せないのです。その力が、CIAなのか、または、他の組織なのか知る由もないのです。私が生きている間(あいだ)中は、この力は、留まることなく、猟犬のように追いかけてくるのです。

「ルイビルへ出発する数日前です。私は、自分の身に迫る危険を深く予感したのです。凶事が起きることを突然、察知したのです。道を歩いていると、誰かが後をつけてくる、、うちの前の道路に白いバンが停まっている、、封の開いた封筒が郵便局の私書箱に入っている。私には確信がある。ノートン精神病院に留置されたのは政府の仕業なんだと。私の信用を否定することを企てたんだと。

「始めは逃げようと考えたの。でも、自分自身と自分の思考からは絶対に逃げられない。だから、私はこうするんです。どうしてかって? これから先、何年間も続く苦痛と苦悶に耐えられないのです。私はあまりにも弱いのです。

火曜日、17号線のわき道で、アイリスのオールズモビルが発見された後、ハイウエイ・パトロールの警官は殺人課(自殺も含む)のディーン・ベイカー警部を呼び出した。33年間、「不信死」を調査したベテランである。

「自殺者の大多数はパラノイア(被害妄想狂患者)です、、多くの人々が被害妄想を持っているのですがね、、被害妄想の程度に拠るのです、、そして、多くのケースですが、自殺する人は、みんなを傷付けたと考えるのです。そして、自殺以外には、自分がやったことを償うことは出来ないと考えるのです。大体の自殺は「謝罪」なのです」と警部。

2005年3月1日、サンタ・クララ郡の検死医のレポートを以って、ベイカー警部は最終結論を出した。「関連医師、及び、検死医の解剖の結果に拠り、アジア系女性36歳のアイリス・チャンは、自ら口蓋部を拳銃で撃ち、死亡したものと結論する」と発表した。さらに、「この女性の死に関して、なんらの共同謀議を証明する証拠はなかった。われわれは多くの自殺を見てきた。自殺と見せかけた殺人も見てきた。このケースでは、卑劣な仕掛けという物的証拠は全くない。すべてが自殺を指さしている」と加えた。


                  ***冗長なので省略した***


「睡眠不足が鬱病の特徴だ」と“夜は更けていく”の著者で精神病医のジャミソン医師はクロニクルの質問に答えた。「鬱病患者の典型的な症状は、眠ることが出来ないことだ。毎夜、起きている時間が長くなっていく。眠れないことが、さらに、眠れなくするという残酷な効果を生む。睡眠不足が鬱病を悪化させる。鬱病が悪化するから眠れない」と、その地獄を語った。

アイリスは身の安全に不安を感じるとともに、自責の観念も増加した。遺書の中に、二歳にならないクリストファーに、ワクチンを打ったことを悔やんでいる。そのワクチンが自閉症を起こすのではないかと恐れたのだ。今日でも、クリストファーは、全く自閉症の兆候などのない健康な子供なのだ。

アイリスの経口薬を嫌う態度は、彼女が病気を否定している証拠なのだった。「誰にとっても、自分が精神病であることを認めることは困難なことだ。自分の生まれが原因だと容認できないのだ。さらに、自分のマインドに異常があると認めることは誰にも難しいことだ」と、元サンフランシスコ・チャイナ・タウン精神病クリニックの院長である、デイビッド・ロウ精神医学博士は語った。「家族には、この病気を理解することは、ほとんど不可能だ。患者と関係が近いからだ」と加えた。

「責任は精神病医師が負うものだ。患者の持つ文化の影響を考えなければいけないのだ。精神病患者が出た家族は、恐れ、おののき、危険に晒されるという混乱の時間に直面するんだ」と続けた。

ポスターサイズのアイリスの写真が、キャンドルの炎で照らされていた。ロス・アルトスの斎場だった。彼女の死から9日間が経っていた。次々と、遺族にお悔やみを言って、彼女の友人たちは棺にぬかずいた。最後の対面だった。中国人の習慣で三度頭を下げた。アイリスは、棺(ひつぎ)の中で濃紺のドレスを着ていた。

翌日の金曜日の朝、ロス・アルトスの丘の、Gate of Heaven Catholic Cemetery(カソリック墓地)で埋葬は行われた。何百人もの人々が集まっていた。家族のひとりが追悼文を詠んだ。ついで、米議会下院議員マイケル・ホンダ氏の賛辞が詠まれた。「彼女の中国系米国人としての遺産であるプライドは、他の中国系米国人に力を与えた。彼らが真にアメリカ人であるという確証を与えた。われわれの共同体は、友人であり、模範であった彼女を失った。世界は、もっとも立派な、そして、社会と歴史上の正義への情熱のある擁護者を失ったのだ」と。この賛辞は、その週のはじめに、米国議会で、ホンダ議員が詠み上げて議会記録としたものだった。

             ***あまりにも、センチメンタルなので削除した***

一ヵ月後の12月11日、同じアイリスの写真が南京侵略事件67周年記念会場に飾られた。中国の伝統音楽が二重奏で流れた。ここは世界中国語新聞社の本部だった。100人近くが集まっていた。このイベントは、Global Alliance and the Rape of Nanking Redress Coalitionという団体が開催したものだ。

演説者のひとりは「アイリス・チャンは、不公正のために圧殺された人々の英雄なんだ」と叫んだ。もうひとりは「アイリスを育てたご両親に感謝しよう」と。そして、興奮の合間にギタリストが、“レット・イット・ビー」(ビートルズ)を演奏した。ビデオを映すための幕が張られた。2003年、サンフランシスコ青年会議「日本の天皇・ヒロヒトを裁く劇」に出た、証人役のアイリスがいっぱいに映し出されていた。最後に、グループが立ち上がった。 魂を揺さぶる"Amazing Grace″を合唱した。

だが、誰しもが、アイリスの自殺の理由を「一言」で説明したがったのだ。問題は精神病そのものだ。ほとんどの人々は、信仰・家族・健康・経済上の安定で守られる。しかし、これらの約束は精神病では力がないのだ。

「患者の多くは家族の愛に囲まれている。それでも、自殺する」と“自殺を理解する”の著者である、ジャミソン博士は語った。「患者たちは、克己心・仕事熱心・社会で認められる・サイエンスでも、営利事業でも、芸術でも成功する。回りの人々は、自殺が理解出来ない。どうして? 答えは、誰もが話したがらないからだ」と。

「自殺は、人間の指紋のようにユニークで、複雑な地図のその終着駅なんです」と、“約束の地(アメリカ)における、自己破壊”の著者である、ハワード・クッシュナー博士は語った。ついで、「私たち専門家が疑問に思うことは、“どうして、同じ条件下で、つまり、よく似た環境・文化・背景の心理・または、生理条件において、ある者(アイリス)は自殺を遂げ、ある者は自殺しないのか?という疑問なんです」と語った。

誰も、その疑問には答えられないのだ。 (完 )

                                ***

***「アイリスの遺書」英字ブログNFL http://bomanchu.blog81.fc2.com/ にて読めます。

***「解説」は避けた。ご感想をどうぞ、、


伊勢平次郎 ルイジアナ

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2007/12/12 (Wed) 「アイリス・チャンの死」 第四部
iris chang

ニューヨーク・タイムス・ベストセラーとなった「南京の虐殺」をアイリス・チャンは29歳で書いた。7年後の2004年、この才女は、北カリホルにアの山中で、二歳の息子と愛する夫を残して、ピストル自殺を遂げた。36歳だった。この著書には問題が残る。だが、日本人は、彼女の死を冒涜してまで汚らしく批判することはない。仏教徒として、彼女の冥福を祈り、遺族の幸せを願う。クリックで拡大。伊勢平次郎


「アイリス・チャンの死」 第四部

“アイリス・チャンは、数々の闘いに勝った女性だ。だが、最後の戦争に敗れた。それは、心の内部で猛威を振るった戦争だった”

サンフランシスコ・クロニクル
Heidi Benson
Sunday, April 17, 2005

歴史家の高峰スティーブン・アンブローズ、ABCテレビ・ジャーナリストのジョージ・ウィルの絶賛を得たアイリスは、一方で、「主観的過ぎる」と判断されたのだ。「この著書は彼女のルーツへの冒険の一種である、、先祖が漂流の旅に出た国と彼女が結合するために、、さらに、彼女は信じられないほどの感情を込めたのだ。アイリスはこのテーマにおいて先駆者なのだ」とバークレイ大学の歴史学科学長のシェル教授。彼女は有能なジャーナリストである。だが、あまりにもテーマに感情を注ぎ過ぎた。同時に、その感情が道を開いた。彼女はテーマにはまり込み過ぎていると、数人の学者は感じたのだ。

「この本は最良の批評を得た。現在も売れ続けているという、メガ・ベストセラーなのです、、中国系米国人のひとりが、帰属する共同体とその情熱を分け合ったのです、、つまり、その時代が来ていたのです、、そして、国際的なスキャンダルに発展したのです。その理由は、日本人は、今日になっても、戦争中の中国人と他のアジア人に対して行った虐殺を認めないからです。そして、出版業界は中国人の体験が売れるマーケットを見つけたのです」とアイリスのエージェントとなった、スーザン・ラビナー女史は語った。

この本は、ロケットのように、アイリスをアメリカの文化人の仲間に放り込んだ。1998年、ブレットと彼女は“ルネッサンスの週末”というセミナーに招かれた。「心のある人々」というサウス・カロライナの集合である。アイリスは引っ張りだこだった。あっちで、しゃべり、こっちで、しゃべり。当時、大統領だった、ビル・クリントンと、ずいぶん長く話した。アイリスは、著書「南京の虐殺」にサインをして、大統領に贈呈した。

あくる年、同じセミナーに招待された。だが、アイリスは寡黙だったのだ。講演の聴衆になっただけだった。彼女はブック・ツアーに疲れていた。ブレットと彼女は、保留にしていた家族プランに着手することにした。「結婚したとき、4年後に子供を生む計画だった。それを6年に延期した。6年経ったとき、“南京の虐殺”が、ベストセラー・リストに載った。販売促進の契約で、彼女は2年間ブック・ツアーに出た。ツアーが終わったときには、8年が経っていたんです。2002年に、私たちの息子は生まれました」とブレットは語った。

クリストファーは、その年の8月31日に生まれた。母親に似て漆黒の髪をしたハッピーなベイビーだった。三人の親子はサニーベールのアパートから、サン・ホゼの、このタウン・ホームに引っ越した。「この近所には子供が多いから、息子が生まれる前に買ったのです」とブレット。

アイリスの両親もイリノイから、同じ区画に移ってきた。アイリスの母親は、娘がもっと軽いテーマを選ぶことを願った。特に新生児のために。「南京の本は娘を不幸にしたわ」と母親は語った。

アイリスは母親の忠告を聞き入れた。しかし、たいへん野心のあるテーマだった。「アメリカの中国人(会話体)」は、VIKINGから2003年に出版された。「南京の虐殺からの休暇だったのよ」とアイリスは母親に話したという。しかし、やがて、彼女は、再び、真っ暗なテーマにのめり込んで行った。

アイリス・チャンは、エド・マーテルの玄関のベルを押した。2003年12月4日、ウイスコンシン州キノシャの町であった。マーテルは、その日を一生涯忘れることはないだろう。

「彼女は座って、5時間にも及ぶ尋問を続けたんです。まるで、地方検事のようだった」と86歳のマーテルは語った。彼は、世界第二次大戦で起きた「バターン死の後進」の生存者だった。マーテルの娘のマデイもその日をよく憶えていた。「大きなランチだったのよ。お肉、サンドイッチ、デザートをね。おとうちゃんは、とっても興奮してたわ。だって、あの有名なアイリスが本を書いてくれるというんだからね」と語った。

このテーマだが、一通の手紙から始まったものだ。「中西部に“バターン死の行進”の生き残りの集まる町がある。みんな、どんどん死んで行く」と、戦車隊の軍曹だった、メルダール氏の名があった。氏はアイリスのベストセラーを読んで感心したと書いていた。さらに、バターン生存者は、ウイスコンシン、イリノイ、オハイオ、ケンタッキーに散らばっているとも。

「アイリスの調査をするときの情熱は驚きだった」とブレット。「メルダール氏の案内で、あっちこっちへ出かけたんです。インタビューは、旧軍人たちの家族ぐるみでね。撮影する者、コピーをとる者、配送所へ行く者。そして、アイリスが、みんなのランチやディナーを買ったんです。みんな、世界的に著名な作家の出版企画に興奮していた」とつけ加えた。

マーテル氏の話しは、フィリッピン戦線だった。日米の陸軍の衝突は、1941年12月7日の日本軍の真珠湾攻撃があって間もなくの頃に始まった。まず、日本軍はフィリッピンを空襲した。マーテル氏のバターン戦車隊とフィリッピン人部隊は、7万人。援護部隊は無かった。食料も弾薬も不足していた。それでも、日本軍を4ヶ月もの期間、抑えていた。

4月9日、アメリカ軍の将軍が降伏したとき、米軍捕虜を65マイルのジャングルの中を歩かせたのだった。8千人が死んだ。悪名高い“死の行進”である。生き残ったものは、粗末な捕虜収容所に終戦まで入れられた。ある者は日本へ連れて行かれ強制労働させられた。連合軍が勝って戦争が終わると、この悲惨な歴史は忘れられた。フィリッピンでの米軍降伏は、アメリカ陸軍戦史で最大の降伏だったのだ。「私らが4ヶ月も死闘を繰り広げたことを、今のアメリカはちいとも知らないんだ。それを思って、もがき苦しんでいるんだ。アメリカはわれわれ生き残りに背中を向けているんだ」とクロニクルの電話取材に応じた。

マーテルは耳が聴こえなかったが、記憶は鮮明だった。バターンでの虐殺を思い出したのか泣き出した。


           **エントリの目的から遠いので省略した**


「アイリスは愛するべき人だった」とマーテルの娘。「よくカードと写真を送ってきたわ」と言って。壁を指差した。アイリスとマーテルが抱き合っている写真だった。その横に枠に入った新聞記事が飾られていた。それは、アイリスの死亡広告だった。

2004年の新春、バターン生存者取材の合間、アイリスは「アメリカの中国人」のブック・ツアーに出た。一ヶ月で21年を回った。「このツアーは、明らかに彼女の健康を破壊した」とブレット。

最後のバターン取材は、ケンタッキーの、ハロッズバーグだった。町の広場にバターンで使われた戦車が置いてある。その中に録音テープがまだ残っているはずだった。

「以前のアイリスは48時間通して机に向かった。疲れると、20時間も寝てしまったものだ。取材に出発する数日前の彼女は3日間も寝ていなかった。母親と作家の両方を完璧にこなそうとしていた」とやもめとなった夫は語った。子守の中国人だけがその危険を感じていた。旅行に出ることを停めたのだった。

「わたしが、その危険に気が付かなかったのは、アイリスは、どんなに疲れていても、自分のベストの顔を見せることが上手だったからなんです。本当に、わたしは彼女が面している危険に気が付か無かったんです」とブレット。「わたしたちの生活はクリストファー中心だった。彼女と私が話し合う時間が少なかったと、今では、後悔している。昔のように、緊密に話し合っていれば、彼女が取り返しの付かない方角へ歩いていることが分かったでしょう」と、夫は悲嘆に暮れて俯いた。

取材旅行に、彼女は一人では出かけなかった。だが、イリノイから来るはずの案内役の高校教師が家庭の事情で出られなくなった。2004年の7月、アイリスはケンタッキーへひとりで行くことになったのだ。「彼女はとても疲れていた。行くべきではなかった」と母親は語った。

乗った飛行機がルイビルに着陸したとき、彼女は極度の疲労と不安に襲われた。ホテルに入ると、ベッドに倒れこんだ。母親に電話をかけた。

「娘が普通じゃないことがすぐに分かったわ」と母親。鬱の状態で、食べることも、寝ることも出来ないのだと理解した母親は、ルイビルで会う大佐に電話するようにと娘に言った。

翌朝、スミス大佐が部屋に入って来た。「アイリスは私を恐れたんです」と老大佐。大佐は母親に電話をかけてから、すぐに部屋を出た。その日の午後、彼女は、ルイビルの、ノートン精神病院へ入院した。大佐の助けを借りて、、自分で決めて、、クロニクルは大佐にコンタクトした。だが、老大佐はインタビューには応じなかった。 (続く)

***「アイリスの遺書」英字ブログNFL http://bomanchu.blog81.fc2.com/ にて読めます。

伊勢平次郎 ルイジアナ

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2007/12/11 (Tue) 「アイリス・チャンの死」 第三部
iris chang

ニューヨーク・タイムス・ベストセラーとなった「南京の虐殺」をアイリス・チャンは29歳で書いた。7年後の2004年、この才女は、北カリホルにアの山中で、二歳の息子と愛する夫を残して、ピストル自殺を遂げた。36歳だった。この著書には問題が残る。だが、日本人は、彼女の死を冒涜してまで汚らしく批判することはない。仏教徒として、彼女の冥福を祈り、遺族の幸せを願う。クリックで拡大。伊勢平次郎


「アイリス・チャンの死」 第三部

“アイリス・チャンは、数々の闘いに勝った女性だ。だが、最後の戦争に敗れた。それは、心の内部で猛威を振るった戦争だった”

サンフランシスコ・クロニクル
Heidi Benson
Sunday, April 17, 2005

アイリスは子供の頃に聞いた南京大虐殺の悪夢に悩まされていた。地獄絵に描いたような話しだったからだ。母方の祖父と祖母は日本軍が入ってくる数週間前に南京を脱出したという。興味を持ったアイリスは図書館へ行って関連書を探した。一冊も無かった。

出版後のインタビューで「南京の虐殺は怒りで書いた。1セントにならなくてもいいんだ。わたしには、1937年に南京で起きたことを世界に知らせることは、とっても大事なことだったんです」と語っている。ラビナー女史は出版の価値があると感じた。そして、契約に署名した。

後日のインタビューでも、「子供の頃に聞いた話は想像するのも苦しかったんです。どうしてというと、伝説のように思えたその話しは、、人体がバラバラにされて、、揚子江が血で赤く染まって、、考えるのも苦痛だったんです。原稿を書いている間、この悲劇から自分を切り離すことは不可能なのだと悟った。悲劇を書くというストレス、毎日、虐殺の恐怖と一緒に生きることで、わたしの細い体は、がたがたに痩せてしまった。でも、書きあがれば、死んでもいいと思ったわ」と語っている。

取材で行った中国では、虐殺から生き残った人々と会った。「ひとりひとり、生存者たちは、彼の、彼女のむごい体験を熱心に話した。一人一人に何時間もかけた。詳細をビデオテープに取った。ある人は感情が堰を切って涙を流した。全ての人が自分たちの生涯が終わるまでに大虐殺を話しておきたいと言ったのです」

聞く話しも悲惨だったが、この人々の生活状態はひどかった。「南京の生活環境の劣悪さはショックだった。全く憂鬱になった」「ほとんどの人々は、暗い、汚れたアパートに住んでいた。貧困を如実に語るゴミの山に囲まれて、そして、濃い湿気とカビが辺りを覆っていたのです」と書いている。「虐殺が行われた間に受けた深い傷は、以後の生活を何十年も困難にした。ほとんどの者が死線に近い貧困の中で生きていた。日本が、ほんの少しの補償でもすれば、どんなにか彼らの生活の足しになったかと思った」

取材と調査にニ年をかけた。アイリスは歴史的に重要な事柄を発見した。彼女は南京の英雄と称される西洋人二人の日記を見つけた。最初がナチス・ドイツ党員のジョン・ラーべ。ラーべは1937年にこの中国の首都南京に住んでいた。彼は、日本軍が上海から到着する前に「国際保護区」を作ったのだ。アイリスはラーべを「南京のオスカー・シンドラー」と名付けている。

もう一方の日記は「南京のアンネ・フランク」こと、イリノイ州の女性、ミニー・ボートリンだ。彼女はアイリスと同じイリノイ大学の卒業者だ。1937年、ボートリンは伝道使節として、南京女子短大で教えた。そのキャンパスは保護区の一部となった。何百人の女子供を収容した。だが、無数の女性を助けることが出来なかった。それらの女性は、日本兵に捕まり、拷問され、殺された。ボートリンはそれを自分の失敗と自分を責めた。亡霊にとり憑かれた。1940年、彼女は精神破綻した。アメリカへの帰途の船上で、繰り返し、海中に身を投げようとした。イリノイへ帰ってから一年後、ボートリンは自殺した。

「文明は、ティッシューのように薄いもの」とアイリスは書いた。南京の悲劇から、人生でもっとも重要なことを学んだと言っている。そして、日本軍による大量虐殺が取り消しの出来ない事実であり、彼女の行った調査は、その証拠を提出するものと信じていた。

ファイル・キャビネットにいっぱいの、日本軍の犯罪の記録、それと世界古代史上の虐殺の記録を読んだ後、「世界第二次大戦中の日本の態度(虐殺)は、危険な民族というよりも危険な政府によって生まれたもの、、無防備な文化(中国の文化)の中で、、危険な時代に、、理由付け(虐殺の)を売ることが出来たことだ。それは、普通なら人間の持つ本能で拒否するものだ」とアイリスは結論を出している。

本書は1997年のクリスマスの店頭に並んだ。ノンフィクションを売ることの困難な季節だったから、ベストセラーになったことは驚きだった。最初に在米中国系米国人が買った。そして、一般のアメリカ人読者へと広がって行った。ニューズ・ウイーク誌は抜粋を載せた。アイリスはテレビのニューズ・ショウに引っぱりだこになった。リーダーズ・ダイジェストが表紙に書いた。

「全く、心の準備が出来ていなかった。アイリスも、出版人もです。何回、印刷されたのか知らない。もう1万部、もう1万部と、、」と夫のブレットは語った。ラビナー女史は「アイリスは、無言の著者から声になったのです。販売促進のツアーに出た。ツアーに出ると、半月もホームに帰らなかった。アイリスは群集の中で生き生きとしていた、、彼女は仲間が好きだったんですね、、他人の人生に興味があったんです。だから、彼女は、多くの中国人の模範となったのです。彼女は自分の選んだ課題にコミットした。そして、自分の人生を光輝くものとしたのです」と語った。

ところが、同時に、ヘイト・メールの洪水が届き始めた。「アイリスは繊細です。だが、逆に気力は満ちたんです」「誰でも、彼女の書いたものの信憑性を疑うと、彼女は、抗えないほど膨大な量の証拠で応戦したんです。彼女は完璧主義者なんです。全てに反応したんです」 とブレット。

ほとんどの攻撃は、日本のウルトラ国粋主義者からのものだった。「わたしたちは、アイリスが大口を開けた漫画を見た。彼女は“アイリス・チャンの嘘”というサイトに笑ったのです」とブレット。だが、アイリスの友人たちは、その頃から、アイリスが身の危険を口にし始めたと言っている。車の中に置かれた脅迫ノート、電話は盗聴されている、男が近寄ってきて、「書き続けるつもりか?」と脅かされた。彼女は郵便局のメールボックスを使った。ホームの住所は一切公開しなかった。「彼女の書いた南京の虐殺を好まぬ人々が多くいた。アイリスは、家族のプライバシイを最重要とした」とブレット。

本を書いて名声を得るということは、ブック・ツアーの長旅に出るということなのだ。「1年6ヶ月で65都市をまわった」「ほとんどの作家は5か、6都市で焼き切れたんです」とブレット。ブレットは、アイリスが疲労の頂点に達していくのを見た。1998年、「サンタ・クルーズのリゾートへ行ったんです。休暇の間、彼女は部屋から一歩も出なかったのです」

だが、アイリスは常にカムバックした。活動のスポークスマンとして、エネルギーを発動した。そのひとつ、ABCナイト・ラインに出たとき、アイリスは、中国専門家の中でたったひとりの女性だった。「テレビ画面でアイリスを見ていた。彼女は恐れる風がなく、果敢に南京の虐殺を弁護するのを眼を丸くして見ていた」と「アメリカのアジア人・その台頭」の著者ヘレン・ジアと、「母国アメリカVS私」のロス・アラモス研究所を冤罪で負われた科学者のウエン・ホー・リー。「アイリスは本当に恐れを知らないのです。自身のある声と一貫性にそれが見えるのです。アイリスは、確信のある声で“日本は嘘をついている”どうしてかというと、、」と明快だった。

後日、アイリスは "MacNeil-Lehrer NewsHour"の番組で、日本の駐米大使と論争をした。大使は南京事件を語った。すると、アイリスは司会者に向かって「どこにも、謝罪の言葉が聞こえなかった」と言ったのです。

「在米中国人は南京のホロコーストを聞いて育った。それは中国人家族の共通の話しだった」と、祖母が南京で殺されたジアが語った。

ジアとアイリスが始めてあったとき、ランチ・トークのはずが、ディナーにまでなった。「わたしたちは、アジア系アメリカ人が、ノン・フィクションを書くことは比較的に目新しいこと、、Maxine Hong Kingston と Amy Tanが、フィクションで、中国人作家には入れなかったドアを粉砕した、、これからは、ノン・フィクションの作家の出番だ、、われわれのライフを書くんだ、、これは革命なんだ、、、」 (続く)

伊勢平次郎 ルイジアナ

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2007/12/10 (Mon) 「アイリス・チャンの死」 第二部
iris chang

ニューヨーク・タイムス・ベストセラーとなった「南京の虐殺」をアイリス・チャンは29歳で書いた。7年後の2004年、この才女は、北カリホルにアの山中で、二歳の息子と愛する夫を残して、ピストル自殺を遂げた。36歳だった。この著書には問題が残る。だが、日本人は、彼女の死を冒涜してまで汚らしく批判することはない。仏教徒として、彼女の冥福を祈り、遺族の幸せを願う。クリックで拡大。伊勢平次郎


「アイリス・チャンの死」 第二部

“アイリス・チャンは、数々の闘いに勝った女性だ。だが、最後の戦争に敗れた。それは、心の内部で猛威を振るった戦争だった”

サンフランシスコ・クロニクル
Heidi Benson
Sunday, April 17, 2005

アイリス・チャンが、彼女が正義を求めた多くの闘いに勝ったことを疑う余地はない。だが、躁鬱症が顕著に現れてくると、彼女は、その症状を自分の意志の弱さと受け取った。この病気の特徴である、そのような手厳しいロジックは、素晴らしい慈悲心を持った彼女をしても、自分自身を許すことが出来なかったのだ。つまり、彼女が最後に勝てなかった戦争とは 彼女の内部で猛威を振るったものである。

ドアを開けたチャンご夫妻はお二人一緒だった。サンホゼの静かな二階家である。娘の死から一週間が経っていた。玄関には花束の山が出来ていた。テラスから見える景色は平和だった。緑の草原とポプラの紅葉だった。

41年間ご一緒のチャンご夫妻はハンサムで気品に満ちたカップルだった。おふたりとも、中国大陸で生まれた。彼らの家族は、1949年の共産革命を逃れて台湾に渡った。台湾の高校でお二人は出会った。台湾大学で再会した。そして、1962年、二人共、ハーバード大学の科学育英資金を獲得した。イン・インは生化学、夫となる、ショウ・ジンは理論物理学。1964年に結婚し、1967年、ご両人とも、ハーバード大学から博士号を取得した。その11月の日の夕暮れ、チャン夫妻は、アイリスの想いでを語った。あるときは過去形で、あるときは、現在形で、、

小学生のアイリスが「もし、ディア・アビィが出来るなら、私にも出来るわ」と言って、自分の「人生相談」の欄を学校新聞に載せた。質問に対して、答えを書いた。高校生になると、学校で配管になっていた文学誌を復刊させた。しかも、すばやく、スタッフを決め、スポンサーも得た。アイリスの母親が口を開いた。「彼女はいつも、何かを発表していた」と。

椅子から立ち上がった父親が本棚から皮表紙の本を取り出した。「アイリスの詩」と几帳面な草書体が、タイトルに書かれていた。「彼女はとても、システマティック、、ご覧のように、どの詩にも日付けが記してあるのです。彼女はどうするべきか知ってたんですね」と父親は、優しくページを撫でた。「地下室に眠っていたんです。今は私たちの宝です」と続けた。

「娘は生真面目な子供だった」と母親は想い出すように言った。「毎日、何か新しいこと見つけてくるの。彼女はおしゃべりだった。だから、聞いてると楽しかったわ。それと、彼女はね、既成の制度を打ち負かすことが好きだった」と。

「あ、そうだ」と父親が机を叩いた。「いつも、家庭のルールを作ると、アイリスは、ルールの逃げ道を探した。あらゆる例外を考え出すので、口論になったもんですよ。でも、彼女に飽きるということはなかった、、とても、面白い子でした」と声が落ちた。「あまりにも、短い人生だった」小声になった。

アイリス・シュンルウ・チャンは、1968年3月にニュージャージー州のプリンストン大学病院で生まれた。アイリスの両親は博士号取得後の研究の最中だった。彼らは、アインシュタイン道路という樹木の多い地区に住んでいた。2年後、チャン一家は、イリノイ州のシャンペイン・アーバナの中西部の大学町に移住した。「主人がそこに仕事を見つけたの」とチャン婦人。まもなく、二人とも、イリノイ大学で研究兼教授職に就いた。第二児のマイケルは、1970年に生まれた。

「マイケルは外で遊ぶのが好き、、アイリスは違ったのよ」とチャン婦人。「アイリスは孤独でいられたわ。一人ぼっちでも、寂しくなかったのよ」といいながら、人差し指を額に当てた。そして、手を天井に振った。「その理由は、彼女は夢を持っていたから」と。アイリスは4歳で本を読んだ。10歳で「幼年作家のコンペ」に出て、一位になった。「それから、作家になることを夢見たのです」と父親。「娘は、常に、自分が直面する問題を打ち明けたわ」と母親は続けた。「私たち一家は濃密な関係なんです」「娘はなんでも相談したわ。彼女は傷つき易かった。それでも、それを見せなかった」「あなたは、他人が思うことを考えすぎるのよ」と言ってあげたものです。アイリスは、その正直すぎる態度をよく笑われた。だが、自分の力で考える、独立した人間でありたかったからだ。

アイリスは1989年、後に結婚することになる、ブレット・ダグラスと出合った。学生寮のパーテイで知り合った。彼女はイリノイ州立大学のジャーナリズム学科の二年生だった。ブレットは二歳上で技術学科修士号課程にいた。

16年後、そして、アイリスの死んだ日から5日経ったこの日、ブレットはアイリスと暮らしたサンホゼのホームの居間に座っていた。壁には家族の記念写真が貼ってあった。部屋の中は静まりかえっていた。空気は悲しみに満ちていて重かった。赤い三輪車と歩行器が玄関を狭くしていた。近くのプールから子供たちが歌うのが聞こえた。プールは青い縁取りの三角形で、松林があるという村の雰囲気だった。ブレットは、婚約期間は2年間だったこと、アイリスは、共同通信から、シカゴ・トリビューン、ボルティモアのジョンズ・ホプキンス大学の講師へとキャリアを伸ばしたこと、ブレットはサンタ・バーバラ州立大で博士号取ったことを語った。この2年間は電子メールのデートだったと。

ジョンズ・ホプキンスでは、劇作家・フィクション・科学ライティングを学んだ。「詩の科学」を論文に書いたとき、大手出版社から契約を申し出られた。22歳だった。

ジョンズ・ホプキンスのアン・フィンクベイナー教授は「アイリスは聞き手に構わず、憑かれたように話す学生だった。その強烈な情熱と執着が、彼女の選んだ道を完走させたのです」と語った。

ベーシック・ブックに推薦したのは、カーリトン教授だった。べーシック・ブックはハーパー・コリンズ出版社のノン・フィクション部門だ。無名の若い作家を選ぶことは珍しい出来事だった。実は、スーザン・ラビナー編集局長が、中国人科学者シュウシェン・チェンの伝記の書ける作家を探していたのだ。このカリホルニア工大の物理学者は、1950年の赤狩りで国外追放となり、中国へ帰ってから、シルクウォーム・ミサイルを開発した人物だった。伝記を書く作家には、英語・中国語・科学の知識が要求されたのだ。「あなたは若いのねえ、まあ、応募用紙を持って行きなさい」と、期待せず言っただけだったと語った。「チェンの息子を探し当てて、インタビューをした」とアイリスから電話があった。2ヶ月も経たないうちだった。ラビナー女史は「チャンが、賢い・強い・直線的な若い人であることが明確」と語った。共同で提案書を書き上げた。契約書が届けられた。ブレットは思い出す。「アイリスは、たいへん興奮したんです。ありとあらゆる人に電話をかけた。埋もれていた記録を掘り出した。100ページに亘るプロポーザルを2週間で完成したんです」と。

ブレットも、サンタバーバラの技術会社に仕事に就いた。1991年、彼らは結婚した。1992年、科学者チェンの原稿に取りかかった。24歳だった。マッカーサー基金から$15000ドルが贈られた。出版計画の助けとなった。

アイリスの人生で始めての著書「シルク・ウオームの糸」は、ついに、出版された。1995年になっていた。批評は良かった。だが、多くは売れなかったのだ。 しかし、まもなく、アイリスの書いた本は、何十年に一度という大論争を引き起こしたのだ。50万部以上が売れた。

1994年、アイリス・チャンは、一枚のポスターサイズの写真を見た。その写真は、サンホゼに隣接するクパチノ市で開催された「南京戦争犯罪会議」に展示されていた。第二作を書くインスピレーションをここで得た。26歳だった。「ショックで歩きまわったのよ。なんども聞いていたけど、心の用意が出来ていなかったから、モノクロ写真集に驚いた、、首のない死体、腹を裂かれた裸の女性、強姦した後のポルノ姿勢の死体、恥と悔しさに歪んだ顔を忘れられない。めくらになったかと思った一瞬、これは生きることのモロさではなく、人間の体験なのだと自覚した」と語っている。

この会議は“the Global Alliance for Preserving the History of World War II in Asia”という団体が開催した。アイリスがこの在米中国系米人の団体を発見したのは、ブレットが、シスコシステムに就職して北カリホルニアに転勤したときだった。

南京の写真を見た後で、「わたしはパニックに陥った。それは、人類の社会が進化するとともに、この事実は歴史の一片となって消えていくだろう。誰かが、強制的に世界に覚えているように知らさなければという」とアイリスは書いている。アイリスはラビナー女史に電話をかけた。「一冊、本をどうしても、書かなければいけないの」「出版費用は私が払います」と。「ノー、ノー、出版社はそういう仕組みじゃないのよ」「どうして、出版しなければいけないのか、聞かせて頂戴」と女史。
(続く)

伊勢平次郎 ルイジアナ

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2007/12/09 (Sun) 「アイリス・チャンの死」 第一部
iris chang

ニューヨーク・タイムス・ベストセラーとなった「南京の虐殺」をアイリス・チャンは29歳で書いた。7年後の2004年、この才女は、北カリホルにアの山中で、二歳の息子と愛する夫を残して、ピストル自殺を遂げた。36歳だった。この著書には問題が残る。だが、日本人は、彼女の死を冒涜してまで汚らしく批判することはない。仏教徒として、彼女の冥福を祈り、遺族の幸せを願う。クリックで拡大。伊勢平次郎


「アイリス・チャンの死」 第一部

“アイリス・チャンは、数々の闘いに勝った女性だ。だが、最後の戦争に敗れた。それは、心の内部で猛威を振るった戦争だった”

サンフランシスコ・クロニクル
Heidi Benson
Sunday, April 17, 2005

11月のその朝は曇っていた。36歳の若い作家、アイリス・チャンは1999年型オールズモビル・アレロをアラムロック大通りからサンホゼ東方の緑の丘に向かって走らせていた。彼女はカトリック寺院・カルバリイ墓地の前を過ぎた。その鉄の大扉の前には大理石で出来た天使たちの像が翼を広げていた。天使たちは手を合わせて祈っていた。このあたりに住み着いた開拓者のお墓である。彼女はフットボール競技場とジェームス・リック高等学校の四角い集会場の前にきた。右折して、その学校の向かいにあるショッピング・モールに入った。「リード・スポーツ店」の前に車を停めた。赤杉の木皮で出来た粗野な店だ。釣り道具、サイクリングそして、ハンティング用品を売っていた。

長身、細身で、豊かな黒髪が肩を覆っているアイリスが車から出てきた。彼女はブルー・ジーンズと、スニーカーを履いていた。すっと開いた自動扉を通って通路を右に曲がった。壁には鹿の頭の剥製が飾ってあった。そこが、アイリスの目的である狩猟コーナーであった。これが初めてではなかったので、南北戦争時代のピストルのレプリカのショウケースはすぐに見つかった。「古物」と分類されるガンである。アイリスは、「古物」がカリホルにア州の銃規制法の例外であることを知っていた。10日間の審査を待たずに買えることを知っていたのだ。

11時56分、アイリスは自動車免許証を提示して、$517ドルのキャッシュを数えた。彼女は$4000ドル近く所持していた。鹿骨の銃杷の付いた、ルガー社製“旧式陸軍用”45口径回転式拳銃を脇に抱えて店を出た。車に戻ると、ダンボール箱の中にガンを入れた。表には「不動産関係書類」とラベルが貼ってあった。その夜、13年間連れ添っている夫の、ブレット・ダグラスと夕食をした。二人は真夜中にベッドに入った。夜明け前、アイリスは起きて車に乗り込んだ。西方のサンタ・クルーズに続く、ハイウエイ17号線を走った。自宅から25マイル離れた工事用道路に車を入れた。その道路は急傾斜の砂利道でハイウエイから見える。近くに、黒い樫の林に覆われた孤独な丘陵が続いている。ベア・クリーク・ロードが、林の中を曲がりくねって上っている。

火曜日の朝、9時15分、郡水道局の管理人がオールズモビルを目撃した。車を停めて、クラクションを鳴らした。だが、反応がない。誰かが寝込んでいると思った。車を降りて、ボンネットを叩いた。車のガラスは露で曇っていた。中を覗くと、運転席にアイリスが膝の上に両手を交差させているのが見えた。もうひとつ見えたのが回転式ピストル。ピストルは彼女の左腿の上にあった。頭はドアの窓に寄りかかっていた。血がべったりと衣服を覆っていた。後部座席には、二歳になった息子のクリストファーのチャイルドシートがあり、縫いぐるみの小熊が置いてあった。水道局の管理人は携帯電話で上司を呼び出した。その上司は警察に通報した。

殺人課の刑事の結論から先に書けば、アイリスは弾倉全部に6発の弾を詰めていた。そして銃身を唇の間に差し込んだ。そして撃った。ハーフ・インチの鉛のボールはアイリスの堅い口蓋を貫通し、左鼻腔を過ぎて、大脳の左半球と後頭骨葉部を通過し、頭蓋骨を破損したが、外には飛び出さず、頭皮の内側で止まった。検死医は、死体が発見されたときには、二時間が経過していたと診断した。

「リード・スポーツ・ショップ」の、ショウケースは、 アイリスの死後一ヶ月経ったその日、ピストルの置いてあった箇所は空いたままだった。「彼女は、なんども来ましたよ」と背の高い戸外スポーツマンの経営者は言った。「彼女は既にガンの詳細を知っていました」「それに、古典のガンの収集が趣味だ。これが欲しかったのよと、言って出て行った」と、刑事の質問に答えている。あれほどの美しい女性を覚えていないわけがない。だが、彼らは、アイリス・チャンが世界中に知られた作家で、国際的な論争を引き起こした著名人であることを知らなかった。ましてや、アイリスが自殺を企てていたことなど、知る由もなかった。

チャンの死んだ日、彼女の死は、通信社やインターネットを通じて瞬く間に報じられた。彼女の死亡広告は世界中の新聞に載った。彼女は、1997年、29歳のとき、"The Rape of Nanking: The Forgotten Holocaust of World War II." を出版し、世界中に名声を覇した。それは、日本が1937年中国の首都を占領していたときの、何週間に亘る暴虐の歴史とドキュメンタリーの最初のものであった。「南京の虐殺」は一瞬にしてベストセラーとなった。そして、アイリス・チャンは、日本の戦争犯罪を糾弾する舌鋒となったのである。本書は論争を巻き起こした。その論争は、虐殺はなかったとする日本人と、公式の謝罪と補償金を要求する中国人との間に今日も続いているのだ。

「アイリスは、半分治癒し、半分は忘れ去られようとした傷の破片を集めたのです。そして、それは、今日に至っても、生々しい傷なのです」とバークレイ大学のジャーナリズム学科の学長であるオービル・シェルは述べた。作品に好意を寄せたシェルは、ニューヨークタイムズにこう書いた。「彼女は不発弾が埋まる地雷原に踏み入ったのだ」と。

しかし、アイリスの死は、「信じられない」という大合唱を起こした。疑問は続く、、

*なぜ、あれほどの成功を収め、愛に満ちた家族や友人に囲まれて、自らの命を断つことが出来るの?

*彼女は、自分が照らし出した「暗い歴史の亡霊」に滅ぼされた、最後の「南京虐殺」の犠牲者なの?

*彼女の一心不乱の決意が、体力を超える仕事の疲労が死に続いたの?

アイリスは、日本のウルトラ国粋主義者によって暗殺されたのだとするブログやインターネットのチャットは耐えることがない。同様に、「南京の虐殺は、単なる嘘に過ぎない」と彼女の敵は主張している。
(続く)

伊勢平次郎 ルイジアナ

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2007/12/06 (Thu) 「コアラベア決議」
koala

1770年、 英国人探検家クックは現在のシドニー郊外、ボタニー湾に上陸し英国領有宣言した。そのオーストラリア連邦は、日本の国土の20倍。アメリカからアラスカを差し引いたサイズだ。その広大な土地にたったの2064万人が住むという小人口の大国なのだ。アングロサクソン・東欧系白人が大多数。世界GNPは12位だが、個人所得はGNPが13位の韓国の2倍。輸出は、日本・中国・アメリカの順。輸入は、中国・アメリカ・日本の順。産業は特にないが、頼るはその広大な不動産と資源だ。つまり、資源食い。国防軍も、陸海空合わせても、5万1000人なのだ。経済も国防も、日米の大国を頼りなのだ.。11月の総選挙でラッド氏率いる労働党は、1996年3月以来政権を維持してきたハワード氏率いる保守連合をやぶり、政権の座を獲得した。慰安婦決議が、今日、出された場合、おそらく採択されたであろう。クリックで拡大。 「おお、シンド!」伊勢爺

                             ***


オーストラリア連邦議会・外交委員会・日本軍慰安婦動議
SJ No. 167 12 FOREIGN AFFAIRS--JAPAN-- COMFORT WOMEN 
20 September, 2007

保守系のペイン上院議員は以下の動議を正式な動議とせず、一般的動議920号として提出した。

(1) 1930年代と40年代に起きた従軍慰安婦の苦悩については、日本及びアジア太平洋の歴史上、驚愕すべき出来事だった。そのことが起きたという事実と、被害者の苦痛は議論する余地はない

(2) オーストラリア政府は、日本の第二次大戦前、大戦中の戦争犯罪においては、関与したほとんどの日本人が正しく裁判され、有罪とされ、そして判決を受けたことを確認したとする平和条約に1951年署名した。

(3) 日本は1945年以来、過去の行為を認め償うことにおいて偉大なる進歩を遂げた。さらに、何十年もの期間、世界平和・安全保障・後進国開発・国連に対して大きく貢献してきた主要国である

(4) 1993年、河野洋平官房長官は、従軍慰安婦に言及(河野声明)し、その声明の中で、日本政府と日本軍がその占領していた地域において、性奴隷の強制制度に加担したことを全面的に、さらに、公式に認めた。

(5) その河野声明は、安倍内閣も含み、続いて日本の政権に再確認されてきた。

(6) この動議は、日本国民とその政府に今まで取ってきた、1930年代、1940年代の行為を認め、そして償うことを勧めるものです。 さらに、日本国民とその政府はそのことを自覚し、それは慰安婦も含み、犠牲者たちと仲直りするために対話をを続けるをことを奨励するものです。

一方、オーストラリア民主党議長・アリソン上院議員はペイン動議を受けて、別の動議を提出する許可を得た。

1) 1930年代、及び1940年代の慰安婦の被った苦難は、日本そしてアジア太平洋の驚愕すべき歴史だ。そして、その事実と被害者が受けた苦痛は論争の余地がない。

2) オーストラリア政府のポジションは、1951年、当時、合法的にオーストラリアが署名した日本の戦前、戦中の犯罪に関する平和条約である。

3) 1993年、河野洋平官房長官は従軍慰安婦を含む政府が関与した調査記録を認めた。

4) 新しい日本の首相(福田康夫)にこの事実を認め、日本の国会で決議を提出し、慰安婦たちに謝罪することを勧める。

5) さらに、日本政府は自国の歴史を認める努力をし、歴史的責任を取り、学校で慰安婦の歴史を教えることを勧める。

この修正動議の賛否投票は上院議員に委ねるものとする。上院議員は賛否に分かれた。
* 投票の結果 賛成(AYES) 32、 反対(NOES) 34である。慰安婦動議は否決された。

                           ***

(解説)オーストラリア議会でも、保守自由党のペイン議員に対して、リベラルの労働党が、日本を糾弾している。華僑ウォン議員・ネルソン・アリソンたちである。(Senators Wong, Allison and Nettle of Democrat)。日本人はここから何かを学ぶことが出来る。

(解説2)なんと言っても、米下院決議が一番の癌だ。解決法だが、1)河野談話の間違いを指摘する。したがって、決議は、“HONEST MISTAKE”と平和的に終焉させる。 2)徹底して論破する。 3)風化に任せる。 みなさんは、どれが良いと思いますか? (以上、ぶぅの投稿から引用した)

伊勢平次郎  ルイジアナ

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2007/12/05 (Wed) 「詐欺師、ノーマン・シュウ」
norman hsu

香港チャイナマン、ノーマン・シュウのオレンジスーツ。FBIさまに逮捕されるとこういう無様なことになるんだ。法律をなめている人種はこの裁判には感心があるはずだ。なあ、徐・ホンダ・チョウ。ディンさんよ? (クリックで拡大)


「詐欺師、ノーマン・シュウ、起訴される」
Reuters Tuesday, December 4, 2007

ニューヨーク(ロイター)-米民主党議員へ政治献金をするために、60ミリオン・ダラーを一般投資家から搾取したという理由で、香港中国人 ノーマン・シュウ容疑者が大陪審員により起訴された。

15の犯罪が行われたとする起訴が、本日、ニューヨークの、マンハッタン連邦裁判所で発表された。 同じ内容の起訴が9月に提出されたとき、同容疑者から献金を受けた、ヒラリー・クリントン民主党大統領候補は、85万ドルの返還を促された。

シュウは被告となったわけだが、この被告の弁護士ジェイムス・ブロスナハンは起訴の詳細を公開しなかった。

このシュウ被告(56歳) 起訴状の内容であるが、郵便法違反6、電信法違反6、政治献金法違反3である。

「有罪となった場合は、郵便・電信の法律違反に対して、それぞれ20年の服役。政治献金違反に対して、それぞれ5年の服役と罰金である」と連邦検事のマイケル・ガルシアが述べた。

検事団はシュウ被告を「ポンジー詐欺」によって、20ミリオン・ダラーは騙し取ったとものとしている。検事たちは、被告のシュウは、2000年から2007年の期間、短期投資によって高利を売るとだまし、新規投資者から古い投資者へ 利益と称して払っていた。

検事たちは、さらに、シュウ被告は社会的信用を得て、もっと大きく投資家を集めるために、詐欺の被害者たちに、シュウが支援する政治家に献金するようにとプレッシャーをかけた。さらに、そうしないと、投資した金に危険が及ぶと脅した。

さらに、シュウ被告は自分の代わりに政治献金をするように第三者を使い連邦政治献金法を違反したと、検事連。

去る9月では、それぞれの起訴はひとつだった。 シュウは、カリホルニア裁判所に出頭せず、9月6日、コロラドのグランド・ジャンクションの病院で逮捕されていた。

シュウは、1992年以来、もうひとつの詐欺事件で 「おたずね者」となっていた。1ミリオンダラーを、20名の投資家からだまし取ったとされる。
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シュウはアメリカ生まれではないアジア人だ。民主党のオバマ大統領候補も献金を受けたとされる。クリントンは85万ドルをすでに返還したとされる。

                              ***

ここ3日間、「任意口座」の開設の申請・手続きに向かって歩んでいる。12・15までに開設したいと思う。まもなく、「英書出版・募金のお願い」を発表しますので、よろしく、ご賛同ください。

伊勢平次郎  ルイジアナ

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2007/12/03 (Mon) 「チャイナ、感謝祭を冷たくあしらう」
Kitty Hawk and Japan Navy 07

2007年11月16日、福田首相とブッシュ大統領がワシントンで会談している頃、米海軍キティホーク空母機動部隊と日本海上自衛隊は、原潜、巡洋艦、PC2哨戒機を伴って横須賀基地から出て行った。22日、日米艦隊は西太平洋で過去最大の合同演習を終えた。荒波の海上における訓練は7日間続いた。演習後、キティホークと米艦船は香港に向かった。アメリカ本土から、はるばる飛んできた家族と感謝祭のディナーを楽しむために、、(クリックで拡大)


「チャイナ、感謝祭を冷めたくあしらう」 
(11・26・07 ウォールストリート・ジャーナル)

中国とアメリカの軍事的関係を航海に例えれば、いつも平穏だったわけではない。しかし、先週の突然の嵐にはほんとに驚かされた。

先週水曜の夜、中国外務省は米空母キティホークとその空母直撃グループの「感謝祭の休暇のため香港に4日間停泊したい」という要請を無視したのだ。

8000名の乗組員を波止場で迎えるために、290家族が香港へ、はるばる飛んできて待っていた。この中国政府の意図的な要請無視ため、水兵がサンクスギビングを家族と一緒に過ごす計画は目茶目茶になったのだ。

キティホークの寄港は何か月も前から知らされていた。だが、北京政府は寄港許可を求める米国側要請に水曜の夜まで公式回答を寄越そうとしなかった。そのため、米国艦隊は中国海域の外で、1日待たねばならなかった。

結局入港は拒絶された。赤信号が灯った夜、米国艦隊は日本へ戻ることとなった。ところが、北京政府は木曜の午後(感謝祭の当日だ)になると、突然、入港拒否をひるがえしたのだ。だが、艦隊はすでに300マイルも反対方向に走っており、感謝祭のディナーのため、香港に逆戻りするには遅すぎた。

北京がいったん拒否して、また、後になって許可した理由は、過去の中国政府の決定がそうであるように、今回も不透明のままだ。中国がいきなり「米国艦隊を冷たくあしらった」その理由は、おそらく、ペンタゴンが最近、台湾に、9億4千万ドルのパトリオット防空ミサイルシステム・改良計画を承認したことに関係があるのだろう。あるいは、ブッシュ大統領が、先月、亡命したチベット仏教指導者のダライ・ラマ師と会見し、米国議会人権名誉賞の授与に関係するのかもしれない。中国は、未だに、何一つ説明しようとはしていない。

大声で、しかも明瞭に聞こえたメッセージがひとつある。それは、「中国は信頼できる軍事パートナーではない」ということだ。北京の外交は、その見かけほどには洗練されてはいない。中国外務省が、アメリカにメッセージを送りたいなら、アメリカの水兵たちから、家族との感謝祭の夕食の機会を取り上げるよりも、もっと良いやり方があったはずだ。(WSJ・ウォールストリート・ジャーナルの記事)

                            ***

私たち日本人は、空母キティホークの乗組員とその家族に心からの同情を表明したい。あなた方は中国政府から、敵意ある、無神経な扱いを受けた。私たちは、アメリカの同盟国であり友人である日本人として、アメリカの兵士たちを歓迎します。日本に来なさい。サンクスギビングを一緒に祝いましょう。(注)ウチのが「セイラーは、横須賀で七面鳥を食べたんだわ」と。

伊勢平次郎  隼機関・スポークスマン  (*VENOMさんが翻訳し伊勢が編集した)

                            ***

(解説)WSJの記事は激怒をこめて書かれている。英文の記事では「夕食の機会を取り上げる」ではなく「夕食を盗みとる」である。この記事を、ウチのがアフリカからのフライトの機内で配ったのだ。乗客は、テキサスの石油関係の技師たち。「読んだ人、むっと、したわ」だとさ。アメリカ南部人は、“DON’T STEP ON THE TEXAN’S BOOTS”という。慰安婦決議どころじゃないよな??「英字のブログを読めよ」と、ホンダにメールしてやってよ。

                            ***
  
(英書の出版計画)

「慰安婦決議の嘘」(仮名)を英字で、米国の大手出版社から出版する計画を立てた。隼機関の目標の中で最優先の課題だ。この本一冊の中に、隼同士の歴史的目的が全て発表される。*池田信夫さんに「巻頭文」をお願いした。

1)「五人組」 venomさん・gripenさん・伊勢・その妻・米人編集プロを「出版チーム」と決めている。

2)来年5月30を英文原稿の締め切りとする。

(解説)来年は「政治の年」だ。今月12月、韓国大統領選挙・日本衆議院選挙(?)・アメリカの11月、大統領選挙と普通選挙。北京夏季オリンピックがある。7・30には慰安婦決議の一周年記念が来る。それらに合わせて出版したいのだ。この年に出版しなければ、千載一遇の機会を失うと思う。

(問題1)この7ヶ月間の作業資金だ。出版は、全力集中して行わなければ完成しないものだ。作業に関る「スタッフ5人プラス」の「時給・実費」を最低額であっても支払わなければならない。さらに、米人プロの編集者は安くはない。素人ではダメなのだ。

(問題2)12月中に「任意口座」を開くこととする。VENOMさん、GRIPENさんと協議中である。

伊勢平次郎   ルイジアナ

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2007/12/01 (Sat) 「最後の31日間」
sicily

1990年の夏、シシリーのシガネラ・アメリカ空軍基地。地中海で最大の飛行場だ。後の飛行機は、フィラデルフィア~アゾレス島~べニス~ナポリ~シシリー島へと、乗ってきたわが妻の会社のDC10。連れているのは、伊勢志摩生まれの柴犬のメイコさん。メイコさんは、8年前、神に召されて天国へ。伊勢は48歳の青年であった。クリックで拡大。


「最後の31日間」

本日、注意すべき、緊急ニュースが5件ある。

1)トルコのエルドアン首相は30日、同国からの分離・独立を目指す武装組織「クルド労働者党(PKK)」掃討のため、国軍にイラク北部への越境軍事作戦を行う権限を28日付で与えたことを明らかにした。国軍はこれにより、作戦の即時開始が可能になった。

2)額賀財務大臣の国会証人喚問がキャンセルとなった。

3)中国のガス田問題今年中に解決、円借款は終了と高村外務大臣。

4)米政府は、北朝鮮のテロ支援国指定を解除する条件の一部として、寧辺(ヨンビョン)の核施設の無能力化完了に加え、核計画の申告時に「核爆弾の材料となるプルトニウムの抽出量」「ウラン濃縮計画の実態」「シリアなど外国への核移転の状況」の3点の明示を北朝鮮に求める方針を固めた。6か国協議関係筋が30日、明らかにした。北朝鮮が米国の要求を全面的に受け入れる可能性は低く、テロ支援国指定の解除時期が大幅にずれ込むのは確実となった。

5)2時間前、ヒラリー・クリントンのニューハンプシャー選対事務所に男が押し入った。男は爆弾?を胴体にダックテープで巻いていると脅して、人質数人を取った。だが、SWATチームが到着しメガホンで話しかけると、人質の親子を開放した。今、話し合い中。クリントン議員はヴァージニアでこのニュースを聞いた。全てをキャンセルした。
(以上、読売)


(解説1)ブッシュ大統領は、エルドアン首相に対し、トルコ国軍がイラク国境を越境することを中止するようにと懇願している。だが、エルドアン首相は、11月の訪米から一ヶ月待ったのだ。。ところで、今夜食べたトルコ料理の女店主アイアさんが「エルドアンは宗教心が強い人で、弱者救済に傾いている。経済政策が弱い。でも、戦時には強い指導者。もっと、自由主義の若い世代が政府には必要」だとですわ。話し戻す。伊勢は、「国境に10万人もの兵を終結させて、掃討戦を中止するわけがない」と信じていた。

その理由は、同じ光景を1990年の夏、シシリーの、シガネラ米空軍基地に降り立ったときに見たからだ。シガネラ空軍基地は、地中海で最大の、元ナチス・ドイツ・ルフト・ハッフェ空軍飛行場だった。伊勢が目撃したのは、シシリーの灼熱の太陽の下で、米軍機甲部隊が数百台の戦車をひっくり返して整備している光景だった。砲塔や車両のキャタピラ、赤茶けた車軸が雑然と散らばっているのが印象に残った。

当時の日本の新聞記事は「米軍はフセイン軍と交戦しない」という論調が100%近くだった。東京の記者と電話で話した。「いや、戦争になるな。これだけ終結してるからね」と伝えたが、彼は信じなかった。6ヵ月後、第一次イラク戦争「デザート・ストーム」は始まった。わが妻は、開戦の朝、サウジアラビアへ飛び立った。彼女は戦時のフライトでは空軍大尉である。「US・エアリフト」と呼ばれる兵員空輸では、階級によって命令系統が厳守されるのだ。さらに、彼女が捕虜になった場合、将校として扱われる利点がある。話しが脱線した。

「トルコ軍が一斉に越境すると、米軍はどうする?」 答え、「何もしない」と米軍の司令官。というか、何もできないのだ。「この状況変化は何を意味するのか?」 答え「スンニ派武装集団がテロを再開する」「その後はどうなる?」 答え「分からない。だが、米軍はぬきさしできなくなる。米軍の撤退を米民主党議会は大声で叫ぶだろう」

(解説2)額賀財務大臣の国会証人喚問が中止になった。余裕のできた福田さんは、新特措法で民主党を攻める。福田首相にとって、今年中に法案が通らなくても問題はない。つまり、福田政権には有利な展開なのだ。そこで、来年度予算の審議を開始して、民主党を追い詰める。つまり、小沢民主党は、両案ともに絶対反対というわけには行かないからだ。伊勢は「喚問はない」と読んでいた。いかさま左翼ブログが騒ぐのを笑っていた。

(解説3)高村外務大臣は「ガス田協議で、突っ込んだ話しがあった」と強気だ。さらに、対中国・円借款協定は本日で終焉した。世界経済の後退~人民元の対ドル上昇~株価の下げで中国経済はアタマ打ちになった。福田さんは、今月訪中の予定だが、ここでも強運のようだ。

(解説4)以前のエントリで、「嘘つきの金(きん)は、“核だんご”を放棄しないよ~」と書いた。「おい、おい、金さん、アッタマ~、しっかりしてるかい?」 は、は、は 伊勢

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(英書の出版計画)

「慰安婦決議の嘘」(仮名)を英字で、米国の大手出版社から出版する計画を立てた。隼機関の目標の中で最優先の課題だ。この本一冊の中に、隼同士の歴史的目的が全て発表される。*池田信夫さんに「巻頭文」をお願いした。

1)「五人組」 venomさん・gripenさん・伊勢・その妻・米人編集プロを「出版チーム」と決めている。

2)来年5月30を英文原稿の締め切りとする。

(解説)来年は「政治の年」だ。今月12月、韓国大統領選挙・日本衆議院選挙(?)・アメリカの11月、大統領選挙と普通選挙。北京夏季オリンピックがある。7・30には慰安婦決議の一周年記念が来る。それらに合わせて出版したいのだ。この年に出版しなければ、千載一遇の機会を失うと思う。

(問題1)この7ヶ月間の作業資金だ。出版は、全力集中して行わなければ完成しないものだ。作業に関る「スタッフ5人プラス」の「時給・実費」を最低額であっても支払わなければならない。さらに、米人プロの編集者は安くはない。素人ではダメなのだ。

(問題2)募金口座に関してある有力な政治団体に依頼した。受けてもらえない可能性がある。役員(4名)で協議し「任意口座」を開くとする。

伊勢平次郎   ルイジアナ

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*以下、VENOMさんが翻訳した。伊勢が編集した。

「チャイナ、感謝祭を冷遇する」

“2007年11月22日、キティホーク空母直撃部隊と日本海上自衛隊は西太平洋で過去最大の合同演習を終えた。荒波の海上における訓練は7日間続いた。演習後、キティホークと米艦船は香港に向かった。アメリカ本土から、はるばる飛んできた家族と感謝祭のディナーを楽しむために、、”

「チャイナ、感謝祭を冷めたくあしらう」 
(11・26・07 ウォールストリートジャーナル)

中国とアメリカの軍事的関係を航海に例えれば、いつも平穏だったわけではない。しかし、先週の突然の嵐にはほんとに驚かされた。

先週水曜の夜、中国外務省は米空母キティホークとその空母直撃グループの「感謝祭の休暇のため香港に4日間停泊したい」という要請を無視したのだ。

8000名の乗組員を波止場で迎えるために、290家族が香港へ、はるばる飛んできて待っていた。この中国政府の意図的な要請無視ため、水兵がサンクスギビングを家族と一緒に過ごす計画は目茶目茶になったのだ。

キティホークの寄港は何か月も前から知らされていた。だが、北京政府は寄港許可を求める米国側要請に水曜の夜まで公式回答を寄越そうとしなかった。そのため、米国艦隊は中国海域の外で、1日待たねばならなかった。

結局入港は拒絶された。赤信号が灯った夜、米国艦隊は日本へ戻ることとなった。ところが、北京政府は木曜の午後(感謝祭の当日だ)になると、突然、入港拒否をひるがえしたのだ。だが、艦隊はすでに300マイルも反対方向に走っており、感謝祭のディナーのため、香港に逆戻りするには遅すぎた。

北京がいったん拒否して、また、後になって許可した理由は、過去の中国政府の決定がそうであるように、今回も不透明のままだ。中国がいきなり「米国艦隊を冷たくあしらった」その理由は、おそらく、ペンタゴンが最近、台湾に、9億4千万ドルのパトリオット防空ミサイルシステム・改良計画を承認したことに関係があるのだろう。あるいは、ブッシュ大統領が、先月、亡命したチベット仏教指導者のダライ・ラマ師と会見し、米国議会人権名誉賞の授与に関係するのかもしれない。中国は、未だに、何一つ説明しようとはしていない。

大声で、しかも明瞭に聞こえたメッセージがひとつある。それは、「中国は信頼できる軍事パートナーではない」ということだ。北京の外交は、その見かけほどには洗練されてはいない。中国外務省が、アメリカにメッセージを送りたいなら、アメリカの水兵たちから、家族との感謝祭の夕食の機会を取り上げるよりも、もっと良いやり方があったはずだ。

                            ***

(解説)WSJの記事は激怒をこめて書かれている。ウチのがアフリカからのフライトの機内で配ったのだ。乗客は、テキサスの石油関係の技師たち。「読んだ人、むっと、したわ」だとさ。アメリカ南部人は、“DON’T STEP ON THE TEXAN’S BOOTS”という。慰安婦決議どころじゃないよな??英字のブログを読めと、ホンダにメールしてやってよ。

                            ***

私たち日本人は、空母キティホークの乗組員とその家族に心からの同情を表明したい。あなた方は中国政府から、敵意ある、無神経な扱いを受けた。私たちは、アメリカの同盟国であり友人である日本人として、アメリカの兵士たちを歓迎します。日本に来なさい。サンクスギビングを一緒に祝いましょう。

伊勢平次郎  隼機関・スポークスマン
   
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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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