2010/08/28 (Sat) 小沢一郎首相?
ozawa suspect

われわれと同じ人間の顔としても、これほどの悪相はない。朝鮮半島の系列に多い顔である。

特例会見 

この男は、カネにならない約束など守らない。

ozawa korea

民主党を支持する愚民は、この男の真意をもうそろそろ分かっていい頃だ。この男の公約とは一体何だ?

ozawa police arrived 3.4.09

09年3月9日、岩手県の小沢事務所に一斉手入れが行われた。西松建設から~架空の政治団体を経て~小沢に献金がされた事件である。つまり、監獄に繋がれているべき人間である。


小沢と普天間

民主党の川内博史衆院議員は28日のTBS番組で、「小沢一郎首相」が誕生した場合、沖縄の米軍普天間飛行場移設問題では「国外移設」を主張することになるとの見通しを示した。川内氏は、「小沢氏に6月、“(米)グアム・テニアン(への移設案)を説明してくれ”と言われ、説明した。小沢氏は“米国にまず話さなければいけない。(日米合意の)辺野古も、徳之島も無理だ”と言った」と述べた。小沢氏が「普天間は代表選の争点になる」と語ったことも明らかにした。川内氏は鳩山前首相グループに所属。代表選では小沢氏支持を表明している。(2010年8月28日18時39分 読売新聞)

(警告) 小沢は首相でもないのに、韓国のイミョンバクと会い、「外国人地方参政権」を公約した。一方では、普天間米海兵隊基地移設の日米政府間合意は、小沢にとって国際公約ではないようだ。在京米国大使のジョン・ルースは知っている。小沢一郎が、日米同盟の「敵」だと認識している。大使館のCIAは、この害毒人間を退治する考えはないのか? 伊勢平次郎 ルイジアナ





バクテリアの恐怖



5月に足の甲にかゆい斑点が出た~6月東京のホテルで、拡がったのが判った~沖縄から帰ると、皮膚が破れ、リンパ液が流れ始めていた~脚の上部にまで斑点が出てきた~腕にも出た、、救急病院へ行くと、「バクテリアのアタック」だとそのまま入院。三日間、点滴と抗生物資の注入でバクテリアの攻撃は沈下した~だが、かゆみ止まらず、腕のほうが悪化した。その理由は、バクテリアのべービーは親よりも強いからだそうだ。一週間前から斑点が消え始めた~今朝起きるとかゆみもなく、この黒い傷跡だけとなった。ただし、まだ神経を損傷したので、じわ~と痛みが残る。全治するのは11月だとさ、、明日、早朝に家を出ます。バハマ、キューバから紀行文を送りますね。ごきげんよう。伊勢爺

2010/08/26 (Thu) 二人の革命家(キューバその3)
カストロ



フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルス(1926年8月13日 - )は、キューバの政治家、革命家、軍人、弁護士。社会主義者で、1959年のキューバ革命でアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったフルヘンシオ・バティスタ政権を武力で倒し、キューバを社会主義国家に変えた。革命によって同国の最高指導者となり、首相に就任。1965年よりキューバ共産党第一書記を務めている。日本国内においては「カストロ議長」と呼称されることが多い

へミングウエイ



アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ(Ernest Miller Hemingway、1899年7月21日 - 1961年7月2日)は、アメリカの小説家・詩人。イリノイ州オークパーク(現在のシカゴ)に生まれる。父は医師、母は元声楽家で、六人兄弟の長男だった。父は活動的な人物で、釣りや狩猟、ボクシングなどの手ほどきを受けた。

高校卒業後の1917年に地方紙「カンザスシティ・スター」紙の見習い記者となるも退職。翌年赤十字の一員として北イタリアのフォッサルタ戦線に赴くも重傷を負う。戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの知遇を得て小説を書きはじめた。

行動派の作家で、スペイン内戦や第一次世界大戦にも積極的に関わり、その経験を元に行動的な主人公をおいた小説をものにした。『誰がために鐘は鳴る』『武器よさらば』などはそうした経験の賜物。当時のハリウッドに映画化の素材を提供した。短編には簡潔文体の作品が多く、これらはダシール・ハメット、レイモンド・チャンドラーと後に続くハードボイルド文学の原点とされている。

1954年、「老人と海」が大きく評価され、ノーベル文学賞を受賞(ノーベル文学賞は個別の作品ではなく、作家の功績および作品全体に与えられることに注意)。この年、二度の航空機事故に遭う。二度とも奇跡的に生還したが、重傷を負い授賞式には出られなかった。以降彼の特徴であった肉体的な頑強さや、行動的な面を取り戻すことはなかった。晩年は事故の後遺症による躁鬱に悩まされるようになり、執筆活動も次第に滞りがちになっていく。1961年、ライフルで自殺。作家のレスター・ヘミングウェイは弟、女優のマーゴ・ヘミングウェイ、マリエル・ヘミングウェイは孫娘である。「海流のなかの島々」の舞台ともなったバハマのビミニ島には、滞在していたとされるホテルの一室を改装したアーネスト・ヘミングウェイ博物館があり、遺品などが展示されていたが、2006年、火災により焼失した。

老人と海

hemingway 001

キューバに20年間住み、10年かけて、127ページの短編を完成した。伊勢爺さんの「ルビコン河を渡った騎士たち」も短編とする考えです。ご期待を乞う。


(つぶやき) 今週の日曜日(8・29)~次の日曜日(9・5)まで、キューバ取材旅行に出かけます。カストロは男である。一命を賭けた革命家である。へミングウエイも、歴史に残る革命家であった。だ・か・ら、伊勢平次郎もキューバへ行く。革命家の生まれた島へ行き~戦場の丘や、カリブ海の海辺を歩き~わが祖国、日本の近未来を考えてみたい。“男が命を賭けてやる仕事とは何か?”を考えてみたい。伊勢平次郎 ルイジアナ







2010/08/22 (Sun) キューバに行く(その2)
へミングウエーの宿


へミングウエーの書斎のあるアンボス・ムンドス・ホテルだ。へミングウエーは10年近くこのハバナの下町に住んだ。「老人と海」は短編だが、10年思考したと。伊勢夫婦はこのホテルに3泊する。行って見てから、紀行文を書く。伊勢平次郎 ルイジアナ






サンホアンの丘



米西戦争(1898年10ヶ月間のキューバをめぐるアメリアとスペイン帝国の戦争)のクライマックスがこのサンホアンの丘である。キューバの南東サンテイアゴ湾から2キロにある。まだ行って見ていないので、詳しくはここに書かない。ハバナから、国有鉄道に乗り12時間で行く。
 

(つぶやき) キューバを取材する理由は、社会主義国の視察である。日本が社会主義へと漂流していると思うからだ。社会主義や福祉国家に反対なのではない。日本の社会主義者を信用出来ないのだ。そうでしょ?

カストロの革命

obon 2010 002

1959年に起きた社会主義革命の本がアマゾンから届いた。実は、カストロが196?年だったか、ニューヨークのコロンビア大学に招待されてやってきた。友人のボブ(ユダヤ系医学生)と群集に混じって遠くからカストロを見た。ほかにもキューバ産のうなぎの幼虫の話しがある。だが、それは、「ルビコン河、、」の中に載せてある。

宮崎正弘先生からメールがきた

 小生はヘミングウェイを研究しようとワセダにはいり、龍口直太朗先生の講座をうけたら、龍口さん、すでにヘミングウィイからカポーティに研究対象をうつしており、口を開けばカポーティのことばっかりで、うんざりした記憶がよみがえりました。

 ところで先般いただきましたキルギスのコニャックはみごとにテレビ出演しています(爆笑)。桜チャンネルのキルギス解説のおりに画面で。そのあと出演者全員とスタッフで飲み干しました(大爆笑)。宮崎正弘

                      ~続く~


2010/08/20 (Fri) キューバに行く(1)
cuba map

米本土から最も近いところにある社会主義国、キューバを取材することにした。「ルビコン河を渡った騎士たち」の英語版は、「Knights of the Rubicon」だ。その序章と最終章をキューバの社会主義としたからである。

キューバは、フロリダのキーウエストから140キロの距離に位置する。ところが、キューバへ行くのは意外に難しいのだ。理由は、アメリカとキューバは、国交断絶に近い関係だからである。つまり、米国領の上空も、海上もキューバへ行くフライトや船舶に禁止条例があるからだ。伊勢夫婦のフライトは、ニューオーリンズ~ノースカロライナ~マイアミ~バハマ諸島のナッソー島へと飛び石で行く。そこで一泊し~あくる日の午後に、クバーノ・国有航空で、首都ハバナに飛ぶ。伊勢平次郎 ルイジアナ






カストロの革命

1959年、社会主義革命が起きた。フィデル・カストロやチェ・ゲバラを英雄と思う人は多い。伊勢は、社会主義は日本やアメリカの国民性には適さないと信じている。だが、カストロのクレイムもよく分かる。キューバは島だからである。米軍に踏み込まれた点では、沖縄はよく似ている。その沖縄も社会主義に傾いている。

昨年、日本に民主党政権が生まれた。日本は社会主義に向かうのか?少なくとも、福祉社会の傾向にあると言ってよいだろう。そうしたければ、それも日本国民の民意である。だが、社会主義の非生産的な制度は、日本の風土・民族性・文化・貿易経済には向かないのだ。



1492年の夏、コロンブスがキューバを発見した。この絵は貴重である。スペインの征服者たちは、南東の端にあるサンチアゴ・デ・キューバを首都としたが、1898年の米西戦争でアメリカが支配するようになると、フロリダに面するハバナ港が繁栄するようになった。ハバナは大西洋側であり、サンチアゴ・デ・キューバは、英領であったジャマイカやフランス領であったドミニカが隣のカリブ海に面している。20世紀初頭のアメリカの目的は、キューバ産の砂糖と安い労働力にあった。

                           ~続く~


2010/08/17 (Tue) 強い日本を再建しましょう(その1)
japan april trip 4.1.09 033 (Small)

日本へ帰ると、翌朝は靖国に参ることに決めている。横断歩道際の帽子の男が伊勢で、右となりは、高校時代の同級生のT君だ。

「強い日本再建」のシンボルに靖国神社を選びます。理屈な不要。祀られているのは、お国に命を捧げた貧農の息子や学徒の兵士が中心だから。今、その気概を持たなければ、日本国の体力は衰微(すいび)して行く。その兆候は、現民主党政権を見れば明らかである。伊勢平次郎 ルイジアナ






親しくしている女性同志から、こういう書き込みがありました

伊勢様

カンサス州に住むアメリカ人の友人が今週の金曜日から10ヶ月間の予定で中国大連の大学に英語教師として出かけるそうです。

青山繁春さんの本によれば、北京五輪の頃より、中国に出入国をする外国人の持っているパソコンや携帯などには情報を盗むためにウイルスやバグがわからないように仕込まれるようになった・・・と書かれていました。
さらに中国はアメリカの一流大学や研究所で学んだ頭の良い中国人学者や研究者、技術者たちを桁外れの高待遇でやとって情報を得ているため、欧米に引けを取らないハイレベルの知識があるのだそうです。

友人にはできることなら行かないで・・・と、止めたいところです。

きょうの産経新聞の記事を見ると中国は不気味ですね。
どういうつもりなのでしょう・・・本気で日本を潰すつもりなのでしょうか?
民主党政権、早く何とかしたいものです。

宮崎先生のメルマガは読んでいます。

産経新聞より
【風を読む】論説委員長・中静敬一郎 中国核の日本照準は脅威
      2010.8.17 07:43
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100817/chn1008170745001-n1.htm

中国が年内にも初の空母建造着手 国防費は12兆8000億円 米国防総省が年次報告書
     2010.8.17 07:51
http://sankei.jp.msn.com/world/china/100817/chn1008170751002-n1.htm

あと・・・いろいろなブログで紹介されている「やまと新聞」についてのご紹介です。
「やまと新聞」は、明治19年創刊でGHQ に屈しなかったという国会内にある唯一の保守系新聞。
長い間、国会内だけで発行されていたそうですが、安倍元首相、森元首相たちのおかげでやっと一般にも発行できるようになった新聞だそうです。

http://www.yamatopress.com/b/000350.php

下記には15日の靖国の近くでおこなわれた左翼による 
「反靖国、反天皇制のデモ隊」対 「愛国者」の動画もあります。

http://www.yamatopress.com/

お体をお大切に。


強い日本再建の処方箋(その1)

実践が可能な計画を建てたいです。晩秋の出版で資金が出来るか、そこに情熱を持っている。皆さんから預かったご献金は、編集者や取材(沖縄など)~出版社との会合~編集プロへの支払いで、とうの昔に消えました。現在は、自前です。当然ですが、伊勢個人へのご献金とは思っていません。

1)日本の政治指導者を一新しなければならない。
2)新政府は、明治に帰り、「新・富国強兵」の国策を建てなければならない。
3)新政府は、親日国群と積極的に経済と軍事支援によって親密になることが必用である。これをアメリカは歓迎する。

ベトナムに見習え!

1)中国人民軍の侵略を押し返す軍事力が必要である。日本人青年の精神と体力を鍛えなければいけない。
2)日本人は、“小さな幸せのために働く”という考えから脱出しなければいけない。
3)戦後復員してきた強い若者が日本を復興させた大きな原因です。
4)日本経済も、結束した強い国民が再建できるものです。

犠牲なくして日本の再建なし

日本再建といえば、明治維新の志士たち。学歴なし~あるのは度胸だけ。薩長土の青年たちが体を張った。官軍が形勢された。そして、多くの若者が命をなくした。その尊い犠牲によって日本の近代化が起きたのです。明治維新の志士の行動から「日本再建」を学ぶことが出来ます。

*** あなたなりの、「強い日本再建」への提案をください。伊勢平次郎

2010/08/15 (Sun) 去りし昔の想い出に
old black joe 008

夏と言えば金魚。2年前小指のサイズだったが、、お盆ですね。今日一日中、写真を整理していた。伊勢平次郎 ルイジアナ

お盆ですね

my folks

伊勢志摩の海辺のお墓。去る6月26日に故郷に帰った。長兄の娘(わが姪)とご先祖のお墓に水をかけた。以下のサムネール、クリックで拡大します。

hitomo 6.26.10

わが義姉のたったひとりの娘はわが姪だ。“信おじさん、大好き”と、このようになる(笑い)。

old black joe 017

この写真は、昭和21年のものです。兄の嫁さん(義姉)が、伊勢夫婦が沖縄に発つ前に亡くなった。この姉は美しい女(ひと)だった。そして強かった。わが弟もこの姉の手で育った。三重県立高校を卒業後、海上自衛隊・横須賀潜水艦群の水兵となった、その弟も8年前に亡くなった。姉ちゃん、ター坊、あの世は良いとこですか?

old black joe 020

“七つボタンは桜に碇、、”わが三兄の復員途中の写真。背景は、二見が浦の夫婦岩だと兄は語った。この兄は。84だが元気だ。長崎の佐世保で終戦となったと。満州朝鮮の少年たちは、少年飛行兵の応募に応じた。11000人の少年兵たちは、海軍飛行隊予科練習生・満鮮組と呼ばれたと。その半分が、昭和20年の3月のある朝、輸送船に乗ってどこかへ行ったと。“沖縄でみんな戦死したよ”と兄は大きな声で語った。わが兄の生き残った話しは一章となっている。だから、ここには書きません。

old black joe 019

1967年の夏。伊勢は若かった。25歳を過ぎた夏の日にアメリカに飛び立った。ナイアガラの滝です。Y新聞の名カメラマンの左口さんが撮った。

old black joe 021

わが妻も若かった。スチュワデスの試験に受かった頃の写真。60年代後半の髪型ですね(笑い)。

old black joe 022

“君と結婚したい。イエスか、ノーか?”“イエス。あなたに翼(つばさ)を上げます”と。サンフランシスコから、伊勢青年が住んでいたニューヨークのアパートに搭乗機の写真を送ってきた。伊勢爺さんは、アメリカ女に助けられて生きてきた。だから、終戦記念日でも、読売の社説のような「くりごと」は書かないし、一切言わない決意なのだ。


(お知らせ)


knight medeival

“Knights Of Rubicon(ルビコン河を渡った騎士たち)という題名の短編がベストだ”と編集者。“渡れば、元には帰らない”と知りつつ、決意してルビコン河を渡った人たちの話しです。先に送った、日米本の“Lost Agenda (失われた議題)はその中の一章でよいのだ" と。“すると、書き変えなければならない”というと、“Its worth doing that”と。

理由は、こうだ。初めての出版は、その作家の一生涯の運命を決めるものだと。最初の著書の印象は強いものだと。だから、“Make it or break it”(のるかそるか)なのだと。


皆さんにお願い

最終章が、「キューバの革命家たち」です。そのために9月6日~9月14日まで、キューバへ取材に行きます。脱稿を、新書の月である10月25日と致したい。英字出版は、11月4日の米中間選挙の日に印しを付けた。日本では、12月のはじめです。

出版が出来なかった場合、ご支援された同志の方々に、ご献金(200万円と少々)をお返しします。以上のことを、泉下の父母~兄たち~弟~姉2人に誓います。伊勢平次郎

2010/08/12 (Thu) どぶ鼠の足跡

仙谷 由人(せんごく よしと、1946年1月15日 - )は、日本の政治家、弁護士。衆議院議員(6期)、内閣官房長官(第78代)、凌雲会会長。学生時代は全共闘の活動家であった。政界入りは、社会党から

民主党政策調査会会長(第7代)、有限責任中間法人公共政策プラットフォーム代表理事、衆議院決算行政監視委員長、内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)、内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)などを歴任した。

弁護士時代

徳島県生まれ。父は裁判所書記官、母は高校教師。徳島県立城南高等学校卒業後、1964年東京大学に入学。在学中の1968年に司法試験に合格し、東大を中退。司法修習23期(同期に漆原良夫)を経て弁護士登録。 1971年から弁護士活動を開始。弁護士時代は労組事件や日本教職員組合関連の案件を扱った。麹町中学校内申書事件の弁護人も務めている。また、所属していた弁護士事務所の部下に福島瑞穂らがいる。

政界入り

1990年2月18日の第39回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧徳島県全県区から立候補し当選した。当選後は、社会党を現実的に政権を担える党に脱皮すべく、ニューウェーブの会のメンバーとして活躍し、山花貞夫委員長を首班とする社会党シャドーキャビネットで官房副長官を務めたが、1993年の宮澤改造内閣不信任可決の後実施された第40回衆議院議員総選挙では次点で落選し、社会党も現有議席を割り込んだ。社会党が名称変更した社民党を離党し、四国市民ネットワーク代表を経て旧民主党に参加。(ウイキぺデイアから)

(警鐘)これが、どぶネズミの足跡である。弱者側に発つ思想は問題ではない。被っている仮面が問題なのだ。「偽善を堂々と行う社会主義者」の見本と言って良い。このどぶネズミは、反米~親中~親韓朝の思想を持っている。つまり、「神の国」日本の柱を引き倒す計画を持っている。天皇や皇室を敬うことはないし、靖国に祀られている兵士の霊に瞑目することすらもしない。日本人ではない。倒すべし!伊勢平次郎 ルイジアナ





米国民“オバマに自信を失った”と

obama called middleeast 1.21.09

(WSJ 8.11.2010) As in recent polls, Americans are split on President Barack Obama's job performance, with 47% approving and 48% disapproving. But a majority disapproves of his performance on the economy. And six in 10, including 83% of independents and a quarter of Democrats, say they are only somewhat or not at all confident that Mr. Obama has the right policies to improve it.

(解説)"Vote The Bums Out!"という、掛け言葉が流行っている。“ホワイトハウスの浮浪者らを追い出せ!”という意味。伊勢爺


2010/08/11 (Wed) 笑われた菅直人の謝罪
korean protester 8.10.2010

ソウルの日本大使館前で“謝罪は飽きた。賠償しろ!”と叫ぶ韓国の女性たち。戦時中の世代ならまだ理解できなくもないが? 

日露戦争後の朝鮮はANNEXATION(併合)ではあったが、植民地ではなかった。朝鮮人らは日本人の待遇を受けた。その朝鮮人らに謝る?感謝されるべき歴史だよ。それなら、イギリスは?フランスは?オランダは?アメリカは原爆投下を謝らないのか?ペコペコとアタマを下げる日本人の卑屈な性格を伊勢爺さんは嫌う。まあ、菅直人は純粋の日本人ではないが。終戦記念日に、首相以下閣僚は靖国神社に参らないんだと。こいつらは、猿に等しい。A級戦犯というのは、連合国が被告にそうレッテルを貼ったからだ。つまり、日本人にとって、「戦犯」などいないわけだ。みんなお国に命を捧げたんだ。菅~鳩山~小沢は、死刑に値する。そこのチンピラ閣僚らもだ。伊勢平次郎 ルイジアナ






Japan apologizes to SKorea for colonial rule

South Korean family members of victims of World War II shout a slogan during a rally demanding full compensation from the Japanese government in front of the Japanese Embassy in Seoul, South Korea, Tuesday, Aug. 10, 2010. Japanese Prime Minister Naoto Kan offered Japan's latest of several apologies to South Korea for Japan's colonial rule decades ago as part of an effort to strengthen ties between the two countries, news reports said Tuesday. (AP Photo/Ahn Young-joon) (Ahn Young-joon - AP) Network NewsX Profile

By JAY ALABASTER
The Associated Press
Tuesday, August 10, 2010; 6:00 AM

TOKYO -- Japan apologized Tuesday to South Korea for its colonial rule over the country, seeking to strengthen ties between the two countries ahead of the 100th anniversary of the Japanese annexation of the Korean peninsula.

During Japan's occupation from 1910-45, many Koreans were forced to fight as front-line soldiers, work in slave-labor conditions or serve as prostitutes in brothels operated by the military. Older Koreans still remember atrocities committed by Japan, and the issue remains sensitive decades later.

"For the enormous damage and suffering caused by this colonization, I would like to express once again our deep remorse and sincerely apologize," Prime Minister Naoto Kan said in a statement approved by the Cabinet.

The statement apologized specifically to South Korea, in contrast to earlier apologies by Japan for wartime actions made broadly to the country's Asian neighbors. Japan has no diplomatic relations with communist North Korea, which had no immediate response to Kan's apology.

Seoul accepted the apology, although President Lee Myung-bak does not plan an official response, said presidential spokesman Cho Hyun-jin.

"We hope that through proper recognition and reflection of the unfortunate history, close bilateral relations can further develop into a partnership for the future," said South Korean Foreign Ministry spokesman Kim Young-sun in a statement.

The Japanese leader also said his country would soon return some Korean cultural artifacts, including historical documents, that it acquired while ruling the region. Kan later spoke to Lee on the phone, and the two leaders agreed to continue to work to stabilize Asia.

Some victims of Japan's rule called Tokyo's apology insufficient, saying it should be backed up by specific measures such as reparations for victims, prosecution of wrongdoers and a record of the Japanese military's history of sexual slavery in Japanese textbooks.


Later Tuesday, about 50 South Korean activists rallied in front of the Japanese Embassy in Seoul, urging Tokyo to offer a more sincere apology and return all Korean cultural artifacts in its possession.

"We no longer welcome apologies of words without action," lead activist Yang Soon-im said.

The apology comes ahead of the 100-year anniversary of Tokyo's annexation of the Korean peninsula on Aug. 29.

Despite their troubled history, Tokyo and Seoul remain closely tied economically and militarily. Both countries host tens of thousands of U.S. troops, and Japan was quick to stand by South Korea after it accused North Korea of sinking one of its warships in March, killing 46 sailors.

"The Asian economy is expanding very rapidly. Through the cooperation of Japan and Korea, plus the U.S., the increased stability of the region can be achieved by these three nations, and this is very meaningful," Kan told reporters after the apology had been issued.

Japan's occupation of Korea ended when it surrendered to the U.S. in 1945 at the end of World War II. The peninsula was later divided into separately-governed regions resulting in a communist North and capitalist South.

Tokyo has a long history of discord with North Korea, which has admitted kidnapping its citizens in the past and conducted long-range rocket tests over its main island.

Japanese leaders have repeatedly apologized in the past for aggression against its Asian neighbors. An apology in 1995 marking the 50th anniversary of the end of World War II has become the government's official stance.

--

Associated Press writers Sangwon Yoon and Hyung-jin Kim in Seoul contributed to this report.


2010/08/09 (Mon) 米国民に嫌われたオバマ
resolute desk

「断固とした決意」という名の机は、1805年に英国が建造したフリゲート艦「HMS RESOLUTE」が廃船となって解体されたときに、ビクトリア女王が、米国大統領であったラザフォード・ヘイズに贈ったものである。腐らないチーク材で出来ている。アメリカの国家遺産(へリテージ)とされ、歴代の大統領が尊重して使ってきたものである。”おい、オバマ、その汚い足をどけろ!”と書かれた。伊勢平次郎 ルイジアナ





resolute brigade

「RESOLUTE・BRIGADE艦」の姉妹船。1800年代の英国の海軍の主要船であった。12門の大砲を搭載していた。船体は、腐らないチーク材で出来ていたと(ウイキぺデイア)。

(記事)ホワイトハウスなどの公共の建物の問題は、その住人が持ち主でないことである。つまり、その住人はその建物や家具や骨董品などを努力して取得したのではない。納税者である米国民がその資産を貸しているのである。その住人は、ハードな労力を払ったという「持ち主のプライド」を持っていないのである。逆さまに、その住人は、貸主を憎んでいるのだ。なぜなら、“ここはあなたのものじゃない”と毎日思い知らされるからだ。だから、その資産の価値などに感謝の気持ちなどないし、骨董品を尊重する必要はないと思っているのである。または、国家の遺産であることにも自覚がないのである。

(解説1)オバマ民主党は11月の中間選挙で大敗すると、W・ポストが書いた。W・ポストは、08年の大統領選で、オバマをま真っ先に推薦した新聞社である。バージニアの民主党議員は若い共和党議員に22ポイントも差をつけられている。逆転できるのは、5ポインとトされるから、もう負けている。民主党が開くタウンミーテイングに支援者は来ない。来るのは、拡声器を持った怒れる市民だけなのだ。

その理由が、「政権交代直後にオバマが行った$8650億ドルの財政出動(STIMULUS)では、われわれ労働者は切り捨てられた」というものだから、大変だ。つまり、中間層が怒ったのである。オバマそのものが米国民に見捨てられたのである。

(解説2)もともと、アメリカ人は開拓者(FRONTIER)の精神を持っている。幌馬車隊が荒野を横切っていく。途中で子供が死ぬ。老母が死ぬ。道端にお墓を作って幌馬車隊はゆるゆると出発する、、このアメリカ人の持つ「死生観」が日本人には理解出来ない。オバマも理解出来ない。その開拓者の強さを見ず、その荒々しさに嫌悪感を抱いているのである。

(解説3)最も日本人やヨーロッパ人が理解出来ないのが米国憲法第二条「銃を持つ権利」である。アメリカの独立は「ミニットマン」というボランテイアの民兵が勝ち取ったものだ。宗主国の大英帝国の支配をライフルで退けたわけである。“なぜ、警察と軍だけが銃を持つのではいけないの?”と訊くと、“合衆国政府といえども、国民を弾圧する可能性があるからだ”と返事が返ってくるのだ。これこそ「断固とした決意」だ。オバマは銃規制論者だ。つまり市民を武装解除する思想を持つ。だが、米国最高裁は、「ワシントン特別区の銃規制は違憲だ」と5対4で可決している。だから、“オバマはアメリカ人ではない”と99%のコメントである。伊勢爺もそう思う。

(速報)南シナ海・米空母がベトナム沖合に 

George washington japan sea 7.2010

米韓合同軍事演習のため、釜山港から韓国東方沖の日本海に向かう米原子力空母ジョージ・ワシントン=7月(聯合=共同)

 【ハノイ共同】AP通信によると、米海軍横須賀基地配備の米原子力空母ジョージ・ワシントンが8日、ベトナム中部ダナン沖合の南シナ海に到着した。南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)、西沙(同パラセル)両諸島の領有権をめぐってベトナムと対立する中国を強く刺激しそうだ。

 また米国は同空母を米韓合同軍事演習の一環として、中国の「玄関先」である黄海に派遣する方針を既に表明しており、中国の反発が一段と高まる可能性もある。

 APによると、同空母の訪問は、米国とベトナムの国交正常化15年祝賀の一環とされる。ベトナム戦争を戦った両国だが、2003年には米軍艦船が戦後初めてベトナムに寄港、両国の軍事協力は活発化している。

 南シナ海での領有権をめぐっては中国とベトナム、フィリピンなどが対立。ベトナムで先月開かれた東南アジア諸国連合(ASEAN)地域フォーラム(ARF)閣僚会議でも討議の焦点となり、クリントン米国務長官は米国の南シナ海への関与を強化する考えを表明した。ベトナムと米国が、中国けん制で一致したとみられている。2010/08/08 16:03 【共同通信】


南シナ海周辺国は軍備を急ぐ

南シナ海の周辺国が海軍力を増強し始めた。ベトナムは、ロシア製のキロ級潜水艦を6艦を注文した。さらに、海戦用、ロシア製のSU-30MKKジェットを1ダース注文した。オーストラリアは、米国製の潜水艦9艦を注文するか自国で建造する。さらにオーストラリアは、f-35戦闘機100機を追加するのだと。マレーシアは、フランス製のデイーゼル潜水艦を2艦1000億円で注文した。インドネシアは、この各国の海軍増強に応じて、やはり潜水艦を購入するのだと。

7月の中旬にハノイで行われた「南東アジア安全保障会議」において、ヒラリー・クリントン国務長官は、“南シナ海は中国のものではない”と断言した。中国を除く残りの11カ国は、米国の後押しを得て、一斉に中国を批判した。中国の外相Yang Jiechiは震えた。利害が一致するベトナムと米国は急接近している。貿易高は、1年間で、2.9ビリオンから15.4ビリオンと増加した。

(解説)日本人は知らないが、米国務省はべトナム政府に米海軍基地の用地租借を要請している。アキノ政権時代に撤退したフィリピンにも米海軍基地の借地を要請している。これらは実現すると見てよい。すると、沖縄の米軍基地はそれほど重要ではなくなるのである。

沖縄県民はバカなのである。反米・親中の小沢一郎~鳩山由紀夫~菅直人ら民主党は、稀代のバカの集まりなのである。一方、保守の老人たちであるが、“思想反米・外交親米”などと言っている暇はない。人類はどんどん進んでいく。日本人は置いてきぼりになる。日本の若者よ、命を賭ける価値を考え給え!伊勢平次郎 ルイジアナ







2010/08/06 (Fri) 人類の失敗


原爆が投下される数分前の広島市。相生橋が照準であった。どうして、トルーマンは民間人の集中する大都市に人類未曾有の原子爆弾を落としたのだろうか?最近、公開された“起きなかった日本本土上陸戦”という米戦争省(WAR・DEPARTMENT)の文書です。英文ですが、あえて和訳しないことにした。また、伊勢爺さんの妻方の前空軍パイロットだった、DAVEとのやり取りを載せました。アメリカ人の胸の中が理解できます。伊勢平次郎 ルイジアナ






Nobi my mentor,

As a history buff you might find this interesting. I received it from a pilot friend of mine who is generally very reliable as to credibility.

I completed my pilots Bi-annual review today so I am legal again. I simply forgot to do it in March when it was due so all of my flying has been illegal for the past few months. But you know what they say, "Illegal is nothing more than a sick bird".

We are still thinking about the last week in September for a trip south so I guess I better be looking for a place to rent a trike in the New Orleans area.

Take care
Dave

                       

Dave,

Thanks for the now unclassified document "Invasion never occurred." it is historically very valuable to understand why Truman decided to drop the two atomic bombs in Kyushu island. Of course 99% of Japanese do not agree with bombing on civilian population but if I think I were in the position of Truman that day,,ummmm. I probably would have done differently even using atomic bombs. American could drop one in Sasebo the Japanese naval base near Nagasaki. Its done and all too late to regret. We must move on. I am grad we all evolved from the tragedy and we must not forget sacrifices from both sides, War is a failure of mankind. No one actually is the winner of wars. I will forward your email to Christine, she is in Hawaii as to your September plan. Nobi Yo Bro



Nobi,

I truly debated whether or not to send it because I was certain it would bring even more sadness to your heart than it did to mine.

I agree with your question about Kyushu versus Sasebo. However, it is impossible even with the benefit of history to know what is in the mind of the decision maker. Certainly he was aware of the Japanese military commitment to fight to the death and perhaps he reasoned that any military target would not be sufficient to quickly end the war. It is possible that he felt that only the threat of additional nuclear bombs on the civilian population would bring about that quick end. For what it is worth, we like to believe that now the American military generally goes to great lengths to mitigate civilian casualties, perhaps as a result of that 1945 decision. Ignoring why and focusing only on when in conflict, from your perspective, how do you think the rest of the world views our current military behavior?

I have just finished another book that I think you would find very interesting, "Germs, Guns & Steal". It deals with why civilization has advanced at different rates throughout the world starting from about 13,000 BC through 1500. Have you read it? Let me know what you think.

Dave


                             ***


The invasion that did not happen

The Invasion of Japan - Not Found in the History Books
For the history buffs: An Invasion Not Found in the History Books by James Martin Davis reprinted from the Omaha World Herald, November 1987

Deep in the recesses of the National Archives in Washington , D.C. , hidden for nearly four decades lie thousands of pages of yellowing and dusty documents stamped “Top Secret”. These documents, now declassified, are the plans for Operation Downfall, the invasion of Japan during World War II. Only a few Americans in 1945 were aware of the elaborate plans that had been prepared for the Allied Invasion of the Japanese home islands. Even fewer today are aware of the defenses the Japanese had prepared to counter the invasion had it been launched. Operation Downfall was finalized during the spring and summer of 1945. It called for two massive military undertakings to be carried out in succession and aimed at the heart of the Japanese Empire.

In the first invasion code named Operation Olympic American combat troops would land on Japan by amphibious assault during the early morning hours of November 1, 1945 50 years ago. Fourteen combat divisions of soldiers and Marines would land on heavily fortified and defended Kyushu , the southernmost of the Japanese home islands, after an unprecedented naval and aerial bombardment. (Note - The 11th and
13th Airborne Divisions based on Okinawa would be used to fill in the gaps of those units destroyed in the amphibious assault. G L Wells)

The second invasion on March 1, 1946 code named Operation Coronet would send at least 22 divisions against 1 million Japanese defenders on the main island of Honshu and the Tokyo Plain. Its goal: the unconditional surrender of Japan . With the exception of a part of the British Pacific Fleet, Operation Downfall was to be a strictly American operation. It called for using the entire Marine Corps, the entire Pacific Navy, elements of the 7th Army Air Force, the 8th Air Force (recently redeployed from Europe ), 10th Air Force and the American Far Eastern Air Force. More than 1.5 million combat soldiers, with 3 million more in support or more than 40% of all servicemen still in uniform in 1945 - would be directly involved in the two amphibious assaults. Casualties were expected to be extremely heavy.

Admiral William Leahy estimated that there would be more than 250,000 Americans killed or wounded on Kyushu alone. General Charles Willoughby, chief of intelligence for General Douglas MacArthur, the Supreme Commander of the Southwest Pacific, estimated American casualties would be one million men by the fall of 1946. Willoughby ’s own intelligence staff considered this to be a conservative estimate.

During the summer of 1945, America had little time to prepare for such an endeavor, but top military leaders were in almost unanimous agreement that an invasion was necessary.

While naval blockade and strategic bombing of Japan was considered to be useful, General MacArthur, for instance, did not believe a blockade would bring about an unconditional surrender. The advocates for invasion agreed that while a naval blockade chokes, it does not kill; and though strategic bombing might destroy cities, it leaves whole armies intact.

So on May 25, 1945, the Joint Chiefs of Staff, after extensive deliberation, issued to General MacArthur, Admiral Chester Nimitz, and Army Air Force General Henry Arnold, the top secret directive to proceed with the invasion of Kyushu . The target date was after the typhoon season.

President Truman approved the plans for the invasions July 24, 1945. Two days later, the United Nations issued the Potsdam Proclamation, which called upon Japan to surrender unconditionally or face total destruction. Three days later, the Japanese governmental news agency broadcast to the world that Japan would ignore the proclamation and would refuse to surrender. During this same period it was learned via monitoring Japanese radio broadcasts that Japan had closed all schools and mobilized its school children, was arming its civilian population and was fortifying caves and building underground defenses.

Operation Olympic called for a four pronged assault on Kyushu . Its purpose was to seize and control the southern one-third of that island and establish naval and air bases, to tighten the naval blockade of the home islands, to destroy units of the main Japanese army and to support the later invasion of the Tokyo Plain.

The preliminary invasion would begin October 27, 1945 when the 40th Infantry Division would land on a series of small islands west and southwest of Kyushu . At the same time, the 158th Regimental Combat Team would invade and occupy a small island 28 miles south of Kyushu . On these islands, seaplane bases would be established and radar would be set up to provide advance air warning for the invasion fleet, to serve as fighter direction centers for the carrier-based aircraft and to provide an emergency anchorage for the invasion fleet, should things not go well on the day of the invasion. As the invasion grew imminent, the massive firepower of the Navy the Third and Fifth Fleets would approach Japan . The Third Fleet, under Admiral William “Bull” Halsey, with its big guns and naval aircraft, would provide strategic support for the operation against Honshu and Hokkaido . Halsey’s fleet would be composed of battleships, heavy cruisers, destroyers, dozens of support ships and three fast carrier task groups. From these carriers, hundreds of Navy fighters, dive bombers and torpedo planes would hit targets all over the island of Honshu . The 3,000 ship Fifth Fleet, under Admiral Raymond Spruance, would carry the invasion troops.

Several days before the invasion, the battleships, heavy cruisers and destroyers would pour thousands of tons of high explosives into the target areas. They would not cease the bombardment until after the land forces had been launched. During the early morning hours of November 1,
1945 the invasion would begin. Thousands of soldiers and Marines would pour ashore on beaches all along the eastern, southeastern, southern and western coasts of Kyushu . Waves of Helldivers, Dauntless dive bombers, Avengers, Corsairs, and Hellcats from 66 aircraft carriers would bomb, rocket and strafe enemy defenses, gun emplacements and troop concentrations along the beaches.

The Eastern Assault Force consisting of the 25th, 33rd and 41st Infantry Divisions would land near Miyaski, at beaches called Austin, Buick, Cadillac, Chevrolet, Chrysler, and Ford, and move inland to attempt to capture the city and its nearby airfield. The Southern Assault Force, consisting of the 1st Cavalry Division, the 43rd Division and Americal Division would land inside Ariake Bay at beaches labeled DeSoto, Dusenberg, Essex, Ford, and Franklin and attempt to capture Shibushi and the city of Kanoya and its airfield.

On the western shore of Kyushu , at beaches Pontiac , Reo, Rolls Royce, Saxon, Star, Studebaker, Stutz, Winston and Zephyr, the V Amphibious Corps would land the 2nd, 3rd and 5th Marine Divisions, sending half of its force inland to Sendai and the other half to the port city of Kagoshima .

On November 4, 1945 the Reserve Force, consisting of the 81st and 98th Infantry Divisions and the 11th Airborne Division, after feigning an attack of the island of Shikoku, would be landed if not needed elsewhere near Kaimondake, near the southernmost tip of Kagoshima Bay, at the beaches designated Locomobile, Lincoln, LaSalle, Hupmobile, Moon, Mercedes, Maxwell, Overland, Oldsmobile, Packard and Plymouth.

Olympic was not just a plan for invasion, but for conquest and occupation as well. It was expected to take four months to achieve its objective, with the three fresh American divisions per month to be landed in support of that operation if needed.

If all went well with Olympic, Coronet would be launched March 1, 1946. Coronet would be twice the size of Olympic, with as many as 28 divisions landing on Honshu .

All along the coast east of Tokyo , the American 1st Army would land the 5th, 7th, 27th, 44th, 86th, and 96th Infantry Divisions along with the 4th and 6th Marine Divisions.

At Sagami Bay , just south of Tokyo , the entire 8th and 10th Armies would strike north and east to clear the long western shore of Tokyo Bay and attempt to go as far as Yokohama . The assault troops landing south of Tokyo would be the 4th, 6th, 8th, 24th, 31st, 37th, 38th and 8th Infantry Divisions, along with the 13th and 20th Armored Divisions.

Following the initial assault, eight more divisions the 2nd, 28th, 35th, 91st, 95th, 97th and 104th Infantry Divisions and the 11th Airborne Division would be landed. If additional troops were needed, as expected, other divisions redeployed from Europe and undergoing training in the United States would be shipped to Japan in what was hoped to be the final push.

Captured Japanese documents and post war interrogations of Japanese military leaders disclose that information concerning the number of Japanese planes available for the defense of the home islands was dangerously in error.

During the sea battle at Okinawa alone, Japanese kamikaze aircraft sank
32 Allied ships and damaged more than 400 others. But during the summer of 1945, American top brass concluded that the Japanese had spent their air force since American bombers and fighters daily flew unmolested over Japan .

What the military leaders did not know was that by the end of July the Japanese had been saving all aircraft, fuel, and pilots in reserve, and had been feverishly building new planes for the decisive battle for their homeland.

As part of Ketsu-Go, the name for the plan to defend Japan the Japanese were building 20 suicide takeoff strips in southern Kyushu with underground hangars. They also had 35 camouflaged airfields and nine seaplane bases. On the night before the expected invasion, 50 Japanese seaplane bombers, 100 former carrier aircraft and 50 land based army planes were to be launched in a suicide attack on the fleet.

The Japanese had 58 more airfields in Korea , western Honshu and Shikoku , which also were to be used for massive suicide attacks. Allied intelligence had established that the Japanese had no more than 2,500 aircraft of which they guessed 300 would be deployed in suicide attacks.

In August 1945, however, unknown to Allied intelligence, the Japanese still had 5,651 army and 7,074 navy aircraft, for a total of 12,725 planes of all types. Every village had some type of aircraft manufacturing activity. Hidden in mines, railway tunnels, under viaducts and in basements of department stores, work was being done to construct new planes.

Additionally, the Japanese were building newer and more effective models of the Okka, a rocket-propelled bomb much like the German V-1, but flown by a suicide pilot. When the invasion became imminent, Ketsu-Go called for a fourfold aerial plan of attack to destroy up to 800 Allied ships.

While Allied ships were approaching Japan , but still in the open seas, an initial force of 2,000 army and navy fighters were to fight to the death to control the skies over Kyushu . A second force of 330 navy combat pilots was to attack the main body of the task force to keep it from using its fire support and air cover to protect the troop carrying transports. While these two forces were engaged, a third force of 825 suicide planes was to hit the American transports.
As the invasion convoys approached their anchorages, another 2,000 suicide planes were to be launched in waves of 200 to 300, to be used in hour by hour attacks.

By mid-morning of the first day of the invasion, most of the American land-based aircraft would be forced to return to their bases, leaving the defense against the suicide planes to the carrier pilots and the shipboard gunners.

Carrier pilots crippled by fatigue would have to land time and time again to rearm and refuel. Guns would malfunction from the heat of continuous firing and ammunition would become scarce. Gun crews would be exhausted by nightfall, but still the waves of kamikaze would continue. With the fleet hovering off the beaches, all remaining Japanese aircraft would be committed to nonstop suicide attacks, which the Japanese hoped could be sustained for 10 days. The Japanese planned to coordinate their air strikes with attacks from the 40 remaining submarines from the Imperial Navy some armed with Long Lance torpedoes with a range of 20 miles when the invasion fleet was 180 miles off Kyushu .

The Imperial Navy had 23 destroyers and two cruisers which were operational. These ships were to be used to counterattack the American invasion. A number of the destroyers were to be beached at the last minute to be used as anti-invasion gun platforms.

Once offshore, the invasion fleet would be forced to defend not only against the attacks from the air, but would also be confronted with suicide attacks from sea. Japan had established a suicide naval attack unit of midget submarines, human torpedoes and exploding motorboats.

The goal of the Japanese was to shatter the invasion before the landing. The Japanese were convinced the Americans would back off or become so demoralized that they would then accept a less-than-unconditional surrender and a more honorable and face-saving end for the Japanese.

But as horrible as the battle of Japan would be off the beaches, it would be on Japanese soil that the American forces would face the most rugged and fanatical defense encountered during the war.

Throughout the island-hopping Pacific campaign, Allied troops had always out numbered the Japanese by 2 to 1 and sometimes 3 to 1. In Japan it would be different. By virtue of a combination of cunning, guesswork, and brilliant military reasoning, a number of Japan ’s top military leaders were able to deduce, not only when, but where, the United States would land its first invasion forces.

Facing the 14 American divisions landing at Kyushu would be 14 Japanese divisions, 7 independent mixed brigades, 3 tank brigades and thousands of naval troops. On Kyushu the odds would be 3 to 2 in favor of the Japanese, with 790,000 enemy defenders against 550,000 Americans. This time the bulk of the Japanese defenders would not be the poorly trained and ill-equipped labor battalions that the Americans had faced in the earlier campaigns.

The Japanese defenders would be the hard core of the home army. These troops were well-fed and well equipped. They were familiar with the terrain, had stockpiles of arms and ammunition, and had developed an effective system of transportation and supply almost invisible from the air. Many of these Japanese troops were the elite of the army, and they were swollen with a fanatical fighting spirit.

Japan ’s network of beach defenses consisted of offshore mines, thousands of suicide scuba divers attacking landing craft, and mines planted on the beaches. Coming ashore, the American Eastern amphibious assault forces at Miyazaki would face three Japanese divisions, and two others poised for counterattack. Awaiting the Southeastern attack force at Ariake Bay was an entire division and at least one mixed infantry brigade.

On the western shores of Kyushu , the Marines would face the most brutal opposition. Along the invasion beaches would be the three Japanese divisions, a tank brigade, a mixed infantry brigade and an artillery command.

Components of two divisions would also be poised to launch counterattacks.
If not needed to reinforce the primary landing beaches, the American Reserve Force would be landed at the base of Kagoshima Bay November 4,

1945, where they would be confronted by two mixed infantry brigades, parts of two infantry divisions and thousands of naval troops.

All along the invasion beaches, American troops would face coastal batteries, anti-landing obstacles and a network of heavily fortified pillboxes, bunkers, and underground fortresses. As Americans waded ashore, they would face intense artillery and mortar fire as they worked their way through concrete rubble and barbed-wire entanglements arranged to funnel them into the muzzles of these Japanese guns.

On the beaches and beyond would be hundreds of Japanese machine gun positions, beach mines, booby traps, trip-wire mines and sniper units. Suicide units concealed in “spider holes” would engage the troops as they passed nearby. In the heat of battle, Japanese infiltration units would be sent to reap havoc in the American lines by cutting phone and communication lines. Some of the Japanese troops would be in American uniform; English-speaking Japanese officers were assigned to break in on American radio traffic to call off artillery fire, to order retreats and to further confuse troops. Other infiltration with demolition charges strapped on their chests or backs would attempt to blow up American tanks, artillery pieces and ammunition stores as they were unloaded ashore.

Beyond the beaches were large artillery pieces situated to bring down a curtain of fire on the beach. Some of these large guns were mounted on railroad tracks running in and out of caves protected by concrete and steel.

The battle for Japan would be won by what Simon Bolivar Buckner, a lieutenant general in the Confederate army during the Civil War, had called “Prairie Dog Warfare.” This type of fighting was almost unknown to the ground troops in Europe and the Mediterranean . It was peculiar only to the soldiers and Marines who fought the Japanese on islands all over the Pacific at Tarawa, Saipan, Iwo Jima and Okinawa .

Prairie Dog Warfare was a battle for yards, feet and sometimes inches. It was brutal, deadly and dangerous form of combat aimed at an underground, heavily fortified, non-retreating enemy.
In the mountains behind the Japanese beaches were underground networks of caves, bunkers, command posts and hospitals connected by miles of tunnels with dozens of entrances and exits. Some of these complexes could hold up to 1,000 troops. In addition to the use of poison gas and
Bacteriological warfare (which the Japanese had experimented with), Japan mobilized its citizenry.

Had Olympic come about, the Japanese civilian population, inflamed by a national slogan “One Hundred Million Will Die for the Emperor and Nation” were prepared to fight to the death. Twenty Eight Million Japanese had become a part of the National Volunteer Combat Force. They were armed with ancient rifles, lunge mines, satchel charges, Molotov cocktails and one-shot black powder mortars. Others were armed with swords, long bows, axes and bamboo spears. The civilian units were to be used in nighttime attacks, hit and run maneuvers, delaying actions and massive suicide charges at the weaker American positions.

At the early stage of the invasion, 1,000 Japanese and American soldiers would be dying every hour. The invasion of Japan never became a reality because on August 6, 1945, an atomic bomb was exploded over Hiroshima . Three days later, a second bomb was dropped on Nagasaki . Within days the war with Japan was at a close.

Had these bombs not been dropped and had the invasion been launched as scheduled, combat casualties in Japan would have been at a minimum of the tens of thousands. Every foot of Japanese soil would have been paid for by Japanese and American lives. One can only guess at how many civilians would have committed suicide in their homes or in futile mass military attacks.

In retrospect, the 1 million American men who were to be the casualties of the invasion were instead lucky enough to survive the war. Intelligence studies and military estimates made 50 years ago, and not latter-day speculation, clearly indicate that the battle for Japan might well have resulted in the biggest blood-bath in the history of modern warfare.

Far worse would be what might have happened to Japan as a nation and as a culture. When the invasion came, it would have come after several months of fire bombing all of the remaining Japanese cities. The cost in human life that resulted from the two atomic blasts would be small in comparison to the total number of Japanese lives that would have been lost by this aerial devastation.

With American forces locked in combat in the south of Japan , little could have prevented the Soviet Union from marching into the northern half of the Japanese home islands. Japan today could be divided much like Korea and Germany .

The world was spared the cost of Operation Downfall, however, because Japan formally surrendered to the United Nations September 2, 1945, and World War II was over. The aircraft carriers, cruisers and transport ships scheduled to carry the invasion troops to Japan , ferried home American troops in a gigantic operation called Magic Carpet.

In the fall of 1945, in the aftermath of the war, few people concerned themselves with the invasion plans. Following the surrender, the classified documents, maps, diagrams and appendices for Operation Downfall were packed away in boxes and eventually stored at the National Archives. These plans that called for the invasion of Japan paint a vivid description of what might have been one of the most horrible campaigns in the history of man. The fact that the story of the invasion of Japan is locked up in the National Archives and is not told in our history books is something for which all Americans can be thankful.



(つけたし)デーブの愛妻アンナとわが妻は従姉妹である。デーブは、NYの国立美術館の窓を設計製作した会社の社長さんだった。娘の二コールは北欧系の美人。9月にルイジアナのわが家にやってくる。小型飛行機を借りて、ルイジアナの国立公園であるバユー沼沢地の上を飛ぶプランだと。コロラド北部のフォート・コリンズに住むデーブさん夫妻は自家用機を2機も持っている。伊勢平次郎


恵隆之助先生からお見舞いのメールがきた、、

恵先生

命を落とすところだった。というのが、日本から帰ってから、かかりつけの医者2度~内科医2度の検診で投薬や診断が間違っていたのです。彼らはいい人なんですが、“皮膚科へ行くように”といい、その皮膚科は一ヶ月も待たされると判ったのです。そこで、ウチのが、救急へ行こうと言い出して、それが正しかった。二人のバクテリア専門医は、血液分析など待っておれないと診断して、そのまま入院となりました。部屋は妻も泊まれる個室だったので快適だった。看護婦さんらは、これ以上の誠実はないと思われる看護をしてくださった。恵先生が執筆中の「ナイチンゲールの精神をアメリカ人の看護婦さんらは持っている」と確信しました。退院するとき、家内が薔薇を2ダース買ってきて、お世話になった人々に配った。みなさんは心から喜んだ。人間は感謝されることほど幸せなことはないのですね。アメリカ人と日本人はこうならなければいけないと思いました。先の大戦の最大の惨事が広島長崎原爆投下です。だが、その耐え難きを克服するときがきています。そういった本を書いてきた。キンドルで出します。おざき生 ルイジアナ

2010/08/01 (Sun) バクテリアの恐怖
St tammany  7.30.10 004

ウチのが地中海のキプロス島から飛んで帰ってきた。翌日の朝、セイント・タマニー病院のER(急患)に行った。赤蟻に噛まれた足の甲の傷が割けたのである。梅雨期の沖縄でひどくなったのだ。ドクターイザベラは、“You need to be hospitalized for two nights"と宣言した。伊勢平次郎 ルイジアナ





CELLULITIS

cellulitis 7.30.10

Cellulitis(セルリュテイス)という病名である。二種類の悪性バクテリアが炎症を起こすのだと。虫に噛まれたり犬の爪に傷がついた足が原因だと。傷だが、始めは五円玉のサイズだった。バクテリアは、庭、ロッカールーム、、どこにでもいるんだと。伊勢爺のケースでは、1ヶ月で、ばい菌は上腕部に移り痛みを感じるようになった。

治療が始まった。液体の抗生物資と抗体再生物資を点滴装置を通して血液中に流し込む~48時間殺菌する~体内の毒性化学物質を清掃するわけだ。“バクテリアアをみな殺しにするんだよ”と、レバノン人の化膿病専門医のビダー医師は笑った。

24時間後の土曜日の朝、目が覚めると、両上腕部の赤い斑点も痒みも消えていた。ジュクジュクしていた足の傷は乾いていた。抗生物質が効いたことが一目でわかった。近代医学ってさ、有難いことだわな。

St tammany  7.30.10 007

病室には看護婦さんたちの名前や、キッチンの電話番号が書いてある。コーヒーも持ってきてくれる。

St tammany  7.30.10 006

窓際には、ベッドになる長椅子がある。ウチのはそこに寝た。2ヶ月近くも患った「セルリュテイス」が、入院二晩で退治されるとは、、明日の、日曜日の朝に家に帰れる。ああ!うれしい、うれしい。

(解説)菅内閣~民主党~民社党は、日本を蝕んでいる悪性バクテリアである。だが、精神異常者には、抗生物質は効かないのだ。伊勢平次郎

プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する