2011/11/28 (Mon) 返り咲く、プーチン大統領


12月4日、ロシア議会は、ウラジミール・プーチンを、3月に行われる次期大統領候補に指名する。他にだれもいないのだから、プーチンは大統領になる。メドベーデフは4年間で終わるが、2012年より大統領の任期は6年になる。自動延長もあるので、プーチンは12年間、ロシア大統領として君臨する。2000~2008年の8年間と足すと、何と20年間もの期間大統領となるのだ。伊勢爺は、大阪市長選よりも、日米~日露の関係に大きな関心がある。伊勢平次郎 ルイジアナ






プーチンの演説

Putin promised his countrymen that by maintaining a steady course they would build “a strong, rich and prosperous Russia.” Offering something for everyone, he pledged to make it easier to do business, to improve the educational system and health care, to raise taxes on the rich and to bolster the military.

“In the next five to 10 years we must take our armed forces to a qualitatively new level. Of course, this will require big spending .... but we must do this if we want to defend the dignity of our country,” he said.

Putin also said he would pursue his project of forming a Eurasian Union to boost integration between Russia and its neighbors, restoring some of the links that were destroyed when the Soviet Union collapsed 20 years ago. (W・ポスト)


russia map

1)面積  日本の45倍、米国の2倍近く。

2)人口  1億4291人(2011年4月)

3)GDP   1、465兆ドル(世界10番目) 

4)国民一人当たりの年収 10,356ドル  

(以上、ウイキとジェトロから)



バカでかい軍事力



2008年、モスクワの軍事パレードだ。「トポフ」という大陸間弾道弾。勿論、核弾頭さ。こんなものを国後島にでも設置されたら、日本はどうするの?

ロシア連邦軍

 1)総兵力 約104.6万人~準軍隊(国境警備隊、内務省軍等) 約44.9万人

 2) ICBM(大陸間弾道ミサイル)376基、SSBM(戦略原潜)14隻、戦略爆撃機79機

(ア)地上軍(約39.5万人)
(イ)海軍(約16.1万人):主要水上艦艇32隻、潜水艦59隻(戦略原潜を含む)、作戦機276機
(ウ)空軍(約16万人):作戦機1,604機(戦略爆撃機を含む)

極東ロシア軍の兵力

(ア)地上軍:4個司令部を配置(西部、中部、南部軍管区には2個司令部のみ)
(イ)海軍:潜水艦23隻(戦略原潜5隻を含む)、主要水上艦艇8隻、作戦機約80機及び海軍歩兵
(ウ)空軍:4個司令部を配置(西部3個、中部2個、南部1個司令部)、作戦機700機以上

ロシア大統領の権限

フランスの半大統領制をモデルとしており、非常に大きな権限を有している。

1)首相及び内閣と政府要職の指名・任免権(但し首相は下院の承認が必要)
2)国家会議(下院)の解散権(但し下院での内閣不信任が必要)
3)大統領令の発布
4)議会で可決された法案の拒否権
5)軍の指揮権
6)戒厳令・非常事態宣言の発令
7)国民投票の実施権


(伊勢爺のつぶやき)

あ~あ、日本のGDPは461兆円にまで下がったよ

japan gDP

マスコミも報道しないのだが、つい最近まで500兆円を超えていると思っていた日本のGDPは、遂に461兆円まで下がってしまった(内閣府)。鳩山~管~野田、、野田は普通だが、わが国の経済をどう運転する気なのか?このチャートを見ても、何も感じないのかな?

日本経済の7割が消費者の力に依存するわけだ。ならば、巨大な「10日市」を全国で展開すべし。国家が市を開く~10日毎に、各都市で開く。信長は、「市場」を活性化した。そうすれば、ボリュームが上がるので、消費税はそのままでいいんだ。伊勢





2011/11/26 (Sat) ホルムズ海峡に機雷を敷くぞ!
iran map

中東の地勢をよく見てください。イランとサウジアラビアが対峙していることが判る。ご存知のように、サウジアラビアは、世界第一の産油国である。前に書いたように、イランは、石油の埋蔵量で世界第二なのだ。オイルタンカーは、このペルシア湾を通る。ヨーロッパは、15%~USは、20%~日本は、何と90%をサウジアラビア~クエート~イランから買っている。その上、日本まで、1万2000キロメートルの海上を20日かけて運んでいる。伊勢平次郎 ルイジアナ






今、中東で何が起きているのか?

今朝の、W・ポストの記事で、“中東の石油が危ない”と書いている。理由1)サウジアラビアで、自治権を求めるシーアイ派が4人警察に殺された~2)エジプトに内乱が拡がってきた~3)シリアとアラブ連合に紛争が起きている。

だが、最も中東を不安定にしているのが、「イランの核兵器疑惑」だ。2012年11月、米大統領選が行われる。共和党大統領候補指名争いは、ミット・ロムニー、前マサチューセッツ知事・VS・ニュートッギングリッチ、前下院議長である。ギングリッチは、“自分が大統領になったら、イランの体制を1年以内に転覆させて見せる”と言った。ロムニーは、「経済制裁と対話」を選んでいる。

共和党保守系のフォックス・ニューズ・テレビ局の出演者は、“イランを爆撃しろ”“テヘランに核爆弾をぶち込め”と、対イラン戦争を、ほのめかしている。キリスト教テレビ放送の先鋭トリニテイ・ブロード・キャステイングは、“イスラム教徒を殺す権利がわれわれにはある~なぜなら、イスラムの導師たちは、キリスト教徒を殺せと教えているからだ”と深夜の番組で流している。こういう過激なテレビ局が、なぜゆるされるのだろうと不思議でしょうがない。これも、米国憲法で保障されている「報道の自由」「信仰の自由」だろうか?



ところが、テヘランは、“アメリカや、イスラエルがイランを爆撃したら、ホルムズ海峡を機雷と魚雷で封鎖する”と示唆している。困ったことには、イランの海岸線は長い上に、アメリカの宿敵パキスタンが隣接している。イランは、ミサイルにも成功している。人工衛星も打ち上げている。ホルムズ海峡は対岸が見えるほど狭い海峡だ。もし、アメリカが爆撃に踏み切れば、イランはこの海峡を封鎖する。それで、全人類は世界大恐慌に入る。こんな戦争をすれば、人類は石器時代に戻るわな(笑い)。

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機雷の心理的効果は甚大である。機雷敷設の疑いがあるだけで、民間船舶の運航に影響を与えるので経済的打撃が大きい。また、敷設する機雷のすべてが高価で作動が確実である必要はない。粗雑な機雷が混在していようと掃海作業は容易でない。機雷の脅威は掃海作業が終わるまで継続するので、ダミー機雷を含む各種機雷の混用は、大きな時間的・経済的打撃をもたらす。全く、手に負えない兵器が機雷なのだ。



米海軍機雷除去部隊が繋留型(碇で固定)機雷を爆破する作業。イラン・イラク戦争時(レーガン政権)に、米海軍がクエート沖に敷設したものじゃないかな?伊勢



ロシア語かな?クリミア半島だろう。伊勢

2011/11/26 (Sat) はあ?セックスに興味ないんですか?
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男がファッションに魅(ひ)かれる? 国を憂いて、自決した三島由紀夫氏にも、ファッションを好む傾向があった。う~む! 伊勢平次郎 ルイジアナ






未婚男性の6割「恋人いない」…女性も5割

 18~34歳の未婚者のうち、「交際中の異性がいない」とする男性が約6割、女性が約5割にのぼり、1987年の調査以来、最高となったことが25日、国立社会保障・人口問題研究所の調査でわかった。

 調査はほぼ5年ごとに行われ、今回は昨年6月に実施。回答者の中から18~34歳の男女計7073人分をまとめた。

 結果によると、「交際相手がいない」と回答した男性は2005年の前回調査比で9・2ポイント増の61・4%、女性は同4・8ポイント増の49・5%。「交際相手がいないし、交際も望んでいない」と答えた男性は27・6%、女性も22・6%いた。

(2011年11月26日01時33分 読売新聞)


日本男児よ、ホモになってはいけない!

現代の日本の男はダラシがない。女性に興味がないんだとよ?それでは、おい、何に興味があるんだ?伊勢爺は古い人間かも知れないが、“女性なくして、人生はない”と思っている。カネなどいくらあっても、愛人もいない生きざまは、ダメだ。大体ね、不潔だよ。フケツ。

男にとって、服装は大事だ。服装によって性格が変わるからだ。あんた、女装してみなよ。段々、ヘンな気分になるよ。“男に抱かれてみたい”とかな(笑い)。


日本男児を日本男児にする方法

“信長は小姓の森蘭丸と寝た”という説があるが、真実かどうかは不明だ。なぜなら、信長は濃姫を愛していたからだ。美男の信長に心を傾ける女性は多かったはずだ。だが、信長は妾(めかけ)を作らなかった。

信長は、男の中の男だ。日本を統一するために、20万人~30万人を殺したと語られている。この非情な性格ばかりが語られるが、信長の特徴は、父親の信秀譲りの「商才」であった。信長は、雑兵(兵でも、百姓でもない)に、戦(いくさ)のない期間には、新田を耕させた。そして、その収穫を分けて与えた。雑兵たちは、“嫁が欲しい”と言い出した。鷹揚な性格の信長は、雑兵たちに開墾地を与えて~嫁を取らせた。これが、「農兵(のうへい)」の始まりだ。信長は、農地解放をやってみせたわけだ。これにより、尾張~美濃一帯に豊沃な田畑が生まれた。ほかにも、信長は、関所を廃止したり~街道を拓いている。信長が本能寺で討ち死んだ1583年には、日本の人口は、1000万人増えて、4000万人になっていたという。つまり、信長は、30万人は殺したが、1000万人の人口を生んだわけだ。それでは、この人口はどうして増えたか?男女が行うセックスだよ。セックス。

現代の日本の青年男女は、性欲がないのだろうか?この原因だが、「運動不足とパソコン人生」じゃないかな?運動を知的活動の上に持ってこなければ、食欲は沸かず~インスタント食品で済まし~その上、夜更かしするから、性欲は沸かない。あんた、もしかするとバカじゃない?

こうなれば、国家は滅亡する。国民皆兵を国家政策にして~赤紙で徴兵して~朝から晩まで走らせて~性欲の沸くメシを鱈腹食わすしかない(笑い)。やはり、信長は正しかったのだ。伊勢

2011/11/24 (Thu) とんでもない法務大臣
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平岡秀夫(57)・第88代、法務大臣 2011年9月2日、野田内閣で法務大臣に就任した(初入閣)。


法務大臣の権限

1)国を当事者又は参加人とする訴訟については、法務大臣が、国を代表する。(国の利害に関係のある訴訟についての法務大臣の権限等に関する法律(昭和22年法律第194号)第1条)

2)外国人の在留許可~永住許可~帰化

3)死刑執行命令を発する権限と義務

刑事訴訟法によれば、死刑執行の命令は判決が確定してから6か月以内に行わなければならない。だが、再審請求などの期間はこれに含まれない。また、大臣によって決裁の頻度は異なり、賀屋興宣、左藤恵、杉浦正健等、在任中に発令の署名をしなかった大臣もいる。

「判決確定から6ヶ月という規定」は、日本国憲法制定後に、"今までのように死刑執行まで時間がかかりすぎるのは、死刑執行を待つ恐怖が長く続くことになって残酷であり、新憲法の趣旨にも反する”という理由で作られたもの。「犯罪者に対する厳正な処罰のために、6ヶ月で執行しなければならない」とする解釈は、本来の趣旨ではない。判決確定から6ヶ月以内に執行されない事例がほとんどであり、実効性のない規定になっている。

4)個々の事件の取調べ又は処分について検事総長に対する指揮権。ただし、発動されることは極めて稀である。






平岡法務大臣の経歴

東京大学卒業後、大蔵省に入省し、東海財務局や東京国税局の部長を経て、国税庁の課長などを歴任した。また、在インド大使館の一等書記官や、内閣法制局の参事官などを務めた。退官後は、弁護士として活動する。第42回衆議院議員総選挙にて当選後、民主党左派の中堅・若手議員による政策グループ「リベラルの会」の代表世話人を務め、民主党代表選挙でも影響力を発揮している[1][2]。なお、自身は菅直人のグループにも所属しているため菅を支持している。菅内閣で内閣府副大臣、および、国家戦略室長を務め、菅第1次改造内閣、菅第2次改造内閣で総務副大臣、野田内閣で法務大臣に就任した。

政策・主張

東京大学法学部在学中に司法試験に合格しており、内閣法制局での勤務経験を持つなど、司法行政に明るい。刑事事件の捜査について「取り調べの可視化」の推進を主張している。また死刑執行については、人の命を奪う重大刑ゆえ慎重であるべきというスタンスである。

外交・安全保障

日本の外交は”どの国も敵国視しない”という平和主義を掲げ、国連を主導とした集団安全保障に頼るべきで、国際問題の解決はできる限り平和的手段で解決していくべきとしている。

2006年11月15日、朝鮮大学校創立50周年記念祝賀宴に参加。

2007年10月3日、緊急集会「東北アジアの平和と日朝国交正常化―制裁をやめ対話と人道支援へ」(主催=緊急集会実行委員会、呼びかけ=東北アジアに非核、平和の確立を!

日朝国交正常化を求める連絡会)に社民党所属の国会議員らとともに参加。その後、2008年に、北朝鮮との対話路線外交を推進する朝鮮半島問題研究会を立ち上げた。

2009年6月19日、ソマリア沖の海賊から日本の船舶を保護するために自衛隊が海上警備行動を行うことや、ODAを活用してソマリア情勢の安定を目指す海賊対処法案について、衆院本会議で「自衛隊の海外派遣は認められない」とする反対答弁を行った。また、「海賊のいない平和な海をもたらす努力を自公政権にはうかがえないとして、速やかに解散・総選挙を行うべきだとした。

外国人献金問題

2011年9月6日の会見で平岡は、日本の政治家に対する外国人献金問題について“ほかの先進国と比べて、日本はかなり厳しい~金を受けてしまうことで、影響を受けてしまうのかが問題。そういう懸念をどこまで制度化していくかが問題の基本ではないか”と述べた。

パチンコ換金問題

パチンコ換金合法化を訴えている。

少年法について

2007年6月29日に放送されたテレビ番組[太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中](日本テレビ)に民主党ネクスト法務大臣として出演した際、番組内で行われた少年法問題での討論のなかで、“加害者の人に死の恐怖を味わわせるという気持ちで○○さん(被害者の母)が本当に幸せというか納得できるとは思えない~むしろ悪いことをした子供たちはそれなりの事情があってそういうことになったと思う”と発言した。この発言は2ちゃんねるや「Yahoo! みんなの政治」など、ネット上で物議を醸し、平岡への批判(感情的なものも含む)が相次いだ。そのため2007年7月2日に自身のホームページで、少年法についての自身の基本的な考え方を説明したうえで、発言は被害者遺族に対し配慮を欠いた質問であった、「太田光総理の番組は、バラエティー番組だから」という私の気の緩みがあった等として、釈明と謝罪をした。

(ウイキぺデイアから抜粋した)


asahara kuuchuu huyu

麻原彰晃こと、松本智津夫の魔術だそうだ。有名大学の構内に行き、「空中浮遊」と講義をして、学生を集めた。しかし、松本が空中に浮き上がるのを誰も見たことがない。こんな荒唐無稽なインチキに学生たちは引っ掛かったのだ。未熟だからだ。“死刑囚たちは被害者家族に謝罪もなく~何も語らない”とだが、実は、自分たちのやったことや~松本に騙されたことが、あまりにもバカバカしいことを認識したからだ。“語るに値せず”とだ。

asahara 2

16年6ヶ月の年月が費やされた「オーム裁判」が、今月11月21日に終了した。13人の死刑が確定した。さあ、平岡秀夫法務大臣は、いつ死刑執行に署名するのだろうか?平岡秀夫法務大臣の表情からは、13人の死刑囚を絞首刑にする決意が見られない。この男に、カリズマを説いても無駄であろう。

12歳の織田信長は、主人筋に当たる清洲城下に焼き討ちをかけて~父の信秀を驚かした。20歳のとき、謀反を企てた弟信行を殺した。それから、本能寺に火を放ち、自刃する49歳の年までの29年間に、約20万人を殺している。自ら、首を刎ねたことも多い。殺されたものの中には、比叡山、高野山、石山本願寺の仏僧がいる。伊勢長島の一向宗徒2万人は、手を上げて降参したが、ミナコロシにされている。信長の特性は、「非情」である。しかし、天下を統一するという意思があった。「敵を殺す」ことは、戦国武将の避けては通れない道だったのである。


(伊勢爺のつぶやき)

この平岡秀夫という男は57歳だ。幼い表情をした男だ。人間が未成熟ということだ。持って生まれた性格というのは、学歴や、職歴で変わらないものだ。法務大臣に任命されても、変わらないのだ。

法務大臣は、首相(主人)に逆らわない者が選ばれるんだと。すると、野田泥鰌首相も、平岡と同じように死刑反対論者ということになるね。伊勢

2011/11/23 (Wed) カリズマについて、織田信長(その1)


系譜を見ると、織田信長の持っていたカリズマは、日本一であることが判る。“カリズマとは何なのか?”考えてみたい。なぜなら、現代の日本の指導者には、カリズマが皆無に見えるからである。政界だけのことではない。経済界~宗教界~教育界、、それらの斯界にもカリズマの高い指導者は見当たらない。世界を見渡しても、見当たらない。全てを議論と採決で決める議会制民主主義の下では、指導者にカリズマは必要ないのだろうか?民主主義と自由経済の理念は、個人や企業の選択肢を拡大した。数々の技術革命と市場のグローバリゼーションを生んだ。そうして、高度な経済を造った。だが、現在、アメリカと欧州の二大経済圏の金融システムに崩壊の兆しが見える。第一次世界大戦以来、過去100年間、アメリカが指導してきた文明が終わったのかも知れない。人類の秩序は混沌としてきた。伊勢平次郎 ルイジアナ






信長の生きざま

織田信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の1人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。室町幕府を滅ぼし、1)織田政権を確立~2)豊臣秀吉による豊臣政権~3)徳川家康が開いた江戸幕府へと続く戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物~強力な中央政権の基礎を築いた人物である。

少年期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、那古野城で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。

奇妙な行動

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子(12歳ぐらい)であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

斉藤道三との出会い

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。15歳であった。

天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長(15歳)の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。

家督を継ぐ

天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ(17歳)。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一

当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰えていた。そのため、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかった。にも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して、信長と敵対した。信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。

斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する(信長20歳)。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。

美濃国を譲られる

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦した。道三敗死の知らせにより退却した。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長(22歳)に渡された。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)~林通具~柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には、森可成~佐久間盛重~佐久間信盛らが味方し、両派は対立した。

弟信勝を殺す

“道三の死去を好機と見た”信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わった。信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があった。事態を悟った信長は、病と称して。弟である信勝を清洲城に誘い出し殺害した(信長23歳)。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。

尾張の国主となる

さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵、織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放した。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長(25歳)は尾張の国主となった。

足利義輝に謁見する

永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。

今川義元の尾張侵攻

尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻してきた。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。

桶狭間の戦い

信長(26歳)は静寂を保っていた。だが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞「敦盛」を舞った後、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で、4,000人の軍勢を整えて出撃した。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元をの首を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した。これが織田信長の命運を決めた「桶狭間の戦い」である。

徳川家康と手を結ぶ

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、28歳の信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていた。だが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため~家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

美濃攻略と天下布武

斎藤道三亡き後、美濃を譲られた22歳の信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し~嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長(30歳)は、永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は、妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。

ついに美濃の国主となる

永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が岐阜城を占拠後、西美濃攻略から中濃へと戦略を変える。中濃攻略戦において美濃国の要所である加治田城(佐藤忠能)や加治田衆を味方にし(後に信長の近親、斎藤利治を忠能の養子とした)、中濃の諸城(鵜沼城・猿啄城・堂洞城・関城)を堂洞合戦・関・加治田合戦において手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。

天下統一を目指す

同年11月には、僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日には、正親町天皇より綸旨を与えられ。上洛の正当性を獲得する。

永禄の変

中央幕府の情勢では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺して、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長(34歳)は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

武田氏との外交

信長は、「美濃国」と接する「甲斐国」の武田信玄と、信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだ。だが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世した。そのため、信長は、同年末には、嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

足利義昭上洛の警護

永禄11年(1568年)9月、信長(34歳)は、“他国侵攻の大義名分として”将軍家嫡流の足利義昭を奉戴して、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。

信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは、信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

副将軍を遠慮した賢い信長

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。

六条合戦

永禄12年(1569年)1月、信長(35歳)が率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は、信長の到着を待たず敗退していた。

堺の商人衆

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑した。ついで、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、35歳の信長は、「堺」に、2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して、「堺の商人衆」は、三好三人衆を頼りに抵抗した。だが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。*これで、信長は、「商業勢力」を敗退させたわけである(伊勢爺)。

伊勢国へ侵攻

同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は、南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていた。だが、34歳の信長は、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長は、その日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻した。北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲し~篭城戦の末10月3日に和睦し~次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。

第一次信長包囲網

1570年(元亀1年)の戦国大名勢力図永禄12年(1569年)、信長(36歳)は足利義昭の将軍としての権力を制限するために、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係となった。

朝倉義景討伐

元亀元年(1570年)4月、36歳の信長は、度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし~盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍した。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で盟友であった浅井氏に背後を突かれた。挟撃され窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍は、殿(しんがり)を務めた池田勝正~明智光秀~木下秀吉~徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであった。

浅井氏を討伐

同年6月(金ヶ崎の戦いの2ヵ月後)、信長は、浅井氏を討つべく出撃。近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に、15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

石山本願寺が挙兵

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に反旗を翻し挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井~朝倉~延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻してきた。織田軍は、劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

伊勢長島の一向一揆衆の反乱

9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。このとき信長は義景に対し“天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し”とまで言ったという。*1570年、36歳の信長は、人生最初の危機に直面したのだ(伊勢爺)。

比叡山焼き討ち

元亀2年(1571年)、37歳になった信長は、朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避と中立勧告を出した後~なおも抵抗し続けた「比叡山延暦寺」を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。*これで、信長の「宗教勢力討伐」が始まった(伊勢爺)。

第二次信長包囲網・信長VS武田信玄

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合。信玄は、三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していた。だが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると、徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で、武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であった。だが、信玄は、信長の同盟相手である徳川領への侵攻を事前通告なしで行った。

元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は、浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継、富田長繁、毛屋猪介、戸田与次らが信長に寝返った。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。11月、東美濃の国衆、遠山氏は、織田・武田の両属関係にあったが、遠山氏の岩村城が攻められるなか、当主の遠山景任が病死する。家督を巡って信長が軍事介入すると、遠山氏は武田方に帰属し、武田・織田間の対立が顕在化する。

織田・徳川連合軍は、武田軍に大敗する

また、徳川領においては、徳川軍が「一言坂の戦い」で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は、武田軍に大敗。汎秀らは討死した。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は、遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。信玄の上洛に呼応する形で、足利義昭が、三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。3月25日に信長は、三河国にいる武田軍を無視して岐阜から京都に向かって進軍した。信長(39歳)が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけた。だが、4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死し、武田軍は甲斐国へ帰国した。

室町幕府滅亡

武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もった。だが信長は、義昭を破り追放し~これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した。加えて7月28日には元号を“元亀から天正”へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。

越前国に侵攻と浅井・朝倉の自刃

天正元年(1573年)8月、39歳の信長は、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、信長は、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し~長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

伊勢長島に侵攻

9月24日、信長は、尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は、滝川一益らの活躍で、半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受け、林通政が討死した。

三好氏の滅亡

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで、義継は11月16日に自害し~三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

長島一向一揆の制圧

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し~信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。

7月、信長は3万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥る。織田軍の猛攻で大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。

翌天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、41歳の織田信長は、石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。*信長は「宗教勢力」を壊滅させたわけだ(伊勢爺)。

長篠の戦い

信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は、3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃を行わせるなどして、武田軍に圧勝した。

越前侵攻

この頃、前年に、信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った「本願寺門徒」では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は、長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された。越前国は、再び織田領となり、信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。

安土城築城

天正3年(1575年)11月4日、41歳の信長は権大納言に叙任される、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任する。この就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に叙任する。以後、信長のよび名は“上様”となり、将軍と同等とみなされた。足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる。

11月28日、信長は1週間前に、東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。しかし、引き続き信長は、織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は、天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は、“その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである”と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

第三次信長包囲網

天正4年(1576年)1月、信長(42歳)に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

石山本願寺軍を撃破

信長は、4月、明智光秀・荒木村重・塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した(天王寺砦の戦い)。

毛利軍の参戦

その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化していた。謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元~石山本願寺~波多野秀治~紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。

紀伊国から撤兵

天正5年(1577年)2月、信長(43歳)は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)した。だが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では、織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。

丹波を掌握

大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

信長包囲網は崩壊した

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立ったが、天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし織田軍は斎藤利治を総大将に、越中国に侵攻(月岡野の戦い)。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団の編成

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、“自由度の高い統治”をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称した~または信長軍・信長機動隊ともいう。

尾張の兵を弓衆~鉄砲衆~馬廻衆~小姓衆~小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には、直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

1)上杉景勝に対しては、柴田勝家~前田利家~佐々成政らを、2)武田勝頼に対しては、滝川一益~織田信忠らを、3)波多野秀治に対しては、明智光秀~細川藤孝らを、4)毛利輝元に対しては、羽柴秀吉を、5)石山本願寺に対しては、佐久間信盛を配備した。

荒木村重の反乱

天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、また毛利軍が、同年7月、上月城を攻略し、信長(44歳)の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力の一人であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。

中国地方の攻略

同年11月6日、44歳の信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。

優劣逆転

天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

11月、46歳の信長は、織田家の京屋敷・二条新御所に皇太子である誠仁親王を住まわせることを思いつき、直ちに実行した。

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じた。表向きの理由は信康の12か条の乱行及び築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた。ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。また伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。

天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

印旛国を攻略

天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

京都御馬揃えと高野山包囲

天正9年(1581年)、47歳の信長は絶頂期にあった。2月28日には、京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる「京都御馬揃え」であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。

高野山の蜂起

同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が、信長と敵対する動きを見せる。「信長公記」によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、「高野春秋」では、荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖(ひじり)数百人を捕らえる(高野聖は諜報活動を行っていたともいう)と共に、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。

武田征伐

天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて、織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず、敗北する。

武田氏の滅亡

信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。

武田氏滅亡後、信長は戦後処理として「武田狩り」を命じた。また駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え、一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。

本能寺の変

天正10年(1582年)夏、49歳の信長は、四国の長宗我部元親攻略に、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

3月11日、北陸方面では、柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで、信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は、15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は、光秀の接待役の任を解き~高松城を攻めあぐねていた秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、「明智軍記」などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて、光秀の頭をはたかせた、としている。

1582年5月29日、信長は、中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然、京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃した。この際に、光秀は、“部下の信長に寄せる忠誠の篤き”を考慮した。現に、光秀への忠誠を誓う者が少なかった。そのため、侵攻にあたっては、“標的が信長である”ことを伏せていた。そのことが本城惣右衛門覚書からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず~居間に戻った信長は自ら火を放ち~燃え盛る炎の中で自害した。享年49歳だった(1534~1582)。

光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は、織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や~信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。

平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。


(伊勢爺のつぶやき)

ウイキぺデイアを読みやすくした。「信長公記」は本棚にあるが、まだ、読んでいない。黒人の召使「弥助」がいたことに興味を持った。ハリウッド映画の脚本になるからだ。

織田信長の生涯は、「戦いの生涯」だ。信長のカリズマの右に出る日本人はいない。信長は、軍事専門家であり、実際に、日本史最大の「軍事・経済力」を掌握した。その経済力と軍事力を以って、堺の商業勢力~比叡山・高野山・石山本願寺・一向宗の宗教勢力を破ったのである。

1534年の5月12日に生まれ~1582年の5月29日に没している。日本の歴史には、高いカリズマ性を持った「革命児」が多く出た。だが、どれも、信長とは比較にならない。“凄まじい生きざま”だと言える。

422年前の、日本の戦国時代に生きた男の“生きざま”なのだ。70歳の伊勢爺は、自分と信長の“生きざま”を比較してみた。“おぎゃあ”と生まれて~親のもとで育って~成人となり~妻を娶って~子供を生む~そして、老いて行く~やがて天命は終わる、、ここまでは、同じだ。違っているのは、信長の人生には、「目的」があったことだ。「天下統一」という明確な目的があったことだ。伊勢平次郎


2011/11/22 (Tue) オーム真理教の国家転覆計画は挫折したが、、
こんな記事が出ている。日本中を震撼させたオーム事件を“終わったこと”と済ませてはけない。第二次世界大戦と同様に、人類の失敗の歴史なのだ。被害者のご家族はもとより、事件と距離があった国民も考えなければならないことがある。“どうして、こんな事件が起きるのか?”ということをだ。社会病は、日本だけではなく、世界中に広がっているのだ。伊勢平次郎 ルイジアナ






国家転覆ありえた…サリン70t・自動小銃千丁

 地下鉄サリン事件当時、捜査を指揮した甲斐中辰夫・元最高裁判事(17日、東京・千代田区で)=清水健司撮影 オウム真理教の被告189人のうち、最後に残った元幹部・遠藤誠一被告(51)に対し、最高裁が21日、死刑判決を言い渡し、一連の事件の裁判が終わった。

 これを受け、東京地検次席検事として捜査を指揮した甲斐中辰夫・元最高裁判事(71)がインタビューに応じ、早期摘発の機会を生かせなかった教訓や、教団が企てた、70トンものサリンや1000丁の自動小銃を使用する「首都制圧計画」が食い止められた経緯を、次のように語った。

 “読売新聞は1995年1月1日の朝刊1面で、「山梨県上九一色村(当時)でサリン残留物を検出」というスクープ記事を掲載した。記事で前年に起きた松本サリン事件とオウム真理教との関連が初めて示唆され、教団は慌てふためいた。サリン製造プラントだった教団の施設「第7サティアン」が宗教施設であるように装うため、その一部を自らの手で取り壊し、サリンの製造は中止された。

 教団は、自分の手で製造した70トンものサリンを霞が関や皇居に空中散布して大量殺人を実行し、混乱に乗じて自動小銃を持った信者が首都を制圧するという国家転覆計画を企てていた。

 記事が出たのは、教団がまさにサリンの量産に乗り出す直前のタイミングだった。この報道によって、教団のサリン量産と国家転覆計画は頓挫したと言ってよい。読売新聞は報道の報復として、自分たちの会社にサリンをまかれる可能性もあったわけで、勇気が必要だったと思う。おかげで多くの人々の命が救われた。

 今、そんな計画を聞いても荒唐無稽な印象を受けるかもしれないが、教団は実際、サリン散布のためにヘリコプターを購入していたし、自動小銃の試作品もでき、信者らの訓練もしていた。計画が実行されていれば、三日天下くらいは取られていたかもしれない。”

(2011年11月22日03時02分 読売新聞)


ユーロ圏は崩壊する

オーム事件を解説するつもりはない。現在、世界経済は再び危機に面している。“再び”とは、USのリーマンショックに次ぐ世界経済の後退だからだ。

“ユーロ圏(17カ国)の金融システムが危機である”というニュースは多い。だが、“ユーロ圏は崩壊する”とは、どの大手メデイアは言わない。新聞社の経済部は、“崩壊する”と思っていても、予測に当たる記事を書くことはない。

だが、伊勢爺は、みなさんに警告しておきたい。「ユーロ圏は崩壊する」と。理由は、「手遅れ」だ。ギリシア~アイルランド~ポルトガルの国債は、国債市場から既に見捨てられたからだ。さらに、イタリア~スペインの国債の利回りは、6.5%をウロウロしながら、赤信号である7%へ向かっているからだ。日本の富国や野村までも、これらの国の国債買い付けを断念した。

さらなる問題は、この「国債切捨て」のドミノ現象が、ドイツ~フランス~オーストリア~オランダ~フィンランドなどのユーロ圏の中でも健全な国債にまで及んできたことだ。今夜の記事では、S&P500格付け会社は、“フランス国債の格付けを下げる”検討に入ったと。伊勢爺は、これが、ユーロ圏金融システムへの「とどめ」になると考えている。ユーロは、間もなく、引導を渡される。伊勢

2011/11/18 (Fri) 人生、なぜ明暗に分かれるのか?
1)中川被告、死刑確定へ…坂本弁護士事件裁判終了

 坂本堤弁護士一家殺害事件や地下鉄、松本両サリン事件など11事件で殺人罪などに問われ、1、2審で死刑判決を受けたオウム真理教元幹部・中川智正被告(49)の上告審判決が18日、最高裁第2小法廷であり、古田佑紀裁判長は中川被告の上告を棄却した。

 死刑が確定する。

 教団による事件で死刑判決を受けた元幹部13人のうち、死刑確定は12人目。この判決により、1989年に発生した坂本堤弁護士一家殺害事件の裁判はすべて終了した。一連の事件の裁判も、元幹部・遠藤誠一被告(51)(1、2審で死刑)を残すのみ。遠藤被告の上告審判決も21日に予定されており、上告が棄却されれば、95年から続いてきたオウム犯罪の裁判が終結する。

(2011年11月18日16時15分 読売新聞)


2)無一文から億万長者…「ヨシダソース」吉田さん

 豪快な笑顔で自著を紹介する吉田さん(京都市中京区の書店で) 米国でヒットしている調味料「ヨシダソース」の生みの親で、京都市南区生まれの吉田潤喜さん(61)が17日、自著の宣伝のため、同市中京区の大垣書店四条店でサイン会を開いた。

 「無一文から億万長者となりアメリカンドリームをかなえたヨシダソース創業者ビジネス7つの法則」(ディスカヴァー・トゥエンティワン刊、税込み1365円)。「情熱をかたむける」「他人を巻き込む」など、成功の秘訣(ひけつ)の7法則を各章のタイトルに掲げ、失敗から学んだ教訓や格言をちりばめた。

 吉田さんは1969年に19歳で渡米し、しょうゆベースの自家製ソースを実演販売。現在は、米オレゴン州ポートランドを拠点に年商250億円のグループ企業の会長兼最高経営責任者(CEO)を務めている。

 ミニトークで、自著の見所を「エネルギーを発揮するヒントが書かれている」とPRし、来場者が購入した本にサイン。「不景気に悩む経営者らに読んでもらい、元気を取り戻してほしい」と話した。

(2011年11月18日15時13分 読売新聞)


人生、なぜ明暗に分かれるのか?

この二つの記事を読んで、考えさせられた。人間、同じ人生でも、このように明暗に分かれる。70の伊勢爺さんの答えはこうだ。成功者という人々と話した。盛田昭夫さん、ビル・ゲイツさん、ステイーブ・ジョブさん、ドライフラワーで億万長者となったアンデイ・松井さん、、共通点がある。みなさん、たいへんな楽天家だった。つまり、生まれながら性格が明るいのだ。遺伝子は勿論だが、盛田さんは、育った家庭が明るかったそうだ。坂本竜馬や、勝海舟にもこの豪放磊落な性格が見える。ここが、成功者になる重要なポイントなんだ。

すると、オーム真理教の松本智津夫や松本に人生を捧げた信者ってのは何だろうか。命令だったのか、ボランテイアだったのか判らないが、弁護士一家殺人はおろか、地下鉄無差別殺人まで実行したのだ。記事で知るだけだが、この連中の性格は暗い。そうとう暗い。

オーム裁判は単純であるべきだった。だが、現在の法曹界は、最終判決が出るまでは、殺人犯の人権を認めているのだ。被告らの弁護士らは法律をもてあそんだ。麻原こと松本が凶悪な殺人犯であることは、逮捕時に明らかだったはずだ。なぜ、早く絞首刑にしなかったのか理解に苦しむ。ここに法治国家の大きな欠陥を見る。日本に強烈な性格の統治者が現れないかぎり、このナンセンスは続く。伊勢平次郎 コスタ・リカにて、、





2011/11/17 (Thu) 自民党は格を下げた
このネットブックは写真が取り込み難い。昨夜、コスタ・リカの首都サン・ホゼで雇ったオンボロのハイヤーで、雨の中を4時間、マニュエル・アントニオ国立公園に至着。中央高原から太平洋岸に出た。コスタ・リカは、九州と四国を合わせた大きさ。人口は、500万人足らずだ。日系人は300人ぐらいだと。気候は、夏も冬も温暖で、11月の夜は18度、昼間は28度だ。実は、海の見える丘の上の家を買おうと見にきた。コスタ・リカの人々は、スペイン系で、98%の識字率、年収は60万円程度だが、福祉が手厚い。国軍は持たず、善隣政策でパナマや、ニカラガと仲良しなのだ。産業はないに等しいが、バナナとパイナップルを輸出している。魚も農産物も有り余る程、獲れる。中央部の大河には、体調4メートルのクロコダイルがウヨウヨとしていた。水を飲みに来る牛を食う。


自民党は格を下げた

“石原、谷垣が指導する自民党には、ゾーとする”と書いた。TPPのことだ。野党だから、何でも与党の進める国家計画に反対するとかい?自民党の代表的な人たちのプレゼンスが弱くなった。「自己評価」が低いためだ。野田批判に血道を上げ、保守政党としての誇りを失っている。

一方、アジア訪問中のオバマは、米国議会、中国見直し委員会の意向を代表して、中国包囲網を敷いている。米国議会だけでなく、中国の増長ぶりに、以前は親中だったオーストラリア政府も嫌気が差したのだ。日本は、この世界史の大変化に遅れてはならない。野田首相、玄葉外相のペアは健全なものだ。命を賭けて、対中国包囲網に取り組んで貰いたい。伊勢平次郎  コスタ・リカ





2011/11/15 (Tue) 日本の伝統・スパコンと鏡餅


お正月の朝ほど、日本人を幸せにしてきた朝はない。わが父は誰よりも先に起きた~和服を自分で着た~井戸のつるべを回し~「若水(わかみず)」を汲んだ。柄杓で水を掬い~手を洗い~口を濯いでから~一口呑んだ。若水を木桶に入れて~神棚に置いた。神棚には太い注連縄(しめなわ)と鏡餅が飾ってあった。村の青年団が搗いた餅である。

家族が起きた~わが母は絣(かすり)の着物に襷(たすき)がけだった~姉妹は晴れ着姿だった~男の子たちは、学生服、、

玄関の外には、門松(かどまつ)が二本。その横に、日の丸、、伊勢爺の正月の想い出とはこんな風景なのだ。伊勢平次郎 ルイジアナ






suiden yakeishimata

いつまでも残しておきたい水田風景。稲作は、縄文時代に中国の揚子江あたりから九州の北部に伝来したと。米のオリジナルは日本のものではない。だが、神武天皇が日本を治めた時代から米は日本の神話となった。お伊勢さん(伊勢神宮・外宮)のご神体は「穀物(米)」なのだ。

伊勢志摩の磯部村に、「おみた祭り」というのがある。田植えの時期になると、天皇陛下が東京から来られて~ゴム長をお履きになり~田圃にお入りになり~稲をお植えになるのだ。

稲作は日本人の心の故郷(ふるさと)なのだ。近鉄の車窓から水田風景や彼岸花を見ると、どういうわけか胸が熱くなる。これほどに、稲作文化は日本人の心に深く根付いているものだ。



higanbana irumagawa

“TPPは黒船の再来”と大騒ぎ。旧態依然とした経済体制から抜けるには、日本も環太平洋の一国として、生存の道を探らなければならない。だが、日本の精神的な伝統である稲作はどうする?安価な外米が入ってくれば、この神代の時代から続いている伝統が消えるのか?伊勢爺はそう思わない。米を巡って交渉するとき、こう言う。“日本人にとって、日本の米はご神体なのである”と。全ての加盟国はこれを理解する。疑う勿れ! 伊勢平次郎 ルイジアナ


super computer K

世界各国のスーパーコンピューターの性能ランキングを示す「TOP500」が14日発表され、理化学研究所と富士通が共同で開発中の次世代スパコン「京(けい)」が、1秒当たり1京510兆回(1京は1兆の1万倍)の計算速度で、今年6月に続いて1位となった。

 日本勢では、東京工業大学の「TSUBAME(ツバメ)2・0」も、前回と同じ5位に食い込んだ。「京」は、10月7~8日の計測で開発目標だった毎秒1京回を超える速度を達成した。

(2011年11月15日01時28分 読売新聞)


(伊勢爺のつぶやき)

“どうして、二位ではいけないのですか?”とその女は言った。大臣だと。これほど、日本を貶めたことばはない。スパコンも、日本の伝統となった。惜しみなくカネを出せ!科学技術は永遠の財産なのだ。カネはカネに過ぎない。ばか者めが! 伊勢


(お知らせ)

明日早朝、コスタ・リカへ飛ぶ。わが妻の休暇と伊勢爺の快気祝い(まだ胸骨が痛むが)である。ニューオーリンズ~マイアミ~サン・ホゼ(コスタ・リカ)、、午後の2時に着く。そこから、バスで、マヌエル・アントニオ国立公園まで4時間だと。S字の坂道を太平洋に向かって降りていく。そこに3泊~そこから、小型機で北西部の火山のそびえる高原へ行き、2泊の旅。夕方、スコールが降るらしい。秋雨だ濡れて行こうか、、(笑い)。旅日記を載せますね。伊勢

2011/11/14 (Mon) 第七艦隊のプレゼンス(その1)


第7艦隊担当海域 「7F」で示される海域 (2009年現在)第7艦隊(U.S. Seventh Fleet)はアメリカ海軍の艦隊。ハワイのホノルルに司令部を置く太平洋艦隊の指揮下にあり、東経160度線以西の西太平洋~インド洋(中東地域を除く)を担当海域とする。旗艦/司令部は、揚陸指揮艦「ブルー・リッジ」 (USS Blue Ridge, LCC-19)。

“第一艦隊はどこにいるの?”と不思議でしょ? 実は、解散したものがある。

活動中   第2艦隊 - 第3艦隊 - 第4艦隊 - 第5艦隊 - 第6艦隊 - 第7艦隊 - 第10艦隊

解散    第1艦隊 - 第8艦隊 - 第12艦隊


米国艦隊は地球上に散開している。最大の海域を担当しているのが第七艦隊だ。ハワイ諸島以西からパキスタン沖まで。日本商船の航路(シーレーン)を守っているのは、言うまでもない。伊勢平次郎 ルイジアナ








横須賀を母港とする原子力空母ジョージ・ワシントン。

第7艦隊

創設 1943年
国籍 アメリカ合衆国
軍種 アメリカ海軍
上級部隊 太平洋艦隊
基地 横須賀海軍施設
モットー Ready Power For Peace
現司令官 スコット・ヴァン・バスカーク海軍中将




USSブルーリッジは、第七艦隊の旗艦である。揚陸艦だと。

scot van baskirk comander 7 th fleet

現在の司令官は、スコット・ヴァン・バスカーク海軍中将 (Vice Admiral Scott Van Buskirk)(第47代、2010年9月12日~)。


概要

東経160度線以東の東太平洋(第4艦隊担当の南米西岸海域を除く)を担当海域とする第3艦隊とともに、アメリカ太平洋艦隊を構成する。

旗艦/司令部は日本の神奈川県横須賀市にある横須賀海軍施設を母港とするブルー・リッジ上にあり、海軍中将が座乗する。神奈川県の横須賀海軍施設の他、長崎県佐世保市~沖縄県~韓国の釜山~浦項~鎮海~シンガポールなどに基地を展開している。

航空母艦(原子力空母)「ジョージ・ワシントン」 (USS George Washington, CVN 73)を主力艦と擁し、50-60の艦船、350機の航空機を擁する。戦時には6万の水兵と海兵を動員する能力をもつ。平時の兵力は約2万。アメリカ本国の反対側に当たる地球の半分を活動範囲とし、アメリカ海軍の艦隊の中では、最大の規模と戦力を誇る。また同盟下にある日本の海上自衛隊と密接な関係を持っている。(ウイキぺデイアから)


(伊勢爺のつぶやき)

日本海軍である海上自衛隊と比較すべきだが、次回にする。中国海軍はこの米海軍第七艦隊と競り合いたいのだと。中国海軍についても、次回にする。

この第七艦隊と沖縄の嘉手納米空軍を抜きに、アジア太平洋の安全保障は成り立たない。。南シナ海~東シナ海~尖閣諸島は、中国が舌なめずりして、虎視眈々と狙っている地域だ。チベット、ウイグル、外蒙古、、中国の版図に入れたいわけだ。

ご周知、自衛隊は立派な日本の海軍だが、平和憲法が手足を縛っている。この広大な海域を守れるわけがない。だ・か・ら、日米合同海軍が中心とならなければ、アジア太平洋の平和は保たれない。ベトナム海軍~フィリッピン海軍、マレーシア海軍などは無いに等しいからだ。だが、台湾海軍は大きな力を持っている。いざ、中国海軍と有事の際には、これらの海軍力~空軍力の総力が必要となる。

TPPを貿易自由化とだけ捉えてはならない。この地域の経済を強化することは、中国の暴力を牽制するものだ。つまり、日米がTPP交渉を討議するとき、安全保障(Security)の観点で話さなければ、TPPはその意義を失う。伊勢平次郎

2011/11/11 (Fri) 日立・東芝・GEが開発した「ABWR」が評判
ABWR (2)

東芝が開発したABWRの構図。日立・東芝・GEが技術を合わせた。効率が高く、航空機の衝突にも耐えると報告されている。伊勢平次郎 ルイジアナ








沸騰型原子炉(ABWR)の仕組み。何か、伊勢爺でも出来そうだな(笑い)。

低濃縮ウランを燃料とし,減速材および冷却材に水を用いて、これを炉心で直接沸騰させ、蒸気を発生させる方式の原子炉を沸騰水型原子炉(Boiling Water Reactor:BWR) と呼びます。

この原子炉を用いた沸騰水型原子力発電所(BWR原子力発電所)は今日の原子力発電所の主流の一つを占めるものです。改良型BWR(ABWR)は,東芝がこれまで永年にわたって蓄積してきたBWRの建設経験と、世界の優れたBWR実証技術を発展・結集 したものです。 (ウイキぺデイア)


米国原子力委員会(NRC)、ABWRに許可を与える

November 2, 2011

NRC Certifies Amended ABWR Design

POWERnews

The Nuclear Regulatory Commission (NRC) on Tuesday certified an amended version of the Advanced Boiling Water Reactor (ABWR), the third-generation reactor design offered separately by GE-Hitachi and Toshiba, which has been chosen for new nuclear builds at the South Texas Project (STP) site. The NRC’s decision means that nuclear developers in the U.S. can use the reactor in proposed projects.

The NRC had certified the original ABWR design in 1997, but the regulatory agency has since taken several steps to improve security at existing nuclear power plants, including adopting a rule in March 2007 that requires both existing and potential new reactors to defend against a more realistic threat. The agency also issued a February 2002 order requiring all existing nuclear power plants to develop and adopt strategies to cope with large fires and explosions from any cause, including potential aircraft impacts. In March 2009, the NRC updated that rule, codifying these requirements for all existing and future nuclear power plants.


バルト三国のひとつであるリトアニアが、東芝・日立・GEの開発したABWRを発注

リトアニアは、ロシアと仲が悪い。ソ連から独立後、天然ガスでは、プーチン大帝さまに散々いじめられて来た。もうコリゴリだというわけで、日立に相談した。ABWRは、一基5000億円する。リトアニアには、そのカネがないと。日本~アメリカの基金に世話になると。それを聞いた、エトニア~ラトビア~ポーランドが問い合わせて来たと。

(伊勢爺のつぶやき)

パリに本部がある、国際エネルギー機関(IEA)は、“原発なしには、電力が不足する。2035年には、40%の不足となる。他の方法では、エネルギーのコストが過酷なものとなる”と警告を出した。ドイツや、日本は、世界の趨勢から落伍する。野田泥鰌さん、TPPの次は、原発再開だよ。それから、解散すればいい。
















2011/11/10 (Thu) ユーロ圏は危機一髪
Italy demo 11.9.11

ローマのコロシアム。ギリシア騒動と同じか?イタリアに財政危機が迫っている。伊勢平次郎 ルイジアナ






ユーロ圏は危機一髪

ギリシア~アイルランド~ポルトガルの財政破綻が回避される中、イタリアの財政破綻が浮上した。以前から噂されてはいたが、その全貌は判らなかった。

昨日、イタリア国債の10年ものが競売されたとき、利息が7%を超えたのだ。6%を超えると危険水域に入る。7%は、“ポイント・オブ・ノーリターン”なのである。つまり利息を上げれば上げるほど、負債が増えるという、借金地獄に陥るのである。


イタリア議会はどうする?

べルルスコーニ首相は、“議会が財政緊縮法案を可決したら、辞任する”と約束した。ナポリターノ大統領は、“木曜日、国債をどうするか~年金受領年齢を67歳まで引き上げることで投票する。その直後、べルルスコーニ首相には辞任して貰う”と話した。

イタリアは12月には、1550億ユーロが必要となる。用意出来なければ、国債はデフォルトとなる。EUの救済は必須なのだ。

EUの金融機関総裁は、“12月には、1兆ユーロを用意できる”と話した。この月曜日に、5600億ユーロを用意したばかりなのに。門題、それも大問題がある。それは、EUがどこまで、イタリアを救済できるのかである。

メルケル独首相は、“ユーロ圏が分裂することは許されない~ヨーロッパが失敗するということだ~世界中が解決されることを待っている~EUは結束しなければならない”と警告を出した。


(伊勢爺のつぶやき)

ウチのと一緒になったとき、ローマへ新婚旅行に行った。イタリアの風景~ローマ帝国の遺産に仰天した。イタリア人は、老若男女ともに情熱的で~性格が明るく~よく抱き合う。

彼らは、昼飯は家に帰り4時間もかける。ワインも飲む。夏なら、昼ねまでする。商店街はシャッターが降り~銀行のドアには、“夕方4時まで帰りません”などと看板が出る。うらやましく思った。だが、このイタリアの奔放な文化が財政破綻と無関係ではないと思う。

イタリアは、EU17国の第三番目の経済だ。世界では、八番目の経済なのだ。その累積した借金というのは、ギリシアの10倍とされる。EUの救済は絶対に必要だが、大問題がある。それは、EUがどこまで支援出来るのかということである。

日本では、TPP交渉参加の是非で国が二つに割れている。野田首相のカリズマが試される。だが、イタリアのように、明日、破綻するということではない。野田泥鰌さんは、乾坤一擲の瞬間を迎えたと思う。思い切って、飛びこんで欲しい。理由は多くあるが、アメリカに貸しを作ることがひとつ~アジア太平洋の安保に貢献できることがある。

青山繁晴さんの「TPP反対論~野田首相批判」を聞いたが、このひとも未熟だなと思った。まず、“嘘を言うな!”などと怒鳴るのは、ジャーナリストのマナーではない。反対理由も、レトリックに近く、感情が入り過ぎている。“交渉に着いてもいけない”というのは、理不尽な主張だ。なぜなら、交渉に応じなければ、詳細な内容が判らないからだ。そうでしょ? 伊勢平次郎

2011/11/09 (Wed) 日本人よ、ルビコンを渡れ!


"Vercingetorix throwing his weapons at the feet of Caesar" フランス人画家リオネル・ロワイヤルによる1899年の作(ル・ピュイ=アン=ヴレのクロザティエ博物館所蔵)。アレシアの戦いにて、カエサル(赤いトーガをまとう人物)の軍門に下り、勝利者の足元に武器を投げ捨ててみせるウェルキンゲトリクス(馬上の人)。



伊勢夫婦は、1990年、湾岸戦争時代にシシリーに一年間住んだ。シシリーには、旧ナチス・ドイツ空軍基地だったが、現在は、米空軍基地となっている「シガネラUSエアベース」という地中海で最大の米空軍基地がある。うちのが、その基地から、サウジ・アラビアにフライトしていた。亭主の伊勢は、魚釣り~つたないイタリア語で買い物~基地内でゴルフ~「シチリア紀行」を書いて、講談社系のセブンシーズに売った。イタリア半島を一ヶ月も車で旅行した。ポー河も、ルビコン河もその土手の上に登って見た。

ガリア(現在のフランス)に8年も遠征して制服したジュリアス・シーザーは、ルビコン河の水辺に馬を入れた。そして。犀(さい)を投げた、“全軍、河を渡れ!”と命じた。48歳のシーザーは、元へは戻れないことを知っていた。英雄シーザーを恐れたローマ議会が出した“ルビコン河を大軍を率いて渡れば、死刑に処す”を無視したのである。以来、“ルビコンを渡る”とは、元へは戻れぬ決断を下す故事となった。

シーザーは、ガリア戦記を遠征中に書いた。8巻もある大書である。また、シーザーは、手振り身振りに加えて、豊かな表現でローマ市民を魅了した。文武両道を備えていた。

“犀は投げられた” “来た~見た~勝った”という名言を自書によって遺した。伊勢平次郎 ルイジアナ






世界平和研、TPP交渉参加表明を求める提言

 財団法人世界平和研究所(会長・中曽根元首相)は8日、環太平洋経済連携協定(TPP)について、「わが国の発展には経済連携を積極的に推進することが急務だ」と指摘し、政府に交渉参加の早期表明を求める提言を発表した。

 提言では、TPP参加の利点について、〈1〉長期的には輸出競争力が向上し、輸入品価格の低下で消費者に利益をもたらす〈2〉海外投資を通じた生産基盤の強化と、対日投資の増大が期待できる――などの点を挙げた。政府に対し、早期の交渉参加で協定の具体的なルール作りに参加する機会を確保するよう求めた。

 一方、交渉参加への国内の懸念を払拭するため、政府には農業再生策や農業予算確保の見通しを明確に示す必要があるとした。また、TPPに関する情報発信が不十分なことが「国民に混乱を招いている」とも指摘し、TPPを含む経済連携問題を統括する部署を政府部内に設置することも提案した。

(2011年11月8日20時42分 読売新聞)


(伊勢爺のつぶやき)

TPP交渉参加は、GDP世界三位の貿易大国・日本の選ぶべき道である。日本人よ、自信を持て!日本人よ、ルビコンを渡れ!そして、世界史に名を遺せ! 伊勢平次郎




2011/11/07 (Mon) イランの核は深刻な問題なのか?
iran percia

イランはペルシャ帝国繁栄の舞台

イラン・イスラム共和国は、今から歴史をさかのぼること約2500年、古代オリエント世界を統一する大帝国を築いたアケメネス朝ペルシャ(紀元前540年成立)が興った場所でした。

アケメネス朝の後、226~651年にわたって栄えたササン朝ペルシャ時代には、シルクロードを経由して、遠く日本とのつながりも生まれました。奈良・正倉院に収蔵されているガラス器「白瑠璃碗」は、往時のペルシャ帝国の繁栄をしのぶ品として有名です。

現在のイランは、日本の4.4倍(約165万平方km)の広大な国土に、7,000万人以上の人々が暮らす地域大国です。ペルシャといえば、「砂漠」に「ラクダ」のイメージが強いかもしれませんが、首都テヘラン(Tehran)などイラン北西部はとても緑豊かな高原が広がっており、中東最高峰のダマーヴァンド山(標高5,604m)をはじめとする4,000m級の山々も連なっています。冬には国内外からスキーヤーが集まるスキー場もあります。カスピ海沿岸地方では、水田による稲作も行われています。(日本・外務省)






 イラン核疑惑に起爆施設の新情報~イスラエルで高まる強硬論~米は苦慮

 産経新聞 2011.11.6 22:48

 イランの核兵器開発疑惑をめぐり、核起爆装置の実験に使用できる施設がテヘラン郊外に建設されたとの新たな情報が流れた。イスラエルによるイラン核施設への軍事攻撃も取り沙汰される中、緊張が高まりつつある。強硬姿勢を続けるイランを前に、大統領選まで1年に迫ったオバマ米大統領は対応に苦慮している。


 【ロンドン=木村正人】国際原子力機関(IAEA)が8日にも理事国に配布するイラン核問題報告書に、核兵器開発の最後の難関とされる核起爆装置の実験に使用できる施設がテヘラン郊外に建設されたとの情報が盛り込まれると欧米メディアが一斉に報じた。IAEAがイランの核兵器開発疑惑を具体的に告発する情報を示すのは初めて。

 IAEAが入手した衛星写真によると、イランはテヘラン郊外のパルチン軍事施設に鋼鉄製大型コンテナを設置。施設は核爆発を引き起こす高性能爆薬の爆破試験に使用できるという。

 さらに周囲の爆弾を同時に爆発させて、中心の核物質に圧力をかけ核分裂反応を起こさせるコンピューター実験を行っていることを示す証拠もあるという。

 IAEAの天野之弥事務局長は昨年2月、「イランがミサイル搭載用核弾頭開発につながる活動を極秘裏に進めている疑いがある」と指摘。今年9月、疑惑に関する詳細を「近く示したい」と述べていた。

 IAEAによると、イランは4.5トンの低濃縮ウランを保有。核爆弾3~4個分の高濃縮ウランを製造するのに十分な量だが、イランは「平和利用のため」とウラン濃縮活動の停止を拒否してきた。しかし、核起爆装置の実験への着手が証明されればイランの言い逃れはもはや通じなくなる。


 ただ、ロイター通信は「コンテナがいつ設置されたのか、実際に核起爆装置の実験に使われるのか不明」と報じており、報告書は、イランが核兵器を開発しているとの結論にまでは踏み込まないとみられている。

 イランの核開発をめぐっては2002年8月、中部ナタンツにウラン濃縮施設を建設中と反体制派が暴露。イランは09年9月、テヘラン南方のコム郊外に新たな濃縮施設を建設中とIAEAに通告している。


 米国の懸念

 【ワシントン=犬塚陽介】オバマ米政権は、イスラエルが単独でイラン核施設の攻撃に乗り出す可能性に懸念を強めている。イランが核施設攻撃の報復に打って出れば、原油高騰など世界経済に悪影響を及ぼすのは確実。一方で大統領選をちょうど1年後に控え、米国内のユダヤ票の行方には神経質にならざるを得ない。イランの核問題はオバマ大統領の再選戦略を揺るがしかねない。

 米メディアはここ数日、イスラエルのネタニヤフ首相がイランへの軍事攻撃に向け、閣僚を説得しているとのイスラエル国内の報道を相次いで報じている。イスラエルは今月2日、イランを牽制するように弾道ミサイルの発射実験を実施。報道によると、大半の閣僚の反対をよそに、バラク国防相ら有力閣僚が軍事作戦を排除しない方針を示しているという。

 イランは今年6月、ウラン製造施設を地下施設に移動することを表明したが、事実とすれば、偵察衛星での核施設の監視が困難になるとの焦燥感が強硬姿勢の呼び水となっている。

 さらに英紙ガーディアン(電子版)は2日付で、米国自らもイランにミサイル攻撃を行う可能性が高まっており、英国が支援準備を進めていると伝えた。しかし財政問題やユーロ危機に苦しむ米欧が軍事行動をとるのは非現実的との見方が一般的だ。


イラン・VS・オバマ

 一方、専門家によると、イランは空爆を予想し、あえて都市部周辺に核施設を建設しているという。市民に犠牲が出れば、イスラム諸国に反イスラエルや反米感情が吹き荒れかねない。

 オバマ大統領は3日、サルコジ仏大統領との会談後に「イランに義務を果たさせるため、前例のない圧力を維持する必要性」で合意したと強調。国際的な枠組みでの経済制裁により、イラン封じ込めを強めていく姿勢を打ち出している。

 【カイロ=大内清】米欧がイランの核兵器開発への疑惑を深める中、イランは「核開発はあくまでも平和利用目的」と主張、今後も核開発を推し進める強気の構えを崩していない。

 イランでは近年、最高指導者ハメネイ師とアフマディネジャド大統領との間での権力闘争も取り沙汰されるが、核開発そのものの是非について大きな溝はないとみられる。国内世論も、政府が主張する通り「核開発は自国固有の権利」だとみる向きが多く、核開発をめぐる外交問題が政権にとって大きな不安定材料とはなっていない状況だ。

 その一方でイランは、国連の4度にわたる経済制裁を受けて生活必需品への補助金カットなどに着手、それによって物価が上昇するなど、国内経済に疲弊の色が見え始めているともいわれる。それだけに米国との全面対決は何としても避けたいのが本音でもある。

 イランのサレヒ外相は今月に入り、「米国は、イランとの衝突の道を進む前に(対イラン政策のあり方を)再考すべきだ」などと発言。対立回避を模索しているともとれるメッセージを送っている。


(解説)

iran map

このイランの地勢を見てください。今年の夏、伊勢夫婦は、トルコのイスタンブールから、カスピ海の上空を飛んで、キルギスタンのビシュケクへ着陸した。真夜中だったが、満月だったので、カスピ海が見えた。東のアゼルバイジャン側は草木もまばらに見えたが、カスピ海は鉛色で不気味だった。キルギス側は、全く草木はなく、月面のような灰色の砂漠状態だった。

それはさて置き、「イランの核武装」とは、一体全体、世界にとって、どのような影響力を持つのか、一考してみよう。それは、中東の油田の宝庫と関係するのだ。イランの左隣は、やはり油田大国のイラクだ。その南の小国のクエートも油田大国なのだ。さらに、その左には、サウジ・アラビア。それ以外の中東の国には、原油はないのだ。

イランとイスラエルが交戦すれば、アメリカ~欧州~日本~中国~韓国にとって、中東の「油」が入手出来ない可能性があるのである。イランは、イスラエルがミサイル攻撃に踏み切れば、アメリカの参戦を阻止するために、ペルシア湾のホームズ海峡に機雷を敷くだろう。“ペルシア湾を封鎖する”と声明を出すだけで、世界経済は恐慌に入るのだ。

この意味するところは実に深刻だ。日本などは、イスラエルとイランを説得するしかない。イランはアメリカの言うことなど聞く耳を持たない。日本や、欧州の、イランと確執の無い中立国が仲裁するしかない。イラン経済も、米経済も、欧州経済も、そのお体力は脆弱だ。経済問題は、ロシアも、チャイナも同じなのだ。だから、「話し合う」のが一番いい。テルアビブのネタンヤフは、世界平和を人質にする「世界の敵」だ。アメリカは、イスラエルに経済援助するたった一国なのだ。説得できないはずがない。伊勢


(伊勢爺のつぶやき)

イランの核疑惑がヒートすると、イスラエルがヒステリーを起こす。きな臭いニュースが流れる度に、原油の値段が高騰するだろう。北米も、南米は、実は原油も~天燃ガスも~ウラン鉱も豊富なのだ。問題になるのが、日本~中国~韓国だ。日本外交の出番なのだが、あの泥鰌ではな、、伊勢平次郎


2011/11/06 (Sun) 青年よベトナムへ行け(その2)
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詩情溢れる美しい風景。ベトナム人の勤勉で優しい性格と関係がある。TPPの目的のひとつが、南シナ海の安全保障ならば、ベトナムの地勢とベトナムの経済向上がいかに重要かが理解出来る。日本、アメリカにとって、ニュー・フロンテイアであることは間違いない。日本の青年企業家~大学生には、歴史に残るパイオニアを目指して欲しい。伊勢平次郎 ルイジアナ






日本との関係

1.要人往来

 1993年3月のキエット首相訪日以後、関係緊密化が順調に進み、首脳間の往来も頻繁。

 1999年6月には秋篠宮同妃両殿下が日本の皇族として初めて御訪越された。また、2009年2月には、日越外交関係樹立35周年を迎えた機会に国家級賓客として、皇太子殿下が初めてベトナムを御訪問され、チエット国家主席を表敬された他、ハノイ、ダナン、ホイアン、フエ、ホーチミンを御視察になった。

 2009年4月、公賓としてマイン書記長が訪日し、麻生総理との間で「アジアにおける平和と繁栄のための戦略的パートナーシップに関する日本・ベトナム共同声明」を発表した。また同書記長の訪越にあわせ、在福岡ベトナム総領事館が正式に開所された。

 2009年11月、日本・メコン地域諸国首脳会議に出席するためズン首相が訪日し、鳩山総理との間で初の首脳会議を実施した。両首相は、従来以上に日越関係を重視し、「戦略的パートナー」として様々な分野での協力を推進していくことで一致した。2010年1月にはキエム副首相兼外相が外務省賓客として訪日し、岡田外務大臣との間で日越協力委員会第3回会合を実施し、両首脳間における合意事項を具体化するための方策について、関係省庁も交えて協議した。2010年4月及び6月には、それぞれ国際会議の機会を利用して、両国の首相間で短時間の会談を行った。同7月には岡田外務大臣がASEAN関連外相会議出席後ベトナム二国間公式訪問を行い、キエム副首相兼外相との間で外相会談を行った。

 2010年10月には菅総理がASEAN関連首脳会議出席に続き、ベトナムを公式訪問した。日越首脳会談では二国間の対話の強化~具体的経済協力案件の実施~文化・青少年交流の強化等について一致を見ることが出来、首脳会談終了後、両首脳は「アジアにおける平和と繁栄のための戦略的パートナーシップを包括的に推進するための日越共同声明」に署名し、共同発表を行った。

 会談・共同声明でベトナム側から「原子力発電所第2サイトの建設」「レアアースの探査」「探鉱」「開発」等のパートナーとして日本を選ぶ旨表明があった。越側からこの決定は、「政治的戦略的判断」に基づくものであるとの説明があった。両国首脳は今回の合意は二国間関係に新たなページを開くものとの認識で一致し、両国の「戦略的パートナーシップ」の包括的推進を図ることができた。

 2010年11月中旬に横浜で開催されたAPEC首脳会議にはチエット国家主席がキエム副首相兼外相等の随員とともに出席した。

 2011年6月には、サン・ベトナム共産党書記局常務が外務省賓客として訪日し、我が国要人等と意見交換を行うとともに、東日本大震災の被災地訪問等を行った。

2.文化交流

 近年国民レベルでの交流も活発化しており、日越外交関係樹立35周年を迎えた2008年は、ベトナムにおける日越合同音楽祭や日本における「ベトナムフェスティバル」等年間を通じ多くの記念行事が両国において行われた。2009年8月にはホイアンで「ホイアン-日本祭り2009」が開催され、9月には日本で「ベトナムフェスティバル」が開催された。2010年はハノイ(タンロン)建都1000年及び奈良遷都1300年を記念し、両国において多くの交流事業が開催された。

3.経済協力

 1992年11月以降経済協力再開。日本はベトナムにとって最大の援助国。2008年度の援助供与額は、円借款、無償資金協力、技術協力合わせて総額約918億円、2009年度は過去最高の約1,553億円となった。

(注)円借款及び無償資金協力は原則として交換公文ベース(2009年度円借款には
緊急財政支援としての479億円を含む)。技術協力はJICA経費実績ベース。

4.投資

 2010年の日本の対ベトナム直接投資額(認可ベース)は22.1億ドルで国別では第4位となった(1位シンガポール、2位オランダ、3位韓国)、また、累積投資実行額でも日本は上位にある(累積認可額では第4位。また、データ入手が可能な1988年から2008年末までの日本の累積投資実行額は1位の約52億ドルであり、2位シンガポールの約40億ドルを大きく超過)。

国別外国直接投資(単位:億ドル)

累積認可額(2010年12月時点)

1 台湾 228
2 韓国 221
3 シンガポール 217
4 日本 208
5 マレーシア 183
6 バージン諸島 145
7 米国 131
8 香港 78
9 ケイマン諸島 74
10 タイ 58
合計 1,929
2010年認可額(2010年12月20日時点)
1
(データ)越計画投資省

(注)2008年の新規投資はほぼ、日本、クウェート、ベトナムの合弁によるギソン製油所建設案件(62億ドル)によるもの。

5.日越投資協定

 ベトナムにおける外国投資の環境を改善するため、1999年3月の首脳会談(小渕総理・カイ首相)において、両国間の投資協定について予備的協議を開始することで一致。その後、2003年11月14日、川口外務大臣とフック計画投資大臣が投資協定に署名。2004年5月、衆参両院にて承認された。2004年11月19日ハノイにて交換公文が行われ、12月19日から協定が発効。本協定は、我が国が過去に締結した投資協定と比較して、投資の自由化及び投資家の権利保護の観点からレベルの高い協定である。

6.日越共同イニシアティブ

 2003年4月、日ベトナム両国政府により、ベトナムの投資環境改善を目的として立ち上げられた。同年12月には行動計画44項目が採択され、その後2年間にわたり、行動計画の進展に関するモニタリング作業が実施され、2005年11月、行動計画の85%を達成したことが確認された。2006年7月には第2フェーズが開始され、新たに80の評価項目に合意、2007年11月、全体の93%が予定通りに実施されたことが確認された。本イニシアティブ実施によるベトナムの投資環境改善の効果もあり、2003年から3年間で日本の対越直接投資(新規・認可ベース)は10倍以上に増加。2008年には第3フェーズが開始され、37項目からなる行動予定計画が策定された。2010年12月に評価を行い、約8割の項目で前進が見られたことが確認された。2011年7月には第4フェーズが開始された。

7.日越経済連携協定

(1) 2008年12月25日に署名、2009年10月1日に発効し、同日第1回合同委員会を開催(先方ホアン商工大臣、我が方岡田外務大臣ほか)。ベトナムにとっては初めての二国間EPA。日本にとっては11番目のEPA。

(2) 自然人の移動(ベトナム人看護師・介護福祉士の将来における受入れの可能性)については、EPAの規定に従って設置される自然人の移動に関する小委員会において協定発効後に継続して協議(可能であれば協定発効後1年以内、遅くとも2年以内に結論)を行っている。

8.貿易

 2010年の統計では、日本は第3位の貿易相手国(約167.4億ドル)。第1位は中国で273億ドル、第2位は米国で180億ドル。中国、米国との貿易構造はそれぞれ輸入、輸出が大幅に超過しているが、日越貿易は輸出入のバランスがとれている。

9.在留邦人数・日系企業数

 在留邦人数: 8,543人(2010年10月現在。北中部:3,731人、南部:4,812人)

 日系企業数: 894社(北部:377社、中部:42社、南部:475社(2010年3月現在))


10.在日ベトナム人(外国人登録者)数

 41,781人(2010年法務省登録外国人統計)


2011/11/05 (Sat) 青年よベトナムへ行け(その1)
vietnam 1

ベトナムの山河、海岸線はたいへん美しい。伊勢夫婦は、来年春、ベトナムを訪問する。






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1.面積 32万9,241平方キロメートル 日本から四国を差し引いたぐらいの国土。

2.人口 約8,579万人(2009年4月1日時点国勢調査) 

3.首都 ハノイ

4.民族 キン族(越人)約86%、他に53の少数民族

5.言語 ベトナム語

6.宗教 仏教(80%)、カトリック、カオダイ教他

略史

紀元前207年 南越国の成立
紀元前111年 前漢、ベトナム北部に交趾郡を置く
938年 呉権(ゴー・クエン)、白藤江で南漢軍を破る(中国からの独立)
1009年 李王朝の成立
1010年 首都をタンロン(現在のハノイ)に定める
16世紀 ホイアンの日本人町が栄える
1884年 ベトナムがフランスの保護国となる
1930年2月 ベトナム共産党結成
1940年9月 日本軍の北部仏印進駐(1941年南部仏印進駐)
1945年9月2日 ベトナム共産党ホーチミン主席、「ベトナム民主共和国」独立宣言
1946年12月 インドシナ戦争
1954年5月 ディエンビエンフーの戦い
1954年7月 ジュネーブ休戦協定、17度線を暫定軍事境界線として南北分離
1965年2月 アメリカ軍による北爆開始
1973年1月 パリ和平協定、アメリカ軍の撤退
1973年9月21日 日本と外交関係樹立
1976年7月 南北統一、国名をベトナム社会主義共和国に改称
1979年2月 中越戦争
1986年 第6回党大会においてドイモイ(刷新)政策が打ち出される
1991年10月 カンボジア和平パリ協定
1992年11月 日本の対越援助再開
1995年7月 アメリカとの国交正常化
1995年7月 ASEAN正式加盟
1998年11月 APEC正式参加
2007年1月 WTO正式加盟
2007年10月 国連安保理非常任理事国(2008年~2009年)に初選出

政治体制

1.政体 社会主義共和国

2.元首 チュオン・タン・サン国家主席

3.政権党 共産党(唯一の合法政党) 党首 グエン・フー・チョン書記長

4.国会(グエン・シン・フン議長) 一院制(500名)、任期5年(但し2007年~2011年の第12期国会は4年)、中選挙区、選挙権満18歳以上、被選挙権満21歳以上


内政

(1) 1986年の第6回党大会にて採択された市場経済システムの導入と対外開放化を柱としたドイモイ(刷新)路線を継続、外資導入に向けた構造改革や国際競争力強化に取り組んでいる。他方、ドイモイの進展の裏で、貧富の差の拡大~汚職の蔓廷~官僚主義の弊害などのマイナス面も顕在化している。

(2) 2011年1月には第11回共産党大会(5年ごと)が開催され、2020年までに近代工業国家に成長することを目標として引き続き高い成長を目指す方針が掲げられたほか、プロレタリアート階級主導の共産党方針は維持しつつも、私営経済活動を本業とする者の入党を試験的に認めることとされた。また、党中央指導部の人事が一新され、書記長には、これまで国会議長を務めたグエン・フー・チョン氏が選出された。

(3) 同年5月22日には国会議員選挙が行われ、その結果を受けて7月21日より第13期国会が召集され、グエン・シン・フン国会議長、チュオン・タン・サン国家主席が選出され、グエン・タン・ズン首相が再選された。また、政府の組織改編が承認されるとともに、ズン首相が提案した新閣僚人事案が承認され、一部閣僚が交代した。

外交・国防

1.外交基本方針

*全方位外交の展開、特にアセアン、アジア・太平洋諸国等近隣諸国との友好関係の拡大に努めること。

*1995年7月、米国と国交正常化、アセアンに加盟。1998年11月、APECに正式参加し、2006年にAPEC議長国を務めた。2008年1月、国連安全保障理事会非常任理事国(任期2008年~2009年)に就任。2010年ASEAN議長国を務めた。

2.軍事力(2010年版ミリタリー・バランスより)
 
(1)予算 24.1億ドル(2010年)

(2)兵役 徴兵制

(3)兵力 正規軍48.2万人(陸軍 約41.2万人、海軍 約4万人、防空・空軍 約3万人)(2010年)

経済

(*出所は特に記述がない場合は越統計総局)

1.主要産業  農林水産業、鉱業、軽工業

2.GDP(2010年) 1,981兆ドン(約1,015億米ドル)

3.一人当たりGDP(2010年) 1,169米ドル

4.経済成長率(2010年) 6.78%(2009年は5.32%)

5.物価上昇率(2010年) 11.75%(対前年末比)(年平均指数9.19%)

6.失業率(2010年) 2.88%(都市部:4.43%、農村部:2.27%)(不完全就業率4.5%(都市部:2.04%、農村部:5.47%))

7.貿易額(2010年)

(1)輸出 722億ドル(対前年比 26.4%増)

(2)輸入 848億ドル(対前年比 21.2%増)

8.主要貿易品目(2010年)

(1)輸出 縫製品、履物、水産物、原油等

(2)輸入 機械機器(同部品)、鉄鋼、石油、布等

9.貿易相手国(2010年)

(1)輸出 米国、日本、中国、韓国、ドイツ

(2)輸入 中国、韓国、日本、台湾、タイ

10.通貨  ドン(Dong)

11.為替レート 1ドル=19.500ドン(2011年1月)(ベトコムバンク)

12.外国からの投資実績(認可額)(2010年) 186億ドル(対前年比 13.4%減)

経済概況

(1) 1989年頃よりドイモイの成果が上がり始め、1995年~1996年には9%台の高い経済成長を続けた。しかし、1997年に入り、成長率の鈍化等の傾向が表面化したのに加え、アジア経済危機の影響を受け、外国直接投資が急減し、1999年の成長率は4.8%に低下した。

(2) 2000年代に入り、海外直接投資も順調に増加し、2000年~2010年の平均経済成長率は7.26%と高成長を達成した。2009年は世界経済危機の中で政府の積極財政・金融緩和が奏功し5.3%、2010年は当初の目標である6.5%を上回り、6.8%成長を達成した。しかし、急速な物価上昇、自国通貨の不安定化など、マクロ経済状況は不透明である。この状況を受けて、政府は2011年の経済運営に関し、マクロ経済の安定化とインフレ対策を最重要課題として挙げている。

(3) 近年ベトナムは一層の市場経済化と国際経済への統合を推し進めており、2007年1月、WTOに正式加盟を果たしたが、慢性的な貿易赤字、未成熟な投資環境等懸念材料も残っている。

(ウイキぺデイアより抜粋)


(解説)ベトナム社会主義共和国は、TPP加盟国のひとつである。日米両国が最も力を入れたいのが、このベトナムである。理由は単純だ。対中国包囲網に欠かせない国だからだ。まず、ベトナムの経済を高めなければならない。日本の青年はベトナムへ行け! 伊勢平次郎 ルイジアナ


2011/11/02 (Wed) 日米同盟を真剣に考えるときがきた
TPP軸に日米連携強化…首相補佐官が意義強調

 民主党の長島昭久首相補佐官は1日、東京都内で講演し、環太平洋経済連携協定(TPP)への参加の意義について、「アジアを米国と中国(の2国だけ)に仕切らせない。アジア太平洋の秩序は日本と米国で作っていく積極的な視点が必要だ」と述べた。

 TPPを軸とした日米の経済連携を強化することによって、台頭する中国をけん制する狙いを示唆したとみられる。

 長島氏はまた、「アジア太平洋全域を私たちの庭として手に入れ、経済秩序と安全秩序を作っていく」と強調した。

 野田政権の外交方針に関連し、「中国とどう向き合っていくかが最大の戦略課題だ。中国から見て『なかなか手ごわい』と思わせる戦略的な環境を整えていく」と語った。

(2011年11月1日19時20分 読売新聞)


(伊勢爺のつぶやき)

は、は、は ようやく、TPPが軍事挑発を続行する中国またはロシア封じ込め戦略だと理解したようだ。“関税撤廃が基本”と言えども、国民の賛意が得られなければ、TPPそのもが空中分解する。関税対象になる項目は、理由が打倒なら「例外」となるであろう。だが、理由が、単なる「保護主義」だと、日本は叩かれる。

日本の米(こめ)にしても、国内のコンセンサスなのか国会で討論しなければ、結論は出ない。日本の消費者の立場であれば、カリホルニア米は安く手に入る。安くなった分を貯金して~増税や年金の不足分を補うことが出来る。「食料安保」だと主張する人がいるが、日本の食糧自給率は、40%で、60%を外国から輸入している。日本は国土が小さい上に、第二次大戦終戦後は工業国として発展してきた。一方で、同盟国のアメリカの食料自給率は、120%と有り余っている。日米同盟を真剣に考えるときがきたと思う。伊勢平次郎 ルイジアナ







ギリシャ国民投票計画、世界の当局者に動揺広がる

ウォール・ストリート・ジャーナル   2011年 11月 2日 8:15 JST

 ギリシャのパパンドレウ首相が同国への支援策について国民投票を行うと述べたことに世界の当局者は驚いている。3-4日に仏カンヌで開かれる20カ国・地域(G20)首脳会議ではギリシャ問題とユーロ圏に及ぼすその影響が主要議題になる公算が大きい。以下は世界の当局者の反応だ。




国会前で緊縮財政策に抗議する市民(1日、アテネ)「憲法広場」と呼ばれている。伊勢夫婦はアテネには二回、ペロポネソス半島やコリントを汽車で旅した。ギリシア人は温和である。歴史に関心がある。女性は優しく知性的だ~男女ともに非常に親切である。韓国・中国の愚民のように、暴言を吐く~暴力を振るうということはない。ただし、社会主義政党が19年間も政権に就いた期間に、ギリシアの国民は「自助努力」の大切さを忘れてしまった。

公務員は役所に行かず、アルバイトしたり~年金管理が杜撰なので、この世に既にいない父母の年金を受け取っていたとか~海辺で太陽に背中を焼いている漁師に、“あなたは何故魚を獲りに行かないのか?”と質ねると、“魚を獲ってどうする?”“若いときに働いて貯金しないと、老後に困りますよ”“老後?年取ってからでは楽しめない~俺は、今、日光浴して楽しんでいるのだ”と答えが返ってくるのだと。確かに、ギリシア人は、快楽が好きのようだ。"将来はそのときがきたら考える”のだと。今、その将来が押し寄せている。

Greece map

国土は日本の3分の1~人口は、1200万人足らず~国民所得は、$32000(USD)で日本の国民所得と変わらない~エーゲ海には、3000の小島があり、気候は快適、、とても、巨大な債務を抱えた貧乏国とは思えない。そういえば、アテネにはジプシーはいたが、乞食やホームレスはいなかった。ギリシア人は痩せてもおらず、高級車に乗っていた。泥棒も少ないのだ。これさ、全部、借金でやっていた??産業も、海運業~鉱山~造船~観光~牧畜、、自給自足は可能なのだ。ただ、キャッシュが枯渇している。でも、アテネやコリントで、騙されたことはない。人間は正直に思えた。


WSJの記事に戻ろう、、

 1)ゼーリック世界銀行総裁は、ギリシャ政府の動きは「さいころ賭博」のようなもので、金融市場を不安定にする恐れがあるとし、「失敗すれば、混乱状態になる」と述べた。

 2)カーニー米大統領報道官は、ギリシャの国民投票計画が表明されたことは、ユーロ圏は同国支援策の迅速な実行を必要としているとの「見方を補強するだけだ」と語った。

 3)仏与党・国民運動連合の幹部セバスティアン・ユイグ氏は「これまでの交渉を通じて、国民投票が条件だとは言っていなかったパパンドレウ氏は現状では無責任と見える決定を下した。これまで欧州が逃れることのできた断崖から欧州を突き落としかねないからだ」と話した。

 4)スペイン政府の報道官はテレビ番組で、「ギリシャ政府の決定は尊重するが、これがユーロ圏にとってもスペインにとっても良い決定だとは思えない」と述べた。

 5)サルコジ仏大統領は緊急閣議のあと、先週ブリュッセルで発表された救済策が「ギリシャの債務問題を解決する唯一の道だ」と述べた。これより先、同大統領はメルケル独首相と、先週の合意によって「ギリシャは持続的成長路線に戻ることができる」とする共同声明を発表した。

 6)カナダ銀行(中央銀行)のマーク・カーニー総裁は議会で、「ギリシャなどの政府が検討している困難な構造改革、大規模な緊縮財政、難しい諸決定に際しては、こうした措置への広範囲な支援、広範な民主的支援が不可欠だ。これらの措置は時間とともに影響を広めていくからだ」と述べた。

 7)イタリアのベルルスコーニ首相は、ギリシャの決定は予想外であり、カンヌでのG20を前に不安定さを引き起こすと強調した。

 8)ルッテ・オランダ首相は、国民投票をするのなら急いでやるべきだと述べた。一方、オランダ最大野党の労働党は、ギリシャが国民投票を行えば、同党は支援策への支持を撤回すると警告した。


(解説)

昨日、月曜日のNYダウは300ドル下げた。理由は、欧州の救援策がいよいよ実施されると、様々な抵抗が始まったからだ。条件が厳し過ぎるとだ。さらに、中国経済は予想以上に鈍化したと報道された。原油~胴~鉄を中心に売られた。

今日、火曜日は、ギリシアの国民投票が突然発表されて、朝から売りが強まった。そこへ、米国の10月のISMという製造業インデックスが貧血状態だと報告された。中国の製造業も不振~不動産はやはりバブル崩壊だと。今日も300ドル下げた。二日で、ダウ600ドルの下げだ。

日本は、TPPで大騒ぎである。それも理解出来ないわけではない。今、津波被害の復興で戦争中だからだ。つまり、タイミングが悪いわけだ。TPPは、基本的に日米通商交渉なのだ。加盟国と交渉参加国の10カ国だが、実は、合計のGDPの91%を日米が占めている。日本政府は、日米二国間で交渉することになる。これは、「かって来た道」なのだ。80年代のクリントンVS細川の貿易摩擦で充分に経験を積んでいるのだ。恐れる必要などない。伊勢平次郎

koizumi shinichiro 11.2.11

自民党の小泉進次郎青年局長は2日、就任後初の同局役員会で「若い人の意見を聞かない、考えが古い、頭が固いという自民党のイメージを変えていきたい」と抱負を語った。

 30歳で歴代最年少の青年局長となった小泉氏は「イメージが変わらないから、民主党があれだけひどくても、党への信頼が回復しない」と強調。若者への発信強化を主とした党のイメージ刷新や、東日本大震災の被災地支援継続を青年局の重点活動方針とする考えを示した。

(2011年11月2日18時17分 読売新聞)


そうだよ、若い人の出番だ。老人は若人を応援すればいい。この小泉進次郎さんは、次代の日本を背負うだろう。伊勢

プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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