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管理人は、アメリカ南部・ルイジアナ住人、伊勢平次郎(81)です。
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スペードのエースと呼ばれた男  第一話 第3章
第一話
第3章

飛鳥山門(やまと)と名乗った関東軍参謀課長の階級は少佐である。その日、飛鳥は上級勲章の大綬に似た白と黄色の懸章を肩から腰にかけていた。年齢は四十歳前に見えた。飛鳥少佐は丸顔で背が低くかった。ふたりが並んで立つと背丈のある長谷川と頭ひとつの差があった。飛鳥は肩幅が広いので浜辺のシオフキガニのように見えた。眼まで蟹に見えた。飛鳥を「モクゾウガニ」と参謀たちは親しみを込めて呼んでいた。太い眉毛が八の字に下がっている。副参謀の地位には似合わない百姓か寄席の落語家に見えた。その丸い顔を不精髭が覆っている。飛鳥は、日本人には珍しい大きな口を持っていた。そのうえ、その口をゆがめてにやりと笑う癖がある。その不敵なスマイルは、一度見た者に強い印象を与えた。一方の長谷川は、高原の牧場で育った為かのんびりとした印象がある。脚が長く肉体労働で胸部が発達していた。その黒い瞳を除いて精悍な風貌である。長谷川にも癖があった。納得できないことを強いられると眼をギョロギョロと左右に動かすのである。

「私は何故、徴兵されたのでありますか?」と長谷川が眼を左右に動かしていた。
「俺が選んだからだよ」と飛鳥が長谷川の不服に気が着いた。
「キサマは俺の指揮下にはいる」と同じ部屋にいた鎌田中尉が言った。中尉が蛙を追い詰める蛇のように舌をちょろりと出した。
「なにとぞ、よろしくお願い致します」と長谷川が言うと「ぷい」と蛇は横を向いたのである。その瞬間を飛鳥が見ていた。
「もういいだろう」と飛鳥が言うと「ハッ」と鎌田は軍靴を揃えて飛鳥に敬礼した。そして靴音高く部屋を出て行った。飛鳥が口をゆがめた。
「君は、この連隊で二ヶ月の歩兵訓練を受ける。それは基礎体力を着けるためである。この期間は鎌田中尉が上官なのだ。軍隊で生きるコツは要領だ。うまくやれ」飛鳥は陛下の銀時計に敬意を表して、二等兵を「君」と呼んだのである。
「上等兵が上官じゃないのですか?」長谷川が恐れていることを訊いた。
「関東軍憲兵隊情報部候補生という肩書きだ」
「憲兵でありますか?」長谷川は自分には似合わないと思ったが二等兵よりはマシだと思った。
「俺は参謀課長副官だが憲兵少佐が表向きの顔だ。君は馬に乗れるか?」
「ハッ、馬小屋で生まれたようなもんですから」
「しかし、それは道産子だろう?」
「そうであります」
「北満では道産子は役に立たない」
「はあ?」 飛鳥の言う言葉を長谷川は理解できなかった。 
                   
五月十日に入営してから一ヶ月が経った。やはり鎌田中尉と軍曹たちが新兵をしごいた。動作の遅い二等兵に鉄拳をくれた。「キサマらのようなウスノロは実戦になれば初日に犬死する。だから今、おれが親の心を以って鍛えてやるのだ」と言った。軍隊では、一階級上の兵隊は神様なのである。二等兵の任務のひとつに上官の世話がある。二人の上官の世話をする。下着の洗濯はもとより着替えまで手伝う。寝台の毛布を真っ直ぐする。長靴を磨く。酒保へ煙草を買いに行く。きびきび行動しないと鉄拳を見舞われた。新兵は鉄拳制裁が公に認められていることを知るのである。要領のいい者は、うまく立ち回った。そういう兵隊を上等兵らは飼い犬のように扱った。長谷川の階級も二等兵である。だが、仕える上官はいなかった。鎌田中尉も軍曹も「長谷川を殴ってはならない」と飛鳥から命令されていた。

七月に入ると、初年兵は北海道の旭川大隊へ移動した。日中の気温が十八度と気持ちが好かった。牛丼が美味かった。旭川の歩兵大隊の兵隊は体格が一段と違っていた。肉食が多いからである。旭川では、歳上の長谷川も、実弾訓練、野砲を引っ張る演習、夜間行軍も、メシも新兵たちと同じだった。長谷川に馬が与えられた。道産子ではなかった。馬格が大きく脚の筋肉が違う。道産子に比べて背が高いので驚いた。またがるのに強い脚が必要なのだ。「オーストリア騎兵の馬だ」と厩舎の兵隊が言った。そこへ鎌田がやってきた。

「長谷川二等兵、青森第五歩兵連隊は、八月十八日、満州へ出発する。一週間の盆休みが与えられている。充分に女房のケツを可愛がって来い」と言って出て行った。鎌田は恩賜の銀時計を貰った長谷川をいつかはリンチしてやると決めていた。

「ゆうゆうゆう」と木炭バスの音が北の方角に聞こえた。佐和子と二人の娘がバス停で待っていた。木炭バスのステップに現れた軍装の長谷川は満面に笑みを浮かべていた。髭が濃くなっていた。首が太くなり、ひきしまった顔は高校教師のものではなかった。
「あなた、すっかり兵隊になったのね」と佐和子が悲しそうに言った。佐和子は津軽藩士の末裔なのである。
「いやあ、そうでもないよ」と道夫が笑った。
「菓子を買ってきた」とミチルの頭をなでた。
「わあ、とうちゃん、嬉しい」とミチルが父親に抱きついた。娘は留守中に大きく育っていた。声も強くなっている。
「ミチルは、毎日、学校へ行ってるかな?」
「あなた、この子ね、津軽三味線が好きなのよ」
「習えば?」
「津軽三味線は手首が発達しないと弾けないのよ。ミチルはまだ幼いから」
「ミチルはどうして三味線が好きなの?」
「元気が出るから」と娘が答えた。
「ふ~ん?」と父親が顎に手をやって何かを考えていた。

――二等兵の給料は月六円、、米に換算すれば、一升枡で二六杯分なのだ。とても親子四人が食える給料じゃないと自分が満州へ行った後を心配したのである。

続く
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04/29
スペードのエースと呼ばれた男  第一話 第2章
第一話
第2章



日本を発ってから一ヶ月が経った。今日は九月二十三日、立秋である。あの日に自分の運命が決まった。長谷川が四月の夜を想い出していた。

――自分は青森の田舎教師である。週末は父親の経営する農場で牛馬の世話をする。新居も建てた。妻と娘が二人、、自分は幸せな男だ。しかし、それで良いのか?弟の鮎二と鱒三は、自分より先に出征した。日本は国家をあげて戦争中なのだ、、
「道夫さん、寝られないの?」 と妻の佐和子が寝返った。ふたりは布団の中だった。道夫はそれには答えず佐和子を抱いた。佐和子が左手で道夫のペニスを握った、、 



長谷川道夫が台秤に乗って真っ直ぐ前を見ていた。
「いい体格をしとる」と徴兵官が言った。軍医の前で越中を脱いだ。
「年齢二十八、身長百七十六センチ、体重七十一キロ、視力抜群、歯に問題なし、痔なし、性病の形跡なし。従って、第一甲種合格」と軍医が読み上げた。長谷川道夫が二十歳の若者たちに混じっていた。昭和十四年(一九三八年)の四月であった。

長谷川道夫と佐和子と娘のミチルが八甲田温泉の村から西へ歩いていた。緩やかな上り坂である。長谷川は二歳のミチコを背負って風呂敷包みを右手に持っていた。三キロの距離は格好の散歩である。三人は後藤房之助伍長の銅像の前に立って目を瞑った 。長谷川はゲートルを脚に巻いた兵装であった。銅像のある丘に来たのは故郷の英雄に陸軍青森第五連隊に入隊したことを報告する為である。七キロ南に雪を被った八甲田山が連なっている。八甲田山とは、青森市から六十キロ南にそびえる複数火山の総称で日本百名山の一つなのである。昭和十二年の四月の末日であった。八甲田山の山麓をタンポポが占領していた。雪が解け、春が風の中に匂っていた。その風の中に小雪が舞っていた。その小雪の中で風呂敷包みを解いて重箱を開けた。ミチルが稲荷をひとつ手に取ると八甲田山雪中行軍の生き残り後藤房之介伍長の銅像に走って行った。そして台座の花壇に供えた。



「キサマは、何故この歳まで、お国の為に志願しなかったのか?」と面接した三人の士官の一人がなじった。長谷川は、中尉の襟章を着けた鎌田という男を一生忘れなかった。鎌田は眉毛が薄く、顔がのっぺりしており、細い目を動かさずしゃべった。明らかに凶相である。長谷川は恐れず答えた。
「自分は酪農家の長男であります。両親と妻と幼い娘が二人おります。合わせて高等学校の教師ということで徴兵免除となったのであります」
長谷川は、背が高く胸が張っており、眉が太く顎が発達していた。笑うと揃った白い歯が印象的であった。精悍な風貌とその黒い瞳は、みつめられた者を一瞬タジタジとさせた。鎌田も一瞬怯んだ一人である。
「第一甲種合格のキサマが教員だから免除だと?」鎌田中尉がその細い目で長谷川を睨んだ。長谷川の眼が左右に動いた。
「弟ふたりが徴兵されました。初老の父ひとりでは牛馬を扱う酪農は出来ません。私は北海道帝国大学大学院で博士号を得ました。それも理由かもしれません」
鎌田中尉を除いてふたりの仕官が目を見張った。黒田清隆の札幌農学校が北大と呼ばれているのを知らない青森県人はいないからである。その青森には大学などなかった。
「だから、どうした?」と鎌田中尉が見下げるように言い放った。隣の小太りの士官が耳うちした。鎌田の細い目が大きく開いた。
「ほう、天皇陛下から恩賜の銀時計を頂戴したのか?」
「ハッ」長谷川は兵隊言葉になっていた。成績優秀者の恩賜が集めるのは羨望だけでなく嫉妬が混じることがしばしばだった。苦い経験が身を固くした。
「専門学科は何だったのか?」
「アジアの河川と文明であります。地球物理学であります」
三人の士官が黙った。なぜなら何のことか分らなかったからである。
「それでは、何故、青森高校の教員なのか?」
長谷川は、この質問にどう答えるか迷った。その理由とは、学生たちがいかに徴兵を逃れられるかその口実を探る為だったからである。学生の中には、国に奉仕することを心から望む者が多かった。だが、もし望まぬなら?
長谷川には、どの学生が徴兵を逃れたいのかが判った。「長谷川先生はどうして徴兵されなかったのですか?」と訊いてくるからである。その学生は「北大へ進学したい」と言った。長谷川は満州事変が起きた年、戦争は拡大する。多くの青年を無為に死なすと考えていた。
「大学へ進んだ学生は人格が育っています。高校生はまだ意思が定まっていませんので自らの意思を育てることが重要だと考えました」
それを聞いた面接官のひとりが片方の眼をつむり、一方の目の眉毛をつり上げた。
「北大には、マルクス・レーニンを教え、マルクス・レーニンこそ人類の取るべき道だとする学生が多いと聞いたが、キサマはどう思うのか?」
「自分は共産主義が良いのかどうか判りません。マルクスも読んでいませんから。自分は科学が人類に貢献すると信じています」というと、尋問した士官は頷いた。もう一人の士官がノートに何か書き込んでいた。
「十日後に入営を命じる」と鎌田中尉が言った。そして事務官に指示して兵装一式を長谷川に与えた。これが青森県人、長谷川道夫二等兵の初日となったのである。



青森市内にある青森歩兵第五連隊の演習場は小学校の校庭のサイズであった。それが理由で青森では実弾演習は行わなかった。実弾演習は北海道の旭川大隊で行ったからである。その四月の朝、八百名の新兵が集合した。二十歳で徴兵された青年である。整列に慣れていない者がいた。都会育ちの者は軍隊そのものに恐怖を持っていた。恐怖が若者をまごまごさせた。少しでも列から離れた兵隊や脚を揃えていない者を、軍刀を下げた軍曹が睨みつけながら押したり、足を蹴ったりした。農村出身の青年は屈強である。親からも蹴られたことがなかったので軍曹を睨みつけた。「ナンダ、キサマ」と軍曹が思いっきりビンタを張った。りんごのように赤い頬をした青年は生まれて初めてビンタを食らったのである。それでも根性のある若者はビンタを張った軍曹の胸を押した。軍曹が後ろ向けにひっくり返った。すると三人の上等兵が飛んで来た。新兵は列からひきずり出されて肋骨が折れるほど袋叩きにされた。それ以来、新兵が上官に歯向かうことはなかった。整列と点呼の後、兵装の着け方が始まった。ほとんどの者がゲートルを巻くのに手間取っていた。ゲートルは硬く巻かないとズルズルと解けて足元に団子になるのだ。次に挙手敬礼である。これはそれほど問題ではなかったが、一秒でも遅れると怒鳴られた。怒鳴られても直らない者はビンタを食った。その次が兵隊用語なのだ。最後に重兵装歩兵行進を習った。小銃を右手に持ち、三十キロの背嚢を背負って演習場を三時間、行進した。訓練が終わると兵舎に入った。「飯あげ」という声が聞こえた。新兵は飯盒を持って並んだ。その飯盒に炊き立ての麦飯~蓋に煮魚を炊事兵が投げ込んでいた。炊事兵は新兵ではなかったが二等兵だった。連隊長が「飯はいくらでも食って良い」と言った。農村出身の青年は「いくらでも飯が食える」と喜んだ。兵卒も連隊長も同じ釜の飯を食った。その中に長谷川道夫の姿はなかった。長谷川は兵舎の仕官室にいたからである。
                       
日本第八師団青森第五歩兵連隊は陸奥湾が見える青森市の郊外にあった。日清戦争では日本軍が朝鮮半島で勝った。だが日本に新たな脅威が現れた。それはニコライ皇帝のロシア帝国であった。ロシアは巨大な陸軍国である。日本陸軍は軍備拡張が必要となった。青森第五歩兵連隊は六個師団の一つである。兵士はおもに東北地方出身者から構成された。満州~千島~樺太の防備が任務なのだ。満州国の首都である新京特別市に関東軍司令部がある。関東軍はハルビン~満州北部~東部のソ連国境に接する牡丹江守備隊構成に関東や東北出身の若者を選んだのである。

続く
04/29
「スペードのエースト呼ばれた男」を連載します
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5年前に書いた「スペードのエースと呼ばれた男」は、上中下巻と1200ページの長編なんです。満州を舞台に展開する日本、ソ連、満州馬賊、上海の闇の帝王と長谷川道夫大尉の戦いを描いたんです。みなさんは興味ある?まあ、コリポン先生が読んでくれればハッピーですが。伊勢
04/29
スペードのエースト呼ばれた男  第一話 第1章
スペードのエースと呼ばれた男

第一話
第一章

1938年、、



鎖につながれた囚人がハンマーを枕木に打ち下ろしていた。満人のクーリーが線路を敷いていた。その線路の後ろに河が見える。アムール河だ。赤ひげのロシア人が河に鉄橋を架けていた。遠くに気車の悲鳴のような汽笛が聞こえた。パンパンと鉄砲の音がした、、「わ~」という声が闇の中に聞こえた。ロシア兵が一斉に撃ち出した。日本軍の騎兵が馬からバタバタ落ちた、、長谷川が助けようと引き寄せた日本兵の顔は目も鼻もない、のっぺらぼうだった。足元が揺らいだかと思うと長谷川は井戸に落ちて行った。両手を挙げて助けを呼ぼうとしたが声が出ない。ウ~ン、ウ~ン、、誰かが自分の肩をゆすっていた、、
「少尉、どうした?悪い夢を見たのか?」と飛鳥が笑っていた。
「はあ、少佐殿、すみません」と長谷川道夫が汗びっしょりになっていた。
「島原領事の祝賀会に出かけるぞ。本来はモーニングなんだが俺は正装が似合わない。背広にするか?」と飛鳥が言った。二人の関東軍憲兵士官は、ハルピンの日本陸軍平房基地の宿舎にいた。



ハルピン日本総領事館の島原象三郎総領事は日本人とは思えない体格の持ち主である。耳と目鼻の造作が大きく始めて会う者にインド象を想わせた。象三郎は動作が鈍い子供と言われて父親が柔道を習わせた。不器用だったが力が強かった。大学時代に講道館四段に達し全国日本学生柔道大会で銀杯を勝ち取った。島原家は備前岡山藩の良家である。島原のことば使いには、人に対するいたわりがあった。領事を知る者は「島原領事には徳がある」と尊敬していた。この日、島原総領事は、そのロマンスグレーの髪をオールバックにしていた。黒いスーツの左胸のポケットに真紅のバラを一本さしていた。純白のカラーに結ばれた蝶ネクタイが島原の角ばった顎に似合っている。今日は長女和子の結婚式なのである。もっとも和子は婚齢期をとうに過ぎていた。
――自分が甘やかしたからだ。戦時下では若者たちは早婚だ。女は十八になれば、嫁に行った。理由は適齢期の男子が徴兵されるからであるとインド象が想った。

迎賓館の庭ではすでに祝賀会が始まっており、来賓たちはワイングラスを持って談笑していた。島原夫人がワインボトルを持って酌をしていた。そこへ花嫁が乗ったマーチョ(花馬車)が入ってきた。写真屋がフラッシュをボンボン焚いた。女性の歌手がマイクロフォンを掴んだ。

ワータシャ十六 満州娘
春よ三月 雪解けに
迎春花(インチュンホア)が 咲いたなら
お嫁に行きます 隣村
ワンさん 、待ってて 頂戴ネ

来賓の婦人たちは、ハンカチを目に当てて泣いていた。日本人も、給仕の満人も、ロシア人も泣いていた。戦時中のわずかな平和のひとときだからだろう。「ポ~ン」と、クス玉が割れて白い鳩が一斉に秋の青空に飛び立った。祝賀会が始まった。大広間で島原領事と飛鳥が遠方から遥々とやって来る三人の客を待っていた。
「島原領事さん、モスクワの日本大使館ヘ赴任すると聞きましたが」
「いや、クレムリンに断られた。ペルソナ・ノン・グラータ(招かざる客)とだね」と島原が笑った。
「はあ?」
「飛鳥君、来客の前に、私から先に頼みたいことがある」と島原が飛鳥に言った。島原と飛鳥と長谷川が背後の個室に入って厚いドアを閉めた。
「閣下、何なりと仰ってください」と始めに飛鳥がクチをきった。
「飛鳥君、僕を助けてください」と島原が言った。象の目に本当に助けが要ると書いてあった。島原領事は、ソ連領事館との対話は途切れているばかりか盗聴と密偵の活動が頻繁となっていて、自分の妻子も危険に晒されていることを飛鳥に告げた。
「閣下、関東軍司令部は、桜・特務機関を組織しています。桜・三号特務機関員が閣下のご家族を守ります」
「桜・三号の任務は何なのかね?」
「極秘なんです。言えません」
島原は暗殺部隊ではないかと思った。いくら戦争といえども暗殺は邪道だと思っていた。だが、クレムリンに暗殺部隊があることを知っていたので、致し方がないと思った。
六尺四寸の島原と五尺六寸の飛鳥が固い握手をした。片隅で長谷川少尉がメモを取っていた。訪問者は三人だった。三人は自己紹介をした。そして領事の横に立っている飛鳥を見た。ツイードの背広を着た飛鳥は島原の肩の背丈しかない。体重も島原の半分以下である。訪問者たちが心配そうな顔になった。うわさに聞いた関東軍参謀副課長がみすぼらしい田舎の百姓に見えたからである。その飛鳥が「はてな」と目の前に立っている太った男を見ていた。軍人ではない。ビジネスマンであった。一番目の客が椅子に座った。顔つきも体も精悍な軍人である。だが拳を固く握って膝に置いている。なかなかクチを開かない。話を切り出すのをためらっているのだ。
「連隊長さん、何のご用件ですか?」
飛鳥は依頼人がアイグン飛行基地飛行連隊長だと知らされていた。
「飛鳥参謀殿、ホロンバイルの敵情を空中偵察して頂きたいのであります」と鷹のような鋭い目で飛鳥の目を真っ直ぐ見ていた。小柄な戦闘機乗りである。
「ソ連軍に動きがあるんですか?長谷川少尉を遣りましょう」と飛鳥は、二の返事であった。連隊長が長谷川を見た。――軍人にしては気品があると思った。長谷川が会釈をした。拒否されると思っていた連隊長の顔が暗闇にパッと電球が点くように明るくなった。立ちあがると敬礼せず飛鳥のデスクへ行き、参謀の手を両手で握った。飛鳥がドアを開けて戦闘機乗りを送り出した。二番目の客は軍人ではなかった竹内と名のった。竹内が名刺を飛鳥に渡した。飛鳥が目を見張った。
「竹内さん、ご用件をおっしゃって下さい」
「飛鳥参謀、先月、ハバロフスクで日本人狩りがあったんです。強制労働収容所に連行されたのは三十八人の大日本帝国極東貿易の社員や請負の社員です。これを何とか救出して頂きたいのです」
飛鳥と長谷川が壁の地図を見た。ハバロフスクはアムール河とウスーリ河が合流する地点にあった。
「社長さん、極東赤軍の強制労働収容所を襲うのは、関東軍には不可能だと思って下さい。今日はお話だけ聞いておきます」
竹内ががっかりした様子で部屋を出て行った。
三番目の客、一色金造が広間で自分の番を待っていた。一色は遠路遥々、上海からやって来た。先客の相談が終わるまで、せわしなく視線を動かし落ち着かないようだ。それも無理からぬことで、気もソゾロでなくては、あの臓腑が煮えたぎる様な悪夢を想い出してしまうからである。
――あの日、自分は上海日本総領事館の駐在武官の部屋の椅子に座っていた。黒駒総領事が現れるのを待っていた。用件は復讐だ。自分は上海きっての売春サロン、天女笑楼で一財を為し、日本疎開の顔役になっていた男だ。その宝船が火を着けられて全焼したのである。姑娘(くうにゃん)~妓生(きいせん)~花魁(おいらん)トータル六人が焼け死んだ。天女笑楼は潰れた。自分にとって天女笑楼などどうでも良かった。復讐とは、眼に入れても痛くない娘が輪姦されたことなのだ。

「一色社長、気の毒だが領事館には何も出来ないよ」と黒駒総領事が、ここを出て行ってくれとばかり素気無く言った。
「黒駒さん、特高警察はどうなんですか?」
「特高は日本人の政治犯だけだよ」と横の駐在武官が切り捨てる口調で言った。
「それでは治安も何もないじゃないですか」
一色の目に官僚に対する憎しみが現れた。
「上海に治安などないよ。だから社長も儲けたんだろ?」
「自分は日本租界に大金を寄付してきましたが?」
「そのカネで任侠を雇えば済む」と打ち切るように総領事が立ち上がった。一色は奥歯が割れる程歯ぎしりをした。
――任侠とは古い話しだ。吉良の仁吉はとっくの昔に浪曲となった。上海にいる日本のヤクザはみんな青封(ちんぱん)の子分なのだ。青封は秘密結社なのだ。娘を強姦したのは青竜会の南原竜蔵のチンピラどもだ。だが張粛林がボスの中のボスだ、、
一色金造は領事の素気無い言葉に腹綿が煮えくり返った。自分は、十年前、上海にきてから今まで順風満帆、日の出の勢いだった。些末な事件すら殆どなかった。自分が築いた富と名声がそうしたのだと思っていた。だが事件は起きた。上流社界や顔役への寄付金が効いていると思っていた自分がバカだった。しかし青竜会では相手が悪い、、藁をも掴むつもりで、飛鳥参謀と人情に篤いと名声の高いハルピン総領事に陳情に来たのだ。
「一色さん、どうぞ」と長谷川が広間に続く扉を開いた。一色は、チョビ髭を生やし、金歯がゾロっと光っていた。美味いものをタラフク食ったボテ腹である。英国仕立ての三つ揃いのチョッキのポケットから十八カラットの金時計が見えた。飛鳥が苦い顔をした
「何のご用件か?」
一色は長谷川に聞かれたくないのか、長谷川を、ちらっと見た。そして飛鳥の右耳に耳打ちした。
「それは出来ない相談だ。軍務ではないからね」
すると、一色が再び耳打ちをした。飛鳥が右指を立てた。拒絶のサインである。いつもの温和な表情が飛鳥の顔から消えていた。
「ほう?殺してくれとかね?」
「カネならいくらでも払います」
「出て行け!」と飛鳥の凄まじい一言が部屋の外まで聞こえた。一色金造の顔が真っ青になった。
広間に出た一色が島原領事を見つけて取りすがった。一色は、飛鳥に拒絶されたショックで滴り始めた額の汗を拭う事も忘れていた。わが身の不幸を訴え、飛鳥の力添えを領事に取り成してもらおうと必死になっていた。一方で領事の立場はいくら醜悪な客でも取り継ぐしかなかった。一頻り話し終えたのだろう、渋い顔をした領事が一色を従えて飛鳥の前にやってきた。
「飛鳥君、もう一度。一色さんの話を聞いてやってくれんか?ダメならダメでいいんだ」と巨象が飛鳥に訊いた。
「はあ、軍務じゃありませんが?」と言ってから、再び個室に入って扉を閉めた。一色金造が訥々と語り始めた。
「私は娘を一人で育てました。妻が先立ったのです。京子は十八歳になったばかりです。ボーイフレンドも作らず勉強をしました。小児科の医者を目指していました。問題があったんです。それは私の娘はあまりにも美女なんです。上海のシンデレラと言われたのです。私は、いろんな事業に成功しました。中でも天女笑楼は、カッパ、カッパと儲かるドル箱になっていました」と一色が背広の左胸を開けて右手でカネを内ポケットに放り込むしぐさをした。ここまで聞いた飛鳥がクチをまげて苦い顔をした。一色が、何かまた失言したかと心配になって飛鳥の目を恐る恐る見た。「続けなさい」と飛鳥が言ったので、娼館の金主は蝶ネクタイを緩めた。そしてクシャクシャのハンカチで滴る額の汗を拭った。
「南原竜蔵は青竜会のボスです。この南原が私に、みかじめ料を払えと強請りました。私は事なきを望み、払いました。だが、足元を見てどんどん要求額が大きくなって行ったのです。ある日、ついに断ったのです。すると南原は学校から帰る途中の京子を浚って輪姦しました。支那人まで京子に乗っかったのです。チンピラどもは抵抗した京子を殴った。京子は、眼、歯、鼻、顎の手術を受けた。顎の付け根をワイヤで止めています。学校も行かなくなった。私の娘は元には戻らない。もうシンデレラじゃない、、」
一色が堪らなくなって嗚咽を漏らした。飛鳥が手を顎に当てていた。長谷川が水差しからコップに水を 注いで一色に手渡した。上海の富豪が一気にコップを空にした。
「それで、南原を暗殺してくれとかね?」
「いいえ、参謀のお力をお借りしたいだけです」
「参謀といえども限界がある。その後はどうなったのか?」
「私は、南原の要求を拒絶し続けました。すると、今度は天女笑楼に火を付けたのです。胡娘、妓生、花魁が焼け死にました。天女笑楼は潰れた。私は復讐を心に誓った。だけど南原は秘密結社青封のボスである張粛林の子分なのです」と一色は話し終わると飛鳥の答えを待った。

――飛鳥はどうするのだろうかと長谷川が耳をピンと立てた。アコーデオンの奏でるポルカが聞こえた。飛鳥が窓の外を見た。人々が噴水の周りに集まっている。一呼吸置いた飛鳥が話した。
「一色さん、私らには何も出来ないよ。だが忠告をあげよう。闇商売から一切、手を引きなさい。まともな事業をやりなさい。あなたなら出来る。それに今、私が聞いた事は胸に留めておく」と飛鳥が立ち上がると、一色の肩に手を置いた。

島原領事、飛鳥、長谷川が広間から石段を下りて庭に出た。警備兵が脚を揃えると敬礼をした。そして道を開けた。三人がピンクの薔薇のトンネルをくぐって噴水の前に出た。新婚のカップルが迎えた。新婦は純白のウエデイングドレスに豊かな黒髪が似合っていた。アコーデオンが「黒い瞳」を弾き出した。ロシア民謡である。父親が娘の手を取った。ゲストたちが丸くなって、ふたりを囲んだ。父と娘が踊った。花嫁が右腕を父親の肩に乗せた、、ワルツが終わると、来賓の女性たちが空に薔薇を投げた。石畳に爆竹が弾けた。こどもたちが駆けまわっていた。インド象が飛鳥のテーブルに歩いてきて椅子に座った。その重量に頑丈な椅子が軋んだ。長谷川が総領事の横に座ったロシア人女性を見た。すみれ色のドレスが花嫁よりも来賓の眼を惹きつけていた。
「カレン・スターです」と女性は立ち上がると長谷川に流暢な日本語で自己紹介した。あなたのロシア語の教師だと言った。カレンは、ウエーブのかかったブロンドを束ねて三つ編みにしていた。あまりにも若いので長谷川が歳を訊いた。十九歳だと答えた。小柄でロシア人の顔ではない。また訊くと、ウクライナのキエフから来たユダヤ人なのだと答えた。長谷川は納得がいった。島原領事がビザを日本政府の許可なくユダヤ難民に、どんどん発行したと新聞で読んでいたからである。それにしても、領事の紹介を待たずに自己紹介をしたこの女性は勝気な性格だなと長谷川が思った。
「ミス・カレン、ロシア語をマスターするには何年掛かるものなんですか?」
「マスターする必要はないのです。会話がわかる程度で良いのです。暗号解読はクリル文字が読めれば出来るのです」
「北部満州を見て回るから、少なくとも、八ヶ月はハルピン中心の生活になると思う」と横でふたりのやり取りを聞いていた飛鳥が言った。カレンが飛鳥に会釈した。
「この教科書でロシア語やロシア文化を習います」とカレンがテキストブックをくれた。そのとき、長谷川の手がカレンの手に触った。
「ミーエジェル(すみません)」と言ったが、蝋人形のような手の美しさに胸が騒いだ。カレンの頬が赤くなった。カレンには、はじかみがあると長谷川が思った。
「長谷川さんは国体に出られたって聞きました。何の競技だったんですか?」
「スピード・スケートですが、五位に入りました」と長谷川が白い歯を見せて笑った。カレン・スターが長谷川の黒い瞳を見つめていた。そして、その視界の端にブーケが舞った。



武官が運転する車が松花江大橋の船着場で停まった。松花江の西に夕陽が沈んで行くのが見えた。飛鳥と長谷川が車を降りて哈爾浜館のロビーに入って行った。フロントは、「ドーブルイ ヴィエーチル(こんばんは)」と言った長谷川を疑わなかった。シベリアからきたラッコの毛皮商というわけだ。ふたりが憲兵司令部が作った身分証明書を見せた。満人のボーイがふたりを三階の部屋に案内した。部屋に入ると、飛鳥が手慣れた手つきで盗聴器が仕掛けられてないかチェックした。スイッチ、電球、電話機、扇風機、、長谷川はこのチェックを天津のホテルでも見た。調べている間は一言もしゃべらなかった。盗聴器やカメラはなかったようだ。関東軍の憲兵が抜き打ち検査をするからだろう。それでも大事なことは筆談した。
「メシクッタカ?」と飛鳥が広東語で言った。部屋はクリーンだという合図であり緊張が解ける瞬間でもある。
「少佐殿、この河の向こうはソ連領でありますか?」
「いや、あれは松花江だ。ソ連領は九〇〇キロ北のアムール河の向こう岸からだ」

――自分は河に縁がある。八甲田山の駒込川のほとりで生まれた。道産子の花子が木橋から落ちて荷駄ともに急流に飲まれた。あの冬の日はみぞれが降っていた、、長谷川が少年時代の出来事を想った。
長谷川が青森の妻に絵はがきを書いた。無事であることを知らせるためである。はがきを書き終わるとハルピンからチチハルへ行く鉄道地図を開いた。アムール河はさらに北にあった。長谷川は、ついにロシアの国境が見られるかと興奮していた。指を右へ移すとハルピンが日本で最果ての宗谷岬のある稚内と同じ緯度であると気が着いた。九月中旬の気温は平均十六度と快適なのだ。それを上官の飛鳥に話した。
「最果ての宗谷岬か。ハハハ、、だがね、ハルピンは、来月中頃になると気温がぐんと下がる。満人の綿入れでは凍死する。俺たちは毛皮の外套が必要になる。十一月には雪が降る。迎春花(インチュンホア)が 咲く四月までハルピンに春はやってこないんだ」

続く
04/27
消えたポセイドン  第一話 終章


今年初めて、500メートルを泳ぎました。6月には80になります。簡単にくたばらないよ(笑い)。みなさん、ご感想をください。伊勢

終章

四月八日に、監視団の一行がオスロからスピッツベルゲンに飛んでから一週間が経った。仁科と中村が成田の国際線出口で十一人を待っていた。バックパックを背負った監視団が出てきた。フラッシュの連続音がした。マイクを持った東都テレビのアナウンサーが先頭の知念を遮った。警官がそれを差し止めた。十一人がリムジン三台に分かれて乗った。

「知念君、総理が晩餐会を開くと言ってきたがね、断ったんだよ」
「仁科課長、それじゃ、どっかで宴会はどうでしょうか?」と銀平さんが言った。大笑いになった。
「江戸川君、もう予約取ってあるんだ。坂本さんも呼んである」
「課長、私、中華が食べたいわ」
葵が甘えた。
「夏目君、そう思ってね、新橋の趙山にしたんだ」
「わあ、アンナ、趙山は四川料理の大本山なのよ」
「私も、中国料理が食べたかったわ。クジラはもういいの」

宴会は最高だった。仁科、知念、鞍馬が酒を酌み交わしていた。英雄のハンクと赤やんは、ビールのジョッキを煽っては、四川の名物料理を感謝もなくスプーンで食べていた。鞍馬が横に座っている坂本に酌をしていた。葵がアンナに話し掛けた。
「アンナ、ロンドン軍港の埠頭で母親になるって言ってたけど、あなた妊娠しているの?」
「一ヶ月なのよ。まだ、太一さんには言ってないの」
「どうして?」
「だって、生きて帰れるかどうか判らなかったから」
「アンナ、今、この席で発表したら?」
「恥ずかしいわ」
「じゃあ、私が発表しましようか?」
「葵さん、お願いするわ」
葵が手を挙げた。アンナが母親になるという発表にAワンチームが諸手を上げて万歳を三唱した。鞍馬がアンナをじっと見ていた。気を利かせた坂本が席を立った。アンナが鞍馬の横に行って座った。鞍馬が力一杯アンナを抱いた。拍手が起きた。

四月十六日、、
会議室にAワンが集まった。警視総監が真ん中に座っていた。十一人の監視団がひとりひとり話した。仁科が一行が生きて戻ったことを改めて驚いていた。総監を見ると目を潤ませていた。
「諸君、ご苦労だった。よくやったでは、ことばが足りない大きな功績だ。歴史的な出来事だ。残念なのは、ボクも行くべきだった。行けなかったのはご存じだがね。君たちに言っておくが、警視総監なんかになってはいかんよ。そうだろ?銀平君?」
「いや、俺、警視総監になりてえよ。おいこら、仁科君って威張れっかんね」
爆笑が起きた。仁科がAワンに、二週間の休暇を与えた。

七月七日。七夕の日。ポセイドン失踪事件が解決してから三ヶ月が経っていた。仁科が事件の全容が判ったので発表すると言うので、会議室にAワンが集まっていた。仁科が立ち上がった。
「ポセイドンは昨年の十月一日、核弾頭二個を積んでロシアのムルマンスク港を出た。ムルマンスク、ツンドラ半島の岬を回って白海に入った。十月の三日、四〇〇キロ奥にあるセベロドビンスク軍港へ行き、クボタの重機を降ろした。その日の正午にセベロドビンスクを出港した。神喰太刀は北朝鮮に着いたら殺されると斉木こと崔に言った。白海の湾口で、二人の在日が、三人のロシア人船員を射殺して海中に投げ込んだ。そこでSOSを出してGPSを切った。ポセイドンはユーターンしてノルウエーに向かった。二四時間で目的の海域に着いた。神喰はキングストン弁を抜いてポセイドンを沈めた。五時間後、ロシアの海岸に救命ボートで上陸した。神喰は、そこで、五人と別れたが、ロシアのパスポートを持っていた在日はモンゴルを経て樺太のユジノサハリンスクヘ飛んだ。コルサコフで韓国を通過して先に着いていた神喰と再会した。神喰が当面のカネを渡した。神喰は、タラバ蟹漁船を手配して五人を小樽港や新潟港に帰した。クレムリンのペドロフスキーは、神喰たちがFISの工作員を殺したと確信していた。金田、李、朴本、斉木の四人の在日を殺害した犯人は、キリネンコだった。捜査一課は、四人が地方の埠頭に浮かんでいた日の前日、キリネンコが東京に居なかったことが判明した。発見したのは白樺さんだ。斉木ら四人が臍の下を左から右へ、横一文字に割かれていたのは、キリネンコは、左ギッチョなんだ。キリネンコが在日に「神喰からカネを預かった」と言って呼びだしては、ひとりひとりを殺害した。ご存じのようにキリネンコは、赤路さんが八王子駅で射殺した。鞍馬君を撃った福建人ふたりは、スタルヒンが雇ったヒットマンで青竜団には無関係だった」
「課長、生き残った孫少年はどうしたんですか?」
「孫は斉木の義理の弟で、一番若く、ポセイドンの雑役夫だった。斉木が大阪港で殺されたことを知って隠れた。孫は無罪となって釈放された」
「課長、在日の家族はカネを持っていました。神喰船長はどういう方法で払ったのしょうか?」とハンクが質問した。
「鄭国良が闇の為替商人である朕仲夫にトラビスを送って指示したんだ。朕は、大阪に住んでいる甥にカネを持たせて釜ヶ崎のドヤに隠れていた斉木に渡した。斉木が他の在日にカネを配った」
「なるほど」
鄭国良のアタマの良さに赤やんが感心していた。
「課長、神喰船長がリスクを冒してまで、吹雪の海を航海して、バレンツ海に行った理由は何だったんですか?」
「神喰太刀は、商船大学時代、マルクスの思想に傾いておった。世界の平和は、社会主義革命しかないと信じていた。ガス田の機材を樺太ヘ運搬したとき、ロシア女のアンフィ―サをガールフレンドにした。アンナが生まれた頃、そのアンフィーサが、ソ連末期のKGBだったことが判ったんだ。KGBは、ロシア連邦では、FISとなったが、FISのトップであるアレキサンダー・ペドロフスキーは、核弾頭を北朝鮮に運ぶ仕事を引き受けないなら、アンフィーサとアンナを殺すと神喰を脅迫した。それが理由だった。アンフィーサは殺されただろう」
Aワンが沈黙した。
「仁科課長、ポセイドンの三人のロシア人ですがどうして乗っていたんでしょうか?」と重松が訊いた。
「ロシア人の船員は、FISの特務工作員だった。神喰を見張るためにポセイドンに乗っていたが、神喰に忠誠な在日が白海の湾口で殺して海中に投げ込んだんだ。だから、キリネンコが復讐したのさ」
「課長、神喰船長は、ある仕事をやって貰いたいって、アンナに言ったのですが、その仕事とは、何だったんですか?」
「夏目君、ポセイドンの位置をノルウエー海軍に知らせることだったんだよ」
「課長、聞いていいですか?あの核弾頭二個はどうなるんですか?」
「いや、総理大臣でも分からんと言うとる。タイコンデロガがアメリカヘ持って帰ったんだからね。知念君、これはね、ロシアは、公にクレイムできない。アメリカも押し黙るだろう。未来永劫、闇の中さ」
しかし、そうならなかったのである。ポセイドンは世界中が知ることになった。理由は、監視団が帰国してから一ヶ月後、ニューヨークタイムスのマケイン記者が「消えたポセイドン」を連載し始めたのである。ニッパン新聞の坂本が種を流したのである。半年後、マケインと坂本が共著で出版した。二か月後、ベストセラーになった。

エピローグ

「坂本さん、しょうがないな」と仁科が言った。だが、仁科は笑っていた。捜査一課の特捜班、籍を入れて夫婦となった鞍馬とアンナが、ひよこで集まっていた。坂本に記事を流せと言った鞍馬が笑っていた。
「先輩、それで、儲かったんですか?」
「ハンク、ハリウッド映画になるらしいよ」
「エエ~?」
「坂本さん、日本人の俳優いらんかね?」と赤路が坂本に聞いた。
「エ?出たいの?映画に出たい人は手を挙げてください」
全員、諸手を挙げた。仁科までが両手を高々と挙げていた。
「マケインに聞いてみるけど。どうも、みなさんの人相がなあ」
「先輩、それでさ、儲かったの?」
「猿楽さんらニッパンの八人で分けるからね。ボクが二割貰うことになっているんだ。まあ、マンション一戸が買えるかな。和歌子が、青砥の古マンションは、あなた、タヌキも棲みたくないでしょうねなんて、毎日のように、ボクを虐めていたんだ。それが解消するかなあ?」
十一人の監視団に内閣の外交機密費から礼金が支払われた。

七月八日、、
外は茹だるように暑かったが東京駅の構内は冷房が効いていた。
「知念さん、また釜ヶ崎へきてえな、名物のもつ煮を食おか?」
「いえ、先輩、それだけは勘弁してください」
「赤やん、又、会いましょう」
「サカモトさん、いつでも呼んでや。あんたは、おカネモチ。わい、この歳で貧乏人」
「赤路先輩、たいへん有難うございました」
「ハンク、早う世帯持ってや」

赤路が大阪ヘ帰って行った。Aワンがホームで、ちぎれるほど手を振った。
「赤路さんがいなかったら、ああは上手くことは運ばなかっただろう」と知念が葵に言った。
「赤路さんね、スピッツベルゲンで北極キツネの首巻を買ってたわ」
「夏目君も何か買ったの?」
「ノルウエーの画家エドワード、ムンクの『悲鳴』っていう絵のポスターとノルデイック、スポーツウエアを買ったのよ。私、山ガールだから」
「あれ?ボクも、大学時代、登山部に居たんだ。夏目君と共通点があるなんて。中華料理だけかと思ってた」
「まあ、失礼しちゃうわね」と葵が笑って、真剣な眼差しで知念を見た。



04/26
消えたポセイドン  第二話 第8章
第二話
第8章

四月五日、、
アンナがオスロのノルウエー沿岸警備隊に速達を出した。パパから預かった海図である。海図の一か所に、赤い丸で囲まれたウインドウがあった。「ヨーロッパの最北端、ノルウエー北岸、ギースハエスタパン島。ポセイドンの位置、71.1695°N、25.7832° E キャプテン・カミジキとサインがあった。

仁科が鞍馬を警視庁に呼んだ。知念と鞍馬が仁科の部屋にいた。午前十時である。
「鞍馬君、朱鷺さんはどうしている?」
「山手町の自宅に帰っています。ショックで痩せたようです。今日の夕方、高尾に帰ってきますが、何か?」
「知念君と話したんだがね、朱鷺さんに監視団に入って欲しいんだ。その理由はね」
「課長、分かっています。神喰船長と対面させるお考えですね?」
「うむ、そうだが、そうなるという保証がない」
「でも、アンナは、キーパースンですから」と知念が押して黙った。
「監視団の活動はどのようなものなんですか?」
「現在、海保の沖田君と国際刑事部の重松君がアメリカ海軍省と交渉をしているんだ」
「つまり米海軍の巡洋艦などに乗って、ノルウエーの北岸へ行く?」
「そうだよ」
「選抜隊の中で水泳が上手な者は誰ですか?」
「いや、鞍馬君、北極海に落ちれば、たちまち凍死するんだ」
「課長、ご存じのように朱鷺は、ボクの妻になる女性なんです」
鞍馬が、アンナの代わりに朱鷺と呼んだ。
「じゃあ、君も行くか?」
「死ぬなら、一緒に死にたいです」
「鞍馬君、アンナは承知するだろうか?」
「課長、アンナは、北極海に行くでしょう。何しろ、父親を心から愛していますから」

鞍馬が出て行った。そして坂本とニッパン新聞で会った。頼むことがあるからだ。
「う~む、鞍馬先輩、これね、仁科課長の許可が要るよ」
「ボクが事後承諾を得る」
「う~む、まあ、いいでしょう」
夕刻、アンナが鞍馬の事務所にやってきた。
「太一さん、どうする?私、イタリアンが食べたいわ」
「じゃあ、ボクの大学時代の先輩と食べよう。この人はビジネスコンサルタントと言ってるけど、面白い人だよ」
陽が西へ傾いていた。ふたりが虎の門の帝国ビルへ行った。鞍馬が園部友夫に朱鷺を紹介した 
「ほう?神喰朱鷺?珍しい名前だねえ」
園部が朱鷺に会釈をすると名刺を渡した。
「先輩、ここ家賃が高いんじゃないのですか?」
「いや、帝国ビルはスキャンダルの宝庫でね、俺は重宝なんだと、家賃はタダなんだ」
「エエ~?タダなんですか?」
「社長も会長もムショの飯を食った前科者だからね。それより、鞍馬君、俺たちも飯を食おう。朱鷺さんは何が食べたいのかな?」
「私、イタリアンが食べたいわ」
「そうだね。醤油味に飽きたからね」
園部が電話を掛けた。
「ダビンチは歩いて行けるんだ。個室を取ったから話しをしよう」 
ダビンチは、超高級イタリアンである。鞍馬が目を丸くしていた。二十分でダビンチに着いた。フロントは園部をよく知っているのか、ニコニコ笑いながら部屋に案内した。園部がワインリストを見ていた。ウエイターを呼んで注文した。ウエイターがボトルを持って戻って来た。そしてアンナに見せた。
「太一さん、これ、タスカニ―のカサーレ・ベキオっていうワインよ」
「高そうだね?」
「鞍馬君、心配すんな。もうすぐ、その理由が判る」
ドアにノックが聞こえた。蝶ネクタイをした、でっぷりと太った男が入って来た。
「園部さん、先日はお世話になった。感謝する」
「ああ、社長、今夜は、安くしてくれよ」
「店の招待です」
「うん、そうか。林さん、あれ以来、上手く行ってるんかな?」
「おかげさまで、パッタリと来ません」
林は鞍馬に聞かれたくないのか声が小さかった。林社長が鞍馬に名刺を渡して出て行った。
「先輩、あんな尊大な態度でいいんですか?」
「いいんだ。いいんだ」
ウエイターがテーブルにオードブルを置いた。そしてアンナのグラスにワインを注いだ。アンナが一口飲んで頷いた。ウエイターは鞍馬を無視して園部に会釈した。最期に鞍馬のグラスに注ぐと部屋を出て行った。
「話を聞こう」
鞍馬がポセイドン事件を先輩に話した。園部が目を大きく開いて聞いていた。
「先輩、捜査一課、国際部、海保そしてボクと朱鷺も北極海ヘ行くんです」
後輩の話しに園部が驚いていた。そして、朱鷺の可憐な顔を見つめていた。
「鞍馬君、仁科さんが決めたんだね。君は、そうとう危険な事件だと自覚はあるのかな?」
鞍馬が、福建人のヤクザに撃たれた話をした。そして、朱鷺がFISに尾行されたことも話した。
「う~む、ロシアの殺し屋事件の記事だな。俺に出来ることがあるなら言え」
園部がアンナの青い目を見た。
「それで、監視団はいつ出発するんかね?」
「三日後の八日の朝です」
「朱鷺さん、好きなもんをオーダーして構わないんですよ」
アンナがメニューを見ていた。「仔牛すね肉の煮込み ミラノ風」などネームを雑誌で読んだ文字を見つけて微笑んだ。アンナの自然な表情を見た園部が神喰船長は犯罪者ではないと確信していた。
鞍馬とアンナのふたりは、虎ノ門から地下鉄に乗って、四谷ヘ行き、中央線に乗った。尾行する影は全くなかった。

四月六日、、
「ボク、午後に朝霞駐屯地の射撃練習場へ行きますが、どなたか行きたいお方はおりますか?」とハンクがAワン に聞いていた。捜査一課の五人が手を挙げた。仁科は無理だと言った。重松と海府は遠慮すると言った。午後になると六人が警視庁のバンで朝霞に入った。
「ハンク、レミントンM24って何なの?」と赤路が訊くとハンクがライフルを持ってきた。ベルギーの軽自動小銃ではなかった。M24は銃身が長い。その分、重い。
「対人狙撃銃と言います。射程約八〇〇メートルの手動(ボルトアクション)式で口径7・62ミリ、全長約1092ミリ。対人狙撃銃が導入されるまでは、64式7・62ミリ小銃に照準眼鏡(スコープ)を取り付けて使用していたんですが、各国の狙撃銃と比べて射程や命中精度が劣っていた。陸自の狙撃手は指揮官を守ることで指揮命令系統の乱れを避けることを主任務としている。ただ、陸自は、指揮官防護だけに専従するわけではないとハンクが説明した。米軍も使用する米レミントン社製M24です。肩当て部は可変式で、狙撃手の体形に合わせることが可能。夜間でも敵を識別して射撃するための暗視装置も備え付けるほか、対人狙撃銃と同時に携帯偽装網(ギリースーツ)も導入した。葉っぱを模したギリースーツを着込むことで、敵から発見されない中での隠密活動を行いやすくする。船上で使用するなら無用です。
「ハンク、俺はね、戦場には向かないんだ。親父が初年兵のときに広島第五軍と中支の太原に行ったんだ。夜襲だったって。親父が高粱畑の中で支那兵を一人撃った。腰が抜けたと言っておった」と赤やんが言った。
「面白~い」と葵が言ったのでみんなが驚いた。
「ハンクは狙撃兵なんか?」と銀平さんが聞いた。
「JSATはみんな狙撃兵なんです」
「テロリストを撃ったことがあるの?」
「いや、銀平先輩、人を撃ったことはありません」
ハンクがライフルを手に取った。
「銃身だけどね、以前のモデルよりも十二センチ長い。重さも三百グラム増えたけど銃座を付けると安定する。警視庁のM24の狙撃メガネは日本工学製ですと言ってから七・七ミリの実包を見せた。赤路が手に取った。薬莢が大きいことに目を見張った。
「銃口から飛び出す初速が秒速十ミリに増えた。その分、有効射程も伸びて一五〇〇メートルなんです。最大射程が四百メートルのベルギー銃とは大きく違う」
「なぜ、そんなに違うの?」
「弾の先がとがった細身だから軽自動小銃は三百メートルを超えると右へ流れる欠点がある。施条が急であることが原因で量産するとそうなるんです」
「すると、施条も銃身の鋼鉄そのものも進歩した?」
「そうです。前者の量産型小銃がベースなんだけど、銃身や機関部などの精度が高く精密射撃に向いているものを選び出したんだそうです。それに照準メガネとハンドル付きの銃座を着けた」
赤路がスコープを覗いてみた。銃身よりも照準線の縦目盛は右斜めに入っていると思った。赤やんが不思議な顔になった。
「弾道の偏流と言うんです」と言ってからライフルに実包五発をまとめた挿弾子(クリップ)を差し入れて赤路に渡した。
「撃ってもいいか?」と赤やんが腹這いになった。
「あの標的は、八百メートルはある」と指さしてから、赤路の手、ひじの位置、目をスコープから一センチ離すように指導した。赤やんが引き金を絞った。「ポ~ン」と空気を割く音がした。一発目は外れた。トンボが飛んでいたが、耳がないのか逃げなかった。ハンクが標的の人形の左の肩に照準を合わせろと赤路に言った。
「ポ~ン」
人形の顔に当たった。
「先輩、当たりましたね」とハンクが笑っていた。
「みなさんもどうですか?」
勿論、葵を除いて全員が手を挙げた。当たらなかったのは銀平さんと知念である。

四月八日、、
監視団の一行がオスロからスピッツベルゲンに飛んだ。エアバスが脚を出して、着陸姿勢に入った。嵐の海を想像していたハンクが安心していた。
「おいおい、ハンク、白熊だぜ」と赤やんが言った。
二頭の子熊を連れた白熊が流氷の上を歩いていた。
「おお~!ついに北氷洋にきたぞ!」
声はキンダーブック少年の鞍馬である。みんなが窓に顔を着けて下界を見ていた。アンナが高さが三〇〇メートルはある巨大な氷山を見ていた。
――あの速達は届いたかしら?どうすれば、パパに会えるのか?アンナは心配なのだ。
鞍馬がアンナの手を取った。アンナが微笑んだ。

ノルウエー王国海軍が監視団を迎えた。東京からハンクが持ってきたレミントンM24 二丁を士官に渡した。少尉の襟章を着けた海兵が笑った。警視総監が許可したのである。もうひとりの海兵が右耳のない赤路を見て顔を傾げていた。ポールに、日の丸が、はためいており、軍楽隊が君が代を演奏した。釜ヶ崎の赤やんが背筋を伸ばした。下士官が、一行を宿舎に案内した。部屋はふたり、ひと組だった。みんなバッグパック一つである。夕刻、五時に歓迎パーティーを開くと下士官が、団長のリボンを着けた知念に言った。知念が全員の胸に英語表記の名札を付けた。着陸する前に見た湾を散歩することにした。
「知念君、ノルウエーが王国であることを知っていますか?王様は、ハーラル五世という方です。この国は、立件君主制なんですよ。明治憲法に似ている。首相は自由選挙で選ばれるんですが、保守的な国なんです」
「重松さん、有難う。こんなお話しを聞いているとボクも国際課に入れて貰いたくなった」
「私が小学生のとき、お父さんが、イプセンの童話集を買ってくれたのよ。トナカイの橇に乗ったサンタクロースはノルウエーの民話なのよ」と葵が言った。
「そのイプさんとかちゅうの娘に買ってやらんとあかんな」と赤路が呟いた。
「この湾にポセイドンが入ってきたんですね?」
「スバルバードと総称で言うらしいね。大きな湾だけど特に名前がない。日本は何でも名を着けて回ってるが」
スピッツベルゲンに、去年の十月にきたことがある重松と海府がガイドになっていた。
「皆さん、向こう岸がノルウエー国立公園なんですよ。行く時間があるのか、聞いてみるね」
「私、絶対行くわよ」と葵が言った。
「おいおい、夏目君、任務を忘れちゃダメだぞ」と知念が葵をたしなめた。鞍馬が笑った。

歓迎パーテイーは豪華であった。アンナも、葵も大好きなバイキングなのだ。ロブスター、イクラ、スモークサーモン、鯨のステーキが美味かった。銀平さんがロブスターを日本から持って来た醤油に漬けて頬ばっていた。ウエイターがもう一匹持ってきて銀平さんの皿に入れた。銀平さんがビールの入ったジョッキを傾けて美味そうに飲んだ。海府が士官と話していた。
「ミスターカイフ、ノルゲ大自然公園にお連れしますが、昼までに戻ります。午後の三時に出航するからであります」
歓声が上がった。全員がタオルを腰に撒いてサウナに入った。葵とアンナだけが海水着を着ていた。

四月十一日、、
やはり、ノルゲ大自然公園は見る価値があった。一行が雪上のハイキングで疲れていた。大体、アノラックとスパイクが付いたブーツが重いのである。食堂へ行って、鱈やホタテ貝をワインとトマトで煮たブイヤベース、スープにパンを漬けて食べた。その後、キャビンヘ戻って寝た。二時間すると扉を叩く音がした。
「海軍大佐が、ミスター、シゲマツとディレクター、チネンのおふたりに士官室へくるようにと言っています」と下士官が重松に行った。知念が何事かと心配になった。

「ジェントルマン、われわれは、ポセイドンの位置が判っている」と大佐が驚くべきことを言って海図を見せた。午後三時、日本の監視団を乗せて軽巡タイコンデロガがスピッツベルゲンの軍港を出て行った。波高六メートルは海兵なら快適である。だが、知念と重松が酔った。水兵が飲み薬をふたりに与えた。その頃、米海軍の原子力潜水艦シーウルフが冷凍船「浄土丸」を追跡していた。七十二時間前、浄土丸が豪雪警告を無視して、アイスランドのレイキャビックを出たからだ。浄土丸は、グリーンランドに向かっていた。解氷期に入ったとは言え、辺り一面、流氷である。「ギンダラを買い付ける冷凍船」だとマニフェストに書いてあったが米国海軍は信じなかった。船長がアジア系ロシア人で七人の乗組員が中国人だからだ。浄土丸が雪が降りしきる海をノルウエーのトルムソ岩礁に向かっていた。見渡す限りの岩礁は氷山の浮かぶ地獄に見えた。シーウルフの艦長が潜望鏡で浄土丸を見ていた。みぞれが降っており視界が悪い。八時間が経った。スクリュウ音が聞こえなくなっていた。浄土丸が投錨する音が聞こえた。トルムソ岩礁から百キロ北の地点である。あの海図の言う通りである。水深は二〇〇メートル。浄土丸から防寒服を頭からスッポリと着た男たちが降りて、流氷に穴をあけていた。やがて、二人のダイバーが水温マイナス二度の海に入った。シーウルフの潜望鏡に浄土丸が海中からステンレスのキャスク二個を引き揚げるのが見えた。シーウルフがクレーンの音を聞いて浮上した。神喰太刀が、五〇〇メートル東に流氷を突き破って現れたシーウルフを見た。浄土丸のクルーが見ていると、ネービーシールが氷上に次々と飛び降りた。乗り組み員が狼狽えた。
「千葉、パニックするな。これが俺の計画だったんだ」
「だけど、船長、パクられるだけじゃん?」
「いや、全てを交渉する。お前も支那人らも刑務所には行かない」
監視団を載せた軽巡タイコンデロガがシーウルフを見つけた。ついで、浄土丸を視線に捉えた。タイコンデロガが、二〇〇メートルでシーウルフの右に並んだ。監視団が防寒服を着て甲板に出た。巡洋艦の上をノルウエー沿岸警備隊の偵察機が低空飛行で飛んで行った。
「ロシアの重巡が二十キロ東のノルウエー沿岸を西へ航行している。プロペラ機が四機上空を飛んでいる。まもなく現場海域に現れる」とスピーカーからパイロットの声が聞こえた。
「重松さん、これでは、三つ巴ですね」
「知念君、ここから先は誰にも読めない」
「ハンク、M24は用意しておんのか?」とマスクを掛けた銀平さんが震え声でハンクに聞いた。銀平さんは監視団に加わったことを後悔していた。
「ご先輩、ご心配なく。船首に台座を固定しました」
「銀平先輩、俺も持っちょるよ」
これは赤やんである。

軽巡タイコンデロガのダグウッド艦長は、一三八ミリ砲を旋回させて、浄土丸の煙突に照準を合わせていた。拡声器を手に持った知念とマイクロフォンを右手に持ったアンナが舷側に立っていた。
「パパ~!ワタシ、アンナよ」
神喰が娘の声に驚いた。胸の双眼鏡を目に当てた。
――アンナだ!神喰が手を振った。一斉に監視団が手を振った。
「パパ、降伏して頂戴!お願いだから、降伏の印に白旗を挙げて頂戴」
「アンナ、トーキーを持っているか?」
知念がトーキーを高く上げて見せた。水兵が紙にコードを大きく書いて高く上げた。
「ピー、ギャー」と不協和音が知念のトーキー聞こえた。
「キャプテン、神喰である。貴艦の権威は誰か?」
「ダッグウッド艦長です」
「ダッグウッドと話がしたい」
知念が、ダッグウッドにトーキーを渡した。
ふたりが話しをしていた。神喰船長がダッグウッドに、無罪釈放の保証と一〇〇〇万ドルのキャッシュを要求した。
「キャプテン、カミジキ、ワシントンと話す。一時間くれ」
そのとき、タイコンデロガの後ろ五〇〇メートルにロシアの重巡が現れた。みぞれでシルエットだけが目視できた。一等航海士が双眼鏡を目に当てて見ていた。
「アドミラル、ウシャコフ、キーロフだ!」
キーロフは原子力重巡でミサイルが兵器である。キーロフの甲板で探照灯が点滅した。
「やつら、何か言ってきた」と信号兵が一等航海士に言った。
「わかっている」
キーロフの探照灯が再び点滅した。一等航海士と信号兵が信号を読んだ。
――シーウルフとタイコンデロガの皆様は、心よく降伏されよ。抵抗すればミサイルをお見舞いする。
ダグウッド艦長が戻ってきた。一等航海士からロシアの要求を聞いた。艦長は意外に落ち着いていた。信号兵に何か言った。
――撃つなら撃ってみろ!こちらは原潜と軽巡だが、貴殿らはキーロフと言えども一艦なんだ」
知念たちが、何事かと集まっていた。重松が、キーロフの巨大な影を見て驚愕の表情に変わった。キーロフから返事はこなかった。銀平さんが、みぞれの降る海上を見ると、タイコンデロガと並んでいたシーウルフが潜航する白い泡が見えた。一等航海士も気が着いた。
「さすがは、シーウルフだな」とダグウッドが感心していた。
「艦長、これで、キーロフは黙るでしょう」
艦長が信号兵に何か言った。信号兵が探照灯を点滅した。
――貴殿らは、その場を動いてはならぬ。
キーロフから返事は帰ってこなかった。
「艦長、奴ら、ロシア海軍の原潜と話しをしています」
「心配するな。奴ら、瞬きもしないだろう。シーウルフには勝てないよ」
「ピー、ピー、ギャー。ワシントンは、何と言った?」
「無罪釈放は保証するが、五〇〇万ドルだ」
「ダメだ、一〇〇〇万ドル払え!」
「ワシントンは、あなたが聞かなければ、撃沈を命令した」
「パパ、パパ、お願い。条件を飲んで頂戴、、」
「アンナ、この件は、難しいんだ。一〇〇〇万ドルは、パパに着いてきた男たちの報酬と船の代金なんだ」
「キャプテン、カミジキ、五〇〇万ドル。イエスかノーか?」
「ミスター、スキッパー、ノーだよ」
「カミジキが、俺を船頭と呼びやがった」
タイコンデロガのダグウッド艦長がカンカンに怒った。一等航海士が次の行動を考えて、心配になった。
「撃沈は、コケ脅しと受け取られた。仕方がない。その通りだから」
「艦長、では撃沈は実行しないんですか?」
「できるわけがない。カミジキは、浄土丸を爆破する考えなんだ」
「艦長、核弾頭は?」
「爆発するか、壊れて海底に沈むかだよ。バレンツ海が放射能の海になる」
「スキッパー、一〇〇〇万ドルを払え! イエスかノーか決めろ!三十分をやる!」
「パパ、プリーズ!」
「アンナ、これをよく見ていなさい。パパの最期だ」
アンナが号泣した。葵が両手でアンナを抱きしめた。

「丸子君、見てみろ!」と知念が叫んだ。ハンクと赤路がM24のスコープで浄土丸の甲板を見ていた。重松が氷上を見るとネービーシールが狙撃銃の台座を氷の上に据えていた。シーウルフは消えたままである。ロシアの原潜を脅すためだろう。ハンクと赤路が千葉鉄とふたりの船員が神喰船長を取り囲んでいるのを見た。三人ともピストルを持っていた。
「赤路さん、ボクが千葉を殺す。先輩は、あの大男を殺してください」
「船長はどうなるんや?」
「残ったひとりは手を挙げます」と言ってから、ハンクがボルトを引いて弾丸を込めた。
「ポ~ン!」
千葉鉄が甲板に倒れた。
「ポ~ン」
大男がのけ反った。残った一人が手を挙げた。
「ハンク、やったでえ!」

甲板で見ていた監視団が青くなっていた。アンナと葵は抱き合っていた。六人のネービーシールが駆けだした。そして浄土丸に乗り込んで行った。ひとりが、キャスクを指さしていた。
「ファーストオフィサー、タイコンデロガを氷原に寄せてタービンを停止しろ!まず、キャスクを引き揚げる」
神喰太刀と残った四人の船員が逮捕された。
「アンナ、お父さんが生き残ったわよ」
アンナが号泣した。鞍馬がアンナを抱きしめた。タイコンデロガが雪上車を出した。神喰太刀が甲板に上がってきた。海兵が神喰に手錠を掛けようとした。
「その必要はない」とダグウッドが怒鳴った。神喰がアンナがいるグループに歩いて行った。そして、何も言わず娘を抱きしめた。甲板に嗚咽が聞こえた。監視団が泣いていた。

「ファーストオフィサー、キャスクをタイコンデロガに引き揚げるには何時間かかるのか?」
「艦長、いやあ、結構、軽いんですな。ま、注意深く扱いますから、艦底に収納するまで、二時間取っています。宜しいでしょうか?」
「宜しいも何も、頼んだぞ!」
「艦長、キーロフが海域を去りました」とエーブルマン(見張り番)が叫んだ。
「キーロフはムルマンスクヘ向かっている。シーウルフが追尾している」とレーダーマンがスピーカーで言った。水兵たちが歓声を上げた。
「知念君、キーロフが海域を去ったようですね」と重松が言うと、監視団が歓声を上げて飛び上がった。水兵たちは相手の水兵の腰を抱いて踊りだした。艦長が破顔一笑した。

ホワイトハウスも、東京の官邸も、全てを衛星テレビで見ていた。大統領が歓声を上げていた。総理大臣が官房長官の手を取っていた。
「知念君、よくやった。帰国してくれ」
仁科の声がスピーカーに聞こえた。
十六時間後、タイコンデロガが監視団をロンドンで降ろした。
「パパ」とアンナが父親を抱きしめた。神喰がアンナの額に接吻するのを葵が見た。
「パパ、私、母親になるのよ」
神喰が娘を見ていた。神喰太刀の目から涙があふれ出た。
「私、必ずパパが日本へ帰ってくると信じています」
監視団と神喰がロンドンの軍港で別れた。コネチカットのニューポートに帰還するとダグウッド艦長が言った。タイコンデロガが出て行った。

次回は終章です。
04/25
消えたポセイドン  第二話 第7章
第二話
第七章

暗躍するFISに対処するために知念が作ったAワンチームは、知念、ハンク、夏目葵、赤路、江戸川、中村の捜査一課から六名。重光、海府の国際室から二名。海保の沖田、白樺そして新聞記者の坂本の三人で、合計十一名である。鞍馬をチームに入れなかった理由は鞍馬には婚約者のアンナがいるからである。Aワンには、すでにペアが確定しており、知念が指示を出すことは少なかった。相互の交信だけである。会議が必要なら仁科が指揮を取った。

三月二九日、、
五分咲きの桜が東京の風景を支配していた。AワンとFISの壮絶な戦いが始まった。ペドロフスキーがアンナの拘束に踏み切ったからである。その日の夕刻、アンナがロシア大使館を五時きっかりに出た。いつものように、地下鉄日比谷線で虎ノ門へ行き、銀座線に乗り換えて、新橋駅に着いた。一六番線から横浜行き京浜東北に乗って東神奈川で降りた。
「キリネンコ、アンナが横浜線に乗った」
「ドブラ―エフ大尉、アンナをどこで拘束するつもりか?」
「横浜線の何処かの駅のホームでやる」
菊名、新横浜、小机、鴨井と通り過ぎた。つり革につかまって立っていたアンナが空いた席に座った。
「う~む、八王子まで行くつもりか?」
「大尉、八王子しかない。アバルキンに電話をして車で八王子にこいと言います」

「赤路さん、あれはキリネンコとドブラ―エフですね。八王子でアンナを拘束すると考えられます」
「ハンク、銀平さんと中村さんは何処にいる?」
「うしろの車両にいます」
赤路が、うしろの車両に歩いて行った。一分で戻って来た。
「ハンク、ドブラ―エフとキリネンコを俺と君が逮捕する。失敗したら、中村さんと銀平さんがふたりを撃つ」
電車が五十六分で八王子の六番線に着いた。陽が山影に沈み、辺りはトップリと暮れていた。パチンコ屋のネオンが輝いている。アンナは陸橋を渡ったが、中央線のホームに降りず、突き当りの化粧室へ行った。
「大尉、シメタ。出てきたら拘束する」

赤路とハンクがふたりに近着いた。気が着いたキリネンコがトカレフを抜いた。赤路の拳銃が火を噴いた。キリネンコが倒れた。それでもキリネンコは、左手に持ったトカレフを赤路に向けた。赤路がキリネンコの喉を狙って撃った。ハンクがドブラ―エフの額に拳銃を突き付けていた。ドブラ―エフが床に身を投げた。そしてトカレフをこめかみに当てて引き金を絞った。ドブラーエフ大尉が死んだ。ハンクが振り返ると、中村と銀平さんがユーチューブに流そうと携帯を持って集まった野次馬を停めていた。野次馬が中村の拳銃を見て後ろにさがった。アンナが化粧室の出口で震えていた。ハンクが知念に電話を掛けた。メッセージでは間に会わないからだ。これをロシア大使館が傍聴した。傍聴員がペドロフスキーの部屋に飛んで行った。
「指令、ドブラ―エフとキリネンコが殺られた。ふたりはアンナの拘束に失敗した」とハンクのメッセージの内容を報告した。
「ドブラ―エフのバカヤロウ。畜生、ヤポンスキーめ、やりやがったな」
ペドロフスキーは奥歯が割れるほど歯ぎしりをした。
一報、警視庁では、知念から連絡を受けた仁科が呆然としていた。
「知念君、報道を規制するしかない。俺は総理に話すしかない」

三月三十日、、
鞍馬の横にアンナが寝ていた。寝息を立てている。鞍馬がそっと起きて、ダックスフンドたちに水をやった。太った仔犬が朝食をねだって飛びついた。好物の餌をやると六匹が一斉に食べ始めた。鞍馬が玄関ヘ行って新聞を取ると、居間に戻った。

――昨夜、六時三十分頃、横浜線八王子駅の陸橋で、スラブ系外国人Aが、警視庁捜査一課の刑事によって射殺された。もうひとりの外国人Bは拳銃自殺を図って即死した。詳細は判らないが、外国人による殺人未遂事件とみられている。被害にあう寸前だった外国人女性は保護された。

朝の六時だったが、仁科が内閣官房長官に電話を入れた。官房長官は事件を新聞記事で読んでいた。警視庁から電話がくることを予期していた。
「七時に、関与した五人の刑事と官邸ヘお越しください。総理と私だけが会います」
総理は、なにごとにも動じないというように落ち着いて見えた。仁科が、去年の九月、バレンツ海で消息を絶ったポセイドンを話した。ポセイドンが核弾頭を積んでいた可能性を話すと総理大臣が両手で目を覆った。知念がロシア大使館のFISが必死になってポセイドンの神喰太刀船長を探している。八王子駅で死んだ二人は、ドブラ―エフ大尉とキリネンコ。ロシア連邦特別警察である。つまり暗殺部隊である。なぜ、八王子駅なのか、今は、話せない。FISが警視庁や海保そのものを襲撃することも考えられる。ロシア駐在の日本の要人を拘束することも考えられる。FISは核弾頭を回収するためには何でもやる。なぜなら、それはプーシキンの命令だからなんですと言うと、プーシキンと北方四島の返還を話していた総理の顔が蒼褪めた。
「仁科課長さん、ロシア政府に対して内閣は何もできませんが、できることがあるなら何でも話してください」
「総理、海保の沖田茂次長にアメリカ海軍省と交渉する権限を与えてください」
「総理大臣の私が直筆で許可します。官房長官、用意をしてください」

四月一日、、
その朝、イリュ―シンが羽田に降り立った。ロシア大使館のFISが、ぺドロフスキーを先頭に一斉にステップを駆け上がって行った。イリュ―シンは、管制塔の指示に従い離陸した。送迎デッキから、仁科を含む捜査一課の七人の刑事が見ていた。
「知念君、一応、東京では流血の惨事は起きなかったな」
「はい、良かったと思います。だけど、、」
「だけど?」
「課長、警視庁ヘ戻りましょう。特捜会議を開いてください」
警視庁に戻った七人の刑事が会議室に入った。電話をしておいたので、重松、海府、沖田、白樺が待っていた。仁科が会議を始めようと立ち上がったとき、扉が開いた。警視総監が書記を連れて入ってきた。驚いた刑事たちが一斉に立ち上がった。警視総監は警察官の階級の最上位である。警視庁は、東京都警察本部であると同時に皇室を守る義務を兼任している。つまり警視総監は、現代日本の将軍なのである。
「捜査官の皆さん、私に気を遣わず、会議を始めてください。私が意見を述べることはありません」
警視総監が紅一点の葵を見た。勝気な葵がその黒い瞳で総監を見返した。仁科が立ち上がった。
「さて、まず、丸子君、赤路さん、銀平さん、中村君に、ごくろうさまと言いたい。刑事を三十年もやったボクでも、あんな咄嗟の行動は取れなかっただろう。ケガがなくて、まことに、みごとというしかない。ペドロフスキーが東京を引き揚げた理由も捜査一課の刑事は侮れないと悟ったからだろう」
総監が手を挙げた。
「はい、総監、何か?」
「後日、表彰になるが、仁科君、いつものように俺と言っていいんだよ」
総監出席の緊張が解けて爆笑が起きた。仁科が沖田にアメリカ海軍との会議の結果を聞いた。
「ワシントンは、心胆寒からざる思いだそうです。米国でも超極秘となっており、海軍長官とスピッツベルゲンの米潜水艦シーウルフ以外はポセイドンを知らないのです。私の考えを聞いてください」と沖田が言うとゴホンと咳をした。
「私と数人の監視団をスピッツベルゲンに送って頂きたいのです」
会議室に私語が飛び交った。みんな、選ばれたいからである。
「警視総監、お聞きの通りです。俺も賛成なんです」
「私が総理と話す。総理は今、中国へ行かれているから、二日、待たねばならない。仁科君、その期間、選抜隊を決めてくれ給え」
総監が書記を連れて出て行った。みんなが一斉に立ち上がった。総監を見送って後、みんなが座らない。仁科が怪訝に思っていると、知念がクチを開いた。
「課長、是非、ボクを選抜隊に入れてください」
俺も、俺もと、声が上がった。
「では、知念君、監視団に適する者は誰々かな?」
「課長、沖田チーフと白樺さんは必須です。みなさん、一列に並んでください」
仁科と知念が、ひとりひとりの前に立って選んで行った。ハンク、赤路、英語の堪能な重松と海府、そこで止まった。
「俺は訳に立たんからなあ」と銀平さんが言った。
「江戸川先輩、今回は、中村先輩と東京に残ってください。お土産に核爆弾を持って帰りますから」
「いや、知念君、連れてってくれ。俺も先は長くないから」と銀平さんが悲しい声で言った。中村は辞退した。それで決まった。
「知念先輩、私はダメなんですか?女だからですか?男女差別ですよ」
葵の抗議する声に知念が驚いた。知念が仁科を見た。
「わかった。夏目君を加える」
固い顔をしていた葵が破顔一笑した。知念が団長、ハンクと赤やんが兵隊、葵が花である。沖田、白樺、重松、海府、銀平さんが笑っていた。監視団は九名と決まった。
「よし、宴会をやろう」と仁科が言った。浅草の泥鰌庵に決まった。バレンツ海には泥鰌がいないからである。

続く
04/24
消えたポセイドン  第二話 第6章
第二話
第6章

三月二十二日、、

「アンナ、君と話があるんだ」と洗面所で髭を剃っていた鞍馬が横で歯を磨いているアンナに話しかけた。
「今日は、お休みを取ったのよ。明日は土曜日だし。太一さん、高尾山にハイキングに行かない?」
「そうだね、桜が蕾を着けたってニュースが言ってる。夕方まで歩こうよ」
「お犬ちゃんたちわ?」
「チエ子姉が相模湖に散歩に連れて行くって言ってる」
「お姉さんがいなかったら、私たち、こんなにのんびりしていられないのね」
九時に出ることにした。アンナが紅茶を沸かした。
「太一さん、お姉さんが、いま、高尾山は、スミレ、コブシ、カタクリが咲き誇ってるって言ってらしたわ。私、草花の写真が撮りたいの」
「アンナ、本棚に植物図鑑があるよ」
「ランチ作る?」
「いや、茶屋があちこちにあるから、小さいバックパックひとつを持って行こう」
高尾山ハイキングコースの案内パンフレットを鞍馬がアンナに渡した。標高六百メートルの高尾山のハイキングは、まるで街中をジーンズとスニーカーで散歩する様に、山頂まで気軽に歩ける。鞍馬とアンナもトレーニングパンツ、運動靴の軽装である。ふたりは高尾山口駅のわきにある小径を昇って行った。やがて、急こう配になったが、途中のケーブルカーの駅を通り越して、一号路の入り口に来た。関東の山々には霞が掛かっていた。雪を被った富士山の頂上だけが見えた。
「お母さん、梅は散ったけど、鶯がよく鳴いてるわ」という少女の声がした。
――太一さんの子供を産みたい、、アンナが自分も必ず母親になると決心をしていた。
アンナが、そんな決心をしていることを夢にも思わない鞍馬は、アンナに山や鶯の鳴き声や草花を楽しんで貰おうと努めていた。なぜなら、どこかで深刻な話しをしなければ、ならなかったからである。アンナは草花を見つけては、写真を撮っていた。道草を食っていたので、展望台まで、一時間かかった。根っこがタコの足のような杉の大木があった。アンナが見ていた。
「アンナ、大昔、この杉の木の根が山道を通るのにとても邪魔だったため切り取ってしまおうとしたところ、タコが足を動かす様に、あわてて後ろに隠れてしまったとか、伝説がある」
「まあ、可愛いお話しね」
ふたりが山頂に向かった。右手に九百メートル級の山が連なっている。小さなお堂があった。
「アンナ、これね、神変堂と言うお堂で、安置されているのは神変大菩薩。山伏のルーツと言われているそうだよ」
「日本の文化でも、仏教はとても平和な宗教だと思うの。だから、私は日本人なの」
アンナは、自分に言い聞かせるように言った。
山頂に着く頃には霧が晴れていた。やまびこ茶屋は高尾山頂では唯一の食べ処である。献立はシンプルで、カレー三種類と山芋蕎麦と山菜蕎麦である。山芋蕎麦を食べたあと、ふたりが緑茶を貰って外のピクニックテーブルに座った。他のハイカーから離れた柵の傍である。
「太一さん、富士山がすぐそこに見えるわ」とアンナが写真を撮った。
「おふたり一緒の写真を撮りますか?」とセニアの夫婦が鞍馬に語り掛けた。ふたりが並んで撮って貰った。
「アンナ、聞きたいことがある。二週間前に、アンナが山手の家に帰ると言った日を憶えてる?」
「ええ、どうして?」
「アンナは、ハリストス正教会で誰と会ったの?」と鞍馬がアンナを逃がさないように見つめた。アンナが黙っていた。
「アンナ」
「パパに会ったの」
「パパって、神喰船長だよね?」と鞍馬が念を押した。
「そう。パパと教会で会って、伊豆の下田ヘ行ったの」
「アンナ、お父さんは何か言ってなかった?ポセイドンのことだけど」
「私が聞いたら、怖い顔をしたのよ。今まで、パパが怖い顔をするのを見たことがないので、私、震えたんです。すると、心配しないでいい。パパは犯罪者じゃないって言ったんです」
「それ以外、ボクが聞いておいた方がいいことはある?」
「ええ、パパが、ロシア大使館を辞めろと言ったんです。私もペドロフスキーが東京に入ってからFISの異常な動きが判ってたので、そのつもりだって言ったんです。すると、辞めるのは、四月八日にしなさいって期日を指定したんです。私、お釈迦さまの日だと覚えたの」
「では、アンナ、パパはどうして、今すぐに辞めろとおっしゃらなかったんだろうか?」
「パパが、ある仕事をやって貰いたいって言ったんです」
「その仕事は何なの?」
「言えません。言えば私か、私の友人が殺される」
「友人って誰?」
アンナがクチをつむった。
鞍馬が沈黙して富士山を見ていた。その鞍馬を見たアンナが心配になった。
「太一さん、今に判ります。私を信じて頂戴」
「ボクは、アンナをいつも信じているよ。ボクは、君さえ良ければ結婚したいと思っている」
アンナが顔を覆って咽び泣いた。鞍馬は質問を打ち切った。
「アンナ、もっと歩く?登山電車で降りてもいいけど?」
「この稲荷山コースで降りない?桜が咲き始めているって、ハイカーが言ってたわ」
「そう?景色がまた違うんだ」
「お犬ちゃんたちを連れてきても良かったみたいね?」
「そうなんだ。今度ね」

三月二十三日、、
土曜日だったが知念は登庁した。もう休日はないと思っていた。ハンク、葵、赤路も同じで知念の部屋にいた。卓上電話が鳴った。鞍馬である。知念がショックを受ける様子をハンク、葵、赤路が感じた。
「鞍馬先輩、警視庁へきて頂けませんか?アンナは今、どこにいますか?」
「アンナは横浜ヘ帰った。ボク、仁科課長と大事な話しがある」
「課長もこられています」
「じゃあ、昼を一緒に食おうか?」
二時間後、鞍馬が仁科の部屋に入った。知念と三人の刑事が鞍馬を待っていた。
「早速だが、鞍馬君、聞かせてくれ」
仁科は知念から聞いていたが、本人から直接聞いておきたかった。鞍馬が、アンナが言ったことを仁科に話した。知念たち四人は黙っていた。
「神喰船長が自分は犯罪者ではないって言ったと?」
「ええ、ただ、アンナに四月八日にロシア大使館を辞めるように指示したんです。三月の最期の日、大使館ヘ行ったときに辞職を伝えると言ってました」
「なぜ、四月八日なんだろう?」
「何かアンナにやって貰う仕事があるとか言ったそうです」
「仕事?」
仁科が腕を組んで考えていた。
「鞍馬君、アンナは国外へ出ると考えられる」
「ボクもそう思っています。だが、その先をどう対処すればよいのか判らない」
鞍馬が私立探偵の限界を悟った。
「尾行がベストなんだよ。やはり銀平さんかな?それとね、ここから休みはなしだ。風邪をひかんように、運動をして、美味いもんをたっぷりと食ってくれ」
「課長、通勤が難しくなりますが」
「おおそうだったな。例のピンクガーデンホテルに行って、二人一部屋の契約を取ってくれ」
「課長、海保の沖田次長に伝える必要があります」
「電話してくれ。それと白樺さんにも、来て貰ってくれ」
外に出ないで、弁当を配達して貰った。ハンクがカフェテリアヘ行って緑茶の入ったポットを持って戻ってきた。

この時間、ペドロフスキーとドブラーエフが麻布のロシア大使館で話していた。
「アレックス指令、今朝、キリネンコが、アンナ・カミジキが山手の家にいることを確認した。屋根の上の風見鶏が気になると言っている」
ドブラ―エフが風見鶏のイメージをぺドロフスキーに見せた。
「キリネンコを電話に出せ」
「アレックス指令、屋根の上の風見鶏のイメージを見たか?」
ロシアの特務機関員は敬語を使わなのである。
「何が気になるのか?」
「風見鶏の下にある七つの旗だよ」
「わかった。カピタン・カミジキに信号を送ったんだな?」
ペドロフスキーがガチャンと電話を切った。
――この頃、指令は苛々している、、とドブラ―エフが思った。
「だが、その信号の意味が分からない」
「指令、ひとつ考えられるのは、カミジキは、航海に出るんじゃないか?勿論、バレンツ海にね」
「バレンツ海は、スピッツベルゲンと違って結氷しても氷が薄い。ドブラ―エフ、モスクワと話せ。全身全力でカミジキを捉えろとな」
ドブラ―エフが電話を取ってモスクワと話していた。ドブラーエフがフンフンというのをペドロフスキーが聞いた。
「やはり、そうか。地勢を考えればそうなる」
「指令、それでも、四月の半ばまではノルウエーの沿岸には、接近出来ないと言っている。砕氷船も岩礁があるからそこまで行かない」
「カミジキは氷が溶けるのを待っているわけだな。よし、アンナを拘束するタイミングを考えよう」

葵、ハンク、赤路が知念の部屋にいた。
「知念さん、ペドロフスキーを誘い出して、逮捕しませんか?」と赤路が言ったので、ハンクと葵がびっくりした。
「う~む。ペドロフスキーは頭が鋭いよ。罠だとすぐに気着くだろう。罠と知れば、アンナを拉致する」
「今、銀平さんと中村さんがアンナを監視してるんだよね?」
「そうだけど?」
「俺とハンクを入れてくれ。四人はバラバラになって、アンナを監視する。アンナに危機が迫ったら、ペドロフスキーの拉致計画を妨害する」
「大使館内で拘束する可能性が残るけど?」
「知念さん、これは賭けだよ。俺は賭けに強いんだ」
知念が仁科に電話を掛けた。
「課長が、そうしろと言っている。夏目君は、ボクと仕事をしてください」
葵が、返答の代わりに、椿の蕾のようなクチでスマイルした。

三月二十五日、、
月曜日の朝、神喰朱鷺が退職願いを上司のドブラ―エフに提出した。
「アンナ、どうして?」
「私、結婚するんです。その準備のために水曜日までお休みを頂きたいんです」
ドブラ―エフは、誰と結婚するのかまでは聞かなかった。聞いてもアンナは首を振るだけだろう、、
「それは、おめでとう。準備があるでしょう。ロシア大使館はアンナの幸福を祈っている」
ドブラ―エフは早速、ペドロフスキーと会った。
「アンナが四月八日に辞めると言ったのか?北極海の解氷が始まる時期だよ」
「指令、アンナは国外に出ると考えられる。今、ここで、拘束できないか?」
「ダメだ。警視庁は気が着く。国外に出るのを待とう。考えがある」とペドロフスキーが部下に言った。

鞍馬が高尾に帰って来るアンナを待っていた。アンナが改札口を出た。アンナの足取りが軽い。
「アンナ、退職願いを出したんだね?」
「ええ、出したわ。ドブラ―エフは、FISの新任大尉だけど、私が結婚するので辞めると言うと、祝福してくれたわ。マーゴが泣いたの。あの人には、お世話になった」
「でも、尾行は続いているね。銀平さんがメールしてくれたんだ」
鞍馬は赤路とハンクがアンナの護衛に加わったとアンナに言わなかった。捜査官の世界は、仲間であっても、喋ることを許さないからだ。
「今夜ね、チエ子姉が何か料理するってきているんだ」
「わあ、嬉しいわ。私も、お姉さんにお話しがあるの」
アンナは、この高尾ハイツを出るとチエ子に言いたかったのである。だが、結局言えなかった。晩餐が終わるとチエ子が帰って言った。鞍馬とアンナがバルコニーの風呂に入った。鞍馬がアンナを抱き寄せた。
「太一さん、群馬を想い出すわ。私、生涯、あの夜の出来事を忘れないでしょう」
「どういう意味なの?どこかへ行くように聞こえるけど?」
「ウウウン、どこにも行かないわ」とアンナが鞍馬をじっと見ていた。
「どうしたの?」
「太一さん、私と結婚して頂戴」
鞍馬がアンナを抱きしめた。
アンナが顔を上げると鞍馬が泣いていた。
「太一さん、どうしたの?」
「とても嬉しいけど」
「けど?」
「アンナ、このポセイドン事件がボクの胸を押し潰しているんだ」
聞いたアンナが泣きだした。鞍馬が落ち着くのを待った。アンナが風呂を上がるとティッシュで鼻を噛んだ。
「アンナ、明日、婚約指輪を買いに行こう」
「まあ、私、嬉しいわ」
ふたりの恋人が裸のままで寝室へ直行した。激しい一回戦が終わった。
「ねえ、アンナ、あのインコのトバリシが言ってることを説明してくれない?」
「ギャア、ギャア、、ダバイ、ダバイ、ペドロ、、ギャア~のことね?」
「ペドロって、ペドロフスキー少佐じゃないかな?」
「その通りよ。パパがペドロフスキーから貰った鳥なの。どこで貰ったのかは判らないんだけど。日本じゃないかな?」
神酒と鞍馬が抱き合っているとき警視庁捜査一課では、、
「課長、FISの動きがパッタリやんでいるんです。交信も判らなくなったんです」
「う~む、敵もさる者か。知念君、尾行はどうなの?」
「課長、それが、うまく巻かれてしまうんです」
「ペドロフスキーは姿を現さないんだね?」
「大使館にはいませんね。あのドブラ―エフを拘束しますか?」
「いや、放置しよう」

三月二十六日、、
高尾の駅前の桜が二分咲きになっていた。鞍馬と神酒が渋谷に出た。渋谷から地下鉄に乗って銀座へ行った。婚約指輪を買うためである。銀座四丁目の「オンリーフォーユー・ブライダル」に行ったのである。神酒がガラスのケースに入った、きらびやかな宝石を見て胸がどきどきしていた。どれも、もの凄い値段である。
「アンナ、何に興味があるの?」
「太一さん、ここ出ましょうよ。もの凄い値段よ」
「いや、この店のデザインは、ひとつひとつ作ったもんなんだよ」
「だって、最低の瑪瑙(めのう)でも十八万円よ?」
「好きな宝石を言ってみて」
「そりゃ、ルビーが最高だわ。でも、私、、」
店員が手を揉み揉み寄って来た。
「婚約指輪をお求めですか?何かお気に入りのものはありますか?」
「特にありません」とアンナが即座に答えた。
「いや、あります。そのルビーを見せてください」と鞍馬が言った。
「これは、タンザニア産の一カラットのルビーで、最も赤いので最も値段も高いんです」
値段だが、百万円である。
「五十万円ぐらいの、あります?」
「ええ~?五十万円?」とアンナが驚いた。
「そうですね、インド、タイ、ベトナムになります」
見ると、赤いルビーじゃなかった。
「はい、チェリーとか、ビーフの血とか二流品です」
「もう一度、タンザニアのルビーを見せてください」
「ご予算が五十万円のものはございません」
「そこの小粒なのは、いくらなの?」
「指輪は銀ではないんです。プラチナですので、 八十万円と税金になります」
「それをください」
「エエ~?太一さん、私たち、これからおカネがいるわよ」
鞍馬が現金で払った。店員が「サイズを調整するので、一時間ください」と言った。職人のいる部屋に入った。
「プラチナを取り替えます。少し大きくなりますが、ご婚約のお祝いに工作量金を無料にさせていただきます」
二時間かかる。保証書も作ると言うので、隣りのホテルで飲むことにした。店員が入ってきた。指輪が出来たのだ。鞍馬がルビーの指輪をアンナの薬指に嵌めた。アンナが涙をポロポロこぼした。そして、「ルビーの赤ちゃん」と名付けた。アンナが手袋を穿いた。強盗が怖かったのである。ふたりが買い物をした。アンナがグレーの毛糸を買った。鞍馬にセーターを編むつもりなのである。
「ねえ、アンナ、新橋でご飯を食べて帰ろうよ」
「太一さん、ひよこって知ってる」
「焼き鳥の店だよね?」
ふたりがひよこに入った。午後の四時なのに、あちこちで宴会が始まっていた。
「鞍馬先輩」という声がした。
「あれ、知念君、宴会ですか?」
「そうでもないんだけど、みんな一休みが必要なんです。先輩、個室に代えませんか?」と知念が鞍馬に訊いた。アンナが知念を見ていた。知念がウエイターを手で招いた。
「個室ある?」
「はい、知念さんが来られると踏んでいましたので、一室取ってあります」
知念、坂本の妻である和歌子と娘、ハンク、葵、赤路、銀平さん、中村、鞍馬、アンナの十人である。
アンナがハッとした。律子がいたからである。
十人が個室に入った。鞍馬がアンナを紹介した。
「律子さん、あなた刑事だったの?」
「朱鷺さん、ごめんなさいね。話す機会が無くて」
「私、律子さんに感謝するべきなのね?」
「いいえ、任務ですから」
坂本の娘が朱鷺のルビーを見ていた。ビールで乾杯した。坂本の妻、和歌子は婦人警察官だったが、坂本と結婚して日本犯罪新聞の調査係りになっていた。和歌子、葵、アンナがメニューを見ては鉛筆で印をつけていた。
「朱鷺さん、あなたおいくつなの?」と和歌子が訊いた。
「この夏に、二十五になります」
「そのルビーだけど、タンザニア産じゃない?」
「ええ、私、七月生まれなんです」
「どなたかとご婚約を?」
「はい」
「知念君、焼酎で乾杯しよう」と気を利かした坂本が言った。
「先輩、どうやっておうちにお帰りになるんですか?」
「知念君、心配ご無用。俺たちは、ホテルを取ってある」
それを聞いた知念が安心していた。

三月二十七日、、
「未だに神喰船長の行方は判らないんだね?」
「課長、重松先輩と海府さんがアメリカ大使館に行っています。米国海軍省の武官と会っています。警視庁には手に負えない問題ですから」
「知念君、アメリカ海軍は、ポセイドンが消えたときから関与しているから、こっちの話しを聞いてくれるだろう」
「気象庁の話しでは、バレンツ海は、すぐに春になるわけではなく、四月に入っても、雪も、みぞれも降ると言ってました」
「衛星観測が難しいということか?」
「そうです。昨日でも、ノルウエー沿岸は厚い雲に覆われていたんです」
「海保が北極海に船を出すことは出来ないんだね?」
「不可能です。氷に弱い船体構造ですから」
「知念君、アンナが国外に出るとしたら、どこで神喰船長に会うんだろうかね?」
「重松先輩と沖田課長が地図を睨んでいました」
「アメリカ海軍は頼もしいけど、コミュニケーションで失敗する可能性がある」
「ボクも、それを恐れているんです。それに米露軍事衝突も考えられます」
「知念君、われわれは弱小なれど、われわれにできることを考えよう」
知念は腕を組んで考えていた。仁科が腕を組んで天井を睨んでいた。
――指令、マーゴを殺りますか?
――あの女がコンピューターにデバイスを取り付けたんだ。殺れ!

続く
04/23
消えたポセイドン  第二話 第5章
第二話
第5章

チャイナタウンの戦い(五日目)

三月一四日。
「夏目君、中村だ。立った今、トラビスがボクの目の前を走って行った」
「テンホー」
銀平さんが腕時計の目覚ましで起きた。隣のベッドルームの中村がいなかった。下にコーヒーでも飲みに行ったんだろう、、銀平さんが双眼鏡で福建菜館の通りを見ていた。中国人の料理人が出てきた。時計を見ると六時三十分である。トラビスの姿はなかった。辺りが薄明るくなっていた。双眼鏡を左に回した。日本大通りと中華街大通りの角にレインコートの襟を立てた葵と赤路と中村が立っているのが見えた。銀平さんが電話に手を伸ばした。
「夏目君、トラビスが福建菜館に現れないが?」
「銀平先輩、トラビスが福建菜館に行こうと日本大通りに出て車に跳ねられた。トラビスは死にました」
葵の足元に黒い犬が横たわっていた。
「その黒い犬がトラビスなんだね?」
葵がそうだと答えると、銀平さんが電話をいったん切り、知念に電話を掛けた。知念が驚く様子が電話線に伝わってきた。銀平さんがレインコートを着て、襟を立てると外に出た。霧が出ている。角を見ると、葵がトラビスの首輪を外してポケットに入れた。赤路が写真を撮っていた。衛生車が停まると、ひとりの衛生員がトラビスを黒いビニール袋に入れた。衛生員が荷台のドアを開けて袋を放り込むと排気音高く走り去った。葵が首輪のペンダントのメッセージを読んだ。
――朕、千葉たち三人は上海に行った。香港の清に伝えろ、、鄭
赤路と中村が福建菜館に走って行ったが、料理人の二人以外、誰もいないと戻ってきた。葵が知念にメールを送った。 知念が返信した、、
――みなさん、チャイナタウンを引きあげてください。すぐ、警視庁に戻ってください。
知念の携帯が鳴った。上海領事館の下田次官からである。福州丸は横浜で積んだコンテ―ナーを沖で降すと、そのまま香港ヘ行ったと言うのである。従って、上海にくる必要なしと、、
「エエ~?」
ハンクと赤やんが同時に言った。

三月一九日、、
「重松君、始め給え」
「はい、仁科課長、今日は緊急のことが発生して集合して頂きました。神喰太刀船長が日本を出たという報告があったのです。夏目さんに、ご説明をお願します」
葵が立ち上がった。
「皆様にイメージを送りましたのでご覧下さい。イメージは、今朝の七時に加賀署の北島刑事が送ってくれたものです」
「ほう」と仁科が言った。
「これ神喰邸の暖炉の煙突ですよね?それが何か?」
「皆様、レンガの煙突が屋根の両側にあるのを見てください」
見ると、左の煙突から白い薄煙りが出ていた。
「次のイメージは五分後のものです」
見ると、右の煙突から黄色い薄煙りが出ていた。眼を凝らさないとイエローとは気が着かないほどの色である。仁科を含めて一同が息を飲んでいた。
「これは、明かに信号だ」
「皆様、あとの五枚のイメージを見てください。全て煙の色が、白、黒、緑、青、橙、と違います。これを交互に出すとメッセージになります」
「それで、メッセージの意味は分かったのかね?」
「はい、課長、この信号はアメリカインデアンのナバホ族が使ったものだそうです。鑑識課は、『ジェロニモ、逃げろ!』と訳しました」
「明らかに神喰太刀に送った信号だな」
「課長、すると二子玉川は間違いだったとなりますね。狼煙(のろし)なら、どの方角でも三五キロの距離から見えるはずです」
「アパッチ族の狼煙ね?」と銀平さんが言ったが誰も笑わなかった。
「課長、鄭国良を逮捕出来ませんか?」
「知念君、逮捕理由がないよ」
「重松君、君の要件は何かね?」
「課長、国際部の意見は内閣総理大臣に知らせるべきだと言うのです」
「う~む。困ったな」
「仁科課長、ここに集まっておられる刑事さんたちと海保のお二人に、是非を投票してもらうのはどうですか?」と知念が言った。
「俺を入れて、十一人だね」
「奇数です。六票が決めます」
葵がノートブックを割いて配った。一分で終わった。仁科が開票した。
「ノーが、十一票である」と並べて見せた。
「でも、仁科課長、警視総監の命令なら?」
「俺が、腹を切ると言うよ」
「ボクも腹を切る」と知念が言った。日本の男の覚悟に夏目葵の頬を涙が流れた。
「それでは、ボクらは、この捜査一課の投票の結果を国際部に知らせます」と重松と海府が立ち上がった。
「沖田さん、神喰が信号を受け取ったなら四時間が経っている。日本の港という港に指示を出してください」
「長官に出して貰います」と沖田と白樺が立ち上がった。

――アレックス指令、チネンの動きが全く判らなくなった。
――カミジキの居場所は判らないのか?
――判らない。
――すると、最後の手は、アンナだな、、

「知念君、ペドロフスキーは、アンナを人質に取ると考えられる。鞍馬君に警視庁に来るように連絡してくれ」

――恋しいよう。すぐ会いたい。ビーグル
――有楽町で会いましょう。P・I

二十分後に鞍馬が警視庁に入った。鞍馬が仁科の部屋に行った。知念、ハンク、葵、赤路がいた。アパッチの狼煙を聞いた鞍馬が鄭国良のアタマの良さに感心していた。
「鞍馬君、ことは急ぐ。ペドロフスキーは、アンナが、君と一緒だとは知らないんだね?」
「課長、そのような動きはありません。ペドロフスキーは、アンナは、山手町の家に帰っていると思っているはずです。アンナは日曜日にはハリストス正教会に行っていますから、尾行はしていないでしょう」
「だがね、念のために赤路さんにアンナのガードになって頂く」
鞍馬が、話しに聞いた「釜ヶ崎の赤やん」を見た。赤路が会釈した。
「赤路さん、お話しを聞いています。アンナをよろしくお願いします」と鞍馬が頭を下げた。
「いや、とんでもない。鞍馬さんのご功績を聞いています。しかし、ペドロフスキーが朱鷺さんを浚うのは簡単ですよ。何しろ、ロシア大使館に勤務しているわけですからね」
沖田茂は長官の許可を得て、神喰が出国する港という港の海保に指示を出した。まず、考えられるのは、新潟港からロシアヘ渡ることである。次に考えられるのが博多から韓国へ渡ることである。だが、新潟の海保も、福岡の海保もそのような動きは見られなかったと報告してきた。
――漁船か?日本海からこの三月下旬に沖へ出る漁船とは?
沖田が漁船担当の係長を呼んだ。
「沖田課長、考えられるのは、ズワイガニ漁ですね。富山県以西は、 十一月六日~三月二十日の期間、オスガニだけが解禁されています。新潟県以北では、オスガニとメスガニの両方が許可されています。一方、ロシアから来るズワイガニは特に漁期とかは無さそうな感じです。正直、ロシアのことなのでよく分かりません。どうやら密猟が多いそうで、密猟したカニは、主に中国を経由して韓国に行くらしいです」
「有難う。これで、見当が着く」
沖田が、新潟、富山、金沢、福井、鳥取の漁協に海保の捜査官を送った。鳥取の網代漁港を除いてどれもクリアした。今年、あと二日を残すズワイガニ漁であった。朝、小雨の中を漁船団は出て行った。ズワイ漁船の一隻がグループを離れて北ヘ行ったというのである。沖田が知念に電話した。ふたりが仁科の部屋で会った。ハンク、葵、重松、海府がいた。
「羽田発、六:四〇が鳥取空港に八:〇〇に着きますね。日の出に狼煙を見たなら十分間に合います」と海府が言った。
「海府君、上客名簿を調べてくれんか?」
海府が電話を取った。十分ほど話していたが受話器を置いた。
「仁科課長、神喰らしい人物が名簿にありました。偽名でしょう」
「漁船でリレーして韓国に渡ったんだな」
「課長、韓国には漁港のある島がありますからね」
「神喰は韓国を離れただろう。だがそこからどこへ行ったんだろうか?」
「ボクの憶測なんですが、神喰はポセイドンを海底から引き揚げる考えだと思います。リスクを冒して日本ヘ来たのも、船員を集めるためだったのでしょう」
「重松君、俺もそう思っていた。警視庁も、海保も、日本政府でさえも、広大な海に出た神喰を捉えることは不可能だろう。どこかの時点で総理に話す必要がある。まず、優先順位を着けよう。知念君の考えを聞かせてくれ」
「課長、神城朱鷺を保護しないとFISが運転席に座わることになります」
「鞍馬君、アンナを保護するアイデアをくれんかね」
「課長、まず、本人と話す必要があります。明日まで待ってください」
「う~む、、ロシア大使館で拘束されれば、手の打ちようがないよ」
「ボクはアンナがロシア大使館で拘束されるとは思いません」
「ほう?どうしてかね?」
「アンナを拘束すれば、ボクが判る。ボクが判れば、警視庁が判る。知念君が鄭国良に言う。鄭国良が神喰に伝えるとなり、核弾頭は、未来永劫、ロシアの手に戻らない。さらに、われわれは総理に伝える。これはクレムリンにとって最も避けたいところでしょう」
「すると、アンナを拘束するタイミングは神喰船長がバレンツ海へ戻った時点だね?アンナを今すぐ保護するとどうなる?」
「われわれを襲撃するでしょう」と知念が言った。
「重松君、アメリカ海軍と話し合うしかないが、それもタイミングだね?」
「総理自身が要請することになります」
「バレンツ海の解氷期はいつなの?」
「沖田さんから聞いたんですが、北極海といえども全海域が氷結しないんだそうです。ノルウエーのLPG船が北極海を横切って、シベリアとアラスカのベーリング海峡を通って南下し、日本に天然ガスを運んだことがあります。カラ海やバレンツ海は沿岸部だけが氷結して、まったく海氷が形成されない沿岸もあるんだそうです」
「課長、間もなく四月です。神喰はバレンツ海に向かったと考えます」と知念が言った。
「衛星観測に頼るしかない」
「沖田さんが、ノルウエー北岸はカチカチに凍っていて、解氷するのは、四月中旬だろうと言ってました」
「少しだが、まだ時間があるね。二十五日以内に神喰船長がバレンツ海に現れるだろう」
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04/23
(速報) ロシア、ウクライナ国境から軍を撤退すると決定、、
WSJ によると、ロシア国防省は、ウクライナの東の国境に集結していたロシア軍を撤退すると発表。プーチンはこれを認めた。伊勢の知っているところでは、ロシア国防相は終結に懸念を評しており、国際的にも不利とみていた。その不利ですが、NATOがウクライナに核を与える口実となり、ロシアの命取りとなるという心配なんです。

日本も核を持て、、

日本政府は賢いつもりなのか、安倍すらも日本の核保有に反対している。日本のような島国には核は必須な兵器なんです。日本が核を持つと台湾の安全も保障される。少なくとも国会レベルで議論をするべきなんです。伊勢
04/22
消えたポセイドン  第二話 第4章
第二話
第4章

チャイナタウンの戦い(四日目)

三月一三日。やはり、トラビスが石段を下って、チャイナタウンに走って行った。
「先輩、どうしますか?」
双眼鏡で見ていたハンクが知念に訊いた。
「いや、トラビスは後回しだ」
知念は、鞍馬から犬の名前はトラビス。朱鷺は、父親からコンタクトがないとテキストを受け取っていた。
「先輩、会議をやるんですが、コンチネンタルをフロントにオーダーします」
「加賀署が、覆面パトカーを出してくれるんだが、北島さんを入れると七人なんだ」
「バンをお願いすればどうでしょうか?」
「いや、赤路さんと夏目君には残って貰う。だから五人だ」

A組とB組がやってきた。コンチネンタルで朝飯を終えた。
「赤路さん、夏目君とチャイナタウンに残って頂きます。金髪の千葉鉄を追尾してください」
「よし、地下鉄をブッ叩いてやる」
「赤路さん、千葉鉄です。手を出してはいけない。神喰船長が捕まらなくなる。行動だけ見てきてください。それと、夏目君を危険なことに巻き込まないでください」
「俺の妹なあ、結構、アクションが好きらしいんや」
横で夏目葵が笑っていた。

五人が出発した。北島が運転した。第三京浜道路を北へ走った。中華街から二子玉川はやはり二十五キロだった。多摩川の川べりに三十分で着いた。多摩川大橋の向こう岸は東京である。気温十四度。晴天である。冬のコートを着てマフラーを撒いた母と娘が河川敷を犬を連れて散歩している。犬が好きな北島が目を細めて見ていた。
「北島さん、橋の左手にある高いビルは何ですかね?」
「ああ、あれはね、大京ビルです。ははん?神喰が最上階におると?」
「いや、そうは思わないんですが、神喰邸の風見鶏を見るのに適した場所を探したいんです」
「加賀署から天体望遠鏡を持ってきました。天文学専攻の学生が使う二五〇倍です」
「北島さん、ここからでも、神喰邸が見えますね。意外に間に構想ビルがないんですね」
「知念君、向こう岸の東京側に高いビルがあるんだ」と下北沢に住んでいる銀平さんが言った。
「銀平さん、多摩川大橋の右側にある鉄道は何ですか?」
「あれね、東急田園都市線と言うて渋谷ヘ行く電車だ。途中から地下へもぐる。二子玉川と渋谷の間に五つ駅がある」
――神喰はもしかすると東京にいるのかも知れない、、
「知念君、それは考えられないね。なぜなら、東京ほど警視庁の監視の利いた都市は全国にないよ」と銀平さんが知念を糾した。
知念が顎に手を当てて考えていた。胸のポケットの携帯が震えた。葵である。
――千葉鉄、清戒元、張深海はいない。海に出た、、カナリア  
――海に出た?
――昨夜、十時、福州丸で本牧埠頭から上海に向かっている。カナリア
――どうして判った?
――ニイチャンが、また朕さんを引っ叩いた、、カナリア
――しょうがないなあ。ワレ海保にコンタクトする。ビーグル
知念が時計を見ると、午後一時である。福州丸が出航してから十五時間が経っていた。
「知念さん、その福州丸は横浜港を出て一時間後に、二十ノットで、三浦三崎から東へ行っている。レーダーの記録では、海岸線を航行せず、公海に出ている。つまりですね、現時点では日本の海域の外を航海しているから、海保には手が出ませんよ」
沖田が手遅れだと言っていた。
「上海当局に拘束を依頼できないものでしょうか?」
「それ、政府の仕事になりますが?」
「そうでしたね。捜査一課が知恵を絞ります」
五人の刑事が二子玉川前にある蕎麦屋に入った。蕎麦屋の給仕が、五人は刑事だとすぐ判った。五人が座敷に上がって座布団に座った。天ぷら蕎麦を五人前頼んだ。銀平さん、中村、北島、ハンクの四人が知念の顔を見ていた。知念が大きな問題を抱えたからである。
「執事の鄭国良が気になるが、ボクと丸子君は、ここから警視庁に戻るしかない。銀平さんと中村さんは、中華街に戻ってください。赤路さんと夏目君に合流してトラビスを捕獲してください。明朝になりますね。北島さん、たいへんお世話になりました。チャイナタウン戦争は、北島さんのご助力なしには、ここまで来れなかったと思います。四人は、明日、トラビスを持って警視庁に戻ってください」
「知念さん、寛大なるお褒めの言葉をありがとう。ここから先は、朕をブッタタクぐらいでは済まない。日本国外での戦闘になるでしょう。仁科課長のみならず、関係すると思われる方々は、作戦会議を開かなければならないと思うよ」

続く
04/21
消えたポセイドン  第二話 第3章
第二話
第3章

チャイナタウンの戦い(三日目)

三月十二日。尿を催したハンクが起きた。時計を見ると朝の六時三十分である。トイレを流して戻ると知念が起きていた。知念が窓際に行った。窓が曇っている。ハンドルを回して開けると雨まじりの風が吹き込んできた。中華街は灯が消えていたが街灯が道を照らしていた。福建菜館のある通りを清掃車が徐行していた。小さな黒い犬が福建菜館のドアに飛びついているのが見えた。部屋に置いてある宿泊客用の双眼鏡をハンクが持って来た。ハンクが双眼鏡を目に当てると、耳の大きい犬がお座りをしてチンチンをしていた。エプロン姿の料理人がしゃがんで、その犬に骨をやるのが見えた。ハンクが知念に双眼鏡を渡した。知念が見ると料理人が、犬が首に下げているペンダントを手に取った。
「ああ、これだったのか」
ベッドの横のスタンドの電話が鳴った。夏目葵だった。
「先輩、福建菜館の前に黒い犬がいます。双眼鏡で見てください」
「丸子君が見つけた。今、ボクが犬の行動を見てるところです」
犬が日本大通りに出ると、知念の見ている窓の下を南へ直角に曲がった。ハンクがドアを開けた。葵と赤路が入ってきた。犬が足早に歩いている。六十メートル先に首都高速神奈川3号狩場線が見える。双眼鏡を持ったハンクがエレベーターで、一階に降りた。外に出たハンクが小雨の中を南へ走った。犬が首都高速神奈川3号狩場線の下を通って元町に出た。その先に細い石段が見える。丘の上に横浜カソリック教会の鐘楼が見える。犬の姿が見えなくなった。ハンクが戻ってきた。知念が、ラップトップを開いていた。
「丸子君、あの丘の上で左折すれば神喰邸の鉄柵が目の前のはずだ。下へ電話を掛けてコンチネンタル六人分を持ってくるように頼んでくれ」
「私がします」
葵が電話を取ってルームサービスに朝食をオーダーした。三十分でボウイが持ってきた。六人が食べ終わると葵が注いだコーヒーを手に取った。
「さてと、ABC組に分かれよう。C組のボクと丸子君は、犬の行ったルートを歩く。石段を登って、山手町へ行く。A組とB組は、八時に中華街ヘ行って聞き込みをしてください」
陽が昇ってきたのか、外が明るくなっていた。すっかり雨が止んでいた。六人が夫々のルームで用を足して、歯を磨いた。外に出ると太陽が雲間から顔を出していた。六人が夫々の任務に就いた。

「アレックス指令、チネンの動きが掴めなくなってから三日が経ちます。この意味をどうお考えか?」
「サカモトはどうしてる?」
「警視庁へパッタリと行かなくなった」
「クラマは?」
「もっと判らない。それに警視庁の最優秀刑事だったクラマは探偵です。接近すれば、こっちが捕まります」
「う~む」
「アレックス指令、チネンは、われわれに復讐する準備をしてると考える」
「俺も、そう思っている。カピタン神喰の屋敷がある山手町に兵隊を張れ」
ふたりのFISが話していると館内電話が鳴った。
「同志、アレックス、サカモトが長野に出張したようです。殺りますか?」
「ニキータ、お前ひとりで殺れ」
「オーチン、ハラショー」

知念とハンクが山手町の丘の上に着いた。桜がつぼみを付けている。邸宅が立ち並んでいる。どれも鉄柵に囲まれている。どれも英国風である。知念は改めて神喰邸が最も際立っていると思った。その神喰邸は石段から汐汲坂に出て、左、二軒目である。ハンクがある変化に気が着いた。
「先輩、風見鶏を見てください」
「おお、風見鶏はいつもと同じで海を向いているけど、旗の配置が変わっている」
ハンクが写真を撮って、警視庁の写真分析班に送った。神喰邸の庭が見えた。黒い、足の短い小型犬が芝生の上で日向ぼっこしていた。知念が写真に撮って鞍馬に送った。ブルドッグが出て来て吠えた。辮髪の老人が窓に見えた。知念とハンクが踵を返した。そこから汐汲坂の交番ヘ行きタクシーを呼んだ。タクシーが港が見える丘に沿って谷口坂を降りた。外人墓地を通り越して元町に出た。ハンクが葵にテキストを送った。するとローズホテル横浜のラウンジに四人ともいると返信があった。知念とハンクが日本大通りでタクシーを降りた。ラウンジで四人が待っていた。知念が聞き込みの結果を聞いた。銀平さんと中村が、福建菜館の並びにあるコーヒーショップに入って、店長に聞くと、その黒い耳の大きい小型犬は、毎朝六時半に福建菜館の前にくると言った。ハンクの携帯にテキストが入った。
――その犬は、スコティッシュテリアとだけ書いてあった。
「知念君、明日の朝、そのスコティッシュテリアを捕まえられんかな?」
「銀平さん、ボクもそう思っていた。首に下げているペンダントのメッセージを知りたいからね」
「先輩、旗が入れ替わっているのは、どういう意味があるのか知る方法はないものでしょうか?」
「夏目君、沖に停泊している船との交信でないなら、陸に信号を受け取る者がいるとなるね」
「うむ、俺にはわからん」と赤やんがクチの両端を交互に左右に曲げていた。
「あっ、そうだ。信号を受け取れるのは北か南ですよ」とハンクが言った。
「どのくらいの距離なら見えるんかね」と赤やんが父親が船員だったハンクに訊いた。
「外国航路の船長の持ってるのでも、一〇〇倍だから、精々のところ十キロメートルかな」
「ハンク、それ有難いね。すると、十キロ北か、南に信号を待っている人間がいるとなる」
知念が写真班のテクニシャンと電話で話した。
「はあ?天体望遠鏡なら、二十五キロまで旗を識別可能であると?」
中村と葵がラップトップを見ていた。
「先輩、南なら金沢八景まで。北なら二子玉川までが二十五キロです」
「信号を受けるのは、神喰船長だと仮定しよう。北の玉川の方が可能性が高いね。南は、三浦半島とか江の島のような人目の多い土地で、周りが海だから」
「知念君、俺もそう思ったよ。俺、下北沢だかんね」
「私も、多摩川付近だと思うわ。私、登戸だから」
電話が鳴った。北島だった。
「知念さん、福建菜館の朕仲夫だがね、怒り狂っとる。あちこちにバンバン電話を掛けとるよ。その中に千葉鉄という名前が浮かんだんだ。こいつが、朕と会ってた金髪だろう。千葉鉄は日本人で、海自におった。子分の二人は福建人で、前漁船の乗り組み員だ。この三人は、住吉町にマンションを借りている。福建菜館や中華街なら歩いてくる。どうするかね?」
「北島さん、三人をひっ繰りたいんですが、逮捕の理由がない」
「いや、知念さん、逮捕しなくても、向こうから襲ってくるよ」
「北島さん、捜査一課と話す必要があります。他にも緊急のことがあるんです。一時間ほどください」

――アレックス指令、カミジキハウスの周りには、ポリスが張っている。山手教会の尖塔に監視カメラが見える。東京ヘ引き返すしかない。
――指令、サカモトには刑事が着いている。どうする?
――ニキータ、サカモトは、つぎの機会にしよう。帰って来い。

「赤路さん、昼飯どうする?」
「仁科さんと話すことが先やで」
「待てますか?作戦を、じっくり立てる必要があります。仁科課長と打ち合わせたら、上海大飯店で食いましょう」
――知念君、当然、神喰太刀の捜査が先だ。今日は、加賀署の北島刑事を入れて飯を食って、明日の作戦を決めたまえ。二子玉川署に言うてはいかん。無能と言うわけじゃない。あまりにも、神喰は頭が鋭利だからだ」
「みなさん、四時になってしまった。西門の上海大飯店で出陣の祝いをやろう。飲んでも良いとしよう。作戦は、ボク、丸子君、夏目君で考える。朝、ここで打ち合わせます。急いでも良い結果は出ないでしょう」
銀平さん、中村刑事、赤やんが、ゆっくり飲めると笑った。参謀のハンクと葵は真剣な顔である。

鞍馬とアンナが京王線で高尾に向かっていた。高尾に着く前に夕日が沈んだ。森の町は夜に入った。駅の時計の針が五時四一分を指していた。
「ねえ、アンナ、ここで夕飯食べない?」
「太一さん、うちで、作れるわよ」
「ボク、スパゲッティが食べたいんだ」
「じゃあ、ナポリタンへ行かない?」
ナポリタンは、南イタリア料理のチェーンで、汽車の座席に似たブースとカウンターがある。夕食の時間なので空席はひとつだけだった。ふたりがコートを脱いでハンガーに掛けた。鞍馬が、テーブルの上のメニュウを開いた。
「お客様、決まりましたか?」
「シャドネーふたつ。ボクはスパゲッティ、クラムソース」
「私は、ラビオリのトマトクリームソースをお願い」
鞍馬が携帯を取り出した。イメージをアンナに見せた。
「アンナ、この犬を知ってるよね?」
「まあ、それ、トラビスよ。どこで撮ったの?」
アンナの青い目が鞍馬を見据えていた。
「今朝、知念刑事が撮った。トラビスは、お座敷犬だけど、誰が飼ってるの?」
「執事よ」
「執事の名前は?」
「太一さん、これ取り調べなの?」
アンナが抗議する口調で言った。
「いや、そうじゃない。ボクは、アンナを守ってあげたいんだ。それに、ボクが聞かなくても、アンナは警視庁に呼び出される」
ウエイトレスがワインを持ってきたのでふたりが黙った。ワインを一口飲んだ。
「名前は?」
「鄭国良っていう老いた中国人なの」
アンナが鄭国良が写っている家族の写真をバッグから取り出した。
「いつの頃から神喰家の執事になったの?」
「今から、十年くらい前かしら、私が山手学院の一年生のときに、パパが上海から連れてきたの」
スパゲッティとラビオリが来た。鞍馬はそれ以上、質問しなかった。食べ終わって、コーヒーを飲んだ。アンナが鞍馬の顔をじっと見ていた。
「アンナ、警視庁はね、アンナのお父さんは日本に居ると確信があるんだ」
鞍馬は、アンナが驚くかと思ったが、意外なことにアンナの表情は変わらなかった。
「私も、パパは生きていると思っているの。でも、パパは日本にいるんですって?どこに?」
「誰にも判らないんだ。ボクは君が知っていると思っていた」
鞍馬がアンナの青い目を見つめた。アンナは瞬きすらしなかった。
「私も知りたいわ。だけど、パパは追われる身なんだわ。太一さんは、ロシア政府が明らかに関与しているっておっしゃてたわね。パパは、私の目の前に現れないでしょう。でも、パパは私を愛している。コンタクトはあると思う」
アンナがテーブルの上に涙をこぼした。鞍馬は話を打ち切った。アンナの答えには、一点の曇りもなかったからである。その夜、アンナと鞍馬は、別々の部屋で寝た。接吻すらしなかった。

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04/21
(速報)ジョージ・フロイド殺人裁判
審判員全員が警察官デレック・ショウビンは有罪と判定



4分過ぎたあたりを見てください。ショウビン(45)が手錠をはめられて収監される瞬間です。ショウビンは容疑者から犯罪者に変わった。第二殺人及び第三殺人の刑は合計で80年なんですが、犯歴がないことから、最高15年服役だそうです。地方検事側はもっと長期の服役を要求している。うわさは、ショウビンは刑務所内で殺されるというもの。伊勢は、英語のコメントで有罪を主張してきた。アメリカの良心が見えた。これで、多くの警察官や警察署は警官の暴力を自ら正さなければ、この判例でアメリカ市民の「敵」とされる。伊勢
04/20
消えたポセイドン  第二話 第2章
第二話
第2章

チャイナタウンの戦い(二日目)

三月十一日。葵と赤路がローズホテル横浜で目が覚めた。ふたりは知念のアドバイスで、七階の二つ寝室のあるエグゼクティブ、スイートを選んだ。パジャマを着た赤路が歯ブラシをくわえて窓際に歩いて行った。日本大通りが下に見える。車が行きかいしていた。西方向、斜め向かいに名のない裏道がある。昨夜、遅く帰ってきた福建菜館はその道にある。距離は、九十メートルである。そのまた九十メートル向こうに加賀署の建物が見える。福建菜館は右に隠れていて見えない。
「赤路先輩、ここちょっと近過ぎるんじゃない?」
赤路の横に葵が歯ブラシをくわえて立っていた。葵の背丈は赤路の肩までしかない。
「おはようさん、だけどね、中華街はどこも近いんだ。あの朕仲夫は図々しい奴っちゃ。今に、泡を吹かせてやる」
「赤路さん、あの三人の男の写真が欲しかったわね」
「俺もそう思ってた。だから、よく観察して置いた。加賀署ヘ行って聞いてみようよ」
ふたりが着がえた。今度は、田舎から来た旅行者の恰好をした。ふたりはホテルを出て左ヘ歩き、中華街通りを西へ行き、善隣門(西門)で右へ曲がった。三叉路の角に陣取った加賀署が見えた。加賀署はその男たちを知らなかった。だが、赤路は福建菜館の向かい側の珍椿楼の前にある電信柱に防犯カメラがあるのを知っていた。加賀署が時間帯を訊いた。葵が深夜過ぎだと答えた。写真課の警官がビデオを見せた。ソフトを被った三人の東洋人が写っていた。
「この三人ですが、以前に見たことがありますか?」と葵が訊いた。答えは、ノーであった。ビデオを受け取った知念が国際課に写真分析を依頼した。重松が丸一日は掛かると言ってきた。すると、あと三日しかない。電話が鳴った。銀平さんが面白いことを言った。
「知念君、いま、中村君と中華街の西門におるんだがね、双眼鏡で山手町の丘を見ると神喰邸が見えたんだ。塔のある赤レンガの三階建てなんですぐ判った。その塔だけどね、テッペンに風見鶏があるんだ。風は港から吹いてくる東風(こち)なんだ。面白いと言ったのは、旗だよ。一つ二つじゃなくて、七つもあるんだ。俺がこの悪い頭で考えても、これが通信手段ってことさ」
「銀平さん、すぐに赤路さんと夏目君に会ってくれませんか?」
「いいよ、昼飯の時間だかんね」
四人の刑事がローズホテル横浜の屋上にあるレストランで集まった。中華は夜食うことにして、寿司ランチにした。赤身のマグロだけの握り寿司である。
「江戸川先輩、デカが、でかしたって、このことやで」
「旗の信号を解いてくれと知念君に頼んだ」
「江戸川さん、待っておる間に一発、芝居を打とや」
「芝居が俺は好きやで」と銀平さんまで関西弁になっていた。
ルームの電話が鳴った。葵が取った。知念だった。
「夏目君、銀平さんに替わってくれないか?」
「ああ、もしもし江戸川ですが」
「先輩、あの七つの旗は何の意味もないと分析課が言ってきた。理由は、旗信号は細部が伝えられるものじゃないって言うんです。だけど、明日も、同じ色なのか見てください」
銀平さんががっかりした。みんなに旗は意味がないと伝えた。
「じゃあ、俺の話しを聴いてくれんへんか?」
赤やんの話しとは、凶悪な顔をした三人の東洋人を釣るというのである。
「判っとんのは」
*外国船の船員やない。これは加賀署が言明しとる。
*この三人が鄭国良の兵隊とは断定でけへん。
*そやけど、泥鰌ひげの朕仲夫は調べるに値する。朕は、闇の為替をやっておると思うんだ。
「問題は、朕とこの三人を逮捕する理由がないことや。そこで逮捕する理由を作る」
銀平さんが身を乗り出していた。聞き込み捜査に退屈しているのである。
「罠に掛けるんだね?その仕掛けは何なの?」
「朕が鄭国良の部下なら必ずメッセージを出す」
「赤やん、俺、焦れてきた。その罠を早う聞かせてくれ」
「江戸川さん、人相の悪いデカが福建菜館に押し寄せる。それだけや」
「赤やん、あんたを除いて人相の悪い刑事はここにはおらんで」
「知念さんとハンクに来て貰おう」
「いや、あのひとら、結構、品がいいんだ」
「そらあかんな」
葵が電話を取って知念に話した。知念が午後二時に加賀署に集まれと言った。知念とハンクが東京駅から京浜東北根岸線に乗った。三十八分後、横浜に着いた。向かい側に停まっていた「みなとみらい線」で元町・中華街で降りた。所要時間四十六分である。ふたりが加賀署ヘ歩いて行った。受付に、赤路、夏目、銀平さん、中村が待っていた。六人の刑事が刑事二課に案内された。
「小町刑事部長、お久しぶりです」
「知念さん、チャイナタウンに来られた理由は何ですか?」
知念が人相の悪い刑事を三人借りたいと言った。小町がみんな出払っているので、夕方の四時に戻って来てくれと言った。一時間あった。善隣門から中華街大通りを東へ、二〇〇メートル歩いた。六人の捜査一課の刑事がローズホテル横浜のロビーに入った。四人が、エレ―べーターで、七階のエグゼクティブ、スイートに行った。
「夏目君、これいくらするの?」
「一泊ふたり、税込みで、五万円です」
「ええ~?五泊したら二十五万円ですよ。仁科課長に叱られるぞ」
「拠点として最高ですと課長に話したんです。今回だけだって、おっしゃってました」
「いいなあ。俺も泊まりたいな」と銀平さんが言った。
知念が今夜の計画を話した。銀平さんが笑っていた。知念が、今夜から、みんなローズホテル横浜に泊まると言ったからである。六人が加賀署に戻った。三人のベテラン刑事が待っていた。みんな、すごい人相である。中年の刑事は左の頬に深い刀傷があった。北島力(りき)と名乗った。後輩だと言った刑事は下唇がなかった。下田と名乗った。丸刈りで物凄い体格である。下田が「あちゃこ」というヤクザと撃ち合ってクチを撃たれたと言った。北島が、「あちゃこ」に三発撃ち込んで射殺したと付け加えた。一番若い刑事は、顔が白く、美男子だったが人相は最悪だった。会津と名乗った。三人の刑事が噂に聞いた赤路を見ていた。知念が何か活き活きとしている赤路を見て笑った。この四人を先頭に立てて、福建菜館に押し入る考えである。小町刑事部長がハンチングは何個いるかと訊いた。誰も手を挙げなかった。銀平さんと中村はすでに持っていたし、知念とハンクは、中折れ帽子を持ってきていた。服装が良いのは、この二人と葵だけであった。葵は、横浜ベイスターズの野球帽を持っていた。北島、赤路、下田、会津の四人の刑事が半長靴を履くと、白い軍手に手を入れた。そして鳥打帽を被った。

九人の刑事が加賀署から真っすぐ福建菜館に歩いて行った。正面から歩いてきたヤクザの一団が唇がない下田刑事と耳のない赤路を見て、こそこそと路地に入った。これでは、猫とネズミの関係である。九人が福建菜館に八分で着いた。先頭の北島が、ガラス戸を開けて、ずかずかと入って行った。下田と会津と赤やんが入った。半長靴の靴の音に南海料理の鍋をつついていた客が顔を上げた。店内の客が異様な雰囲気に、一斉に立ち上がって出口に向かった。
「おい、勘定を払え!」と朕がわめいた。その朕に北島が、いきなりビンタをくれた。
「刑事さん、何すんのや?」
朕は北島を知っていた。北島が辮髪帽子を被った朕のアタマをバ~ンと平手で叩いた。帽子がずれた。屈辱を受けた朕の顔がもの凄い形相に変わった。朕と一緒に飯を食っていた二人の子分が北島を見上げていた。赤やんがテーブルクロスを引っ張った。焼き鴨が床に転げ落ちた。ワンタンスープが飛び散った。下田と会津が、あとのテーブルをひっくり返した。大音響が外まで聞こえた。ガラス戸越しに野次馬が店の中を見ていた。
「おい、朕、昨日の夜、ここへきとった金髪の男は誰か?きさま、知らんとは言わさんぞ」
「知らん。本当に知らん。初めて見た顔だ」
北島が朕の頬に強烈なビンタをくれた。朕のクチから入れ歯が飛び出した。知念と葵が悔しさで歪んだ朕仲夫の顔をペンタックスで撮った。知念がビデオモードに切り替えて爆撃を受けたかのごとき、皿や丼ぶりが散乱した店内を撮った。銀平さんが呆れて見ていた。外に出ると、野次馬がわいわい集まっていた。
「知念さん、中華食います?」と何もなかったように北島が警視庁のエリートに訊いた。
「食いましょう」と知念が言うと、北島が向かいの珍椿楼に入った。奥のテーブルにいた社長の王(わん)が立ち上がった。給仕が見ていた。
「北島さん、何でも食べてください。店の奢りです」
「刑事が無料で飯を食えるかアホ」
「北島さん、今夜はこれで解散しますので、何でも飲んで食ってください。もちろん、警視庁が払います」
警視庁と聞いて王の手が震えた。隠し事のない中国人などいないからである。
「ワンさん、ピータン、クラゲ炒め、チャーシュウ、五目炒飯とワンタンスープを作ってくれんか?白酒(パイチュウ)の熱燗を持ってきてくれ」
九人の刑事がフカのように食って飲んだ。北島と赤やんが兄弟のように話しては、杯を交わしていた。下田と会津は陰気な男たちで一言もしゃべらなかった。二時間後に解散した。知念、ハンク、銀平さん、中村もローズホテル横浜に泊まった。なぜなら第二次日中戦争が始まるからである。知念から報告を受けた仁科が呆れていた。

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消えたポセイドン  第二話 第1章
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第二話
第1章

チャイナタウンの戦い(第一日)

三月十日。桜田門通りのボケが赤い蕾を着けていた。春の訪れだ。道行くひとが立ちどまって赤い蕾を見ていた。仁科が、知念、ハンク、赤路、銀平さん、中村、夏目の六人を呼んだ。ひとつの仕事をして貰うためである。

「神喰家の執事は、鄭国良という福建省生まれ。元船員八十歳。家族がいない理由は判らない。神喰太刀との関係も判らない。判っているのは、鄭国良が朱鷺を守る白馬の騎士であること。だが、八十歳の老人に朱鷺を守れるわけがない。すると、兵隊が存在するとなる。警視庁は盗聴を試みたが、鄭国良は、携帯も、コンピューターも持っていない。電話を掛けることがあるが、特に怪しい内容ではない。鄭国良は、滅多に外へ出ない。君たち五人に鄭国良の実体を捜査して貰う。五日以内に結果を出してくれないか」
五人の刑事が唖然としていた。なぜなら、中国人の執事など夢にも思ってもいなかったからである。知念とハンクも耳の大きい黒い犬を両腕に抱いていた辮髪の老人をすっかり忘れていた。

六人が壁のスクリーンを見ていた。山手町付近の地図が映っていた。神喰邸は「港が見える丘」の西側にあり、山下埠頭よりも中華街に近い丘の上にあった。横浜育ちの夏目葵が鄭国良の兵隊は中華街にいると直感で思った。
「知念先輩、神喰邸から中華街西門は八百メートル足らずです。鄭国良の兵隊は中華街に住んでいると思います。問題は、その兵隊が誰なのか?何人いるのか?どのような方法でコンタクトしているのか?この三つです」
「夏目君、ボクたちは土地勘に欠ける。ハマッコの君なしでは、この捜査は難航するだろうと思っている。ことは急ぐ。六人を三つの班に分ける。このチームの中で、最も重要なのが夏目葵君です。夏目君の判断で我々は動く。夏目君と赤路先輩がペアになる。銀平さんと中村さんがペア。ボクと丸子君がペアで行きます。ABCと呼びます。三組は夫々に特長がある。その特徴を生かして行動して頂きたい」
「知念君、まず、A組の夏目君と赤路先輩は東京から通うわけにはいかないと思う。B組の俺と中村君は下北沢から出撃する。知念君はどうする?」
「銀平さん、ボクと丸子君は、ピンクガーデンから横浜に通う。仁科課長と打ち合わせが頻繁になるからです。必要ならチャイナタウンに泊まる。夏目君、赤路さんと、今から中華街の加賀町警察署へ行ってください。ボクが要件を伝えておきます」

加賀署はふたりに「ローズホテル横浜がいい」と推薦してくれた。
「葵さん、これ上等のホテルやな。そやけど飯がついとらんで?」
「赤路先輩、ここチャイナタウンですけど?」
「朝飯のこと言うとんや」
「支那粥をご存じ?」
「いや、釜ヶ崎の雑炊しか知らん。ところで、俺たち、夫婦にしては、えっらい歳が離れとるな?あの耳のない男は、ヤー公やでとなるけど?」
「じゃあ、金星会の兄さんとそのスケでどう?」
「品のエエ、スケやな。そんなら呼び名は葵ちゃんやな?」
ふたりが夜のチャイナタウンを漫歩していた。
「加賀署の刑事が中国人の船員のたまり場を教えてくれた。葵ちゃん、そこへ飯食いに行こか?」
葵は心配になったが、ボデイガードの赤やんは頼もしい。ふたりは、ハマのヤクザの夫婦に見えた。またそのような格好をしていた。ふたりの刑事が福建菜館に入った。加賀署から二百メートルの距離である。十一時を過ぎていた。福建菜館は、丸いテーブルが五星に配置された小さな店である。キッチンに続く入り口に、もう一つテーブルがあった。清朝時代の絹の支那服を着て辮髪帽子を被った初老の男が座っていた。隋の煬帝のような泥鰌ひげが立派である。
――オーナーだろうか?と赤路が思った。
「欢迎、欢迎。こんばんわ」と煬帝が近寄ってきた。そして、赤路の右耳がないことにギョッとした。
「社長の朕仲夫です。兄さんはどこの組のお方ですか?」
「いや、わいはヤクザやないで」と赤路が大きな手を横に振った。煬帝が赤路の肉厚の大きな手を見て怯えた。
「大阪の方ですか?」
「西成や」
朕が葵を見ていた。到底、ヤクザではない。ヤクザの女は髪を染めているものだ。
「ああ、これか?わいの妹なんや。可愛がってやってんか?」

朕が閉店の看板を掛けた。葵がメニュウを見ていた。福建料理は炒め物と煮物が多い。鮮魚や蟹は蒸し物にする。葵が三品選んだ。
「こら、葵、何を頼んだんや?」
「葱焼蹄筋って言うんよ。乾した豚のアキレス腱とネギの煮物。 海鮮ピリ辛炒め。肉燕 は 豚肉を練りこんだ皮で作るワンタン」
「ブタブタやで?」
「ニイちゃん、アタイねえ、豚が大好きやて、言うたじゃん」
兄と妹が笑った。朕が訝しい目つきで、二人を見ていた。
――右耳のない奴は大阪もんだが、女はハマッコだ、、もしかして、刑事じゃなかろうか?
外から店のドアを叩く音がした。朕がドアを開けた。ソフトを被った三人の東洋人が入ってきた。真ん中の背の低い男が首領なのか先に入ってきた。男の足取りは軍隊で訓練を受けた者の歩き方である。どれも人相が悪い。三人がソフトを取って帽子掛けに掛けた。金髪に髪を染めてオールバックにした背の低い男は凶相である。目が蛇である。その男が赤路と葵を見て舌なめずりをした。葵は見ないようにしていたが、赤路が睨み返した。男が朕に何か言った。朕が葉巻を箱から出した。その金髪の男が左指で葉巻を一本手に取ると、右手でライターの火を付けた。

続く
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消えたポセイドン  第一話 第12章
第一部
第12章

朝になった。鞍馬が目を覚ますと朱鷺が恥ずかしそうな顔をしていた。ふたりが、白菜の漬物、なめこの味噌汁、コシヒカリのご飯を食べた。
「朱鷺さん、ボクたち夫婦になっちゃったね」
「鞍馬さん、アンナって呼んで」
「太一って呼んで欲しい」
温泉宿「いろり」の亭主が上越新幹線の上毛高原駅まで送ってくれた。
「有難う。またお世話になります」
車が走り去った。
「太一さん、私たち、誰かにツケられていると思うわ」
「君もそう思っていたんだね?ボクは気が着いていた。車の中からその男の顔を一枚撮った」
鞍馬がイメージを拡大した。男は野球帽を被っていた。
「なあんだ。銀平さんじゃないか。知念君も隅に置けないね。ハハハ」
鞍馬が上毛高原駅の公衆電話から警視庁の捜査一課に電話をかけて、群馬の水上から東京へ帰ると報告した。つぎに、アンナが義母の多恵に電話を掛けた。二人の恋人が、一〇:四三発東京行き「たにがわ48号」を待っていると小鳥の囀りが聞こえた。
「あれはね、オジロビタキっていう鶯に似た鳥なんだよ」
「私も、野鳥が好きなのよ。インコとカナリアを飼っているの」
――そう言えば、知念君が神喰家を訪問したときにインコが不思議なことばを喋ったと言っていたな、、
アンナが携帯の写真集を見せた。
「インコだって?でも、珍しいインコじゃない?」
「マダガスカルのセキセイ、インコなのよ。トバリシっていう名前なんです。パパが船長室で飼っていたんです。トバリシは――ギャア、ギャア、、ドバイ、ドバイ、ペドロ、、ギャア~って喋るんです」
「トバリシは、何を言ってるの?」
「何を言ってるのか判らないのよ」
アンナは、東京に来るアレキサンダー・ペドロフスキーのことを鞍馬に言わなかった。アンナがカナリアの入った篭のイメージを見せた。
「これ、ピーコよ」
「赤いカナリア?珍しいね」
「シベリアの鳥なの」
鞍馬が何かを考えていた。そこへ、下り東京行きが滑り込んできた。ふたりが雪景色を見ていた。夫々の想いに耽っていた。
鞍馬とアンナが東京駅に着いた。バックパックを背負ったアンナが鞍馬を見上げていた。
「アンナ、どうしたの?」
「太一さん、私、あなたのお家に囲って頂きたいの」
「嬉しいけど、高尾山って知ってる?田舎だよ」
「いいの、太一さんと一緒なら。母に言うわ。母は、私の身の安全を心配してるから承諾するわ」
ふたりが東京駅で別れた。

二月一二日、、
その日の朝、アンナがバックパックを背負い、トランクを手に持って山手町の家を出た。四十分後、新宿駅の京王線の改札口にいた。鞍馬を待っていた。鞍馬は時間通りに新宿駅にきた。乗り換えなし。五十一分で高尾山口に着いた。
「太一さん、田舎だなんて言ってたけど森のある美しい町なのねえ」
ふたりが駅前の駐車場ヘ歩いて行った。
「まあ、私、青いセドリックが大好きなのよ」
ふたりの乗ったセドリックが西へ走った。緩やかな坂を上ると相模湖が見えた。相模ハイツに着いた。犬の鳴き声がした。ガレージにセドリックを入れて台所のドアを開いた。ダックスフンドの親子が飛び出してきた。
「わあ、可愛い」
台所を通って居間に入った。
「遠くに富士山が見えるわ。太一さんっておカネ持ちなのね」
「いやいや、三十年ローンだよ」
「私立探偵って収入が高いのね」
「腕前に依るよ。ボクは、まあまあかな」
鞍馬は日本政府が客だと言わなかった。
「私、太一さんのおかげで安心だわ」
チエ子姉はいなかった。鞍馬は相模湖の河畔にワンルームマンションを買ってやったのである。チエ子姉との契約は掃除、買い物、犬の世話だけである。
「まあ、景色がいいわ」とアンナが窓際に歩いて行った。戻って来ると鞍馬の上着を脱がせた。次に、ズボンを脱がせた。アンナが接吻しながら、ブラウス、スカート、パンテイを脱いだ。アンナがリードした。鞍馬がビックリするほど男女の位置が代わっていた。「タイチ、ワタシのタイチ」と愛撫が激しくなって行く。鞍馬は降参した。「アンナ」と彼女を抱きしめた。二時間が経っていた。やがて、アンナはスヤスヤと寝てしまった。

二月一四日、、
鞍馬とアンナが、紅茶、トースト、マーマレード、バターで朝食を終えた。時計を見ると午前七時である。今朝は、京王線で高尾山口から八王子へ行き、八王子で横浜線に乗り換えて横浜へ。横浜から京浜東北線で新橋へ行くテストを行う計画である。キッチンからガレージに出ると、チエ子姉の軽自動車がやってきた。チエ子がアンナの手を取った。
「お話しを聞いています。太一をお願いします」
「神喰朱鷺です。私こそお願いします」

高尾山口から京王線で八王子八分、八王子から横浜線で横浜駅まで一時間、横浜から新橋までJR東海道線で二十二分である。所要時間は、一時間三十分である。地下鉄を入れると約二時間かかる。このルートは尾行を避けるためである。つまり、アンナは横浜の山手町に義母の多恵と住んでいることになるのである。
「アンナ、帰宅するときだけでいいんだよ。朝、出勤するときは、高尾山口から京王線で八王子。プラットホームの向かい側に中央線が待っている。まっすぐ、東京駅へ。これは、五十五分」
「大丈夫よ。ときどき、山手町にも帰るから。でも、私、車が要るわね」  
「いや、チエ子姉に送り迎えして貰うから心配しないでいい。バスもあるし」

ハネムーンのような幸せな二週間が過ぎた。鞍馬が知念に会った。朱鷺と同棲していると話した。知念が沈黙した。鞍馬にはその意味がよく分かっていた。神喰朱鷺は、ポセイドン事件の渦中の人物だからである。
「鞍馬先輩、ご先輩は護身用拳銃も持っていらっしゃらない。銀平さんと中村刑事がおふたりのガードなんですが、先輩と朱鷺さんが群馬でツケられていたと報告しています。その尾行していた男が誰か判らないんです。今回は、財布をスルことが出来なかった。今のところ、朱鷺さんをツケている者はいないのです。FISは、東京にペドロフスキーを送ってくる。凶悪な人間なんですが、証拠がない日本政府は入国を拒否できない。小樽で消えた男は神喰太刀だと指紋で判明している。だが、足取りが掴めない。狐に鼻をつままれた思いです。神喰は船乗りです。日本を出たのかも知れない」
「知念君、ボクはアンナを愛している。だが、アンナの横顔をそっと見ていると違う人間に見えるときがある」
「違う人間?先輩、いつのことですか?」と知念が身を乗り出した。
「先週の日曜日だがね」
「その日、アンナは何処にいましたか?」
「山手町の家に帰ると言って、朝、十時に横浜ヘ行った。泊まって、出勤すると言ってた」
知念が腕を組んで考えていた。
「先輩、アンナの服装は何だったんですか?」
「赤いスカーフに緑のビロードのドレスだったけど?」
「先輩、アンナは横浜ハリストス正教会ヘ行くって言ってませんでしたか?」
「いや、ボクも、うっかりしてたね。恋をするとめくらになるということか」
鞍馬が反省するかのように言った。
「アンナは教会で誰かと会ったと思います」

続く

04/17
消えたポセイドン  第一話 第11章
第一話
第11章

一月三十日。鞍馬がガウンを脱ぎ、シャツを着て、ズボンを穿いた。看護婦が車椅子を持ってきたが、靴を履くと鞍馬は撃たれたことを忘れたように大股で、廊下を歩いて行った。玄関で看護婦と知念が見送った。鞍馬は知念が手配したリムジンに乗ると高尾の自宅へ帰って行った。鞍馬がリムジンの中から朱鷺に電話を掛けた。朱鷺が泣いた。この土曜日に会おうと約束した。一週間、休みを取ると朱鷺が言った。

二月二日。小樽の海上保安庁の巡視船「はまちどり」がカムチャッカからきたロシアのタラバ蟹漁船を沖で停止させた。船名はアクラ。母港は、樺太のコルサコフである。海保の隊員が乗船して船内を臨検した。クルーからパスポートと船員手帳を集めた。船長を含めてクルーは、十五人である。その中に年配の男がいた。
――タラバ蟹漁船に乗る歳ではないが?
「ダバイ、あなたの名前、年齢、任務を言ってください」
「メルキト・タタール47歳。コック」
「住所は?」
「ペドロパブロフスク、カミチヤクフスキー」
ロシア語には、よどみがなかった。旅券も、船員手帳も問題がなかった。積荷は、活タラバ五〇トンである。海保は一週間の停泊を許可した。だが、翌日、メルキトは小樽のホテルから出たまま戻らなかった。海保がメルキトが失踪したのを知ったのは、午後の三時である。東京の海上保安庁本部に知らせた。沖田が電話を取って知念に伝えた。捜査一課は、メルキトは神喰太刀だと色めき立った。ただちに全国手配を命じた。
「神喰が日本に上陸したって?」
「仁科課長、緊急会議を開いてください」
Aワンが集合した。知念が立ち上がった。
「もっとも重要なことは、神喰太刀をFISに先に取られないことです。みなさん、相互のコンタクトはルール通りに願います。早速ですが、山田技師長、ロシア大使館か極東ロシア特別警察のチャットはありましたか?」
「知念君、もうワイワイ騒いでいるよ」
仁科が立ち上がった。
「戦端が開かれた。ここから第二次日露戦争が始まる。君たちに日本の命運が掛かっている。君たちが、わが国の兵隊なんだ。これ以上、チームを広げることも出来ない。各自に覚悟を決めて頂く」と仁科が激を飛ばした。
「まず、夏目君にピンクガーデンホテルに移動して貰う。知念君、丸子君、赤路さんもピンクガーデンに移って貰う。すぐに引っ越してくれないか?車は、警官付きで警視庁が出す」
「ピンクガーデン?警視庁から歩いても、三十分ですが?」
「ことは急ぐ。引越しのために車を出すと俺が決めた。坂本さんは、知念君から連絡があるまで動かないでください。銀平君と中村君はそのままです」
重松が立ちあがった。
「仁科課長、ボクらは何をすれば良いのでしょうか?」
「お二人も忍者になっていてくれ。顔が見えないことが敵の神経を逆撫でる。沖田さん、最も重要なことが白樺さんの翻訳です。山田技師長と一体になってください。これでいいかなあ?何かあったら、その都度、俺が指示を出す。それと鞍馬君には言わんでくれ。朱鷺に知られたくないからね。俺が話す」
特捜会議が終わった。十二人の兵隊が立ち上がった。
「課長、引っ越しが済んだらですが、朝霞へ行って自動小銃を撃ちましょう」
「おお、忘れ取った。俺たちは自衛隊員じゃないからな。しかし、銃砲刀等規制法は厳しい。この中では、丸子君一人が本物の兵隊だろう」
「いえ、課長、いざとなれば、JSWATがあります。ボクは市街戦などにはならないと考えています」
「わかった。引越しが終わったら報告してくれ」

――知念先輩、ハンク、釜ヶ崎の赤路さんとピンクガーデンに住むなんてなんと楽しいことか、、第二次日露戦争なんて仁科課長が言ってたけど、その戦争がなければ、こういう幸せな時間もないんだわ、、葵が呟いた。
――葵がしきりに熱波を送ってくるが、そんな余裕はない、、知念が呟いた。
――ボクが、たった一人の兵隊だって、、ハンクが呟いた。
――鞍馬さんを殺せと命令したのは、ルカ・スタルヒン大尉やろ。俺が潰したるで、、赤やんが呟いた。
夫々が独り言を言ってピンクガーデンの第一夜が更けた。まさか、つぎの日に、あのようなことが起きるとは、その夜、誰も夢にも思わなかったのである。

二月三日。神田川に裸の人が浮かんでいると神田署に通報があった。署員が駆け付けてみると橋の上に白いマスクを掛けた野次馬が集まっていた。恐ろしく寒い朝である。ゴム長とゴムのズボンのつなぎを着た三人の警官が凍った川に降りた。鈎竿でうつ伏せになった溺死体を引き揚げるのである。一人の警官が死人の腕をつかんで氷の上に引き揚げた。警官が目を合わせた。死人が外人だったからである。額に銃創があった。あきらかに銃殺されて神田側に投げ込まれたのである。死体は救急車に運ばれて走り去った。
知念とハンクと赤路が神田病院の死体安置室に立っていた。
「刑事さん、この銃創は45口径の拳銃です。大脳を貫通して即死です。解剖しますか?」とインターンに見える若い解剖医が知念に言った。
「腕時計は動いているから死亡した時間が知りたいのです。それと、真相が判るまで、この事件を公表しないで頂きたいのです」
「極秘なんですか?」
「この男はロシア大使館の駐在武官なんです。警視庁はロシア大使館の反応を見たいんです」
解剖医は深刻な事件だと肌に感じた。
「しかし、警部さん、新聞が放っておかないでしょう」
「そのときは、酔って川に落ちたとでも言ってください。IDが見つからないので警視庁が目下のところ捜査中とでもね」

朝の九時、知念、ハンク、赤路、葵が、仁科課長の部屋にいた。
「知念君、スタルヒンを殺った奴だが、誰なのか調べてくれ」
「スタルヒンの妻ベルガがロシア大使館に、昨夜、夫が家に帰らなかったと電話をしています」
「盗聴したのは白樺さんだね?」
「神田川から死体を引き揚げた直後に白樺さんにロシア大使館に入って来る電話の盗聴をお願いしたんです。白樺さんは今、FISのやりとりを傍受しています」
「反応は?」
「まるで何もなかったようにクールだそうです」
「すると、スタルヒンの部下が殺った可能性が高いね?」
「課長、それは一つの憶測です。間もなく、記者会見を行って公表します」
「それでも、クールなら粛清の疑惑は深いよ」
「赤路先輩、丸子君、夏目君、諸君だけで特捜会議をやって、Aワンの全員にスタルヒン事件をしっかりと認識して貰ってくれませんか?ボクは仁科課長と話しがある」
三人が出て行った。
「課長、ひとつの憶測と言いましたのは、あの新大久保の青竜団です。スタルヒンには女がいました。ヤクザが絡んでいれば強請られていたでしょう。これも原因になります」
「なるほどね」

記者会見が終わると記者たちが駆け出して行った。知念がテレビを点けると画面いっぱいに「特報」と赤い太文字が映った。
――ただいま、緊急ニュースが入りました。本日の午前五時三十分頃、千代田区神田の神田川で外国人男性の死体が発見されました、、男性は、ルカ・スタルヒン大尉、三十四歳。駐日ロシア大使館の駐在武官。東都テレビはただいま、ロシア大使館に問い合わせ中ですが、ロシア大使館はノーコメントだそうです。

スタルヒンが神田川で死んでいるのが発見されてから、ロシア大使館のコンピューターをスキャンすることが出来た。白樺が大使館員の誰かがスパイデバイスを取り付けた可能性があると知念に話した。知念が、アンナがデバイスを取り付けている姿を思い浮かべた。白樺がコンピューターの画面を見ていた。クリル文字が映っていた。それも、もの凄い速度でテープのように流れていた。白樺が鉛筆で速筆していた。山田が見るとスタルヒンのことは一言もなかった。ただ、一つのメッセージが気になった。
――五人の武官とゲルダを送還せよ!アレキサンダー・ペドロフスキー少佐と小隊を東京に派遣する。
「モスクワは、随分クールですねえ」
「スタルヒンなんか消耗品なんだろうね」
「知念君、鞍馬君は退院したそうだが、どうしてるかな?」
「ええ、まるで何もなかったようにお元気でした」
「暫らく高尾で静養するように伝えてくれ」
「いえ、明日から、どこかの温泉ヘ行くと言ってましたよ」
「冬の温泉か、俺も東京を逃げ出したいよ」
「課長の故郷は何処なんですか?」
「群馬の水上だけど?」
「ああ、その水上温泉ヘ行くって言ってました」
「一人でかい?」
「いや、そこまでは知りません」
そこへ、白樺が戻ってきた。速記を見せると仁科が驚いた。
「アレキサンダー・ペドロフスキーは、前KGBの殺し屋ナンバーワンだよ。暗殺で出世した男なんだ。最近ではイスラエルの新聞記者を核物質を使って殺した。女性のジャーナリストもエレベーターの中で撃ち殺した。ペドロフスキーは部下までも平気で殺す冷血動物なんだ」
「そんなことが許されるんですか?」
「プーシキンのお気に入りだからね」
「ボクを暗殺するために東京へくるんでしょうか?」
「いや、警視庁全体を襲撃してくる」
「課長、待って殺されるくらいなら、こっちから襲撃しましょう」
「襲撃されるという明確な証拠が必要だし、総理大臣は踏み切る勇気はないだろうね」
知念が沈黙した。

年二月四日。
鞍馬太一と神喰朱鷺が、東京駅一〇:一六発、上越新幹線「とき315号」に乗った。ふたりはアノラックを来て登山靴を穿いていた。鞍馬がバックパックを荷だなに乗せた。ふたりは群馬の上毛高原に向かっていた。長いトンネルを抜けた。車窓から雪を被った群馬の山々が見えた。鞍馬は長野の生まれだったが群馬の北部に行ったことがなかった。鞍馬は大学時代、スキー部に入っていた。スキー部のキャンプは奥志賀高原だった。高層ビルの密集する東京から、ほんの一時間六分である。上毛高原に到着した。右に利根川の急流が見えた。
「朱鷺さん、ここからタクシーで北ヘ一六キロのところに、『みなかみ』っていう町があるんです。温泉郷は水上温泉なんです。二十キロ北には谷川岳があるんですよ」
「空気が美味しいわ。高原の町ね」
赤いリンゴのような頬をしたアンナのエクボが可愛い。
「鞍馬さん、スキーに連れて行ってくれるなんて、私、嬉しいわ」
「薔薇のお返しです。お母さんにはなんて言ったの?」
「おともだちとスキーに行くってだけ」
駅前で客を待っていたハイヤーに乗って水上温泉に行った。
「鞍馬さん、今夜はどこに泊まるの?」
「水上宝台樹スキー場は利根川の上流にあるんだけど、一ヶ月も病院生活だったから温泉に浸かって、美味しいものを食べて、畳にひっくり返って、小説を読みたいんです」と鞍馬が子供のように笑った。
「私も、東京の人ごみには疲れたわ」
「利根川の川べりに温泉郷があるんです。温泉宿『いろり』と言います」
鞍馬は、一メートル八十センチの長身で、体格が良く、顔は面長、目が優しく、眉が太かった。その所為か態度物腰が自信に満ちている。ふたりがタクシーを降りた。「いろり」は利根川の岸を護岸した上にあった。温泉宿と言うよりも、三階建てのお城のようなホテルである。
二人が窓際の部屋に案内された。利根川が流れる音が聞こえた。
「朱鷺さん、腹を減らすために利根川沿いを散歩しませんか?」
一部、氷が張った利根川が轟々と音を立てて流れていた。
――川に落ちたら、上り特急「あの世行き」だな、、
川の向こうは低山である。「いろり」は峡谷にあった。朝、雪が降ったようだ。ふたりの登山靴がサクサクと気持ちのい音を立てた。雪の道を三キロも歩いただろうか、兎が飛び出してきて道の真ん中で立ち止まると、ふたりを見て林の中に駆け込んだ。雪の上を歩くのは歩道の三倍の力を必要とする。今度は鹿が横切った。
「朱鷺さん、戻りましょう」
鞍馬がドアを開けて靴を脱いだ。畳の部屋がふすまで仕切られていた。ふすまがあると言っても、朱鷺は生まれて初めて父親以外の男と一つの部屋に寝るので胸がどきどきしていた。
「朱鷺さん、今、午後の四時だけど、ご飯と温泉と、どちらが良いのですか?」と鞍馬が朱鷺に声を掛けた。
「先に温泉に入りましょう。この温泉、湯浴み着を着ると男女混浴が出来るって書いてあるわ」
「だから?」
「一緒に入りませんか?」
「どうして?」
「パパは幼い私をお風呂に入れたんです。お湯の中でお話ができるから。いつも海にいるパパは私が生き甲斐なんです」
朱鷺が男性用の化粧セットが入ったケースを鞍馬にプレゼントした。
「有難う」
鞍馬は朱鷺が接近してくるのを知った。湯が池を並べたように数か所にあった。親子四人が入っていた。奥の湯に行った。朱鷺が湯浴み着に着かえて湯に入った。鞍馬が続いた。二十四歳の朱鷺は、鉄砲百合のように美しかった。ふたりは、しゃべらなかった。朱鷺が鞍馬の体格に驚いていた。特に両脚の筋肉が発達していた。朱鷺が鞍馬の太腿の銃創に気が着いた。鞍馬は朱鷺の視線を感じていたが黙っていた。ふたりが湯から上がって浴衣に着替えた。鯉の池の傍の縁台で涼んだ。
「大きな緋鯉ですね?」と鞍馬が朱鷺に言った。
「朱鷺さん、向こう岸に見える高い山は高檜山と言うらしい。石器時代の住居跡があるんだって。明日、見に行きましょう」
鞍馬は若者で賑わうスキー場へ直行する気はなかった。
――ロシア大使館は朱鷺が神喰太刀の娘と知っているはずだが、何故、ロシアヘ連れて行かないのか?自分は私立探偵なんだ。元警視庁捜査一課の刑事の名誉に賭けても朱鷺を守る。朱鷺は可憐な女性だ、、
ふたりが木橋を渡った。顔がほてって気持ちが良かった。帳場の前を通った。
「お客さん、ご新婚さんですか?」
「どうして訊くんですか?」
「ご新婚さんには割引があるんですよ」
「はい、新婚です」と朱鷺が答えた。鞍馬が呆れた。ふたりが畳に座った。鞍馬は、朱鷺が父親とふたりで生活した樺太を訊かなかった。ふたりは群馬産の豚肉のシャブシャブとコシヒカリのご飯を食べた。胡麻タレが美味しかった。鞍馬が朱鷺の旺盛な食欲に安堵していた。
「朱鷺さん、こんな歳が開いた新婚があるはずがないよ」と鞍馬が朱鷺の機転の良さを笑っていた。食後、お膳を片付けにきたおばさんに、朝、車を出してくれないかと依頼した。帰りに宿泊するという条件でスバルを出してくれた。往復二時間、迎えも入れて六千円。旅館の亭主が運転手である。翌朝、ふたりが旅館が用意した車で石器時代の住居跡に行った。鬱蒼としたケヤキの森である。そこから関越自動車道を北へ上がって、県道六三号線を斜めに南東へ向かった。
「お客さん、これが『奥利根ゆけむり街道』なんです。藤原湖に行く途中にお見せしたい名所がありますが?」
亭主がアンナをバックミラーで見ていた。
「帰りに寄ってくれませんか?」
「藤原湖のダムに寄りますか?凍っていますがね」
「いや、宝台樹(ほうだいじゅ)スキー場へ行きたいんです」
藤原湖が見えた。南に百メートル降りて藤原湖の右側を北上した。スキーヤーがゲレンデを滑降しているのが見えた。鞍馬が腕時計を見ると、水上温泉から二十六キロの行程に一時間がかかっていた。三人がスバルを降りてロッジに歩いて行った。大きな木造二階建てで丸木小屋に見えるがチロル風の建物である。
「鞍馬さん、お帰りのときにはお電話をください」
鞍馬と朱鷺がバックパックを持ってロッジに入った。気温はそれほど低くなかった。寒暖計を見ると、五度である。
「二泊ですね?」
「はい、そうですが、スキーをお借りしたいのです」
「料金に入れておきます」
「夏は休業ですか?」
「いいえ、藤原湖は、イワナ、ニジマス、サクラマス、ホウライマス、銀山サーモンの稚魚が放流されるようになってからは、魚影が濃く、釣り人で賑わうんですよ。九月三十日が最終日でして、イワナを除くマスや銀山サーモンは禁漁になります」
ロッジの中は快適だった。鞍馬は部屋を二つ取っていた。ふたりがバックパックを置くとフロアのレンタスキーヘ行った。スキーのトレーナーが、初日は、お子様用のパプースをお勧めします。脚を慣らさないとケガをしますとアドバイスした。鞍馬がトレーナーを睨みつけた。一方の朱鷺は三歳からスキーで遊んでいた。
「朱鷺さん、二時間滑ったらランチ食べませんか?」
二人はランチを食べた後も滑った。陽が暮れる前にスキーを返してレストランに行った。群馬なのにどういうわけかジンギスカン鍋があった。
「美味しいわ」
「疲れたの?」
「うん、少し脚が痛いけど、明日は神風コースに行くわよ」
「エエ~?それ、プロのコースだけど?」
「困ったら、雪上車を呼べって書いてあったのよ」
「朱鷺さん、お母さんに電話しておきなさいね」
ふたりが水着になってジャクジに行った。
朝、鞍馬が起きると九時になっていた。朱鷺に電話すると起きていた。カフェでコンチネンタルを食べた。サニーサイドアップ、ソーセージ、トースト、野菜サラダ、コーヒーである。神風コースは、鹿でも転ぶ急斜面である。やはり、朱鷺がへたばった。鞍馬が雪上車を呼んだ。ランチを食べてからパプースに行った。五歳ぐらいの女の子がスイスイ滑っていた。
翌朝、いろりの亭主が迎えにきた。藤原湖のダムで降りて雪の積もった林道をハイキングした。流石の鞍馬も脚の筋肉が痛かった。三人が「いろり」に戻った。朱鷺と鞍馬が湯浴み着を手に持って雪下駄を履いて露天掘りに歩いて行った。利根川はこの辺りでは急流である。水が岩を噛み、神々しい雰囲気を作っていた。
「朱鷺さん、悲しいことを一時でも忘れることができた?」
鞍馬が朱鷺に優しい言葉を掛けた。
「鞍馬さん、あなたは私の立ったひとりの味方よ。私を守って頂戴。お願い」
朱鷺が青い目に涙を溜めた。鞍馬が朱鷺の顔を見つめていた。部屋に戻ると亭主がやってきた。
「お客さん、さっき、ヤマメが届いたんです。生憎、ニジマスはないんです」
「ああ、かまわないですよ。今日は、たいへん有難う」
「それでは、栗ご飯、田螺(たにし)の吸い物、山菜の炒め、ヤマメの天ぷらでどうでしょうか?」
「お酒は?」
「土地の銘酒がありますよ」
「朱鷺さんも呑む」
「私、ロシア女よ」と朱鷺が笑った。女給が料理を並べた。酒は新潟の銘酒、越乃寒梅(こしのかんばい)であった。ヤマメのから揚げと実に相性がいい。朱鷺が銚子を取りあげて鞍馬の杯に注いだ。
「ほんと、これでは新婚だね?」と鞍馬が笑った。

ふたりは別々の部屋に入ると早々と布団にもぐった。酒が回って心地が良かった。鞍馬が眠ってしまった。喉が渇いた。鞍馬が手を伸ばして枕元に置いてあった薬缶の水を飲もうとした。そのとき、誰かが横に寝ているのに気が着いた。スタンドを点けると朱鷺であった。
「どうしたの?」
「私、鞍馬さんが欲しいの」
朱鷺が起きてヤカンの水を茶碗に注いだ。鞍馬がゴクリと飲んだ。
「ボクでもいいの?」
「初めて会ってから鞍馬さんが好きになったの」
鞍馬が朱鷺を抱き寄せた。香水の匂いがした。鞍馬が朱鷺の浴衣を開いた。朱鷺は意外に毛深かった。鞍馬が侵入しようとすると朱鷺が体を固くした。神喰朱鷺は処女だったのである。だが、ふたりは何かに取りつかれているように愛撫を重ねた。

続く
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消えたポセイドン  第一話 第10章
第一話
第10章

鞍馬は昏睡状態であったが一命を取りとめた。警視庁は鞍馬を慶應病院に入れた。鼻に酸素吸入チューブを入れた鞍馬が目を覚ました。救急車で運ばれてから四八時間が経っていた。刑事が医師を呼んだ。鞍馬が誰かが自分を覗いていると感じた。
「鞍馬さん、私、朱鷺よ」
鞍馬が何か言おうとクチを動かしたが言葉が出ない。医師が入ってきた。患者に話しかけないようにと朱鷺に言った。朱鷺が窓辺に歩いて行って両膝を着いた。朱鷺がアンナになっていた。
――天主ハリストスさま、鞍馬さんを死なさないでくださいと言う声を鞍馬が聞いた。知念と仁科が入ってきた。
「刑事さん、患者に負担がかかりますので、話しかけないでください」
三人が廊下に出た。
「手術は上手く行ったんですね?」
「凶弾は第二肋骨で跳ねて心臓を外れたんです。肩甲骨で停まった弾を肩の下を切開して抜き取ったんです。もう一発は右の太腿をきれいに貫通したために命を取りとめられた」
「主治医さん、この人は日本にとって掛け替えのない人なんです。全力を尽くしてください」と知念が言った。
「もちろんです。全治一ヶ月と診ています。神経をやられていないので、リハビリは要らないでしょう」
知念の携帯にテキストが入った。葵だった。
――今、アンナが来ている。夕方まで来ないように。ビーグル
夕刻、帰宅する前に知念とハンクが鞍馬を見舞った。鞍馬は麻酔の入った点滴で眠っていた。葵が鞍馬の横で泣いていた。知念を見た葵が立ち上がった。知念が葵を抱いた。
「夏目君、あなたの所為ではない。だけど、シャボンをすぐ辞めてください」
「はい、分かりました」
そこへ坂本が入ってきた。
「俺、なんどもきたんだが、ストップを食っていた。主治医に聞いたら、一命を取りとめたって言ってた。鞍馬先生が最初にやられるとは夢にも思わんかった。でも、新聞は何も書いていないね」
「自粛を呼びかけたんです。暴露記事を書けるのは坂本先輩だけです」
「いやいや、とんでもない」と坂本が手を横に振った。
「坂本先輩、これは戦闘が始まったということです。これからも銃声は鳴るでしょう。明日は大晦日ですが、午後、捜査一課で緊急会議をやります。先輩も出てくれませんか?」
「捜査一課の会議に出るなんて新聞記者の本望です」
「海保の沖田次長と白樺係長にも出て頂きます」

大晦日、捜査一課で会議が行われた。坂本が尾行されていないか、知念がハンクと刑事ひとりを送った。
「先輩、クリーンのようです。坂本さんは、今、下でチェックを受けています」
「仁科課長は坂本先輩が次に狙われると思っている。もうロシア大使館は知っているはずだからね」
「でも、坂本さんを狙う理由は何なんですか?」
「FISの力を見せるためだろうね。ただ、鞍馬先輩を東京で襲ったのは失敗だった。坂本先輩を襲うとすれば地方でだろう」
「あの中国人らは、ヒットマンに雇われたんです。生き残った奴はよくしゃべっています」
「聞いたよ。日本人の会社員に雇われたってね。嘘だろう」
そこへ葵がやってきて会議が始まるとふたりに伝えた。
仁科、知念、ハンク、葵、銀平さん、中村刑事、重松、海府、沖田、白樺。坂本が円卓に着いた。仁科が立ち上がって会議の目的を述べた。
「ご存じのように、鞍馬太一君が撃たれた。幸運なことに一命を取りとめた。念を押すが、このAワンチームの中で坂本一郎さんと鞍馬太一君だけがアウトサイダーなんだ。その意味するところは、この二人をFISは狙う。まだ面識のない人がおられるので、まず、坂本さんから自己紹介をお願いする」
沖田と白樺を除いて刑事たちは坂本をよく知っていた。つぎに知念が鞍馬太一を沖田と白樺に説明した。沖田が立ち上がった。
「海上保安庁と警視庁の違いがよく理解できました。鞍馬太一さんは有名なお方です。ただ、このポセイドン事件に関与していたと初めて聞きました。鞍馬さんは私立探偵ですね?本件にどのように関与されていたんでしょうか?」
知念が沖田の質問に答えた。
「神喰船長に混血の娘がいるのは白樺君から聞いて知っています」
「鞍馬先輩のクライエントである神喰朱鷺です」
「白樺さん、ロシア大使館は盗聴が不可能なんですね?」
「盗聴が可能なのは携帯だけです。ロシア大使館の盗聴は不可能ではないんですが、デバイスをロシア大使館の部屋やメインコンピューターに取り付けるのはほとんど不可能です。彼らは管理を日本人技師にやらせませんから」
「白樺さん、分かりました。何か手を考えましょう」と知念が言った。手はなかったが、、
「重松君、何かあるかな?」
「仁科課長、先週、外務省に呼ばれたんです」
「ソロソロくるとは思っていた」
「八日市外務次官と二人きりで話したんですが、外務次官は青い顔をしてましたよ。どのようなことでも知らせて欲しいと手を合わせて、ボクを拝んだんです。総理に言わないでくれと厳重に言って帰りました。死んでも言わないでしょう。言えば警視庁を敵に回す上、一切、情報を貰えないからですね」
「重松君、外務省は自分らの保身だけだ。呼ばれても行かないでいいよ」
「銀平さん、何かありますか?」と知念が江戸川銀平に訊いた。
「知念君、俺は出世しないスリ課の悲しい悲しいヒラケイジだ。俺が必要ならいつでも言ってくれ」
「銀平さん、中村刑事さん、必ずお二人さんが必要な時がきます。そのときは、宜しくお願いします」
「最後になったが、夏目君、君の意見を聞かせてくれ」
「はい、課長、私はシャボンを辞めます。でも、アンナとは、お友達なんです。交際を続けても良いでしょうか?」
「願ってもないことだ。それに、神喰朱鷺には話し相手が要るだろう。交際を続けてくれんか」
「課長、四人の在日ですが、殺されていたことが判明しました。もうひとりの在日中国人の少年は失踪中です。坂本さんと、丸子君、夏目君に残って頂き課長とお話しをしたいんです」
あとの六人が会議室を出て行った。

「課長、殺された在日は、斉木、金本、朝岡、李、の四人です。孫は見つかりません。恐ろしくなって隠れていると思います。斉木が大阪港で殺された頃、金本、李、朝岡の三人が、北九州市、広島、神戸で殺害されています。三人とも腹をナイフで横一文字に割かれて額を撃ち抜かれているんです。切り口から犯人は左ギッチョと断定されました。四人とも埠頭に受かんでいたんですが、これだけの大仕事をできるのはFISだけです。釜山にいたミカロフはアリバイがあるとなります。これ以上追及する価値はないと思うんですが、四人とも、二万ドルもの大金を財布に持っていた。ボクは、神喰が与えたと思うんです」
「知念君、この五人の在日には家族はいないのかね?」
「金本、李、朝岡に妻子がいます。福岡県警、広島県警、兵庫県警に配偶者の聴取を依頼しました。なかなか喋らないと言っています」
「う~む、命を賭けてポセイドンに乗っていた夫を犯罪者にしたくないんだろうね。しかし、神喰はどういう方法で払ったんかな?」
知念が一息おいて続けた。
「ポセイドンがバレンツ海で消えたのは、十月の四日です。ほぼ三か月が経っています。乗っていた三人のロシア人の行方も判らない。ロシアにいるなら捕捉は不可能です」
「課長、疑問なんですが、神喰船長はポセイドンが沈没したとき、そんな大金を持っていたんでしょうか?」とハンクが仁科に言った。
「なるほど。それは気が着かなかったな。すると、神喰は樺太に潜んでいて、何らかの方法でその五人の在日に送金した?」
「課長、送金ではなくて運ばせた可能性もあるんじゃないかしら」
「夏目君、その通りだろう。では、飛行機で運んだとなるね」
「いえ、課長、日本国内なら運び人でも可能です」
「厄介だなあ。神喰は後回しにしよう。眼前の敵はFISだからね。FISは坂本君を殺るだろう。駐日ロシア大使館の駐在武官は、ルカ・スタルヒンというロシア極東軍の大尉だ。この男は、麻布に住んでいる。こいつを使おう」
「課長、使うって?」
「やつのマンションにデバイスを取り付けよう」
「白樺さんが喜びますね」
「知念君、来年の初仕事だ。それでは、君たち、良い年を迎えてくれ給え」

西暦某年の元旦、、
芝増上寺の北に東京タワーがある。ルカ・スタルヒン大尉は、麻布スカイタワーという摩天楼の六十階に妻のゲルダと住んでいた。ゲルダはロシア大使館の武官付書記である。ロシア大使館まで三百メートルの距離である。スタルヒンが麻布スカイタワーを選んだ理由はセキュリテイである。警備員もだが、停電のときにはジーゼル発電機のバックアップ、コンピューター回線はファイアウオールでハッキングやスパイウエアを拒んでいる。ロシア大使館のトップは、みんなこの麻布スカイタワーに住んでいた。元旦の朝、妻のゲルダとルカが日の出を見ていた。ゲルダがキッチンへ、テイーポットを取りに行った。
「あら、湯が湧いてないわ」
天井の照明が消えた。
「ゲルダ、テレビが消えた」
ルカが管理人に電話を掛けた。管理人が停電は最上階だけで、他の階は問題がない。十分で電気工事士を送る。申し訳がないと平謝りに謝った。ドアのブザーが鳴った。ルカがドアを開けると、中年の電気工事士と茶髪に野球帽を被った初老の助手が工具箱を持って立っていた。工事士が、ラウンドリーのサーキットブレーカーを点検していた。工事士が助手に何かを言うと、助手が何かを手で渡した。
「スタルヒンさん、コンピューターを点けてください」
「あれ?電源は入るが起動しない」
「ショートしたときにクラッシュした可能性があります。ご心配いりません。リフレッシュするだけで修復するはずです」
「すぐに、そのリフレッシュとかをやってくれ」
スタルヒンが神経質になっていた。
工事士がデスクトップの前に座ってカタカタとキイを叩いていた。
「あなた、お茶が沸いたわ」
リセットに時間が掛かっている。夫婦が茶を飲み、食パンにバターを塗って食べていた。書斎で大きな音がした。よろけた助手が本棚に肩を当てた。スタルヒンが飛んで行くと、大事なファイルが床に散らばっていた。
「バカヤロー、ヤポンスキー」
初老の助手がスタルヒンを睨みつけた。
「スタルヒンさん、リセットをしましたが、リフレッシュには、一時間が掛かります。私たちはこれで失礼します」
「今度、停電をするようなら麻布ビルを訴えるぞ。帰れ!」
二人はスタルヒンの甲高い声に急いで頭を下げた。

山田と野球帽を被った銀平さんが捜査一課に戻ってきた。山田は警視庁コンピューター中央管理室の技師長である。
「知念君、うまく行ったぞ」
「山田さん、済みませんがテストをしてみてください」
山田に続いて知念が出て行った。山田がスイッチボードの前に座りヘッドセットを耳に着けた。ヘッドセットを取り外すと知念に渡した。スタルヒンの声が聞こえた。銀平さんがなぜかニヤニヤと笑っていた。知念がベテラン刑事を見ると、銀平さんがポケットから四つに折ったペーパーの束を取り出した。
「元旦から、ひと仕事できた。さあ、帰りましょう。四日に会いましょう」

某年正月四日。知念、ハンク、山田、銀平さんが仁科の前に座っていた。
「エエ~?元旦に、スタルヒンのレジデンスに行ってデバイスを取り付けたって?」
「課長、山田コンピューター技師長が工事士に化けて行ったんです。もちろん、ボクが麻布ビルの社長から許可を得ていたんですが」
「山田君から聞こう」
「キッチンのブレーカーに超小型のマイクロフォンを取り付けたんです。デスクトップにスパイデバイスのカードを付けました。今、技師たちがファイルを抜き取っているところです」
「ウオ~!と言うしかないね。ところで銀平さんは、またなんで行ったのかね?」
「課長、それはもうコソ泥が目的ですよ」
知念が十枚のペーパーをデスクに置いた。表紙のクリル文字に英訳が着いており、ポセイドンと書いてあった。仁科が呆れかえっていた。
「知念君、白樺さんに翻訳して貰え」
「白樺係長はあと十分で海保から歩いてきます。課長、今日の午後三時に、Aワン会議を開いてください。解読できたものを持って行きます」
「でかした。大相撲なら初日から金星だ」

モスクワのアレキサンダー・ペドロフスキーが部下のルカ・スタルヒンから元旦の停電を聞いていた。その太い首を傾げていた。
「ルカ、デスクトップを調べろ」
デバイスが発見されたが、すでに24時間が経っていた。ペドロフスキーが狼のように唸った。
「おい、ルカ、お前は軍法会議に掛けられるぞ。チネンを殺れ!そうすれば、シベリア行きは免れるだろう」
「閣下、サカモトじゃダメなんですか?」
「チネンを殺れ!」
「承知しました」
スタルヒン大尉の声が震えていた。

山田が先に気が着いた。知念を呼んだ。
「知念君、デバイスが発覚したようだ」
「ブレーカーのマイクロフォンは?」
「そのままだよ。よく聞こえる。やつらはまだ正月気分らしい。家にいる」
知念がヘッドセットを耳に着けるとベルガの声が聞こえた。ルカが何か言い返している。何を言っているのか分からないが夫婦が怒鳴りあっていた。
午後の三時。会議室にAワンが集合した。
「君たち、聞き給え。俺が懸念するのは、知念君の命だ。スタルヒンは必ず報復する。一番、目に着く知念君を殺害するだろう」
「はあ?ボクを殺って何が得られるんですか?」
「いや、スタルヒンは、シベリア刑務所方面行き超特急だろう。だから君を殺して許しを請う。これがロシアの掟なんだ。FISが襲ってくるんじゃない。スタルヒン一人だろう」
「課長、丸子君一人では無理です。もうひとり刑事を付けて頂けませんか?」
「希望は?」
「課長、大阪西成署の赤路連太郎刑事を東京に呼んでください」
「赤路さん?どうしてかね?」
ハンクが釜ヶ崎のバーの出来事を仁科に話した。笑いながら聞いていた仁科がデスクの卓上電話を引き寄せた。大阪府警の警視と話した。
「赤路さんが明日の昼、東京駅に着くよ」
ハンクの顔が電球が点いたようにパッと明るくなった。それを見た坂本が手を挙げた。そして「釜ヶ崎の赤やん」こと赤路連太郎の経歴を話した。
「なにしろ、赤やんは、マムシと恐れられた鹿内組の鹿内組長をボコボコにした刑事ですからね」
「ほう、それで仕返しはなかったのかね?」
「赤やんは狙撃されたんですが、右耳を吹っ飛ばされただけで、命には別状がなかったんです。退院した赤やんが頭に包帯を巻き、半長靴を履いて鹿内組に出掛けたんです。自称剣道五段の若頭が白鞘を抜刀して脅したんです、赤やんはその男をその場で射殺した。鹿内が猟銃を持って出てきた。赤やんが西成署を特攻隊のような姿で出て行くのを見た後輩の刑事が鹿内を二〇メートルの距離から仕留めた。眉間を撃たれた鹿内は昇天なされたと、こういうことです」
三十年も刑事をやり修羅場を潜った歴戦の仁科までが、赤路のもの凄さに驚いていた。
「よし、これで、Aワンにもう一人、強兵が増える。明日の夕方、赤路さんの歓迎会をやる。会場を知念君が決め給え」
ハンクが大口を開けて笑っていた。沖田が手を挙げた。
「仁科さん、白樺君にリポートをして頂きますので解散しないでください」
技師が幻灯を壁に映した。そこには、FISの東京部隊の組織図が写っていた。特別部隊は六人で指令は、ルカ・スタルヒン大尉である。六人の顔写真、ネーム、階級、年齢がプリントされて配られた。みんなが、アタマに印画するように、そのプロフィルを見ていた。
「課長、これ覚えにくい名前だなあ」
「ロシア語はとんでもない言語なんだよ」
「仁科さん、これは江戸川銀平さんが盗んだファイルなんです。コンピューターのほうは、ボク一人なんで時間が掛かります。でも所要時間は、二日かと思っています」
「白樺さん、重要と思われる個所だけ翻訳して頂きたい」
ハンクが手を挙げた。
「課長、知念先輩は浦安にお住みで、ボクは所沢なんです。赤路先輩が来られたら、ボクと赤路さんがルームメイトとなって浦安に移り住みます。そうでないと、影日向になって、知念先輩を守ることが出来ませんから」
「分かった。引っ越し費用とその借家かなんかを知らせてくれ。それまで、ピンクガーデンに泊まれ。それとだね、丸子君は陸自の特殊攻撃部隊JSWATにいたよね?ライフルは撃てるんかな?」
「ベルギー製の軽自動小銃一級資格者です」
「一度、丸子君の腕前を観たいな」
「赤路さんが 落ち着かれたら朝霞駐屯地へお連れします」
「俺も見たいなあ」
声の主は銀平さんだった。全員が参観することになった。

一月一〇日。知念、ハンク、赤路が仁科の前に座っていた。
「知念君、在日の妻たちね、やはり、多くを語らなかった。だが、三人とも神喰太刀は命の恩人だと言ってるんだ。これ以上、聴取は無理だ。新聞に警察が批判される」
「命の恩人ですか?ところで、課長、知念先輩のマンションに三人同居することにしました」
「赤路先輩には、大阪に奥様と娘さんがおられるけど、ボクと丸子君はチョンガですので、三人で飯を一緒に作って食っております」
「ハハハ、男三人の同居か。差し入れしようかな」
「課長、スタルヒンは麻布ビルを出ましたね。今のところ、移動先が分からないんです」
「こちらから刑事に尾行させる。そうだな、銀平さんにするかな?」
「銀平さん?顔を見られていませんか?」
「いや、茶髪にして野球帽を被ってたらしいからスタルヒンは覚えていないだろう」
「あの年で茶髪ですか?課長、捜査一課の刑事たちですが、やはり、釜ヶ崎の赤やんに恐怖を感じたようですね」
「あの面魂じゃね。耳がないのも怖いね」
「整形手術を薦めたんですが、ご本人は気に入ってるんだそうですよ」
「ああ、こないだね、赤路さんが鞍馬君を撃った福建州の中国人と新宿署の取り調べ室で会ったらしいんだ」
「聞きました。おい、チャン、お前な、青竜団ってなんや?フウチョウ生まれやてな?日本で最も寒い網走刑務所に放り込んだるでえ。十五年は入るぞと言ってからチャンの鼻に左のストレートを入れて、右のボデーブロウを放ち、ボコボコにしたと取り調べ官が言ってました。取り調べ官が止めたそうですが、止めなかったら、チャンは死んだだろうて言ってました」
「困った人だなあ」
「でも、課長、赤路さんは警視庁の刑事じゃないんですから不干渉です」
「まあ、説教をおとなしく聞く人じゃないわな」
「知念君、鞍馬君の回復は速いとドクターが言ってる」
「はあ、キンタマに当たらんで良かったなんて言ってました」
「神喰朱鷺が薔薇を持って病院にきた。花束は受け取ったが出入りを禁止した。泣いておった」
「課長、白樺さんが、朱鷺はコンピューターに出てこなかったと言っています」
「知念君、朱鷺をあんまり詮索しないでもいいだろう」
そこへ、ドアをノックする音が聞こえた。夏目葵だった。朱鷺と、今夕、伊勢佐木町で映画を見て会食すると言った。知念が銀平さんと中村刑事を送ることにした。やはり尾行する者がいた。FISが朱鷺に接近する人間を監視しているのである。朱鷺と葵が関内のデニーズで軽食を取った後、別れた。尾行者が葵の後ろを歩いていた。葵が京浜東北線の東神奈川で南武線に乗った。男も乗った。銀平さんと中村も乗った。車内は混んでいたが葵と男が開いた席に並んで座った。中村が男の横に座ってポケットからトリスウイスキーの小瓶を取り出して、グビっと一口のんだ。男が振り返った。中村がむせて吐いた。男のズボンに掛かった。電車が武蔵溝の口で停まった。男が横を見ると葵がいなかった。男が汚れたズボンをハンカチで拭き取ると中村も銀平さんも消えていた。
「畜生!」
「銀平さん、中村さん有難う。銀平さんはどこにお住まいなの?」
「下北沢だけど?」
「それじゃあ、登戸でお酒を奢ります」
「夏目君、それ有難いな。腹も減ってるよ」
「三の塔っていう居酒屋が安いのよ」
「俺たち、ヒラケイジだかんね」
居酒屋は空いていた。亭主が葵を知っているのか挨拶にきた。銀平さんは、肉うどんとお銚子一本を頼んだ。中村は、カツ丼とビールにした。
「中村君、今夜、俺の家に泊まって行けよ。明日は、午後に登庁すると課長に言っておいたからな」
「先輩、じゃあ、お銚子に切り替えるわ」
仲が良いふたりの先輩刑事に葵が微笑んでいた。
「ああ、そうそう」と銀平さんが大きな革財布を胸のポケットから取り出した。
「あれ?またですか?」
「夏目君、明日の朝、これを持って知念君に会いなさい。君をツケていた男が分かるでしょう」
葵が中村の携帯を借りて知念と話した。知念が三宅利男を逮捕するよう手配した。

一月十一日、、
「夏目君、ごくろうさんでした。三宅を逮捕したよ。取り調べているけど、ロシア大使館など知らないと言ってる。スタルヒンが雇う男には見えないんだ。職業は生きたイカを北海道の函館や小樽から築地に運ぶトラックの運転手でね。財布を返してやったら目を丸くしていた。二日、留置して釈放する」
「三宅利男は、誰に頼まれたのかしら?」
「札幌の寿司屋で日本人の船員から頼まれたって言ってる」
「知念先輩、でも私をツケてどうするつもりでしょうね?」
「朱鷺と君が会ったからさ」
「その依頼者はアンナのパパなんだわ」
「その日本人船員は神喰ではないが、神喰の手が伸びたことは明らかだ」
「では、札幌にいるってことかしら?」
「判らない。今朝、刑事二人を札幌に飛ばした」
「でも、神喰太刀が娘に会うって考えられないんです」
「その通り。陽動作戦だろう。捜査の眼は、警視庁とFISだから、その眼を自分の行動から逸らす考えなのさ」
「つまり、神喰の目的はポセイドンのコンテナを海底から引き揚げることですね?」
「のるかそるか、神喰太刀はその一点に命を掛けているんだ」
「ただ、パパは生きていると娘に知らせたかった?」
「夏目君、今日は早退しなさい。君は疲れている。過労は良くない」
「いえ、べつに定時でいいんです。明日は土曜日ですからゆっくり寝ます」
「そうだね。じゃあ、知念君、丸子君、赤路さん、坂本さんと飯を食う?」
「先輩、私、中華が食べたいわ。先輩たちは浦安だから、新富町に行きません?」
「猪八戒だね?安くて美味い。四時に出よう」
ハンクと赤やんがきた。四時に退庁して新富町で中華を食うと言うと笑った。葵が卓上電話を取って坂本に電話した。

続く
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消えたポセイドン  第一話 第9章
第一話
第9章

「同志、アレックス、ユジノサハリンスクのサハリン・サッポロホテルにいた長髪の日本人はサカモト・イチロウという男で今朝のソウル行きで出国している。理由がないので拘束しなかった。空港のチェックがサカモトは頭を短く刈っていたと言っている。もうひとりサカモトによく似たタケダ・サダオという男が千歳行きで出国したが、一日しか滞在していないので尋問されなかった」
「ははあ、パスポートを交換したな。サカモトはセルゲイの消息を掴めなかったな。ま、オレたちも、掴めないんだからね」
「アレックス指令、残ったのはアンナ・カジンスキーだけです」
「アンナは東京のロシア大使館に勤務している。駐在武官は、ルカ・スタルヒン大尉だ。俺は、セルゲイがアンナと会うと思っている。スタルヒンに、アンナに接近する人間を監視させる。ご苦労だったな」

二〇〇五年十二月十三日、、鞍馬が卓上電話を取った。いつもの習慣で電話番号を表示で見た。公衆電話である。
「鞍馬事務所です」
「私は、神喰朱鷺というものです。鞍馬太一探偵とお話をしたいのです」
「私が鞍馬です。今、話し中なんです。十分待ってください。こちらからお電話をします」
鞍馬が知念にメールした。知念が朱鷺は、今、ロシア大使館で勤務している。朱鷺は早退けするのだろうと返信してきた。二人が同時に消去した。
鞍馬が神喰朱鷺に電話を掛けた。
「神喰とは珍しいお名前ですね。どういう漢字を書くんでしょうか?」
「神様の神、馬喰の喰らうです」
「ご用件を簡単に仰ってください」
「電話では言えない用件です。どこかでお会いできないでしょうか?」
「事務所へ来ていただけますか?」
「いいえ、鞍馬先生にご迷惑が掛かると思うので事務所以外のところでお会いしたいんです」
「銀座五丁目に、オンリーフォーユー・ブライダルというブライダル・ショップがあります。その左となりに喫茶店があります。そこで会いましょう。何時に会えますか?」
「今日は午後からなら空いています」
「それでは、一時に会いましょう。私は、ツイードの背広を着て、オールドローズ色の中折れ帽を被っています」
「私は、緑色のベレー、ミンクの襟があるグレーのカシミアのコートを着ています」
鞍馬が朱鷺が尾行されていないか、先に新橋の銀座方面出口へ行くことにした。鞍馬が改札口が見えるところで朱鷺の出てくるのを待っていた。誰かが鞍馬の肩を叩いた。振り返るとハンチングを被った江戸川銀平刑事がいた。江戸川の部下の中村が会釈した。
「あれ、銀平さんじゃないか?」
「鞍馬君、久しぶり。あのね、神喰朱鷺は尾行されていないよ」
警視庁直轄地の東京で目立つ外人が尾行することはないと江戸川が言った。
「江戸川先輩、お元気でなにより。もうそろそろ、ご退職ですか?」
「いや、スリ課は刑事を養成しないと足りない。これがまた大変なんだ。今時の若者は指が不器用でね。それで、仁科課長が定年退職後も警視庁に残ってくれちゅうんだ。俺は死ぬまで食えるわけだ」と銀平さんが笑った。
「先輩、ありがとう。それではここで」
「いや、俺たちも行くよ」

三人が距離を置いて喫茶店に歩いて行った。鞍馬が外が見えるテーブルに行って座った。朱鷺が座る後ろのテーブルに銀平さんと中村刑事が座っていた。時間通りに朱鷺が現れた。朱鷺がまっすぐ鞍馬のテーブルにやってきた。意外に若い、自分よりも背の高い鞍馬をじっと見ていた。鞍馬は朱鷺の朝顔のような青い目にタジタジとした。鞍馬が手帳に何かを書いてボールペンと一緒に朱鷺に渡した。
――名前を言わないでください。
――父を探して頂きたいのです。ポセイドンをご存じでしょうか?
朱鷺が手帳に書いた。
――新聞記事で読んだだけです。
――父がポセイドンの船長だったんです。
鞍馬が驚いたふりをした。そしてペンを置いて話した。
「手掛かりがないし、国際事件には私立探偵は向きませんよ。失望しないでくださいね」
「いいえ、鞍馬様ならできると信じています。私にも手掛かりはないんですが、父から葉書を受け取ったんです。バッグごと電車の中でスリに盗られてしまって、ここにはないんです」
鞍馬は全てを知念から聞いていたが知らんふりをしていた。
「それで、葉書には、何と書かれていました?」
「私の愛するアンナ、ママは元気ですと、たった一行なんですが、これはママではなくてパパの神喰太刀です」
「アンナって、朱鷺さんのことですか?お父さまは、どこで投函したんでしょうか?」
「樺太のユジノサハリンスクです」
「ここを出ましょう」
ふたりが立ち上がった。
「ランチ食べませんか?」
朱鷺がエクボになった。鞍馬がタクシーを停めた。二十分後、神田の本屋街にあるデニーズに入った。
「ボクは貧乏性でファミレスが好きなんです。安月給の刑事でしたから」
「ブースに座るとリラックスできるので妹たちと入ります」
「ボク、デニーズのハンバーグ・ステーキランチが好きなんです」
「私もそれにします」
写真入りのメニュウを持ってきたウエイトレスにレモンテイーとハンバーグステーキを指さした。
「アンナ?可愛いネームですねえ。お母さんが着けたんですか?」
「いいえ、私は母なし子なんです。パパが着けました」
「でも、ロシアで生まれたんでしょ?」
「はい、樺太です」
「お母さんの記憶はないんですか??」
「写真だけです」
朱鷺がバッグの中から母親がアンナを抱いている写真を取り出した。若い美しいロシア人女性だった。
「お借りできますか?」
「どうぞ。そのために持ってきたんです」
「ボクは、元警視庁の刑事だった。同僚だった刑事に知恵を借ります。お父さんは、どうしてポセイドンの船長を引き受けられたんでしょうかね?」
「よく判らないんです。良い父でしたから」と朱鷺が涙汲んだ。鞍馬は本能で朱鷺を信じた。
「神喰さん、それでは引き受けます。ただ、誰にも話してはいけません。話せば殺されるでしょう。ボクもですね」
「鞍馬さんは、ロシア政府が絡んでいるとお考えですか?」
「明らかです」
「連絡するときは、公衆電話を使ってください。ボクがあなたに連絡するときはテキストになります、読んだらすぐ消去してください。

「スタルヒン大尉、アンナが銀座の喫茶店で誰かと会った。刑事らしい男がふたり、ぶらぶらと付いていくので、俺は店に入らず消えることにした。写真はミスした」
「ニキータ、その男を調べろ!」
「ダ」

街路に枯葉が舞う十二月十四日の朝、鞍馬が警視庁ヘ歩いて行った。鞍馬の事務所は虎の門二丁目二番地ある。警視庁まで徒歩で十五分の距離である。三十二歳で成功した元刑事など日本全国を捜してもいない。鞍馬太一は警視庁捜査一課では憧れの私立探偵なのである。知念から鞍馬がくると聞いた仁科課長が受付で鞍馬を出迎えた。
「仁科課長、お久しぶりです」
「いやあ、俺は君を心配していたけど、やはり成功したな」
「とんでもないです。家賃のために働いているようなもんです」
仁科と鞍馬が仁科の部屋へ行った。知念とハンクが待っていた。ふたりが立ち上がって高尾の礼を言った。鞍馬がアンナを抱いているロシア人女性の写真を仁科に見せた。
「知念君、神喰朱鷺の母親だけど、インターネットで探せないかな?」と仁科が知念に訊いた。
「課長、インターネットの『探し人』で探ることは出来ないことはありませんが」と知念が躊躇っていた。
「どうして、消極的なの?」
「課長、FISです。すでにわれわれの動きを察知しているんです」
「なるほどね。向こうはその核弾頭を北朝鮮に売る計画だったからね」
「仁科課長、このポセイドン事件は謎解きではないんです。日米対ロシアの戦争なんです。もっと複雑なのかも知れません」
「知念君は犠牲者が多く出ると考えているのかね?」と鞍馬が訊いた。
「出ます。実際にバレンツ海で米露海戦となれば、双方に多大な死者が出ると思いますね」
――水漬く屍、、と聞いていたハンクが呟いた。
「日本にはどういう責任があるのかね?」と鞍馬が知念に訊いた。
「神喰太刀が日本人というのは責任じゃないのですけど、核弾頭が実際に金正恩の手に入れば、責任なんて言っておれませんから」
「つまり神喰太刀をいち早く拘束した側が勝つわけだね?」
仁科が顎に手を当てて言った。
「課長、ロシアが直面している問題は、誰よりも先にポセイドンを発見して核弾頭を海底から引き揚げなければ、北朝鮮との密約が世界中に知られることです。だから必死なんです」
「つまり、プーシキン大統領の命令なんだね?」
「その通りです」
「知念君、ポセイドンが核弾頭を積んでいたことは極秘中の極秘だ。それをチームに厳守させてくれ給え。俺の緘口令だ。総理大臣の耳に入れば、モスクワに烏のようにカアカアと飛んで行くだろう。何しろ、わが国の首相は、話せば分かると思っているウブな人間なんだからね」
「次の手は?」と鞍馬が知念に訊いた。
知念が鞍馬を見た。
「坂本さんに会ってください」
「いつ?」
知念が坂本に電話した。
「虎の門の鞍馬探偵事務所がベストだけど?」と坂本が言った。
「じゃあ、今から三十分で、きて頂けますか?」
坂本が日本犯罪新聞から歩いて鞍馬事務所のある虎の門のビルヘ行った。エレベーターで鞍馬の事務所がある九階へ行った。
「ようこそ坂本先生、鞍馬です」
年下の鞍馬が坂本に敬語を使った。
「鞍馬さん、先生はやめてください。ついに会いましたね?ボクは一度お会いしたいと思っていたんですが、相も変わらず、ショウもない事件を追っかけていましてね」
「坂本さんのお書きになった『国家ぐるみの犯罪』を読ませて頂きました」
「ボクも、先生のお書きになった『逃げたカナリア』を読ませて頂きました」
坂本も、知念も、鞍馬の事務所は初めてである。窓から皇居、警視庁、国会議事堂が見えた。
「鞍馬さん、この事務所は凄い。私立探偵ってそんなに儲かるんですか?」
「ハハハ、記事に書こうたってそうは行きませんよ」
「坂本先輩、なにしろ、鞍馬先輩のクライエントは日本政府ですからね。坂本先輩が大手新聞社に向かないように、鞍馬先輩は警視庁捜査一課には向かない人なんです」
「でもね、知念君、刑事を辞めたとき、ボクは二十八歳の失業者だったんだよ」と鞍馬が笑った。
「鞍馬先輩、坂本さんは樺太から命からがら帰ってきたんです」
「樺太?神喰太刀を捜しに行ったんですか?」
「そうですが、神喰の足跡すら見つからなったんです。だけど面白い話を聞いたんです」
「面白い話し?」
「冒険小説になる話を聞きました」と坂本がベーリング海のタラバ蟹船を話した。
「それ血も凍る話しだね。ちょっと待てよ、もしかしたら、神喰船長はタラバ蟹船に乗ってるんじゃないかな?」
「エエ~?神喰は四八歳ですよ」
「ま、想像しただけですよ」
鞍馬が朱鷺に会った話をした。
「う~む、鞍馬先生、それそうとう危険ですが?」
「坂本さん、あなたも危険を充分、ご承知で樺太ヘ行かれたんでしょ?」
知念がテキストは送ったら即座に消去することを鞍馬に念を押した。坂本が消去を忘れたために、危うくシベリアの刑務所へ行くところだったと鞍馬に話した。
「それは起きるね。疲れていれば」
――だから俺はメールが嫌いなんだ、、とハンクが呟いていた。
「全てが料理の真最中です。形ができるまで会合はありません。どうか、良いクリスマスを過ごしてください」
「知念君、ボクらはチョンガだよ。ハンクを入れてイブに酒を飲もう」
「鞍馬先輩、キリストの生誕の日に酒ですか?日本人の悪い習慣ですねえ」

十一月二十三日。仁科が手を伸ばして電話を取った。鞍馬だった。
「仁科課長、これ盗聴できませんよね?」
「できないよ」
鞍馬が用件を仁科に話した。仁科が知念に電話をかけた。
「鞍馬君は、明日の宴会に出られない。神喰朱鷺が交響楽を聴きに行かないかって言ってきたんだそうだ」
「横浜ですか?」
「いや、サントリーホールだ。クリスマス、おデートってわけさ」
「課長、朱鷺はFISを恐れているんです。なにしろロシア大使館の中に潜んでいますからね」
「そうかも知れない。まさか警視庁に護衛を頼むことも出来ないからね」
「課長、丸子君を送ります」
「それを俺も考えていた」

鞍馬が新橋駅日比谷改札口で朱鷺と会った。鞍馬が帝国ホテルで七面鳥を食べると言うと朱鷺の青い目が大きくなった。赤いマトーカを頭に被った朱鷺は道行く人が振り返るほど美しかった。ふたりは恋人のように見えた。帝国ホテルはそのクラシックな正面玄関から、トルコ絨毯、カーテンを八の字に開いた窓飾り、重厚な扉がある。庶民ならタジタジとする雰囲気である。鞍馬が朱鷺を見た。朱鷺ほど上流社会の雰囲気に会った女性はいないと思った。この宴会場は一般のレストラン・バーラウンジと違い別に設えたものである。コック長が招待する宴会でゲストは別に著名人ばかりではなかった。鞍馬がシャンパンを頼んだ。
「神喰さん、ビーフステーキ、ハム、七面鳥、ダックのどれにする?」
「鞍馬さん、朱鷺って呼んでください。私、七面鳥は苦手なの。ステーキをお願いしてもいいでしょうか?」
「じゃあ、ボクもそうする」
朱鷺がチケット二枚とプログラムをバッグから取り出した。鞍馬が見ると、サントリーホールで行われるクリスマス・フィルハーモニーだった。ひとり二万円である。
「私、バッハよりもチャイコスキーのバイオリンコンツエルトを聴きたいの。ご存じですか?」
「聞いたことがあるかも知れない」
鞍馬が曲目を読んだ。くるみ割り人形、バイオリンコンツエルト、東京交響楽団がチャイコフスキー特集を演奏すると書いてあった。バイオリニストは五嶋みどりである。
「私、みどりが好きなの。あの人は他のバイオリニストにない豊な情感を持っていて、私を泣かせるの」
「ボクは殺伐たる私立探偵なんです。音楽は心の良薬なんだね」
「まあ、鞍馬さんって、お上手なことを仰る方ね」
コックの帽子を被った太った紳士がやってきた。
「鞍馬先生、先だってはお世話になりました」とコック長が鞍馬に挨拶した。
――何のケースかしら?と朱鷺が思った。
「いえいえ、たいしたことにならず良かったですね」
クリスマスの晩餐は意外に質素だった。ロビーを出てタクシーに乗り込んだ。混雑しているので途中で降りて歩いた。鞍馬は久しぶりに幸せな気分になっていた。サントリーホールは満席だった。聴衆が静まり返っていた。チャイコフスキーのバイオリン、コンツェルトが始まるからである。指揮者が円を描くようにタクトを降ると、オーケストラが静かに演奏を始めた。優しいメロディで始まり、雄大な調べとなり、やがて激しいパッセージに変わった。指揮者がタクトを振ってオーケストラを停めた。左の肩にバイオリンを当てた五嶋みどりが弾き出した。聴衆は、顎に手を当てて聞いたり、目を瞑って頭を左右に振っていた。聴衆は、滔々と流れるボルガやロシアの大地を想った。チャイコフスキーは、この名曲を周到に計算していた。第三楽章は悲しさと激しさの混じった絶叫に近いものである。聴衆は終盤が近いと感じていた。オーケストラが絶頂に達した。指揮者が狂人のようにタクトを振った。速いテンポのパッセージに入った。五嶋みどりが、あるだけの力でバイオリンを弾いていた。三十四分間のみどりの演奏は「パワフル」の一語である。観客の感情が極限に達した。演奏が終わるとホールの天井が落ちてくるような拍手が沸いた。鞍馬が朱鷺を見た。朱鷺がハンカチを目に当てていた。

ふたりがサントリーホールを出た。十一時である。まだ興奮が冷めなかった。鞍馬がタクシーを停めた。真夜中なのに道が混んでいた。ふたりがタクシーを降りてニコライ堂へ歩いて行った。鞍馬はロシア大正教なるものが何なのか知らなかった。ハリストスがキリストだと知ったばかりである。
――欧米のキリスト教徒とどう違うのか、、
鞍馬が朱鷺の横顔を見た。朱鷺は寡黙になっていた。鞍馬も話しかけなかった。

十二月二十六日。
――スタルヒン大尉、アンナと帝国ホテルで会った男だが、ふたりはメシの後、サントリーホールヘ行った。刑事が尾行しているので、俺は途中で引き返したが、写真を撮った。
――ニキータ、それが誰であれアンナのガードだ。殺れ!

「鞍馬先輩、ボクら忘年会をやりますがこれますか?」
「チエ子姉と二人じゃね。どこでやるの?」
「先輩を考慮して新宿でやります。『美女と野獣』という個室のある居酒屋です。六時に来てください。みんながアンナの話しを聞きたくてムズムズしているんです」
鞍馬が六時きっかりに「美女と野獣」に行くと、個室に案内された。いつものメンバーである。
「みなさん、こんばんわ」
「鞍馬先輩、高尾では大変楽しかったわ」と夏目葵が言った。
「夏目君、また来てください」
「鞍馬先生、ここは基本的には焼き鳥屋だけど、なんでもあるからボクが選んだんです」と坂本が胸を張った。
「私、和牛のシャブシャブが食べたいわ」
「アリゾナのステーキを食べたい」とハンクが言った。この中で一番若く、一番体格がいいのがハンクである。
「よし、俺が頼んでやる」と仁科が言って鉛筆と注文用の献立表を手に取った。まず、生ビールで乾杯した。
「ハンク、サントリーホールだけど尾行の形跡はなかったの?」
「暗くて分かりませんでした」
「ふ~ん?」と坂本がユジノサハリンスクの恐怖を想い出した。
「坂本君、みんな君の白鯨の話しを聞きたがっているよ」
「課長、白鯨じゃないです。タラバ蟹ですよ」と知念が上司の認識を正した。
「ああそうだったね」
六人が爆笑した。そこへ焼き鳥の特上が運ばれてきたので、一斉に黙った。
「酒、焼酎、ウオッカもあるけど?」と仁科が強いアルコールを許した。
「いや、やめときます。油断は禁物ですから」とハンクが言うと全員が賛成した。
「まず、夏目君から話してくれんか?」
「はい、昨日、シャボンで朱鷺さんに会いました。彼女は、男性用の香水、シャンプー、電気カミソリを買ったんです」
「ほう?」
「朱鷺さんは、何かしら幸せそうでした」
「ふ~ん?」
「仁科課長、また父親からカードがきたんじゃないかな?」
「鞍馬君、調べてくれ。ついでにクリスマスイブの出来事を聞かせてくれんか?」
「仁科先輩、話すほどのこともないんですが、朱鷺は敬虔なロシア正教徒なんです。この意味するところは、神喰朱鷺は社会主義者ではないということです」
「分るね」
「知念君、ロシア大使館の武官は誰なのかね?」
「何人かいますが、立ち代わり入れ替わりなんです。指揮を取っているのは、最近、モスクワから派遣されたルカ・スタルヒン大尉です」
「スタルヒンがどういう人物なのか知る方法はないかね?」
そこへ、シャブシャブとご飯が運ばれてきた。全員が黙った。
「知念先輩、食べながらお話を聞かせてください」と葵が言うと一斉に箸を取った。暫らく黙々と食べてはビールを飲んだ。ハンクが、アリゾナのステーキをナイフで切ってフォークでクチに放り込んでいた。食べ終わると、ハンクがトイレに行った。そして固い顔をして戻ってきた。
「どうした?」
ハンクが知念に耳打ちした。
「ジャンパーを着た男?」
知念の目が左右に動いた。そしてトイレに行った。知念が戻ってきた。
「わかった」とハンクに言ってジョッキを空けた。
やはり坂本のタラバ蟹漁船の話しが受けた。ポセイドンが解決したら冒険小説を書くと言った。
「でも、その『タラバ蟹の恋人』とか『帰らざる男たち』ってなんだよ?」
「課長、恋人がわかんないの?」
「路上をウロつき廻る刑事よりも男らしいわ」と葵が言った。
「夏目君、題名に感銘したのかね?」
「ベストセラーになると思うわ」
「マルガリータ坂本の『帰らざる男たち』か、ボク読みたいな」とハンクが言った。
三時間で宴会が終わった。
「課長、ボクと丸子君はもう少し話しがあるんです。ここのバーで飲みながら話す考えです」
「よし、明日、警視庁で会おう」

ハンクがトイレに行った。大のほうに入った。胸に下げた拳銃を抜いて、クリップを確かめた。そして、安全子を確認した。そして、引き金を引いてみた。洗面器に向かうと頭の毛を両手で撫でた。ハンクがバーに戻ると、知念がトイレに行った。
「丸子君、出よう」
葵と鞍馬先輩が新宿駅へ向かって路地を歩いているのが見えた。その五十メートル後ろに、二人のジャンパーを着た若い男が着いて行くのが見えた。男たちの足が速くなった。ふたりの男が拳銃を手に持っているのが見えた。ハンクが走った。知念が続いた。銃声が二発、夜のしじまに鳴り響いた。鞍馬が倒れた。葵が悲鳴を上げた。ハンクが両手で拳銃を握ると両股を開いて、三発連続で撃った。背の高い男がひっくり返った。もうひとりの男が知念の拳銃を見て小型のピストルを地面に落とした。
「鞍馬さん、聞こえる?」
夏目葵が鞍馬に呼びかけた。鞍馬が微かに瞬いた。

続く
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消えたポセイドン  第一話 第8章
第一話
第8章
十二月十日、、ひと晩中、雪がこんこんと降った。坂本が、たったひとつしかない真四角の窓から外をみると見渡す限りの銀世界である。東に雪を被った高い峰が見える。――なんという名の山なんだろう?坂本が知念にテキストを送った。
――おはよう、ビーグル、コルサコフに着いた。辺り一面雪景色。マルガリータ
電話が鳴った。公方組子である。三十分でホテルの駐車場にくると言った。
「坂本さん、コルサコフに洒落たコーヒーショップがあります」
「じゃあ、朝食をそこで取りましょう」
確かに洒落たコーヒーショップである。だが、看板が読めない。クリル文字はとんでもない文字だと坂本が思った。
「チェルナーヤ、コシュカって読むんです」と公方が笑っていた。
「公方さんはロシア語をどこで習ったんですか?」
「小樽商業大学です」
「小樽ね、行ってみたいな」
「ええ、港は小さいんですが、日本海で漁をする漁船が多いんです。昔は鰊(ニシン)御殿があったんです。石狩挽歌って演歌を知ってますか?」
「ああ、矢代亜紀の、、ほろりと泣かせる歌ですね。熱燗を飲みながら聞いていると堪らなくなります」
「ロシアのタラバ蟹船も小樽港に入ります。そのために海保の巡視船が常駐しているんです」
隣のテーブルに座ったロシア人の夫婦がコーヒーにどっさりと砂糖を入れていた。コーヒーは美味かったが、塩っぽい揚げパンは頂けなかった。
「坂本さん、車をここに置いて埠頭まで歩きません?」
「ええ、写真を撮りたいんです」
埠頭まで一キロの下り坂である。ポプラの葉が枯れて、裸の人間のように見える。枝に雪が積もっていた。何か矢鱈に野犬がうろついていた。魚市場があった。
「公方さん、魚市場の中に入りませんか?」
「ええ、私も鱈を買いたいんです」
坂本がタラバ蟹の水槽の前で立ち止まった。雪焼けした赤ら顔の売り子はアイヌに見えた。写真を撮ってもいいかと訊いた。
「イイデスヨ」と日本語が返って来た。坂本が売り子と並んで記念写真を公方に撮って貰った。写真を知念に直接送った。坂本が消去を忘れていた。これが探知された。まだ、朝の十時だった。

――同志アレックス、このマルガリータって髪の長い奴、コルサコフにいるね。
ロシア大使館のスタルヒンがモスクワと話していた。
――スタルヒン大尉、こいつ、セルゲイを探してるんだ。
――同志、どうする?
――捕まえろ!
――セルゲイを先に見つけた側が勝つ?でもアレックス、マルガリータの名前が分からない。
――スタルヒン、ホテルを探ったか?
――同志アレックス、今からコルサコフの捜査官に指示を出す。馬面のコメデイアンは見つかるよ。

――ビーグル、樺太のマルガリータに注意してくれ。東京のFISが知っている。シロクマ。
――シロクマ、有難う。ビーグル

――ビーグル、イメージの消去をうっかり忘れていた。ホテルを退き払う。ノーモアメール。マルガリータ
――マルガリータ、すぐ、床屋へ行って髪を切ってくれ。ホテルの登録名は偽名だが、エアロフロートの乗客名簿を探すだろう。知恵を絞れ。幸運を祈る。ビーグル

「公方さん、ホテルに戻ってください」
「どうしたんですか?」
「あとで、説明します」
ただならぬ坂本の様子に公方が危険を肌に感じた。公方がペダルを踏んだ。ホテルに着いた。坂本だけが部屋に戻り、フロントヘ行き、チェックアウトした。メッセージが入った。
――プロパンガスにベッドあり。プリペイドを買え。ビーグル
坂本が二度読むと消去した。コルサコフに戻ったふたりが、日本天然ガスの支社長と会った。重松が宿舎を使う要請を出していた。坂本が、自分はFISに追われていると公方に話した。
「坂本さん、明後日の正午にオーロラでウラジオストックヘ飛べます。問題は坂本さんの旅券です。出国検査で拘束されます」と公方の声が震えていた。
「う~む」と唸ったまま坂本が考え込んでいた。
「公方さん、三十分ほど待っててください」
坂本が事務所の裏の従業員宿舎に行った。管理人から裁ちばさみを借りて部屋に戻った。ランニングシャツ一枚になると鏡の前で肩まであった長髪をバッサリと切った。自慢の山羊ひげも剃った。その後、頭を洗い、山羊ひげのあったところにクリームをぬった。鏡で自分を見ると、ロバに見えた。事務所に戻ると公方がびっくりした。
「まあ、仔馬みたい」
「公方さん、飛行機以外で日本には帰れないのですか?」
「はい、帰れません。アインス宗谷は、四月の解氷期まで待つほかないんです」
「う~む」
「プリペイドカードを買いに行きましょう」
埠頭の事務所から町へ戻った。インターネットカフェに入りカードを買って知念にメールを出した。
――鳴くまで待とう不如帰。冬のマルガリータ。
坂本がメッセージを消去した。腕時計を見ると正午になっていた。
――マルガリータ、ノーウオーリー。祝賀会は、さんがにち。ビーグル
つぎに帽子を買いに行った。ラクーンの帽子にした。
「まあ、坂本さん、似合いますよ。このまま樺太にお住まいになったら?」
公方の声が明るくなっていた。

ふたりは、ユジノサハリンスクを観光することにした。まず、樺太庁を見に行った。コンクリート、赤レンガ、白い壁、瓦屋根、窓が象嵌のように掘られた城郭である。天守閣が四方を睨んでいた。だが、その天守閣を砲撃するかのようにソ連軍の野砲が置いてあった。
「見事ですね」
「博物館になっているんですが、樺太一の名所なんです。円形の噴水ですけど春に椿が咲くんです」
坂本が、しばし追われる身であることを忘れるほど美しい城郭建築である。
「これひとつ見るだけでも来ただけの価値がある。公方さん、下町へ行ってみたいな」
「日本人の旅行者はみんな、そうおっしゃるんですが、ユジノサハリンスクには大阪の道頓堀のような商店街はないんです。樺太は極寒の地、全てがおおきなビルの中にあるんです」
喋りながら、ふたりが 黒曜石を削って作った狛犬の間を通って石段を上った。元樺太庁は写真館になっていた。
ユジノサハリンスクの駅前にロシア極東最大の市場があった。甲子園球場に丸い屋根を載せればこうなる。
「ロシアは日本のようにはならないでしょう。日本もまたロシアのようにはならない。これは民族性だけではない自由主義と国家主義の理念の違いだと思いますね。日本統治時代の旅館や料理屋のあった通りはどうなったんですか?」
「ソ連時代の都市計画政策で近代化したんです。建物はこのように立派なんですが、漁業、林業、天然ガス以外、経済が一向に上向かないんです。あのまま日本が統治していたらって日本燃料の社員が言ってます」
「公方さん、樺太の海鮮料理が食べたいな」
「日本人が経営している大衆食堂が美味しいんです」
「海鮮丼の大船」という店に入ると混んでいた。湯気が立ちこもっている。後ろのテーブルに陣取っていた店主が公方を見て手招いた。椅子を公方組子のために引いた。
――ああ、ここが日本人と違うんだ、、和歌子にそうしてみよう。どういう顔をするか?
「社長の大船です」
「社長さん、随分繁盛してますね」
「私は、北洋漁業が投資したコルサコフの缶詰工場で働いていたんです。鮭、ホタテ、毛蟹の缶詰工場ですよ。私の横で作業していたロシアの女と世帯を持ったんです。息子も娘も学校へ行きたがらないんで、会社をやめて、どんぶり屋を始めたら当たったんですよ」
「お客さんはロシア人が多いんですね」
「どんぶりは、日本統治時代、兵隊の弁当に、親子丼、カツ丼、天丼でしたが、私が海鮮どんぶりを考えたんです。日本からこられる出張者のあいだに人気があるんです」
イクラどんぶり、ウニどんぶり、鮭どんぶりと木札に書いてあったが、メニュウをみるとチラシ寿司に似た海鮮のミックスである。どれを見ても美味いだろうと思った。
「この樺太ほどの漁場は世界にもないんです。海水が、マイナス二度と低いからですがね」
「海に落ちれば、一瞬に凍死ですかね?」
「いや、十分ぐらいは生きてますよ」
坂本が一番高いのを注文した。
「私も」と公方が言った。
坂本が飲み物の欄を見ていた。バルチカというビールと日本酒を頼んだ。ウオッカがない。
「坂本さん、ロシアでは、年間、五十万人がウオッカで死ぬんですよ。ほとんど凍死か、自動車事故でね。殴り合いの喧嘩も起きるんで、うちはウオッカを売らないポリシーなんです」
大船にタクシーを呼んで貰った。外に出ると、雪が降っていた。ほろ酔い気分が気持ち良かった。
「公方さん、有難うね。あなたがいなかったら、ボクはもうこの世にいないでしょう。明日なんですが、コルサコフの町を一人で歩いてみます。公方さんを必用になったら事務所に電話します」
ラクーンの帽子を被って防寒コートの襟を立てた坂本が公方と別れた。パトロールカーが通ったが、見向きもしなかった。まさか坂本が海鮮丼を食っているとは思わなかったのだろう。

十二月十一日、、誰かがドアを叩く音がした。ドアを開けると日本人の事務員が立っていた。
「坂本さん、おはようございます。東京からファックスが入りましたので、届けに来ました」
通信網が発達していないロシアではファックスは重要な通信手段である。腕時計を見ると九時である。時差が一時間あるので、東京は八時である。
――坂本先輩、これからはファックスです。まず、捜査官を一人送ります。武田定男刑事です。武田刑事は、明日、十二日の正午にユジノサハリンスク空港に着きます。先輩はこないでください。武田さんの足は領事館が車を手配してくれましたからそこで待っていてください。武田さんを選んだ理由は、武田さんは、歳恰好と顔が坂本先輩によく似ているからです。頭を刈りましたか?どのような格好なのか詳しく知りたい。武田さんが、坂本先輩に化けるからです。知念。
――自分の失敗が知念に迷惑を掛けた。
坂本が目に涙を溜めていた。坂本が毛糸の靴下を穿いてブーツを履くと手袋を手に嵌めた。防寒コートを着て襟を立て、最後にラクーン帽子を被った。準備完了。分厚いドアを押して外に出ると海から吹いてくる風が顔に当たった。皮膚が痛い。昨日、埠頭で見た喫茶店へ歩いて行った。氷の上に積もった雪の上をスノーモービルが沖の漁船に向かって走っていた。見ていると耳隠しのある防寒帽子を被った男が氷の上に掛けてある梯子を上って貨物船に消えた。坂本が喫茶店に入った。紅茶とトースト、バター、イチゴジャムを注文した。客は埠頭で働く作業員であった。
「ヤポンスキーか?」と声がした。
「そうです」
「港の人夫には見えないが?」
「旅行者です。日本語がお上手ですね」
「小樽へよく行くから。新聞読めるか?」
「いや、ロシア語が分からない」
「これは船員新聞なんだ。週刊紙だけどね」
「何が書いてあるんですか?」
坂本が興味を持った。
「サケマスの値段が下がったって書いてある。あとは、船がどこにいるとか、誰それが結婚しただとか、葬式の会場案内だとか。日本の情報もあるよ。中古車情報だけどね」
「あの大きな漁船は何の漁船なの?」
「タラバ蟹漁船だよ」
坂本が、戦後ベストセラーとなった小林多喜二の小説「蟹工船」を想い出していた。タラバ蟹ほど原産地が分からない蟹はない。大衆が騙される最大の産物である。数年前に、ニッパン新聞が取り上げたことがあった。日本で売られるタラバ蟹のほとんどがロシア産である。つぎにアラスカ、北海道と続く。ロシアが直接、日本の港に持ってくる場合はロシアの国旗のレッテルが貼ってある。または、オホーツク産とスタンプが押してある。問題はロシアが中国や韓国に売った蟹である。市場価格の変動で韓国などが日本にまた売りする。その場合は、なんと韓国産となる。韓国がタラバ蟹漁業をしているという事実などない。だが、韓国は「活タラバ」と称して売る。鮮度に問題がある。タラバ蟹はデリケートな生き物である。移動の最中にストレスで栄養がなくなり、身が解けてスカスカになってしまう場合がある。それでも「活タラバ」として日本のマーケットで売られる。注意深くなければ、コロリと騙されるのである。
「タラバ蟹の水揚げはロシアが一番なの?」
「そうよ。国後、択捉は大きな漁場なんだよ」
坂本が若者を思いっきり睨みつけた。
スノーモービルのエンジンを切る音がした。ドアが開いて冷たい風が飛び込んできた。耳隠しのある帽子を被った男がブレーカーを脱いでハンガーに掛けた。どこかで見た男である。男が坂本の視線に気が着いた。
「アレエ?サカモトサン、ここでナニシテルノ?あれ~、髪の毛切っちゃたの?」
「おお、イワン、ここで働いていたのか?」
イワンがウオッカのボトルを持って坂本の前に座った。さっき喋っていた若者が立ち上がってカウンターヘ行った。そして、グラスを三つ、ハムエッグとベーコンを持って帰って来た。イワンが三つのグラスにウオッカを注いだ。これはロシアの挨拶かもしれないと坂本がグラスを手に取った。腕時計を見ると、朝の十時である。
「偉大なるプーシキン大統領に乾杯!」とイワンが言って、一息でウオッカを飲んだ。
「サカモトサン、あなたはブンガクシャだって?」
「まあ、そうかな」
文学者と言われて、権力者による犯罪を暴露する新聞記者だとも言えなかった。
「イワン、沖の漁船で仕事があるの?」
「いやいや、アクラは、明日の午後に出航するんで食料の見積もりに行っただけだよ」
「アクラ?」
「ああ、フカのことよ。フカ知ってる?」
「この寒いのにどこへ行くの?」
「カムチャッカの岸で毛蟹を取るのよ。毛蟹は沢山いないから、取ったら沖に出て、タラバ蟹とホタテを取る」
「それで、ここへ戻ってくるわけなんだね?」
「いや、小樽へ行く。日本しかカネにならないよ。その日本円で中古の自動車とバイクを買う」
「イワン、つぎの恋愛小説のテーマに『タラバ蟹の恋人』を書こうと思ってるんだ。それで、あの沖の船を見学できるかな?」
坂本が思いつきの嘘を言った。
「スノーモービルで連れてってあげる。イクラクレル?」
坂本が一万円でいいかと言うと、ミカエルが携帯で誰かと話していた。
「あと二時間で、ウオッカを一本持って来いって言ってる」
坂本がイワンに、一万円を渡した。心臓がドキドキした。
――明日の正午に武田刑事が着く。氷が割れないかな?大船さんが十分で凍え死ぬと言ってた。心配だ。でも、漁船員なら神喰を知っている可能性がある。これが最後の機会かも知れない、、
「ミスター、サカモト、オレも、アラスカのタラバ蟹漁船に乗ってたんだ。知床のタラバ漁は世界で最も安全だって聞いた。それは日本が危険な仕事に就かなくても食える国だからだよ。ロシアの政治も、文化も「安全」なんて言葉は字引きにないよ。だけど、世界一危険なタラバ蟹漁というのは、アラスカのべーリング海なんだよ。どのような職業よりも死亡率が七五%も高い。マイナス三〇度の気温、吹雪の海、雨みぞれ、船に凍り着く氷、波しぶき、嵐、波浪三二メートル,、帰らざる人となる危険を冒して、タラバ蟹を取りに行くのはアラスカの男たちなんだ」
「帰らざる人か?いい題名だな。ドキュメンタリーを見たことがあるけど、実際にタラバ蟹漁船に乗っていた男と話すのは始めてだ。これは、絶対に小説になる」
「だけど、サカモトサン、『タラバ蟹の恋人』って一体、何ですか?」
「いや、今、思い着いただけだよ」
ふたりが笑った。人間は恐怖にかられるとよく笑う。
「イワン、それで、帰らざる男たちだが、いくら稼げるのかね?」
「まず、タラバ蟹は、このオホーツク海からアリューシャン、アラスカのベーリング海が漁場なんだ。タラバというのは、鱈が住む場所だから。鱈や鰊が多いところにタラバ蟹も棲んでいる。蟹は、海底に積もる鱈の死骸を食っている。シーズンは十月から一月の四か月。デックハンドって知ってるかな?一番、命を落とす甲板員だけど、この四か月で、一万五千ドルから五万ドル。稼ぎは採れ高に比例する。船長は最低でも、二十万ドル。最高の採れ高なら五十万ドル」
「デックハンドって何人?」
「大体、一五人」
「船を説明してくれ。船は何トン?」」
「最近の船は、一九八トン、一三二トンの積載量だが、半分、海水だかんね。蟹は五〇トンが限界」
「その五〇トンは何日で取れるの?」
「一週間から二週間。半分しか取れずに帰ることが多いんだ」
「資格は?」
「そんなもんねえよ。弱い奴は死ぬだけだかんね。俺が、ダッチハーバーで乗ったマーメイド号には逸話がある。十年前のある朝、俺たちデックハンド十二人は、飲み水五〇〇ガロンと二週間分の食料を積んでマーメイド号に乗り込んだ。船団は全部で八十隻。小雪の降る中を次々と海に出た。行先は自由なんだ。五時間後、周りに一隻も見えなくなった」
「ワクワクしてきた」
「北へ、二百キロの地点に昼頃、着いた。ソーナーに蟹が映ったからだよ。餌の鱈やイカを鉄篭に入れて海中に投げ込んだ。一日目、一トンぐらい取れたが、船長が小さいからと、さらに北へ百キロ行った。雪の中で操業した。俺の体ぐらいのでっかい蟹が取れた。また一トン。船室へ行ってクラムチャウダーとパンを食った。船がぐらりと揺れて食器が床に落ちた。その間、マーメイドはさらに四十キロ北にきていたよ。船が減速するのが聞こえた。この辺が限界だ。これ以上、北は岩礁が多いからね。食い終わると誰が言うともなく休まず甲板に出た。早く船腹を一杯にしてダッチハーバーへ戻りたいからね。寝る前に五トンは取りたい。甲板に出ると吹雪で何も見えなかった。その日は合計三トンで終わった。まあまあの水揚げだった.いつもと変わりのない漁だった。だが、この漁が後日に逸話となったんだ」
「イワン、その逸話って何なのかね?」
「サカモトさん、落ち着いて聞いてくれ。一週間ぐらいこういう漁が続いたんだ。蟹も二〇トンぐらい取れた。みんな五千ドルにはなるって笑っていた。だが、そうはならなかった」
「どうして?」
「船長のサイロがね、嵐がやってくる。引き返すほどのもんじゃない」とみんなに言ったんだ。グリーンホーンが青くなった。初めてタラバ蟹船に乗った奴をグリーンホーンというんだ。仔牛の角は緑色だかんね。グリーンホーンを除いて常連は嵐に慣れている。だがサイロが間違っていた」
「間違っていたって?ドキドキしてきた」
「蟹漁というのは夜は操業しないんだ。つぎの日の準備をやる。船は、探照灯を点けてつぎの地点へ向かう。船長も寝る」
「船長が寝ちゃうの?」
「エッ、誰が船を操縦してるかってかい?オートパイロットさ。ワッチが交代でレーダーを見る。その夜、やけに船が横揺れしたんだ。そのうち、ドタンドタンと縦に揺れ出した。サイロを叩き起こした。サイロがキャビンの窓から見ると海面が山のように持ち上がって襲ってくる。デックハンドの班長がキャビンへ行ったんだ。無線ラジオがわめいていた。三つのストームがグループになってベーリング海の北に向かっていると言ってるんだ。外が明るくなったんで、みんな甲板へ出たよ。サイロが蟹篭をワイーヤーで縛れ。ハッチをボルトで閉めろとスピーカーでガナッタ。蟹篭をワイアで、ガンジガラメに甲板に繋いだ。そのとき横波が舷側を超えて襲った。気が着くとグリーンホーンが一人消えていた。みんな目を瞑る暇もなかった。風速四〇メートル、波高三六メートル、気温零下四〇度。マーメイドが高波を真っすぐ登って行った。――ああ!一巻の終わりと俺たちは目を瞑った」
「ゾクゾクしてきた」
「いや、サカモトサン、それでは済まなかったんだよ」
「エエ~?」
「思ったように、船が高波の頂上から坂トンボリに波間に落ちて行った。クレーンが倒れた。蟹篭のワイヤが切れた。それで一人死に、二人波に浚われ、二人が大けがをした。サカモトサン、タラバ蟹漁船に船医はいないよ。最短距離の島でも九時間はかかるんだ。ハリーは足首から先がなかった。救急箱から縫合キットを取り出して針で縫った。麻酔もヘッタクレもなかった。もう一人のジョンは腹から腸が出ていた。その若いデックハンドはもうダメだと俺たちは甲板に出した。大波がジョンを浚って行った。ジョンは、タラバ蟹の餌になっただろう。強気なサイロが俺が間違っていたと泣いた。あちらこちらからSOSが入ってきた。沿岸警備隊が位置を知らせろ!と言う声が聞こえたけど、そのSOSはやがて聞こえなくなった。一八時間後、ダッチハーバーの灯台の灯が見えた。東に鎌のような細い月が出ていたのを忘れられない。サカモトサン、本を書くなら、いちどタラバ蟹船に乗ったらどうなの?」
「イワン、勘弁してくれ」
「時間がきた。行こうか?」
「いや、マーメイドの話を聞いて恐くなった。キャンセルする」
「じゃあ、町ヘ行って飲もうよ。オレ、一万円返さないよ」

十二月十二日、、武田定男刑事と坂本一郎が鏡の前で自分たちを見ていた。
「そっくりさんですね」
武田も馬面なのだ。
「坂本さん、冗談を言ってる暇はないですよ。旅券を見せてください」
坂本が武田にパスポートを渡した。武田が自分のパスポートを坂本に渡した。
「坂本さん、明日の朝十時にソウルヘ飛んでください。ボクはつぎのフライトで千歳ヘ飛びます。東京で会いましょう」
公方組子が迎えにきた。刑事と新聞記者がお土産を買いに行った。三人が「山の空気」という岡ヘ行った。ユジノサハリンスクの市街の東側に有る高台である。リフトで頂上へ行った。
「 武田刑事さん、日本時代には旭ヶ丘と呼ばれていました」
三人が雪の衣を着たユジノサハリンスクの市街を眺めた。碁盤の目のような市街が見えた。
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消えたポセイドン  第一話 第7章
第一話
第7章

十二月七日、、
鞍馬太一のハウスに泊まって、高尾山へ紅葉を見に行ってから、一週間が経った。海保では、ポセイドンが沈んでいるのは、バレンツ海の東端の岩礁地帯だと推測できたが発見できないまま、バレンツ海は氷結期に入った。沖田がロシア海軍の砕氷船が氷原を氷を割りながら航行している衛星写真を見て溜息をついた。白樺がロシア大使館の傍聴は不可能だと言ってから進展がなかった。だが、沖田は途方に暮れているわけでもなかった。というのは、江戸川銀平である。銀平さんが、朱鷺のバッグの中から絵葉書が出てきたと言って来たのである。消印だがクリル文字であった。白樺に聞くと、それは、樺太のユジノサハリンスクだと言った。沖田が卓上の電話を取った。
「知念さん、絵葉書の件を聞きましたか?」
「沖田さん、、こんにちわ。神喰朱鷺のバッグの中にあった絵葉書のことですね?」
「ユジノサハリンスクというのは樺太の県庁がある港町です。絵葉書を投函したのは朱鷺の母親じゃないかと思うんです。直感ですがね」
「絵葉書には何と書かれていたんですか?」
――私の愛するアンナ、ママは元気です。
「たった一行ですか?」
「知念さん、警視庁に重松さんと海府さんを樺太へ派遣して貰ったらどうでしょうか?」
「いや、重松さんたちは、ムルマンスク出張依頼、ず~と、マークされているんです。それで、仁科課長は、ニッパン新聞の坂本記者に行って貰う考えなんです」
「知念さん、査証が必要なんです。北海道に買い物に来るロシア人も同じです。私が、社員証を日本天然ガスに依頼します。ユジノサハリンスクに天然ガスプラントの資材管理部の倉庫があるんです。坂本さんが、そこへ出張するという理由を書いて貰う。そこに通訳もいます」
知念が、警視庁国際刑事部の渡嘉敷部長の許可を得て坂本一郎を樺太へ派遣すると重松に話した。重松は自分が行けないと知って、がっかりしたが、鳴門秘帳が坂本一郎と訊くと破顔一笑した。坂本のコードネームは、マルガリータ。沖田は、オットセイ。白樺は、シロクマであると重松にメンバーのコードネームのプリントを渡した。
「ハハハ、面白いね。マルガリータの査証が要るが、フライトは海府君に手配して貰う」と言って重松がサハリンを知念にブリーフィングにした。知念が坂本にブリーフを送った。

――南樺太は日本の領土であるが、現在はロシアが実効支配している。入国には査証が必要。サハリン州の州都であるユジノサハリンスクには、本年、日本国総領事館が設置された。そのため、サハリンと日本との貿易やビジネスが活発となっている。船でも飛行機でも行ける。利用される航空会社はエアロフロート。ユジノサハリンスクまで一時間五十分。樺太の玄関口である「オムトボ空港」は、空港ターミナル及びその付帯施設は民間だが、飛行場本体はロシア軍との共用。ユジノサハリンスク空港とも呼ばれており、現在は千歳空港から、週二便、約一時間二十分のフライトでアプローチが可能、、

十二月九日、
北海道に大雪が降った。
――これに乗るのか?
千歳に着いた坂本がトランクを持ってイリューシンを見ていた。
「サハリンヘ行くのか?」と隣のロシア人が話しかけてきた。妻と娘を連れていた。
「ユジノサハリンスクへ行くんだが初めてなんだ」
――ロシア人とあんまり話さないほうが良いと重松が言っていたので、坂本は、言葉少なに答えた。
「どこの会社?」
「コルサコフの日本天然ガス」
「オレも、コルサコフ港で働いているよ。オレ、イワン、ロズノトフ」
「イチロー、サカモト」
「サカモトサン、ヨロシク」
イリューシンは双発だった。機内は結構広い。
「こんにちわ」
赤い制服を着て赤いベレーを被ったロシア人スチュワデスが、にっこりと笑った。ロズノトフ一家も同じ列である。坂本は機体が古いのが気になった。座席も固い。
「イワンさん、これ、そうとう古いんじゃない?」
「そうよ。一九六〇年製なんで、三時間以上のフライトには耐えられないよ」
「耐えられない?」
「三時間なら、どこかに不時着できる空港があるから、シンパイ、イラナイ。イラナイ」
「エエ~?」
坂本が妻と中学生の娘を想った。エアロフロート機が千歳を離陸した。四十二歳のイリューシンは飛行速度が遅い。五十分飛ぶと稚内が見えた。見渡す限り銀世界である。コルサコフ、稚内間連絡船であるアインス宗谷が氷の中に閉じ込めれていた。
「向こうに見えるのが樺太最大の港、コルサコフ。その向こうに見える都市がユジノサハリンスクです」と日本語のアナウンスがあった。コルサコフは南の湾に面して半円形の形をした都市である。後ろは三百メートルほどの低山で囲まれている。その丘陵に赤い屋根の白いアパート群が、積み木のハウスのように並んでいる。一軒家はなく、巨大な四角い長方形のビルに真四角の窓が等間隔に付いていた。これだと一つのアパートに一つの窓となり、真ん中のアパートは、廊下が二つとか三つとなり窓はないはず。北側のアパートは北に面するとなる。洒落ているのは屋根だけである。デザインではなく極寒の地に適す合理的な構造に思えた。港湾も、埠頭も、同じく日本の港に比べると整然としていて、ソ連が都市計画を持っていたことがわかる。雪上車が走っているのが見える。自動車も見たことがないものが多かったが、錆びた車はなく車体が頑健な車である。
イリューシンが着陸姿勢に入った。滑走路が見えた。機体をバンクさせたのでユジノサハリンスクの市街が見えた。街路が碁盤の目のように整理されていた。ユジノサハリンスクは、旧称「豊原」である。一九〇五年から一九四五年まで、四十年間、日本の樺太庁が豊原にあった。坂本が始めて見る豊原を凝視していた。西ロシアの大都市と変わらないスケールである。イリューシンがドシンと着陸した。荷物を持った旅客が立ち上がった。
「サカモトサン、ダイジョーブネ」とイワンが言った。
「スパシーボ、イワン、また、会いましょう」
入管も税関も問題がなかった。そればかりかロシアの役人は、日本人を温かく迎えた。
「サカモトさん、日本天然ガスですね?ユジノサハリンスクを楽しんでください」と毛の生えた大きな手でスタンプをガチャリと押した。空港のゲートに日本人女性が日の丸を持って立っていた。それが目印だと知念が言っていた。
「坂本さんですか?こんにちわ。公方組子です」
坂本が挨拶した。公方が坂本の馬面を見ていた。公方が運転する日産の四輪駆動車に乗った。公方が、自分の両親は、戦前、豊原の駅前で旅館を経営していたが、ソ連軍が入ってきたために小笠原丸で北海道ヘ引き揚げたと坂本に語った。樺太生まれの日本人が自分の住んでいた家はどうなっているのか見に来ると言った。だが歴史の中で大きな辛い思いをしたはずの当事者たちは、ロシア人に対して憎しみを持っていないのだと語った。
――憎しみが永遠に続くわけがない、、
坂本は、戦後生まれの中国人が日本に憎しみを持っていることに不自然さを感じていた。反日政策は必ず失敗すると信じていた。
――日本人は逆に遠い昔のことと忘れる傾向がある。これも問題なんだ。だから自分はジャーナリストを選らんだ。
ホテルに向かっていたが、短いフライトで疲れていなかった。市街見学をすることになった。まず、小笠原丸が往復した埠頭のあるコルサコフへ行った、旧名、大泊(おおどまり)である。ユジノサハリンスクの空港から森の一本道を南に下ってコルサコフに着いた。コルサコフ湾は砕氷船が作った水路を除いてカチカチに凍結していた。四十キロ南に見える稚内の山も真っ白である。砕氷船が氷を割ったところを漁船が出て行った。人口は約三万人。コルサコフはユジノサハリンスク(豊原)、ホルムスク(真岡)に次ぐ、サハリン州第三の規模の都市である。市の名称は、ロシアの東シベリア総督の名前に由来する。ソ連時代、外国人の立ち入りが一切禁止されていた軍港であったがソ連崩壊後の現在は日露友好都市となっている。海岸は岩が多い磯である。赤錆びたクレーン船が六隻、沖に横倒しになっていた。
「座礁した船はそこに捨てるんです。解体するよりも新しく船を造った方が安いからなんです」
「ああ、ウラジオストックの造船所は暇ですからね」
「坂本さん、ロシアはちゃっかりしてるんですよ。日本統治時代の遺構が多く残っています。旧北海道拓殖銀行大泊支店、港湾の倉庫群、奉安殿中学校、樺太庁。豊原大湊間の鉄道は遺影を残しているんです」
森の一本道を走って、ユジノサハリンスク(豊原)に戻った。
「豊原は繁栄していますね。産業は何なんですか?」
「樺太は極寒の地なんです。一番寒いのは一月と二月です。一月の気温は南樺太の北部で-26℃から-32℃にも下り、南部で-17℃から-19℃です。八月には30℃を超える日もあるんです。それでも、ロシア連邦の西側と比べて一人当たりの年収が高いんです。鮭(サケ)、鱒(マス)、鰊(にしん)、タラバ蟹、鱈(たら)漁を中心とする漁業基地として発展してきました。その後、林業、製紙業、炭鉱が目覚しい発展をとげて樺太経済の基盤となりました。現在では天然ガスプロジェクトが基幹産業でしょうか。でもまだ始まったばかりで何とも言えませんが」
「公方さん、樺太はこの空から見ただけですが森林がほとんどじゃないんですか?ボクもウイキペデイアで、ある程度の知識があるんですが、やはり現地に立ってみないと実感が湧かないもんですね?」
「樺太は北海道の約半分ですが人口がたったの五十万人なんです。北海道が六百万人ですから6分の1です。樺太はほとんどが森林なんです。都市は鉄道と道路で繋がっていますが森林を切り開いて造ったものなんです」
「そうですね。空から見ただけですが、森林の中に、ポツン、ポツンと港や都市がある」
「港もこのコルサコフが最大なんです」
「これ軍港じゃないですね」
LNG船の白い丸いタンクが見える。あとは、乗組員が十人ほどの漁船が浜辺に揚げてある。これがサケマス漁の漁船なのだろう。
「やっぱり日本と違いますね。気候もだけど、都市に対する考え方の違いかな?ロシア文化も知りたいな」
「特に、食べ物が坂本さんを驚かせますよ。日本料理店もあります」
「どうせ、きたんだから樺太料理を食べてみたいです」
「坂本さんは偉い方だと聞きましたので、ユジノサハリンスク一と言われるサハリン・サッポロホテルを取ってあります」
「はあ?ちっとも偉くないですよ」と坂本が肩まで届く髪の毛を掻き上げた。重松警部が脅かしたのか?重松の配慮に感謝していた。
「公方さんも一緒に食べませんか?通訳さんなしでは不安なんです」
駐車場はホテルの玄関の横にあった。玄関は五メートル高いところにあり、この巨大なホテルに一か所である。ふたりが階段を上がった。レジスターヘ行くと、すでに宿賃は支払われていた。海府捜査官だろう、、
坂本と公方がテーブルに案内された。行列が見えた。どうもバフェらしい。坂本は、日本の過度なサービスに賛成できなかったので、社会主義革命とはこういうことなのかも知れないと思った。
「坂本さん、ロシアはバフェなのよ」
「うん、いいと思うけど」
「けど?」
「だって、メニュウならウエイトレスに聞けるからね」
「坂本さん、贅沢なのね」
「公方さん、ボクが派遣された理由を知ってますか?」
「いえ、まったく知りません。恋愛小説を書く方だと聞いていますが」
「ボクに小説を書く才能はないです。ある人物を探しているんです。その理由は言えませんが」
公方が坂本の馬面をじっと見ていた。そして、坂本は馬のように信用できる人間だと思った。この「信用ができる」というのがロシアの問題なのである。
「どのような人物ですか?」
「日本人です」
坂本が、姓名、職業、年齢を書いて公方に渡した。神喰の写真を見せた。
「一九七七年頃、天然ガスプラントの機材を運んだそうです」
「この方を見たことがありません。私は事務方ですから。機材を運んだ船長なら日本天然ガスの港湾関係者に聞くといいです」
「ボクには、まったくツテがないんです」
「明日、もう一度、コルサコフの埠頭ヘ行きましょう」
二人がトレイを持ってバフェヘ行った。サケ、イクラを通り越した。ソーセージも通り越した。油で揚げた牛肉は見ただけでも食えそうもなかった。赤いシチュウがあった。
「坂本さん、私、これにするわ」
「これ何?」
「ロールキャベツだけど、ハンガリーのスタッフキャベツとは違う味がするんですよ」
「じゃあ、ボクもそれにしよう」
坂本が黒パンを見て躊躇した。公方が笑って黒パンを手に取ると坂本の皿に入れた。

続く
04/12
消えたポセイドン  第一話 第6章
第一話
第6章

「沖田次長さん、釜山へ行ったミカロフはそこからどこへ行きましたか?」と知念が沖田に訊いた。
「まだ、釜山に居ます。船に乗らないことも考えられます」
「捜査一課は、ミカロフが崔を殺害したと考えているんです。その理由は、ミカロフがウオッカのグラスを左手で取ったとバーテンが言ったんです。韓国大使館の警察アタッシェに追跡できるか訊いてみます」
「韓国政府が、ポセイドン事件を知っていれば、惜しみなく協力してくれるでしょう。白樺君が傍聴ができない。携帯もつかめないと嘆いています。ロシア大使館のメインフレームに盗聴器を組み込めないものかって言ってます」
「沖田さん、ボクには想像も着きません。先日、お話しした二人と今日、会います。意見を聞いてみます」

知念とハンクが警視庁から歩いて十五分のニッパン新聞こと日本犯罪新聞のある敷島ビルヘ行った。社主は猿楽学(まなぶ)という五十六歳の老練ジャーナリストだが、その年齢と反比例して反抗心が強い男である。猿楽は社会主義革命を望んでいた。ニッパンは、敷島ビルの五階にある。知念とハンクが階段を駆け上って行った。脚を強く保つためである。ニッパンには地方に支社がなかった。記者は、猿楽も入れて八人、女性の秘書一人の零細新聞社だが暴露記事で日本全国に名を知られていた。全国の地方新聞社がニッパンの味方なのである。大手の新聞社は、鵺(ヌエ)のように正体が分からないので、田舎の新聞が国民の怒りを代表していた。ドアをノックすると坂本一郎が開けた。
「坂本さん、お久しぶりです。こちらは丸子刑事です。よろしく」
「丸子さん、刑事には随分若いね」
「捜査一課のルーキーです。よろしく」
坂本一郎がふたりと握手した。坂本は、知念よりも歳が十個も上である。坂本の特長は馬も驚く馬面である。超リベラルの猿楽学と同じように肩まで届く髪の毛に、顎に山羊ひげを伸ばしていた。
「生憎、猿楽さんは不在なんだ。全労連の幹部と会っている。年末のボーナス闘争だって言ってた」
「坂本さん、今、何を追っかけているんですか?」
「君たちの頭痛だけど」
「はあ?」
「ポセイドンだよ」
知念とハンクが驚いた。
「どうして知ってるんですか?」
「いや、何も知らんけど、面白いと思っている」と坂本がことばを濁した。
「坂本さん、力を貸してください」
「いいけど。相手はクレムリンだ。怖いよ」
「ええ、もう一歩も退けないんです。盗聴も、尾行もされていますから」
「赤路さんって面白い人だろ?」
「エエ~?赤路さんを知ってたんですか?すると赤路さんが?」
坂本がニヤニヤ笑っていた。
「釜ヶ崎の赤やんと暴力団から恐れられたユニークな人だ。赤やんから君たちを守ってやってくれと言ってきた」
知念が、Aワンチームを坂本に説明した。そして、事件簿のCDを坂本に渡した。
「知念さん、ボクを信用するのかね?」
「信用というか力関係です」
「なるほど。警視庁を舐めるなとね?」
坂本が額にかかる髪を掻き上げるとメンバーと暗号コードをパソコンに取り込んだ。
「坂本先輩、それはダメですよ」
知念が年上の坂本を先輩と呼んだ。
「分かってる。このパソコンは、インターネットが接続できんようにカードが抜いてあるんだ。中身が分かったら、俺なんかフマキラーで、イチコロだよ」
「盗まれたら?」
「どうにもならんよ。パスワードが毎回チェックされるからね」
――さすがは日本犯罪新聞だ、、
「知念君、もう分かっているだろうがね、一刻も早く、その核弾頭を抑えんとあかん」
坂本が知念を知念君と呼んだ。
「ロシア海軍も発見できないようです」
「でも、その神喰船長なら場所を知っているよね?」
「その通りです。だけど、神喰太刀は行方不明なんです」
「いや、ロシアにいるだろう。それも極東の港町だろう」
知念がコンタクトがない限り坂本からアプローチしないようにと言った。坂本が笑った。
――やはり、坂本さんは自分よりもこの道では先輩だな、、
次回に夕飯を一緒に食うことにして部屋を出た。ふたりが警視庁に戻った。夏目葵から午後に当庁するとメッセージが入っていた。
「丸子君、坂本さんをどう思う?」
「坂本さんは四五歳ですよね?捜査一課の刑事よりも能力が高い人だと思います。ボクらには、こういう人が必要だと思っています」
「もう一人いるんだ。ボクの四年先輩で、私立探偵をやっている鞍馬太一先輩だ」
「ああ、あの方、有名ですが?」
「そうなんだ。ユニークな考え方をされる人でね。集団で行動する刑事には向かない人だった。刑事を辞めると言うんで、仁科課長が引き留めたが、あっさり辞職した」
「鞍馬先輩は、どのような事件に拘わったんですか?」
「逃げたカナリアを聞いたことがある?」
「ええ、ベストセラーですよ」
「鞍馬先輩が捜査官になられた直後に起きた国家ぐるみの冤罪事件でね。鞍馬さんが謎を解いた。その結果、主席検事、裁判官、農林大臣が自殺した」
「わあ、警視庁には凄い人がいるんですね」
「刑事にはユニークな人が多いよ」
「先輩、その鞍馬大先輩といつ会えるんですか?」
「土曜日だよ。夏目君も一緒だ」
「どこで会うんですか?」
「判らない。鞍馬さんが指示すると言ってる」
そこへ秘書課の女性がメモを手に持ってやってきた。――きたなと知念が思った。先輩の鞍馬は以心伝心の達人なのである。

――知念君、土曜の朝、ラフな格好で、うちへこい。東京駅、三時発の中央線に乗って八王子で降りろ。駅前のタクシーに乗って高尾山電鉄のケーブルカー乗り場へ行け!みんな海水パンツを持ってこい。俺の家ヘ泊まれ!
知念が葵にテキストを送った。
「水着ですって?」と葵が返信してきた。
「そうです。ビキニが好いそうです」
「先輩、海水パンツたって寒いですが?」
「うん、謎だね。高尾山は紅葉が燃えるようだとNHKが言ってたね」
「ボク、仁科課長に知らせてきます」とハンクが立ち上がった。小学生が遠足ヘでも行くようにハンクの足取りが軽かった。

土曜日の朝、知念とハンクのふたりが鞍馬の指示の通り、ケーブルカーの駅の駐車場でタクシーを降りた。十二月の初日なのにリュックを背負った外人グループがいた。隅に停まっていた車からペアが現れた。鞍馬太一と登戸の自宅から先にきていた夏目葵である。鞍馬がセドリックのドアを開けた。セドリックが西へ走った。急坂を超えると相模湖が見えた。やがて、相模ハイツのゲートに着いた。鞍馬がカードを検査機に差し込んで四号棟のガレージにセドリックを停めた。犬が吠えた。猛犬の吠える声ではないが、数匹いるようである。ガレージは台所に続いていた。台所のドアを開けるとダックスフンドの親子が六匹飛び出して来て、来客に飛びついた。
「わあ、可愛い」
トムボウイの夏目葵が女性らしい一面を見せた。鞍馬が太った仔犬を拾った。居間に入った。先輩と後輩がソファーに座った。ソファが気持ちがいい。ハンクと葵がテラスヘ行って相模湖を見ていた。鞍馬のハウスは北欧風で天井が高くレンガの暖炉があった。
「鞍馬先輩、これ高いんじゃないんですか?」
「まあね。ローンだよ」
「先輩は、まだチョンガなんですか?」
「そうだよ。君もそろそろだね。誰か嫁さんになってくれる女性はいるんか?」と鞍馬がデッキの柵に寄りかかっている夏目葵のヒップを見ていた。
「みなさん、ようこそ、いらっしゃい」
五十歳を超える女性がお茶を持って現れた。
「ああ、これね、ボクの姉なんだよ。生涯、独身でね。ところで知念君、海水パンツを持ってきたか?」
「新宿で買いました。しかし、うす寒いのに、なんでまた海水パンツなんですか?」
「温泉じゃないがデッキに風呂があるんだ。パンツを穿けば、みんなで入れるってわけさ」と鞍馬が笑った。
みんなが海水パンツを穿いてデッキに出た。やはり、葵のダリアの模様の黄色いビキニに目を奪われた。葵が知らんふりをしていた。居間に戻ると鞍馬の姉、チエ子が、葵、知念とハンクに部屋を案内して三人に浴衣を出した。
「太一ちゃん、豚のロースをお肉屋さんが届けてくれたのよ。シャブシャブにするから、薄く切って貰ったのよ」
「チヤちゃん、それは良かった。みんな、手伝ってくれないか?」
ハンクがテーブルの上にガスコンロを置いて鉄鍋を乗せた。鞍馬が大皿に、春菊、水菜、切り餅を持って来た。鞍馬が熱燗をつけた。知念がビールの大瓶の栓を抜いた。
「知念君、今夜は会議をしないでもいいかな?明日、高尾山にケーブルカーで登ろう。頂上に茶屋があるんだ。そこで話そう」
「他人の耳がありますが?」
「大丈夫だ。部屋だ」
葵が知念の横に座った。葵の浴衣姿にハンクが唾を飲んだ。湯上りの婦人刑事が色気をあたりに撒き散らしていた。
「丸子君、君には、彼女はいないのか?」
「今、貯金をしているところなんです」
「貯金が貯まるのを待っていたら老けるぞ。この頃、ボクも結婚は早い方がいいと思うようになった」
「先輩、この事件が丸子君の胸に重くのし掛かってるんです。釜ヶ崎では一波乱ありましたし」と知念が助け船を出した。ハンクがビールのジョッキを取ってグイグイと一飲みにした。知念が、赤路連太郎刑事が釜が崎でやったことを話した。
「大阪は、まだいいが、西成はな」
宴会が終わると夫々が部屋に引き取った。朝、台所で音がした。知念がコーヒーの匂いに目が覚めた。ハンクはまだ寝ていた。浴衣のまま知念が居間に行った。浴衣姿の鞍馬が台所から出て来て知念を手招いた。
「先輩、おはようございます」
「君の話しを聞かせてくれないか?」
知念が襟を正して背筋を伸ばした。
「先輩はどのくらい知ってますか?」
「ポセイドンがバレンツ海で消えたのは公になってるからね。興味があったんで、仁科課長に聞いた。仁科先輩はボクの力を借りたいと言ってた。知念君、これね、闇が深いぞ。逃げたカナリアどころではないよ」
「現在のところ、神喰朱鷺を調べ上げ、五人の在日の行方を追っています。朱鷺は、アンナ・カジンスキーというロシア名を持っています。夏目君が起きたら聞いてください」
知念が銀平さんの話しをした。鞍馬が大声で笑った。その笑い声にハンクが起きてきた。
「先輩、ボク、腹が減った」
「エエ~?昨夜、あんなに食ったのにかね?」
「先輩、Aワンのメンバーのコードネームを考えたんです」
「オットーとかイワンとかかね?」
「そうです。鞍馬先輩から行きます。P・I(私立探偵)です」
「いいよ」
「ボクはビーグル。夏目君はカナリア、丸子君はハンクそのまま、ニッパン新聞の坂本さんはマルガリータ、白樺さんは、シロクマです」
鞍馬が笑っていた。
「坂本さんには会ったの?」
「会いました。まだメンバーに知らせることがありませんが」と知念がメンバーの姓名とコードネームのプリントを鞍馬に渡した。そこへセーター姿の葵が現れた。
「夏目君、快晴だけどね、今、気温十度だって。陽が暖かくなったら出かけよう」
チエ子が、ハムエッグとソーセージ、バター、イチゴジャム、オレンジジュースを持ってきた。鞍馬が、食パンをトースターに入れてレバーを押し下げた。みんな、もの凄い食欲である。食後、知念がコーヒーを飲みながら新聞を読んだ。
「先輩、どこにも、ポセイドンの記事はないですね」
「報道は、ポセイドンがノルウエー沖で消えたことを知っているはずだが、上から脅かされているんだろう」
「海保の沖田次長が北極海の沿岸は厚い氷が張っていて、砕氷船でも春まで待つと言ってました」
「知念君、ボクね、キンダーブックを読む少年だったんだ。オーロラとか北極熊とかセイウチとか好きなんだ。一度、行ってみたいもんだな」

高尾山は楽しかった。土産屋で買った杖で歩いた。紅葉が燃えるようである。知念はポセイドンを口にしないことにした。
――これから、ハイキングなんかできなくなる、、
みんな同じ想いなのか黙々と歩いて、風景を携帯で撮った。茶屋でも結局、話さなかった。慣れるように、コードネームで呼び合った。知念、ハンク、葵が中央線立川駅で別れた。知念は浦安へ。ハンクは所沢へ。葵は南武線で登戸へ帰った。

続く
04/11
消えたポセイドン  第一話 第5章
第一話
第5章

「ミカロフは釜山にいますね」と沖田が仁科に言った。知念、ハンク、仁科、沖田が捜査一課の会議室で話していた。四人が国際犯罪刑事部の重松と海府がくるのを待っていた。
「沖田さん、ポセイドン事件は闇が深い。そこで特別捜査本部ではなく、チームを作ります。知念君を総監督にします。知念君は若いが、仁科と思って指示に従って頂きたい」
「仁科さん、もちろんです。だがチームは捜査官という国家公務員の方々です。外部の人間が必要になると思いますが」
「知念君も同じ考えです。知念君、君の考えを言うてくれ」
「現時点では、名前を明かすことはできませんが、二人です。たいへん優秀な方々です。でも、会って事件を説明しないと引き受けられるかどうか判らないのです」
「知念さん、その赤路さんて警部はどうなんですか?」
「ええ、なんか怖い人ですが、刑事というか、旧日本軍の上等兵のようなひとです。お世話になると思います」

重松と海府が入ってきた。世界を飛び回るこのふたりの捜査官には気品がある。暴力団のガサイレなどには向かないエリートである。
「仁科課長、やはり、九月にロシア海軍が、セベロドビンスク軍港からムルマンスクに核弾頭を運んでいますね。キャスクが入ったと思われるコンテ―ナーの一部が写っています」
重松がドックに停泊している原子力潜水艦の写真を見せた。米海軍のバージニア級よりも大きい。
「これはボレイ型原潜です。これをムルマンスクの軍港で見ました。米国海軍がムルマンスクとの交信を探知したんです」
「重松君、ロシア海軍は今も海域を捜索しているのかね?」
「ええ、ノルウエーの岩礁からバレンツ海、カラ海の岩礁を血眼になって探査しています。ノルウエーは許可しているんです。核弾頭を懸念するのは、誰しも同じですからね」
「重松君、その核弾頭だが、一個かね?」
「課長、米国防省は、二個だと言ってます。原潜用トライデント・ミサイル、W88核弾頭の模倣だそうです。ロシアが開発した新型は、二〇〇キログラムと軽いんだそうです。それでも、広島に落とされたリトルボウイの七〇倍の殺傷力だそうです」
「すると、コンテナも小さいんだね?防衛省は知っているのかな?」
「憶測はしてるでしょう。でも、手の打ち様がないのです」
「海保は全く手が出ません」と責任感が強い沖田が沈鬱な表情になっていた。
「沖田次長さん、そうでもありません。必ず、海保が必要な日がきます」
「知念さん、私にできることを言ってください」
「沖田次長さん、新潟や北海道の港に入ってくるロシアの船舶を見張ってください。ロシア連邦外国情報部の特務員が船員になっていると考えます」
「それは、西島長官がすでに通達を出しました」
「知念君の次の行動予定は何かね?」
「課長、崔の仲間ですが、他の四人の在日の所在を洗っているところです。これは簡単に判ります」
「ポセイドンの船員が生存しているなら神喰太刀もどこかにおるね?」
「ロシアでしょう。神喰はセルゲイ・カジンスキーというロシア名を持っています」
「どうして判った?」
「海保の白樺仁係長です」
「そうだったね。白樺さんを野球でいえば、相手のチームには判らないサインを出す監督だね」
「仁科課長、何しろロシア語というのは、文法どころか英語と違って多様な語形変化を持つ言語なんだそうですよ。それに慣れるまでに、ほとんどの語学生は断念するらしいんです。日本語とは全く対局的なんだそうです」
「では、米海軍と言えども、ことばの壁があるんだね?」
「ロシア語はとんでもない言語なんです」と知念が遠くを見る目になっていた。仁科が不安を覚えた。
「おいおい知念君、諦めるなよ」
「課長、ロシア人の密偵が必要なんですが信用できる人間がいるのかこれも無理ですね」
「う~む、俺もね、ロシア人というのがよく分からない。日本人なら仏教や神道があるし、アメリカ人ならキリスト教の信仰がある。だから、だいたい信用できる」
「仁科さん、私が大学で習ったんですが、ロシア人はマルクスレーニンの思想に傾いていて宗教心はない。信じているのは、科学や力の法則だというんです」と沖田が言った。
「それでは大統領のプーシキンでも、恐怖政治でしか治まらないないわけだね?」
「そう思っています」
「若い知念君に掛かっている。みなさん、どうか知念君を助けてやってください。心からお願い申し上げる」
仁科の温かいことばに知念が目に涙を浮かべた。
「知念君、夏目葵君を知ってるよね?」
「はあ、風俗の取り締まりで一緒でしたから。たいへん有能な婦人捜査官です」
「こないだ、俺の部屋へきたんだ。用件を聞いたら、ポセイドンの組に入れてくれちゅうんだ。君次第だが、どうする?」
「願ってもないことです。神喰朱鷺に接近できる婦人刑事が必要なんです」
「じゃあ、夏目君に連絡しておく。後で飯食いに行こうか?例の新橋のひよこだがね。あそこ、安いからね」
「ボクも一緒でいいでしょうか?」とハンクが言うとみんなで行くことになった。

「ひよこ」は、サラリーマンに人気のある焼き鳥の大店である。三百人は入れる畳敷の広間があるが、個室もあった。仁科が電話を取って個室を予約した。これが捜査一課の規則である。
「仁科さん、白樺君を招きたいんですが、宜しいでしょうか?」
「沖田さん、それがベストです。だが、みんな顔にデカって、デカデカと書いてある。今夜、着るものを工夫してくれ」
東京に木枯らしが吹いていた。部屋に戻った知念とハンクがジャンパーを着た。ふたりが地下鉄に乗って新橋へ行った。
「丸子君、ボク、本屋へ行くけど君はどうする?」
「ボクも行きますよ。ロシア語会話のCDを買いたいんです」
「ハハハ、同じことを考えていたんだね。だから、ボクは君が好きなんだよ。でも、ロシア語の会話を習ってどうするのかね?」
「いつの日か、ロシアヘ行く気がするんです。警察関連の用語を習いたいんです」
「警察関連って?」
「ダワイ、ダワイ、テヲアゲヨ、キサマを逮捕するとか」
知念が感心していた。

ふたりが、六時に「ひよこ」に入ると個室に案内された。すでにみんな来ていた。知念が白樺に会釈をした。赤いセーターを着た仁科が手で招いた。仁科のとなりに夏目葵が座っていた。葵が知念を見て微笑んだ。葵は二十八歳で女性が関わる事件では優秀な刑事だった。葵はオレンジのスカートズボンを穿いて、袖にフレアのある純白のブラウスを着ていた。豊な黒髪を後ろに束ねており、葵が別人に見えた。
「知念先輩、おひさしぶり。お元気してましたか?」
「夏目さん、会えて嬉しいな。明日、ボクの部屋にきてくれないかな?」
「はい、お電話をくださればいつでも飛んでいきます」
そこへボウイがビールを持って来た。
ひよこは生ビールの大を小ジョッキの値段で出すのが評判だった。
「さあ、ご一同さん、今夜は何を食おうか?」
「夏目さんに選んで貰いましょう」
出世が遅れたサラリーマンの恰好をした重松が言うとみんな賛成した。
「課長、みなさんを照会してください」と知念が仁科に言った。
「ああ、そうか、では、夫々、自己紹介をお願いする。まず、俺、いやボクは仁科竹夫です」と仁科が名刺を配った。つぎに沖田が挨拶した。重松、海府、知念、ハンク、葵、、
「私が白樺仁です」
白樺は沖田と知念にしか面識がなかった。
「ああ、あなたが」と重松が言ってクチをつむんだ。ボウイが入ってきたからである。葵がつぎつぎと注文した。
「レバと砂肝もください」という声がした。ハンクだった。仁科が「俺も」と手を挙げた。
「今夜は、こういう場所です。話はありません。ただ、知念君が小隊長です。俺、いや仁科の代わりだと思って知念君の指示に従ってください」
焼き鳥を待つ間、好きな話し相手を捕まえて雑談になった。焼き鳥の盛り合わせがきた。知念が香ばしい臭いがする「皮」の串焼きを摘まんだ。葵はネギマ。ハンクはハラミを選んだ。
「夏目さん、付き合っている人はいるの?」
「いいえ、知念さんを待ってるのよ」と葵が悪戯っぽい目をして言った。ジャンパー姿の知念が赤くなった。仁科が笑っていた。だが、それは一瞬で、仁科が厳しい顔になって溜息を付いた。宴会が終わった。
「知念さん、明日ですが時間がありますか?」と白樺が言った。
「午前中なら何時でもいいですよ」

十一月二十八日。
「白樺さん、コードが出来たんですね?」
「はい、シンプルにしたんです。難しいことが発生したら直接会うしかありませんから」
「それで神喰朱鷺に関して何か判りましたか?」
「朱鷺はアンナ・カジンスキーというロシア名を持っています。彼女は、お喋りな女ではなく大使館の中でも同僚と離れているんです。ひとり、マーゴというコンピュータ管理室の若い女性と話しているようなんです」
「アンナは何を担当しているんですか?」
「彼女は影が薄くて判らないんです」
「横浜から通っているんですか?」
「毎日、定時に大使館に入り、定時に出ています。海保の捜査官が尾行しているんですが、いつも一人なんです。元町の化粧品店に入るぐらいで人とは会っていません」
「う~む、夏目君に接近して貰おう」
「知念さん、朱鷺には孤独壁がある。接近する方法を考えなければ失敗しますよ」
「夏目君と話します」
白樺が暗号の方程式と説明書を置いて部屋を出て行った。知念が書記を呼んでプリントして貰いメンバーに配った。それから葵にテキストを送った。短いメッセージを送るとすぐに消去した。十分後、葵が知念の部屋にきた。
「先輩、そのシャボンという元町の化粧品店に行ってみます」
「夏目さんは、登戸だったよね?」
住所のことだった。
「今から横浜へ行ってくれないか?そのまま川崎から南武線でおうちへ帰れますよ」
葵がブラウスとスカートズボンに着がえて出て行った。二時間後、葵からテキストが入った。
――仕事が見つかった。カナリア
知念がテキストに返信した。
――仕事って何?ビーグル
――香水のセールスよ、、
ふたりが、瞬時にテキストを消去した。

「チネンは、なかなかスマートな刑事だな」とロシア大使館の傍聴係がスタルヒン大尉に言った。スタルヒンがモスクワのFIS司令部に電話を掛けた。
「スタルヒン大尉、そのカナリアという女は誰なのか?」
「コマンド、アレックス、まだ判らない」
「すぐに調べろ。それとアンナ・カジンスキーを尾行しろ!だが、チネンを尾行してはならない。相手は警視庁だ。逆に探知される」
「ダ」

翌朝、葵が知念の部屋にやってきた。ハンクが立ち上がってカフェテリアにコーヒーを取りに行った。そしてクロワッサンとポットを持って戻ってきた。
「へえ?パートタイムの募集が貼ってあったの?」
「募集を見てきたって言うと、女性の店長が履歴書を持ってきたかって訊いたんです。先輩、私、横浜育ちなんです。用紙を貰って、日の出町の同級生の住所を書いたんです。するとその場で雇ったんです」
「そりゃそうだろう。夏目先輩は警視庁きっての美人だからね」とハンクが言った。
「知念先輩、いいことには、勤務が水曜と土曜だけなんです」
「それ好都合だね。さあ、どうやって朱鷺に会えるかだな?」
「いいアイデアがあります」とハンクが言った。スリ課の刑事に電車の中で朱鷺のバッグの中の化粧品を盗んで貰うというものだった。
「ああ、銀平さんならできるね」
ハンクが部屋を出て行った。そして、「銀平さん」と仲間の刑事に愛されている江戸川銀平と一緒に戻ってきた。銀平さんはスリ課のベテラン刑事である。課長に推薦されたが「俺には会わない」と断った男である。これがまた、刑事仲間に受けたのである。
「知念君、いいよ。その神喰朱鷺は、何時にロシア大使館を出るのかね?」
知念が五時だと言うと、銀平さんが朱鷺の写真を持って部屋を出て行った。

その金曜日の夕刻、五時、朱鷺が麻布台のロシア大使館を出て地下鉄日比谷線で虎ノ門ヘ行き、そこで地下鉄銀座線に乗り換えて新橋へ行った。銀平さんとパートナーの中村刑事が地下鉄の改札口に立っていた。刑事の鋭い目が改札口へ歩いて来る朱鷺を捉えた。朱鷺は目立った。足がスラリとした混血だからである。ハンチングを被った銀平さんが朱鷺の後ろについて改札を通った。その後ろを背の高い中村が通った。京浜東北線がプラットホームに入ってきた。車内は、ラッシュアワーなので混んでいた。電車がカーブを曲がったときに揺れた。中村が朱鷺にしがみついた。
「御免なさい」
朱鷺がプイと横を向いた。浜松町で扉が開いた。ふたりの刑事が降りた。「間もなく、京浜東北線横浜行き急行が発車します。電車の乗り降りにご注意をお願します」とアナウンスが聞こえた。電車が発車した。朱鷺が異変に気が着いた。右脇に抱えていたバッグが、丸めた新聞紙にすり代わっていた。スリにバッグを盗られたと気が着いた朱鷺が携帯で、一一〇番に電話を掛けた。警視庁のスリ課の電話が鳴った。受話器を取った刑事がクチを曲げて笑った。十分後、電話が入った。銀平さんが大声で笑っていた。
朱鷺がみなとみらい線の山手駅で降りると運転手がクライスラーのドアを開けて待っていた。朱鷺が家に帰った。
「お母さん、私、バッグをスリに盗られたのよ。明日の朝、シャボンヘ行くけど、一緒に行かない?」

――スタルヒン大尉、アンナ・カジンスキーはいつもと変わらない。山手町の自宅に帰った。
――ニキータ、あまり近付くな。警視庁もアンナをツケているだろう、、

翌朝、白い、とっくりのセーターを着て、デニムを穿いた朱鷺がシャボンのドアを押して入った。
「おはようございます」
「あら、新しい店員さん?」
「はい、慣れてませんので、よろしくお願いします」と葵がにっこりと笑った。
「お美しい方ねえ」
「お客様こそ」
朱鷺がパリジャンヌの化粧品セットを買った。その間、義母の多恵は椅子に座って雑誌を読んでいた。葵が見て見ぬふりをして朱鷺を観察していた。朱鷺がロシア正教の十字架をその白い首に下げていた。朱鷺がレジにやってきた。葵は大学時代、学生食堂のレジだったので、――こんなところで役に立つなんて、、と昔を懐かしく想っていた。朱鷺と多恵が出て行った。葵がラップトップを開けてロシア正教会を検索した。横浜ハリストス正教会の行事を見ていた。――日曜日、午前十時、ニコライ神父の主日聖体礼儀およびバザーと書いてあった。何の事か判らないが、日曜日は休みなので、行ってみることにした。葵が朱鷺に会ったこと、今日は、横浜ハリトス正教会のバザーに行くと暗号メッセージを知念に送った。これをロシア大使館は探知したが送信者も、受信者も、内容さえも判らなかった。理由は、捜査一課の卓上電話の回線にコンピューター管理技士が自動的に暗号コードを変える設定をしたからである。ロシア側も同じで白樺は困っていた。ただこのフィルターは、五秒以内ならキャッチできるため、テキストは送ったあと、五秒以内に消去する作業が必要であった。

葵が木造の人形マトリョーシカを手に取っていた
「あら、あなた、どうしてバザーに来たの?」という声がした。葵が振り返ると朱鷺だった。赤いマトーカ(スカーフ)を被った朱鷺はロシア人女性に見えた。教会の雰囲気がそうするのである。
「私、横浜生まれなんです。以前にもバザーには来たことがあるんです。今日は、冬に備えて、マトーカを買いに来たんです。私、律子と言います」と葵が朱鷺に微笑んだ。
「律子さんね?ロシアの伝統文化を好きになって頂いて有難う。これから、あなたは何処かへ行くのですか?」
「何もないんです。横浜駅でコーヒーを飲んで帰るつもりです」
「私も一緒でいいですか?」
「それじゃあ、一緒に行きましょう」
ふたりがコーヒーを飲んでショートケーキを食べた。確かに朱鷺は無口であった。ただ、ときどき葵の顔を見た。気が着いた葵が微笑んだ。姉のない朱鷺は葵を慕った。
「律子さんのように日本人に生まれたかった」と朱鷺が驚くべきことを言った。葵はその理由を訊かなかった。信頼を得るまで時間を掛ける考えである。誰かが見ているような気がした。だが、店には日本人の家族しかいなかった。ふたりが別れた。葵が登戸に帰ると電話にメッセージが入っていた。
――携帯をもう一台買うこと、、ビーグル
知念が公衆電話から掛けたためにロシア大使館はふたりの会話をつかめなかった。

続く
04/10
消えたポセイドン  第一話 第4章
第一話
第4章

仁科が神喰朱鷺のプロファイルを読んでいた。
「知念君、神喰朱鷺は混血じゃないかな?」
「はいそうです。母親はロシア人だそうですが、名前も、身元も判らないんです。そのうち判ると思います」
「朱鷺の父親の神喰太刀は東京商船大学でロシア語を習い、チョンコル商船の高麗号の航海士になった。高麗号は新潟ウラジオストック航路の先駆けとなった。神喰は、二年足らずで、チョンコルを辞めて、アメリカン・プレジデントラインの客船オアシス号の一等航海士になり、七つの海を航海した。ポセイドンの船長になったのは、四年前と、つい最近だね。不思議なのは、アメリカン・プレジデントラインのような外国航路の客船を辞めて、何故、ばら積み貨物船の船長になったのか?」
「課長、ポセイドンは樺太の天然ガスプロジェクトの機材を運んでいます」
「ロシア人航海士やロシア人機関士との関連がそれだな」
「沖田さんが、ロシア人クルーは、ロシア極東海軍の軍人だろうと言っています。小樽に入るタラバ蟹漁船にもロシア海軍の軍人が乗っていると言ってました」
「それは、白樺さんが暗号を解読したからだろうね」
「そうです。白樺さんのご家族がサンフランシスコへ移るそうです」
「それは良かった。だが知念君、これは難しいぞ。海保とチームを組むにも、相互不干渉の原則があるんだ。つまり警視庁が上ってわけじゃないんだ。だが、そう言ってはおれん状態になることは間違いない。普段でも神経質な外務省に洩れれば、国際問題に発展するという厄介な問題だ」

知念とハンクが部屋に戻った。卓上電話が鳴った。階下の受付が神喰朱鷺がきていると言った。ハンクが階下へ行った。ふたりが部屋に入ってきた。朱鷺はウエーブのかかった金髪に青い目をしていた。その大きな瞳がロシア人形のように見えた。
――ロシアのコケシ、、マトリョ―シカと言わなかったか?
朱鷺の飛び抜けた美貌にチョンガの知念がタジタジとした。
「知念太郎です。神喰朱鷺さんですね?勤務中のところを本庁にきて頂いて恐縮です。警視庁だからと固くならないでください。早速ですが、お父様のことでお訊きしたいのです。お父様から連絡はありませんか?」
「神喰朱鷺です。父からは、ナシのつぶてです。父の船が北極海で忽然と音信を絶ったと聞いて目の前が真っ暗なんです。警視庁では何か判りましたか?」
「ノルウエーに、捜査官を送ったんですが、手ぶらで戻ってきたんです。米海軍も、ノルウエー沿岸警備隊も捜索を来年の四月まで打ち切るしかないと言ってきたんです」
朱鷺は、秋空のように青い目を持っていた。その目に、涙をいっぱい溜めていた。知念は朱鷺が落ち着くのを待った。
「あなたは、ロシア大使館に勤務されていますね?ロシア海軍の砕氷船がバレンツ海を捜索しているのをご存じですか?」
「いえ、存じません」
朱鷺の声に曇りはなかった。意外だが、朱鷺は、父親の仕事を全く知らない可能性が高いと知念が思った。神喰は航海の話をしなかったのかも知れない。朱鷺は、あまりにも壊れやすい女性だからである。朱鷺の控え目な物腰だが、混血であることも肩身を狭くしているのだろうと知念が思いやった。母親の名前を聞きたかったが、先送りした。
「あなたに会うことが必要だったんです。どうぞ、お引き取りください」
朱鷺がバッグを右腕に持って立ち上がると知念にお辞儀をした。

十一月二十四日、、
ポセイドンが消えてから五〇日が経った。知念とハンクが仁科の部屋に飛び込んできた。
「課長、大阪府警が西成で在日朝鮮人の船員が殺されたと言ってきました。ポセイドンに乗っていた斉木という船員です。これは大ニュースです。ポセイドンはバレンツ海で沈没したんですからね。九時の新幹線に間に合います。今から、丸子君と大阪へ行きます」
「西成かね?西成は日本一、治安の悪いところだ。君たち、背広は刑事と判る。コスチューム課へ行って、服装を考えろ」

新幹線のぞみ229号、下り大阪方面行きは、九:〇〇、きっかりに東京駅を発車した。新大阪まで二時間三十三分である。
「丸子君、大阪は初めてかね?」
「中学時代に修学旅行で京都へは行ったんですが大阪は初めてです。ボクにとって大阪は外国です」
「新大阪着十一時三十三分なんだ。大阪府警に挨拶したら、新天地で飯を食おうや」
「先輩、その斉木という男が泊まっていた釜ヶ崎のホテルへ泊まりませんか?」
「う~む。ボクは嫌だな」
「では、行くだけ行きましょう。斉木とロシア人が飲んでいたバーへ行きましょう」
「その予定だがね。刑事とすぐわかるから、まず、ホテルにチェックインして着がえよう」
「先輩、通天閣付近のホテルは信じられないほど安いのがありますね。一泊465円てのがありますよ」
「いや、そりゃ畳二畳のドヤだよ。東横インにしようや」
車窓から淀川が見えた。十分で新大阪に到着すると車内放送があった。ふたりが拳銃の入ったカバンを手に持って昇降口へ歩いて行った。
「丸子君、これ使うことがないといいがね。ボクは、埼玉の射撃場以外で撃ったことがないんだ」
「先輩、ボクは、VIP護衛の特殊部隊に居ましたから、失礼ながら狙撃術をご指導します。必要なら大阪府警で撃たせて貰いましょう」
「そうだったね。君と一緒で良かった」
新大阪駅から大阪府警に電話を掛けた。電話に出た刑部補があいさつは要らないから西成署へ行けと言った。赤路刑事が待っていると言った。駅前でタクシーに乗って東横インにチェックインした。知念が警視庁から持ってきた白い背広を着て、ピンクのワイシャツ、黒いネクタイ、ボルサリーノを被った。ニューヨークのマフィアなのだ。ハンクは工事現場用の茶色のニッカボッカを穿き、地下足袋、作業服、耳垂れが付いている防寒帽子を被った。ふたりとも黒いサングラスを掛けていた。そうとう下品な格好である。外へ出て、タクシーを拾った。運ちゃんが嫌な顔をした。通天閣のある新天地を通った。ふたりが向かっているのは釜ヶ崎である。釜ヶ崎は「あいりん地区」ともいう。その釜ヶ崎は通天閣の南にある。あいりん地区の道路という道路に露天商が地面に玩具や質流れの時計、果ては、盗品と思われる革財布まで並べて売っていた。ふたりの刑事がタクシーを降りた。ハンクは、道路にブルーシートを敷いて寝ている浮浪者が気になった。水捌けが悪いのか、あたりに凄い臭いが充ちていた。異臭なんてもんじゃない。
「丸子君、これから会う赤路(あかじ)刑事は凄い人らしい。高校生のときに、ライト級のボクサーのチャンピオンだったって仁科課長が言ってた」
「ボクもレスリング部でした。ボクサーの赤路さんですか?楽しみです」
――そう言えば、ハンクは格闘技の選手に見えると、知念がハンクの筋肉質の顔を見て思った。

西成署に着いた。赤路連太郎刑事に会った。赤路はすらりとしていた。右耳がなかった。日本人には珍しい鷲鼻をしていた。角刈りの赤路の顔立ちは男っぽく、目が異様に座っており、関西ヤクザのニイサンに見えた。
「おふたりさん、帽子がよくお似合いで」と言った赤路は、ジーパンの上に革ジャンを着て半長靴を穿き、黒いサングラスを掛けていた。赤路が最後に阪神タイガースの野球帽を被った。
「ハハハ、赤路さんは、到底、刑事には見えないですよ」
「知念さん、飯を、あいりんで食おうか?勉強になりまんで」
警察署を出ると赤路がタクシーを呼んだ。三人の刑事は斉木が泊まっていたホテルに向かった。
「赤路さん、警察署なのにどうして鉄柵があるんですか?」
「知念さん、知らんのかいな?西成は全国で一番、暴動が多く起きる町なんやで。暴徒は、西成署に火まで付けるで」と西成を解説してくれた。抑揚のある大阪弁を聞いたハンクが、大阪はやはり外国だと思った。

――あいりん地区は路上生活者が数多く生活し、半径三百メートルの面積に三万人の人口である。そのため、治安は日本一悪い。住所不定の日雇労働者が多いため、人口統計は掴めていない。身分証明書がなくても、宿泊、就労、銀行口座の開設ができるため、さらに治安は悪化し統計を取ることが難しい。つまり、あいりん地区は日本の高度成長に取り残された無法地帯なのである。だが赤路の口調には、何かしら西成を誇る響きがあった。
「東京の三谷の方がまだマシですね」
「釜ヶ崎は、朝鮮人、ヤクザ、浮浪者、万年失業者、五〇〇円売春婦、ありとあらゆる好ましからぬ輩が住んどるとこや。その上に麻薬常習者の街やからね。違法薬品はいくらでもあるで。バイアグラは百円やで」
前席に乗っていたハンクがジャンパーの上から拳銃を確かめていた。鋼鉄の固い感触がハンクを安心させていた。
「知念さん、ポセイドンはまだ見つからんのでっか?」
「見つからないどころか捜索を打ち切ったんです」
「バレンツ海というのは、とんでもない海やそうやね?」
「捜査官が持ち帰った動画で見ただけですが、流氷と巨大な氷山が浮かんでいました。その流氷の上を北極熊の母子が歩いていました」
「釜ヶ崎とどっちがエエンやろかな?」と赤路が笑った。
赤路が、斉木が大阪港の埠頭に浮かんでいた事件を話した。斉木の本命は崔なのだ。崔は臍の下を左から右へ、横一文字に割かれて眉間を撃ち抜かれていた。犯人は数人で崔を西成で捉えて、大阪港ヘ連れて行った。埠頭で殺して海中に投げ込んだと見られていた。
「ほう?腹を割かれたのですか?」
「犯人は、斉木の眉間に銃口を突き付けて撃ったと鑑識が言うてる。プロの殺し屋ですわ。こんなこと大阪のヤクザには真似でけへん。犯人は外国船の船員ではないかと調査中なんや」
「見当はついているんですか?」
「大阪港に海保がありまんで。ああ、そうそう、崔はロシア政府が発行したパスポートを持っていた」
「ロシアのパスポートですか?赤路さん、ボクの考えですが、崔は外国航路の貨物船の船員だった。カネのある崔が釜ヶ崎のホテルに宿泊していた。その理由があったんではないでしょうか?」
「バーで一緒やったロシア人を探しとるんやが国外へ出たと考えていますねん」
「いろんな出国の方法がありますね」
「知念さん、沖仲の船で、または漁船で沖に停泊している本船に乗り移るケースがほとんどなんや。ロシア人なら北海道の漁船の多い小樽なんかの可能性があるんやから厄介なんや」
「そのロシア人はホテルに泊まっていなかったんですか?」
「大阪中のホテル、旅館を当ったんやが、該当する人物はおらんかった」

三人の刑事が「ホテルあいりん」のレジの前に立っていた。
「お泊りは、三人さんでっか?」と初老の男が挨拶した。
「おっちゃん、わいら泊まるんやないんや。飲みにきた。そやけど、バーでも食えるんか?」
「バーでも食えまんで」
「何が美味いんや?」
「そりゃあ、もつ煮でんがな」
「ほんなら、それ三人前タノンマン」
神経が繊細な知念は黙っていたが、ついに釜ヶ崎でモツを食うに至った自分の運命を嘆いていた。一方のハンクは嬉しそうである。

三人がバーの丸椅子に腰かけた。バーテンが寄ってきた。明かに半島系の顔をしていた。バーテンはボルセリーノを被った知念と地下足袋を履いたハンクを無視した。
「オニイサン、何を飲みはりまっか?勘定は要りまへん」とバーテンが赤路に頭をペコペコと下げた。
「若いの、ごくろうやな」
――このヤー公、耳がないけど?バーテンは気が着かないふりをしていた。
赤路がウオッカを注文した。知念がビールを頼むとハンクもビールにした。
――無料で飲み食いする?ついにヤクザになってしまったと知念が嘆いた。
バーテンがグラスにウオッカを注ぎながら赤路を観察していた。界隈では見かけないヤー 公だからである。
「おまえ、なんちゅう名前や?」といきなり赤路がバーテンに訊いた。
「ええ~?」
「おまえ、前科あるんとちゃうか?」
バーテンが赤くなった。気が短いのだろう。赤路の立て続けの質問に答えなかった。
「俺を知らんのか?」
バーテンが青くなった。
「刑事さんでっか?」
刑事と聞いて、バーの隅のテーブルで飲んでいた二人のヤクザ風の男が立ち上がった。ふたりとも角刈りである。ひとりは、頭のとんがった巨漢で、もうひとりは、サーカスに出てくるような小人である。子分だろう、、赤路が丸椅子を降りると巨漢の前に立ち塞がった。男は赤路よりも背が高かった。
「おりゃあ、なんや?」と兄貴分がわめいた。赤路がものも言わず、左の拳を固めると男の顔を思いっきり殴った。巨漢の唇が切れて血が床に滴り落ちた。
「何しさらすんや?おんどれ、血イ見るぞ!」
小人がスイッチナイフをズボンのポケットから出してパチっと刃を開いた。その瞬間、小人の顔が凍った。そして、ナイフを床に投げ捨てた。ハンクが右手に握った黒い拳銃を小人のこめかみに押し付けたからである。赤路が小人の股間を思いっきり蹴った。男が両手で股を抑えて前のめりに倒れた。
「わいら、なんもしとらんけ」と、とんがりアタマがわめいた。赤路がものも言わずにその男の腹に強烈なボデイブローをブチ込んだ。男が床に崩れ落ちた。赤路が男たちに手錠を掛けて小人の上着を探った。ふたりが青くなった。男たちは覚せい剤を持っていた。
「知念さん、こいつら、どうしてくれようか?」
赤路の暴力に驚いていた知念に聞いた。
赤路が巨漢のとんがったアタマを拳でこずいていた。知念が考えていた。
「赤路さん、こいつら何か知ってると思う。ここで取り調べませんか?」
そこへ客が数人、どやどやと入ってきた。先頭の客がハンクが拳銃を肘を直角に曲げて持っているのを見て、あわてて踵を返した。バーテンが閉店中の木札をドアに掛けた。
「刑事さん、後生やから手錠を外してんか?何でも喋りまんから」
赤路が手錠を外して、兄貴分の角刈りのアタマを平手で思いっきり引っ叩いた。小人がそれを見て雌雄が決まったと知った。
「お前、どこの組なんや?」
「いいえ、組なんて入ってまへんがな」
「このバーの常連なんか?」
「まあ、そうやけど?」
「聞きたいことがある」と赤路がまっすぐ用件に入った。そして崔の顔写真を見せた。角刈りに反応が見られた。
「崔と言う在日だよ。知ってるか?」
「名前は知らんけど、ここでよう飲んどった」
知念がロシア人のモンタージュを見せると角刈りが目を丸くした。
「それ、ミカロフでんがな」
「なんで知っとんのや?」
「言うたら許してくれるんか?」
赤路が角刈りの足を思いっきり蹴った。角刈りが脛を抱えて呻いた。さすがの警視庁捜査一課の知念も赤路の凄さに驚いていた。
――昔はこういう刑事が多かった、、
「ミカロフは韓国の船に乗っ取んや。これ以上、言えへん。言うたら、わて生き作りにされる」
知念が赤路に、もういいと言う風に顔を横に振った。赤路が、また平手で角刈りのアタマを引っ叩いた。バーテンが青くなっていた。結局、キッチンは、もつ煮を持ってこなかった。
三人が新世界のホテルへ戻って部屋で会議をした。酒を飲まなかったのは、通天閣付近のホルモン焼きを食う為であった。
「赤路さん、あなたは怖い刑事ですね?」
「刑事?デカや。知念さん、デカとヤクザには、あんまり違いはないんや」
「はあ?」
「わいの親父は兵隊やったが、終戦後、刑事になったんや。爺さんもデカやったで」
「でも、懲戒免職になりますよ」
「もう、なんどもなったよ。知念さん、あんたはんは警察学校の優等生やったと聞いたが、大阪は東京やないんや。上品な刑事なんかおらんへんね。澄ましこんどったら、デカは務まらへんで」
「先輩、分かります。失礼しました」
「丸やんは良いデカになるで。警視庁辞めて、大阪ヘけえへんか?」
「赤路先輩、ハンクと呼んでください」
丸やんと呼ばれたハンクは赤路が好きになっていた。
「ハンク?ハンク・ウイリアムズならよう知っとるで。丸やんは歌唄うんか?」
「いえ、歌を忘れたカナリヤです」
変に褒められたハンクが頭を搔いていた。

続く
04/09
消えたポセイドン  第一話 第3章
第一話
第3章

「知念君、今、時間あるかね?丸子君と一緒にボクの部屋へ来てくれないか?」
電話は警視庁捜査一課の課長、仁科竹夫からだった。
「課長、今、行きます」

仁科は前捜査一課のベテラン刑事であった。凶悪な事件を扱ったにも関わらず、その温厚な性格が部下に愛されていた。部下は仁科に声を掛けられることを喜んだ。知念も同じである。知念太郎と丸子米治が廊下を歩いて仁科の部屋に行った。ドアが開けてあった。デスクの上の花瓶に深紅の薔薇が活けてあるのが見えた。
「課長、おはようございます」と二人の刑事が同時に言った。ハンクと刑事仲間に愛されている丸子米治が薔薇を見ていた。捜査一課は「殺人課」とも言われる怖い刑事の集まりで、深紅の薔薇は相応しくないからである。仁科が、不思議そうな顔をしている知念を見た。
「ああ、それはね、秘書課から貰った。末の娘が、ようやく結婚したからだよ」
「課長、おめでとうございます」と二人の部下が同時に言った。
「さあ、話を聞いてくれ。知念君、君の地位は警部だ。だが、それは君が功績を上げたのではなく、佐伯君が早期退職したからだ。君には、ルノワール殺人事件以来、失踪者の捜査をやって貰った。どれも殺人事件ではない単なる家出娘か、借金から身を隠すか、精神異常者だった。君を呼んだ理由だがね、大仕事をして貰う。人間の失踪ではなく、日本の貨物船が消えたんだ」と仁科がキーボードを叩いてふたりの刑事を手招いた。仁科がデスクトップのスクリーンを指さした。そこには見たことがない形の貨物船が写っていた。知念の目が左右に動いた。知念は緊張すると目が左右に動くのである。
「課長、これ、随分、古い船じゃないですか?」
「そうなんだ。戦時標準貨物船E型650トンという。現在では1800トンが標準だから、三分の一と小さい。船齢、六〇年なんだが、シンプルな貨物船なんで、船体は何ども修理されて、機関も三菱重工のジーゼルを据えている。ロシアには、船齢五〇年以上の古い貨物船は多いので、北極海なんかでは驚くに値しない」
「課長、でも、これって海上保安庁の仕事じゃないのですか?」
知念が抗議する口調で言った。
「そうだよ。君と丸子君に今から海保に行って貰う。国際海洋課の沖田茂次長に会ってくれ。沖田さんが説明する。相手は次長だ。ことばに注意してくれよ」

警視庁から斜め左、八十メートルのところに国土交通省のビルがある。海上保安庁は国土交通省の中にある。知念とハンクは二つのビルの間にある中庭を横切って国土交通省へ歩いて行った。受付の職員に用件を述べると国際危機管理室のある四階へ案内された。
「捜査一課の知念太郎です。こちらは後輩の丸子米治君です。よろしく」
「知念さんのお名前は仁科さんから聞いています。仁科さんは、あなたを優秀な刑事さんだと選ばれたのです」
「はあ、まだ駆け出しです。よろしく」
「沖田次長さん、事件というのは日本の貨物船が北極海で忽然と消えたということですか?海難事故じゃないのですか?」
「いえ、そう簡単じゃないんです。疑わしいことが多くあるんです」
知念は沖田より年下だった。ハンクはさらに年下である。片方は警視庁の刑事。片方は海保のキャリア官僚である。海保は警視庁や海上自衛隊と並ぶ巨大な全国組織である。キャリア官僚は、ほとんどがエリート大学を出ているのである。一方の「デカ」と言われる刑事は、どぶの臭いがする路地を歩き廻る警察官である。半年で靴の底を張り替えるほど歩く。その為、刑事は脚が強く敏捷である。エリートの役人もデカも、お互いを尊敬していた。沖田が、ポセイドンが消息を絶った経緯を知念とハンクに話した。ハンクが目を丸くして聞いていた。なぜなら父親がハワイ航路の船員だったからである。
「次長さん、その消えた船長と船員を探せと言うことですね?」
「そうです。だが、海底に眠っている可能性が高いんです」
「船員がロシア人と在日コリアンというのが引っ掛かりますね。日本人の船員はいなかったんですか?次長さん、クルーの写真を見せてください」
知念が、デスクトップの画面に映った神喰太刀船長を見た。額の広い神喰の理知的な顔に強い印象を受けた。
「知念さん、今、ファイルと写真をメールします。捜査のスタートになると思います。乗組員のバックグラウンドを調査して頂きたいのです」
知念がファイルを読んだ。そして目を上げた。
「次長さん、金本、斉木、朝岡、李の四人の在日コリアンですが、十八歳の孫を除いてこの四人はポセイドンの乗組員を六年もやっていますねえ。すると神喰船長が手塩に掛けて育てた新選組のような親衛隊となります」
「知念さん、ご存じのように、在日コリアンは、日本に在留する韓国または朝鮮籍の外国人のことです。定義については、日本に在留する韓国、朝鮮籍の者のうち特に特別永住者を指したり、豊臣秀吉の時代に渡来した朝鮮系日本人も含めます。その範囲が変わることがある。ひっくるめて私たち日本人は在日と呼んでいます」
「次長さん、すると、在日朝鮮人も入っていた?」
「斉木と李が在日朝鮮人なんです。孫は在日中国人です。神喰は、胸を張って歩けない在日の船員を庇っていたんでしょう」
「神喰太刀は、サヨクに傾斜していたんでしょうか?」
「そう言えますね。横浜の船員クラブで嫌われていたと思います」
沖田は、ポセイドンが核弾頭を載せていた疑惑を知念に言わなかった。だが、知念はすでにポセイドン事件が今までにないスケールだと感じていた。知念とハンクが携帯を開いて、神喰、三人のロシア人、そして五人の在日の写真を食い入るように見ていた。ふたりが中庭を歩いて警視庁ヘ戻った。部屋に入ると仁科に電話を掛けた。仁科が、すぐにこいと言った。
「ポセイドンか?嫌な名前だなあ」
「嫌な名前?課長、どうしてですか?」
「ポセイドンはね、ギリシア神話に出てくる海神なんだ。エーゲ海を航海する船を海底に引き込むという話しなんだよ」
「そう言えば、戦前の名前は、第五海神丸だったそうです。それにしても老朽船ですね。設計は時代遅れ。いくら修理してあると言っても、船体は、リベットを打ち込んだ鋼鉄です。こんな前近代的な貨物船が北氷洋を航海するなんて信じられない」
「課長、ポセイドンの航速は二十二ノットが最高なんだそうです.結構、速いんです」とハンクが言った。
「神喰太刀船長はムルマンスクへ行く任務を引き受けた。神喰にはその危険を省みない理由があったんだろう。知念君、調べて行くうちに深い闇が広がると思っていい」
「課長、明日、横浜へ行きます」

十月十五日、、
知念とハンクが桜木町でタクシーに乗った。ニックネームのハンクだが、アメリカのウエスタン歌手、ハンク、ウイリアムスに似ていると高校の同級生が付けたのである。丸子は、むくれた。だが、女生徒たちが気に入ったのである。これが丸子米治が、ハンクとなった謂れなのである。
「知念先輩、ここが外人墓地なんですね?親父が『港が見える丘』っていう歌をよく唄ってました」
「丸子君、君のお父さんは外国航路の船員だったってね?」
「ええ、でも船員とは言わないんです」
「じゃあ、何て言うのかね?」
「マドロスっていうんです」とハンクが色あせた写真を財布から出して上司に見せた。知念が珍しそうに見ていた。白いダブルの制服を着て船員帽を被ったマドロスが写っていた。ハンクに似てハンサムだったが親子揃って背が低くかった。
「へえ~?お父さんの階級は何だったの?」
「三等機関士です。ただの油差しでした。今でも、あこがれのハワイ航路だと威張っていますよ」
「丸子君、神喰船長だけどエリートだね」
「はあ、ボクもそう思っていました。キャリアの高い人がどうして、あんな幽霊船の船長を引き受けたんでしょうか?」
ふたりがタクシーを降りて山手学院の横の石段を下がって行った。目の前に山下埠頭が見える。西に中華街が見えた。
「ここだな」

ふたりが鉄の柵で囲まれた北欧風の豪邸に目を見張った。犬が吠えた。大きな犬のようだ。それも数匹はいる。門柱のベルを押すと老いた中国人が出てきて鉄のゲートを開けた。背の低い老人である。老人は片手で耳の大きい黒い犬を抱いていた。老人は、三つ編みの辮髪を背中に下げ、絹で出来た庇のない帽子を被っていた。髪を染めて油を塗ったのか、黒光りしていた。老人の双眼は、ビー玉のように光っていた。自分は神喰家の執事だと言った。そこに歓迎の笑顔はなかった。辮髪の老人がふたりの刑事を見下しているのは、その目つきで明らかである。神喰の妻が挨拶した。神喰の妻は黒髪を後ろに束ねた気品のある婦人であった。全てがハイクラスである。東京の下町育ちの知念が固くなったのも自然なのかも知れない。知念が巷の刑事と七つの海を航海する船長の違いを思い知らされた。

知念とハンクが居間に案内された。廊下に額に入った写真が壁に掛けてあった。外国航路の豪華船やポセイドンである。ポセイドンの甲板に五人の東洋人と神喰が立っている写真があった。知念が少年の孫を見つけた。
「初めまして、知念です。警視庁の刑事がきたからと驚かないでください。仕事なんです」と知念が挨拶した。
「神喰多恵です。主人の船が消息を絶った件でこられたんすね?」
「そうですが、お聞きしたいことがあってきました。早速ですが、ご主人からは連絡ははないのですね?」
「私たちも神喰に何が起きたのか心配で胸がいっぱいなんです」
「こんなときにお聞きしなければならないのですが、ご長女の朱鷺さんはご在宅ですか?」
「いいえ、今日は日曜日ですので正教会へ行っています」
「いつお帰りになりますか?」
「三浦半島の油壷で同級生と会食するって言ってました」
「奥様、ご存じのように警視庁はご家族の全てを知っています。私たちが懸念するのはご家族の安全なんです。このポセイドンの海難事故を警視庁は深刻に受け止めています。どのようなことでも私たちに知らせて欲しいのです」と知念が名刺を差し出した。
「ええ、何でも、私にできることがあれば、ご遠慮なく、おっしゃってください」
これが捜査の第一ステップ、「面会」だった。知念が居間を出ようとして、篭に入ったインコを見た。
「これ珍しい鳥ですね?」
頭と顎髭が黄色く、胸が緑。羽はシマフクロウのように黒い斑点がある。
「マダガスカルのセキセイ、インコなんですよ。トバリシっていう名前なんです。主人が単調な航海の慰めに船長室で飼っていたんです」
「写真を一枚、撮らせて頂いて宜しいでしょうか?ボクは、バードウオッチャーなんです」
知念がシラっと嘘を言ったことにハンクが感心していた。知念がフラッシュを起こしてシャッターを押した。フラッシュの閃光に興味を持ったインコが止まり木を横に歩いてきた。
――ギャア、ギャア、、ペドロ、、ドブラウトラ、ギャア~、、
「奥様、インコは何を喋っているんですか?」
「私には、よく分からないんですが、朱鷺がロシア語だって言ってました」
「はあ?それでは、今日はこれで失礼しますが、朱鷺さんに、私に電話をくださるように伝えてください」
「明日、朱鷺は出勤ですが?」
「ええ、分かっています。朝、出勤されたらお電話を頂きたい」
知念が有無を言わさない司直になっていた。ハンクがそんな上司を見直していた。ふたりが屋敷を出るとき、黒いセダンが庭の円形のドライブウエーに入ってきた。中学生とおかっぱの女の子が自家用車を降りた。ふたりの刑事が見ていた。
――神喰太刀は、こんな豪邸に住み、幸せな家族がいるのにどうして老朽船の船長を選んだのだろうか?
「丸子君、あの中国人の執事が窓から見ていたが知ってたか?」
「先輩、執事だから、問題はないでしょう」
「いや、ただ気になっただけだよ。ポセイドンの持ち主だけど馬車道に横浜支社があるんだ。いきなり訪ねてみようか?」
「はあ、いい考えですね」
ふたりが、たまたま通りかかったタクシーを拾った。馬車道まで、十分である。途中、税関があった。刑事には縁のない官庁である。ふたりが、プロメテウス海運のビルの前で降りた。石段のある摩天楼である。誰も近寄せない雰囲気があった。知念とハンクが石段を上がって行った。
「スパルタノス男爵は、アテネに住んでいます。田中支店長に会えますが」と受付の女性が言った。知念が遠慮すると言って名刺を置いた。
「先輩、あれで終わりなんですか?」
「警視庁のデカがきたと言うメッセージなのさ」と知念が笑った。ふたりが桜木町から京浜東北線に乗って東京へ戻った。
「知念君、それで何が判った?」
「課長、神喰太刀は山手町の豪邸に住んでいます。運転手付きのクライスラーを持っていました。娘の朱鷺には会えませんでしたが、明日、警視庁にくるように伝えました」
「それ命令だろ?」
「まあ、そうです」
「神喰朱鷺。二十四歳。上智大学ロシア語科卒。駐日ロシア大使館に勤務とあるね?」
「ロシア語というのが気になりますね。会ってみないと何を担当としているのか判らないのです」
「知念君、沖田さんが言ってた白樺仁係長に会ってみろよ」
「朱鷺を調べましたが疑わしいことは出てこなかったんです」
「君には判らないことが出てくるだろう」

十月十七日、、
知念とハンクが駐車場を横切って国土交通省ヘ行った。沖田次長に会い、国際情報収集室ロシア課へ行った。
「次長から聞いていました。私にできることなら何でも仰ってください」
白樺仁は知念と同年か若く見えたが日本の官僚にしてはラフな性格に思えた。
「よろしくお願します。白樺さんは、モスクワ大学を卒業されて博士号を取得されたと聞きました」
「そうですが、専攻はロシア文学なんです。日本に帰国すると雇ってくれる会社がなかったんです。夢にまで見た外務省はキャリアを重んじるので、通訳以外のポストに付けなかったんです。それと、シベリア抑留と言われるモスクワに七年間もいた人間を信じないのでしょうね。つまり、あいつは、ロシアのスパイだというわけです」
白樺が苦笑した。
「国土交通省はオーケーだったんですね?」
「いいえ、税関の通訳だったんですが海保が雇ってくれたんです」
「分かります。海保は海の警察ですから」
「白樺さん、神喰朱鷺ですが盗聴できませんかね?」
「そうおっしゃるだろうと思ってたんですが、盗聴したくても、私には権限がありませんよ」
「権限は警視庁国際刑事部から得られます。ただ、あなたのご家族の安全が問題になります」
「知念さん、ロシア大使館員またはロシア大使館を盗聴するということはロシア連邦特別警察、つまり、ソ連時代のKGBを改名したFIS(ロシア連邦外国情報部)と対決することを意味するんです。ポセイドンは明らかに密輸船です。沖田次長も、私が必要だとおっしゃっていますから警視庁の要請を引き受けます。だが、私には妻と小学生の娘がおります。この事件が終了するまで外国に移住させます。それが条件です」

――ロシア連邦外国情報部?刑事の知念には、とんでもない相手に思われた。
「白樺さん、ご家族の移住先が決まったらご連絡をください。旅費、家賃などの費用のことです。警視庁の主計局と話しますので」
「知念さん、感謝します。優秀なスパイというのは、ダブルスパイなんです。ここがもっとも難しいところなんです。まず、われわれの間の連絡方法を考えます。携帯も電子メールも現在の使用方法では危険ですよ」

続く
04/08
消えたポセイドン  第一話 第2章
第一話
第2章

海上保安庁は警視庁や検察庁のある東京千代田区霞が関にある。桜田通りの北に皇居が見える。十月四日の朝、関東地方に強風注意報が出ていた。いつも、定刻より早く登庁する沖田茂がコートの襟を立てた。沖田は国際危機管理室の次長である。桜田通りの街路で銀杏の葉が乱舞していた。国民に「海保」と親しまれる海上保安庁は二十四時間体制である。沖田が部屋に入ると待っていたかのように卓上電話が鳴った。受話器を取ると交換手がノルウエーの沿岸警備隊から緊急電話が入っていると言った。女性の声が聞こえた。流暢な日本語である。ロシアのムルマンスク港を出た日本の貨物船がバレンツ海でSOSを出したまま消息を絶ったと言うのである。

「チーフのオキタと言います。船名と乗組員のリストをください」
「船名はポセイドンです。私たちが知っているクルーは、日本人六人です」

消息を絶ったポセイドンは、ノルウエーのスピッツベルゲン島の港を出てからノルウエー海軍に位置を知らせていた。オスロの沿岸警備隊本部がポセイドンからSOSを受け取ったのは、十月四日、〇時五分 である。日本時間の 十月四日午前六時五分である。ノルウエー沿岸警備隊は哨戒機を出したが、朝からみぞれが降っており視界が悪く発見する望みは薄いと女性が言った。ポセイドンが消息を絶ってから二時間が経っていた。

「ノルウエー沿岸警備隊には、いつもご協力を頂き日本の海保は感謝しています。さらに、新しい情報が得られましたら、ご連絡のほどお願いいたします」
受話器を置いた沖田が国際管理室ロシア課に歩いて行った。
「おはようございます。沖田次長、何か?」
「おはよう。白樺君、よく聞いてくれ」
沖田が手短に事件を話した。話をチーフから聞いた白樺仁(ひとし)係長がムルマンスクのロシア沿岸警備隊に問い合わせた。警備隊は、ロシア海軍が捜査を担当していると海軍情報部に繋いだ。ロシアの海軍士官は白樺の流暢なロシア語を警戒した。白樺が、士官に、ポセイドンが消息を絶ったのは知っているのかと聞いた。消息を絶ったのは知っているがSOSは受け取っていないという返事である。セベロドビンスクのロシア海軍が駆逐艦を出すが、バレンツ海の東方で遭難したなら見つからないだろう。バレンツ海は、昨夜からみぞれが混じった雪が降っており、現在、海上は視界が悪いと言った。海軍士官の返事に消極的な調子があった。白樺の目が憎しみに変わった。すると日本の海保の抗議を恐れたのか、ポセイドンの位置が判らないのも雪の為である。ポセイドンはGPSを切っており、バレンツ海を出た辺りで沿岸に無数にある岩礁に乗り上げたか、氷山群に衝突して沈没したと考えられると言った。白樺はスパシーボ(有難う)と言わなかった。電話を切ると横に立っている沖田に内容を説明した。沖田には問題があった。日本の海上保安庁の及ぶ権限は、日本の領海~接続海域~排他的経済海域の海難救助や密輸および密入国の摘発に限られていたからである。
――とにかく、ポセイドンのファイルを調べなければ、始まらない、、
沖田茂が船歴をデスクトップで読んだ。

ポセイドンが日本陸軍の輸送船だったときは「第五海神丸」と言う船名であった。南太平洋の島々に機材を運ぶ輸送船だった第五海神丸は、終戦時、たまたま釜山港に停泊していてアメリカの潜水艦の餌食とならなかった。第五海神丸は、終戦間際に造られた新造船であることから、ギリシアの船舶王が買い取って改造した混載貨物船である。船籍を日本籍とした理由は、日本の製品をアメリカの西海岸に輸送するのが最も儲かったからである。吉田内閣は日本の復興を急いでいたので、どんどん戦時中の規制を解除していた。外国の船主もその一部であった。ポセイドンは、船体がずんぐりとしていて、吃水が高く、舵は嵐に弱く、結氷期の北極海などには向かない船である。

某年八月七日の正午にポセイドンが横浜の本牧埠頭を出港した。寄港地は北米ではなく、上海~香港~シンガポールで積荷を降ろし、または載せて、パキスタンのカラチで積荷を受け取り、紅海を北上してイスラエルのアカバ港で荷を降ろすスケジュールであると国土交通省に航海プランを出していた。その先は未定とマニフェストに記録されていた。だが、ポセイドンはスエズ運河を通過してエジプトのアレキサンドリアで給油した。そこから地中海を西へ行きアルジェリアのアルジエで積荷を降ろした。アルジエを出ると、ジブラルタル海峡から大西洋に出た。寄港する国の港湾局は、霞が関の海上保安庁にリポートを出す義務がある。消息を絶ったポセイドンが最後に帰港したのはロシアのムルマンスクである。日本の貨物船がバレンツ海で消息を絶つという海難事故は今までになかった。

沖田が海保のトップである主席監察官と話した。そして、アメリカ海軍に捜索の要請をする一方で捜査官を二人送ることにした。アメリカ海軍がグリーンランドのゴッドホープ米国海軍基地から哨戒機を装備した巡洋艦タイコンデロガを出してくれるという。沖田が、ひとまず安心した。沖田が電話を取って警視庁国際刑事部と話し合った。海保にも国際刑事室はあるのだが、日本国内の外国船を担当する警察署である。沖田は立ち上がってコートを着ると襟を立てた。警視庁は百メートル北にある。三十分後、警視庁の渡嘉敷国際刑事部長と面会した。沖田から話を聞いた渡嘉敷は重松実警部と海府三郎捜査官をノルウエーのオスロに派遣することにした。ノルウエーに出張してくれと言うと、ふたりの捜査官が目を輝かした。幸いなことには、成田発オスロ行きの日航機に空席があった。登庁したばかりのふたりの捜査官は家に帰って旅支度をした。オスロはロンドンに飛ぶのと同じ所要時間である。フライトのルートは、中国~モンゴル~カザフスタン~ロシアの一部を飛んでノルウエーのオスロに着く。夕闇の中をボーイングが成田を離陸してからすぐに夜になった。機内食を食べたふたりの捜査官は、明日に備えて寝ることにした。成田を出て十二時間後、間もなくオスロに到着するとアナウンスがあった。ボーイング777がガタンと車輪を出すと着陸姿勢に入った。ふたりの捜査官が窓の外を見ていた。オスロは銀世界だった。

ノルウエー沿岸警備隊の婦人保安官が日本のふたりの捜査官を待っていた。金髪を短く刈った北欧美人である。彼女は日本語を話した。海府がわけを訊くと北海道大学に留学したと言った。女性がオスロに初雪が降ったと言った。空港付近はすっかり冬めいていたが、このあたりは、まだ秋の面影を残していた。街路樹は楓だろうか美しい黄金の葉に彩られていた。だが頬を切るように風が冷たかった。オスロの沿岸警備隊本部はヨハン通りにある。市街は非常に整理されていた。車を降りた海府がウールのコートのポケットからハンカチを取り出し鼻に当てるとくしゃみをした。
「海府君、パブロンを持って来たかね?」
「先輩、持ってきました。しかしオスロは非常によく整理された街ですね」
「日本人には、エエ加減なところがあるが、北欧の都市は、どこも、きちんとしているんだ。船も同じなんだ。整理されていないと無駄が多いというわけだろう。これはノルウエー人の民族性だろうね」

ふたりが受付で身分証明書を見せた。沿岸警備隊調査室へ案内された。赤ら顔の士官が椅子から立ち上がった。ノルウエー空軍の哨戒機がノルウエー北部のボードー空軍基地から沿岸を哨戒飛行していると重松に言った。ロシア海軍の艦艇が航行しているのを発見したからである。沿岸警備隊の飛行部隊も空軍の管轄である。空軍士官は、オスロの空軍基地の連絡機がボードーに飛ぶので乗って行けと言った。ノルウエーの貨物船が高知県の沖で座礁したとき海保に救助して頂いた、そのお返しだと鷲の襟章を着けた中尉が笑った。その夜、重松と海府が沿岸警備隊の宿舎の一室を与えられた。飯は食堂へ行って食えと言った。重松が携帯を取り出すと警視庁に「無事にオスロに着いた。明日、スピッツベルゲン島へ飛ぶ」と報告した。ふたりが食堂へ行った。肉や魚の料理が乗った皿を自分で取るのだが、ビールと鯨のステーキが出た。

ふたりは朝早く起きた。早暁、ボードー空軍基地ヘ飛んだ。そこから、ロッキードPC3オライオンに乗せて貰ってスピッツベルゲン島に飛んだ。ターボプロップのPC3が軽快な音を立てて、スピッツベルゲン島の首都スバルバードに向かっていた。スバルバードは都市である。重松はアラスカのバラックスを想像していたので、深い湾に沿って近代的なレンガのビルが立ち並ぶ光景に強い印象を得た。スカンジナビア人だが、ヨーロッパの民族は何百年も持つ石やレンガの堅固な街を造る。PC3が着陸態勢に入った。流氷の上に北極熊の母子が見えた。海府が写真を撮った。
「海府君、余裕があるなら、島を見学したいね」
「先輩、今夜、オーロラが見れると言ってますね」
パイロットが地上員の手信号によって、哨戒機を駐機場に停めた。通信兵がドアのレバーを引いて開けると海から冷たい風が飛び込んできた。ナビゲーターが重松と海府に降りるようにと手招いた。ふたりがステップを降りた。鞄を手に持ったパイロットが続いた。
「ミスター、シゲマツ、スピッツベルゲンは大自然に覆われた島なんです。明日、お見せします」と迎えに来た士官が言った。「ダンケ」と重松がドイツ語で言うとクルーが笑った。ノルウエー人が明るい性格なので威厳を振り翳すイギリスに留学した海府が安心した。ふたりは空軍基地に泊めて貰った。室内はスチームが入っていて、チンチンと音を立てた。翌朝、ポセイドンが出航した港に行った。ノルウエー海軍の士官が待っていた。重松がポセイドンが入港したときの状況を入国管理局の主任に聞いた。

その年九月二十六日、夕日の中に日本の貨物船がスバルバードの沖に現れた。ノルウエー王国海軍の艀(はしけ)が船腹に着くと水先案内人が梯子を上って行った。日本人の船長と握手をした。乗組員は、日本人船員が五人と日本人の船長の六名だった。貨物船ポセイドンがスピッツべルゲン島のスバルバード港の埠頭に着いた。積荷の検査が終わるまで乗組員は下船を許されなかった。コンテ―ナーは二つで、それをクレーンで埠頭に降ろした。積荷はマニフェストの通り、クボタの小型乗用トラクター「ブルトラ」四機と部品で問題はなかった。武器の検査もあったが、銃庫に保管されていた自動小銃も拳銃も合法であった。他にも積荷はあったが、ノルウエー政府には、輸入しない貨物を検査する権限がなかった。入管は六人の日本人船員に下船してホテルに泊まるように勧めた。船長は、食事は外でするが船内に寝る。水も食料も重油も足りているから必要がないと言った。予定を聞くと、翌日の正午に出航して次の寄港地であるムルマンスクに向かうと言った。それも問題はなかった。国境をロシアと接するノルウエーは親露政策を取っているので、ロシアへ運ぶ積荷のマニフェストさえ見なかった。海軍士官がロシア側のバレンツ海は雪が降るから天候が良くなるまで待ったらどうかと勧めたが、悪天候には慣れているとスキッパー(操舵手)が言った。記録はそれだけであった。ただ、五人の日本人の船員は船長を「カムドク」と呼んでいた。カムドクとは、朝鮮語で師父と言う意味である。五人は船長に尊敬を持っているように思われたと主任が重松に言った。

「ポセイドンは最高時速が二十二ノット。この浮氷の中では、十八ノットだったでしょう」と海軍士官が言った。海府が携帯の計算機に数字を入れた。ポセイドンは、十月一日、ムルマンスクを出港している。ムルマンスクの軍港から北極航路を東へ行った。オスロの沿岸警備隊本部がポセイドンからSOSを受け取ったのは、十月四日の午前〇時五分だった。ムルマンスクで積荷を受け取り出航してから四日が経っていた。海府が士官に、一ノットは何キロなのか聞いた。
「1海里を1時間で行く速さを1ノット(1.852km/h)と言います。時速、32キロぐらいです。18ノットなら、一日に 768キロ進みます。潮の流れを計算しますがね」
「4x768=3072東ですか?」
「ミスター、カイフ、そうです。ポセイドンはバレンツ海のとなりのカラ海に入っていたはずです。その十月四日の夜は晴れていたんです。カラ海で遭難したとすると氷山の一つですね。そのあたりには何百もの氷山群があるんです。でも、言っておきますが、これは、あくまでも私の憶測ですよ」

米国海軍はすでに人工衛星で巨大なユージヌイ島の東の海上を捜索していた。どこにもポセイドンの姿がなかった。スピッツベルゲンに来てから三日目の正午、重松と海府が民間機でポセイドンが向かっていたロシアの軍港ムルマンスクへ飛んだ。ムルマンスクはスピッツベルゲンから千二百八十キロメートルの距離である。ポセイドンは四〇時間で着いただろう。バレンツ海はまだ氷結期ではなかった。コラ湾の南二十五キロに、セベロモルスク軍港が見えた。セベロモルスクは不凍港である。ふたりがロシア沿岸警備隊の本部ヘ行った。重松が、ノルウエー沖で消息を絶ったポセイドンの調査で来たと用件を述べて身分証を見せた。
「ミスター、シゲマツ、遠路遥々、ムルマンスクにようこそいらっしゃいました。私たちも、ノルウエー海軍の友人から報告を受けました。ポセイドンの行方を心から心配しています」

ロシアの沿岸警備隊はロシア海軍と違い親日的であった。友好国のノルウエーからきたふたりを温かく迎えた。ただ、軍港の写真を撮らないようにと注意を受けた。ふたりがレーニンツカヤ街を歩いていた。誰かが尾行していた。ホテルの部屋の電話は盗聴されていた。ふたりは気にしないことにして、セベロモルスク軍港を対岸から見た。原子力砕氷船と巨大な原子力潜水艦が停泊していた。注意された通り写真は撮らなかった。重松と海府のふたりが、ロンドンを経由して東京に戻った。報告を聞いて、海保は、ポセイドンはバレンツ海で沈没した可能性が高いと決定せざるを得なかった。沖田がポセイドンの船主を調べた。船籍は日本だが、船主はギリシア人である。積荷のマニフェストに違法は見つからなかった。沖田が疑問に思ったのは、乗り込み員である。船長は日本人だったが、航海士がロシア人、機関士二人がロシア人、後の五人が在日韓国人である。このクルーが秘密を語っていた。沖田が「密輸ではないか?」とつぶやいた。密輸ならロシアヘ運んだのではなく、ロシアからどこかへ運ぶ仕事だったのだろう。ムルマンスクの産物は魚と石炭の他、何もない。工業用重機械があるが鉄道に関するものである。それでは、何を密輸しようとしたのだろうか?沖田の部屋に情報管理室の主任が入ってきた。ロシアの海底調査船がエニセイ河の沖を航行している衛星写真を持って来たのである。晴れていたのか写真は鮮明であった。主任が写真を机の上に並べた。その海底調査船の上空にドローンが写っていた。米軍のものとは違う形の無人偵察機である。主任が沖田の顔を見た。沖田がとんでもない推測をした。密輸品は核弾頭ではないか?ロシア海軍が海域を必死になって探しているのはそれが理由だろう、、しかし、ポセイドンがバレンツ海か、カラ海の海底に沈んでいるとすれば、あまりにも広大な海域なのだ。未来永劫、発見することは出来ないだろう。沖田が卓上電話を取って交換手に警視庁の国際刑事部へつなぐように依頼した。重松が咳をする音が聞こえた。やはり風邪を引いたようである。重松が耳を受話器に付けて沖田のとてつもない推測を聞いていた。重松と海府がコートを着てマスクをすると、裏庭を横切って海保に行った。

「沖田さん、核弾頭の密輸ですか?すると、ロシア海軍も同じ海域を捜索するのは当然ですね。だが積荷が核弾頭としたら配達先はどこだったんでしょうかね?シリア、パキスタン、イラン、北朝鮮が考えられますね」
「重松さん、私も、それを考えていた」
三人がデスクトップのスクリーンのマップを見ていた。
「う~む、シリア、イラン、パキスタンなら黒海からイスタンブールの海峡を通って運ぶでしょう」
「ここにいる海府君もそう言ってます。では、北朝鮮だとおっしゃるんですね?でも配達先が北朝鮮ならウラジオストックが手っとり早いと思いますが?」
「いや、重松さん、ロシアは核兵器の開発を極東ではやらないんです。攻撃されやすいからですね」
「はあ?なるほど」
「次長さん、ポセイドンが夏の二か月間しか通れないという北極海航路を取った理由を説明してくださいませんか?」
「海府さん、良い質問ですね。北極海航路というのは、工業都市のムルマンスクから北極海を東へ横切って、六〇〇〇キロ東のアラスカとシベリアの間のベーリング海峡を通る。北太平洋に出て、シベリア沿岸を南西に下る。樺太の間宮海峡を通って、日本海に出る。北朝鮮の元山軍港で核弾頭の入ったキャスクを降ろす。ロシア連邦の領海に近いEEZを航海すれば米国海軍の臨検の恐れはない。季節が結氷期ぎりぎりでも、これが最短距離ですからね。全て計算したはずですよ」
「元山ですか?万景峰号の母港ですね?」
「重松さん、北朝鮮はここだけの話しにしてください。証拠がないんですからね。それにポセイドンはカラ海で遭難したんです」
「すると、沖田さんは、ポセイドンは座礁したとお考えですか?」
「いえ、重松さん、いろんなシナリオが考えられるんです」
「例えば?」
「SOSが芝居だとすれば?」
「芝居?沖田さん、ポセイドンの船長を調べましたか?」
「神喰太刀(かみじきたち)という四十八歳の人です。東京商船大学を優等で卒業された優秀な航海士だったそうですよ。昔の日本海軍なら大佐級と言ってました。ポセイドンの前乗組員だった日本人船員が、キャプテン神喰は、部下には優しかったが規則に厳しい人だったと言っています。職歴にも傷がない。犠牲になったと思いますよ」
「神喰太刀ですか?珍しい名前ですね」
「新潟県長岡の人ですが、横浜の山手町に家を持っているんです」
「その横浜の自宅を訪ねる必要がある。それは捜査一課の仕事なんです。沖田さんは、ロシア語はできますか?」
「いや、いや。ロシア語はとんでもない言語です。海保にはロシア語が堪能な方がいます。国際情報収集室ロシア課の白樺仁(ひとし)係長はモスクワ大学の文学科を出たユニークな人です」
「沖田さん、その白樺係長さんに一度、会わせてください」
「重松さん、お風邪が治ったら海保においでください」

続く
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04/08
消えたポセイドン  第一話 第一章
消えたポセイドン

「正面に氷山が見える。取り舵いっぱい。十八ノットに落とせ!」
「了解。左方向三〇度。ノルウエー海域に入る」
「ヨーソロー」
「船長、水深一〇〇メートル。ロシア沿岸まで六〇キロメートル」
「機関を停止しろ!投錨しろ!」
錨鎖がガラガラと音を立てて海中に消えた。探照灯を点けた貨物船が暗い波間に上下していた。

第一話
第一章

西暦某年十月一日、ポセイドンがロシア連邦のムルマンスクを出港した。バレンツ海に出るとポセイドンは東に向かった。白海の奥にあるセベロドビンスク原潜軍港に立ち寄ってクボタの重機を降ろすためである。ムルマンスク・ツンドラ国立公園がある岬を回ると白海と呼ばれる巨大な湾がある。湾口から四〇〇キロ奥にセベロドビンスク軍港がある。ポセイドンは、十月三日の正午、セベロドビンスクの桟橋でコンテ―ナー三個を降ろすと、一四〇〇キロ東のユージニイ島ヘ向かった。この島の南端とロシアの海岸の間の狭い海峡を通るとバレンツ海からカラ海に出る。この航路は北極海航路と呼ばれている。まだ結氷期ではないが天候が変りやすく流氷が漂う危険な海域なのである。

「ポセイドンの船足では、北大平洋に出るまで二十日はかかる。東シベリア海は凍っているだろう、、ここが正念場だ」
「カピタン、カミジキ、心配するな!レーニンが砕氷しているんだ」
レーニンとは、ソ連時代に開発された原始力砕氷船である。船長の神喰(かみじき)がスキッパー(操舵手)のプチャーチンを見た。
「トバリシ(同志)、死ねば、もろともだ。俺たちは北極海を航海したことがないのだ。俺たちの運命は、お前の腕に掛かっている。機関士の二人は若いが大丈夫なのか?」
「フショー フ、パリャートゥキェ(大丈夫)。ロシア海軍の優等生だよ」

セベロドビンスクから白海の湾口まで十二時間の航海である。神喰がプチャーチンに操舵を任せて食堂ヘ降りて行った。神喰が鍋からハンバーガーステーキを皿に取ると、床に固定された椅子に座った。神喰がランチを食べていた航海長の斉木と四人の部下に話し掛けた。
「斉木、俺たちは、北朝鮮の元山港で殺されるだろう」
五人がフォークを置いて神喰の目を見た。十八歳の孫(そん)が殺されると聞いて水の入ったコップを床に落とした。
「カムドク(親方)、それなら先に殺りましょう」
「斉木、白海を出たところで決行しよう」
「カムドク、わかった」
「孫、十日分の食料と防寒具を用意しておけ」
「はい、師父、救命ボートに入れておきます」

孫と呼ばれた少年は神喰を師父と呼んだ。白海の湾口に向かって探照灯を煌々と点けたポセイドンは快適な航海をしていた。白海は波浪が低く穏やかな海なのである。セベロドビンスクを出航してから六時間が経った。行き交う船はなかった。ロシア人たちと日本人船員が代わった。神喰が舵輪を取った。五時間後、ポセイドンが白海の出口に接近していた。間もなく真夜中だが、ぼんやりと太陽が水平線上に出ており十月の北極の空は薄明るかった。ここからバレンツ海なのだ。氷山を見張るために、休息していた三人のロシア人の船員も甲板に出た。神喰に代わって金本が舵輪を握った。金本は神喰が手塩にかけて育てたスキッパー(操舵手)である。
「金本、正面に氷山が並んでいる。取り舵いっぱい。朝岡、十四ノットに落とせ!」
「ヨーソロー」
金本が取り舵いっぱいに舵輪を廻した。それでも潮に戻された。甲板でロシア人の船員が目の前に聳える氷山を見て怯えていた。一連の銃声が聞こえた。甲板に三人のロシア人船員が倒れた。大型拳銃を腰のケースに戻した斉木と李が男たちを暗い海面に投げ込んだ。
「斉木、李、おまえたち良くやった。金本、船を一八〇度、廻せ!全速力で海域を離れろ!ノルウエーヘ行こう」
「ヨーソロー」
二十四時間後、ポセイドンがノルウエーの海域に接近していた。さっきまで水平線に見えていた太陽が消え、辺りが真っ暗になっていた。
「カムドク、水深一〇〇メートル。ロシアの沿岸まで六〇キロメートル」
「李、機関を停止しろ!投錨しろ!俺と斉木がキングストン弁を抜く。朝岡、孫、お前らは、救命艇を用意しろ!」
神喰と斉木が鉄の梯子を両手で掴むと船底に下りて行った。斉木が両手で鋼板の把手を掴んで開けた。神喰と斉木が目を合わせた。長い付き合いだったポセイドンとのお別れなのだ。一瞬、感傷が神喰の胸の中を走った。時を置かず神喰がキングストン弁を廻して抜くと、海水が吹き上がった。ガラガラとチェーンの音がした。探照灯を点けた貨物船が暗い波間に上下していた。
「カムドク、ラフトの準備ができました」

神喰と五人の船員を乗せたラフトがポセイドンを離れた。五〇〇メートル走ったところでラフトを停めてポセイドンを振り返った。六人の目前でポセイドンが船尾から真っ逆さまになって海中に消えた。五時間後、六人を乗せたラフトがロシアの海岸に着いた。弱々しい太陽が東の平原に昇ってきた。岸に船着き場が見えた。ラフトを桟橋に着けると荷物を担いで降りた。突然、陽が陰ったと思うとバラバラとみぞれ混じりの雨が降ってきた。防寒具を頭からすっぽりと被った六人が雪原を内陸の村に向かった。神喰が腕時計を見ると、十月五日の朝七時であった。

続く

自由学校

15年間続けて来た「隼速報」を「自由学校」と改名しました。自分の書いたノベルやミュージックや動画を載せます。理由は、伊勢は6月に80歳となり、アメリカ事情や政治経済のテーマから卒業したいからです。読んで頂いた方々への感謝は変わりません。日本の繁栄、日本人の幸せを祈っています。「自由学校」は伊勢の生き様と思ってください。人間は自由に生きる為に生まれてきたと伊勢は信じています。みなさんも、是非、自由に生きてください。それが究極的には国の為になるからです。伊勢平次郎
04/06
警戒感だけでは足りないでしょ?


わが父は大正海軍の軍艦扶桑の水兵だった。従弟には戦艦大和の生き残りもいる。これを言っても日本人は政官民共に意見さえも言わない。意見がないということは、意思を喪失しているしているということです。全ての分野にこの傾向が広がっている。大衆の関心は魚の捌き方や一過性の事件に向かっている。そこには永久の価値を考える姿勢が全くない。

警戒感ではなく自衛隊制服組と話すこと、、

いくら防衛大臣が一人で悩んでいても埒は開かないでしょ?菅が自衛隊の海将や空将を官邸に呼んで話し、それを国民に知らせるぐらいしなさいよ。国民は大臣様の「懸念」には飽き飽きしている。

戦闘になれば海自は必ず勝ちます、、

理由は実戦経験があるから。支那人というのは水死をこよなく恐れる民族なんです。水死すると地獄へ行くという考えなんです。日本人には勇気がある。誇りを持て!伊勢
04/04
ケヤキの森のルノワール  第十五章~終章
第十五章
「先輩、月野は二人の女性を殺害したのです」
驚くようなことを知念が言った。
「そのもうひとりの女性とは誰なのかね?」
「先輩、本牧の宍戸病院を覚えておられますか?」
「全国一の司法解剖病院を忘れるわけがない」
「ボクは、先輩のパートナーになってから最初に宍戸病院に行ったんです」
「ほう、どうして?」
「この十四年間に多摩川付近で自殺があったかと聞いたんです。宍戸さんは自殺ではないが奇妙な事故死を知っていると言ったんです」
「それは何かね?」
「先週の日曜日、深沢良子という五十歳の主婦が武蔵溝の口の踏切で南部線に轢かれたんです。深沢の長女は狸穴女子美大の二年生だった」
「ええ~?」と佐伯が叫んだ。
「目撃者の証言ですが、その日の夕方は雨が降っていた、、二人の女性が南武線の踏切の前で雨傘をさして話していた。ひとりは赤い傘で、もうひとりは黒い傘だったそうです」というと佐伯がびっくりした。
「どうして踏切にいたんだろう?」
「遮断機が閉まっていたからなんです。そこへ向こう側の線路に上り川崎方面行き特急が通過した、、黒い傘の女性が赤い傘の女性にお辞儀をすると踏切から逆方向に立ち去った。すると赤い傘の女性が遮断機を潜って線路に入ったんです。深沢良子が下り立川方面行き特急に跳ねられて即死した」
「う~む」
「その黒い傘の女性は月野すすきだと推測出来ます。多分、月野は偶然に深沢と魚屋で会ってしまった。ふたりを魚屋で見たという証言があります」
「そこで、月野は住所が判ってしまうことを恐れて深沢良子に催眠術を掛けたんだろう。知念君、君がボクのパートナーになったことが迷宮入り事件を解決した。有難う。これで退職が念願成就する。やはり若い人は、年寄りと違う視点を持っているんだね」

終章
報告を出してから三日が経った。
「会議室へ来てくれないか?」と品川万年課長から電話が入った。会議室に入ると仁科がいた。
「佐伯君、知念君、仁科課長からお話しがある」
事務員がお茶を持ってきたので四人が沈黙していた。事務員が出て行った。
「佐伯君、月野すすきは冤罪なんだよ」と仁科が佐伯と知念を驚かした。
「俺は、君から表札が月野ではない女性の名前と聞いて新宿SM事件のふたりの女を想像した。未解決事件の真相が解明する可能性があると横浜地方裁判所から許可を貰った。事情聴取に刑事をやった。君たちの報告通り、女性の職業は地方銀行の窓口嬢、宮城ちえみという四十歳の独身者だった。刑事は廊下に亀の形の灯篭がいくつかあったと報告した。宮城を任意聴取で警視庁に呼び出した。月野は宮城ちえみと同性愛の関係を持っていた。世間に知られれば狸穴美大の職を失う。それが理由で祖師谷大蔵に住所を置いていた。月野は時々アパートに帰っていたと宮城が言った。宮城は月野と二〇年の関係があった。催眠術のことを訊くとポカーンとしていた。事件が起きた年の秋、月野は山形玉夫が尾行していることを知った。不思議なルートで玉夫を巻いた。今年、二〇〇八年の七月、月野の絵がパリのルノワール展に入選した。あのジョーロを持つ浴衣の女性は国東唐鬼画伯のスケッチの一つで山形和子から一九九四年の四月に勉強のためと預かっていた。和子にも同性愛の傾向があった。和子は月野に惹かれていたので、二の返事で貸した。預かった瞬間、月野は自分もこの絵を使えば、ルノワール展に入選できると考えた。和子が返還を要求した。丹沢から帰った和子と月野が登戸駅前のスターバックスで会った。月野が国東唐鬼の名を出した。月野は銀座の画廊にたまたま入って国東画伯の作品を知った。和子が真っ青になった。和子がふらふらとスターバックスを出て行ったと店員が証言している」
「課長、何故、ボクたちに知らせてくれなかったんですか?」
「催眠術にのめり込んでいる君たちの結論を待っていたんだよ」
――やっぱり催眠術なんて考えたのは愚かだったと佐伯が反省していた。
「では、仁科課長、深沢良子ですが何故、遮断機を潜って線路に入ったのでしょうか?」
「黒い傘の女性が名乗り出たんだ。近所の主婦だった。深沢良子は上り川崎行きが通過したので遮断機を潜ったんだろう。急いでいる人はよく、そんなことをするんだ。雨が降っていたから電車がカーブから接近するのに気が着かなかったのかも知れない」
「すると、山形和子は自殺だったんですね?」と知念が言った。その知念の声には、信じられないという響きがあった。
「その通り」と仁科が答えた。
「でも、課長、赤いランチュウが口に入っていましたが?」
「知念君、和子は密(ひそか)に惹かれていた月野に裏切られた。愛が憎しみに変わった。月野への復讐を考えた。そこで他殺に見せ掛けたかった。和子は遊園の入り口の鉄柵に登山ロープを掛けた。軽々と乗り超えただろう。そして和子はケヤキの森に行った。途中、池で赤いランチュウを捕まえたんだよ。それを口に入れれば、捜査当局は月野すすきに疑惑の目を向けると考えたんだ」
「課長、すると、山形和子は月野すすきを自殺に追いやった?」
「知念君、和子は、月野は自殺すると確信があった。計画殺人の一種なんだが、立証できるわけがない。つまり二件とも自殺という結論しかない」
「しかし、ボクが検事正に相談したことが月野を死なせてしまった」と品川が肩を落とした。
「いや、品川君、月野すすきは、いずれにせよ自殺しただろう」と仁科が万年課長を労わった。

ふたりの刑事が小田急に乗って登戸に着いた。知念が佐伯に泊まりにくるように招待したからだ。佐伯が妻に電話を掛けた。
「佐伯先輩、和子のニコンは盗難に会ったという結論ですか?」
「そう、新大久保の質屋で見つかった。山形和子は、月野と対決することに気を奪われていた。カメラが無くなっていることにも気が着かなかったんだろう」
「刑事の思い込みは判断を誤るということですね」
「そうなんだよ。ボクはよく仁科課長に注意されたもんだ」
「先輩は退職されたら何をされますか?」
「いやあ、刑事を四十年もやったんでツブシが効かない」と佐伯が苦笑した。知念が、上司の髪が白くなっていることに気が着いた。
「ご先輩は盆栽や金魚池には向かないと思いますよ」
「これから考えるとしよう」
「ひとつアイデアがあります」
「それは何かね?」と佐伯が興味を示した。
「写真家です。ご先輩は写真に関心を持たれたからです」
「あのペンタックスは面白い。ところで、知念君、迷宮入り事件解決の祝賀会をやろうよ」
「どこへ行きますか?ボクは登戸から一刻も早く離れたいんです」
「中野島の駅前に川魚料理と看板が出ていた」
「ああ、あれは割烹ではなくて居酒屋なんです」
「それは願ってもない。多摩川の魚はごめん被りたい」と警部が笑った。
「でも、ボッタクルので有名ですが?」
「いいんだよ。勘定を水増ししたら警察手帳を見せるから。それにだね、退職金が出てからでは遅い。家では、カミさんがボスだからね」
「ウチでも食えますが?」
「いや、節子さんを呼んでくれ」
ふたりの刑事が、JR中野島駅に着いた。知念が丹沢を見ると三の塔の上に白い雲がぽっかりと浮かんでいた。そしてその雲が、ジョーロを持つ少女の顔に見えた。ふたりの刑事が居酒屋の暖簾を手で分けた。

               完

読後の感想をお待ちしてます。伊勢



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ケヤキの森のルノワール  第十三章と第十四章
第十三章
「知念君、これで事件解決とはならない。なぜなら、山形和子の自殺の謎が解けていないからね」
「まず、和子のリュックから出てきたミノックスという超小型デジカメですが、和子は意外にも多くの写真を撮っています。気になるのは、子供たちの写真です。望遠レンズで撮ったと思われます」
「あれは高価なカメラだった。試作の頃だから、五百万円はしたはずだ。母親に聞いたんだが、そんなカネを出すわけがないと言ったんだ。国東唐鬼画伯が和子にくれたとも考えられるが、画家ちゅうのはケチなんだよ。日展に入選した絵の賞金か、自分でコツコツ貯めたカネで買ったんだろう。被写体を子供に選んだ理由は何だと思う?」
「考えられるのは子供たちが着ている服です。クローズアップで撮っているからです」と知念が佐伯に見せた。
「ははん、色彩だね」
「そうです。あの日本女性の浴衣の金魚やジョウロ、萩の花の着色です。これを持ち帰って絵の具を練るわけです」
「三の塔ではキャンプをしたんだろうか?」
「和子は簡易テントを持っていました。丹沢には一人で行った可能性があります」
「知念君、月野すすきが山形和子を殺したかった理由はわかるが、和子はどうやって首を吊ったんだろうか?」
「催眠術です。ご先輩がエイっと拳を降ろしたときの月野の反応です」
「あの番組を見て、まさか催眠術じゃないだろう、と思ったけど、超自然能力を証明する方法はないよ」と佐伯が言って黒板にチョークで疑問点を書いた。

一、 憶測と想像で捜査をした部分。
*われわれは、テレビの番組に影響されていないか?
*佐伯が催眠術のしぐさをしたとき月野が強烈な反応を示した。単に驚いたというだけなのかも知れない。
*和子のニコンFは月野の祖師谷大蔵のアパートにはなかった。
*月野が持ち去ったというのは憶測である。
  *同棲していた宮城ちえみに訊くと「ニコンF?」と怪訝な表情だった。

二、 事実として認識していること
*催眠術師に当たったが、月野が催眠術を習ったという証言がない。
*尾行する山形玉夫に催眠術を掛ければ済むのに月野は電車を乗り換え続けた。
*美術大の女学生が不思議な体験をしたとは聞かない。
*月野の絵はありきたりで、超自然能力を持つ者の絵とは思えない。
*今の時点では宮城ちえみを聴取できない。
  *和子の持っていた携帯は削除してあり記録を残さなかった。

「だがね、知念君、新宿SM事件も赤城神社主婦失踪事件も説明がつかなかった。 実に不気味な事件だった。何か普通の人間には理解できない魔法の世界がある。やはり催眠術かも知れない」
「先輩、南多摩署の婦人警官をふたり借りました。明日、ケヤキの森へ行きましょう」
「でも、あの北の門はどのようにして開けたのかなあ?」
「合鍵です」

第十四章
「和子が月野にスケッチの返還を要求した。月野が和子を殺す決心をした」
「知念君、それはボクでも想像が着いていた。でもあの裏門からどうして入ったんだろう?」
「月野は警備員が門を閉めに来る時間を知っていた。その警備員に声を掛けた。警備員は美女が一人で裏門に立っていることを不思議に思ったでしょう。月野が警備員に催眠術をかけた。警備員が眠っている間に粘土で鍵の型を取った、、」
「なるほどね。でも、それと首を吊ったことと、 どう関連させるのかね?」
「登戸のスターバックスでチーズケーキを食べて出た後、小田急で六キロ西南の向ヶ丘遊園に行った。多分、和子はすでに催眠術を掛けられていたでしょう」
ふたりが話していると二人の婦人警官がやってきた。管理人に要件を話した。そして観覧車のあった所に行った。佐伯が婦人警官に催眠術を話した。婦人警官たちが驚いた。婦人警官二人、佐伯、知念、警備員の五人が裏門から遊園に入った。知念が丸椅子を手に持っていた。ブナの林道を南の正門に向かった。ケヤキの森に入った。知念が腕時計を見ると一時間かかっていた。ケヤキの森の向うに観覧車の跡が見えた。五人が朽ちて倒れた楠の木に腰かけた。
婦人警官Aが月野すすきになり、Bが山形和子となった。
「ねえ、和子さん、あなたは、もうすぐ天国へ行けるわよ」と婦人警官Aが囁いた。
「月野先生、有難う」
「金魚を口に入れて椅子に上りなさい」
婦人警官Bが口に何かを入れる演技をして丸椅子に上がった。
「ロープに頭を入れて、首に結んで頂戴、、」
Bが用意したロープの輪の中に頭を入れた。そしてロープを両手で持って首に結んだ。
「さあ、和子さん、そのロープをケヤキの枝に結んで頂戴、、」
「ストップ,ストップ」と知念が腕を交差させて自殺の再現劇を停めた。五人が事件の全容を知った。

次回で終わります。伊勢
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