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管理人は、アメリカ南部・ルイジアナ住人、伊勢平次郎(81)です。
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05/31
16人のロビンソン・クルーソー
south pole

十六人のロビンソン・クルーソー

第一章



丸山金太郎さんらが、進水した百八十トンの遠洋マグロはえ縄船に大王丸と名を着けた。丸山はマルキンさんと呼ばれていた。マルキンさんは三重県志摩郡安乗(あのり)漁協組合の組合長である。乗組員十六名、最高速度が十五ノット。巡航速度は十二ノット(時速二十二キロ)である。マルキンさんの長男、丸山甲子男(きねお)が船長である。甲子男は、戦艦大和の生き残りであった。甲子男は終戦後、気仙沼へ行って遠洋はえ縄マグロ漁船の機関士になった。ミクロネシアへ南下する途中、沖縄本島が見えた。大和が沈んだ海に向かって手を合わせた。甲子男はカネが貯まると、鳥羽水産学校へ通って外洋漁船航海士の免許を取った。嫁も貰って娘が生まれた。

この昭和三十三年、戦艦大和の機関兵は三十一歳となっていた。丸山甲子男の叔父さんである丸山源太郎(39)が航海長、鵜飼玉夫機関士(38)の三名だけがライセンスを持った遠洋航海経験者で、あとの十三名は、フグ、アジ、イワシ、サバなどの小魚を取るパンパン船の漁師たちか、はえ縄マグロ漁船の新人たちである。

「安乗(あのり)の者は海に出るしかないんや」とマルキンさんが常に言っていた。農地が不足する安乗の生活源は海である。奈良平安の時代より男は漁師になり、女は海女となって海に潜った。終戦後、マルキンさんらは、遠洋はえ縄マグロ漁船が儲かると知っていたが、巨額の資金を必要としたし、株式会社を起こさなければ成立しない。大洋漁業などの大手は政府の助成金を得て、鯨も、マグロも独占に近い状態だった。安乗漁協は、資本を日本全国の漁港から集めた。マルキンさんらは、「われらは九鬼水軍の末裔である。織田信長の時代より安乗の漁師は肉体、精神ともに剛健である。南太平洋、インド洋、ハワイ、赤道を超えて南極の近くまで行くし、必要とならば、アフリカ沖のモンパルマスまで行く覚悟である。つまりわいらは勇者である」と唄って資金を集めた。マルキンさんが、三百トンよりも百八十トンは近海にも適しているし、遠洋航海も可能だと考えた。だが、三菱のジーゼル六気筒が必要で、船長、航海長、機関士は免許証所持者でなければならなかった。
マルキンさんは、新造船を宮城県の気仙沼造船に発注した。気仙沼を母港にした。乗組員に欠員が出ても、気仙沼なら募集が出来たからである。昭和三十三年の秋、大王丸が処女航海に出た。大王丸は、はえ縄の練習を兼ねて三陸沖から北海道の函館沖でクロマグロを追った。はえ縄漁の経験があるのは漁労長と船長の甲子男だけであったが、乗組員は、はえ縄を海面に流す度に外洋に慣れて行った。近海マグロと言っても、漁場は北西太平洋と南太平洋のミクロネシ アやマーシャル諸島、ソロモン諸島近辺まで広がっていた。「はえ縄」は、長いものでは一五〇キロメートル以上。針のついた「枝縄」の数は二〇〇〇本以上になる巨大な釣り糸である。餌を付けながら仕掛けを次々と海に流す作業だけで五時間に及ぶ。「はえ縄」を流し終わったら、魚が掛かるのを待つあいだ仮眠をとる。そして、待つこと約二時間、揚縄が開始される。機械が縄を巻き取るなか、魚が掛かっていれば人間の手で引き上げる。漁獲作業に四時間かかることも少なくない。操業を繰り返し船倉がいっぱいになったら帰港する。漁の期間は大体、三〇日から一二〇日である。

十六歳の大形陸男は、まだ少年だった。「リク」と可愛がられた。リクのほかに十七歳のマコト。十八歳のタツオが補助作業を担った。この三名は出港前の食糧や水の積み込みの手伝い、「はえ縄」を投入する際の補助作業、甲板に上がった漁獲物を魚槽に収める仕事など、新人は漁の補助と雑務をこなしながら仕事を覚えていく。新人の仕事は、比較的に安全なのだが、数時間以上ぶっ通しになる漁獲の作業や水揚げ作業が体力的にはいちばんきついのである。リク達三名には、船上では見張り役や漁具の手入れなどの軽作業もあった。

マグロの王様はクロマグロである。日本近海での漁期は六月から十月である。最盛期は七月と八月である。だが、寒い時期のモノほど油がのっていて美味いとされている。大王丸が築地でマグロを降ろすと、焼津に行って、船体の点検、ジーゼルと発電機の点検、はえ縄の修理を行った。十一月の初旬、大王丸は、南太平洋に足を延ばすことにした。ニューカレドニアヘ行って、ミナミマグロを取った。年末に大王丸を気仙沼港に投錨すると安乗ヘ戻った。水揚げも良く、乗組員に事故もなく、病気も出なかった。乗り組員にボーナスを払った。リクが生まれて初めてボーナスを貰った。

昭和三十四年の元旦、大王丸が宴会を開いた。

「甲子、今度は何処へ行くんか?」とマルキンさんが聞いた。

「お父さん、水産庁が、メバチ、ビンナガならハワイ沖。赤道を超えて、ニュージーランドから南氷洋ヘ行けば、ミナミマグロが時季やと言うとるわ」

「ミナミマグロの方が値段がええけど、赤道の南か、、ちょっと遠いなあ。船と船員保険も上がったしな」

「そんなら、ビンナガ追ってハワイヘ行く。わしら、南氷洋は行った事がないし、海難事故にでも遭ったら、二度と日本の土を踏めへんで」と航海長のゲンさんが言った。




昭和三十四年の旧正月が来た。その日の朝、大王丸が気仙沼を出港した。ウエーキ島の沖で、二千本の針の着いた枝縄を海水に降ろした。六時間後、はえ縄を引き揚げると、メバチが掛かっていたが、頭だけである。

「シャチや!」

ミッドウエーの沖で、はえ縄を張った。

「また、シャチや!」

「甲子ちゃん、これやとハワイもあかんやろ」と漁労長が首を振っていた。ゲンタロ航海長が短波で「今日も、シャチ被害大なり」と安乗の漁協に伝えた。

「そんなら、マーシャル群島ヘ行こか?ビンナガやけどな」

「いや、甲子ちゃん、思い切って赤道超えて、ニュージーランドの南ヘ行かへんか?」と機関手の玉夫がアイデアを出した。

「水温が一〇度前後やから、ミナミマグロが食い着くでえ」と航海長が言うとみんなが賛成した。ミナミマグロを築地に水揚げするときは値段がホンマグロと同じだからである。十七人の男が興奮していた。行った事がない赤道の南ということもあった。

「こら、リク、マグロの違いは判るんか?」と初老の漁労長が陸男にマグロを講義した。

「親方、そう言わんと、教えてんか?」

「あのな、まず、クロマグロ、ミナミマグロ、キハダ、メバチ、ビンナガを憶えとけ」と船室の壁に貼ってあるマグロ魚鑑を指さした。

「親方、そんでも、伊勢の漁師はそう言わんへんで」

「ああそうか。シビ、ヨコワ、トンボ言うからな。それにミナミマグロをインドマグロと言うたり、青ひれマグロとも言う。ミナミマグロは高級マグロや。クロマグロよりまろやかなんや。中トロの味は変わらんが、赤身の発色が少々違う。平均体長が、二四〇センチ。体重は、二六〇キロにも達するんや。ミナミマグロは、日本で、ほとんど消費されるんやが、ミナミマグロ専用のはえ縄マグロ船は、四〇〇トンもある大型の船なんや。大企業が船主やかんな。レーダーも着いとるしな」

「親方、そのうち、安乗も四〇〇トンを買うようになる。だから、赤道の南ヘ行くんや」と船長の甲子男が言って胸を張った。

「甲子ちゃん、タスマニアとニュージ―ランドの南のどっちへ行こか?ニュージーランドの南は、魚影が濃いと水産庁が言うとった。そやけど、その南は南極やで。タスマニアの方が安全やけど、アホウドリが釣ったマグロを食い荒らすんやそうやで」

「親方、それに、漁期は、二月から五月やから。築地へ三回ぐらい戻って水揚げできるやろ。これは大ガネになるで」

気仙沼を出てから十日が経った。大王丸は、5476キロ南へ来ていた。北緯〇度、東経 一六〇度である。

「リク、ここが赤道や。あの島はな、ブーゲンビル島や。山本五十六大将の墓場なんや」

リクが寒暖計の水銀を見た。二十五度である。

「そやけどな、南極に近着けば近着くほど寒うなるんやで」

一月二十日、航海長がニュージーランドのクライストチャーチの港湾局と話した。英語ができるのはゲンタロ叔父さんだけであった。船名、乗組員とライセンスナンバーを伝えた。食料、水、重油を積むためである。大王丸はクライストチャーチを出た。水温を図りながら南へ五百キロ行くと鯨が潮を吹くのがあちこちに見えた。大王丸が捕鯨船の極楽丸と交信した。甲子男が速度を時速二キロに落としていた。リクも入れて 十四人の乗組員が、はえ縄を海面に流した。やはりマグロ漁場図が正しかった。連日、大漁であった。陸が遠いからかアホウドリも飛んでこないし、シャチも姿を見せなかった。

「甲子ちゃん、これやと、四月の始めには焼津ヘ戻れるな」

「叔父さん、水揚げ済んだら、またここへ来ようや。五月に一旦、引き上げやな。ミナミマグロは、五月でお終いやから」

大王丸が船腹をマグロで、いっぱいにして三月の三十日に焼津ヘ戻った。十五日後の四月十四日、大王丸がニュージーランドの南五〇〇キロの漁場に戻った。漁労長が、マグロの数が減っていると甲子男に言った。




「甲子ちゃん、これやと、五月の三十日になっても、船は、いっぱいにならんで」
漁労長の言う通りになった。五月の末日になっても漁獲量は半分であった。

「叔父さん、どうしよう?」

「甲子ちゃん、水温が上がっておんのや」

「南へ行ったら獲れるんか?」

「南氷洋へ行けばおるやろな」

ふたりは、そのときは、まさか、あんなことになるとは思わなかったのである。

六月に入った。大王丸がニュージーランドから一〇〇〇キロ南に来ていた。水温が十二度でマグロが好む温度である。やはり、三日、連日の大漁であった。

「甲子ちゃん、これやと八月には焼津ヘ帰港できるなあ」

ところが、六日目、二〇〇〇本の針に一匹も掛からなかった。

「漁労長、マグロは何処へ行ったんやろか?」

「水温が十五度に上がっとる。南へ行ったんや」

大王丸は西経一八〇度線を南に下っていた。南緯は五〇度であった。これは、南極海の真っただ中ということである。そこからさらに南は南氷洋である。

「船長、これ以上、南は怖いで。氷山が浮かんでおるやろ」とゲンタロ叔父さんが、甥の甲子男を船長と呼んだ。「お前は、十六人の命を預かる船長やで」と言いたいのだろう。

はえ縄を五時間掛かって南極海の海水に流した。二時間後、引き揚げると五〇本ほどのミナミマグロが掛かっていた。どれも、体重が二〇〇キロを超えていた。その海域で、三日間操業した。船倉にはまだ余裕があった。四日目の午後、気温がグンと下がった。寒暖計は氷点である。そのとき、短波ラジオに捕鯨船団から警報が伝えられた。ゲンタロ航海長が、西経一六〇度、南緯六〇度と知らせた。

「ビー、ビー、ビー、、大王丸、それより南は氷山の棚が横たわっている。北へ進路を取られよ」

「ビー、ビー、こちら大王丸。警告了解。だが視界が悪い。航速五ノットで朝まで北へ徐行する」

「ビー、ビー、、航海の安全を祈る」

甲子男が、父親に同じ状況を伝えた。だが、それがマルキンさんが聞いた息子の最期の声となった。

六月の八日、霞が関の海上保安庁が捕鯨母船、極楽丸から報告を受けた。大王丸が応答しないと言っていた。三十分後に安乗の漁協から緊急報告があった。大王丸の音信が途絶えてから五時間が経つと言っていた。海保の海難事故課が色めき立った。乗組員名簿が気仙沼からテレックスで届いた。

「船長、この暗い海では何が起きるか判らん。わしは、氷山が怖い。方向を北へ取ってからいくらも進んでおらん。嵐を予期せんかった。さっきの大波で短波ラジオのアンテナが壊れてしもた」と荒海の男、ゲンタロ叔父さんが恐怖に襲われた顔になっていた。

「叔父さん、波が鎮まったら直せるやろ」

「甲子ちゃん、そやけど、わしら西へ流され取るで。嵐が続けば捜索機は来んやろな。さらに、雪まで降って来た」と髪に白いものが混じった漁労長が悲痛な声を出した。日本に残してきた家族を思っているのだ。

続く

05/31
アメリカCOVID19感染激減する、、
covid cases 5.30.21

(CDC発表)今年2月8日、感染者300,264だった。昨日、5月29日、11,590。約30万人から1万2000人以下となった。なんと96%も減少したわけです。アメリカのワクチン接種は約45%。バイデンは、8月中に全国民の接種を終わらせると言っている。バイデンは、デタラメを言わないので、出来るまたは、7月中に終えると思うね。

いつ普通の生活に戻る?

これは答えるのが難しい。コロナが収束すると規制が緩和または撤廃されるけど、失業者はまだ増えている。雇用を戻すには、政府の巨大な支出が必須なんです。バイデンは、660兆円($6 trillion)を提示したけど、共和党上院が反対すると3分の2に届かない。これに反対すると、ほぼ共和党は中間選挙で票数を大きく失うんです。ちょうど、菅内閣(自公連立)が直面するのと同じです。日本の国民は激怒しているからです。

菅・小池の緊急事態延長は音痴、、

渋谷の交差点を歩いている人達はみんなマスクをしている。日本人は自ら率先してコロナと戦っている。これほど民度が高い民族は世界にない。日本人はお互いを激励しあって、普通の生活に戻って良いと思う。飲食業、酒の問屋、文化遺跡、公園、、小池百合子の要請に応じる必要はないです。みんなが自由に歩く動画を見て、外国人は来ないことも考えられます。伊勢は五輪開催反対なんです。アメリカのコロナ状況は改善されていると言っても、選手はワクチンを打っても日本に来ない方が良いのです。五輪の欠損よりも多くなものを失うからです。伊勢

オー・マイ・ガー、、



伊勢夫婦は明後日、メイン州へ魚介類を食べに行く。伊勢坊の80歳の誕生日だからだ。床屋へ行くことにした。しかし考えるとまだまだCOVIDは怖い。そこで、青い目のかみさんがカットしてくれた。げげげ、、これではマッシュルームではないか?

05/28
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
最終章



翌日の午後、領事館ヘ行くと、カレンが待っていた。
「領事が早引きして良いっておっしゃったのよ。みんなでトトロに行かない?」とカレンが長谷川の顔をみた。山中武官がトトロに連れて行ってくれた。イワノフが「オーチン、ハラショー」と豪快に笑った。この二人は飲むとなると仲が良かった。宴会が終わると、カレンが「今夜、うちに泊まって?」と長谷川に言った。山中武官が、磯村、イワノフ、ウランをダットサンに乗せて行った。長谷川とカレンが残った。ふたりは手をつないで南崗区の館へ歩いた。
玄関で、イリアが出迎えた。ヤコブが居間にいた。

「長谷川さん、お座りください」とヤコブがブランデイをキャビネットから持ってきた。長谷川は、ヤコブが深刻な話をすると直感した。
「長谷川さん、私たちは、もはやハルピンに住んでいることは出来ません。ドイツ、ポーランド、ロシアでユダヤ人狩りが起きています。彼らは、イタリアのジェノアから船で、キューバやアルゼンチンや上海の日本租界へ逃げているのです。このハルピンにもユダヤ難民が押し寄せてきます。島原領事さんがわれわれを助けてくださっているのです」
「この館はどうするのですか?」
「満州人の一家に売る話しをしています。これも領事さんのご紹介なのです」
「その先は何処へ行かれるのですか?」と長谷川が言ってからカレンを見た。カレンが泣いていた。長谷川がカレンの手を取った。イリアは何も言わなかった。
「判りません。多分、上海に移ります」とイリアが言うと、長谷川が、ほっとした。              長谷川は一晩中、寝返りをうった。デカンターの水を飲んだ。スタンドを点けて新聞を読んだ。夜明け近くなって、ようやく、眠りに落ちた。台所から食器を洗う音がして目が覚めた。時計を見ると、八時である。寝巻きのままで顔を洗いに行った。歯を磨きながら鏡に映った自分の顔を見た。憂鬱に見えたので、微笑してみた。髪が長くなっている。床屋に行きたくなった。そこへカレンがやって来た。
「カレン、床屋に行きたいけどその後に朝食をしようよ」
「うん、それじゃあ、用意するわ」とイリアに伝えに行った。
「今日は天気がいいから歩きなさい」とイリアがふたりに言った。
「ボクは、このまま龍門大厦に帰ります」
「まあ、随分と豪華なホテルに滞在しておられるのね?」
「親方、日の丸ですから」と笑った。先週の土曜日を想い出したのかカレンの頬が赤くなっていた。
長谷川が椅子に座った。満人の床屋はバリカンと鋏を器用に使った。注意深く耳の周りを剃った。そして椅子を傾けて、刷毛でシャボンを髭に付けた。ゾリンゲンの剃刀はよく切れる。スベスベに剃ってくれた。熱いタオルで拭いてコロンをふりかけると風呂上りのような匂いがした。
「まあ、赤ちゃんみたい」
「ハハハ、これでも憲兵大尉なんだよ」とミチオが笑った。
「私が払うわ」とガマグチを開けた。床屋が「謝々」とにっこり笑った。長谷川が鏡の前に行って自分を眺めた。
「良し」
「ミチオ、自分に惚れるなんて、あなたって面白い人ね」
「カレン、何食べる?」
「パンケーキが食べたいわ」と松花江に向かって歩いた。
カレンは、三枚重ねのパンケーキがくるとにっこりと笑った。バターと蜂蜜をびっくりするほどぬった。飲み物は紅茶とミルクである。
「カレンのママが言ってたけど上海なら必ず会える」とミチオが言うと、カレンがミチオの目をじっと見ていた。
「もう少し、いたいけど、明日、領事館で一緒に仕事するから」とカレンが立ち上がった。長谷川が外に出るとハイヤーを呼んだ。長谷川がカレンの唇に接吻した。バターの匂いがした。宣化街でハイヤーを降りた。
龍門大厦のロビーに入ると、磯村がフロントにいた。
「少尉、何している?」
「電報を受け取りました」
長谷川が見ると、新京の憲兵司令部からである。明後日に戻れとだけだった。

翌日の朝、領事館へ行った。会議室に入ると島原領事、武官二人、イワノフ、カレンが待っていた。                
「長谷川大尉、新京から司令部に戻れと電報があった。イワノフとウランはスター家の警護のためにハルピンに残ってもらう。特高よりも頼りになるからね。そういえば、特高からライフルが戻ってきた。イワノフは古い小銃しか持っていない。あげても良いですかな?」とインド象が訊いた。
「是非、そうしてください」
山中武官が銃架へ行ってライフルを持ってきた。銃弾三箱とライフルをイワノフに渡した。イワノフが、クチが裂けるかと思うほど笑っていた。
「暗号解読の作業は、君たちが留守の間にカレンがやってくれた。黒竜江は静かだが、ウスーリ河との十字路であるハバロフスク~ウラジオストック~東京間の交信が多くなっている。新京がハルピン領事館には流せない何かを掴んでいるのだろう」
「領事さん、イワノフと話があるのです。個室をお借りできますか?」と長谷川が島原に訊いた。
「勿論だよ」
「あの部屋には盗聴装置がある」とイワノフが小声で言った。
「どうして判る?」
「オットーが、装置を取り付けタノヨ」
「装置は見つかった?」
「天井の電球デス」
「そのままにしてある?」
「ダ」
「どうして?」
「誤報を流すタメヨ」とメモを渡した。イワノフが書いた脚本である。長谷川が目を通した。

――本年は関東軍特別演習を中止して、七月に張鼓峰で激戦した朝鮮軍第十九師団を強化する。日本海軍はウラジオ艦隊を閉じ込める。日本海に潜水艦群を泳がせる。日独防共協定の締結は確固たるものである。張鼓峰は国境線が不明確な地点だ。もう一度、砲撃する、、

「これを流すとどうなる?」
「ソ連は満州侵攻どころじゃなくなるワケデスヨ」
「う~む」長谷川が「ちょっとなあ」と首を傾げた。
「虎頭要塞は完成するのに年月がかかる。ソ連は、現在、対独戦でチミドロデス。つまり極東赤軍が最も攻撃を受けやすいとナリヤス」とイワノフが脚本を売り込んだ。
「海戦で勝ったことのないソ連海軍は日本海軍と太刀打ち出来ないからね」と長谷川が上海湾で見た出雲や戦艦長門を想い出していた。
「良し、それじゃその個室へ行こう」

イワノフ、長谷川、磯村の三人が部屋に入った。イワノフがドアをガチャンと閉めた。ソ連領事館の盗聴員はこの音を聞いただろう。三人が電灯の真下に座った。脚本通りの会議をやった。イワノフはときどき電灯を見上げていたが、しゃべらなかった。長谷川と磯村の会議というわけなのだ。磯村がわざと「閣下」と長谷川を呼んだ。長谷川は「参謀」と磯村を呼んだ。田舎芝居である。
部屋を出て領事とカレンに会った。
「みごとに盗聴されたわよ」とカレンが可愛い目でウインクした。
「イワノフ、極東赤軍の電信内容をパンチしてくれないか?」
「それでは、明朝、新京に戻ります」と長谷川が言うと、インド象が両手で長谷川の手を握った。
「山中武官、カレン、三人を送って行きなさい」と領事が外出を許可した。
「んじゃ、最期の晩餐ダ。トトロに踊りに行こう」とイワノフがリードした。



アコーデオンの音が聞こえた。哀愁のあるメロディである。フロアでスクエア・ダンスが始まった。カレンが「踊ろう」とミチオを誘った。長谷川は盆踊りしか出来ない男である。躊躇った。すると、イワノフが一人の娘と踊り出した。ステップが軽い。相手の娘がにっこりと笑った。ジャポチンスキーは、たいへんなダンサーなのだ。ミチオが上着を脱いだ。カレンがミチオの手を引っ張って、フロアに出た。

山の娘ロザリア いつも一人うたうよ
青い牧場日昏れて 星の出るころ
帰れ帰れも一度 忘れられぬあの日よ
涙ながし別れた 君の姿よ
黒い瞳ロザリア 今日も一人うたうよ
風にゆれる花のよう 笛を鳴らして
帰れ帰れも一度 やさしかったあの人
胸に抱くは形見の 銀のロケット
一人娘ロザリア 山の歌をうたうよ
歌は甘く哀しく 星もまたたく
帰れ帰れも一度 命かけたあの夢
移り変わる世の中 花も散りゆく
山の娘ロザリア いつも一人うたうよ
青い牧場小やぎも 夢をみるころ
帰れ帰れも一度 忘れられぬあの日よ
涙ながし別れた 君の姿よ
ハルピンの夜が更けていく、、カレンがミチオの肩に右手を置いた。カレンは静かに泣いていた。ミチオも涙ぐんだ。ふたりは、別れのときが迫ったことを知っていた。



一九三八年の十月、輸送機が平房を離陸した。長谷川が眼を瞑っていた。
「大尉殿、写真機を貸してください」と磯村が訊いた。
「ハンザ・キャノンは、カレンにあげた」と長谷川が言った。
「はあ?」と磯村少尉が驚いた。あれが別れのダンスだったのかと少尉は全てを悟った。南新京飛行場に着いた。ドアを開けた地上兵が敬礼をした。関東軍指令本部に行く途中、興安大路に銀杏が黄色い絨毯を敷いているのが美しかった。秋風が吹いていた。指令官室に行って、植田総司令官に無事に戻ったと報告した。次に、憲兵隊司令部に報告した。浜中憲兵大佐は、「君は疲れておるようだな。休め」とだけ言った。
「ハ、休みます。明日一日、買い物に外出してよろしいでしょうか?」
「当たり前だよ。君は大尉なのだ。必要なことをやりたまえ」
二人は食堂へ行ってビールを飲んだ。若い磯村はカツ丼の大盛りを注文した。
「磯村、俺は、日本へ行きたい」
「青森のご家族ですか?」
「いや、任務だ」
磯村は日本に帰ると聞いて胸が躍った。
「日本出発は何日になるのでありますか?」
「わからん。なにも今、わからん。新型のハンザ・キャノンを写真屋に二台頼んだ。明日から写真を習う」
「はあ。嬉しいです」
「それもだが、憲兵隊情報部が何を掴んでいるのか聞かなければならない。それによって、俺たちの行動が変わる」
そう言ったとき、長谷川は飛鳥の位置が何であったかを悟った。

ハンザ・キャノンの新型が届いた。革のケースに入った見事な写真機である。五十ミリ望遠レンズは強力だ。
「少尉、写真を撮りに外へ出よう。車が要るなあ」
「自分は自動二輪が乗れます。サイドカーを出して貰いましょう」
磯村が弾んだ声で言った。
「少尉、これいいね」と最新型陸王五〇〇CCを見た長谷川が元気を取り戻していた。
憲兵が始動ペダル、変速機、ブレーキ、スロットルを教えた。パンクした場合の修理もである。磯村がチョークを引いた。キックを横に出して体重を掛けて蹴った。二回のキックで始動した。もの凄い爆音である。長谷川がサイドカーに納まった。さすがの憲兵大尉も胸がドキドキした。磯村がスロットルを右親指で、わずかに捻った。陸王がドッドッドッと走り出した。二人は興安大路から北に行った。新京駅に向かっているのだ。新京のメイン・ストリートである大同大街を走った。長谷川は、カレンが喜ぶ風景を撮った。同じ写真を青森にも送るつもりである。巨大なロータリーを回ると、満州建国前には「長春駅」と呼ばれていた新京駅があった。三台の円太郎バスが見える。フォードのトラックをバスに改造したものだ。離れて満人の馬車(マーチョ)が客を待って並んでいた。長谷川と磯村は一日が短かった。どこまでも走って行きたかった。「良し、これで兵舎に帰ろう」と長谷川が言った。磯村も写真を撮った。
「少尉、君は恋人はいるのか?」
「はあ、おりますが、自分が戦死した場合、可哀そうですから」と遠くを見ていた。
「いや、それは考えが間違っておるぞ」

二人が兵舎に戻った。陸王の前で兵隊に写真を撮って貰った。風呂に入り、着替えて食堂へ行った。
十一月に近着いていた。カレンは、毎日のように電信して来た。佐和子と娘のミチルが手紙と青森の干柿を送って来た。長谷川が八甲田山の家族を想った。だが、一番近い女性はカレンである。カレンの尽きない愛撫を想った。男の生理とはそういうものである。トトロで踊った山のロザリアのメロデイが耳に聞こえた。長谷川は、この関東軍憲兵司令部を逃げてカレンの元へ飛んで行きたかった。だが自分は日本軍の兵隊なのだ、、

関東軍は、諜報と新兵の訓練のほかやることが減っていた。日本軍きっての精鋭部隊である広島五師団も熊本六師団も遠方の広東へ行ってしまった。
「新兵は全くどうにもならん」と軍曹や兵曹が憤慨していた。古年次兵たちの新兵の扱いが凶暴になって行った。長谷川が情報部に呼ばれた。
「君たちに日本へ行って貰う。だが、大本営は何日と決めていない。つまり、明日か、来年なのかも判らない。長谷川大尉、関東軍の命は君に掛かっている」
「閣下、しかし内閣そのものが」
「その通りである。六十万名の関東軍のために出来ることをやってくれ」
                
イワノフがスターコビッツ家の玄関のベルを鳴らした。左手に革のカバンを持っていた。エプロン姿のカレンがドアを開けた。
「あら、イワノフどうしたの?どうぞお入りなさい」
「ミス・カレン、ボク、トドケモノデ、キタンダヨ」とカバンをカレンに渡した。イワノフが歩き去った。カレンが居間に入った。
「イワノフがこれを届けにきたのよ」とカバンをテーブルに置いた。
開けてみると小包とアルバムが二冊入っていた。アルバムを開けると湖を背景にカレンがブルマひとつで写っていた。テントと二頭の馬が写っていた。イワノフがめんどりを抱いて順天に乗っていた。カレンが油紙に包まれた小包を開けた。「あっ」と娘が息を呑むのをイリアが見た。ヤコブが眼鏡を取った。まだ印刷インクの匂いがする米ドルの札束が出てきた。



長谷川と磯村が昼夜、日本から来る電信を絵図にしていた。長谷川が丸印を付けた。磯村が点と線を定規で結んだ。関係者のネームに色を付けた。赤~黄~青。そんな作業が続いていた。ときどき、憲兵隊の陸王を借りて、新京市内を走り廻り鬱憤を晴らした。

十一月の十五日になった。憲兵隊司令部から手紙が配達された。カレンからであった。
「手紙?」と長谷川が不思議に思った。ペーパーナイフで封筒を開けた。

――私が最も愛するミチオへ、

私たちスターコビッツ家と親類の十八人は、あなたがこの手紙を読む頃には、朝鮮半島を汽車で南に下っています。釜山から船で神戸へ行きます。神戸では、フリーメイソンが私たちの住居を提供してくれます。日本政府は、私たちユダヤにマルチ・ビザを発行してくれました。私たちは、日本郵船の浅間丸に乗ってサンフランシスコに行きます。全て島原領事さんのおかげです。ミチオの贈り物が私たちの命を救っています。アルバムを大切にします。ミチオが復員する日がくると信じています。私は、あなたを愛しています。私は、永遠にミチオを待っています。一九三八年十一月十日、カレン・スター

長谷川が手紙を置いて目を瞑った。その胸に去来するのは、ヘーゼル色の瞳のドーチが見せた眩しい笑顔であった。そして今、窓越しに見えるのは、くすんだ街並みと鉛色の空だ。その雲間から太陽が弱弱しく顔を出して伊通川の一片を照らしていたが何故か長谷川には輝いているとは思えなかった。

上巻 完

(お知らせ)

名無し先生がご指摘された独ソ戦の時系列に問題があります。後日、修正します。みなさん、ご感想をください。6/2 伊勢夫婦は伊勢の80歳の誕生日に東北のメイン州へ行きます。海岸で貝を掘ったり、ロブスター食い放題が目的なんです(笑い)。中巻は、「16人のロビンソン・クルーソー」という短編の後になります。伊勢 
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スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三部
第7章



翌朝、長谷川と磯村は時間通りに平房飛行場に着いた。まず、憲兵隊へ出発の報告に行った。拳銃を預け、乗馬用の長靴を手に持って背嚢を背負った。満州北部では馬に乗ることが多いからだ。下士官がふたりに敬礼をした。駐機場には、一式貨物輸送機が待っていた。イワノフとウランが乗り込むのが見えた。
「カピタン、ドブラエ・ウートラ(大尉さん、おはよう)」
「ドブラエ・ウートラ」
「大尉殿はロシア語の専門なのでありますか?」と磯村が感心していた。
「まあ、そんなところだ」と長谷川が笑った。
乗客はこの四人だけで、あとは貨物なのである。一式貨物輸送機は、ここ一年で川崎飛行機が改良していた。機体が大きくなり、発動機も車輪も大きくなっていた。上海~武漢三鎮~重慶~広州へと戦線が広がっているからである。揚子江の戦場を踏んだ長谷川は日本の航空技術の目覚しい発達に眼を見張った。やはり、全て科学技術であると確信していた。                  

一式貨物輸送機が青空の下を快適に飛んだ。平房から二時間で北にアムール河が見えた。まさに「滔々と流れるアムール」である。飛鳥少佐と来た日が遠い昔に思えた。中洲の大黒河島の向こうのソ連の町ブラゴベシチェンスクが大きくなっている。だが戦車の運搬船がどこにも見えない。ソ連軍の飛行場はどこにもなかった。
「これは聞いておかなければいけない」と磯村に言った。磯村がメモ帳に書いた。
滑走路に風向きを知らせる吹流しが見えた。操縦士が車輪を出した。一式貨物輸送機は「ドカン」とアイグン飛行隊基地に着いた。去年の九月中旬に建設中だった飛行場が一年で見事に完成していた。歩兵連隊の兵営も大きくなっている。シートを被った装甲車が四十台並んでいた。地上兵が首を切る手信号を出した。機関士が発動機を切った。真昼の十二時である。蒸気車なら丸一日掛かる距離を二時間で飛んで来た。「プー」とサイレンが鳴った。
「昼飯です」と整備兵が笑った。「平和なら鐘を鳴らしただろう」と長谷川が思った。
「南昌作戦で海軍飛行隊二等航空兵曹であった岩田純一中尉がお連れする。岩田中尉は陸軍に招かれ、このアイグン飛行隊の教官なのである」と新任指令官が長谷川に語った。二等航空兵曹の意味が長谷川には分らなかった。二等航空兵曹は撃墜王に与えられるものだと後日知った。
「一機ですか?」
「いや、姉妹機が同伴します。三機であります」と地上兵が言った。
その九月の朝、イワノフが生まれて初めて神経質になっていた。飛行機に乗る、、それも二座席の偵察機に乗る、、嫌だなあ、、
「叔父さん、イキテカエッテヨ」と、ひとり残って電柱に登るウランが心配していた。
偵察機は、乗員二名である。長谷川が岩田中尉の後部座席に座った。横に並んだ二番機には磯村少尉が乗った。三番機にイワノフが乗っていた。飛行帽を被ったイワノフが真っ直ぐ前方を見詰めていた。これはいい被写体だと長谷川が写真に収めた。
岩田二等航空兵曹が機銃の発射ボタンを押して具合を点検していた。長谷川が岩田中尉に一度会った気がした。
「岩田中尉さん、あなたとどこかで会った気がする」
「ええ、昨年の夏、乾岔子(カンチャーズ)島の偵察を致しました」
長谷川が、飛鳥少佐が銃撃されて亡くなったことを伝えた。岩田が空を見上げた。
「少し説明を致します。この偵察機は戦闘機ではないのです。偵察が任務だから天蓋が高い。長距離を飛ぶため燃料を多く積んでいる。主脚は固定式です。翼も視界確保のために戦闘機とは微妙に違う。つまり、空中戦には向かないのであります」
「はあ?ソ連機が飛んで来たら、どうなるんですか?」と桜三号が心配になってきた。
「わからんです。ま、そのときは、一人飛び降りて貰うといいんですがね」とイワノフを見て笑った。
隊長の岩田中尉が「コンタクト」と言うと、地上兵がエナーシャ起動装置を使って星型発動機を始動した。プロペラが回り始めた。いよいよ出発だ。二番機が始動した。「飯塚の母親に手紙を出すべきだった」と磯村平助少尉が凄い爆音で滑走し始めたとき呟いた。長谷川も同じ想いであった。イワノフは縮み上がっていた。
「長谷川大尉、これは偵察隊が作った黒竜江の写真地図です。ご存知のように、この黒河の向こう岸がブラゴベシチェンスク。その北東百キロの平原にソ連軍の飛行基地があります。磯村少尉のご質問ですが、ソ連軍の機甲師団はここにはおりません。ハバロフスクです。今日の飛行プランは、古蓮という湖沼地帯まで行きます。片道四百五十キロであります。ソ連軍の飛行基地はこの古蓮の向こう岸であるアルザイノにあります。満州国側には、全く鎮さえもありません。このあたりは極寒の地であります。南のチチハルでさえ、それが理由で満蒙開拓団は四百人に過ぎないのです」と岩田中尉が言った。
長谷川が「星さえ凍る夜だった」という歌が流行ったとチチハルで聞いたことを想いだしていた。

二番機でも北上一等航空曹が磯村平助に説明していた。
「故郷の三池炭鉱も酷いところですが、今では懐かしくなります」と磯村が笑った。
三番機の飛行兵は練習生であった。イワノフには言わなかった。 
                 
ソ連軍飛行部隊は、アイグン飛行隊基地を偵察機三機が飛び立ったことを察知していた。アイグン飛行隊基地では、その電探の発信地が近いと判っていたからである。中洲の大黒河島に監視スパイがいるのであろう。
「露助がわれわれを追尾することはないです。九八式は操縦性も低速安定性もよく、エンジン故障が少なく整備も容易なのです。最大速度は速くはないですが時速三百五十キロであります。七・七ミリ機関銃二機」と岩田が「心配するな」と言いたげであった。
九八式偵察機(キ36)三機が縦一文字になって、北西へ飛んだ。快晴で風もない。岩田隊長が巡航速度に落とした。二番機、三番機も、一番機にならった。アムールが見えなくなった。古蓮に向かって内陸部を飛んでいた。眼下は全くの森林である。二時間ほど飛んだ。
「あと三十分で古蓮の上空に入る」と岩田隊長が無線で僚機に伝えた。
北に大きな湖が見えたが、アムールに狭窄部があるので膨らんでいるのである。一番機がアムールの上に出た。
「向こう岸がアルザイノ」と岩田が言った。だが中間線で引き返す様子がない。それどころか、ソ連領空に入った。後続機も着いて来る。長谷川が緊張した瞬間である。
「岩田さん、ソ連領ですが?」
「わかっております」と言ったそのとき、ブザーが鳴った。
「敵機が発進した」と僚機に伝えた。その声が実に落ち着いている。
――こんなときにどうして、落ち着いてなどいられるのか?
ソ連機が五千メートル上空に点となって現れた。四機である。岩田隊長が高度を五千メートルに上げた。
「奴らは、あれ以上高く飛べないのです。五千メートルを超えると飛行が不安定になる」
「はあ?でも、どんどん近着いてきますが?」
「ちょっと、イタズラをしよう」と岩田が言って高度を下げた。ロシア機を誘うためである。
案の定、敵機が襲いかかって来た。見ると、なんと南京で日本軍に接収されたポリカリポフではないか。飛行する姿が鈍臭い感じである。だが、このロシアのロバのような戦闘機が朝鮮北部と接する張鼓峰で事件を起こしたのである。
岩田中尉がスロットルを押した。高度を六千メートルに上げた。ソ連機が上げようとして、もがいていた。敵の一機が迂回して三番機に襲い掛かった。練習生が逃げようと高度を下げた。あわや一巻の終わり、、そのとき、二番機の北上一等航空兵が一回転してソ連機の後ろに回った。敵は気が着いていない様子である。ソ連機の機銃が火を噴いた。練習生はジグザグに逃げている。北上機の7・7ミリ機銃が火を噴いた。敵機の尾翼が吹っ飛んだ。飛行士が落下傘で飛び降りようとパニックしているのが見えた。だが時すでに遅し。北上一等航空兵の機銃がまた火を噴いたのである。ポリカリポフは、真っ直ぐ森林に落ちて行った。やがて森の中に炎が上がった。磯村平助が「う~ん」と唸って気絶した。
だが、残り三機が仇討ちとばかり、姿勢を立て直している二番機を襲った。上空から岩田機が直行した。「あっ」という間に追いついた。敵機が火を噴いた。もうもうと黒煙を残して墜落した。あとの二機が踵を返すのが見えた。イワノフが小便をパンツに漏らした、、
「ということであります」と岩田中尉が飛行隊指令官に報告した。
「君たちは休息せよ」と大笑いしていた司令官が岩田中尉の肩を叩いた。
「指令官さま、ウォッカはありますか?」とイワノフが言うと爆笑が起きた。
長谷川、磯村、イワノフまでが仮眠した。ドアにノックが聞こえたので、磯村が起きると廊下にイワノフとウランが立っていた。長谷川が越中ひとつで起きて来た。
「ウラン、何か判ったか?」
「ダ、何も起きていないことが判りました」と電信の内容を報告した。
――この黒河と対岸のブラゴベシチェンスクには、通信はほとんどなかった。アイグン基地から偵察機三機が飛び立ったときだけ通信のボリュームが多くなった。アルザイノの飛行隊基地と交信していたのだ。
「その後は?」
「その後は、ハバロフスクとウスーリの上流イマンのソ連軍基地との交信だけです。今、解読中です」
「イマンか。つまり虎頭要塞を調べている?」
「はあ?虎頭要塞は聞いた気がします」と磯村が考えていた。
「虎頭要塞は、見ておかなければならない」

四人が食堂へ行った。岩田、北上、練習生の坪井が手招いた。最年少の坪井がビールを注いで回った。
「空中戦、面白かったですか?」と岩田中尉が磯村平助に訊いた。
「いやあ、もうもうもう結構です」と磯村少尉が言うとイワノフまで笑った。
「実際は、ノモンハンまで飛ぶ考えがあったのです。ほんの二十分だからね。細い川があったでしょ?ノモンハンは、その西岸なんです」
「去年、興安嶺まで行きました。あのあたりは森林ではなくて起伏のある緑の草原でした」
「あの川で戦車戦なると飛行隊はハイラルか、このアイグン基地にしかない。制空圏はソ連側にある」と岩田が言った。
「ノモンハンから機甲師団がチチハルなどにやって来ると思いますか?」と長谷川が心配になった。
「いや、それはないです。まず、森林には道がないし、日本軍には鉄道網がある。日本軍の師団は、満州のどこでも二十四時間以内に駆けつけることが出来るのです」
「内と外と考えた場合、満州は内側で鉄道網が敷かれている。これは突破が困難なんだよ。一番の問題は速やかな通信解読だ」といつの間にか後ろに来ていた司令官が内と外の違いを解説した。全員が長谷川を見ていた。磯村が任務の重要性に体が震えた。そして、イワノフを見たのである。

「長谷川大尉、明日の九時に輸送機がやって来るから、それでハルピンへ帰りたまえ」
「司令官殿、たいへん勉強になりました。それでは、ここでお別れ致します」と長谷川が言うと、全員が一斉に立ち上がって指令官に敬礼した。

次回、最終章です。伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
第6章



三人の憲兵少尉が長谷川の前に立っていた。同期二十五歳の新任少尉である。夫々が短く軍歴を述べた。長谷川が磯村少尉に興味を持った。その理由は磯村が小倉出身だからである。
「磯村平助、前へ出ろ」と少佐が言った。
「貴様は、小銃の成績が良い。だが戦場に行ったことがないな。長谷川大尉、どう思うか?」
「私が訓練します」
「それでは、決まった」
少佐と兵曹長が出て行った。ふたりだけになった。
「磯村少尉、君は体格がいいが、何で鍛えた?」
「炭鉱のモッコ担ぎです」
道理で腕も脚も太かった。
「小倉育ちだが、親兄弟もかね?」
「いえ、父は亡くなり、母と妹が三池炭鉱のある飯塚に住んでいます」
「情報部に抜擢された理由は何かね?」
「自分は電気工事士の資格を取得しました」
「ははあ、分るなあ。全て電気だからね」
「外国語は?」
「苦手であります」と磯村平助が笑った。
「傍聴技術は習ったのか?」
「そればかりであります」
「明日から、練兵場へ行って新兵と一緒に体力を着けよう」
「願ってもないことであります」

長谷川はこの磯村平助が好きになった。ことばに忌憚がないからである。朝起きると飯を食い、ふたりは練兵場へ行って二時間、新兵とともに訓練に励んだ。みるみる腕も脚も太くなった。その後、二時間、新聞や戦況概略を読んだ。昼飯を食うと一時間昼寝をした。午後は射撃場に行った。トラック部隊へ行って起動と運転を習った。ときどき、内務班へ行って調理を手伝った。内務班の給食兵が憲兵将校に失礼がないかと恐縮した。だが、よく笑うふたりの憲兵士官にすぐ打ち解けた。この料理体験は後日、役に立つのである。新京へ来てから佐和子の手紙がよく届いた。ミチルが大きくなっている。二番目の娘ミチコは、おっとりした性格だと。かれこれ、一歳になるミチエは大きな子だ。カレンから毎日、電報が来た。「池田がいなくなってから平和な日が続いている。ウランが、また拳闘で勝ったのよ。私も儲かった」などと憲兵本部が知れば叱られる内容であった。必ず、最後に「アイ・ラブ・ユー」と二人にだけわかる暗号があった。


                 
九月に入った。興安大路に銀杏(いちょう)の枯れ葉が落ちるようになった。磯村と食堂で昼飯を食べていると、憲兵少佐が入って来た。長谷川のテーブルに向かって歩いてきた。長谷川と磯村が箸を置いて立ち上がって敬礼をした。
「明日の朝、ハルピンへ飛べ」と命じた。長谷川はカレンに会えると胸が鳴った。
「何か起きたのでありますか?」
「ノモンハンで戦闘が始まる動きがある。戦闘が始まればわが陸軍は苦戦する。ソ連の交信数が増えている。暗号解読が必要なのだ」
長谷川が、ハイラルに飛鳥と行った日を想い出していた。「この国境紛争は遠方だけにソ連の戦車部隊が有利なのだ」と飛鳥が言ったのを憶えていた。

――南は重慶~北はモンゴルの国境、、鮎二はどうしているのだろうか

「磯村少尉、すぐに用意をしよう」と少尉の眼を覗いた。長谷川が完全な上官となっていた。            
その朝、長谷川と磯村が新式の盗聴装置を右手に持って貨物機に乗り込んだ。双発の九七式輸送機キ34は軽々と離陸した。昼下がりに平房飛行場に着陸した。憲兵が領事館へ送ってくれた。廊下を歩いて行くとカレンが長谷川の姿に驚いた。たちまち涙がドーチの目に溢れた。長谷川がカレンの手を取るのを磯村少尉が見ていた。
「大尉に昇級したんだってね」と、珍しく島原領事が敬礼をして笑った。
「ハ、これは磯村平助少尉であります。私の部下であります」
「随分、体格がいいね」
自分も恰幅のいい島原領事が青年を称えた。
「ハ、閣下、恐縮であります」とインド象の名声を聞かされていた磯村が頭を下げた。
「ノモンハンの話しをせんといかんが、明日にしよう。宿泊はどうなってるの?」
「南崗区の龍門大厦に必要なだけ逗留します」
これを聞いたカレンが――うちから歩いて行ける距離だわと喜んだ。カレンはミチオと二人きりになりたかったのである。



「磯村少尉、部屋の電話を使ってはいかんぞ」
「大尉殿、承知しております」
「何処かへ連絡が必要なときは、俺が英語ですることになっている。新京は全て暗号電信だ。これも、俺がする」
長谷川はボクというのをやめて俺にした。
「君は酒を飲むか?」
「大好きでもないけど、嫌いじゃないです」
「バーで飲んではならない」
「はあ、自分は酒場が嫌いですから」
長谷川が飲み物リストを磯村に投げた。磯村がビール、焼き豚、枝豆、ザー菜を選んだ。長谷川が電話を取った。上海で憶えた広東語が流暢になっていた。
                 
翌朝、領事館に行くとイワノフが島原領事と話していた。
「ソ連の極東軍が、ノモンハン、ノモンハンとしゃべっているけど、機甲師団の動きはないです」とイワノフが言った。
「来るとすれば来年の夏だろう。スターリンは対独戦で苦戦している。だが暗号解読を止めるわけには行かない」と領事が長谷川の顔を見た。
「イワノフ、ホロンバイルを空中偵察しよう」と長谷川がイワノフの顔を見た。磯村がイワノフと話したいと言ったので、長谷川はカレンの教室に行った。カレンが後ろ手でドアを閉めた。
「ミチオ、明日、二人きりになれる?」
「うん、イワノフが磯村君をハルピンめぐりに連れて行くらしい。夜は例の拳闘の試合だって言ってる。遅くなるからキタイスカヤの自分のアジトへ泊めるって言ってた」
「明日十時、松北大道大橋の船着場に来て」とカレンが長谷川の眼を見た。


                 
長谷川が松花江の船着場に行くと、カレンがすでに待っていた。白いブラウス~濃紺のスカート~ヘアバンドが、カーブのかかったブロンドを引き立たせていた。
「カレン、どうする船に乗る?」とミチオが恋人に訊いた。
「私、ミチオのホテルに行きたいの」
「ホテル?何もないよ」
「私がいる」とカレンがフフフと笑った。ミチオもカレンが欲しかった。異国の恋、、戦時下の男と女、、ミチオがカレンの手を取った。カレンの手に力が入っている。ミチオが立ち止って、カレンの顔を見た。カレンが、つま先立ってミチオのクチに舌を入れた。そしてミチオの下唇を噛んだ。ふたりが、龍門大厦のロビーに入った。フロントへ行って、鍵を貰った。そのボックスに、もう一つの鍵があった。磯村少尉の鍵だ。つまり、外出中である。ふたりが螺旋階段を上がって行った。カレンの脚は強い。ぐんぐんミチオを引っぱって行った。ミチオがドアを開けた。
「まあ、景色がいいわ」とカレンが窓際に行った。戻って来るとミチオの上着を脱がせた。次に、ズボンを脱がせた。カレンが接吻しながら、ブラウス、スカート、パンテイを脱いだ。
「一ヶ月もしてないのよ」とカレンが言った。長谷川は一ヶ月が一週間に思えた。女と男の生理が違うのである。カレンがリードした。長谷川がビックリするほど男女の位置が代わっていた。「ミチオ、ミチオ、、」と愛撫が激しくなって行く。長谷川は降参した。精液がほとばしった。「カレン」と彼女を抱きしめた。二時間が経っていた。やがて、カレンはスヤスヤと寝てしまった。

長谷川が起きると、カレンも目を覚ました。時計を見ると、午後の三時だ。腹が減っていた。
「何か食べる?」
「ミチオを食べたい」とカレンが笑った。                   
軽食とワインが届いた。カレンがスカートを穿いてブラウスを着た。ヘアバンドで豊かなブロンドを押さえた。ユダヤのドーチがエンジェルに見えた。ふたりがドアの前で接吻した。

日曜日の朝、窓を開けると爽やかな風が松花江の方角から部屋に入って来た。サイドカーが宣化街の角を曲がってホテルの前に着いた。ウランが磯村を送って来たのである。
「磯村君、拳闘はどうだった?」
「ウランが判定で勝ったんです。儲かりました」と磯村が少年のように笑った。
「少尉、新京へ帰ったら写真を教える。現像も印画も引き伸ばしも全てだ。われわれはノモンハンを空中偵察に行く」
「写真は武器なのですね」
磯村平助少尉は俊敏であった。

続く
05/26
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
第5章



「カレン、この池田の電信だけど、どうやって傍受したの?」
長谷川は、カレンの教室にいた。
「池田の電信機はロシア製なの。特別な雑音が入るから判るのよ。それに、池田の行動範囲を把握しているから」
「この発信地だけど、キタイスカヤ大街だね。池田はそこに住んでいるの?」
「いいえ、ハルピンの豪華なアパートに住んでいるのよ」
「どうやって、キタイスカヤ大街に行ってるのかな?」
「仲間よ。写真があるわ」と長谷川に見せた。そこには池田とスラブ人の男が写っていた。特高が撮ったのである。
「この男は、セルゲイというユーゴスラビア人なのよ」
「でも、カレンやスターコビッツ家は出てこないね」
「多分、私たちなんかどうでもいいのよ」
「何が盗聴の目的なんだろうか?」
「日本領事館爆破だろうって、領事さんが仰っている」とカレンが震えた。長谷川がカレンを抱きしめた。長谷川がミチオに戻っていた。
「カレン、塔道斯(トトロ)へ行く?」
長谷川はイワノフに会えるんじゃないかと思っていた。
「わ~い」
カレンが明るくなった。山中武官は若く明るい人柄だった。「トトロに連れてって」とカレンが言うと、「ボクも一緒でいいですか?」と長谷川に訊いた。
「大歓迎ですよ」と長谷川が笑った。
塔道斯(トトロ)に入ると、「こっちこっち」というイワノフの声がした。ウランもいる。
「もう注文してアルヨ」とみんなを驚かした。ロシアの休日とかで、特別な料理が出た。
「どうして、われわれが領事館を出て塔道斯(トトロ)に来るってわかったの?」と山中武官が訊いた。
「島原領事さんはボクのボスヨ」とイワノフが笑った。
――島原領事も隅に置けないな。何をどこまで知っておられるのだろうかと長谷川が思った。飛鳥を死に追いやったのみならずカレンを危険に曝す池田良一を、これ以上放置出来ないと長谷川が腹を据えた。
「イワノフ、明日、ウランと領事館へ来てくれないか?」
「領事さんから聞きました」とイワノフが笑った。


                
八月のベルリンは、日中は二十七度が平均である。夜間は十四度まで下がる。快適な気温なのである。買い物袋を提げたオットー池田がブランデンブルグ門を東へ歩いていた。必要な打ち合わせを済ませた池田は、リラックスした時間を過ごしていた。二ブロック先のフリードリッヒ大王通りを左に曲がった。シュプレー川の北岸にある自分のアパートに向かっているのである。森鴎外記念館がある洒落た文教地域である。池田がアパートの玄関の鍵を開けてエレベーターホールに向かって歩いて行った。後ろの扉が開いたが、誰が立っているのか逆光でよく見えない。がっちりとした体格だから一階に住んでいる男だろう。気にも留めずエレベーターに向かって歩いた。この高級アパートには自動式のエレベーターが備え付けられていた。七階に止まっていたので池田はボタンを押してしばらく待った。その間に、後ろから来た体格の良い男が追いついた。二人とも黒い帽子にサングラスをかけていて顔が分からない。池田がプロレスラーのように腕の太い男と目が合った。そのプロレスラーは歯を見せて微笑みかけた。池田はほっと溜息をついた。
「チン」とベルの音が鳴ってエレベーターのドアが開いた。三人がエレベーターに入った。池田は嫌な予感がした。自分は最上階だが早く降りられる様に三階を押した。だが、ふたりの男はどこも押さない。扉が閉まり、エレベーターが動き出した。
「トバリシ、オットー」と低い声が聞こえた。池田が振り返った。そこに見えたのはレスラーが、ワイヤを輪にして自分の首に嵌める光景だった。やがて、それも見えなくなった。エレベーターホールで中年の婦人がボタンを押していた。上の表示を見ると、八階のランプが着いていた。随分長く最上階に止まっていたがようやく降りてきて、ドアが開いた。婦人が悲鳴を上げた。池田が天井からぶら下がっていたからである。 
              
「池田がベルリンで殺されたよ」と島原領事が長谷川に言った。長谷川は黙ってインド象の目を見ていた。飛鳥が暗殺されて以来、長谷川は、点と線を考えていた。飛鳥暗殺に池田良一が関わったと確信があった。
「閣下、カレンには言わないでください」
「勿論だよ。カレンには、池田は解雇したと言う。喜ぶだろう」
そこへイワノフとウランが入って来た。
「イワノフ、ウラン、有難う」と長谷川が右手のひとさし指を立てた。三人だけにわかる信号であった。
「イワノフ、これからスター家の警備をお願いする」とインド象が最も信頼出来る部下に頼んだ。
「長谷川君、武漢作戦は拡大したようです。これを私は最も恐れていたのです。ここから先は誰にも判らない。多くの若者が死ぬことだけは明らかです」
「イワノフ、長谷川少尉は新京に戻る。だがソ連は満州に必ず侵攻する。そのときは、長谷川少尉に戻ってきて貰う。情報分析ほど重要なものはないからだ」と島原が言うと全員が頷いた。 
               
その日の夕方、長谷川とカレンが、松花江のほとりを歩いていた。チャムスへ行く河舟が下って行った。
「ボク、明日の朝、新京へ発つ」
「私も行きたいわ」とカレンがむせんだ。長谷川がカレンを抱いた。カレンが唇を求めた。



長谷川道夫が平房飛行場から新京に飛んだ。南新京飛行場に憲兵が運転するセダンが待っていた。関東軍司令部に着いた。植田謙吉総司令官に挨拶に行った。長谷川が関東軍の最高指令官に面会するのは始めてである。
「君が長谷川少尉なんだね?島原さんから話を聞いた。飛鳥君は実に残念だ。貴重な人を失った」

長谷川が関東軍司令部の横の憲兵司令部に入った。浜中指令官に新京憲兵情報司令部着任を報告した。
「ごくろうさんだったな。飛鳥少佐は貴重な人だった。君は上官を失った。だが、本日を以って君は二階級昇進する。関東軍憲兵情報部大尉となる」と襟章と任官状を手渡した。長谷川が驚いた。
「指令官殿、私には部下がおりませんが」
「明日、その人選をする。しばらく自由にしてくれ」と長谷川の肩に手を置いた。
長谷川に、将校宿舎の個室が与えられた。早速、風呂に入り、将校食堂へ行った。部屋に帰って、ガリ版刷りの戦況概略を読んだ。関東軍情報部は戦況の全容を把握していた。わからないことがあった。それは、日本政府の頭の中である。政治記事は読まないことにした。何も信じられないからである。

続く
05/25
(速報)アメリカ国務省は日本への渡航中止令を発表、、


「中止」とか不可解な言葉ですが、日本への渡航を中止するように勧告したわけです。最大のインパクトは東京オリンピックは出来なくなったと言うことです。伊勢は昔から東京招致に反対してきたので、「ああ、ついにな」という感想です。

日本へ渡航を禁止したのではない、、

伊勢も日本に商用があったので、テネッシーの日本総領事館ト話した。日本に入国は出来るが、2週間の検疫隔離及び公共交通機関の使用不可。その上、アメリカに再入国するとき、2週間の検疫で外出禁止。事実上、渡航禁止なんです。伊勢
05/25
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
第4章



その日も朝からカンカン照りだった。飛鳥が腕時計を見ると十時前だった。気温はすでに二十八度に上がっていた。汽車が信号の鳴る踏切を通過した。
「ご乗客のみなさま、この列車は間もなく終点、門司に到着いたします。お忘れ物がございませんようにご注意ください。間もなく、終点、門司~、門司~」と車掌が言ってから飛鳥の切符に穴を開けた。飛鳥が上海から板付陸軍飛行隊基地に着いた日を想い出していた。七月の福岡は暑かった。博多駅から大阪行きの急行に乗った。奈良の実家へ帰ったのである。その日の晩は親戚一同が宴会を開いた。関東軍参謀課長副官という立場を離れて腹の底から大笑いした。クマゼミが鳴いている森の中を歩いて、先祖の墓に参った。奈良は平和だなと思った。五日間の休暇が戦場から帰った飛鳥の心を癒した。
「福岡に用事がある。その後は、東京へ行く」と妻に言った。となりに大学生の陸男が座っていた。父親のオリンパスを凝視していた。
「おお、陸男、お前にこれをやろう」と革のケースに入ったオリンパスを息子にやった。
「お父さん、ボク、光学科に進みたいと思っている。有難う。大事にする」と陸男がオリンパスを抱きしめた。飛鳥はそれを見て静かに笑った。


飛鳥が福岡の竜神組に向かっていた。組長である神田川と面会し、多少の軋轢はあっても流血なしに青封から切り離すためだ。不必要な衝突を避けるために面会時間を電話で伝えた。竜神組の屋敷に時間通りにたどり着いた飛鳥は送って来た憲兵に「一時間で戻らなかったら陸軍小倉師団へ行け」と言い含めて車に残し、ひとりで土間に入った。豪胆で鳴らす竜神組組長神田川も関東軍憲兵少佐の突然の訪問に胆を冷やした。子分が白鞘の日本刀を手に持っていきり立ったが飛鳥は目もくれなかった。神田川は「俺の客人だ。お前らは控えろ」と窘めた。神田川は飛鳥よりも歳上である。角刈りが最初の印象であった。眼に力がある。日本人には珍しく鼻筋が通っていた。

「今時の若いモンは礼儀も知らん。客人に迷惑をかけたね、ご無礼致した。それで、飛鳥憲兵少佐殿が如何様なご用向きで、ウチの敷居を跨ぎなさったのかね?」

腹の内の動揺を見せまいと、座敷で鷹揚に飛鳥を見据えて仁義を切った。だが飛鳥はまったく取り合わなかった。
「神田川さん、あなたは、杜月生老板をご存知ですね?」と直截に用件を切り出した。
「いや、そのような仁を知りませんね」と神田川がシラを切った。飛鳥が青封と手を切るようにと言って見据えると神田川は動揺を隠せなくなった。

――やはり上海のソ連領事館から聞いた話は本当なんだ。露探が飛鳥を殺せと言った。憲兵隊は、我々と杜月生の関係を知っている。阿片売買の証拠を握っている。しかし選択肢は多くない。どっぷりと深入りしている以上、白黒はっきりさせねばならんだろう。

「カネの為に国を売るというなら、軍務として対応することになる。それは、自分としても本意じゃない。あなたが、よく考えることだ」
そう言い残して飛鳥は席を立った。神田川は、飛鳥が土間を出るのを見届けると若頭を呼んだ。飛鳥を暗殺するように命じた。だが失敗することを恐れて「待てよ」と一旦止めた。

――失敗すれば陸軍が出てくる。万全の手筈を神田川が直接指示した。何しろ飛鳥は南原竜蔵一家を殺した男だ。鎌田が手榴弾で片足を失くしたと言っていた。殺られる前に殺るしかない。だが飛鳥は慎重だ。常に長谷川という部下と行動していると露探が言っていた、、襲撃はそうとう難しい、、飛鳥が一人になるのを待つしかない、、
神田川がコルト・トンプソン軽機関銃を倉庫から持って来させて、子分の前に並べた。シカゴの警察とギャングが撃ち合ったトミーガンである。これなら飛鳥を殺れる、、小倉の警察と撃ち合っても勝てる、、誰とは言わず唾をのむ音が聞こえた。

飛鳥が西鉄北九州線の門司で降りた。チチハルで病死した先輩の墓に参るためである。駅を出たところに花屋があった。入り口に、供花、線香ありますと書いてあった。
「お墓参りですか?」と初老の女店主が訊いた。
「そうです。線香と饅頭を下さい」
飛鳥が上がり始めた気温に額の汗を拭うと、ヤマユリ、ダリア、白菊を受け取った。遠くでクマゼミが鳴いている。今日も暑くなるのだろう。
飛鳥が突如、背後で車が急停車する音を聞いた。振り返るとデトロイト製のダッジが車道を遮るように停まっている。その窓からガンブルーの銃口が二つ覗いた。飛鳥が胸のケースから南部を引き抜いた。トミーガンが火を噴いた。飛鳥が、二、三歩歩いて歩道の縁で倒れた。路上に花と饅頭が散った。金切り声が響いた。クマゼミの鳴き声が止まった。



乗馬の旅から帰ったあくる朝、島原領事から電話があった。飛鳥が死んだという悲報に長谷川が沈黙した。すぐにカレンと長谷川が天龍公園からハイヤーに乗って領事館に行った。領事の執務室に行った。山中武官が中からドアを開けた。島原領事がアベマリアの母子像の前で膝を着いていた。カレンと長谷川はインド象が立ち上がるまで待っていた。

「飛鳥参謀が銃撃を受けたのですね?」と長谷川が訊いた。目を真っ赤にした島原領事が頷いた。
「領事さん、それで?」
「飛鳥君は即死された」
長谷川が天井を見あげて目を瞑るのをカレンが見た。
「君は小倉に土地勘はあるかね?」
島原領事は長谷川に小倉に行けと言いたかった。
「いいえ、ありません。行ったこともありません。領事さん、竜神組がやったという証拠はありますか?」
「証拠はない。だが神田川は上海の杜月生と兄弟なのだ。神田川の妹が杜月生の第三婦人になっているのだよ」
長谷川がサロン・キテイで会った弁髪の太った杜月生を想い出していた。
「領事さん、私は上官を失いました。私の任務はどうなるのでありますか?」と長谷川が涙をポロポロとこぼした。カレンが長谷川の体を抱きしめるのを島原領事が見た。
「長谷川君、新京の憲兵隊情報部に戻ってください。私は外務官僚です。軍人の君に指図は出来ない。ただし、時々、ハルピンに来てくれたまえ。露探の活動が活発になっているのだよ」
カレンが、また「ほっと」していた。
「領事さん、池田の何が判ったのか話してください」
「池田に夏休みをやった。ベルリンに行くと言っていた」とインド象が言った。
「ベルリン?」と長谷川が念を押した。
「池田は、移動式電信機を持っている。オットーというコードネームを使っている。どこに打電しているのか判らないが想像が着く。内容はハルピンの日本事情、人物、活動、移動などです」
「すると、領事館の中は筒抜けですか?」
「武官の活動を除けばね」と領事が言ったとき、長谷川がカレンの顔を見た。
「いつ、新京へ出発すればいいのでありますか?」
「調整している。八月だと思う。それまでは領事館へ来てくれたまえ」
カレンと長谷川がカレンの教室に戻った。カレンが「ミチオ、あなたは、これが必要よ」と暗号解読文を恋人に手渡した。解読文を読んだ長谷川が顎に拳を当てて考えていた。池田はダブルスパイなのだ。J・T・チュウと同じだ。飛鳥参謀ならどうしただろうか?自分は、池田良一をどうするべきか?



山中武官が、カレンと長谷川を聖ソフィア教会の広場で降ろした。
「ミチオ、私たち一家は、ハルピンに長くはいられない気がするの」
カレンが珍しく目を合わさずに語り始めた。
「どうして?」
「パパが館を売りたいって言うの」
「何処へ行くの?」
「私たちユダヤには行く国なんてないの。ヨーロッパのユダヤ人は、北アフリカ~キューバ~アルゼンチン~上海へ行ったのよ。何をしてでも生き残らなければならないから」
ふたりが、ロシアン・テイールームに入って行った。カレンがコーヒーを二杯頼んでから、アップルパイを注文した。壁を背に長椅子に座ると、カレンが長谷川の手を握った。そして、「ミチオ、アイ・ラブ・ユー」と英語で言った。隣の老夫婦の目が丸くなった。 

続く               

05/24
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
第3章



「カレン、東支鉄道の牡丹江行きに乗って平山鎮へ行く。そこで馬を借りる」
「平山鎮って何処にあるの?」
長谷川が地図をテーブルに広げて一箇所を指さした。
「七十キロ南東にある。人口二万人と書いてあるから大きな街だね」
イリアとヤコブが心配そうに横で見ていた。聞いたことがあったが行ったことがないからである。
「馬は何処で借りるの?」とヤコブが訊いた。
「山岳騎兵隊の駐屯所があるんです。平房の司令官が手配された」と言うと、ヤコブがほっとしたように吐息をついた。
「平山鎮から何処へ行くの?」と親の心配とは逆さまにカレンの声がピアノのように弾んでいた。
「四十キロ北に吊水湖っていう滝がある。山道を上って行くけど、四時間で行けると騎兵が言っている」
「泊まる処はあるの?」とイリアが訊いた。
「マダム・イリア、あるけど、テントを持って行きます」
「それじゃ、用意しましょう」とカレンが立ち上がった。

長谷川が飛鳥の背嚢を持って来た。カレンとイリアが床一杯に持って行くモノを並べていた。ブーツ~靴下~帽子~毛布~水筒~夏用のジャケット~タオル~チョコレート~キャンデイ~胃腸薬~風邪薬~ブルマ~パンティ、、
長谷川は部屋に戻った。自分の背嚢に、トカレフとハンザ・キャノンを入れた。
「朝、何時に起きる?」とカレンが開いたままのドアから顔を出した。
「発車時刻が十時だからね。山中武官が九時に来る」と言うと、カレンがスキップを踏んで台所へ行った。
「今、幸せなんだな」と長谷川が呟いた。

乗馬旅行に出かける朝、長谷川が起きると、カーテンの隙間から朝陽が射し込んでいた。
「長谷川さん、おはよう」とカレンが長谷川に言った。カレンはすでに乗馬ズボンに着替えていた。上は白いブラウスである。小柄でブロンドのユダヤ娘は、トム・ボーイなのである。長谷川も乗馬ズボンを穿いた。上はウールの登山シャツである。簡単な朝食を摂った。玄関に足音が聞こえた。山中武官が迎えにきたのだ。
「用意は出来ましたか?」と山中が白い歯を見せて笑っていた。
「まだなのよ。朝食をどうぞ」とイリアが山中を手招いた。
カレン、イリア、ヤコブ、長谷川が玄関に出た。そこで記念写真を撮った。山中が背嚢をダットサンの後部のトランクに積んだ。
ハルピンの駅で平山鎮往復券を買った。
「乗馬ですか?」と改札口の駅員が乗馬姿のカレンに訊いた。
「どのくらいの時間で着きますか?」とカレン。
「つぎの汽車はローカルなんです。二時間三十分かかります」
「平山鎮には店はあるのですか?」と長谷川がショッピングリストを見て訊いた。
「駅前には、何でもありますよ」
汽車は川沿いに走った。松花江の支流である。家鴨の一家が泳いでいるのを見て、カレンがはしゃいだ。長谷川がハンザ・キャノンをカレンに手渡した。
「撮り方、教えて」とドーチが甘えた。長谷川が手を取って教えた。すぐに覚えた。そして、長谷川をじっと見た。白いブラウスにサクランボの形の突起が見えた。長谷川が目を逸らした。ハルピンを出てから、トウモロコシ畑が続いている。
「あのネギに見える野菜はニンニクかな?」
「私、ニンニクが嫌いなの」
「そんなことを言ったら、中華料理は食べられないよ」
「違うのよ、中国人はニンニクを生で食べるから」
「ピロシキはニンニクが入っているの?」
「ママは好きなのよ。クニッシュっていうコロッケもね」
ハルピンの南東は田園である。ここが松花江の西北と違うのである。ハルピンのマーケットを潤す肥沃な土地である。平山鎮に着いた。長谷川が大荷物を担いだ。カレンは「ここ汚い」「ここダメ」と中華料理店を通り過ぎた。ついに、「平山鎮酒家」という看板のある中華料理店に入った。メニューを見ると、北方包子~牛のモンゴル焼き~麺入り鳥のスープである。
「私、餃子だけでいいわ」
「ニンニク入っているよ」と長谷川が笑った。長谷川も豚肉饅頭にした。そして長い間、疑問に思っていたユダヤがポークを食べることを訊いた。カレンの答えは明快だった。
「ユダヤ教はポークをタブーにしているけど、現代のユダヤ人は食べ物のルールは自分で決める人が多いのよ。わが家も個人主義なのよ」
店を出て、スーパーに入った。米~小麦粉~油~トイレットペーパー~紹興酒を買った。
「さてと、山岳騎兵隊の駐屯所はどこかな?」
長谷川がスーパーの中で誰にともなく言った。
「自分は騎兵ですが」とたまたま隣にいた男が日本語で言った。
「ああ、あなたが長谷川少尉さんなんですね?馬を連れて来ました」と言ってから、外に出た。馬に荷物を積んでくれた。実に馬に慣れている。
「駐屯所は何処にあるのですか?」
「駐屯所と言っても、騎兵は五人なのです。農家の納屋を借りているだけなのです。このあたりは匪賊が出ませんから」と内藤と名乗った騎兵が言って、北の峰を指さした。
「あの峰の麓が吊水湖なんです。山紫水明、、なかなか美しいところですよ。少尉殿の馬は次郎長。お嬢さんのは石松です。それでは、楽しんでください」と十字路で別れた。馬格の好いシベリア馬は、ロシア平原馬とアラビア種の混血なのである。首を上下に振って坂道を登って行く。カレンを見ると全く問題がない。ハンザ・キャノンが気にいったのか、バチバチ撮っている。展望台があった。岩水が湧いている。長谷川が馬から降りた。カレンも降りて、次郎長と石松を水飲み場に牽いて行った。石松が凄い量の水を飲んだ。長谷川が水筒に水を詰めていた。馬を潅木に繋いで、突き出た岩に登った。カレンを両手で岩の上に引き上げた。カレンがすぐに抱き着いて来た。上に反った小さな鼻が可愛い。長谷川の顔を見上げて、フフフと笑った。「幸せがいっぱい」という顔である。長谷川がカレンに双眼鏡を渡した。
「まあ、大きな滝が見えるわ。大きな湖なのね」
「細い川が南へ流れている。これが、このあたりを森林にしている。森林は、長春や奉天にはないんだ。長江でも、水利の良いところには鎮(集落)が出来ていた」
「長江のお話し、後で聞かせてね」

この松峰三鎮という山塊は七百メートル級の低山群である。中国大陸には高峰はない。インド国境のカシミール高原かキリギスタンの南にある天山山脈ぐらいである。この地形は日本軍などに一気に攻め込まれるとトドメなく押し切られる。温暖だからロシアよりも攻めやすいのである。だから、中国人は常に外敵を恐れているのである。下りは速かった。滝が見えた。長谷川が腕時計をみると、五時きっかりである。陽はまだ高い。湖畔に着いた。人影が全くない。天地にふたりだけである。夏だのに、コスモスが咲き乱れている。長谷川がテントを張った。ふとカレンを見てビックリした。カレンが乗馬ズボンを脱いでブルマ一枚になっていた。ドーチは、ブラウスを脱いで最後にブルマも脱いだ。カレンが長谷川を振り返ってにっこりと笑った。ダビンチのビーナス像のように美しかった。カレンが湖に飛び込んだ。「まあ、冷たい」と笑った。そして、長谷川を手招いたのである。長谷川がズボンを脱いだ。越中も外した。湖に走って行って飛び込んだ。湖底は砂地だが意外に深かった。そしてカレンの立っているところまで抜き手を切った。ビーナスが腕を長谷川の首に回した、、ユダヤ娘は下腹部をしっかりと男の性器に押し付けた。長谷川が下腹部が充血して硬く持ち上がるのを感じた。「あっ」とカレンが言った。そして男の唇を求めた。長谷川が応じると、カレンが舌をクチに入れてきた。長谷川は完全にカレンの虜になった。カレンが長谷川を突き放すと声を出して笑った。ふたりが沖に向かって泳いだ。岸に上がると、裸のままで焚き木を集めた。浅い穴を掘って石で囲んだ。長谷川が初めてカレンの性器を見た。たっぷりとした金色の羊毛がそれを彩っていた。視線を反らすことを許さない魔力を湛えていた。また下腹部が熱くなって来た。カレンが長谷川の陰茎が空を向いているのをじっと見ていた。男の手を取ってテントの中に入った。カレンが三つ編みを解いた。ふたりは野獣になった。男が女の乳房を吸った。女が男を引き寄せて導いた。長谷川がカレンの体に入った。「ああ」と疼痛にカレンが息を吐いた。若い野獣たちは体位を変えて何度も求めあった。やがて、カレンが長谷川の胸の中で眠りに落ちた。外で石松がけたたましく嘶いた。

真夜中に長谷川が起きた。カレンに毛布をかけて、テントの外へ出た。大気が冷えている。運動ズボンを穿いて、ウインブレーカーを着た。焚き木に火を着けて薬缶を石の上に置いた。ついで、飯盒を架けて食用油と胡椒を入れた。「ジュウ」と音がして香ばしい匂いがあたりに満ちた。カレンが起きて来た。ブルマの上にハンテイングを着ていた。テイクアウトした酢排骨を持って来た。古老肉(酢豚)のことである。
「パンにする?」と長谷川が訊いた。
「何でもいいの、ミチオが好きなものなら」長谷川がミチオになった瞬間であった。



長谷川が起きた。カレンを見た。唇に静かに接吻するとカレンが眼を明けた。そして両腕を長谷川の首に巻きつけた。
「ミチオ、ティル・ビシュ・ミヤ?(ユーラブ・ミー?)」
「リュビュル・ティビャ(愛してる)」とカレンを抱き寄せた。カレンが脚を開いた。

二日目も快晴だった。朝陽が東の万佛山から昇って来た。ふたりは湖で体を洗った。長谷川がテントを畳んで次郎長の鞍の後ろに括りつけた。カレンは背嚢を石松に括りつけた。ふたりが馬に股がると吊水湖の東を流れる川を目指して歩き出した。
「カレン、この新旗村に行ってみようよ」と地図を指さした。
「何があるのかしら?」
「農村とだけ書いてある」
吊水湖から二時間、潅木の茂る山稜を下って行った。野菊が咲き乱れている。気温が低いからだろう。峡谷に村が見えた。三十軒もあるだろうか。村の真ん中に道がある。横に三本の細道があるだけだ。新旗村の北口に着いた。ふたりと二頭の馬が村道を南に向かった。山羊が放し飼いになっていた。道で遊んでいた子供たちが集まって来た。
「漢族じゃないね」
「着ているものだと、回族じゃないかしら」
長谷川は回族を聞いたたことがあるが見たことは始めてである。満人と違うのは、子供たちの大きな丸い目である。ペルシア人にも見える。カレンがチョコレートを割って分け与えた。親が出てきて感謝した。枝の付いたスモモと何か缶に入ったものをくれた。川の浅瀬に馬を入れて水を飲ませた。
「カレン、川に沿って南西に行くと、大平村~西河屯がある。この松峰山脈の裾野を行くと平山鎮の駅に着くんだよ。今夜は、西河屯でキャンプしよう」
カレンがそのへーゼル色の眼で長谷川を見ていた。昨夜、獣のようになった。自分は女になった。もう少女ではないと雄弁に語っていた。大平村には茶園があった。カレンがパンを取り出した。ナイフで切ると、イリアが作った苺ジャムとバターをぬった。二つを重ねて半分に切った。

――カレンは妻になっている、、自分には佐和子と三人の娘がいる、、何故、男は複数の女を愛せるのか?貰った缶を開けると、ヨーグルトであった。西河屯は村が大きかった。平山鎮の町に近いからだろう。つまり、鉄道が繁栄の基なのである。この意味で日本は満州に貢献した。北の山稜に雨雲が広がっていた。長谷川が八甲田山を想い出した。
「カレン、テントを張ろう。雨がやって来る」
長谷川がブナの森の中にテントを張った。雨が浸透しないようにもうひとつのテントを上に被せた。ついで、焚き火を作って湯を沸かした。ハルピンから持って来た焼き鴨が夕飯だ。ひとくちサイズに切って串に刺した。川原で米を研いだ。チチハルの野外訓練を想い出していた。
「今、飛鳥少佐は何処にいるのだろうか?」と曇天の空を見上げた。カレンはテントの中に軍用毛布を重ねて敷いていた。道端から野菊を摘んでワインボトルにさした。

――佐和子と自分は同じ歳だが、この娘は自分よりも九歳も若い。自分の未来は何なんだろう?と長谷川が遠くを見る眼になっていた。気温が下がっていた。長谷川が馬に雨具をかけた。
「ミチオは、馬を良く知っているのね」
「うちは酪農なんだよ。仔馬が毎年春に生まれる」
「日本に行きたいわ。私を連れて行って」
長谷川は答えずカレンを抱きしめた。ふたりがテントに入ると、ボタボタと大粒の雨がテントに当たった。紅茶でクッキーを食べた。裸になって毛布に入ると、ふたりは抱き合った。カレンの眼が潤んでいた。長谷川をカレンはスムースに受け入れるようになっていた。闇に閃光が走ったと思うと近くで雷が鳴った。

三日目の朝が来た。大気は冷たいが晴れていた。西へ向かった。三時間で平山鎮の街の南口に入った。ちょうど一周したのである。ふたりは騎兵隊駐屯所へ行った。内藤一等兵が笑いながら出て来た。
「匪賊は出ましたか?」
「いや、狸だけでした」と大笑いになった。騎兵はそのまま、ふたりを平山鎮の駅へ連れて行った。騎兵が敬礼した。長谷川が答礼を返した。ミチオが少尉に戻っていた。カレンが石松の長い馬面を撫でた。ハルピン駅に着いた。午後の四時になっていた。駅前でハイヤーに乗り、スターコビッツ家に帰った。イリアとヤコブがふたりを抱きしめた。
「まあ、随分と日焼けしたのね」
「ママ、湖が美しかったの。真っ裸で泳いだのよ」とイリアを驚かした。
「長谷川さん、娘を有難う」とヤコブが言った。
「ミチオは、とても馬を扱うのが上手なのよ」
――ミチオ?イリアは一瞬にして全てを理解した。
「ごちそうさま。ボク寝ます。カレン、明日の朝、ボクと領事館へ行ってくれないか?」
「勿論よ。ミチオ、洗濯物出しておいて」
これもイリアを驚かした。なぜなら、長谷川は下着を自分で洗っていたからである。だが自分の若い頃のことを想い出して、驚きは必然なのかと思い直した。

続く
05/23
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
第2章



長谷川道夫の乗った一式輸送機が上海浦東陸軍飛行場を飛び立った。朝から、ニョキニョキと東シナ海の上空に入道雲が立っている。七月なのである。帰りも、やはり大連の周水子飛行場に降りた。カレンに電報を打った。海軍士官が乗り込んで来た。長谷川を見て敬礼をした。長谷川も答礼をした。
「上海はどうでしたか?」と隣に座った海軍中尉が訊いた。
「上海は不思議な街です。闇の世界が支配しているのですが、表では平和で楽しいのです。貧民街があるが支那人は意外に明るいのです。これは希望があるからです」と中尉を驚かした。
「危険な目には会われなかった?」
「はあ、恐れている暇がなかったのであります」
「われわれは新京で降ります」
一式輸送機こと、ロッキードI・16は、ゴロゴロと快音を立てて飛んだ。長谷川が飛鳥少佐を想った。「日本に帰れば安全だ」と思った。
新京駅と関東軍司令部の城が見えた。南新京飛行場に着陸した。今度は陸軍士官が乗り込んで来た。どれも若い将校である。古年次士官ではない。武漢三鎮や徐州会戦に出て行った第五師団と第六師団の穴埋めだろう。まだ戦場の洗礼を受けていない若者たちだ。どおりで、よく喋る。遠足気分なのである。三十分後、南新京飛行場を飛び立った。上海を飛び立ってから八時間が経っていた。「ガタン」とロッキードが脚を出した。夕陽が西に沈んで行く。ハルピン平房飛行場に着陸した。ハルピンに帰ったその夜は、平房の憲兵隊将校宿舎に泊まった。カレンにもそのように電報を打ってあった。

「長谷川少尉殿、ご苦労様であります。兵隊食堂で食事をしてください」と曹長が敬礼した。
「有難う。少し疲れたので、軽く食べて寝ます」と笑った。
「今夜のおかずは三陸の秋刀魚であります」
「明日朝、三国指令官殿に会いたいんだが」
「食堂に居られますよ」
食堂に入っていくと三国が立ち上がった。
「長谷川少尉、ご苦労であった。飛鳥君が日本に帰られたと聞いた」
「は、ご無事だと思います」
「明日朝九時に司令官室へ来て報告してくれ」
「は、話しが沢山ありますので、よろしくお願いします」と言ってから靴を揃えて敬礼をして、自分のテーブルに着いた。給仕兵がビールを持って来た。
「秋刀魚を二尾くれんか?」
新鮮な秋刀魚の塩焼きが運ばれて来た。匂いが非常に好い。大根おろし~なめこの味噌汁、白菜の漬物、沢庵までが懐かしかった。 
                    
翌日、三国憲兵指令官に南原竜蔵を葬った話しをすると、「う~む」と唸った。
「飛鳥少佐は豪胆だな。あの風貌は、そのようには見えないがね」
珍宝楼に花火を持ち込んだ話をすると、三国が大声で笑った。
「それに愛嬌もある。ストリッパーはどうしたのかね?」
「ロングスカートを抱えて逃げました」
「もう上海に行かんでもいい」
「指令官殿、上海は不思議なところです」
「また聞こう。すこし休んでくれ。島原領事もそう仰っている」
「乗馬に行こうと思っています」
「騎兵隊にいい馬を出せと言っておく」と三国が長谷川の肩に手を置いた。

一等憲兵がダットサンを運転して南崗区に戻った。天龍公園で降りた。ジュラニウムの花が咲き誇っていた。湿気が凄い。スターコビッツ家の館に着いた。ドアのベルを鳴らすと、カレンがドアを開けた。涙がみるみるドーチの頬を濡らした。母親のイリアが娘を見ていた。「まあ、この娘ったら」と微笑んだ。長谷川が無言でイリアを抱きしめた。居間にヤコブが居た。チャイコフスキーのバイオリン協奏曲を聴いていた。ヤコブは立ち上がって、長谷川を抱きしめた。そして、「飛鳥さんは?」と訊いた。
「飛鳥さんから預かった」と言って、清朝時代の青磁の花瓶を取り出した。
「まあ、なんて美しいこと」とイリアが花瓶を抱きしめた。
長谷川も、カレンに翡翠の首飾りと耳飾りのセットをプレゼントした。カレンが長谷川に抱き着いた。ドーチが、また涙をこぼした。
「ママ、今、すぐ着けてもいい?」と甘えた。
「さあ、カレン、親戚を呼んでおくれ」とヤコブが言った。
「今日、長谷川さんが帰ってくるというので、仔牛を煮込んだのよ。フランケンっていうの」とイリア。
「パンは私が焼いたの」とカレン。

親戚一同がワインを持ってやって来た。カレンの翡翠を見て口々に賞賛していた。長谷川が、衣服を着換えたいと部屋に戻った。カレンが長谷川のワイシャツを持って入って来てドアを後ろ手で閉めた。そして、長谷川の首に腕を巻き付けた。長谷川がカレンの赤い唇に接吻をした。



朝が明けた。紅茶の臭いが漂っている。
「私、教室があるの、午後には帰って来るわ」とカレンが新聞を読んでいる長谷川に紅茶とクッキーを持って来た。
「その池田良一という生徒だけど、何か変わったことはある?」
「う~ん、表情が読めないの。とても、つまらない人なのよ」
「島原領事さんは何か言ってるの?」
「これは話せないの。こないだ恐い顔していたわ」
午後になってカレンが帰って来た。
「明日朝、領事館に来てくださいって領事さんが仰ったわ」
「ボクも山ほど、報告があるんだよ。イワノフから何か言ってこないの?」
「言って来たわ。それも領事さんから聞いて頂戴」
長谷川がハバロフスクに行ったイワノフとウランを想った。
「長江の日本軍はどうしてるの?」とカレンが訊いた。
「難しい質問だね」
「日本軍は何処まで行くのかしら?」とカレンの目が遠くを見る目になっていた。
「飛鳥少佐が英米軍はビルマロードを閉鎖するだろうって仰っていた」
「飛鳥さんはここへ戻って来るの?」
カレンは飛鳥が長谷川にとって、いかに大事な人か分っていた。
「満州の防衛に大事な人だからね」と長谷川は早く飛鳥が戻ることを願った。

翌朝、カレンと長谷川が天龍公園に歩いて行った。
「特高はまだ向かいの家にいるの?」
「いいえ、この頃、見ないわ」
「露探はカレンに用がないんだ。それはね、池田良一が領事館内にいるからだよ」
山中武官のダットサンが時間通りにやって来た。
「少尉殿、お久しぶりです」と敬礼をした。
領事館に入ると、カレンは教室に行った。長谷川は島原領事の執務室に入った。
「やあ、元気かね?」
「おかげさまで病気もしません」と報告をし始めた。
「上海領事館の報告で知っているが、日本軍は重慶まで進軍したね」
「日本軍はたいへん元気です。しかし、三十万の兵と機甲部隊の兵站が気になります。なにしろ上海から千二百キロですから」
「どこかで引き返すのが良いんだがね」
「領事さん、イワノフは何処に居るのですか?」
「ここ一ヶ月、連絡がないので心配している」
「あの池田という学生は問題ないのですか?」
「ある。飛鳥少佐が戻るのを待つ考えだ」
「長谷川君、君とカレンに休暇を出す。一週間だがね」
カレンと長谷川が天龍公園でダットサンを降りた。
「ねえ、カレン、ロシア料理食べる?」
「私、あの塔道斯(トトロ)って、お店が好きなの。あなたが帰って来るのを待ってたの」
ふたりが個室に入った。いつもの気の好い親父がカレンの好きなワインを覚えていた。カレンが長谷川に接吻をした。そのとき「モシモシ」と個室の外からイワノフの声が聞こえた。ウランも居る。ふたりとも笑っていた。そして黙って横を通り過ぎると「ドカッ」と座った。イワノフが機関銃のように料理を注文し始めた。ウランはいつの間にかビールを舐めていた。
「雰囲気を台無しにされたわ」とカレンがふくれた。クールな長谷川がふき出した。
「ハバロフスクはどうなったの?」
「危なくなったので逃げてきたヨ。電信も打てなかったヨ。ドイツがソ連の最大の脅威なのよ。おかげで当分、満州はダイジョーブ」
「私たち、明日から、乗馬の旅に行くの。着いてきちゃダメよ」
「どうして?」イワノフが笑っていた。
「嫌な奴」とカレンは怒ったふりをしていたが目は笑っていた。
「ミス・スター、その翡翠、誰から貰ったの?」と再びからかったところで、「もうやめなさい」と長谷川がカレンの目が吊り上がる前にイワノフに言った。すると、さすがにバツが悪くなったのかイワノフがフロアに行ってアコーデオン弾きに歌を注文した。イワノフがマイクロフォンを取って歌い出した。

赤いサラファン ぬうてみても
たのしいあの日は 帰えりゃせぬ
たとえ若い娘じゃとて
何でその日がながかろう
燃えるような そのほほも
今にごらん いろあせる
その時きっと 思いあたる
笑ろたりしないで母さんの
言っとく言葉をよくおきき
とは言えサラファン ぬうていると
お前といっしょに若がえる

体重二百キロの巨漢は、なかなか良い声をしていた。低音のバスである。テーブルに戻って料理を平らげると、イワノフが「オーチン・ハラショ」と立ち上がった。ウランも立ち上がった。                 

続く
05/23
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第三話
第三話
第一章

飛鳥がベルボーイに「記念写真を一枚撮ってくれ」と頼んだ。そして、ふたりは肩を組んでポーズを取った。
「お客さま、笑ってください。ハーイ」とボーイが言って、オリンパスのシャッターを切った。
「長谷川。これを君に上げよう」と飛鳥が革カバンを長谷川に渡した。何が入っているのかズシリと重い。手榴弾ならもう懲り懲りだと思いながら受け取った。飛鳥がトランクを持って出て行った。長谷川は心が空になるのを覚えた。部屋に戻って佐和子に手紙を書いた。小樽の埠頭を離れてから、十一ヶ月が立っている。一人になった。自分に取って、いかに飛鳥の存在が大きかったか、、部屋に戻った長谷川が飛鳥に渡されたカバンを開けて「あっ」と声を上げた。印刷インクのにおいのする米ドルの札束がギッシリと詰まっていた。そして短い手紙が入っていた。

―これは一色金造の贈り物だ。人間、浮世では何かとカネが要る。自分を守るために使え。飛鳥

長谷川は数々の想いが頭をめぐり、止めどもなく体が震えた。夕方、ハロッズからスーツが届いた。ネクタイ~白い手袋~ハンカチまで入っていた。ベッドスタンドの電話が鳴った。「迎えが来ている」とベルボーイが言った。ロンドン仕立てのダブルを着て鏡の前に立った。自分でも驚くほど紳士に見えた。それも闇の紳士である。トンプソンを構える格好をしてみた。まるで、シカゴのイタリアン・マフィアなのだ。表情を練習した。これも、フランク・ニテイそのものである。「にやり」と口を歪めてひとさし指を立てた。「拒否」のジェスチャーである。「はあ」とふたりの武官が感心していた。武官たちもヤクザ風なのであった。黒いスーツ~グレーのソフト~白い靴、、
「みなさん、よくお似合いですね」とボーイがドアを開けた。セダンが南京路へ向かった。上海青竜江迎賓館に着いた。青竜の刺青のある支那人のヤクザがふたり立っていた。ドアを開けると長谷川が降りた。大男のヤクザが長谷川の股間をまさぐった。そして、ロビーに招いた。武官たちも同じように探られた。
ロビーを通って宴会用のボールルームに入った。シャンデリアの下に楕円形の豪華な円卓がある。スーツに飾りの白いハンカチを胸のポケットに入れた英国人の男が二人、カウボーイハットの赤ら顔のアメリカ人ひとり、支那服を着た中国人が三人立ち上がった。
「ニイハオ、鯨神さん」と一斉に言った。これには、わけがあった。領事館が長谷川は広島の新興ヤクザ鯨神一家の組長に似ている。それに化けることに決めたのだ。若親分の鯨神辰夫は上海に来ていた。だが、子分ごと特高警察に拘束されて牢獄にいたのである。
「ニイハオマ?」と長谷川が挨拶をした。叩頭はしなかった。後ろの武官たちは、ペコペコと叩頭を三回した。
「若親分に乾杯」と太った親分が言った。黄金栄だと判った。横に弁髪の杜月生がいた。黄金栄、杜月生、張粛林の三人の顔役は上海では有名であった。
「張粛林親分は?」と長谷川が訊いた。
「張粛林親分は体調が悪くて来られない」と杜月生が答えた。長谷川が天井のシャンデリアを見上げた。

上海は法規制が緩く、阿片窟、売春宿、カジノなどの商売が繁盛していた。法治社会よりも裏社会が築かれていた。上海ギャング青封の親分格である黄金栄、杜月生、張粛林の三人は裏の世界の顔役になっていた。青封はおおっぴらに売春宿や阿片窟を営み、阿片の流通を支配した。さらに、行政に裏から手を回していたため、これらの行為が取り締まられることもなかった。この土台が更に国内外の犯罪者を呼び寄せた。娯楽が豊富にあったために「この街を一度訪れたい」と思うような魅力を作り出していた。成功した者は黄浦江のバンドに現代的な建物を立て、最新の消費文明を享受した。豊かになるに従ってさらに多くの外国人が訪れるようになったのである。流入したのは外国人だけではなく、地方から多くの中国人も仕事を求めて流入し始めた。安い中国人労働力を求めて、黄浦江の東岸には多くの工場が建てられた。多くの人によって産み出された莫大な富は上海に摩天楼を築き上げた。ということは、この闇の帝王たちは上海に貢献したとなるのである。上海が「暗黒街」とか「魔都」と呼ばれるゆえんである。
宴会が終わると、サイコロ賭博が始まった。「明日、それでは」と長谷川が上がった。黄金栄が不思議な顔をした。だが、「では明日、商談をしましょう」と言って腕を広げた。だが長谷川は見て見ぬふりをした。長谷川が、「ああ、記念写真を撮りましょう」と想い出したように言った。そして円卓に再び座った。写真屋が「ボ~ン」とフラッシュを焚いた。この写真屋は領事館が手配したものであった。フォードの扉を閉めた。北の上海駅の方角に走った。
「車が尾行している」とマフィア風の中折れをかぶった武官がバックミラーを見て言った。
「何人だ?」
「三人です」
「駅前で停めろ」と長谷川が言った。セダンを降りて、駅へ行くふりをした。そして何か忘れたかのように戻って来た。追跡者を確認したのだ。セダンに乗ると、トカレフを引き抜いた。「ユーターンしてくれ」と運転手の武官に言った。黒いダッジが暗闇に停まっていた。やはり三人乗っていた。長谷川がその運転手に向かってトカレフを発射した。弾丸はフロントシールドを貫通した。運転手がハンドルに、うつぶせになった。残りのふたりが逃げだした。ふたりの武官がフォードを飛び出して南部の引き鉄を引いた。上海のヤクザがひっくり返った。野次馬が集まって来た。その中には警官までいた。誰も何も言わない。三人の男が明らかに暗黒街のヤクザに見えたからだ。長谷川がクチを歪めて地面にのびている三人を写真に撮っていた。武官がアクセルを踏んだ、、三十分後、海関大楼のドライブウエーに停まった。ベルボーイが飛んで来た。
「乾杯しなおそう」と長谷川が言った。三人のにわかマフィアがバーへ行った。

「あいつらの正体は判ったか?」
杜月生はサイコロ賭博から目を上げもせず、手下に追跡の結果を訊いた。三人とも殺られたと聞き、「う~む」とだけ言った。
「あの飛鳥という憲兵少佐が来てから何もかもが上手く行かない。張粛林老板は花火で大焼けどを負った。杜さん、そう思わんか?」
黄金栄がサイコロを投げたが、出目はゾロ目だった。
「黄さん、だが、さっきの鯨神は違うぞ。飛鳥はあんなに体格は良くない。こいつも殺らなければならない。ハルピンから情報を待っているところだ」
「杜さん、飛鳥が隙を見せるのを待とう。黒竜江のソ連軍も煮え湯を飲まされたから、ロタンが飛鳥を追っかけている。あとはどこで殺るかだけだな」
黄が見せた顔は、背筋が寒くなる様な笑みだった。

続く

05/22
北朝鮮の貨物船が浸水で海保に救助を要請、、


伊勢は、自分が生まれた満州を舞台に小説を書いてブログで連載しているけど、みなさんに国家間の戦争の一面を小説を通して知っていただきたかった。この北朝鮮は日本の敵国です。こういう敵国の海難事故が起きたとき、日本はどうする?

管政権は正しい判断が出来ない、、

みなさんに言う必要などない。それほど無能なんです。人間が成長していないどころか、管の額には「因業」と言う文字が浮き上がっている。実直に見えて、実は、エゴが強いんだね。こういう人間もだけど、自民党の腐敗ぶりは目も当てられない。国会議員は右も左も極端に頼りない。その原因は飽食飽飲、政府の給付する運転手付き高級車に乗っているなどです。戦争になっても、それは自衛隊に任せて、自分は安全なところに居ようと決めている。つまり死を決した連中じゃない。主人公の長谷川道夫は内地に妻と 娘三人を残して死を覚悟する。みなさん、その意味を知って読んでくださいね。伊勢
05/21
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第10章



飛鳥が北京東路と南京東路の間の寧波(にんぽ)路でハイヤーを降りた。銀行街である。浦東江が見えた。横浜正金銀行の本社ビルがあった。銀行の後ろは繁華街である。中華大楼~四五六大酒家~五福亭、、登龍門のある巨大な料理店が一キロは続いている。飛鳥が「寧波両替交易公司」と書かれたビルに入って行った。受付の日本人事務員が作務衣を着て下駄を履き頭陀袋を手に持った坊さんを見た。そして怪訝な表情で用件を聞いた。坊さんが何か細々と話していた。
「頭取には予約なしでは会えませんよ」と受付が素気なく言った。
「これは頭取にとって大事な手紙なのだ」と人が好さそうな禅坊主が封筒をその事務員に渡した。
「預かります」
「今すぐに届けろ」と飛鳥の声が一変した。その迫力に怯んだ事務員が首から下げた笛を吹いた。数秒を置かずに力士のような広東人の警備員が横のドアから出てきた。だが力士は恐怖に顔がひきつった。なぜなら、飛鳥が南部の銃口を力士のクチに押し入れたからだ。真っ青になった事務員が女性事務員に頭取に手紙を届けるようにと言った。
「受け付けの騒音は何かね?」

社長室で渋い顔をしていた一色金造が手紙を開封した。二枚の写真が出てきた。その写真が何であるかが分かった瞬間、一色が分厚いクチをパックリと開けた。そこには信じられない光景が写っていた。両脚がない弁髪の男が床に転がっていた。よく見ると、何度も復讐を夢に見た青竜会の南原竜蔵ではないか。もう一枚には、福建人の子分どもが転がっていた。
「ウオー」と一色が、ヤマゴリラのような声を上げた。一色が真っ赤な眼をして受付に飛び出して来た。作務衣の坊さんを見て猪首を傾げた。
「あなた様には、どこかで会いましたね」
「ハルピンさ。忘れたかい」
「飛鳥参謀?」
一色が信じられないという目をした。
「そうだ。俺だ」
巨漢がカーペットに膝をついて泣き出した。従業員が仰天した。
「本日休業にしろ。キサマら帰れ!」と一色が事務員をどなった。事務員が青くなった。ふたりが社長室に入って内側から錠を掛けた。
「娘さんはどうしている?」
「東京大学で整形手術を受けました。さすがは東大です。傷跡はすっかりなくなったのですが心に病が残りました。精神科へ通っています」
「禅寺へ行って釈迦の教えを聞くと好いと言っておくれ」
用は済んだとばかりに飛鳥が立ち上がった。
「飛鳥さん、ちょっと待ってください」
一色が立ち上がる飛鳥を引き留めた。一色がクルリと背を向けて何の変哲もない本棚に手を掛けると、その一部がゴトリと動き始めた。

フランス租界を観光に行った長谷川が人力車に乗って海関大楼に戻って来た。飛鳥がいなかったがメモが机の上にあった。――玉仏禅寺へ行く。夕方帰るからフランス料理を食おう。飛鳥が坊さん姿で戻って来た。シャワーを浴びて背広とネクタイに着替えた。ふたりは階下のフランス料理店に入った。
「長谷川、俺は明日の昼に福岡に飛ぶ。しばらく日本で仕事がある」と飛鳥が長谷川を驚かした。
「はあ、自分の任務はなんでありますか?」
「明日の夜、サロン・キテイへ行って、上海の顔役と会って来てくれ。これは桜三号の君にしか出来ない。阿片のルートだ。上海のギャングは欧米の政府に保護されている。兵器の仲介をしている。日本兵がその兵器で死ぬ」
「自分も上海に留まれませんが」
「上海のキングらのリストが出来たら、ハルピンへ帰り給え。飛行機は上海領事が手配している」
長谷川は黙って頷いた。
「何か質問はあるか?」
「はい、桜一号と二号は誰なんですか?
飛鳥が暫く黙っていた。
「二人ともロシア語が堪能だったが暗殺された。俺がロ探に接近させたのが拙かった。ハルピン特務機関と見抜かれて殺された」

長谷川が英国租界へ向かって歩いていた。約束の場所に領事館員の津村という女性が待っていた。ふたりがハロッズに入って行った。長谷川にハロッズを勧めたのは黒駒上海領事である。黒駒が「長谷川君、髭を剃れ」とアドバイスした。
「何にご興味がありますか?」と店員が挨拶をした。
「ダブルのスーツを見せてください」と津村が英語で店員に言った。どれも高価なものだ。何しろ、エジンバラ公が贔屓なのだから。店員が津村の指さした濃紺のスーツをハンガーから外すと、「これがエジンバラ公のお気に入りなんです」とカネはあるのか?という無礼な顔をした。
「これがいい」と長谷川が言うと、「それでは、寸法を測らせて頂きます」と店員が巻尺をポケットから取り出した。胸、腕、腰、腰から足のくるぶし、、
「お客さまは、肩、腕、腿ががよく発達されておられます。テーラーが必要です」と言った。津村が注文して、前金を日本円で払った。「やはり日本人か」と店員が長谷川の顔を見ていた。それほど、長谷川は、ロシアの将校に似ていたのである。次に向かいの「ワシントン」という靴屋に入った。津村が茶色のコルドバンを選んだ。次に、帽子の老舗に入った。やはりアメリカ製のグレーのソフトを買った。

続く

05/21
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第9章



「飛鳥さんと長谷川さんですね。お客様が待っておられます」とフロントの英国人女性が言った。すぐに会議室に通された。
「飛鳥少佐、お久しぶり」と犬養海軍大佐が椅子から立ち上がった。
「海軍特別陸戦隊はどうですか?」
飛鳥が参謀に戻っていた。
「まだまだ増兵が要る。このサスーン・ハウスを外交官との交流に使っている。実は、頼みがある。青竜会をご存知か?」
「福岡のヤクザと支那のギャングの地下組織ですね?」
「そうです。秘密結社などではない。だが日本軍も、支那軍も、英米資本までがギャングを利用している」と大佐が言って地図を広げた。日本租界の一部を指さした。蛇口というスラム街である。
「日本人ギャング退治でありますか?」と飛鳥が抗議する口調で言った。
「そうです。貴殿に頼むほか手がないのだ」
「憲兵隊を送ったらいかがですか?」
「いや、難しい。公に出来ないからだ」
「任務となら、関東軍司令部の命令が要ります」
飛鳥は断る口調になっていた。だが返答は思ってもみないものだった。
「貰ってある」
「われわれ二人だけですか?」
「頭目の南原竜蔵に引導を渡してくれ」と南原の写真を数枚くれた。南原は頭の真ん中を剃り、弁髪を下げ、支那貴族の刺繍のある絹を着て、アメリカ製のトンプソン短機関銃を持っていた。シカゴで警官とギャングが撃ち合ったトミーガンである。傲慢にして、加えるに凶悪な目付きの男だ。
「少尉、これが南原だ。一色金造の娘を輪姦した奴らさ」
「覚えています。一色金造という娼館の金主ですね。一色は今、何処におるんですか?」
「南京路で銀行をやっとる」と飛鳥がクチをまげて笑っていた。
「今日は、五月の末日です。ハルピン領事に電報を打ちたいのです」と長谷川が大佐に言った。三人は屋上の見晴らし台に行った。サスーン・ハウスは十二階建てである。今世紀始めてのエレベーターなのである。長谷川が電信機を取り出した、、「返事は上海日本領事館にください」とキイをカタカタと打った。カレンが「上海滞在は長期になる」と電報を読んで驚いた。想像はついていたが、やはりそうなった。カレンが佐和子から来ていた手紙を上海の日本領事館に郵送した。



犬養大佐が「蛇口菜館」という中華料理屋の三階のホテル・アパートを手配していた。蛇口菜館が青竜会の本部だからである。その名の通り日本租界の唯一のゲットーである蛇口にあった。ホテルの入り口は蛇口菜館の横にあった。飛鳥がドアを叩いた。腰に青竜刀を下げた猪八戒のような男がドアを開けた。男の後ろにこれまた孫悟空のようないでたちの男が立っていた。ガードだ。長谷川が視線を感じた。奥のテーブルに辮髪の男が座っていた。南原竜蔵である。
「ここはプライベートのクラブだ」と猪八戒が言った。福建省訛りがあった。飛鳥が左腕の刺青を見せた。小さなミドリ亀の刺青であった。孫悟空が奥のテーブルに行った。弁髪の男の眼が光った。

――オットーが言ってきた桜三号特務機関員の長谷川だな、、

ふたりが奥の部屋に案内された。アヘンを買いたいのだと飛鳥がドサッと革の鞄をテーブルに置いた。そして日本円の札束を取り出した。
「南原さん、十万円ある。収めてくれ」と言うと、南原が札束を掴んで手金庫に入れた。
「インドの阿片の値段が騰がっておるばってん。日曜日、朝の十時、残りの四十万円を持ってきんしゃい」と南原が飛鳥の顔を観察しながら言った。長谷川が、これでうまく行くとばかりに頷いた。ところがどっこい、南原竜蔵は、ちょっとやそこらで、会ったこともない人間を信用する男ではなかった。ミドリ亀の刺青など誰でも出来る。飛鳥が見せた刺青は偽モノだと見抜いていた。
「少尉、南原な、俺の刺青は偽モノと見抜いているよ」
「どうしますか?」
「だが、あの十万円は本モノなのだ。残りの四十万円を奪いたいだろう。日曜日だが、襲撃しよう」
「少佐殿、われわれの命は大丈夫なんですか?」と言うと、飛鳥が鞄から手榴弾二個を取り出して、長谷川にウインクして見せた。長谷川の背中に戦慄が走った。
「拳銃も持って行く」と作戦を長谷川に話した。

――自分は科学者なのだ。妻も娘もいる、、

日本料理店に入って、トイレに入った。支那人の商人の服に着替えた。日本人の女給がじっと見ていた。何も言わなかった。ふとした一言が命取りになる上海なのだ。喋ることが危険だと知っているのである。天麩羅で日本の飯を食った。長谷川が大きなチップをテーブルに置いた。そして、蛇口菜館の三階に帰った。

飛鳥がオリンパスをいじっていた。レリースに銅線を取り付けている。銅線の端に電池を付けて、スイッチを絆創膏で巻いた。スイッチを押すと、シャッターが降りた。長谷川が「何をしているのか?」と見ていると、飛鳥が飾り窓にオリンパスを取り付けた。その上に手鏡を取り付けた。元天台宗の坊主は、なかなか器用なのだ。長谷川は飛鳥が何をしているのか判った。蛇口菜館の玄関に入って来る人間を撮るためだ。蛇口街は夕闇にすっぽりと包まれていた。だが蛇口菜館はネオンで輝いていた。手鏡を見ていると、何人かが出入りしていた。よく見ると、同じ男や女である。椅子に座って紹興酒を舐め舐め飛鳥がシャッターを切っていた。蛇口菜館がネオンを消した。二人の男と女一人が出て行った。
「少尉、実はな、特高警察に連中の後を着けてもらっている」
「アジトの追跡ですね?」
「青竜会は、いろんな商売をやっている。本屋、女郎屋、阿片屈、ドル買い、恐喝、人さらい、殺人、その他全部だ」
「青竜会をどうするのでありますか?」
「わからんが日本から親分衆が来るらしい」
「だから魔都というわけですね」
「阿片商売は、日本人はヤクザしかやらん」
「満州映画の甘粕大尉がやっております」と長谷川が抗議する調子で言った。
「だが、儲けるためじゃない。クーリーに払う賃金なのだ」                
日曜まで、四日あった。ふたりは服装を着替えて、サスーン・ハウスに行き、犬養大佐に会った。
「手榴弾を投げたことがあるかね?」と大佐がふたりに訊いた。「全く経験がありません」と言う返事なので、陸戦隊基地へふたりを連れて行った。
「手榴弾はタイミングなのだ。間違えれば確実に死ぬぞ」
長谷川がゾ~とした。軍曹が二人を特訓した。手榴弾は写真機とは目的が違う。長谷川が握り方をなかなか覚えないので、「失礼」と言って、長谷川の手を叩いた。何度もやり直したのである。
「ギャングもろ共、豚死するのは御免だぜ」と飛鳥が眉毛を下げて心配そうに見ていた。その飛鳥も手榴弾を握るのは初めてなのだが、、将校クラブで軽食が出た。海軍のメシは美味いと評判だったが、やはりその通りだった。陸軍の麦飯と違って銀シャリなのだ。おかずが美味いのは、船で日本から新鮮な食材を持ってくるからである。食後に、インドネシア産のジャバコーヒーが出た。
「長谷川少尉、手榴弾を握ってみろ」と犬養大佐が突然言った。練習用の爆薬が抜いてあるものだった。
「少尉は恐れている。そんなに強く握ってはいけない。野球のボールだと思え。持ち歩きたまえ。慣れるためだ」
二人は夕方まで、新兵と共に、上海上陸戦の講義を聞いた。北部満州の馬賊征伐とは全く違う近代戦であった。長谷川が佐和子とミチルを想っていた。もうすぐ臨月だが、父親の自分は手榴弾の投げ方を習っていると天井を向いて、ため息をついた。海軍武官の運転する車で蛇口菜館の三階に帰った。

3  
           
「少尉、これを見てみろ」と飛鳥が、領事館が届けた印画を見ていた。英国人、アメリカ人、日本人、支那人が写っていた。四十人は出入りしていた。南原は写っていなかったが南原の女と思われる支那服を着た姑娘が写っている。長谷川がこの年に流行った支那の夜を想い出していた。
「こいつらが資本家だ。日本の敵なのだ」
「すると、日本は国民軍とだけ戦争していないのでありますか?」
「その通りだよ。敵と言ったって、誰が誰だか判らんのよ。日本の軍部は総力戦を誤解しているのだ。陸大を右総代で卒業したといっても単細胞なのだ」と言った飛鳥はモクゾウ蟹ではなく美濃の斉藤道三に思えた。
「石原莞爾参謀は優秀な方ですか?」
「頭はいいね。世界最終戦争論は読む価値がある。だが性格が宥和タイプだから、性格が強く、譲らない板垣征四郎大将に従う。この性格が弱い参謀が多いのだよ。そこへ、過激なチンピラが加わる」
「はあ?」
「つまり日本の参謀は人間の化学がわからないのさ。さらに感情に惑わされる。退くことを選ばず、総員突撃など短絡的な手段に出る。少し考えれば分りそうなものだが。頭の構造が日露戦争時代と変わらない。可哀そうなのは兵隊さ」と陸戦隊の八割が上海上陸戦で戦死したことを語ったのである。長谷川は飛鳥が軍部の批判をしたのを初めて聞いた。
「ああ、そうだ。君に手紙が来ている」と机の引き出しから一枚の封筒を取り出した。長谷川がナイフで封筒を丁寧に開けた。

――道夫さん、元気にしていますか?赤子が産まれました。大きな女の児です。また娘です。ごめんなさいね。お乳を吸う力がとても強いのよ。私は幸せです。名前を考えてください。急ぐことじゃないけど、名無しでは可哀そうだから(笑い)。陸奥湾のホタテが豊漁です。陸軍が買い上げていますから、兵隊さんは缶詰めで食べられるのよ。道夫さんがいたら、私とミチルが炭で焼いて食べさせています。秋田、新潟の米は中国戦線へ、みな送っているそうです。でも、あなたは今、何処にいるのでしょう?佐和子
佐和子が新生児に乳をやっている写真と一家の写真が入っていた。それを飛鳥がじっと見ていた。

「こどもが生まれました。また女の児です」と笑った。飛鳥がロビーへ行って紹興酒、ビール、落花生、焼き豚を持って帰って来た。
「作戦会議はもうやめよう」と斉藤道三が椅子に座ってビールを抜いた。長谷川のコップに注いだ。
「吉野木挽唄を唄いたいが、となりに聞こえるだろうな」と笑った
「支那の夜はどうですか?」
「よし、それで行こう」
支那の夜 支那の夜よ
港の灯り 紫の夜に
上るジャンクの 夢の船
ああ 忘られぬ 胡弓の音
支那の夜 夢の夜

支那の夜 志那の夜よ
君待つ宵は 欄干(おばしま)の雨に
花も散る散る 紅も散る
ああ 別れても 忘らりょか
支那の夜 夢の夜



日曜日の朝が明けた。長谷川が起きると、飛鳥が寝巻き姿で南部とトカレフを点検していた。
「少尉、パンを食え。食ったら、ハバカリへ行っておけ」とコッペパンと牛乳を一本くれた。その後、床で柔軟体操をした。鏡の前に立って拳銃を握って構えた。体操で体が温まった。憲兵将校の三式制服に着替えた。長靴を履いた。幅の広い革のベルトに飛鳥が手榴弾をフックで下げている。何か滑稽な恰好だったが長谷川は笑わなかった。使うときには、掴んで引っぱるだけである。飛鳥が引っ張って練習をした。それからトカレフを長谷川に手渡した。長谷川が撃鉄をテストした。長谷川が覚悟を決めた。
フロアに降りると、フロントの女がビックリした。飛鳥が靴音高く、となりの蛇口菜館の玄関を駆け上がって行った。ドアは開いていた。中に入ると、「なんだ、なんだ」と大声がした。奥に座っていた南原竜蔵が立ち上がって、テーブルの上のトンプソンを取った。妾の胡娘が悲鳴を上げた。飛鳥が南部八ミリを三発撃った。南原がテーブルと一緒に倒れるのが見えた。ガードが六人居た。その一人が「長谷川、お前か?」とわめいた。よく見ると、鎌田中尉である。鎌田が奥へ逃げた。残りの上海ギャングが一斉にピストルを抜いた。飛鳥が手榴弾をベルトから外した。だが長谷川のほうが速かった。長谷川が教えられたように、三秒にセットして、アンダースローで床に放った。飛鳥も遅れて投げた。二つの手榴弾がテーブルの下をゴロゴロと転がって行った。ふたりは外へ走った。「ど~ん、ど~ん」という破裂音が後ろで聞こえた。南原竜蔵が妾の胡娘と一緒に昇天した。

フォードが近寄って来た。犬養大佐が準備したものだ。すでに部屋は引き払っていたので、将校トランクも頭陀袋もフォードの中にあった。
「ちょっと待ってくれ」と飛鳥が武官に頼んでいた。飛鳥は、オリンパスを掴むと、蛇口菜館に入って行った。
「記念写真を三発撮ってきた。猪八戒も孫悟空も、ひっくりかえっておった」と笑った。長谷川が見ると飛鳥が右手に南原の手提げ金庫を持っていた。一瞬、長谷川が手金庫を南原から奪った飛鳥の行為を心好しとしなかった。三人の乗ったフォードが浦東江の橋を渡って東へ走った。揚子江の右手に陸戦隊の駐屯基地が見えた。半円形のドライブウエーに入った。入り口で憲兵がふたりを武装解除した。司令部へ入ると、犬養大佐と海軍士官が待っていた。
「ごくろうさんでした」
「南京路のアジトは、どうなりましたか?」
「南京路のアジトは、朝から大宴会をやっとった。総長賭博を開帳しておった。小倉小鉄組、山口三谷組、広島海竜組の親分衆が集まっておった。姑娘にアメリカンズロース穿かせて舞台で踊らしておったよ」
「それで、一網打尽なのですか?」と長谷川が訊いた。だが飛鳥はクチを曲げて笑っていた。
「いや、皆殺しにした。姑娘は真っ裸で逃げた」
「大佐殿、日本のヤクザも殺したんですか?」
「そうだよ」
「これは事件になりますか?」
「ならんよ。第六師団の命令なんだからね」
「さて、われわれは住家を失くしました」と飛鳥が笑った。
「今夜は、ここへ泊まりたまえ」
二人はまた美味いメシを食った。アマダイ、銀しゃり、赤だし、白菜の漬物、、将校宿舎のひと部屋が与えられた。長谷川が電信機を取り出していた。カレンに電報を打った。
――任務完了すれども先見えず。上海ははなはだ不穏な世界なり、、長谷川

朝が来た。              
「少尉、この上海のマップをもう一度見てみろ。領事館が並ぶ共同租界と北京路がある地区との間に運河がある。点線は路面電車である。チンチンと鐘を鳴らして走る。南に南京路がある。どの地区もゲットーではない。やはり南京路へ帰ろう」  
海軍武官がフォードを運転して上海駅の南口で停めた。二人は支那服に着替えていた。大佐から貰った土産の飛び魚の日干し~落花生~灘の名酒剣菱を持って降りた。西へ歩いた。西へ行くほど貧民街になっていた。天守閣のある旅館があった。竜宮城迎賓館と金ぴかの看板がかかっている。
「ここにしよう」
「恐ろしく汚い竜宮城ですね」
「ま、そう言うな。店は汚いほど料理は美味いぞ」と飛鳥がまた笑った。そういえばキムチも汚い店ほど美味かった、、だが部屋は清潔であった。南京虫もゴキブリも居ないだろう。向かい側に公園がある。フロントが「植物園だから散歩にいいですよ」と勧めた。池がある。太鼓橋がある。蓮が水面を覆っていて、巨大な錦鯉が泳いでいる。草木が多い。公園の作業員が、梅、桜、桃の花、カイドウ、ハナズオウ、牡丹、モクレン、つつじと順番に咲くのだと話した。川柳と木楢が最盛期で青々と茂っていた。釣鐘型の紅紫色の花を下向きに沢山付けて実に可愛い。飛鳥も長谷川も沈黙していた。新緑の杜の中で話すことがなかったのである。飛鳥が考え考え手帳に何か書いていた。見ると、漢詩である。部屋に戻る前に階下でメシを食った。飛鳥が上海名物である鶏肉豆腐銀杏の唐辛子入り味噌炒め八宝菜という長ったらしいネームの料理を注文した。

続く
05/19
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第8章



飛鳥が指さすオブジェクトを長谷川が写真に撮った。日本総領事館に着いた。早速、総領事に会った。
「上海にこられた用件は島原総領事から聞いています。上海は魔都と呼ばれるほどに妖怪が跋扈しています。秘密結社小刀会の武装蜂起をご存知ですか?その他、麻薬マフィア、殺人請負会社、露探、日本人のスパイなどが跋扈しているのです。飛鳥さん、あなたは参謀です。なんでも私どもに出来ることなら要求してください」と黒駒と名乗った総領事が八の字眉毛の飛鳥の顔をうかがった。
――ああ、これが、一色金蔵が苦渋を舐めさせられた黒駒領事か、、
「領事さん、南京路にある中華料理店の杏花楼に連れて行ってください」と飛鳥の要求は簡単であった。
「朝日新聞の尾崎秀美さんが住んでいた?」
「そうです」
「尾崎内閣参与が何かしたのですか?」と領事が心配そうな顔になった。
「ただの見学です」
飛鳥と長谷川が支那人の服装に着替えた。飛鳥は着物、草履、庇のある帽子で支那人の金満家に見えた。長谷川は詰襟の国民服と刺繍のある支那の布靴である。ついに長谷川は支那服もロシア服もそのようにふるまうことにも慣れた。ふたりとも肩から頭陀袋を下げている。改良された南部八ミリ大型とトカレフが入っていた。領事館の車で南京路へ行き桃園大酒店の登録カウンターに立った。
「身分証明書を見せてください」と姑娘(くうにゃん)が飛鳥に聞いた。飛鳥と長谷川が領事から貰った身分証明を見せた。姑娘はIDとふたりの顔を何度も見ていた。
「黄さんと張さんですね?何日ぐらいのお泊りですか?」
「三日かな?一番好い部屋をくれないか?」と宿泊料を払った。裾の割れた支那服を着たもうひとりの姑娘が三階の部屋に案内した。南京路に面していた。飛鳥が部屋の中を見て廻った。頑丈な鍵が着いている。
「これ相当古いホテルですね」
「多分、清代のものだろう」
「杏花楼で飯を食おう」
杏花楼は清時代からの老舗なのだ。料理店の上にアパートがある四階建てであった。飾り窓があるお洒落なアパートである。飛鳥は、尾崎秀実の趣味が女性趣味だと感じた。上海蟹や酢豚~海老の甘辛煮と焼き飯を食った。でっぷりと太った店主が二人を見ていた。ふたりが広東人にはよくわからない満語で話していたからだ。外へ出た。
「俺も写真機が欲しいな」と飛鳥がカメラ屋のショウ・ウインドウを覗いていた。
「オリンパスですね。今年、開発したと雑誌で読みました」
「じゃあ、それにしよう」
「少佐殿、どうして写真機なんですか?」
「租界の西洋館を見て、これを撮らなければ、女房や倅に叱られるからね。少尉、教えてくれよ」と偽支那人の金満家が笑った。桃園大酒店の部屋に戻った。桃園大酒店は杏花楼の隣なのである。
「さて」と言って、長谷川がトンツーの電信機を取り出していた。キイを叩いた。上海領事館に電信を送った。暗号で長谷川と判った電信技士が即座に「トン、ト、トン」と返して来た。「なにもない」という信号なのだ。飛鳥がベッドにひっくり返ってマニュアルを見ながら勉強していた。新しい玩具を手に入れたこどものように笑っていた。
「少尉、カメラは面白いね。あのね、交通手段なんだが、人力車がベストと思う。もうバンドの領事館には行かれない。出入りすれば尾行される」
「電信技士と何処かで会えるようにします」
「ハルピンの島原さんが何か掴んでいるからだね?」
「カレンですよ」と言うと、飛鳥が大声で笑った。
「桜三号、デキテルのか?」
「どういう意味ですか?」と長谷川が言ったが飛鳥は答えなかった。
「明日だがね、あるアメリカ人に会う。女だ」と飛鳥が話題を変えた。長谷川は「誰かに会う」と聞いて、J・T・チュウを想い起こしていた。飛鳥をじっと見ていた。
「心配するな」と長谷川の懸念がわかるのか飛鳥が言った。



「アグネスです」とそのアメリカ人が言った。飛鳥はこの女性は黒人の血が混じっていると思った。二人は中国語で話した。三人は黄裏江のカフェにいた。五百メートル北に外国租界の建物が見える。
「黄です。こちらは張さんです」二人は安物の背広を着ていた。長谷川は黒縁の偽眼鏡をかけていた。長谷川が「目覚めつつある支那」を持っているのをアグネスが見た。ベストセラーとなったドイツの共産主義者カール・ウィットフォーゲルが書いた名著である。名著というのは、「何故、ロシア~中国~アフリカに社会主義思想が根着いたのか?」と言う疑問に答えているからである。「アジア・アフリカは社会主義専制を好む」とその洞察力は多くの共産主義シンパを生んでいた。
「あら、張さんはインテリなのね?」
「とんでもない。みんな読んでるからですよ」
「新聞記者の尾崎秀実さんをご存知?」とアグネスに黄こと飛鳥が訊いた。
「私が上海や南京、重慶をご案内しましたから。尾崎さんはとてもインテリなんです。ドイツ語~英語~ロシア語~中国語のどれも話せます」
「今、満鉄の重役になっておられる」
「マンチュウクオ?」
「いいえ、東京の本社ですが、内閣の参与にもなっている」と黄がアグネスに言うとアグネスが微かに笑みを浮かべた。
「私に何か?」とアグネスが言うと、黄が何か囁いた。
「小銃と弾薬ですって?どこの製品ですか?」
「チェコです」と張さんこと長谷川が英語で言うと、アグネスの目が大きくなった。
「見せてくれますか?」
「来週、またここで会いましょう」
上海の南京路は上海租界から近いこともあって、スラム街ではない。日本の百貨店もあった。
「少佐殿、第六師団からチェコ銃と写真が届きました」と長谷川が箱を見せた。花園大酒家のフロントに人力車を回してもらうように頼んだ。姑娘が「二人乗りは結婚式で出払っています」と長谷川に言った。人力車が二台、玄関に着いた。車夫は親子に見えた。息子が父親を労わるので判った。長谷川が清太郎の健康を想った。黄浦江沿いのカフェに着いた。アグネスがすでに待っていた。中国人を連れている。ひと目で軍人だと長谷川はわかった。ふたりは車で来ていた。カフェを出て、そのデトロイト製の黒いフォードに乗った。運転する男も兵隊だろう。西へ走った。二人の日本軍憲兵は拳銃をホテルに預けてきた。長谷川は、丸腰が心配になった。だが相手は身体検査を必ずする、、OK牧場と看板のある建物に入った。六人の男が鋭い眼つきで、箱を持って降りた長谷川を見た。飛鳥が長谷川を見て「奴らは疑っている」とウインクした。
「古いな」と一人が言った。
「いや、これは名銃なんだ。買おう」
「何丁ある?」
「二百丁ある」と飛鳥が答えた。富豪で取引監督業者のドイツ商人を入れて、現金と商品の交換を契約した。再び、アグネスと運転手が黄浦江のカフェまで、ふたりを送った。飛鳥と長谷川は南のバンドに向かって歩いた。
「少尉、尾行されている。二人だ」
「上海憲兵隊本部が五百メートル先にあります。そのあたりで密偵は消えるでしょう」
二人はハイヤーの溜り場に行った。運転手に「南京路の百貨店へ行ってくれ」と頼んだ。百貨店で降りて店の中を見て廻った。飛鳥が、ペンチ~電池~細い銅線を買った。
「少佐殿、そのチェコはあるのですか?」
「ないよ」
「どうするんですか?」
「どうにもしない」
「南京路は危ないのじゃないですか?」
「その通り。明日、俺たちは杭州へ行く」



上海から杭州行きの汽車が出た。途中、停車があるので、杭州駅に着いたのは真昼であった。四時間の快適な旅だった。車窓の風景は特記するほどのモノではない。
「杭州へ来た目的は何でありますか?」
「ほとぼりを冷ますために上海を一時、逃げただけさ」
「はあ?」
「それで、あの朝日の記者ですが。何か判ったのでありますか?」
「いや、何も出て来なかった。尾崎秀実は内閣参与の地位に着いたひとだ。問題はない」と飛鳥は言ったが何か考えている風であった。
「上海に帰ったら、もうひとつ仕事がある」
「それを聞かせてください」
「上海に帰ったらな」
「今日は、ここから四キロ西の西湖へ行って泊まる。西湖の南岸に行く」
「何かあるのですか?」長谷川がまた心配になっていた。飛鳥少佐とイワノフは何を考えているのか判らない。
「山寺だけだよ」と飛鳥が笑った。
西湖は琵琶湖に似ていた。山~川~湖、、実に絶景なのだ。二人の憲兵は乗り合い馬車で西湖へ行った。飛鳥が唐時代の詩人杜甫の詩を口ずさんでいた。「このひとは不思議なひとだ」と長谷川は思った。軍人と違って戦争の話をしない。だが聞けば明快な答えが返ってくる。ものすごい知識と記憶力である。長谷川は小冊子を読むほかこの杭州を知る方法はなかった。馬車は「桃源郷大酒家」という旅館の前で停まった。数人が降りた。長谷川が御者にチップをはずんだ。「謝謝」と年寄りの御者がにっこりと笑った。
「今日の旅はこれでお終い」と飛鳥が頭陀袋を持って旅館に入った。時間が早いが飯を食うことにした。長谷川はビールが飲みたかった。窓を開けると、五月のそよ風が入って来た。夕日の中に寺院が見えた。
「浄慈禅寺は日本の曹洞宗永平寺の本山なんだ。道元が、この寺の如浄禅師の下で修行をしたのだよ」と飛鳥が言って、頭陀袋から蛇腹の写真機を取り出した。
ふたりは「唐園」と書かれた食堂へ行った。誰も、日本人だとは思わないようだ。八の字眉毛の飛鳥は上海の金満家に見えるし、流暢な広東語を喋るからである。泥鰌髭に口髭を改造した長谷川はチベット人に見えたのである。
飛鳥が早く起きていた。ふたりは髭を剃り、唐園に行って山菜の粥を食べた。
「俺は座禅をするが、君はどうする?」
「お供します」
静寂の中の座禅は二時間だった。
「少尉、俺ね、こう見えても天台宗の坊主だったのだ」と飛鳥が長谷川を驚かした。
「どうしてですか?」
「俺の親は、生まれる子供が次々と死んだので、歯止めに俺を坊主にしようとした。山門という名もそれが理由なんだ」
「そのご体験は貴重です」
「その通り。人間の世界も宇宙のひとつと考えるようになった」
「奈良は日本そのものですから」
「そう、この浄慈禅寺も奈良京都も唐の時代に盛んになったのだからね」
「名前から言って、禅寺なんですね?」
「そうだよ。中国には五つの禅寺がある。この西湖の山に二つあるんだ」
「西湖十景という名所がある。船に乗ろうか?」               
長谷川はなんとなく飛鳥の人間性がわかる気がした。実に、軍人にふさわしくないひとである。                  
飛鳥と長谷川は、桃源郷大酒家に三泊した。唐園で支那粥をすすり浄慈禅寺で座禅を組んだ。西湖河畔を遊歩し、石窟の釈迦無二を見て歩いた。長谷川が尾行されていると感じた。振り返ったが黄色い犬が寝そべっているだけだった。密偵の姿などない。ただ静寂と新緑の森があるだけだった。
「尾行されていたがね、消えたよ。俺たちを人畜無害な巡礼と見たんだろう。外で、日本語を話してはいけない。クチの動きだけで日本人だと判る」
二人は再び、海抗線の乗客となった。
「さあ、日本語でどんどんしゃべれ」
「はあ、この海抗線ですが安全なんですか?」
「支那に安全地域などという処はないよ」と飛鳥が笑った。飛鳥が続けた、、
「揚子江以南を華中と言う。河北はご存知の北平から徐州あたりまでだ。去年の七月の盧溝橋事件の後、君と俺は太原へ行った。十二月には南京が陥落した。今年に入って上海戦が収まった。今、杭州まで日本軍の支配下にあるのだ。だが、国民軍による河北、華南の鉄道襲撃は止まない。完全に掌握しているのは満鉄だけだ。華南の交通というのは、農作物や工業製品の輸送なんだが、河川が多いので運搬船が八割だ。鉄道は旅客用と言える」
二人は汽車の中で背広に着替えてソフトを被った。長谷川が泥鰌髭の両端を切って直した。湯を持ってきた車掌が「こんにちわ」と言った。車掌も機関手も日本人である。
上海駅でハイヤーに乗った。運転手が支那人ではない。西洋人なのだ。
「ワット、アーユー?」と長谷川が英語で聞いた。
「ユダヤ人です。何処へ行きますか?」
「サスーン・ハウスへ言ってくれ」と言うと、運ちゃんの目が大きく開いた。上等の客だからだ。二十分で黄浦江のバンドに出た。ジャンク船やクーリーが漕ぐ舟が目に入った。淡緑色の三角の塔がある高層ビルに着いた。

続く
05/18
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第7章



飛鳥と長谷川が平房飛行場の駐機場に立っていた。目の前に大きな双発の貨物機が停まっていた。四月の空は薄曇りだった。平房では、四人の将校が乗っただけである。お互いに敬礼し合った。ステップを踏んで機内に入ると座席が大きく快適である。長谷川には珍しいアメリカ製の飛行機である。
「少尉、アメリカの富豪がこのロッキードで世界一周をしたと聞いた。去年、これを立川飛行機がアメリカから三十機買ったんだ。だが低空での安定性が悪いらしい。失速して墜落するらしい。そこで、国産のエンジンを載せて翼に改良を加えたと聞いた。それが一式輸送機なのだよ。十二人乗りで時速四百二キロと遅いが、航続距離が三千二百四十キロと長いのが特徴なんだ」と参謀の飛鳥は詳しかった。
「上海まで直行でありますか?」
「いや、大連の周水子に立ち寄る。エライサンが乗る。大連から上海浦東陸軍飛行場に向かう。ハルピンから上海まで六時間だと言っている」
「なるほど。だから渡洋爆撃なんですね?」
「済州島か鹿児島の鹿屋から飛んで行くわけさ。揚子江の奥の重慶まで爆撃したからね。今、台湾にも飛行場を造っている。これからは、飛行機の時代だと思う」

大連の周水子に向かって、一式輸送機が高度を下げた。「大丈夫かな?」と長谷川が気になった。気流が翼を揺らした。飛鳥を見ると、膝に両手を置いて、目を瞑っていた。
「ガタン」と無事に着地した。平房から二時間三十分であった。八人の士官が乗ってきた。口髭を蓄えた大佐がいた。右側の座席に座った。「海軍大佐だ」と飛鳥が囁いた。一式輸送機は再び空に舞い上がった。眼下は海原ばかりである。
「君たちは関東軍司令部の将校だね?」と海軍大佐が話しかけてきた。
「ハッ、そうであります」と飛鳥が答えたがハルピン特務機関の参謀課長副官だとは言わなかった。
「上海の何処に行かれるのか?宿所が決まっていないなら海軍士官宿舎を使いたまえ」
「ハッ、感謝致します。宿所は決めています」と飛鳥がその丸い頭を下げた。「あと二時間で上海浦東陸軍飛行場です」とアナウンスがあった。黄海は厚い雨雲に覆われていて見えなかった。一式輸送機はゴロゴロと爆音を立てながら雨雲の中に入った。雷の閃光が走った。翼が左右に揺れた。雲の下は豪雨である。上海は全く見えない。飛沫が窓を叩いた。
「視界不良の為、揚子江の北へ向かう」と機長がラジオでアナウンスした。
「南京へ行くんだな」と大佐が言った。
「南京に飛行場はあるんですか?」と飛鳥が心配になっていた。
「今年一月に爆撃した南京大校飛行場じゃないかな?もう修復したはずだがね」と大佐が確信のある口調で言った。
雷雨が収まりつつあるのか、南京の小高い山が見えた。長谷川が目を凝らして見ていた。「これが南京か」と飛鳥が目を凝らして見ていた。滑走路が見えた。建物も新しい。機長がラジオで話していた。アメリカ製のラジオは真空管で増幅されていた。それには容量の大きいバッテリーが必要である。日本は鉱石ラジオが主流であった。
「迂回した飛行機が集中しているので旋回して待機します」と高度を上げた。三十分ほどすると、ラジオが鳴った。一式輸送機ことロッキードが下降し始めていた。長谷川ががハンザ・キャノンで立て続けに空中写真を撮った。夕闇が迫っていた。雨が止んで、西の空が夕焼けで桃色である。ハルピンの平房を離陸してから八時間が経っていた。揚子江の川べりに市街が見えた。城壁が見える。南京は、意外に小さな都市である。八キロメートルx八キロメートルである。歩いて廻れる規模なのだ。滑走路が見える。南京大行飛行場だ。日本陸軍大行飛行場なのだ。「ガタン」とロッキードが着陸した。地上兵が旗を振っている。海軍大佐が将校と話していた。宿舎のことだろう。大行飛行場は揚子江の支流の南岸にある。「雨花台に将校宿舎があります」と西のバラックスを指さしていた。フォードを改良した小型のバスが待っていた。飛行場の外にある宿舎に着いた。レンガ造りである。砲撃は受けていなかった。
「南京だけど砲弾は城内に撃ち込まれたのだろうか?」と飛鳥が気になっていたことを訊いた。
「いいえ、城壁だけであります」と運転する兵隊が言った。宿舎に着いた。
「少佐殿、相部屋になりますが」と兵隊がトランクを持って廊下を歩いて行った。揚子江から五月の風が吹いている。
「南京の気候は、東アジアモンスーンの影響を受ける亜熱帯湿潤気候に属しております。雨が多く非常に暑い夏が南京の特徴です。中国では、武漢と重慶に並んで中国三大火炉の一つと言われるほど南京の夏は酷暑となるのであります」と部屋に案内した内務班の一等兵が言った。
「だが、涼しいね」
「ハッ、昼は二十五度、夜は十八度で五月は雨が多いのですが、快適なんです。ご夕食は、兵隊食堂へ七時にお出かけください」
ふたりはシャワーを浴びて私服に着替えた。兵隊食道の将校コーナーに海軍大佐一行が来ていた。
「みなさん、ご苦労様です」と熊本第六師団の准尉が挨拶をした。准尉というのは、中尉と少尉の中間のクラスで補佐に当たる。日本酒、カツオ、タケノコ飯、アサリの入った味噌汁が運ばれてきた。長谷川の腹が「ぐう」と鳴った。戦争中かと思われるほど平和なひとときであった。
「戦況をすこし説明致します」と准尉が言うと十二人の将校たちが身を乗り出した。少尉の襟章を着けた士官が壁の白布に幻燈を写してから部屋の明かりを消した。去年十二月の南京攻略と陥落後の写真であった。
長谷川の印象は、日本軍の完全勝利であるが、蒋介石は何処に逃亡したのか?
「蒋介石は徐州へ雲を霞と逐電したのであります」と准尉が言うと海軍大佐が笑い出した。
「そこで体勢を立て直すために臨時政府を建てている。どういう意味かといいいますと、蒋に失望したルーズベルトの支援を再び得て、南京を奪回すると言っておるのであります。だが、国民軍の士気は極く低く、給料もくれないと南京市民を殺し奪略強姦を頻繁にしたのであります。市民もやられてばかりはおらず、人数にもの言わせて便衣隊を棍棒で叩き殺したのであります。便衣隊は国際法違反である。みなさん、ご存知ですか?」
「それで、南京の治安は収まったのか?」と犬養と名のった海軍大佐が質問した。
「ハッ閣下、治安は一応収まっていますが、便衣隊が出没しております。敵の武器は爆弾であります。憲兵隊が私服の市民を取り調べるのはこれが理由であります」
准尉が幻灯のスイッチを押した。
「ご存知でありますか?空飛ぶロバと言われるソ連製のポリカリポフ5型であります。大行飛行場の格納庫で鹵獲(ろかく)押収したのであります。国民軍は主翼をぶっ壊して逃げたわけであります」と言うと、全員がどっと笑った。
「支那兵とはそういうもんです」と大連の海軍士官が言った。
「すると、蒋介石はソ連の援助も受けているのですね?」と飛鳥が訊いた。
「そうであります」
「だがソ連軍は北満には侵攻して来ない?」と再び飛鳥が念を押すように言った。
「独ソ戦でそれどころじゃないのでしょう。ただ好機到来を待っている」と准尉が答えた。これが大本営の共通認識であった。
「みなさんが上海へ行かれるのは明後日になります。明日一日は、南京城内をご案内いたします」

一等兵が運転するバスが中華門を入った。長谷川がハンザ・キャノンを取り出していた。中華路を通って中山路で降りた。左手の国際安全区に入った。意外に城内が爆撃を受けていなかったのが印象に残った。日本軍は考えが深かった。「無差別攻撃をやらないのは侍コードだからか」と飛鳥が想っていた。市民も店を開けていた。
「アナタ、オカネモチ、カッテチョーダイネ」と置物屋の女が行った。長谷川が絵葉書一式を買った。

翌日、南京大校飛行場を離陸したロッキードL15スーパーエレクトラが三十分後「ガタン」と脚を出した。上海の上空を通過して着陸姿勢に入った。湾口が見えた。日本の戦艦が四艦浮かんでいる。蒋介石の国民軍は海軍を持っていなかった。
「あれが戦艦出雲だよ」と犬養海軍大佐が飛鳥に言った。大日本帝国海軍の旗艦出雲が上海沖に停泊していた。出雲はあたりを圧して威容を誇っていた。「出雲は揚子江を遡上して武漢に向かう」と海軍大佐と飛鳥が話していた。
「犬養大佐殿は赴任されるのでありますか?」
「陸戦隊がどんどん上陸している。英米独仏の租界は今までイギリスが中心だった。九十年前の阿片戦争以来だ。だが日本は海軍を持つ。自然に日本疎開が中心になったのだ。その日本租界や英米仏の租界まで蒋介石に無差別に空爆された。米国製、ソ連製の爆撃機だよ。つまり陸上戦で押し返すほかないのである」と大佐が言った。
ロッキードが着陸した。空港は霧が立ち込めていて視界が非常に悪い。五月だというのに湿気が凄い。たちまち首の周りがびっしょりになった。
「少佐殿、今夜は何処に宿泊するのですか?」と長谷川が訊いた。
「唐人街さ」
飛鳥が南京路の桃園大酒店がここ数日の住家だと言った。日本陸軍浦東飛行場で海軍将校たちと別れた。
「海軍陸戦隊にも来てくれ」と犬養大佐が飛鳥に言った。上海日本領事館の武官が待っていた。なんと、デトロイト製のダッジではないか。乗り込むと革のにおいがした。上海の中心まで三十二キロである。黄浦江の橋を渡った。「バンド」と呼ばれる上海共同租界を通った。
「バンドとは海岸通りを意味する英語で、中国人はワイタンと言っている。当時の英国商人が貿易拠点として構えた豪著な建築物が並んでいる。ネオ・ルネッサンス様式~ネオ・バロック様式~一九二〇年代から一九三〇年代にかけて流行した、アール・デコの建築群なのである」と飛鳥がガイドブックを長谷川に読んで聞かせた。
「上海の外国租界は一八四三年の阿片戦争の結果だ。清国は英国にボコボコにされた。その結果、開国を余儀なくされたのだよ。清と英国が南京条約を結んだ。英国商人らはこのバンドに土地を租借することに成功した。だが清は華洋分居という条文を作った。ヨーロッパ人を隔離したかったのだ。いずれ追い出すちゅうわけだ。このイギリス租界の成立の影響を受けて、アメリカ租界、フランス租界がそれぞれイギリス租界の横に出来た。これら三つの租界が近代都市上海の原型となったのだ」

続く
05/18
ユダヤ系アメリカ人の苦悩、、
ユダヤ系アメリカ人の苦悩、、

動画を載せてもいいんですが、英語だからやめとく。ユダヤ系アメリカ人のバーニー・サンダース上院議員がバイデンを批判したんです。彼は、USが$4ビリオンドルもの軍事援助を毎年イスラエルに与え続けていることを非難した。サーダースをわが妻とボクは支持してきたけど、バイデンが大統領に選ばれた。バイデンは老練な政治家だけど、今回のイスラエル支持は賛成できない。ブリンケンは言葉を選ぶのに困っている。カリホルニア出身のシフ上院議員はユダヤ系アメリカ人です。この人がトランプを糾弾して落選させたんですが「イスラエルには自衛権がある。ハマスは無差別攻撃をしている。だが、私がイスラエルがパレスチナ自自区を占拠していることには異議がある。どうか誤解しないでください」と言った。

パレスチナ解放にアメリカの世論傾く、、

これは、わが妻や、コロラドの親戚もパレスチナは解放されるべきだと。ボクは、ニクソン・キッシンジャーが、当時のイスラエル首相だったベギンに$3ビリオンドルを軍事援助した時、ニューヨークに住んでいたので、以来、イスラエル軍事援助に反対なんです。

バイデンのリーダーシップに陰、、

EUはNATO軍ですが、即時停戦を国連に呼びかけた。ボクは当然と思うし、ハマスが停戦することを勧める。停戦すると国際世論がパレスチナに有利なんです。バイデンはEU と言う同盟国軍の信頼を失ったんです。これは、対中包囲網を推進しているブリンケンの脚を引っ張る。黙っている日本が残念です。伊勢
05/17
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第6章



四月の八日の朝、長谷川道夫がロシア語の暗号解読を卒業した。先生が二十歳のカレンであること、現地を歩いて地理を学んだこと、暗号を解くのは面白いことが長谷川を飽きさせなかったのである。カレンは天性の教師であった。長谷川が行き詰まると、チェスを持って来た。クリル文字を入れて言葉を横に繋ぐパズルのブックを買ってきた。暗号解読はこのパズルに似ているからだ。それに、ソ連情報局は八百のワードを使うだけであった。ロシア語は日本語のように定義が曖昧でなく、二重に取れる表現がなかった。名前は数字なのだ。その数字も変わらなかった。カレンが、ソ連情報局員の数字にニックネームを付けた。ナターシャ、、イリーナ、アンナ、、アレキサンドラ、、暗号員は女性が多いと言った。暗号部員が三千人であると判った。代わっても、ほんの三十人が一年に代わるようだ。カレンは全ての数字にネームを付けた。つぎに班に分けた。東京班、上海班、ハルピン班、新京班、天津班、奉天班という風に分けた。
「ミス・カレン、最近、ソ連中央情報部は何を言ってる?」
「桜三号特務機関員は誰なのかって言ってるわ」
「桜三号って?」
「私もよく分からないの」
ふたりが話している部屋に島原領事と飛鳥が入って来た。
「長谷川少尉が卒業したってカレンから報告がありました。ご苦労さまでした。しかし仕事はこれからです」と島原が長谷川に言った。横にいる飛鳥の目が笑っていた。
「お祝いに 君たち小崑崙でランチ食べないか?」と飛鳥が申し出た。
「あそこ美味しいわよ。私、酸菜白肉(白菜漬けと鶏の煮込み)、牛肉柿子(牛肉と柿の煮込み)のどれも好きなの」
「カレン、今日の仕事はお終い。三人で楽しんで下さい」とインド象が山中武官を呼んだ。武官の運転するダットサンのヘッドライトの横に日の丸の旗が着いている。警官が外交官だと判る。二十分で大安街の小崑崙に着いた。ダットサンが走り去った。三人が店に入ると個室を頼んだ。カレンは赤いスカーフで顔を見られないようにして座った。カレンがどんどん料理を注文した。すると、「ボクの分もオネガイ」とイワノフの声がした。イワノフは神出鬼没だが、その秘密をカレンは知っていた。
「イワノフが出ると思ってたよ」と飛鳥が笑った。
「ハバロフスクのソ連情報局は何を話している?」と長谷川がイワノフに訊いた。
「クレムリンが日本人をもっと拉致しろと言っている」
「よし。少し聞きたいが、今日は長谷川少尉の卒業式だ。この話しは、武官から講義を受けるよ。イワノフ有難う」
「イワノフ、これから何をするの?」と飛鳥が訊いた。
「島原領事さんがハバロフスクへ行けと命令された。ウランと明後日、出発します」
「交通手段は?」
「順天が、アムールまで乗せてってくれる。そこから漁船でハバロフスクへ行く」と神妙な顔をしていた。長谷川が、イワノフが、河が怖いと言っていたことを想い出した。
「帰って来てね」とカレンがイワノフの手を取った。イワノフが「スパシーボ」と言って鼻をすすった。ジャポチンスキーは力持ちだけではなく、おセンチなのだ。だが、もの凄い量の焼肉を食った。パンに、べったりとバターとイチゴジャムをぬっていた。カレンまで口を開けて呆れていた。
「ミス・カレン、アパートを引き払うノ?」
「領事さんの命令なの」とふたりは、ロシア語で話していた。
「その方がいい。向かいの家に特高が住む。ソ連製のライフルを一丁上げた」と飛鳥がカレンを驚かした。
「どうやって通うの?」と長谷川。
「山中武官が天龍公園まで向かえに来てくださるの。一緒に行けるわよ」とカレンは長谷川と館に住めるので嬉しかった。
「飛鳥さんと長谷川さんはこれからナニスルノ?」とイワノフが言うとカレンが身を乗り出した。
「桜三号と私に上海へ行く命令が出た」
カレンがびっくりした。
「桜三号って?」とカレンが飛鳥に訊いた。
「長谷川少尉のことさ」
長谷川は初耳なので黙っていた。
「長谷川さんが桜三号だったのね?どのくらいの期間行かれるのですか?」とカレンが心配顔になった。
「一ヶ月かな」
「シャンハイ、キヲツケテ」とイワノフが立ち上がると三人を抱いた。そして出て行った。三人が外へ出ると春風がそよそよと吹いている。松花江も解氷期に入った。川柳が芽を吹き出している。三人がチューリップの咲く庭を通って喫茶店に入った。ハルピンの四月の気温は、最低が五度で最高が十四度なのである。五月になると気温が最高二十二度と上がる。北海道に似ているかと言うと、そうではない。高低の激しい大陸性気候なのである。最も寒いのは一月で、マイナス二十二度まで下がる。松花江が凍結する。
                  
上海に出発する前日、飛鳥と長谷川が向かいの家の特高に会った。特高もペアなのである。飛鳥から貰ったロシア製のライフルを喜んでいた。その夕方、家族だけの晩餐が用意された。カレンがエプロンをかけてイリアをヘルプしていた。テーブルの上に、赤と黄色のチューリップの鉢が置いてある。ヤコブがワインを配った。カレンが長谷川の横に座った。
「長谷川少尉が卒業した。これからミス・カレンは何をするの?」と飛鳥がカレンに話しかけた。
「もう一人暗号解読員を訓練するんです。この人はベルリンで育った日本人でロシア語はベルリン大学で習った人なの。お父さまが日本大使館員なんです。だから難しくはないの。でも、、」
「でも?」飛鳥は彼女の懸念が気になった。
「上海から帰って来られたら話します」
「島原領事さんが選んだの?」
「そうです」
長谷川が「カレンは何か気になっている」と思った。

続く
05/16
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二部
第5章



一九三九年の正月が来た。飛鳥が新京の関東軍参謀本部に呼ばれた。

「俺は、今週、新京で仕事をする。報告があるが中国戦線の戦況を聞いてくる」と神妙な顔をした長谷川とカレンを見て笑った。カレンが長谷川にスケジュールを書いて渡した。そして自分のアパートに帰って行った。

正月の三日、島原領事が飛鳥と長谷川を新年会に招いた。長谷川が午後の三時に領事館に行くと、カレンも、イワノフも呼ばれていた。島原領事に飛鳥が出発準備でこられないと伝えた。招待客は日本企業の社長夫妻たちであった。駐在武官二人も夫婦で現れた。長谷川は堅苦しい宴会でないので安心した。片隅にバーがあった。バーテンがワイングラスを並べている。しばらく立ったままでワインを飲んだ。島原夫人と正月の振袖を着た娘二人が入ってきた。長女の和子は夫を同伴していた。薄紫のドレスを着たカレンが長谷川の横に座った。春の田んぼのすみれの花のようである。何とも言えない気品がある。来賓の夫人たちが「まあ、美しいかたね」と見とれた。「インド象」と親しまれている領事が新年の挨拶を行った。「妻も、娘たちもハルピンがお気に入りなんです。毎日、買い物ばっかり行っています」と言うと爆笑が起きた。「この戦争が早く終わって、みなさんが平和に暮らせる日が来ることを祈ります。それでは、乾杯」と飲み乾した。お節料理が次々に出て来た。蒲鉾、昆布の煮しめ、高野豆腐、栗きんとん、、イワノフを見ると布袋(ほてい)さんのように笑っていた。宴会は短かったが新春は気持ちがいい。カレンが、領事がくれたお土産のお重を持っていた。カレンはスカーフを巻いていたので本人に見えない。長谷川の妻に見えた。またそのように振舞っていた。玄関に二頭立てのベルカが待っていた。御者はウランだ。カレン、長谷川、イワノフが乗り込んだ。ベルカが鈴を鳴らして雪の上を走り出した。
「ルテナント、明日の夜、何をシテイル?」とイワノフが長谷川に訊いた。
「手紙を書くぐらいで何も予定はないけど?」
「拳闘の試合があるよ。ミニイク?」
「私も行く」とカレンが目を輝かせて大声で言った。
カレンと長谷川が天龍公園で降りて歩いて館に帰った。密偵の尾行が気になったが、「組織が素人臭い。契約殺人だ。黒ジャンパーは死んだ。しばらくは、襲撃はないだろう」と言った飛鳥の判断を信頼していた。飛鳥は朝早く迎えに来たダットサンに乗って平房飛行場へ行った。

カレンが立ち上がると書斎からアルバムを持って戻ってきた。
「キタイスカヤ大街っていうのよ。今夜、ここへ行くと思うわ。イワノフとウランはこの街に住んでいるのよ」
時間かっきりにイワノフがベルカで迎えに来た。ハルピンの駅前のロータリーを通って西へ向かった。カレンが言ったようにキタイスカヤ大街に入った。十九世紀に建てられた四角い建物の中庭に入った。噴水がカチカチに凍っていた。三人は地下へ降りて行った。耳がツンボに鳴るかと思うほどの歓声が聞こえた。中に入るとタバコの煙が凄い。ボーイがソーセージ、ウォッカ、ビールを盆に乗せて売っていた。みんなロシア人だ。長谷川を見て不審な顔をする者もいたが、イワノフを見ると、「カクディラ(元気かい)」「オーチン・ハラショ」と接吻し合っていた。
「ウランはどうしたの?」とカレンが訊いた。
「え~と、ウランは、チョット、イソガシイヨ」とイワノフが笑っていた。何かを隠しているとカレンが思った。観衆がウォッカのボトルを回し飲みしていた。イワノフが長谷川にも飲めと壜を差し出したが長谷川は手を横に振った。
拳闘は通常四回戦と決められていた。試合は床の上でリングはない。グローブは革だが現在のものに比べて小さい。一発食らうと痣(あざ)になる。激痛に顔を歪める。だから、なかなか殴り合わない。コンテンダーが両腕を高く挙げて顔を防御していた。グルグルと回った。二人共、一発勝負を狙っているのである。

群衆は最後のグランドマッチを観に来ている。最後のマッチだけが六回戦なのである。賭けの切符が売られた。ビラが配られた。長谷川がビラを見ると、なんと「ウラン対ボルガ」がラストなのだ。勝利比率は三対一でボルガに賭ける者が多かった。二人が秤に乗った。判定が「合格」と叫んだ。掛け金の二十二%が勝利者に払われる。敗者には十八%である。五十%が賭けた者たちに払われる。十%が胴元に入る仕組みなのである。
「ミドル級チャンピオン、ボルガ・モスコビッチ」とメガホンで発表すると大歓声が上がった。
「ミドル級ナンバーエイト、ウラン・サマルカンド」
呼ばれたウランは眼を左右にギョロギョロ動かしていた。
「ウランが挑戦者だったのね。わ~い」とカレン。そしてイワノフが両手を挙げて鬨の声をあげた。
「ウラン、大丈夫?」とカレンがウランに話しかけた。
「ミス・カレン、オーチン・ハラショ」とウランは言って眼を瞑って祈っていた。イワノフがウランを元気着けるように両手でグローブを握っていた。「カーン」と鐘が鳴った。ボルガが飛び出した。ウランが早速、追い込まれた。ボルガは次々とパンチを繰り出した。ウランが両腕を挙げて顔を守った。ボルガがウランのみぞおちの辺りに一発、ブチ込んだ。これは効いた。ウランの右腕が下がった。左のパンチが顔に炸裂した。これもよく効いた。ウランが逃げ回った。右フックが横っ腹に食い込んだ。一回戦でダウンしそうだ。そのとき「カーン、カーン、カーン」と鐘がなった。ウランが椅子にドタンと座った。いつものギョロ目が虚ろだ。イワノフが冷たいタオルをウランの頭に載せた。ウランが水を飲んでバケツに吐いた。血が混じっている。「三回も持つかな?」と誰かが言った。イワノフがその男を睨みつけた。男はギョッとした顔をして、すごすごと姿を消した。

「カーン」と鐘が鳴った。二回戦が始まった。今度は決心したようにウランがボルガに向かって行った。このままだと三回も持たないと自分でも思ったのである。ボルガが背中を屈めて雄牛のように突進して来た。左右からパンチを繰り出した。空振り、、ウランが右のグローブでボルガの額を押さえていたからである。ボルガがウランの腕にパンチを入れた。腕が下がった、、またボルガのパンチのラッシュが始まった。右の耳~左の目~わき腹~クチ、、唇が切れた。鼻血が吹き出した。ウランの右目のまぶたが目に被さり、顔が腫れ上がってバケモノのようだ。
「もうだめだ」とイワノフが言った。審判が中に入って停めた。そのとき、鐘が鳴った。イワノフがウランの鼻にワックスを塗った。
「どうする?」
「ウラーの神に召されても続ける」とウランが言った。

「カーン」と鐘が鳴った。三回戦が始まった。ボルガが信じられないという顔をしていた。ついに、ボルガが殺しにかかった。右のストレートにウランがよろめいた。「停めて」とカレンが叫んだ。ウランが姿勢を立て直した。そのバケモノのような顔を見て、ボルガが天井を仰いで笑った。チャンピオンが大口を開けて笑っていた。そのとき、ウランが渾身の力を絞って右のアッパーカットをボルガの顎にブチ込んだ。首の頚椎に電気が走った。ボルガが床に倒れた。審判がボルガを見ると、眼が虚ろになっていた。タオルを振った。観衆が割れるような歓声を上げた。カレンも飛び上がって叫んでいた。そのカレンに酔っ払いが抱き着いた。長谷川がその男を両手で押すと殴りかかって来た。イワノフがその拳を掴んだ。男が恐怖に青くなった。長谷川はこの夜の顛末を始めから終わりまでハンザ・キャノンに納めていた。飛鳥に見せたいのだ。

「面白かったわ」とカレンがまだ興奮していた。そしてクールな長谷川に「あなたは面白かったの?」と訊いた。
「始めてなので驚いた。でも面白かった」
「私、ウランに賭けたのよ」と分厚い満州円の札束を見せた。
「それどうするの?」とイワノフが笑っていた。
「みんなにビールを奢るわ」
小さな女王様の誕生である。
再び、ベルカに乗った。今度はチャンピオンとなったウランも一緒なのだ。中央大街へ向かっていた。極東のパリと呼ばれた街である。

四人が大きなテーブルに陣取った。中央に座ったカレンが正しく女王に見えた。
「ぼくが払う」と両目に黒い痣のウランが言うと賞金の入った布袋をテーブルの上に乗せた。
「ひゃ~」とイワノフが笑っていた。

続く
05/15
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第4章



「マダム、イリア、私たちは、領事館に行きます。鴨を六羽分けてください」
「飛鳥さん、勿論よ、領事さんや武官さんたちにあげてください」
「領事さんにボーナスを貰ったのよ。ママが欲しがっていたロココのタンスを買ったの。四時から鴨の晩餐なの。それまでに帰ってこれる?」とカレンが長谷川に訊いた。

飛鳥と長谷川が手提げ袋に鴨を入れて、ハイヤー会社に歩いて行った。二人共、普段着である。聖ソフィア大教会のソフィアスカヤ通りを通って領事館に行った。クリスマスが近いので教会はイルミネーションに飾られていた。
「おお、有難う。家内と娘たちが喜ぶ」と島原領事が長谷川から鴨を受け取った。日本人のコックがやって来た。鴨の脚を持って眺めていた。
「これは脂の乗った鴨ですね。美味いですよ。野鳥は慣れています」と領事に言った。

島原領事にソ連国境を超えたこと~今のところ平穏であること~陳王民が死んだこと~虎頭要塞には行けなかったことを話した。飛鳥の表情はいつもと変わらない穏やかな顔であった。「ごくろうさんでした」と領事は言って満足したようである。
島原がコックにフランスのワインを一ケース持って来させた。ふたりを武官が送ったが、天龍公園で降りた。長谷川がワインを肩に担いだ。歩いて帰ると館の前の道路に木炭トラックが停まっていた。家具屋である。二人の男がタンスを運んでいた。
「あれ、イワノフじゃないか?」と飛鳥が言うと、毛糸のスキー帽を被ったイワノフが振り向いて笑った。甥のウランが相棒なのだ。ウランがトラックの運転手に帰れと言った。カレンがチップを上げるとトラックがモウモウと煙を上げて走り去った。
「マダム、ボクたちが鴨の毛を抜きます」とイワノフがイリアに言った。
イワノフはハバロフスクの肉屋の息子だった。ウランも一緒に働いていたのだと。十四羽の鴨は瞬く間に真っ裸になった。新しい羽毛が棘のように突き出ている。それをペンチで引き抜いた。その後、暖炉の火で残りの羽毛を焼いた。キッチンへ持って帰ると、支那包丁で足と首をバンと切った。横のウランが小刀で肛門から腸を引き出し~肝臓~砂肝~心臓をボールに入れた。ついで、首に指を入れて食道の皮を引き抜いた。見ていたカレンが悲鳴を上げて逃げて行った。
「どう感謝してよいのかわからない。スパシーボ、スパシーボ」とヤコブがイワノフの手を取っていた。イリアが姪たちと料理に取り掛かった。長谷川がワインのケースをキッチンテーブルに降ろした。
「ブルゴーニュのワインよ」とイリアがラベルを見てヤコブを振り返った。一同が集まって来た。ワインに向かって、手を合わせた。ヤコブが旧約聖書の教えを呟いていた。また、盛大な晩餐が始まった。ヤコブが音頭を取って乾杯した。まず前菜から始まった。
「母なる大地よ」とヤコブが言うと、全員が指を組んだ。長谷川がカレンを見るとお祈りをしていた。カレンは信仰深い女性であった。イリアと姪たちが鴨の丸焼きを持って現れた。「おお」と言う歓喜の声が上がった。長谷川が北大時代に読書クラブで読んだトルストイの「戦争と平和」を想っていた。



「ユダヤ教のお正月はいつかな?」
カレンの指導の合間、思い浮かんだ疑問を雑談のように交わしていた。
「九月なのよ。三月まで祭日はないの」
「でも、クリスマスは?」
「私たちはキリスト教徒じゃないからクリスマスは祝わないわ。それとも教会に行きたいの?」
ヘーゼルの瞳が不思議そうに瞬いた。
「日本の田舎は、お寺だけだから。滅多に教会やお祈りをすることがないし、自分にはユダヤ教もキリスト教も、よくわからないんです」
「今日から年末まで領事さんは日本にお帰りになる。私たちも冬の休暇なのよ」
カレンと長谷川がペチカの燃える居間で話している横を通り過ぎて飛鳥はひとりで唐人街へ出かけて行った。飛鳥には息子がいると言っていたから、何か送るんだろうと長谷川が思った。
「それなら今から昼のミサに行く?」とカレンが長谷川の目を覗いた。
「そうだね。行こう」
喜色に染まったヘーゼル色の瞳が輝くと、長谷川には肯定する選択肢しか残されていないように感じた。カレンがミンクのコートを着た。長谷川はハルピン市民の姿にソフトをかぶった。ふたりはハイヤー会社に歩いて行った。今日も小雪が降っている。窓からイリアが見ていた。手をつないでいないので、イリアはひとまず安心した。長谷川が上着の内側に吊った南部を手で触った。胸の中で、自分は参謀副官に仕える憲兵少尉なのだと言い聞かせていた。カレンがその長谷川をじっと見ていた。
「何を考えているの?」
「何も」
女の勘と言うものは鋭く、そして侮れない。
「今日は、私のことだけ考えて頂戴。明日、私は二十歳になるの」
初めての愛の告白であった。長谷川はカレンをじっとみて頷いたのである。ふたりがソフィアスカヤの広場でハイヤーを降りた。石段を登って伽藍の中に入ると、ローソクの光りでキューポラの天井の天使の絵が見えた。その周りを聖人が取り囲んでいる。二人共、ロシア正教のキリスト教徒ではない。カレンが口にハンカチを当てて咳をした。お香の匂いにむせたのだろう。ふたりは儀式を信者の後ろに立って見ていた。長い時間が経ったように思えた。鐘楼の鐘が鳴った。外へ出ると群集が抱き合って頬に接吻をしていた。長谷川がカレンを引き寄せた。そしてカレンの林檎のような頬に接吻をした。カレンの頬が火が着いたように赤くなった。長谷川が自分に驚いていた。――自分は、ロシアナイズしたのか?それとも自然なのか?
「カレン、何処へ行く?」
「ロシアン・テイールームに行きましょう。お土産コーナーもあるから」

ショーケースの中をカレンが覗いていた。どれも甘そうで面白い図柄なのである。そのうちの一つを指さした。何の絵かわからないが、どうもサンタクロースのようである。カレンが振り返って「これでいい?」と言う風に長谷川を見た。店員が皿に載せた。コーヒーを頼んで、テーブルに着いた。勘定をした後、お土産コーナーで、紫色の切り子ガラスのお皿をイリアに買った。店の中はソフィア教会から来た人たちで一杯であった。長谷川が黒いジャンパーを着てアイリッシュ・キャップを被った男を見た。何処かで見た顔だなと思った。想い出せなかった。その中年の男も見ぬふりをしていたが、長谷川は視線を感じていた。
「手洗いに行く」とカレンに言って長谷川が立ち上がった。やはり男がチラッと見た。トイレに入った長谷川が南部をホルスターから抜いてクリップの弾丸を確かめた。努めて冷静に席へ戻ると「カレン、店を出よう」と言って手を取った。店を出てからも手を放さなかった。カレンを引っ張るようにどんどん歩いた。
「長谷川さん、どうしたの?」
初めは嬉しさもあってか、長谷川の様子がよくわからなかったようだが徐々にその緊張感が伝わってきたのだろう。引かれる掌にじっとりと汗が滲んだ。ビアホールの角を曲がったところで、やはり角を曲がる数人の足音がした。美術店のウインドウにあの男の姿が映った。長谷川がカレンの手を引っ張って走った。カレンが氷に滑って倒れそうになった。お土産に買った切り子の皿が砕けて飛び散った。長谷川がカレンを抱きかかえて走った。ウエストが細く意外に軽い娘だと思った。ふたりが、トラックの陰にしゃがんだ。カレンの目が怯えていた。石畳の上を足音が近着いて来る。足早になっている、、長谷川が外套のボタンを外した。カレンに手まねで腹ばいになれと自分から腹ばいになった。カレンの顔の下に自分の帽子と手袋を入れた。そして南部九四式短銃を引き抜いた。安全子を落としてハンマーを引いた。追ってきた男たちは三人であった。一人がトラックの陰から顔を出した。長谷川は、このへんだろうと照星を定めた。ふたりの男が姿を現した。手にピストルを持っている。その瞬間、長谷川が引き金を引いた。発射音が空気を裂いた。カレンが悲鳴を上げた。一人が驚いたように仲間を見た。

――当たらなかったのか?数秒して男が前のめりに倒れた。アイリッシュ・キャップの男が助け起こそうとした。長谷川が銃口を五十センチ下げて引き金を引いた。右肩に当たったようだ。今度は、銃口を左下に下げて両手で撃った。黒いジャンパーの男はまだ立っている。数秒してからドタっと倒れた。三人目は逃げた。カレンを見ると、人間が目の前で死ぬ恐怖で唇が真っ青だった。長谷川が抱き起こした。カレンが長谷川の首に両腕を巻いた。長谷川がその唇に接吻をした。カレンの頬と唇に幾ばくかの赤みが戻っていた。サイレンの音が遠くで聞こえた。ハルピン市警だろう。足早に歩いて中華料理店に入った。カレンが化粧室に行った。二人の満人の警官が入ってきた。店の中を見渡すと真っ直ぐ長谷川のテーブルに歩いてくる。「リーベンレン(日本人)?」と誰何した。長谷川が襟章を見せると顔を見合わせて出て行った。二人は、ソフィア教会へ行って、ハイヤーに乗り込んだ。来たときと同じ運ちゃんであった。カレンは、館に帰るまで長谷川の手を握っていた。「今日の出来事をママに言ってはいけない」と長谷川がカレンに言った。彼女は黙って頷いた。



長谷川が部屋に入ると飛鳥が「聞いた」と読んでいた新聞を置いて言った。
「誰にですか?」
「ウランだ」
「君たちの行動を知らせるために出した。怪我はなかったか?」
「怪我はありませんでしたが、南部の七ミリメーターはダメだと思います」
「知ってるよ。今、口径を大きくしている。それまで、トカレフを使え」
「ボクを狙った殺し屋は誰なんですか?」
少しばかり冷静さを取り戻した途端、危害を加えられたことに対して腹が立ってきた。
「あのハイヤーの運転手だ。後の者はゴロツキだろう」
「ゴロツキ?」
「逃げたからね」
「何故、ボクを狙ったのでしょうか?」長谷川はそう口に出したものの、心の中ではある答えが出ていた。
「少尉、陳王明を忘れたのか?」
「復讐?」
「そうだ。ソ連中央情報局の面子をイワノフが潰したからね」
長谷川は自分の帰属する組織が何であるかを思い知ったのだ。
「どうして、ボクと陳を繋いだのでしょうか?」
「われわれが牡丹江に来たことを陳が知らせたのだろう」
「なるほど。カレンも尾行されているのですか?」
「いや、彼女は領事館の隣のビルの地下道から領事館に入っているし出勤時間も自由となっている。さらに守られている」
「守られている?」
「特高警察さ。それに領事館の横にハルピン関東軍憲兵分隊の駐屯所がある。恐くて、露探は近着けないのだ」
「彼女のアパートは大丈夫でありますか?」
長谷川は気になっていた。
「同じアパートの階下にその特高が住んでいる。カレンが出勤すると後ろから、ぶらぶらと着いて行く。いずれにしても、この仕事が危険なことを彼女は周知している」
「少佐殿、カレンは、何故、危険な仕事を引き受けたのでしょうか?」
「赤軍に追われたユダヤ難民は、島原領事さんに恩がある。領事さんが辞めてもいいと言ったが、一年続いた。あのドーチも命を賭けているのだ、少尉、それを忘れるな」

続く
05/15
(速報)イスラエル情報


今日のウエスト・バンク。全面戦争とまで言わないが、今までになかったパレスチナの反乱。

パレスチナは中距離ミサイルを開発、、

2014年の暴動とは全く違うミサイルを自分たちで開発。当時は、ガザから近隣のイスラエル側に25キロ程度の距離のミサイルだった。2021年、180キロメートルに届く。その上に巨大化した。イスラエルのほぼ全土に届く。現在、テルアビブの近くに撃ち込んでいる。空港の一つを爆破した。テルアビブ市街を避けているように思える。パレスチナのミサイルは、イラン、ロシア、シリアから得たものを自分で改良している。写真を後で載せますね。陸自のミサイルと変わらない。一万発を持っていると米情報部です。コメントには、パキスタン、マレーシア、アラブ諸国が応援するコメントが多い。「パレスチナが結局、勝つ」と言う者が多い。伊勢
05/15
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第3章



一九三八年十二月十四日、昼過ぎに、飛鳥と長谷川のふたりが汽車で帰って来た。ハルピンはみぞれが降っていた。駅のハイヤーで南崗の館に帰った。ベルを押すと、カレンがドアを開けた。
「長谷川さん、無事だったのね」とカレンが、そのへーゼルの眼に涙を浮かべた。カレンは多感なのである。居間に入ってカレンの両親や親戚と再会した。
「飛鳥さん、今日は、ユダヤ教の祝日なのよ。六時の晩餐に来て下さい」とイリアが言った。ふたりは風呂に入ってから寝間着に着替えて昼寝した。長谷川の腕時計が鳴った。五時になっていた。飛鳥はすでに起きて新聞を読んでいた。
「何かありますか?」
「上海に日本軍が上陸するようだね」

カレンが晩餐の用意が出来たとふたりに知らせた。広間に親戚が集まっていた。
「ハッピー・ハネカ」とカレンが英語で祝日を祝った。カレンは白いブラウスに黒いひだのあるスカートを穿いていた。ハネカはヘブライ語である。二世紀にイエルサレムに第二のユダヤ教寺院を建てたことを祝う。ハヌカは別名「光りの祝日」といい。毎日一本つつローソクに火を点す。その最終日が晩餐なのである。必ず、外国人を招く。今夜の招待外人は飛鳥と長谷川であった。親戚やカレンの母親のイリアが料理を次々にテーブルに並べた。
「ママが一日中、クックしたのよ」とカレンが長谷川の横に座った。そのカレンが手を組んで額に当てた。父親のヤコブが旧約聖書の一部を唱えた。終わると一同がメロンパンをちぎってスープに入れて食べた。「美味い」と飛鳥が言うとみんなが笑った。
「長谷川さん、これ、マッツァボール・スープって言うの」
「ミス・カレン、もう一杯頂けるかな?」と長谷川がいうと、カレンが立ち上がって、長谷川の椀を持った。セラミックの玉杓子でスープを掬って入れた。それを母親のイリアが見ていた。最後に小鴨の料理が出た。焼いてから煮たのだとイリアが言った。飛鳥が、食欲が出たのかバリバリと小骨まで食べていた。食後、茶と甘い菓子が出た。それから椅子を並べて小さな劇場を作った。カレンがスタンドピアノの前に座った。カレンは一瞬間、十本の指を鍵盤の上で止めた。みんな息を呑んで見つめていた。すると叩くように弾き出した。やがて、メロデイが緩やかになって聴衆を引き込んで行った。チャイコフスキーのピアノ、コンツェルト、ナンバーワンである。演奏は三十四分で終わった。カレンが立ち上がって両手を胸の前で合わせて頭を下げた。割れるような拍手が起きた。ハンカチで涙を拭う者もいた。過ぎ去ったロシアの日々を想い出しているのだ。カレンが拍手をしている長谷川を見た。飛鳥の眼が感動しきっていた。飛鳥と長谷川が礼を言って部屋に戻った。
「おい少尉、あのドーチ(娘)な、キサマに惚れておるぞ」と笑った。長谷川は黙っていた。
「少佐殿、新聞には何か書いてありますか?」と飛鳥を現実に引き戻した。
「先週の十三日、南京を陥落させたとある。蒋介石は飛行機で逃亡した。それ以上のことは新聞社には判らないはずだ」
「パナイ号事件って何でありますか?」と見出しを見た長谷川が訊いた。
「ああ、これも詳しくは分らんが、アメリカの軍艦が揚子江を遡上していたらしい。それを空母加賀の艦載機が攻撃して、死者三人と負傷水兵多数とだけだ。これぐらいではカネで解決する。アメリカは参戦しないだろう」
「これからの予定は何でしょうか?」
「君は暗号解読の勉強があるが、明日、俺に付き合え。散歩だがね」



翌朝、飛鳥が満人の綿入れを着て出て来た。カレンがクスクスと笑っていた。
「何がおかしい?何でも笑うドーチだな」と飛鳥も笑っていた。
「おい少尉、行こうか」
長谷川も、とっくりのセーターを着て毛糸のスケート帽子を被っていた。二人は天龍公園に向かった。唐人街の門をくぐって、ロシア料理の塔道斯(トトロ)に入った。店主が「お友達が待っています」とテーブルに案内した。長谷川は、イワノフに会うと知っていた。ユダヤ坊主になりきったイワノフが隅のテーブルにひとり座っていた。
「イワノフ、何を食うか?」
「もう注文しました」とイワノフ。店主がオードブルとワインを二本持って来た。イワノフが水を飲み干し、そのグラスにワインをドクドクと満たした。あっと言う間に突き出しもなくなった。これでは大食い競争ではないか、、「もっと来ますからご心配なく」などと言う始末なのだ。
「猪呉元をどうした?」
「はあ?ランチタイムですけど?」
「食欲が落ちるようなことを言うなよ」と飛鳥が笑った。それではとイワノフが顛末を話した。従業員が帰った後のことである。イワノフが猪呉元に「社長、今夜、残業するから、明日は休ませてくれ」と言ったのである。「じゃあ、俺も残る」と猪呉元が言った。牛肉を盗まれたくないからである。猪呉元は、親も信用しない男であった。イワノフがひとりで牛の肩肉を解体していた。肉切り包丁で、バンバンと切っていた。一時間経った頃、「社長、これで明日は充分か見てよ」と猪呉元に声をかけた。猪呉元が冷凍室に入って来た。肉塊を数えていた。そのとき、「天津の陳王明」とレスラーが言った。「エエッ」と振り返ったその顔が引きつっていた。そして支那包丁を掴んだ。イワノフがその腕を捻った。ボキッと肩甲骨が折れる音がした。陳王明が悲鳴を上げた。イワノフの野球のグローブのような手が陳王明の猪首を掴んだ。今度は頚椎が折れる音がした。鶏なみに殺されたのだ。長谷川が眼を左右に動かしていた。自分は、どんどん兵隊になって行く。青森に帰っても普通の人間に戻れるのだろうか?自分には娘が二人いる、、もう一人生まれる、、何時、日本に帰れるのだろうか。

「長谷川少尉、悪かったな。飯を食おう。イワノフ、スープを頼んでくれ」と長谷川の目に気が着いた飛鳥がワインを長谷川のグラスに注いだ。
「イワノフも休暇を取れ。猟にでも行け」
「大将、三日チョーダイ。白鳥がここから三十キロ北の湖にシベリアから飛来しているのよ」
「そんな鳥を撃っていいのかねえ?」
「アタシ、ロシア人よ」とユダヤ坊主が言ったのが可笑しかった。

飛鳥と長谷川が「イワノフが白鳥を撃ちに行く」とカレンに言った。横でイワノフが頷いていた。カレンが「そんなことダメよ」と恐い顔をした。メッセンジャーがハイヤー会社からやって来た。長谷川が封筒を開けてメモの暗号数字をカタカナに変えた。そして人さし指を立ててみんなに聞こえるように声を出して読んだ。

――ならぬ。満州国とロシアには紳士協定がある。白鳥はロシアの象徴なのだ。これを許すと湿地帯の自然保護区が密漁に荒らされるからだ。三川保護という。イワノフにバカモノと言ってくれ。ハルピン総領事・島原象三郎

「バカモン」と飛鳥が言うとイワノフはゲラゲラ笑っていた。
「大将、ワカッテマンガナ。アタシもロシア人ですよ。あれは冗談です。実は、鴨を撃ちに行くんデス」と言った。             
三日後、イワノフとウランが鴨二十羽を持って帰って来た。

続く
05/14
イエルサレムの伊勢
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トヨタUSAのケンタッキー工場の建設時代にいた頃だから、1989年だろうか。冬の休暇にエジプトへ行った。スチュワデスのわが妻とウイーンで会って、カイロに行った。カイロからバスで市内半島を縦断してイスラエルへ行った。伊勢は48歳だった。

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イスラエル兵と話した。問いかけると、M16の弾倉を抜いて見せてくれた。

Jerusalem 001 (Small) (Small)

貴重な写真はたくさんあるけどデジタル化しないとブログに載せられない。みなさんが興味があるならデジタル化します。伊勢

伊勢はイスラエルに好感を持っている、、

ナチスやロシアに迫害されたユダヤの苦境と言うかジェノサイドを思うと人間なら自然にそうなる。ただ、ダヤン以来の国土拡張には断固反対なんです。アラブを敵視して石油を独り占めしてきた英米に嫌悪を憶える。伊勢
05/14
スペードのエースと呼ばれた男  (上巻)第二話
第二部
第2章



契丹の両親が、しげしげと飛鳥と長谷川を見ていた。
「あなたがたは、日本人ですね?」
「そうだ」
「くれぐれも、ソ連の国境を越えないでください」
「あの岡に行って景色を見たいだけだ」
「明日は雪が降ると言っていますが」
「そうだな、ま、最後の綏芬河の日だから借りよう」

朝が来た。小雪が降っている。外に出ると「おはよう」と契丹が言った。厩から契丹が馬を二頭引き出した。飛鳥が保証金を払った。「日が沈むまでに戻ってくださいよ」と契丹が念を押した。父親が心配そうな顔であった。二人は、鳥芬里大路に向かっていた。馬はロシア馬である。鳥芬里大路に出る前に田舎の店に入り中華料理を食った。便所へ行って服装を変えた。長谷がソ連陸軍将校になった。飛鳥は八路軍の綿入れである。武器は南部とトカレフだけである。
「撃たれないだろうか?」と長谷川が心配になった。
「その可能性は、ほとんどないだろう。われわれはブナの森の中を行く」
鳥芬里大路が見えた。飛鳥が右方向に馬を向けた。あたり一面が雪原である。ブナの森に向かった。昼下がりに国境を超えた。監視塔が見えた。騎兵らしい者が出て来た。だが、一瞬で見えなくなった。小雪が霙混じりの雪に変わっていた。飛鳥も長谷川も外套の襟を立てて毛皮の帽子を深く被った。手拭いで顔を覆った。ふたりは、西部劇の列車強盗に見えた。ソ連領は綏芬河の騒々しい街に比べて別の世界なのだ。全く、人家はなく、畑すらもなく、森が雪の中にぼんやりと佇んでいるのみである。これほどの静寂がこの世にあるか。「これがソ連の沿海州なのか」と長谷川は雪の森を写真に撮った。
「ボグリニチまで十キロです」
雪が深く馬がしばしば立ち止まった。村落が見えた。時計を見ると、十キロ来るのに三時間が経っていた。ボグリニチは森林伐採が産業なのだ。大きなレンガ造りの家から煙が出ている。ペチカを焚いているのだ。電話線が一本だけあった。長谷川が電柱に登って切断した。兵隊の監視所はない。自衛なのであろう。飛鳥が一軒離れた農家を指さした。馬をその家に進めると、突然、ドアが開いた。二人の男が銃を向けていた。
「ストーイ(停まれ)」と言った。飛鳥が手を挙げて「コムレッド(同志)」と声をかけて馬から降りた。長谷川も同じようにした。男たちは警戒を解かず、ふたりを凝視していた。
「トバリシ(同志)」と長谷川がカレンから習った掛け言葉を使った。すると、男たちがにっこりと笑った。長谷川がコサック騎兵に見えたからだ。二人は居間に招かれた。ペチカの中で丸木が燃えていた。暖炉のそばに大鍋が置いてある。飛鳥が持ってきたウォッカのボトルを差し出した。男のひとりが「何故、小銃を持っていないのか」と訊いた。「この吹雪じゃ役に立たないから」と長谷川が言うと納得した。「同志、あなたは支那人か?」「契丹だ」と飛鳥が答えた。太った主婦が出て来たが無言で鍋をテーブルに載せた。そして、男の子が黒パンを持って来た。みんなでボルシチを食べた。主婦も子供も一言も話さなかった。ウォッカを飲んでいた男が立ち上がって別の部屋に行った。戻って来て「電話が通じない」と言った。飛鳥が男の子に月餅をあげた。月餅を口に入れたが飛鳥をじっと見ていて笑わない。大体、ロシアの子供は笑わない。うっとおしい感じがした。

「一晩泊まっていきなさい」と亭主が言ったが、兵舎に帰る義務があると断った。抱き合って接吻をして馬に跨った。そして、吹雪の中を綏芬河に帰って行った。厩に戻ったのは、夜の八時を過ぎていたが、契丹は安心したのか文句を言わなかった。息子の車夫がペルカを引き出して桃園迎賓館まで送ってくれた。ホテルのフロントが長谷川の服装に驚いた。部屋に帰ったふたりは越中一枚になり蒸し風呂に行った。
「経験になったかね?」
「やはり、現場でしか、あの緊張感は得られないですね」
「ロシア人は軍人でない限り、人懐っこいんだよ」
「明日の昼の汽車で牡丹江へ帰る。虎頭要塞はこの雪では無理だな。ゆっくり寝てくれ」  
             


牡丹江に午後の三時に着いた。飛行基地の食堂に入ると、例の広田少尉が手を振った。
「ソ連国境を超えましたか?」
「超えたが、豪雪でなにも起きなかった。現在、ロシアは基地を造ってはいないがあの地形なら綏芬河や鳥西(ちーしー)から入ってくるだろう。ロシア人の家で美味いボルシチを食って話を聞いたが何も知らなかった」と基地から一歩も出ない広田少尉を驚かした。
「飛鳥少佐殿、留守中に事件が起きたのであります」
「猪呉元かね?」
「どうして判るのですか?」
「俺はハルピン特務機関員だよ」
「猪呉元が冷凍室で鈎に吊られていたのです」

長谷川は体格の良いモンゴルが笑福肉店に雇われたと聞いてから、イワノフじゃないかと思っていた。

続く
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スペードのエースと呼ばれた男  (上巻) 第二話
第二話
第1章



「長谷川さんは、牡丹江に行くのね?無事に帰ってきてくださいね。私のたった一人の生徒なんだから」とカレンが長谷川の眼をじっと見ていた。カレンの眼は、へーゼルという灰色がかった緑色なのだ。瞳孔が大きく、二重まぶたである。
「ミス・カレン、心配しなくても大丈夫。クリスマスには戻ります。ふたりで、ユダヤ寺院へ行きましょう」と言うと、カレンの眼が輝いた。
出発の日が来た。服装は憲兵将校だった。
「少尉、ソ連軍の制服とトカレフを持って行こう」と飛鳥が言った。平房へ行くと軍用機が待っていた。
「冬は曇天が多いのですが、気流は安定しているのです。みなさんは、牡丹江は始めてですか?初めての方は手を挙げてください」と操縦士が乗客に訊いた。全員が手を挙げた。
「牡丹江までの距離は三百三十キロメートルなのであります。九七式輸送機キ三四は航続速度が四百五十キロメートルです。五十分で牡丹江陸軍飛行隊基地へ到着します」
「少佐殿、何故、今回は飛行機にされたのですか?」
「牡丹江までは見ておかなければならないモノがない。東満州の防衛はそこから東北のウスーリ河までなのだよ。牡丹江からは汽車で行く。見なければならないのが虎頭要塞なのだ。しかし、この天候だとなあ」と長谷川に地図を渡した。
「ウスーリはロシア語が起源ですね。鳥蘇川は当て字なのですか?」
眼下に汽車が東へ向かっているのが見えた。長谷川がハンザ・キャノンを取り出した。
「やはりこれも軽便鉄道ですか?」
「そうだ。広軌は南満州鉄道と新京ハルピン間の京浜線だけなのだよ。ハイラルも快適だっただろう?」
「いやあ、モンゴルが襲って来ましたからね」と長谷川が笑った。
このように、一九三八年の日本軍は、のどかだったのである。それが、一九三九年の初夏、ノモンハン事件が起きると雰囲気が一変するのである。

九七式輸送機キ34が高度を下げ始めていた。やがて、ドカンと着陸して地上員に依って駐機場に導かれた。長谷川が小高い山を見ていた。長谷川は、七年後の夏に、この牡丹江へ戻ってくるなど夢にも思わなかった。下士官が飛鳥と長谷川を食堂に案内した。指令官、将校、飛行隊の戦闘機乗りと土木技士が集まっていた。給仕兵が押し車にカツカレーを乗せてテーブルに並べた。ビールまで出た。司令官は飛鳥が参謀課長副官だと知っていた。憲兵将校の服を着たふたりを招いた。飛行隊の士官が壁に満州の地図を画鋲で留めた。長谷川は畿内丸の船内で貰ったこの地図を脳裏に刻み込んでいた。――それにせよ、満州は大地だと再び想った。こうして見ると、日本がそれほど遠くにあるとも思われなかった。カツカレーを食った後の会議は、もの凄いことを話していた。というか、命令を下していたのである。関東軍牡丹江飛行隊指令官が飛行部隊の構想を述べた。武官の横にジャンパーを着た飛行兵が立っていたので、技士たちは飛行場建設の重要さに気が着いた。まず、日本の戦車はソ連の戦車に劣ることが明らかとなった。その理由は、日本は島国であり船で戦車を運ぶために設計が軽量になるからである。ヨーロッパやロシアは大陸なので貨物列車が運搬手段である。だから戦車が大型なのだ。戦車一台の製造費は爆撃機よりも高い。だから、日本軍には飛行機が向いている。だが飛行機には滑走路が必要である、、
「百キロメートルの間隔で、ウスーリ河とハルビンの間に滑走路が必要である。森林の中にも滑走路を敷く必要がある」と飛行服を着た士官が言った。
「どのくらいの工期で造るお考えなのか?」と土建の親方が最も重要な質問をした。
「道路、複線の鉄道、地下倉庫、兵舎、武器弾薬庫、病院、虎頭要塞、、膨大な工事である。だが期限は一九四三年を越えてはならない。つまり今から六年以内である」
「どうして六年以内なのですか?」
「今のところ、イギリスの輸送船がUボートに沈められているが、いずれ英米軍のドイツ空爆が始まる。アメリカは物量に優る。ドイツが負けたときに、ソ連軍の戦車部隊が満州に入ってくる。計算すると六年となるのだ」
さすがの飛鳥も「ゾ~」とした。牡丹江飛行部隊の士官の言った「リミットは、一九四三年までだ」と言った、きつい表情が気になった。新京の関東軍司令部の中では、「ドイツは勝つ」と笑い声に充ちていた。飛鳥が始めて「日本は負けるのかも知れない」と思った瞬間であった。
長谷川と飛鳥が通信室に行った。
「牡丹江では通信の手段は何ですか?」
長谷川が同じ少尉の襟章を着けた士官に話しかけた。
「司令官室だけが無線電話で飛行隊はトンツーです。どれも暗号です」と広田と名乗った少尉が言った。。
「盗聴されている気配はありますか?」
「あります。プツンと小さいが特殊な音がするので判るのです」
「基地内に支那人は入ってくる?」
「クーリーは入らないんですが、商人の出入りがあります。間諜がいるとしたら、業者でしょう」
「業者の名簿をください」
事務官が名簿の写しを持って来た。ガリ版である。モノクロの写真が貼ってあった。出入り業者は二十人いた。飛鳥がリストをじっと見ていた。ふたりに士官宿舎の部屋が与えられた。有線電話もない。スチームが入っていた。飛鳥がぶら下がっている電灯を凝視していた。スタンドをひっくり返して見ていた。「大丈夫だな」と長谷川に言った。さっき士官から貰った名簿の写真を再び見た。鉛筆でひとりに丸を付けた。
「少尉、この男を見たまえ。どこかで見た顔だ」と腕を組んでいた。
「自分には記憶がありませんが、そういえば何処かで会った気がします」
「天津のビアホールじゃないか?和平路の角の?」
「落花生とビールを持ってきたエプロンの支那人です」と長谷川が言ってからアルバムを取り出した。日にちをめくって一枚の写真を指さした。
「この男の行動を監視しよう」と飛鳥大尉が温和な顔の被疑者の写真を見詰めた。
「笑福肉店(肉・野菜・麺問屋)猪呉元と書いてあるね」                
朝がやって来た。食堂で朝めしを食った。そこへ「おはようございます」と広田少尉の声がした。飛鳥が向かいの椅子に座るように指さした。
「その肉問屋は新京の関東軍司令部が指名した業者なのです。われわれも立会い検査に行きました」
「この猪呉元の素性を調べましたか?」
「奉天の人間です。何か?」
長谷川が飲み屋の写真を見せた。少尉は驚いた顔をした。
「今からその笑福肉店へ行きませんか?」と飛鳥が広田少尉に言った。参謀命令であった。
ふたりの憲兵将校が広田少尉の運転する小型トラックで出かけた。牡丹江の下町に一時間で着いた。
「支那語を話すな」と飛鳥が長谷川の耳に囁いた。猪呉元がエプロンをかけて、ニコニコと出迎えた。飛鳥と長谷川を見て頭を下げたが表情に変化はなかった。飛鳥はもとの黒髭を生やし、長谷川は立派な口髭を蓄えていたからである。その上、憲兵将校の帽子と外套が威厳を放っていた。肉の加工場に入った。鶏をさばいていた女工たちが日本軍の憲兵に怯えた。長谷川が写真を、一、二枚撮った。それだけであった。猪呉元が「基地が大きくなって、腕のいい職工が足りない」と嘆いた。だが、ほっとしたように見えた。
「その写真を天津の上田社長に送って、ビアホールを確認するように頼め」と飛鳥が言った。                  
加藤洋行の上田社長が天津歩兵連隊へ行った。新京の関東軍憲兵司令部を介して、島原領事に暗号電報を打った。それが、迂回して牡丹江の飛行隊に着いた。長谷川が暗号を解読した。やはり、猪呉元は虚名であった。陳王明(ちんわんみん)が実名だった。上田社長が和平路の飲み屋に雇い人の支那人を行かせた。背広を着た男が出てきて「ボスは、今、商用で旅行中だ」と言った。全てが明らかになった。翌日、ひとりのモンゴルが笑福肉店に雇われた。もの凄い体格の持ち主である。牛の肩肉を運ぶにも助手を必要としなかった。問題は北方民族の訛りがあることだったが、鶏、家鴨、豚、牛の解体のプロである。猪呉元が「五人首に出来る」と両手を挙げて喜んだ。長谷川は電信室に技師と二人で篭った。有線ネットワークに不思議なトンツーが入ることがあった。日本軍ではない、、なぜなら三文字の音が多いからだ。「ん」が多いのだ。「蒋介石が通信手段に線路わきの電線を使っている」と技士が言った。
「それ、解読できないかね?」
「奴らは暗号を使わないんです。漢語の解読は新京でしか出来ません。パンチカードを取って無線で送ります」とテープに穴を開けるパンチャーを取り付けていた。
「それとロシア語も入りますよ」
「それもパンチしてくれないか?」
電信室を出ると食堂に行った。「すわれ」と飛鳥が言った。飛鳥は餃子でビールと決め込んでいた。長谷川もビールが飲みたくなった。給仕に手を挙げた。
「明日の始発でソ連国境へ行く」
「猪呉元はどうしますか?」
「手は打ってある」
「虎頭要塞へ行くのも電探の盗聴のためですね?」
「そうだ」
「ようやく自分の任務が何であるのか理解しました。ただ、自分はロシア語が堪能じゃないのです」と長谷川が心配顔になった。
飛鳥が地図を机に置いた。長谷川が身を乗り出した。
「牡丹江が交通の要衝だとよく分っただろ?」
「虎林(ふりん)へ行くのでありますか?」
「いや、東のソ連国境まで行く。終着駅は綏芬河(すいふんか)だ。距離は百キロメートル」
「馬でも行ける距離なんですね。何が目的ですか?」と長谷川は、天津のJ・T・朱(チュウ)を想いだして恐れた。
「少尉に、ソ満国境を体験して欲しい。度胸を付けるためだ」
窓の外に粉雪が降っている。やがて、コンコンと降り出した。
「この雪で汽車は大丈夫でありますか?」
「雪で汽車が不通になることが多い。だから、冬の移動は時間が掛かる。ダメなら待つさ。ここは快適な場所だよ」と笑った。



その一九三七年十二月の日の朝、外に出ると、あたり一面が銀世界であった。ふたりは車中の人となった。二人共、旅行者風の普段着だが背嚢の中にトカレフ、ロシア騎兵の制服、二食分の弁当が入っていた。
「二時間ちょっとで終着の綏芬河だが昼に着く。そこで三晩泊まる」
「はあ?何かあるのですか?」
「君は渤海国を知っているかね?」
「ボッカイコク?」
飛鳥が絵図面を見せた、、
「渤海国は七世紀後半から十世紀に中国東北部から朝鮮半島北部からロシア沿海地方にかけて存在した国なんだよ。唐の時代さ。その二百年間の間に、三十四回も渤海使が日本に派遣された。軍事、文化、商業における当時の日本との交流があった。現在のソ連沿海州も渤海国だったわけさ。ロシア側のウスリースクは人が定住していたという点で二百キロ南のウラジオストックよりは、遥かに古い歴史を持つ町なのだ。満州国の一部となった今でもロシアとは仲がいいんだ。ここが紛争の多いハイラルと違う」
「この鉄道もロシアが建設した東清鉄道ですね?」
「その通り。日露戦争の十年前に帝政ロシアのニコライ大帝が建設したが日本に負けて日本のものとなった」
「少佐殿、ハルピンの松花江の鉄橋も同じ時期なんですね?」
「その通りだよ」
聞いた長谷川は「これは、大問題になる」と思った。車掌が湯を持って来たので飛鳥が弁当を開いていた。巻き寿司と焼き卵と海苔だけだったが酢が効いていて美味かった。汽車が速度を落としていた。信号の鳴る音が聞こえた。やがて、蒸気機関車が動輪を軋ませて終着駅に停まった。石炭の露出鉱がある。素敵な景色とは到底言えない。綏芬河の駅を出ると物売りが一斉に「ブーヨーマイ?(買わないか)」と声をかけた。二人は二台の人力車に乗った。
「桃園迎賓館、中、不中?」と飛鳥が流暢な支那語で話しかけた。車夫だが支那人ではなかった。日本人に似た顔と体型をしていた。契丹人だろう。
「中(イエス)」とひとりがにっこりと笑った。飛鳥は牡丹江で満州開拓団が綏芬河の近くに入植したので反日が多いと聞いていた。「そうでもないのかな?」と思った。実際は人種に依るのである。モンゴル系の契丹人などは日本人が好きなのである。桃園迎賓館に着いた。飛鳥が車夫たちにたっぷり乗車賃を払った。契丹が「楽しんで下さい」と飛鳥の手を握った。ロビーに入ると、ベルボーイが台車にトランク二つを持って部屋を案内した。背嚢には拳銃やカメラが入っているので、渡さなかった。部屋は二階なので階段を上がった。窓を開けると冷たい風が東から吹いて来た。市街の真ん中に川がある。ウスーリの支流なのだ。その向こうに低山が連なっている。ソ連はその向こうなのである。
「少佐殿、契丹って人種は何ですか?」
「大きな質問だな。話しが長くなるぞ。まず紹興酒を頼もう」と飛鳥が笑った。長谷川は、アムール河の合戦以来、少々飲めるようになっていた。ベルボーイが紹興酒と甘栗を持って来た。長谷川が受け取り小銭をあげた。飛鳥が小冊子を開いた。
「契丹人を見たまえ。頭の真ん中をぞっくりと剃ったり、弁髪にしたり、契丹の風習なんだよ。ま、ヘアスタイルの文化だ。日本人の先祖は女真(ジョルチン)かな。みんなモンゴル系だ。だがね、蒙古の歴史は記録がほとんどない。契丹文字も解明されていない。契丹は四世紀ごろからあるが、国号に漢字を使い「遼」と号した。しかし十二世紀に入ると、勢力を強める女真が「宋」と結んで南下し、挟撃された遼は十二世紀に滅ぼされた。鎌倉時代に当たる。その後、契丹人の多くは女真に取り込まれた。今では見分けもつかない」
「蒙古襲来の元(げん)も匈奴でしょう?」
「モンゴルは漢民族から匈奴と呼ばれていた。つまり獣にも劣る野蛮人だと。日本人は貉(むじな)と同類だとな。これが中華思想なのだよ」と飛鳥が笑った。
「ところが、匈奴というモンゴルは、馬と剣で暴れまわる騎馬民族なのだ。見下げられたからって引き下がらない。紀元前の話しだが、匈奴の巨人、冒頓 単于(ぼくとつぜんう)は、南下して、漢民族を支配下に置いた。三蔵法師の西域もな。ま、百年後に秦の始皇帝が匈奴を追っ払って万里の長城を築いたわけだ。だが、始皇帝が死ぬと再び匈奴の支配下になったのだ」

東夷―古代は漠然と中国大陸沿岸部、後には日本、朝鮮などの東方諸国。貉と同類。
西戎―西域と呼ばれた諸国など。羊を放牧する人で、羊と同類。
北狄―匈奴・鮮卑・契丹・蒙古などの北方諸国。犬と同類。
南蛮―東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。虫と同類。

「われわれは狢(むじな)ですか。たいへん勉強になりました」と長谷川が飛鳥に頭を下げた。そして、地政学は物理学でも人類学でもないと思った。

翌朝、外に出ると、人力車が目に入った。昨日、世話になった契丹たちだった。「また会ったね」と飛鳥が言うと契丹がにっこり笑った。
「今日は観光だ。鳥芬里大路へいってくれ」と地図を見て言った。契丹たちは二キロ走った。そうとう健脚である。左に綏芬河が見えた。ウスーリの支流である。ウスーリの本流はロシア側の四十キロ内部にある。
「少佐殿、すると、ソ満国境は河で分けられていないのですね?」
「綏芬河の都市を出るとボグリニチまで何もない」と鉛筆で地図に丸を付けた。
「ソ連国境まで八キロですね」と飛鳥の目を見た。八の字眉毛の目に何の変化もなかった。長谷川が契丹に月餅をあげた。
「さっき見た綏芬河へ行こう」
契丹たちが勢い良く走り出した。綏芬河の中ごろが膨らんで湖になっている。数珠繋ぎになった艀(はしけ)が綏芬河市へ向かっていた。原木を満載していた。
「ロシアから来る」と車夫が言った。
「そうか、道理で製材所の鋸の音がしていたな」
「それが東清鉄道の目的だったのですね?」
「露清貿易は渤海国時代から両国の命綱なのだ」
やがて、平安街の桃園迎賓館の前に着いた。
「馬を借りたいんだが、貸し馬を知っている?」と長谷川が車夫に訊いた。
「私の親が馬を貸す商売なんです」と契丹が笑った。
「明日朝八時に迎えにきてくれ」と飛鳥が乗車賃二人分を払った。

続く
05/10
スペードのエースと呼ばれた男  第一話 終章
第一部

第14章



十一月に入ると初雪が降った。降っただけでなく積もった。長谷川もミンクのロシア帽子を買った。口髭を蓄えた。
「まあ、ハンサムですねえ」とカレンがクスクスと笑った。長谷川は、二十九歳となった。佐和子とミチルから頻繁に手紙が届いた。このユダヤ娘に惚れてはならないと心に誓った。
「暗号解読も随分早く正確になっています」
「面白いから」
「イワノフさんと飛鳥さんはどこに行ったのですか?」
「一週間帰らないと言っただけです。馬そりで何処かへ行きました」
「そのそり、ベルカと言うのよ。ソリだと何処か遠くに行ったんだわ」
飛鳥が小銃二挺をソリに積むのを見た。騎兵二人を連れて出て行った。敵地へ侵入すると思った。
                  
その十月の下旬の日、雪が降った。
「嫩江(のんこう)まで百キロメートルだな」と飛鳥がイワノフに言った。騎兵二人、飛鳥、イワノフの四人が雪原となった松花江を渡った。
「ベルカは一日三十キロメートルが限界ナノヨ。雪中行軍は馬でも時間がカカリマスデス」
「満州の冬は全てに時間がかかる。われわれの動作も鈍いし、寝る時間まで長くなる。すると、三日走って、四日目の朝に嫩江が見えるのかな?」
「見渡す限り雪の荒野ヨ」とイワノフが笑った。
「ソ連の偵察騎兵の目的は何かね?」
「ボクたちがチチハルから乗ってきた浜北線を爆破するケイカクヨ。杉原領事さんが解読されたノヨ」
ソ連極東軍の騎馬隊はコサック兵である。モンゴルの血をひくタタール(韃靼)系ロシア人なのである。
「敵の数は?」
「ワカラナイ。ラスキーが鉄道に到着する先にわれわれがツイテル」とイワノフ。うわさに聞いたコサック騎兵との始めての戦闘である。さすがの飛鳥も緊張していた。一行は白樺林の中に一箇所空き地を見つけた。まず、騎兵たちが焚き火を作った。ソリを外すと馬に麦藁と烏麦を与えた。雪中に四つテントを張った。イワノフがトナカイの肉で二皿作った。ひとつは塩焼き~ひとつは蒙古鍋である。イワノフは料理が上手だった。カチカチに凍ったトナカイの肉を焚き火の上で煮えたぎった鍋に入れた。ニンニク、塩、胡椒~唐辛子、中華麺~干したあんず茸、、飛鳥を除いて騎兵たちもウォッカを飲んだ。飛鳥が「一杯だけだぞ」と注意した。イワノフが三人分を食べた。若い騎兵が胃袋の違いに驚いていた。翌日も雪原の荒野を西北へ走った。馬格の大きい七歳馬は快走した。空はどんよりと曇っていたが、日中はそれほど寒くはなかった。昼飯は、火を焚いて湯を沸かして、黒パンに蜂蜜と缶に入った軍用バターを塗って食べた。湯に雪を投げ入れて、馬に飲ませた。体が温まった馬たちが勢い良く放尿した。

その十月の日、朝から小雪が舞っていた。先頭を行く騎兵たちが、真っ直ぐ西へ進路を変えた。騎兵のひとりが「ホ~イ、ホ~イ」と声を掛けながら、馬に鞭を当てた。やがて地平線まで続く雪原の点となった。その騎兵が偵察から戻って来た。
「浜北線の踏切まで、十キロであります」
「よし昼飯を作ろう。イワノフ、すき焼き頼むぞ」と飛鳥が言うと、自分で米を研いだ。飛鳥が多めにしたのは、牛丼の弁当を作るからである。
「自分がやります」と騎兵が言ったが「いや、俺ね、米を研ぐのが好きなんだ」と笑った。そして自分は奈良の百姓の倅だと八の字眉毛が言ったのである。みんな笑った。イワノフを除いて、三人とも農家の出身だからである。

昼下がり、浜北線の鉄橋を渡った。太陽は全く見えない。だがあたりは薄明るかった。ひとりの騎兵が昼飯を食うと偵察に出て行った。その騎兵はなかなか戻って来なかった。日が暮れて、あたりは月明かりだけになった。イワノフが「どこまで行ったんだろう?」と心配になっていた。すると、サクサクサクと雪を踏む馬の音が聞こえた。
「敵兵が見えました。六人のコザック騎兵と隊長です。トロイカのソリが見えました。爆薬でしょう」と馬から降りた騎兵が報告した。体重二百キロのイワノフまでが緊張した顔になった。もうひとりの騎兵が馬に飼い葉とぬるま湯を与えた。
「どのくらいの時間で敵はこの鉄橋に来るかね?」と飛鳥が戻って来た騎兵に訊いていた。
「今、夜ですから、明日の昼に来る。ソ連陸軍の隊長がロシア人だと、真昼の行動開始が好きなんです」
「よし、好都合だ」

四人は夜明けに起きた。雪が止んでいる。あたりは驚くばかりの静寂だ。イワノフがすき焼きの残りを温めた。「大量に食っておけ。大小も済ませておけ。露助を吹っ飛ばしたら現場へ行って確認する。それだけだ」と飛鳥が腹に力を入れて言った。全員が賛成した。朝めし後、鉄橋から百メートル離れた地点へ行った。雪の中に爆薬百キログラムと瑠弾二発を埋めた。これは、百人を葬ることが出来る爆薬量なのだ。飛鳥には、馬もろとも「皆殺し」にするしかチョイスはなかった。無実の馬が可哀そうになった。
銅線を白樺林の中まで敷いた。騎兵ふたりを残して馬もソリも東側に引き返した。馬を白樺林に隠すと、イワノフと飛鳥は散開して狙撃銃を麦袋の上に置いた。ふたりは、ロシア帽子を鉄帽に換えていた。射程距離三百メートル。両目を開けて照準を合わせた。



七人のコサック騎兵が地平線に現れた。次々と線路で馬を下りた。やはり真昼かっきりである。白樺林の騎兵が互いの顔を見合わせると、Tの字の起爆装置を両手で押した。「グワ~ン」と大音響が雪原の空気を震わせた。林の中の馬が驚いていなないた。「やった、やった」とイワノフが飛び上がってはしゃいだ。よほど赤軍に恨みがあるのだろう。
「見に行こう」
既に、騎兵たちが起爆装置を畳んでいた。飛鳥が死んだ馬を見ていた、、戦争の非情さが身に染みた。
「爆破に失敗したことを知って追っ手が来る」とイワノフが飛鳥に言った。騎兵とイワノフが馬を三頭並べて繋いだ。トロイカに組んだのである。ひとりの騎兵が先頭に立ち南東に向かった。荷が軽くなったので、馬の脚が速い。「これだと、二日半でハルピンへ帰る」とイワノフが言った。飛鳥が大きく笑った。途中でイワノフが四百メートルの距離から「ノロ」を一頭撃った。ノロはトナカイではない。鹿の一種である。イワノフを見ると、腹を割いて、臓物をかき出していた。心臓~胃袋~肝臓は新聞紙に包んだ。
「島原領事さん、長谷川さん、カレンへのお土産です」と言うと、、
「おいおい、俺たちにはねえのか?」と騎兵たちがむくれた。
「今夜、豆腐を入れてモツ鍋をツクルヨ」とイワノフがウインクした。
                    


「ごくろうさんでした。ゆっくりと休んで下さい。勲章を頂くように新京に電報した」とインド象が四人をねぎらった。横でカレンと長谷川がニコニコ笑っていた。

十一月に入った。気温がぐんぐん下がっている。天龍公園の池が凍ってロシア人のこどもたちがスケートで滑っていた。山栗を焼く匂いがした。
「やはり南京が陥落したね。蒋介石は一目散に逃げた。毛沢東が手を叩いて喜んだと聞いた。だが、アメリカはこのままでは済まさないだろう」スターコビッツの館の部屋で飛鳥が口を開いた。
「それで暗号文は解読できるようになったのか?」飛鳥が一番気になることを訊いた。
「字引と解読の手引きがあれば、ほとんどわかります。ただ、そのコードが頻繁に変わるんです」
「その場合はどうするのかね?」
「島原領事さんが変更を指導します」これは領事さんにしかできません。
「手引き書はどうして手に入れる?」
「無線電話です。明日、お見せします」

飛鳥が口をあんぐりと開けて無線電話機を見ていた。
「でも盗聴されるだろ?」
「ええ、されています。だが声が自動的にバラバラにされて盗聴しても意味がわからないのです」
ふたりがロシア語教室へ向かった。カレンの笑い声が聞こえた。なんと、イワノフがカレンを頭上に持ち上げているではないか。イワノフは飛鳥を見て、カレンをそっと降ろした。カレンはイワノフの腕の筋肉を指で押して子猫のようにじゃれていた。まだ小娘なのだ。
「イワノフ、来週から俺たちは牡丹江に行く。ミス・スターと領事さんを頼む。電信柱には登っておいてくれ」
「ハバロフスクのソ連情報部は、ボクたちがコザック騎兵を殺したことを知っています。充分に気を着けてクダサイ」
「どうして判ったのか?」
「露探がハルピンを徘徊していますから。日本の味方だと思ってドイツ人の新聞記者と親しくしてはイケマセン」
「うむ、上海でもドイツ人の新聞記者が日本租界に出入りしていると聞いた」
「東京のゾルゲも同じドイツの新聞記者です」とカレンが釘を差した。

第一部   完
05/10
スペードのエースと呼ばれた男  第一話 第13章
第一話
第13章



朝が来た。ハルピンは、すっぽり濃霧に包まれていた。松花江が原因である。ホテルの部屋で着替えて階下で朝飯を済ませた。三人がロビーを出た。ボーイが笛を吹いてハイヤーを呼んだ。飛鳥がボーイにチップをやり乗り込んだ。三人とも背広姿である。ソフトを被り蝶ネクタイのイワノフは暗黒街のボスに見えた。

「日本領事館へやってくれ」と運転手の横に座ったイワノフが言うと、「ダ」と返事があった。イワノフが「ラスキー?」と訊いた。老年の運転手が「ベラルーシ」と答えた。白ロシア人なのだ。飛鳥が口に指を当てた。「しゃべるな」という合図だった。ハイヤーが、セイント・ソフィア教会の広場の大通りを西へ走った。黒い外套を着た信徒が教会へ入って行くのが見えた。ハルピンはロシア人が多いのだ。長谷川がハンザ・キャノンで広場を撮った。その長谷川をドライバーがバックミラーで見ていた。

「おお、元気そうだね」と島原領事が三人を迎えた。領事がイワノフに「カークヂェラ?(元気にしていたか?)と訊いた。「オーチン・ハラショ」
レスラーとヘビー級の柔道家が抱き合って頬に接吻していた。体重を合わせると四〇〇キログラム。ヒグマとインド象。なにか滑稽なのだ。長谷川が声を立てずに笑った。領事が三人をソファーのある部屋に案内した。
「イワノフ、明日の朝、もう一度、ひとりで来てくれんか?」
「ダ、ジェネラール」
「飛鳥少佐と長谷川少尉は新京にお帰りになるのですか?」
「いいえ、年末までハルピンにおります。牡丹江~鳥西~虎頭要塞を見て回ります。まだ満州を掴みきっていないのです」
飛鳥がまた長谷川を驚かした。そう言えば、青森歩兵第五連隊で初めて会ったときから絶え間なき驚きの連続であった。
――自分の運命はこのひとに掛かっている、、
「長谷川少尉さん、あなたには、カレン・スターがロシアの暗号電文の解読を教えます」
「いつミス・スターに会えますか?」
「カレンがお休みなので、明朝、また来てください」
「領事さん、フィルムを現像して頂けますか?」
「勿論です」長谷川が五本のフィルムを領事に渡した。
三人が立ち上がった。
「ボク、目立つから、ひとりの方がいい。地下の通路から出ます」とイワノフが言った。
「そう言おうと思ったところだよ」と飛鳥が笑った。
領事が車を出してくれた。日本総領事館付け陸軍武官が運転手であった。
「どこへお連れしますか?」と山中と名乗った武官が訊いた。
「ソフィア教会で降ろしてくれたまえ」
「さっき来た道と違いますね?」と長谷川が首をかしげた。
「気が着いたかね?」
ふたりはソフィア教会の広場で降りた。
「露探が尾行している」
「ロタン?」
「露探とはロシアの密偵のことだ。ゲー・ペー・ウーの一部で日露戦争の時代から活発になった」
「ロシア人に気をつけろと?」
「ロシア人とは限らない。張学良も、馬占山も、ソ連の援助を受けているからね。日本人の露探もおるよ」
「国を売る日本人がいるのですか?」と長谷川の目が暗くなった。
「赤色思想とはそういうものだ」と飛鳥が言った。
ふたりは伽藍の中へ入っていった。外観は壮大だが、中は意外に狭かった。長谷川が視線を感じた。振り向いたが、黒い外套を着たロシア正教徒の団体のほか誰もいなかった。



翌朝、長谷川がひとりで領事館へ行った。カレン・スターに会えるので胸が騒いだ。
「哈爾浜館にはどのくらいご滞在するのですか?」と、カレンが長谷川に訊いた。
「イワノフがアパートを探しているんです」
「イワノフに会わせてください。私の両親が持っている館を見せますから」
そこへ、領事とイワノフが入って来たので、館を見に行くことになった。山中武官の運転するダットサンに乗った三人がハルピンの南西へ向かった
「飛鳥少佐はハルピン平房総司令部にお出かけです。四日間の出張だそうです」とイワノフが長谷川に伝えた。
建物が混雑した支那の街に入った。「う~む」と長谷川がイワノフの顔を見た。
「南崗区というんです。こういう場所が意外に安全ナノヨ」とイワノフが心配顔の長谷川に言った。
ダットサンが洒落たロシア風の館の前に停まった。道路の斜め向かいは公園のようだ。
「天竜公園です」と運転手の山中武官が長谷川に言った。
カレンの両親が玄関で出迎えた。長谷川が、カレンは父親に似ていると思った。
「さあ、どうぞ遠慮しないで」と居間に通された。天井が高く、シャンデリアが下がっているゴシックな設計である。母親とカレンが、お茶と菓子を持って来た。借りる部屋を見た。重い家具と額に入った鏡のある豪華な部屋だ。風呂まであった。風呂好きの飛鳥が喜ぶだろう。
「東向きなのよ」とカレン。それとダイニングとキッチンを見せた。
「ほかには住人はいないのですか?」
「親戚だけです。カレンは領事館の近くのアパートに住んでるのよ。この娘は独立心が強いの」と母親のイリアが娘を褒めた。
「ママ、そうじゃないのよ。領事館に歩いて行けるから」と笑った。そのエクボが可愛いかった。
話しは決まった。引越し荷物は拳銃~ハンザ・キャノン~飛鳥の満人服と靴だけである。
 


「ミス・カレン、シェべシェンノ・シェクペトナってどういう意味ですか?」とロシア語教室が始まった。
「極秘という意味です」
「これは?」
「トバリシ・ゾルゲ(同志のゾルゲ)」
長谷川が唇に手を当てて想いに沈んでいた。カレンはその理由がわかっていた。長谷川が口を開いた。
「この解読任務は危険ですか?」
「危険です」とカレンが長谷川の眼を見つめた。
「少尉さんには娘さんがいるのね?」長谷川は頷いただけであった。

四日後の午後に飛鳥が南の関東軍平房飛行隊基地から戻って来た。早速、南崗区の館へ引っ越した。ユダヤ人の夫婦は温厚な顔の飛鳥が好きになった。飛鳥が平房のお土産を夫婦に渡した。
「スパシーボ」
「パジャールスタ (どういたしまして)」
「ロシア語はどう?」と部屋に入ると長谷川を振り返った。
「意外に易しいんです」
「おい、あの先生、可愛いね。ここに住んでいると関係が付くぞ」と笑った。
「はあ、ときどき見つめられると困るんです」
「少佐殿、ゾルゲってどういう人物ですか?」
「暗号解読を憶えたら、実地に教える」



二人は歩いて行った。歓声が上がった方角を見ると人だかりがあった。赤い風船が葉の落ちたポプラの枝に結ばれている。見世物だろう。人垣の後ろから見ると、なんと熊の皮のパンツを履いたジャポチンスキーがバーベルを挙げていた。「どす~ん」とバーベルを地面に落とした。地面が揺れた。イワノフが笊を持って一巡した。飛鳥と長谷川を見たが表情を変えなかった。
「要求二百キロ」という満語が聞こえた。
「賭けをしよう」とイワノフがその満人に言った。ひとりの支那人が紙に鉛筆で掛け金と名前を書き込んだ。大金が賭けられた。二百キロを挙げる人間など地球広しと言えどこの世にはいないからだ。
イワノフが二百キロのバーベルに挑戦した。手に粉をふるとバーベルを掴んだ。群衆が息を呑んだ。歯を食い縛って膝まで挙げた。「ウ~ン」と唸った。肩まで挙げた。そこで再び歯を食いしばった。首が膨れ上がり、顔が真っ赤になった。無言で左脚を後ろに退くと一気に頭上に挙げたのである。バーベルが重量にしなっていた。歓声と拍手が沸いた。憲兵将校までが手を叩いていた。ふたりは錦鯉を見に蓮池へ行った。公園を出て、文昌街を南に歩いた。左手にカトリック教会の鐘楼が見える。やがて「唐人街」と金箔の看板の或る門を通った。
「ロシア飯食うか?」
「面白そうですね」
塔道斯(トトロ)というロシア文字で書かれた看板があった。水成岩造りの建物は重苦しいが、中へ入ると、テーブルには白いクロスが掛かっていて上品であった。ダンスをするのかフロアがあった。まだ、昼には早いのか、客は二人だけであった。ロシア語学生の長谷川が、野菜スープ、魚料理、ラム、ビーフと豚肉のフィレ、ハウスワインを注文した。焼きたての素敵なパンが出た。
「多かったですか?」
「オオクナイデスヨ」とイワノフの声がした。飛鳥がビックリしていた。イワノフはユダヤ教の坊さんに見える服装をしていた。黒い帽子を被ると別人に見えた。食事中もイワノフは帽子を取らなかった。
「ここ四日間、何をしていたの?」と飛鳥が訊いた。
「松花江の電柱に登ってた」とイワノフ。そしてポツポツと穴の開いた紙のテープをポケットから出して長谷川に渡した。その間、飛鳥が店の中を見ていた。構造が安全そうなので気に入った。
「ひとり住まいなのか?」
「甥が昨日ハバロフスクから来ました。二人です」
イワノフはビーフとラム肉、スープとパンを驚くべきスピードで食べた。ワインをガブ飲みして、ほとんど食ってしまったのである。長谷川が給仕を呼んだ。また皿が並んだ。餃子に似たピロシキが出た。
「平房はどうでしたか?」と長谷川が飛鳥に訊いた。
「北支那方面軍は徐州へ向かっている。済州島から渡洋爆撃が増えた。上海~南京~重慶まで爆撃している。蒋介石を絶対服従に追い込むと言っている。長谷川少尉には関係ない」
長谷川は、それが聞きたかったのだ。
「十一月に、牡丹江へ行く。それまで、俺は、イワノフと仕事をする」   

続く
05/10
(速報)「落ちた偶像」ビル・ゲイツが離婚、、
昨日、ビル・ゲイツ(54)と妻のメリンダが離婚に踏み切った。メリンダは2013年から離婚弁護士に相談していた。理由はゲイツが監獄で自殺したジェフリー・エプステインの招待で、カリブ海の島ロリータ・アイランドへ行き未成年者とグループセックスしたという。わが妻、クリステインは事実だと言っていた。伊勢は半信半疑だった。日本のメデイアは伝えていない。伝えたのはWSJです。写真は載せない。このFC2ブログもマイクロ・ソフトの所有だから。伊勢
05/09
スペードのエースと呼ばれた男  第一話 第12章
第一話
第12章



「長谷川少尉、君は太原で実戦を体験した。もはや新兵ではない。もしも、俺がソ連軍をカンチャーズ島から追っ払えと君にパワーを与えたら何をするかね?」
「はあ?本気でありますか?」長谷川が笑って訊いた。
「俺が本気でなかったことはあるか?」飛鳥は笑っていなかった。
「少佐殿、失礼しました。しかしこれは重任です。今夜一晩、考えさせてください」
「イワノフ、敵はどういう部隊かな?」飛鳥がすっかりこのヒグマのような男を信じていた。
「六月にラスキーの砲艇ちゅうのが三隻、乾岔子島に上陸シタヨ」
「条約もヘッタクレもないとかな?」
「ソウナノヨ」とイワノフが笑っていた。

九八式偵察機キ36が乾岔子島(カンチャーズ)を偵察して戻ってきた。飛行機乗りにしては優しい顔立ちの操縦士は岩田中尉と名乗った。早速、フィルムを現像して映写機に装填した。大きな島がスクリーンに映った。乾岔子島は黒河の大黒河島の中洲ではなかった。草も木も生えており民家が見える。アムールの中に島があるのではなく、乾岔子島の周りには大小の川が幾重にも流れている。湖沼地帯なのである。
「なるほど砂金が採れそうな島ですね」
「ソ連の砲艇ですが、六隻いる。こりゃ、ガラクタだ。この河舟だと兵隊は、一艇あたり、せいぜい六人だね」
「でも、敵の機関砲は戦車用の四五ミリ砲であります」
「一二・七ミリ重機関銃を砲塔に装備しちょるな」と専門家たちが、わいわいとコメントしていた。戦争ゲームを楽しんでいるのだ。



黒河の東南十キロの埠頭に砲艦順天と小型の高速艇が待っていた。
「敵六隻に対してこれだけですか?ソ連軍は島に大砲を据えている可能性が高いのですが?」と一等兵曹が長谷川司令官に訊いた。飛鳥も、二十名の歩兵も長谷川を見ていた。
「そうであります」
「少尉殿は、河の合戦をしたことがありますか?」と今度は軍曹が長谷川司令官を疑っていた。
「生まれて始めてです」
「エエ~?」
「わしが少尉に命じたのだ。君たちは少尉の命令に従え」
飛鳥の一言で軍曹が黙った。
「ボク、オヨゲナイ」とイワノフが泣きそうな声で言うのを飛鳥が聞いた。下士官も、歩兵も黙々と乗り込んだ。最期に乗ったのはイワノフである。飛鳥の横に座った。そのイワノフが青い顔をしていた。砲艦がぐらりと揺れた。
「ひゃあ!」とイワノフが悲鳴を上げた。そのイワノフを飛鳥が見ると、なんと赤いトサカの付いた白色レグホンの雌鶏を右脇に抱いているではないか。
「イワノフ、食い物はいくらでもあるぞ」と炊事兵が言った。
「コレ、ボクノオトモダチ。ミーシャ」
「エエ~?」
「ボク、フネ、トテモコワイヨ」
飛鳥が「イワノフはカナズチ。河に落ちると特殊潜航艇。二度と再び浮かび上がらない」と言うと水兵が笑った。イワノフがその水兵を睨みつけた。
「敵は特別赤旗極東軍ちゅうんだ。日本陸軍参謀本部も関東軍に出動を命じたが、融和を好む石原莞爾少将の進言などにより、この六月に作戦中止を命じた。同日に外交交渉によってソ連軍の撤収も約束された。ところが、ソ連は約束を破った。この露助の根性は直らん。諸君、忘れるな」と、自称アムール艦隊の旗艦である順天の明智三郎艦長が言った。
「明智三郎艦長は日本海軍河川砲艦部隊の一等艦長なのである。だが河川部隊は太平洋艦隊で昇級出来なかった連中の墓場だと言われていた。海軍アムール河部隊の母港はハルピンの松花江埠頭であった。春夏の期間にはこのソ満国境の黒河埠頭へはるばる出てくる。ハルピンと黒河の距離は一二〇〇キロだ。それも鋭角なのだ。ハルピンの松花江をアムールとの接点へ東北に上がっていくが、それは地図の上のことだ。実際は、下流へ下るのである。アムールに出ると西北へ舵を取る。そこから昼夜、三日航行して、今度は真っ直ぐ北へ遡る。その角に黒河埠頭がある。そこからアムールは西北の興安嶺まで七百キロ続いているのである」と飛鳥が長谷川に河川砲艦部隊の解説をした。

長谷川は、アジアの河川と古代文明を学んだ。河はその位置によってみな性格が違う。このアムールのマップは何百回も見た。その性質とは何だろうか?
「明智艦長、それで、一体ハルピンから何日で来るのでありますか?」と兵曹が訊いた。
「順天は、最高時速十ノットしか出ない。ジーゼルだから遡上には強いよ。でもね、ハルピンから百二十時間かかるんだ。ま、五日さ。悪天候だとわからん」
「それで戦闘になるのでありますか?」
「いやあ、腕次第だわさ」
「腕次第?艦長殿の戦闘経験は?」
「ないよ」
「エエ~?」
「三郎叔父さんはね、先祖が九鬼水軍の水師だったのですよ」と明智二等水兵が叔父さんを庇った。
「信長公に明智艦長か。面白いな」と飛鳥が笑っていた。
「九鬼水軍の安宅船は順天より五倍も大きかったんです。信長の石山本願寺攻めでは淀川を遡っているのです」と今度は長谷川が講談師になっていた。
「でも、それさ、元亀元年の話しじゃろが?」と浪曲が大好きな兵曹が言ったので船中、大笑いとなった。
「ちょっと真面目な話しをせんといかん。航海長、乾岔子島までのルートを説明してくれ」と兵長がまた心配になってきた。
――ここから真っ直ぐ南へ、百二十キロ下る。そこには、沿江満族鎮がある。この黒竜江の満州側は全て満族の集落なのだ。だが、ポチポチの集落で「鎮」とは言えないものだ。人間よりも虎のほうが多いんだ」
「トラ?加藤清正の虎退治~」と兵曹が浪花節を唸っていた。
「虎はダイジョウブよ。人食い鮫がイルよ」とイワノフが歩兵を脅していた。
「満族鎮から東へ六十キロ行くと、コンスタンチン・ノブカちゅう島がある。偵察機がその島にもソ連軍が上陸しておるといっちょる。ここが最初の戦闘かな?」
「ソ連は何隻ですか?」と今度は長谷川司令官が心配になって訊いた。
「いまんとこ、一隻が写真に写っている」
「順天の大砲はどの距離から撃てるのでありますか?」
「十五〇〇メートルだが、八〇〇メートルが最適であります」と砲手が答えた。
「正確ですか?」
「いいえ、順ちゃんは竜骨のない小型砲艦なので揺れます」
「順ちゃんね?う~む」と飛鳥が唸って長谷川を見た。その長谷川は眼をギョロギョロさせてマップを見ていた。



太陽が真上に来ていた。順天が満族鎮で左折して東へ向かっていた。水兵が五人乗った航速艇がスピードを落とした。空に爆音を聞いたからだ。だが明智艦長が「心配するな」と言った。なぜなら小雨がポツリポツリと降り出していたからだ。案の定、ソ連機は順天を目撃しなかった。
「もうすぐ、コンスタンチン島が見えるよ」と明智が横に立っている長谷川を見て言った。明智は、このミッションが長谷川に掛かっていると分っていた。飛鳥が頷いているのを見た。明智は順天を岸に近く走らせていた。すると、、
「トラがおるぞ」という声がした。満州側の砂浜にシベリア虎の一家が寝そべっていた。虎の子まで遊んでいる。
「大体、満州族とか朝鮮族ちゅうのは泳がない。溺死すると天国へ召されないと信じているからだ。支那人も水を恐がっている。だから砂浜は虎のものだ。それに、この河には人食い鮫がおる」と航海士が兵隊に言った。
「ここで沈没すると自分はどうなるのでありますか」と歩兵のひとりが訊いた。
「バカこけ。キサマ、自分で考えろ」
「はあ?」
「まあ、うまく行くんじゃないかな」と飛鳥が歩兵を慰めた。
その日、霧雨が絶え間なく降った。順天が満州側の岸に近着けて、二つの錨をV型に降ろした。アムールが大きく北へ曲がっている地点である。あと三十キロで、コンスタンチン・ノブカである。水兵がカッターを二杯降ろしていた。河川用のカッターは八人しか乗れない。明智艦長、機関士、航海士、水兵の六人が順天に残った。歩兵十六人、兵長、兵曹、軍曹、飛鳥、長谷川、イワノフが上陸した。虎の一家は森の中に消えていた。兵隊たちは早速、天幕を張り、焚き火を二箇所に造った。有り難いことに雨が止んだ。水兵が酒を配った。だが、コップ一杯だけである。ふたりの水兵がトロールで釣った目玉の大きい草魚(そうぎょ)を抱えてきた。五十キロはある。にわか造りのキッチンで捌いた。塩胡椒を振り、パン粉をつけた。ついで、ひまわり油で揚げた。香ばしい匂いが当たりに漂った。イワノフと飛鳥が河に入って米を研いでいた。その間、雌鶏は長谷川のあぐらの上に座っていた。
「ひゃあ!」とまたイワノフが悲鳴を上げた。見ると、体重が二十キロはあるカミツキガメがイワノフの太い足の近くにいたのである。水兵が飛んできて尻尾を両手で捕まえた。
「これ美味いよ。亀ねぎにしよう」
「食ってダイジョウブかね?」と飛鳥が首をひねっていた。
「食えますよ。古代ジュラ期の両棲類です」と長谷川が言ったが、兵隊たちは、ポカンとしていた。
「誰が殺るねん?」
「俺はヤダよ」とみんな逃げてしまった。
「ボクが殺る」とイワノフがオファーした。水兵が手伝った。イワノフが包丁で頭を切ろうとした。包丁を見て怒った亀がもの凄い目付きで噛付いた。イワノフが飛びさがって尻餅をついた。飛鳥が南部を抜いた。一発頭に撃ったが首を引っ込めて死なない。長谷川が飛鳥から南部を受け取った。そして亀を裏返して心臓を撃った。これで亀さんの命は止まった。
炊事兵が甲羅を剥だ。カミツキガメは黄色い卵を持っていた。
「こりゃ、ご馳走だぞ」と酒と砂糖で好き焼きにすることに決めた。
兵隊がわいわいと飲み食いしている間、長谷川は写真を見ながら図面を引いていた。飛鳥が見ると、数字を書き込んでいた。そこへ高速艇が帰ってきた。コンスタンチン・ノブカにソ連軍は数名残して砲艦は引揚げていると報告した。
「よし。それなら、朝の二時にコンスタンチン・ノブカを通過しよう」と長谷川が言った。
「明智艦長に伝えてきます」カッターが草魚の天麩羅と飯を載せて漕ぎ出した。長谷川と飛鳥が飛び乗った。
「歩兵、全員寝ろ」と兵長が命令した。全員が天幕で寝た。



兵長が順天に乗り込む兵隊と下士官を点呼した。最期にミーシャを抱いたイワノフが乗り込んだ。水兵はイワノフをからかわないことにした。危険だからである。
「明智艦長、コンスタンチン・ノブカの手前で発動機を切って欲しいのですが、どの距離まで接近出来ますか?」
「そうさな、露助に聞こえないようにするなら、十キロ手前だな」と言ってから、ひとさし指を舐めて空に立てた。「上流から風が噴いちょる」と片目をつむって見せた。航海士が航速艇の艇長に「十キロ手前でエンジンを切れ」と言っていた。航速艇はガソリン・エンジンである。排気管も水の中である。ジーゼルのようにうるさくはない。だが、ソ連軍の監視兵は聞き耳を立てているはずだ。
あと十キロという地点へきた。明智が右手でクビを切る真似をした。機関士が油を切ってからシリンダーの弁を開いた。ジーゼルが止まった。百メートル先を行く航速艇も静かに流れ始めた。河の流速は十二キロである。
「ここから三十五分で島の南側を通過する」と長谷川が言うと、操舵手が舵輪を船首の右側スターボードに回した。コンスタンチン・ノブカの島影が黒く浮かび上がった。飛鳥が時計を見ると、かっきり朝の二時である。島の横は急流のようだ。船頭上がりの操舵手が舵を上手に操った。歩兵がひやひやしていたが、「ヤッパ、九鬼水軍じゃのう」と感心とも安堵ともいえぬことを呟いていた。
四角いコンクリートの兵舎が見えた。ソ連軍の監視兵は気が着かなかったようだ。島を通過してから五百メートルの地点で再び左折した。そのとき、コンスタンチン・ノブカに灯が点った。深照灯がふた筋、河面を照らした。
「ウォッカの飲みすぎじゃろ」と明智が笑った。
「機関士、始動せよ」と航海士が伝声菅にどなった。
「これでは戦艦長門並みだな」と飛鳥が剛毅な気分になっていた。航速艇は東に消えていた。六十キロ下流の乾岔子島を偵察に行ったのである。
順天が乾岔子島の西十キロの地点へ来ていた。航海士が碇を降ろした。長谷川が雨合羽を着て甲板に出た。腕時計を見た。五時を過ぎていたが一寸先が見えない闇である。飛鳥が横に来ていた。「バタバタ」と言う音がした。雨が降り出したのだ。
「少佐殿、幸運です」と長谷川が興奮していた。飛鳥が頷いた。そこへ 高速艇が、ゆるゆると戻ってきた。
「隊長、乾岔子島が砦になっております」と艇長が言うと、水兵が絵図面を長谷川に渡した。見ると、南側の川に面して大砲が二門並んでいた。だが、北のソ連側には砲台はなかった。飛鳥が何か言おうとした。
「少佐殿、分っております」
「少尉はこれを想定していたんだね?」
「甲板に兵を集めてください。艇長さんもここに居てください」
歩兵~下士官~航速艇の水兵~イワノフと雌鶏~炊事兵までも集まった。
「乾岔子島(カンチャーズ)とロシア側の間にある川に入る」と長谷川がよく透る声で言った。全員が緊張した。
「少尉さん、そこはロシア領でありますが?」と艇長が指摘した。
「分っている。南側よりも安全だ」と飛鳥が長谷川の計画をサポートした。
「敵の砲艇六隻はその川に停泊している。それを撃沈する考えです」と長谷川が言うと、、
「わが方は機関砲一門しかありませんが?」と順天の砲手が心細い声で言った。すると、、
「歩兵小隊から七五ミリ迫撃砲六機を借りてきた。これを陸に揚げる」と曹長が言った。
「ロシア側の陸でありますか?」と兵長が責める口調で言ったが長谷川はそれには答えず迫撃砲を持ってこさせた。
「迫撃砲を扱った兵はおるか?手を挙げよ」と飛鳥が言った。ほとんど全員が手を挙げた。
「でも、ロシア側には敵は居ないのですか?」と兵長が、また心配になっていた。
「それは行ってみないと判らん」と飛鳥が決めてしまった。
順天と高速艇が機関を停めて川の流れに身を任せた。下流に黒い島影が浮かび上がった。砲手も機関銃手も位置に着いた。順天が乾岔子島の三キロ手前で碇を降ろした。歩兵銃隊がカッターに迫撃砲を積んで上陸した。二人の偵察兵が先に歩いて行った。やがて戻ってきた。
「誰もおらんぞ」と興奮していた。
迫撃砲を担いだ歩兵の脚が速くなっていた。朝陽が登った。だが朝霧が川面を覆っていた。乾岔子島とロシアの砲艇が停泊しているのが薄明かりに見えた。
長谷川と飛鳥は順天に残った。歩兵は兵長が指揮するものだし、砲艦とて明智三郎艦長が大将なのだ。艦長とはそういうものである。ただ、明智さんは飛鳥参謀を尊敬している。明智艦長が「どうする?」という風に長谷川を見た。長谷川が「艦長、出動を命令してください」と言った。そして「のるかそるかの勝負だ」とつぶやいた。
「機関始動せよ。スロットル全開、、敵砲艇に全速力で向かえ」と明智三郎が機関士の甥に号令をかけた。高速艇がもの凄い速度で最初の砲艇に接近した。敵も気が着いた。砲塔を廻すのが見えた。だが時すでに遅し、、高速艇が百メートルにまで迫っていた。九七式機関銃が火を噴いた。砲塔に走って行ったロシア兵が川に落ちた。だが、ほかの砲艇が機銃を撃ち出した。高速艇が舵をきって上流へユーターンした。
順天の操舵手が九十度右に旋回した。砲手が真ん中のロシアの砲艇のブリッジを狙って「ど~ん」と撃った。艦橋が吹っ飛んだ。だが残りの全艇が順天を狙って撃ってきた。順天は全速力で下流へ逃げた。敵四隻が桟橋を離れて追いかけてきた。だが順天の脚には適わなかった。あきらめて戻ってきた。そのとき、迫撃砲が一斉に鳴った。なかなか当たらない。放物線を描いてロシア艇の上を越えて森に落ちた。
「オラに貸せ」と弾跡を見た軍曹がどなった。砲身を四十度に立て直した。砲弾を砲身に放り込んだ。これが先頭のロシア艇の甲板に見事に当たった。
「万歳」とあとの五機が軍曹の真似をしたら、全てが当たったのである。ロシア艇に火の手が上がった。水兵が川に飛び込むのが見えた。血の臭いを嗅いだ鮫の朝飯になった、、雌鶏を抱いたイワノフが真っ青になっていた、、
「長谷川少尉、卒業したな」と飛鳥がクチを曲げて笑っていた。
「自分は幸運であります」
「あのな、全ては数学と選択肢のベストを選ぶ能力なのだ」
「自分には人間の心理だけは分りません」
「俺も同じだよ」
順天が岸に着いた。歩兵が迫撃砲を担いで乗り込んだ。みんな笑い顔である。
「ご苦労さんでした」と長谷川がひとりひとりに会釈した。
「少尉、あんたは立派だね」と歳上の兵長が言った。
「ところでイワノフは何をしちょるの?」と明智が笑った。
「ミーシャとボク、シッカリミテタヨ」と言うと、砲艦が揺れるほどの爆笑が起きた。
黒河に帰る途中、沿江満族鎮でドブロクを買った。船中で宴会が始まった。炊事兵と明智の甥が焼き豚とカミツキガメのスープを持ってきた。飛鳥が踏み台に乗って「手毬歌」を唄っていた。歩兵も水兵も腕を振って歌い出した。

一列談判破裂して、日露戦争始まった

さっさと逃げるはロシアの兵、死んでも尽すは日本の兵

五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し

七月十日の戦いに、哈爾浜(はるぴん)までも攻め破り

クロパトキンの首を取り、東郷元帥万々歳

黒河の埠頭に着くころ、雲間から太陽が顔を出した。最初に、イワノフが雌鶏を抱いて降りた。もう懲り懲りだという顔をしていた。
「少尉、おれが今夜、大日本帝国水軍アムール艦隊を招待する。このロシアとの猿蟹合戦で、わが方は、一兵も死ななかった。司令官は喜んで宴会を許すだろう。織田信長の講談を兵曹から聞く。だがね、明日の朝十時にハルピン行きに乗る。カレン・スターに電報を打っておけよ」と意味ありげに笑っていた。



ハルピンへ帰るその朝、冷たい雨が降っていた。アムール方面の空は真っ暗である。食堂へ行って飯を食い、わかめの入った味噌汁を飲んだ。炊事兵が握り飯を包んでくれた。イワノフが握り飯を飯盒に詰めた。巨漢を見た当番兵がもうひとつ稲荷の入った折箱をくれた。イワノフがにっこりと笑った。飛鳥はイワノフがすっかり好きになっていた。
黒河からハルピンへ行くには、北安で分岐する浜北線で南下する。十四時間の行程である。ハルピン駅に着くのは夜の十時だ。将校数人、技師数人、傷病兵数人、看護兵がひとりで車内は、ガラガラに空いていた。飛鳥とイワノフが並んで座った。長谷川は弁当係りなのだ。どういうわけか、貨物車は野菜と名古屋コーチンとアムールで取れる川魚の塩漬けを満載していた。鱈子のような河魚の卵の塩漬けもあった。ハルピンにはないものだろう。窓外は雨模様で降ったり、止んだり、、軽便列車はたったの三両だった。針葉樹の森を出ると後は全くの荒野になった。列車は、農地の真ん中をコトン、コトンと走って行く。
「大地ですね」と長谷川が言った。イワノフが頷いていた。
「ず~とハルピンまで山などないよ」と地図を見ていた飛鳥が言った。長谷川が写真機を弄っているのをイワノフが珍しいらしく見ていた。長谷川がカメラをイワノフに手渡した。
「ミーシャはどうしたの?」
「雌鶏?肉屋に返したよ」とイワノフがゲラゲラ笑っていた。
「ああ?」と飛鳥が奇声を上げた。そんなことだろうと長谷川が思っていた。
「ハンザ・キャノンというんだよ」と言うと、カメラの操作を教えた。
「カピタン、一枚撮っていいでしょうか?」
「ああ、いいよ」とモクゾウ蟹が言った。そこへ車掌が薬缶を持ってきて湯を配った。
「私が撮りましょう」と車掌がカメラを受け取った。
夜の九時にハルピン駅に着いた。予定よりも早かった。ハイヤーに乗り込んで哈爾浜館へ向かった。全てアイグン基地の憲兵隊が手配していたのである。イワノフを見ると満面笑みであった。インド象に会えるからだろう。               
「結局、馬占山のゆくえは判らなかったね。記念写真を一枚撮りたかっただけだが」と飛鳥が長谷川を驚かした。
「少佐殿、アムールを見て満州の難しさが理解出来ました」
「イワノフはいいな」
「これからわれわれはどう行動しますか?」
「ハルピンに年末までいる考えだ」
「それは嬉しいです」と長谷川の声に戦闘はもう充分だという本音があった。
「少尉は、ロシア語を習熟してくれ。ミス・スターが教えてくれるが、まず島原さんに聞こう」
「少佐殿、傍聴は、ひとりでは不可能です」と長谷川が一番気になることを言った。
「うむ、班が必要なんだが、部員が多いと漏洩する。駐在武官ふたりだけだな」
「ハルピンは、スパイの天国と聞きました」
「ハルピンが満州の最大の基地だからね」
「日本人にもロシア間諜がいるのですか?」長谷川はここも知りたかった。
「おるよ。関東軍の将校の中にもね」と飛鳥が驚くことを言った。長谷川の目が丸くなった。飛鳥が続けた。
「スパイの世界は科学の世界ではない。理論などなく、動機はイデオロギーだ。敵国の秘密情報を盗んで軍事作戦に使う。それだけなのだ。スパイの宿命は殺されるものだ。ハルピンだけじゃない。ベルリン~東京~上海がスパイの戦場なのだよ」

長谷川が、天津のホテルで、泣いて命乞いをしたJ・T・チュウを想い出していた。     

続く          

05/08
スペードのエースと呼ばれた男  第一話 第11章
第一話
第11章



十月になった。北部満州の気温が下がった。
「黒河へ行く。一歩手前のアイグン基地の進捗状態を見に行くのだ」聞いた長谷川は、そら来たと思った。
「何日に出発しますか?」
「明後日の朝だ。騎兵が五十名行く。馬なし~機銃隊なし~野砲なしだ。ところで弟君には会うのかね?」
「明日、鮎二に会います。昼まで時間を頂きたいのです」
「勿論だよ。説得したまえ」
「黒河は比較的に平穏なのでありますか?」
「その通り。アムールの向こう岸はたったの八百メートルだ。だが浅瀬なので河舟では戦車は運べないのだ。ときどき嫌がらせにロシア騎兵がやって来るだけだ。野砲を持っている日本軍を攻めるのは難しいんだ」
「自分は何をするのでありますか?」
「アムール河の地形を専門家の目で観察してくれ。その写真機が役に立つ。フィルムは充分あるのか?」
「充分あります」長谷川も兵隊用語に慣れてきた。
「さて、衣服班に行って外套と軍手を貰って来ようか」
「地図とロシア語の豆辞典が欲しいのです」長谷川がカレン・スターを想い出しいた。



「鮎、おまえ死ぬぞ」と兄の道夫が言った。ふたりは騎兵から馬を借りて北へ向かっていた。鮎二が兄を見ていたが何も言わない。
「鮎、おまえ、リンチされなかったのか?」と意外に自信満々の弟に驚いた。
「道夫兄さん、連隊長は、クチだけで歩一を恐れているんだ。弱い犬ほどよく吼える。それに僕は獣医だから騎兵連隊がリンチを許さない」と弟が笑った。鮎二も北大を目指したが成績が不足だった。弟の将来を考えた長谷川の勧めで獣医を選んだ。鮎二は馬の歯科医になった。それが理由で准尉なのである。鮎二は荒野の騎兵隊には貴重な存在だった。
「軍曹らは?」上等兵の一級上の軍曹が最も暴力を振るうので長谷川が訊いたのだ。すると鮎二が目を左右に動かした。不機嫌になったのである。
「チチハルへきた去年の四月、岩木一等兵がゲートル巻くのが遅いとビンタを食った。冬のビンタはよく効く。岩木がもの凄い目でその軍曹を睨み付けたんだ。なんだ、
キサマと軍曹が怒鳴った。上等兵三人が飛んできた」
「岩木?青森県人か?それでどうなった?」と長谷川が青森第五連隊を想い出した。
「軍曹が岩木を蹴った。岩木が立ち上がった。上等兵が飛び掛った」
「それからどうした?」長谷川の胸が騒いだ。同郷の若者がリンチされる、、ところが驚いたことに、鮎が笑っていた。津軽の一等兵ら二百名が一斉に小銃に着剣したというのだ。准尉の鮎二がリンチされるならそうしろとチチハルに送られてきた汽車の中で話したからだ。
「それでどうなった?」
「兄さん、軍曹と上等兵は青くなったよ。もの凄い顔だったけど震えていた。おまえら軍法会議になると捨てせりふをして兵舎に帰って行った。歩一は軍法会議など怖くない。その日は僕が指揮を取って遠足に出かけた。兵隊食堂も歩一の炊事班なので弁当をたくさん作ってくれた」と笑った。「新任の連隊長は東京の人間で青森や埼玉の兵隊を恐れていた。憲兵を新京から呼ぶとだけ言った。その憲兵って道夫兄さんなんだ」と大声で笑った。
「おまえ、死ぬぞ」と兄がまた言った。そう言った長谷川にも手はなかった。
「兄さん、歩一は叛乱しない。ただ体罰や屈辱を受けるなら死ぬ覚悟が出来ている。みんなそう言っている」
「鮎もか?」
鮎二はそれには返事しなかった。
「大本営が歩一を分散すると言っているらしい」
「分隊になると鮎の命は危ない」
「兄さん、僕はハイラルに送られる。そこで死ぬ」と兄の目をじっと見た。
「ソ連軍と戦闘が起きたらドサクサの最中に逃げろ」
「はあ?」
「ロシアに逃げろ」
長谷川は弟に敵前逃亡を薦めたのである。鮎二が沈黙した。
「ロシア語を勉強しろ」と豆辞典~地図~銀貨一袋を弟に渡した。鮎二が道夫の目を見つめた。



飛鳥と長谷川が翌朝の六時に黒河行きの列車に乗った。これも軽便鉄道である。建設資材用の貨車が四両、客車二両、弾薬や機銃の貨車一両と機関車の八両である。斉斉哈爾(チチハル)から斉北線で北安へ行き、北安から北黒線で終点の黒河へ行くのである。
「八両なので、十時間でアイグンに着く」
「少佐殿も初めてでありますか?」
「初めてだよ。露助の近くに何度も行けるかよ」と笑った。
騎兵が乗り込んで来た。
「金沢第九騎兵連隊だ。捜索連隊という偵察が主なる任務なのだ。脚の速い馬を使う」
「関東軍は通信手段に何を使っておりますか?」と科学者らしい質問をした。
「うむ、無線電話が出来たらしいんだが、まだ、トンツーだろうね」
「盗聴されませんか?」
「少尉は鋭いな。馬の駅伝じゃどうにもならんので伝書鳩を使っている」
それはいい考えだと長谷が思った。だが伝書鳩は、夜は飛ばない、、
「日本語ではないトンツーを聞いたことがありますか?」
「いや、おれは通信のメカに弱いんだ。船舶でトンツーが使われているとは知っているがね」
「私は、ロシア語のコードの解読をしてみたいのです」」
「長谷川、さすがだな。俺の目に狂いはなかった」
しゃべって~弁当を食い~茶を飲み~写真を撮っているうちに北安に着いた。行程の半分である。駅にはプラットホームがなかった。なにもない。あるのは澄み切った秋空だけである。時間がゆっくりと流れている。石炭と水を補給するので一時間停車するのだと車掌が言って回った。。金沢騎兵連隊の兵隊たちが降りた。飛鳥と長谷川も線路に飛び降りた。騎兵は時間さえあれば歩き回る。目の前にチンゲン菜の畑が広がっている。兵隊らはタバコを吸って満足そうであった。長谷川が畑の中で働く農民を見ていた。そしてハンザ・キャノンを取り出した。
「あの人種は満人じゃないですね」
「不思議な衣装を着ている。この辺境は北方民族が多いらしいよ」
「アイヌのような?」
「満族だろう」満続とは原住民の総称である。
飛鳥が百姓から大きな瓜をひとつ買った。給仕兵が飛んで来て西瓜を五十個買った。百姓が喜んで馬車に積んでいた。
給仕兵が「高粱酒あるか?」と訊くと、赤いスカーフで頬被りした女が頭を横に振った。
真昼の太陽、、大地の匂い、、満族は全く敵愾心がないばかりか外来者を歓迎する、、――日本人はそれに比べて排他的だと長谷川が思った。
「少佐殿、私は東清鉄道の歴史に知識がないのです」
「少尉、それは良い質問だ。ロシアの東清鉄道が旅順まで完成し日本海へ進出してきたのが日本にとっては脅威で、これが日露戦争勃発の原因となったのだよ。日本軍の兵は三十万。戦死および病死は九万。つまり三人に一人が、お国のために若い命を捧げたのだ。そして若者たちの犠牲のおかげで日本が勝った。二十五年後には満州国が出来た。満鉄警備隊だった関東軍はハルピンに基地を造った。つまり、ロシアをアムールの向こう岸へ追っ払ったわけさ」
「それでロシアが建設した東清鉄道は日本のものになったのですね?」
「いや、そう簡単ではない。日~露~清の条約は結んではそれを破る歴史だ。ロシアでは共産革命が起きた。同じ頃、腐敗の極みにあった清が倒れて孫文の中華民国が出来た。体制が代わると条約も古草履のように棄てられた。何しろ流血革命だからね。日本とて、新京と東京では考えが違うんだ。関東軍はソ連と交渉なんか不可能と思っているが東京は、そこをなんとかしろとな。それで温和に解決しようと島原領事さんが交渉された。代金を払おうとした。だがソ連は拒絶した。島原さんは苦労人なんだ」
長谷川は改めて島原領事が重量級であると思った。まさしくインド象である。 



アイグン基地は建設中だった。針葉樹の森を切開いて新京から来た土建屋がアスファルトの滑走路を完成させていた。長谷川は土建屋の親方の精悍な風貌に強い印象を受けた。ふたりは指令官室に行き挨拶した。
「よく見ておいてくれ」と中佐の胸章を着けた司令官が言った。
「ロシアは仕掛けてこないのですか?」
「ときどき、偵察隊が東のアムールを渡るぐらいだ」
「中洲の大黒河島では今でも貿易の拠点ですか?」
「大黒河島は黒竜江省つまり満州国の領域だが、ロシア商人は通行料を払ってやってくる。武器さえ持ち込まない限り自由なんだ」                 
長谷川の目に、夢に見たアムール河が見えた。「滔々と流れるアムール」というが流れは湖のように緩慢である。水は河底が見えるほど透きとおっている。浅瀬である。黒河側から大黒河島へ頑丈な木橋が架かっている。――距離は百メートルか?島というより中州である。樹も生えていない。「河と文明」をメジャーに選んだ自分は正しかったと思った。ハンザ・キャノンが忙しくなった。
「佃島ぐらいの島だな」と飛鳥が言うのが聞こえた。
二人は外套を着ていた。木橋を歩いて渡った。満人が天秤棒を担いでいる。チンゲン菜やテン菜を運んでいるのである。市場が見えた。スカーフで頬被りしたバブーシュカ(ロシア人のおばさん)が買い物をしている。こどもを連れている。実に平和な風景なのだ。満州軍の警備兵がのんびりと要所に立っていた。日本兵ではなかった。
満族焼鴨火鍋と看板があった。飛鳥が指さした。二人がテーブルに陣取った。焼き鴨とチンゲン菜の入った麺のスープを注文した。辛子と蜂蜜が小皿にある。それを飛鳥がどんぶりに入れた。
「ウォッカ?」と満人の亭主が訊いたが飛鳥が手を振った。
店を出ると広場に出た。ロシア民謡の合唱が聞こえた。

見よアムールに波白く
シベリアの風たてば
木々そよぐ河の辺に 波さかまきて
あふれくる水 豊かに流る

舟人の歌ひびき
くれないの陽は昇る
よろこびの歌声は 川面をわたり
はるかな野辺に 幸をつたえる

うるわしの流れ 広きアムールの面(おも)
白銀(しろがね)なし さわぐ河波
広き海めざし 高まりゆく波
白銀なし さわぐ河波

自由の河よアムール うるわしの河よ
ふるさとの平和を守れ
岸辺に陽は落ち 森わたる風に
さざなみ 黄金をちらす

平和の守り 広きアムール河
わが船は行く しぶきをあげて
舳先(へさき)にたてば 波音たかく
開けゆく世の 幸をたたえて

見よアムールに波白く
シベリアの風たてば
木々そよぐ河の辺に 波さかまきて
あふれくる水 豊かに流る

ロシアの合唱団である。飛鳥が長谷川を見ていた。長谷川がロシア語で口ずさんでいたからである。
「長谷川、君はアカなのか?」
「いいえ、アカではありません。大連の小学校で習ったんです」
「関東軍のいるところでは歌うな」
「わかっております」と微笑した。
「しかし、いい歌だな」
「アムール河の波はロシア民謡じゃないのです」と今度は長谷川が先生になっていた。
「アムール河の波は、日露戦争中に作られたものです。アムール河を称える地方民謡をポポフがロシア語に訳したものです。お聞きの通り、ワルツで、北大の寮でも学生たちは、よく歌ったのです。
「北大には、アカが多いのかね?」と飛鳥が長谷川の目を覗いた。
「マルクス・レーニンの豆本をポケットに入れていた先輩を知っております」
「名前は?」
「荒山だったと思います」
これが、長谷川が自然科学を選んだ理由だろうと飛鳥は思った。
合唱が終わって、大きな拍手が起きた。ブルゴシチェンスクが、手が届く距離にあった。中州と向かいの岸の間には橋はなく、運搬船がのんびりと行き来していた。真ん中に国境線があり満州国もソ連も交通権を昔から認めあっていた。

突然、歓声が上がった。その方角を見ると人が大勢集まっている。見世物らしい。ロシア人の親子連れが日本人の二人を見て道をあけた。「スパシーボ」と長谷川が言って、しゃがんで見ているこどもたちの後ろに立った。なんと、半裸のロシア人の男が重量上げをしているのだ。熊の皮のパンツを履いている。上げるたびに小銭をせびった。そして重りを加えた。口を引き締めると持ち上げた、、歓声が上がった、、長谷川がハンザ・キャノンを取り出していた。大男が「ヤポンスキー、カネクレ」と野球のグローブのような手を出した。低音のバスである。飛鳥が満州札をやった。すると、「いくら撮ってもいいよ」と日本語で言ったのである。
「オーチン・ハラショ」と長谷川が言うと男はアトラスのように両腕を曲げて力瘤を見せた。また歓声が上がった。
ショウが終わった。レスラーは、ランニングシャツを着るとコインや紙幣の入った笊を腕に抱えた。そして、「イワノフ・ジャポチンスキー」と言ったのである。飛鳥と長谷川が飛び上がるほど驚いた。飛鳥が眉毛を下げて、しげしげとイワノフを観察していた。
ジャポチンスキーの顔だが、蒙古系なのか眼尻が細い。一種、眠そうな眼なのである。その疑問に答えるように、「タタール系のスラブ人」と言った。飛鳥がイワノフの身体検査をした。武器は持っていなかったが、何か硬いものがポケットから出て来た。なんと赤いケン玉なのだ。
「これ、なんの為だね?」
「お祖母ちゃんの想い出です」
「日本語は何処で習った?」と飛鳥。
「お祖母ちゃん、カラフトのひと。ボク、ダッタン」と笑った。子供なのか?大人なのか?実に不思議な人物である。――ハルピンのインド象、島原領事はどうして、この大きな赤ん坊のような男を知るようになったのだろうか?



ふたりの日本人とタタールのレスラーが木橋を渡った。
「そこの三人、停まれ!」と交番にいた警備兵が銃剣を持って飛んで来た。飛鳥が襟章を見せると敬礼した。だが、「その男を調べる」とジャポチンスキーを指さした。何語か判らないことばで話している。すると、突然、警備兵とイワノフが抱き合った。「ドシダーニャ」と別れた。
飛鳥と長谷川が警備隊に預けていた馬に股がった。ジャポチンスキーを見た。
「ボクアルク」と韃靼が言った。
アムールの支流に沿ってゆっくりと馬を進めた。大した距離ではない。
「アイグンは満語で恐ろしいというイミヨ」とイワノフ。
「コムレッドの名前は実名なのか?」と飛鳥が訊いていた。
「ジャポは、日本人。チンは、チンギス汗のチ~ン。スキーは、コザック。名はイワノフ」と日本語が実に正確なのだ。
基地のゲートに着いた。守衛兵がイワノフに手を挙げた。旧知の仲らしい。夕闇が迫っていた。今夜は冷えそうだ。騎兵がやってきて馬を厩舎へ連れて行った。
「飯食う前に風呂に入ろう」
「ボクも入りたい。日本のごはんタベタイ」と大男が子供になっていた。
「明日、ゆっくり話を聞かせてくれ」と飛鳥がイワノフと握手をした。

食堂へ行くと、土建の技士たちに混じってイワノフが飯を食っていた。大皿の横にケン玉が置いてある。何やら得体の知れない川魚を食っている。給仕兵が桶から炊き立ての飯をイワノフの食器に盛った。イワノフが肉ジャガをかけた。「三杯目ですよ」と技士が笑っていた。チチハルから一緒に来た騎兵はすでにアムールの東へ出発していた。ソ連の騎馬連隊が河を渡ったと報告されたからだ。伝書鳩が夜明けに巣箱に飛び込んで来たのだ。――鳩は自分が生まれた場所をどうして記憶できるのだろうか?と長谷川が学者に戻っていた。

翌朝、三人が憲兵隊の部屋に入った。
「伝書鳩が巣に帰るのは習慣ナノヨ」とイワノフが長谷川の疑問に答えた。
「イワノフはどこで生まれたの?」
「ハバロフスク」
「両親は?」
「赤軍に殺された。兄ちゃんも」とその細い目を伏せた。
「ロシア国籍か?」と飛鳥が訊いた。
「ダ」
「満州に入るときは?」と長谷川が訊いた。すると「指紋」と、ひとさし指を立てて見せた。
「任務は傍聴?」
「ダ、電信の傍聴をヤッテイルヨ」
「上官は誰なのか?」と飛鳥が次々と質問を発していた。ダブルスパイの可能性を感触で得ようとしていた。だが、その疑心暗鬼は、たちまちのうちに打ち消されたのである。
「ハルピンの島原領事さんです」とイワノフが言ったのである。
――ソ連の憲兵総司令部であるGPU(ゲー・ペー・ウー)の本拠はモスクワにある。極東のGPU本拠はハバロフスク。そこからウラジオストック。そこまでは電線である。ウラジオストックから無線で東京のソ連スパイへと繋がっている。イワノフには年下の甥がいる。ふたりで線路際の電柱に登って銅線を畑に引き込んで電信を紙にプリントしていた、、
「それでも暗号だろ?」
「領事さんが解読されていた」
「う~む」と飛鳥が腕を組んでいた。
「ソ連は島原領事を暗殺するだろうね」
「いいえ、島原領事さんを殺せば、日本は、ハルピンの~東京の~または上海の~またはコミンテルンの国のソ連外交官をミナゴロシにして報復しますから」
「なるほど、イワノフは頭がいいな。でも誰がソ連の外交官を殺るのよ?」
「ボクデス。ハバロフスクのGPUは、市街の爆破を恐れているのです」と言ったジャポチンスキーを飛鳥がじっと見つめていた。長谷川は、ソ連は満州に侵攻すると確信していた。だが、どこから入ってくるのだろうか?
「それで最近のソ連軍の動きは?」
「アムール河に乾岔子(カンチャーズ)って島がアルノネ。大きな島ヨ。その島は砂金採れるヨ。ソ連軍が上陸している。満人に出て行けとイッテル」
「エエ~?満州国軍は何をしてるの?」く
「まだ何もしてない。関東軍と相談してる」
「放置すると、黒河にも上陸するだろう」
「カピタンはここからドコイク?」
「ハルピンへ帰る考えだったが、これを聞いては放っておけない」
「どうしますか?」と長谷川が心配していた。

続く
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