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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第十五章
1
会議室にふたたび辮髪隊が集合していた。よく飲んで食って熟睡した為なのか、みんな顔色が良い。長谷川が立ち上がった。
「敵の戦死者、ブロニスラフ・カミンスキー司令官~GPU工作員五人~密偵キラー八人、、合計で十四人。二人逃げた。つまりソ連情報工作暗殺隊は、ほとんど全滅したのであります。マンドリン自動機関銃~トカレフ自動小銃~自走砲一両~トカレフ拳銃~その他、数多を押収致しました。手榴弾を持っていなかったのであります。財布を探しましたが、誰も持っていなかったのであります。それと、タグからどこの所属なのかが判明しております」
三国も関東軍司令官も茶を飲みながら聞いていた。財布を探した?司令官が三国憲兵大佐を見た。三国が大きく頷いていた。
「昨夜も話ましたが、ソ連は報復を必ずします。それが露助の性質なのです。その報復がいつ強行されるのか、この時点では未知であります。ハルピンの邦人や開拓団などを狙うと思われます」
「う~む、満州は広いからなあ」と関東軍の司令官の気が遠くなっていた。
「長谷川君、君のこれから先の予定が知りたい」と三国が訊いた。
「ハルピンにいてくれんか?」と関東軍司令官が長谷川の目をじっと見つめた。
「自分も同じように考えておりました。今週の日曜日に新京の参謀会議に出ます。そこで詰めてみます」
「大尉、平房の全憲兵に代わって感謝する」と三国が言うと元辮髪隊が一斉に立ち上がって敬礼をした。辮髪隊は町田少佐も含めてヤマトホテルの大宴会を夢みたのである。
「勇士のみなさん、それでは再会を楽しみにしています」長谷川~磯村~イワノフ~ウランが敬礼をした。
2
憲兵下士官が運転するダットサンがキタイスカヤの博多屋の前で停まった。追跡する車はいなかった。キタイスカヤは反共ロシア人の街なのだ。
「ワッハハハ」とイワノフが喜んでいた。女将がニコニコと出迎えた。磯村をチラチラ横目で見ていた。長谷川は無視した。四人が席に着いた。
「噂、聞いたわよ。あら、ウランさんはどうしたの?」と白い包帯をアタマに巻いたボクサーに訊いていた。
「なんでもないよ。それよりも、今日の料理は何?」
「何が食べたいの?」
「実はね、この連中は美味いもんばっかり食っているんだ」と長谷川がみんなを笑わせた。
「肉なの?魚なの?」
「キャビアある?あったらウオッカをグラスに一杯持って来て」と大道芸人が言った。
「冷凍だけど、白チョーザメのステーキ食べる?和牛より美味しいわよ。イワノフに大きいの焼いてあげる」
それと牛肉のウラル風スープに決めた。イワノフのウオッカを除いて誰も酒を呑まなかった。
「カピタン、今日はゆっくりと風呂にハイルトイイヨ」
「昨夜も兵隊風呂に入ったけど?」
「ロシアのムシブロはチガウヨ」
「どこで?」
「アレックスさんがモッテルヨ」
アレックスの館に戻った。ふたりは脊髄まで疲労していた。歯を磨いて居間で日本の新聞を読んだ。
「大尉殿、ボクは役に立たなくて済みませんでした」と磯村が頭を下げた。
「いやいや、少尉、君の写真は戦闘よりも重要なんだよ。君も修羅場をくぐった男だ。あのね、明日は島原領事さんと話しがある。君は山中さんと現像して、アルバム報告書を作ってくれ」
平房で貰ってきた新聞を読むと、大見出しが目に飛び込んできた。
――ノモンハン、日本軍の死傷兵多数、、
磯村の目が丸くなった。長谷川の思いが一気にノモンハンの戦場へ戻った。目を瞑った。飛鳥の遺品である般若心経を取り出して経を上げた。磯村も目を瞑っていた。
長谷川は新聞を閉じた。
「読むか?」
「いいえ、大尉殿、自分は寝ます」
「俺も寝る。寝ないと、次に備えることが出来ない」
ふたりは夫々の寝室に引き取った。やがて長谷川の鼾が磯村の耳に聞こえた。
朝がきた。イワノフがハイヤーで迎えにきた。ウランは医者に行った。磯村が写真機を持って乗り込んだ。
「ドブラエ・ウートラ、カピタン。ハルピンのGPUとクレムリンが大喧嘩シテルヨ」
「イワノフ、それ島原さんを交えて話そう。それと朝飯をどこかで食おう」
ハイヤーをフレンチ・カフェで停めた。オムレツとフレンチ・コーヒーだ。イワノフがベーコンをバリバリ食った。
下町を通らず北から迂回して領事館に行った。領事館の前に装甲車が見えた。憲兵ではなく陸軍の兵隊だ。
「少尉、これはね、九七式軽装甲車テケだよ。豆戦車などとも呼ばれている。写真を撮っても良いか俺が訊いてみる」
「テケですか?面白いネームですね」
兵士が長谷川の襟章を見て敬礼をした。写真は、二つ返事でOKだった。「触らないでください」と言った。よく見ると、小型だが、完全な戦車である。三七ミリ砲を据えている。七・七ミリ機関銃も二か所に付いている。GPUはバカではない。こんなものに近寄らない。兵士がイワノフを見たが、これも知っているのか誰何しなかった。
「カタピラが石畳を壊すので好ましくないと意見を具申したが、関東軍が聴かなかった」とインド象が苦い顔をしていた。
磯村が早速、山中武官と現像室に入った。現像液の中で次々と浮かび上がるネガに山中が目を丸くしていた。
「磯村君、凄いね、これ、、」とイワノフがGPUを銃殺したネガには手が震えた。
「山中さん、僕は兵隊には向かない」と磯村が寂しい声を出した。
「僕も向かない」とフランス印象派の画家を目指してパリへ留学した山中武官が言った。ふたりが目を合わせた。
「磯村さん、それ長谷川大尉に言ったのか?」
「言いました。でも心配するなって大尉が言うのです」
「それでは、大尉はパートナーがいないのと同じだよ?」
「いずれ解任される」と精悍な小倉の青年が涙を拭った。
現像が出来た。洗濯バサミで紐に吊った。部屋を出てカレンが使った教室へ行った。
「山中さん、これが現場記録なんです」とメモ帖を出して机に置いた。山中が速読した。
「磯村少尉、君は新聞記者かカメラマンに適任なんだね」
「はあ、我々、軍令憲兵は暗殺が任務ですから」
「磯村さんの撮影技術はダントツですよ」
「ええ、こないだ新京へ行ったときに、日本工学から感謝状を頂きました。もっと良い偵察機その他が使う軍事用カメラが可能だと書いてありました」
「日本工学に努めていたら出世したね」と二人が笑った。
ふたりが暗室に戻った。フィルムは乾いていた。印画の作業に移った。これもふたりの芸術家は速かった。
「山中さん、今日はアルバム報告書で夕方まで付き合ってください」
「領事もそう言われましたから。長谷川大尉が、ヤマトホテルに弁当を頼むようにと仰っていますから、ちょっと電話をしてきます」
昼休みの時間になった。ヤマトホテルから幕の内と、手こね寿司が届いた。会議室へ行くと二匹のシェパードが立ち上がって唸った。インド象が手をかざすと座った。インド象がポケットに手を入れてビスケットを犬たちに与えた。
「山中君、何でこんなに沢山出前を頼んだの?」とインド象が武官に訊いた。
「はあ、領事さん、僕らばかりが出前の弁当を食ったら、事務員はどう思いますか?」
「わかった」とだけ島原が言った。
「領事さん、僕らの弁当代は自分が払います。イワノフは相当食いますから」と長谷川が言った。
「長谷川君、イワノフは私の部下ですよ」と、すっかりイワノフを取られてしまった島原が笑っていた。
女性事務員三人と男性事務員三人がやってきた。インド象が招いたのだ。
「恐縮です」と年配の男性事務員が言った。
「いや、恐縮していたらメシは不味い。仕事じゃない」とインド象が言うと大笑いになった。
「長谷川君、楽しい昼の時間だが、私はソ連の報復を恐れている」
「当然であります。僕にも責任がありますから。ただ、ご家族を日本に帰して頂けませんか?」
「精鋭GPUとの撃ち合いを三国さんから聞いて、家内と娘夫婦に岡山へ帰るように言いくるめました」
「急ぐ必要はないのですが、八月中に満州を離れて頂きたいのです。その後は難しくなります」
「わかった。それでは弁当を食おう」
話が終わるまで待っていたイワノフがスプーンで、手こね寿司を食いはじめた。みるみる重箱が半分になった。
「まあ、これでは早食い競争ですよ」と女性事務員が言うと、「どっと」イワノフを除いてみんなが笑った。
事務員が職場に戻った後、磯村と山中武官が投射機を持ってきた。インド象と山中が壁のスクリーンを凝視していた。ある場面では表情が固くなった。銃殺場面では目を背けた。
「磯村君、よくこんな写真を冷静に撮れるもんだね」とインド象が言った。
「いえ、冷静ではありませんでした。逃げ出したい気持ちを抑えました」
「それほど金岡旭が生きていることが重要なんだね?」
「領事さん、日本の皇室および日本の国家そのものが金岡などの反日社会主義者によって崩壊します」と長谷川が、金岡が生きて平房の留置場にいることの重要さを述べた。島原領事と山中が長谷川の任務を理解した。インド象が面を上げた、、
「長谷川君、何故、現在、世界戦争が起きているのか君の考察を聞きたい」と島原が訊くとみんなの目が長谷川に注がれた。
「私見でありますが、戦争の根本原因は経済にあると思います。それも耐えられない経済不況です。その経済不況の原因は戦争そのものではないと思います。民族の間の憎悪確執も原因になります。気象の変動も原因になります。最大の原因は為政者の失敗だと思います」
「日本の為政者の失敗とは?」
「閣下、それに回答すれば、自分はここに立っておれません」
「相手、例えばアメリカが相談に応じなければどうなる?」
一同が息を呑んだ。
「軍部が国家権力を握ります。日米は、あらゆる手段を使って敵国の背骨が折れるまで戦闘を続けます。敵が全滅するまで戦争モーメントは停まりません。日本の場合は支那大陸で戦禍が広がります。長江の武漢三鎮です。そこからビルマへと戦線が拡大して行きます。犠牲者は双方に出ます」
「長谷川博士、見事だ」とインド象がため息をついた。
「領事さん、日曜日の午後、磯村と自分は新京に飛びます。参謀会議に出て、ソ連の報復にどう備えるか協議をして計画を持って帰る考えです。ついでに関東軍特別演習を見学致します」と八月十五日までハルピンに戻らないと伝えた。インド象が心配そうな顔になった。
続く、、
第十五章
1
会議室にふたたび辮髪隊が集合していた。よく飲んで食って熟睡した為なのか、みんな顔色が良い。長谷川が立ち上がった。
「敵の戦死者、ブロニスラフ・カミンスキー司令官~GPU工作員五人~密偵キラー八人、、合計で十四人。二人逃げた。つまりソ連情報工作暗殺隊は、ほとんど全滅したのであります。マンドリン自動機関銃~トカレフ自動小銃~自走砲一両~トカレフ拳銃~その他、数多を押収致しました。手榴弾を持っていなかったのであります。財布を探しましたが、誰も持っていなかったのであります。それと、タグからどこの所属なのかが判明しております」
三国も関東軍司令官も茶を飲みながら聞いていた。財布を探した?司令官が三国憲兵大佐を見た。三国が大きく頷いていた。
「昨夜も話ましたが、ソ連は報復を必ずします。それが露助の性質なのです。その報復がいつ強行されるのか、この時点では未知であります。ハルピンの邦人や開拓団などを狙うと思われます」
「う~む、満州は広いからなあ」と関東軍の司令官の気が遠くなっていた。
「長谷川君、君のこれから先の予定が知りたい」と三国が訊いた。
「ハルピンにいてくれんか?」と関東軍司令官が長谷川の目をじっと見つめた。
「自分も同じように考えておりました。今週の日曜日に新京の参謀会議に出ます。そこで詰めてみます」
「大尉、平房の全憲兵に代わって感謝する」と三国が言うと元辮髪隊が一斉に立ち上がって敬礼をした。辮髪隊は町田少佐も含めてヤマトホテルの大宴会を夢みたのである。
「勇士のみなさん、それでは再会を楽しみにしています」長谷川~磯村~イワノフ~ウランが敬礼をした。
2
憲兵下士官が運転するダットサンがキタイスカヤの博多屋の前で停まった。追跡する車はいなかった。キタイスカヤは反共ロシア人の街なのだ。
「ワッハハハ」とイワノフが喜んでいた。女将がニコニコと出迎えた。磯村をチラチラ横目で見ていた。長谷川は無視した。四人が席に着いた。
「噂、聞いたわよ。あら、ウランさんはどうしたの?」と白い包帯をアタマに巻いたボクサーに訊いていた。
「なんでもないよ。それよりも、今日の料理は何?」
「何が食べたいの?」
「実はね、この連中は美味いもんばっかり食っているんだ」と長谷川がみんなを笑わせた。
「肉なの?魚なの?」
「キャビアある?あったらウオッカをグラスに一杯持って来て」と大道芸人が言った。
「冷凍だけど、白チョーザメのステーキ食べる?和牛より美味しいわよ。イワノフに大きいの焼いてあげる」
それと牛肉のウラル風スープに決めた。イワノフのウオッカを除いて誰も酒を呑まなかった。
「カピタン、今日はゆっくりと風呂にハイルトイイヨ」
「昨夜も兵隊風呂に入ったけど?」
「ロシアのムシブロはチガウヨ」
「どこで?」
「アレックスさんがモッテルヨ」
アレックスの館に戻った。ふたりは脊髄まで疲労していた。歯を磨いて居間で日本の新聞を読んだ。
「大尉殿、ボクは役に立たなくて済みませんでした」と磯村が頭を下げた。
「いやいや、少尉、君の写真は戦闘よりも重要なんだよ。君も修羅場をくぐった男だ。あのね、明日は島原領事さんと話しがある。君は山中さんと現像して、アルバム報告書を作ってくれ」
平房で貰ってきた新聞を読むと、大見出しが目に飛び込んできた。
――ノモンハン、日本軍の死傷兵多数、、
磯村の目が丸くなった。長谷川の思いが一気にノモンハンの戦場へ戻った。目を瞑った。飛鳥の遺品である般若心経を取り出して経を上げた。磯村も目を瞑っていた。
長谷川は新聞を閉じた。
「読むか?」
「いいえ、大尉殿、自分は寝ます」
「俺も寝る。寝ないと、次に備えることが出来ない」
ふたりは夫々の寝室に引き取った。やがて長谷川の鼾が磯村の耳に聞こえた。
朝がきた。イワノフがハイヤーで迎えにきた。ウランは医者に行った。磯村が写真機を持って乗り込んだ。
「ドブラエ・ウートラ、カピタン。ハルピンのGPUとクレムリンが大喧嘩シテルヨ」
「イワノフ、それ島原さんを交えて話そう。それと朝飯をどこかで食おう」
ハイヤーをフレンチ・カフェで停めた。オムレツとフレンチ・コーヒーだ。イワノフがベーコンをバリバリ食った。
下町を通らず北から迂回して領事館に行った。領事館の前に装甲車が見えた。憲兵ではなく陸軍の兵隊だ。
「少尉、これはね、九七式軽装甲車テケだよ。豆戦車などとも呼ばれている。写真を撮っても良いか俺が訊いてみる」
「テケですか?面白いネームですね」
兵士が長谷川の襟章を見て敬礼をした。写真は、二つ返事でOKだった。「触らないでください」と言った。よく見ると、小型だが、完全な戦車である。三七ミリ砲を据えている。七・七ミリ機関銃も二か所に付いている。GPUはバカではない。こんなものに近寄らない。兵士がイワノフを見たが、これも知っているのか誰何しなかった。
「カタピラが石畳を壊すので好ましくないと意見を具申したが、関東軍が聴かなかった」とインド象が苦い顔をしていた。
磯村が早速、山中武官と現像室に入った。現像液の中で次々と浮かび上がるネガに山中が目を丸くしていた。
「磯村君、凄いね、これ、、」とイワノフがGPUを銃殺したネガには手が震えた。
「山中さん、僕は兵隊には向かない」と磯村が寂しい声を出した。
「僕も向かない」とフランス印象派の画家を目指してパリへ留学した山中武官が言った。ふたりが目を合わせた。
「磯村さん、それ長谷川大尉に言ったのか?」
「言いました。でも心配するなって大尉が言うのです」
「それでは、大尉はパートナーがいないのと同じだよ?」
「いずれ解任される」と精悍な小倉の青年が涙を拭った。
現像が出来た。洗濯バサミで紐に吊った。部屋を出てカレンが使った教室へ行った。
「山中さん、これが現場記録なんです」とメモ帖を出して机に置いた。山中が速読した。
「磯村少尉、君は新聞記者かカメラマンに適任なんだね」
「はあ、我々、軍令憲兵は暗殺が任務ですから」
「磯村さんの撮影技術はダントツですよ」
「ええ、こないだ新京へ行ったときに、日本工学から感謝状を頂きました。もっと良い偵察機その他が使う軍事用カメラが可能だと書いてありました」
「日本工学に努めていたら出世したね」と二人が笑った。
ふたりが暗室に戻った。フィルムは乾いていた。印画の作業に移った。これもふたりの芸術家は速かった。
「山中さん、今日はアルバム報告書で夕方まで付き合ってください」
「領事もそう言われましたから。長谷川大尉が、ヤマトホテルに弁当を頼むようにと仰っていますから、ちょっと電話をしてきます」
昼休みの時間になった。ヤマトホテルから幕の内と、手こね寿司が届いた。会議室へ行くと二匹のシェパードが立ち上がって唸った。インド象が手をかざすと座った。インド象がポケットに手を入れてビスケットを犬たちに与えた。
「山中君、何でこんなに沢山出前を頼んだの?」とインド象が武官に訊いた。
「はあ、領事さん、僕らばかりが出前の弁当を食ったら、事務員はどう思いますか?」
「わかった」とだけ島原が言った。
「領事さん、僕らの弁当代は自分が払います。イワノフは相当食いますから」と長谷川が言った。
「長谷川君、イワノフは私の部下ですよ」と、すっかりイワノフを取られてしまった島原が笑っていた。
女性事務員三人と男性事務員三人がやってきた。インド象が招いたのだ。
「恐縮です」と年配の男性事務員が言った。
「いや、恐縮していたらメシは不味い。仕事じゃない」とインド象が言うと大笑いになった。
「長谷川君、楽しい昼の時間だが、私はソ連の報復を恐れている」
「当然であります。僕にも責任がありますから。ただ、ご家族を日本に帰して頂けませんか?」
「精鋭GPUとの撃ち合いを三国さんから聞いて、家内と娘夫婦に岡山へ帰るように言いくるめました」
「急ぐ必要はないのですが、八月中に満州を離れて頂きたいのです。その後は難しくなります」
「わかった。それでは弁当を食おう」
話が終わるまで待っていたイワノフがスプーンで、手こね寿司を食いはじめた。みるみる重箱が半分になった。
「まあ、これでは早食い競争ですよ」と女性事務員が言うと、「どっと」イワノフを除いてみんなが笑った。
事務員が職場に戻った後、磯村と山中武官が投射機を持ってきた。インド象と山中が壁のスクリーンを凝視していた。ある場面では表情が固くなった。銃殺場面では目を背けた。
「磯村君、よくこんな写真を冷静に撮れるもんだね」とインド象が言った。
「いえ、冷静ではありませんでした。逃げ出したい気持ちを抑えました」
「それほど金岡旭が生きていることが重要なんだね?」
「領事さん、日本の皇室および日本の国家そのものが金岡などの反日社会主義者によって崩壊します」と長谷川が、金岡が生きて平房の留置場にいることの重要さを述べた。島原領事と山中が長谷川の任務を理解した。インド象が面を上げた、、
「長谷川君、何故、現在、世界戦争が起きているのか君の考察を聞きたい」と島原が訊くとみんなの目が長谷川に注がれた。
「私見でありますが、戦争の根本原因は経済にあると思います。それも耐えられない経済不況です。その経済不況の原因は戦争そのものではないと思います。民族の間の憎悪確執も原因になります。気象の変動も原因になります。最大の原因は為政者の失敗だと思います」
「日本の為政者の失敗とは?」
「閣下、それに回答すれば、自分はここに立っておれません」
「相手、例えばアメリカが相談に応じなければどうなる?」
一同が息を呑んだ。
「軍部が国家権力を握ります。日米は、あらゆる手段を使って敵国の背骨が折れるまで戦闘を続けます。敵が全滅するまで戦争モーメントは停まりません。日本の場合は支那大陸で戦禍が広がります。長江の武漢三鎮です。そこからビルマへと戦線が拡大して行きます。犠牲者は双方に出ます」
「長谷川博士、見事だ」とインド象がため息をついた。
「領事さん、日曜日の午後、磯村と自分は新京に飛びます。参謀会議に出て、ソ連の報復にどう備えるか協議をして計画を持って帰る考えです。ついでに関東軍特別演習を見学致します」と八月十五日までハルピンに戻らないと伝えた。インド象が心配そうな顔になった。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第十四章
1
平房の練兵場で模擬演習が行われた。長谷川がまず、五つのペアを作った。「それを、い・ろ・は・に・ほ、と呼んだ。「ほ組」は長谷川とイワノフの狙撃隊~「い組」と、「ろ組」は軽機関銃隊~「は組」と、「に組」はライフル銃隊である。つまり銃器は全部で八つであった。
「だが、もし敵が四五ミリ砲を持っていたら?」と菊原大尉が訊いた。
「よくわかります。それがウランと磯村の仕事なんであります」と言うと、ウランが両手を上げた。
「仕事?」と町田少佐が怪訝な顔をした。
「ご心配のないように。用意周到ですから」
――ははん、爆破する気だなと三国がウランを見ていた。
長谷川は四組の配置を野球に例えて黒板に書いた。太原の夜襲を想い出していた。違いはあの夜襲は国民軍相手で日本軍は八百名の精鋭部隊だったが、この平房憲兵特攻班は,ソ連の特殊部隊が相手で、十名である。
「狙撃組は何を狙撃するのか?」と三国が訊いた。
「わが方の軽機関銃隊をGPUは狙うでしょう。その狙撃手との一騎うちです」
「自信はあるのかね?」
「答えられません。われわれも、あの三階建てのビルに潜みます」
「それから?」
「手榴弾を投げ込みます」
「それ自信があるのか?」
「あります」
それにしても、ひとつ間違えば全員が死ぬ。磯村が戦死する、、長谷川は、ため息が出そうだった。だが、そんな弱音は、おくびにも出せないのだ。
「長谷川大尉殿は、実戦体験はあるのですか?」と顔に銃創のある北島中尉が訊いた。長谷川の目が鰐の目になっていた。北島が驚いて身を引き締めた。
「あります。憲兵少尉になって一か月、広島第五師団の夜襲について行った。太原で支那兵を殺した」と長谷川が遠くを見る目になった。
「俺は長谷川大尉を信じている。保証など戦争にはない。君らは、大尉が俺の代理だと知れ!」と三国が士官を叱った。士官全員が足を揃えて敬礼をした。
やはり軽機関銃の菊原班は、一日の訓練では無理のようだった。すると全員がライフル銃隊でしかなくなる。関東軍の陸軍少佐が見にきていた。長谷川が歩み寄った。
「少佐殿、知恵を貸してください」
「あのね、大尉、擲弾筒があるよ」
「ああ、なぜ気が着かなかったのか。少佐殿、二基出して頂けませんでしょうか?」と言うと、傍らの軍曹に「持って来い」と言った。
軍曹と上等兵二人が擲弾筒を手に下げて持ってきた。
「輪になれ」と陸軍少佐が言った。
町田少佐は、一介の憲兵と扱われたが文句を言わなかった。そんな余裕がなかったのだ。
「この八九式擲弾筒は五年前に作ったものだが、万里の長城戦で使った。今でも健在なのだ。八代軍曹、以下、説明してやれ」とさすがは陸軍、言葉がぞんざいであった。
「俺の言うことをよく聞け」と軍曹までが威張っている。菊原の顔が真っ赤になった。怒鳴り返そうとした。町田が菊原の肩に手をやって止めた。
「ちょっと言葉が荒っぽかった。八代は万里の長城から南京まで歩いた兵隊さんだ。勘弁してやってくれ」と少佐が言うと、爆笑が起きた。八代が頭を掻いていた。
「あのう、だいたいですね、この歳で軍曹では然るべき教育がなかったわけであります。さて、この擲弾筒はのちに迫撃砲に進化したのであります。だが、今回の諸君は迫撃砲を習う時間がないのであります。今から実弾演習を行う。そうとう危険とご承知ください」と軍曹が言うと、サイレンが鳴った。
「平房憲兵特攻班以外の者は三十分以内に演習場を出ろ。擲弾筒に当たりたくなければ室内に入れ!」と警告を出した。演習場で行進していた歩兵が一目散に走り出した。
「そこの四人、ここへ来て触ったり持ち上げたりしてみろ。簡単そうで、なかなか危険である」と八代が北島組と下士官に言った。四人は古年次兵なのだ。広島第五師団の歩兵よりも体格が劣る。だが、少なくとも青年だ。八代が四人の青年を観察していた。一回持ち上げて、ちらっと見て降ろした若者がいた。
「キサマは関心がない。ダメだ」と退場させた。「ひとり必要だ」と軍曹が言うと、菊原大尉が手を上げた。軍曹の目が動いた。士官に見えたからだ。落第はひとりだけである。他の三人が菊原に敬礼をした。菊原はメカが面白いのかいろんな角度から見て、上下左右に動かした。
「質問があるか?」と相変わらず言葉が乱暴であった。
「いろいろあるが、機械工学を学んでいる時間がない。擲弾筒という文字からこれは手榴弾を手で投げる代わりなのか?」
「その通りであります」と八代が言うと、歩兵がベルトに入った榴弾を持って来た。
手榴弾ではなかった。円筒で先に乳房のような突起がある。ボトルに見えた。
「上等兵、実演を頼む」
ゲートルを巻いた兵装の上等兵は若者だったが戦場の土を踏んでいる。四人を睨んだ。もの凄い目つきに若い憲兵が怯んだ。菊原は黙っていた。
「まず、二人一組なんだ。撃ち方と榴弾を筒先から入れる装填手と分担がある。撃ち方は利き腕で擲弾筒を持ち、もう一方の手で台座を地面に着ける。角度だが勘で決める。角度を決めると、榴弾を入れる。この装填は機敏でなくても良い。しかし、沈着でなければ危険なのだ」と榴弾の乳房にひとさし指を当ててトントンと叩いた。
「動顛して落とすとあの世へ行く。実際に、自分の部隊で起きた。周りにいた六人の兵隊を巻き込んで死んだ。負傷兵が十名であった」
聞いた四人が、ぞ~とした。自信を見せたのは菊原だけである。
「撃ち方であるが、この鈎のかたちの引き金を引くと榴弾が飛び出す。大尉殿はどちらをやりますか?」と菊原の目を覗いた。
「俺が撃ち方をやる」と言うと、「自分を弾入れにしてください」と憲兵曹長が名乗りを上げた。他のふたりも分担を決めた。
「よし、はじめは目を丸くして見ておれ」と八代軍曹と上等兵が実戦さながらの準備を二回見せた。上等兵が榴弾をベルトから抜いて両手に持った。ところが石油缶につまずく音がした。上等兵が音のした方角を見た。榴弾が手から滑り落ちた。見ていた全員が目を瞑った。長谷川は地面に伏せた。すると笑い声が聞こえた。
「芝居だよ。猿芝居」と陸軍少佐の声がした。町田少佐は腹が立ったが怒声を押さえた。菊原もみんなと同じように青い顔になっていた。
「わかったか?」などと八代軍曹が笑った。町田は腹が煮えくりかえったが睨みつけるだけにした。
「それでは実際に撃つぞ。標的は五百メートルだ」とミカン箱が積んである標的を指さした。
「ぽ~ん」と音がした。意外に発射音が軽快なのだ。榴弾と言うが缶詰めのサイズである。ミカン箱は揺れもしなかった。矢代が角度を上げた、、
「ぽ~ん」榴弾が弧を描いて飛んで行くのが見えた。五百メートル先に煙が上がった。ミカン箱が消えていた。
「しかしだな、この作戦を長谷川大尉から聞くと、標的は精々二百メートルと思った。すると角度が問題となる」と言いながら擲弾筒を小銃のように水平に標的に向けた。少しだが上を向いていた。上等兵が先から榴弾を入れた。全く急がなかった。
標的は三本のドラム缶であった。
「ぽ~ん」やはり榴弾は低い放物線を描いた。ドラム缶が倒れた。一等兵がドラム缶をトラックに載せて戻ってきた。無数の穴が空いていた。
「殺傷力、十メートル四方。これが最も役に立つだろう」と陸軍少佐が言った。そして立ち去った。演習は昼からも続けた。小銃隊の位置も決めた。擲弾筒の四人の腕が上がって行った。自信も次第についている。菊原大尉などは楽しんでいる。そこで菊原大尉のツウペアを擲弾筒班に変更した。それまでは軽機関銃だったが、これは廃案とした。
陸軍中尉と准尉がソ連製のライフル銃を四丁持ってきた。ヒョードル・トカレフ半自動小銃である。スコープから目を離さず連続狙撃が可能である。この訓練は簡単に終わった。的が四百メートルだとよく当たった。
「あのう、、大尉殿、赤チンが要るんじゃないですか?」
「あっ、そうだよな。どうしよう」
「俺が関東軍から借りてやる」と陸軍少佐が言ったので長谷川は助かった。
「ライフル銃隊が走ることはないです。突撃もありません。わが方に、金岡ひとりと交換する命などはない。いよいよダメなら逃げる。みなさん、ご苦労さまでした。風呂へ入ってください、ここからは自由であります。明日は現場を見学します。食堂へ九時に集まってください」と長谷川が敬礼をした。町田少佐、菊原大尉までが同時に敬礼をしていた。
2
七月の最後の日がきた。長谷川が起きて兵舎の窓を開けると、霧が平房飛行隊基地をすっぽりと包んでいた。八時頃に霧が晴れた。南の平山鎮の連山を見ると黒い雨雲が垂れ下がっていた。ハルピンの雨は松花江で発生する蒸気が原因である。磯村と兵隊食堂で朝飯を食った。麦飯~いわしの素干し~卵焼き~味噌汁であった。部屋に戻って歯を磨いた。そして支那服を着た。磯村がハンザ・キャノンに高感度のフイルムを入れていた。曇天だからである。
「大尉殿、南部はどうしますか?」
「持って行くけど?君も一応持って行け」
「他の士官さんらは一緒なのですか?」
「いや、別々の時間に行く。もう出発したはずだ」
「イワノフ組も別行動ですね?」
長谷川は頷いただけである。
「ただ、全員、ここへ戻ってくる。午後に、最後の作戦会議を行う。イワノフが最も重要な情報を入手したと言っている」
「金岡の護送車ですが、憲兵本部を何時に出る予定ですか?」
「朝の十時としているが、ちょっと仕掛けがあるんだ」
メモを取っていた磯村が興味を示した。
「今日は運転手なしだ。俺が運転する。さあ、出掛けるぞ」
臨機応変に現場検証をやりたいのだと磯村が理解した。
長谷川の運転するダッジが平房から領事館のある方角へ走って行った。磯村が腕時計を見ると十時前であった。走り出して十分ほどで東に雷が鳴った。大粒の雨が降り出した。長谷川がワイパーをいっぱいにしてヘッドライトを点けた。三十分ほど走ると投射機で見た三階建てのビルが左に見えた。道路は混雑していた。ビルの前で古いロシア製のトラックが故障したのか、帽子を被った労働者が降りしきる雷雨の中でトラックのボンネットを開けていた。よく見るとウランである。その後ろの小型トラックに町田少佐の顔が見えた。運転手の菊原大尉がクラクションをブーブーと鳴らしていた。猿芝居である。ビルを見上げた磯村が二人のロシア人の男が窓から首を出しているのを見た。望遠レンズを着けて二枚撮った。長谷川が笑っていた。五百メートル先にロシア教会の緑のキューポラが見えた。その前のロータリーでユーターンした。磯村が教会を撮った。倉庫群の場所に来ると路面を写真に撮った。ふたりは、唐人街を通って町中を走り平房へ戻った。
兵舎に入ると、「磯村、すぐ写真を現像しろ」と長谷川が言った。
「ハッ、只今、現像致します」と写真班へ走って行った。一時間後、憲兵特攻班とイワノフ組のトラックが平房に入った。菊原大尉も写真機を持っていた。菊原が写真班へ行った。
「カピタン、ドブラエ・ウートラ」
「ドブラエ・ウートラ、トバリシ・イワノフ」と抱き合った。
「イワノフとウランの宿はとなりの部屋だ。メシは食ったか?」
「食ったけど、ハラヘッタ」
「じゃあ、昼飯を食おう」
午後一時に最後の作戦会議が始まった。気になるのか三国大佐が出てきた。だが、昨日の練兵場での長谷川のリードは司令官に相応しかった。「一兵も死なさない」と言った長谷川大尉は佐官の階級にもいないと思った。
まず、磯村が幻燈にフィルムを装填して壁に映写した。三国大佐が電灯を消した。日満貿易公司と壁に大書された三階建てのビルが映った。ふたりのロシア人の男が窓から顔を出している。いかにも兵隊の顔なのだ。特攻班は誰も何も言わなかったが周知というわけである。次にイワノフのトラックが映った。ウランがボンネットを開けて首を突っ込んでいた。町田少佐が笑った。つられてみんな笑った。この笑うということは重要なのだと長谷川は司令術を知っていた。あのホロンバイルの小松原中将司令官にはこの笑うという明るさが欠けていた。次に路面が映った。
「なんだいこりゃ?」と菊原が素っ頓狂な声を出した。
「みなさん、このタイヤの跡は何だと思いますか?」と長谷川が訊いた。
「わからん」
「自走砲の車輪の跡であります。雨でぬかるみに入ったのでしょう。この桃色のレンガの倉庫に向かってカーブしている」
「わかったぞ」と菊原が大声で言った。
「菊原大尉殿、ご想像の通りであります。45ミリ自走砲であります。この野砲をぶっ放されますと、ロクなことはありません」
「う~む、、長谷川君、どうするんだね?」と三国が訊いた。
「イワノフの故障したトラックがそのビルの前に見えます。ウランは故障を直すと見せかけて、道路に有線地雷を埋めたのであります。それも二個もね。自走砲を撃つならこの鉄の扉が開く。そのときにスイッチを押すわけであります」
「わかった」と三国が言うと爆笑が起きた。
「ウランと磯村少尉は、普段着で唐人街から人力車に乗って現場へ行く。だが、二百メートル先の三階建ての三階にふたりの狙撃兵が潜んでいるのであります。これは、金岡の護送車を狙うものです。イワノフと僕が手榴弾で葬る計画であります。一発か二発撃たせてから襲撃します。なぜか?その狙撃手のライフルの音が合図になります。GPUは鉄の有蓋トラックでやって来る。それを迎え撃つ手はありません。GPUの特務班はトラックだけでなく、あちこちから護送車を襲います。これの予想は難しいのであります」
会議室の空気が緊張した。
{GPUは予備軍を用意するのかも知れません。わが方のライフル銃隊は変化に応じて機敏に撃ち返してください。実はみなさんにお願いがあります」
「何か難しいことか?」と町田が訊いた。
「みなさんに満人に一日なって頂く」と言うと、床屋の兵隊がバリカンを手に持って会議室に入ってきた。憲兵士官、下士官の一同が頸を傾げていた。
「辮髪になって頂く」
「俺たちは髪が短いんだが」
「カツラを用意してあります」と床屋がカツラを見せた。菊原が悲鳴を上げた。
「カミさんに離縁される」と誰かが言った。
「これは俺の命令だ」と三国が言ったので騒ぎが収まった。イワノフがクスクス笑う声が聞こえた。特攻班全員が巨漢を睨みつけた。
「我々、擲弾筒班も辮髪なんですか?」
「イワノフ、磯村、ウランを除いて、例外なく全員に辮髪になって頂きます。ただし、狙撃兵のライフルを合図に鉄兜を被ってください。それでは、みなさん、私に続いてください」と言ってから床屋に合図をした。長谷川が最初だった。長谷川を先頭に辮髪の特攻班が出て行った。支那服も用意されていた。二等兵が着付けを手伝った。青々とゾリンゲンのカミソリで剃ったアタマに辮髪が似合っていた。遠距離からだと日本人には見えない。
「なんで、今、着替えるんかよ?」と兵曹が文句を言った。
「黙ってやれ!」と町田が叱った。
一同が「最後の晩餐だ」と食堂へ行った。円卓が二つ用意されていた。兵隊食堂の中が騒然とした。満人の一団が入ってきたと思ったのだ。その中に町田憲兵少佐を見つけて兵隊が立ち上がった。そして敬礼をした。――このいでたちは祭りか何かあるのだろうと推測していた。
「申訳ありません。今夜は酒抜きです。無事に任務が済んだら、後日、ヤマトホテルの食堂で宴会を開きますので、おゆるしをください」と長谷川が四方に頭を下げた。全員が頷いていた。寡黙だった。日本の家族を想っているのである。
「少佐殿、似合いますねえ」と菊原がニヤ二ヤと笑っていた。
「黙れ!大尉。キサマも、よく似合っておるぞ」と言い返した。
3
八月の一日になった。起床ラッパが鳴った。五時である。雨はすっかり止んでいた。長谷川、磯村、イワノフ、ウランが食堂で朝飯を食った。特攻班がすでに支那服に着替えて辮髪でメシを食っていた。長谷川が町田少佐に話しかけた。
「少佐殿、おはようございます。実は、辮髪隊に食後、会議室に集まって頂きたいのです」
「辮髪隊?特攻隊じゃないのか?」と町田が怒声を発した。
「関東軍平房憲兵特攻班よりも呼びやすいもんですから」
「わかった。辮髪隊は、ハバカリの時間が要るから八時に行く」
「お待ちしております」
八時きっかりに長谷川が話し出した。
「護送車がハルピンの憲兵本部を出るのは、正午となっております。だが、この出発時間をソ連の情報機関は掴んでいます。そこで、今日は貨物機に不具合が見つかり、本日、日本には出発不可能となったと憲兵本部に電報を打ちます。これは罠であります。二時間後の午後二時にまた電報を打ちます。貨物機が用意できたから平房へ来られよと。すべての電信は、イワノフが実施します。すると、気を緩めているGPUが慌てます。我々、特攻班はこの二時間の枠の内に現場へ配置を終わらせます。何か、ご質問があるでしょうか?」
「いや、単純明快である。さらに余裕までくれた」と町田少佐が長谷川に握手の手を出した。
「誰の班から先発しますか?」と菊原が訊いた。
「長谷川イワノフ組であります」
「次にウラン磯村組であります」
「我々、四人のライフル銃隊が三十分後に野菜公司トラックで向かいます。
「最後に我々、擲弾筒班が豚肉公司トラックで配置に着きます」
三国が見まわすと、みんな意外に緊張していなかった。
「イワノフ何時に最初の電信を打つ?」
「カピタン、ここで打つよ。二回目は、ボクは移動式電信機を持って出るからカピタンと一緒に行き、現場近くからウツヨ」と笑っていた。そう言ってからイワノフが立ち上がった。
「みなさん、GPUの暗殺特務司令官は、ブロニスラフ・カミンスキーという四十歳のオトコヨ。GPU切っての切れ者です。ボクがハバロフスクで赤軍と戦ったとき以来の宿敵なのよ。ボクがうまくカミンスキーを騙せるのかちょっと心配が残る。このスラック(遅らせる)という手は誰でも使うからね。カミンスキーは疑い深く、盗聴の鉄人です。ボクと電信戦の一騎打ちなのです。ここで一番大事なのが、タイミングなのヨ。これも、カピタン・ハセカワとボクが狙撃兵をしとめるタイミングにかかっているヨ」
「罠を見抜かれた場合はどうする?」と町田が真剣な面持ちで質問をした。
「カーナル、マチダ、ウランが必要なときにカミンスキーの電信を妨害します」
「必要なときってどうして判るのか?」
「ウランはボクの甥です。戦友なのです。ボクが何を考えているのか電信の信号と時計でわかる」
平房憲兵特攻班の八名が、いかにイワノフとウランに命が掛かっているかを自覚した瞬間であった。司令塔の長谷川を見ると、禅宗の坊主のように静かな表情をしていた。
「よし、それではキサマら、部屋に帰ってノラクロを読んで寝ろ。甘いものを届けさせる」と三国司令官が言った。
「カピタン、ちょっと部屋に戻ります」とイワノフとウランが出て行った。 部屋に戻ったウランが時計を見た。九時前だ。二人が盗聴を開始したのである。
「叔父さん、何もないね」とウランが言うと、、
「カミンスキーは、おしゃべりじゃないんだ。以心伝心で工作員を動かす。だが、どこかで信号が入る。こっちから誘う手がある。ウラン、寝ておけ。交代で休もう」
ウランが起きると、イワノフがカタカタと電鍵を打っていた。時計を見た。午前十一時だ。イワノフが最初の罠を仕掛けたのだ。
「了解、出発は無期限に中止なんですね?」とハルピンの憲兵本部から返信が返って来た。暗号だが傍聴すると、こっちの聴信器に微かな音がするのである。ウランがイワノフにウインクした。――盗聴された、、今度はこっちが盗聴する番だ。ウランがダイアルを回している。三十分が経った。すると、カタカタカタとソ連大使館のGPUの信号が聞こえた。どうも、GPUは襲撃隊のサイズを大きくしたようだ。解読すると、総勢で十六人に膨れていた。さらに、現場にすでに配置済みのもようである。
「ウラン、カピタンをここへ呼んでくれ」
部屋が隣なので、すぐに長谷川がやってきた。
「イワノフ、聞かせろ」
「GPUがソ連の密偵などのキラーを加えたよ。だけど、この密偵らは鱶(ふか)の餌食になるだけだ。それとGPUには装甲車がない。ここは満州だ。だから、自走砲を考え着いたわけよ。護送車を取り巻くでしょう。我々は人数が十名。少し考えよう」
三人が腕を組んで考えていた。
「イワノフ、取り巻くやつらがキラーだね。向こうの兵器は、精々、マンドリン軽機関銃と手榴弾だろう。あんなもん当たらんし、わが方がどこにおるのか判らんはずだ」
「カピタン、その手榴弾を投げる兵隊は三十メートルに接近する。東から接近する。もうすでに現場にいるなら、散開している。ウラン絵を描いてくれ」
ウランが書いた絵に長谷川が赤い印を付けていった。一つがひとりである。まず、カミンスキー、多分、見通しのいい場所にひとりでいるだろう。三階建ての屋上は考えられない。すると、あのロシア教会の鐘楼かもしれない、、鐘楼に赤い二重丸と、?マークを描いた。
「イワノフ、この鐘楼だけどね、高さはどのくらいある?」
「六十メートル、アルヨ」
長谷川が鮎二を想いだした。――岡の上などを撃つには、角度が鍵だと言っていた。電話を取った。平房の狙撃班に来てもらった。一番腕のいい狙撃兵を頼んだ。すぐ部屋のドアにノックが聞こえた。
「大尉殿の狙撃銃を見せてください」
「アリサカですね。日本軍の誇る九九式狙撃銃であります」と言って銃身にキッスをした。
長谷川が壁の絵を見せて、ロシア教会の鐘楼の写真を見せた。
「距離は?」
「この三階建てのビルの屋上から鐘楼の男を狙撃する考えです」
「距離は五百メートル。高さは、ほぼ同じ。ただし、弾は右へ流れるのをご存じか?」
「ライフルの偏流ですね」
「撃ったご経験があられる?」
「あります。八百メートルでロシア兵に当たりました」
「どの戦場でありますか?」
「ホロンバイルです」
狙撃兵がホロンバイルと聞いて驚いていた。
「イワノフ、一時間で帰って来る」と言って、ふたりが狙撃銃を持って練兵場の一角にある射撃場に行った。スコープを狙撃兵が計算して右へずらしてネジで止めた。長谷川が九百メートルの人形に狙いを定めた。手が震えた。
「パ~ン」と撃った。外れた。二発目も外れた。狙撃兵がまたスコープを調整した。そして、ミカン箱の上に土嚢を置いた。手の震えが銃身に影響を与えないからだ。
「パ~ン」今度は見事に胸に当たった。二発目は人形の顔に当たった。三発目は腹に当たった。
「大尉殿、及第であります」
「有難う」
部屋に戻ると、イワノフがコッペパンを片手に敵の信号を待っていた。横でウランも聴いていた。そしてダイアルを調整した。
「叔父さん、奴ら波長を変えたよ。暗号も変えやがった」
イワノフがテープにキイパンチャーで穴を開けて長谷川に渡した。長谷川が拡大鏡でテープを見た。そして暗号のプログラムを書いた。時計を見ると午後の一時を過ぎていた。
「イワノフ、ウラン、磯村、簡単に昼飯を食って出発しよう」
長谷川は辮髪に黒い帽子~夏の兵装~ゲートルを巻いていた。その上に支那服を着ていた。
イワノフが給食兵にコッペパンにバターを塗ってくれと頼んだ。そしてミルクを一本貰った。長谷川が一瞬、青森の家族を想った。
4
長谷川が空を見た。青空だ。四人がダッジに乗って出発した。唐人街で磯村とウランを降ろした。長谷川がふたりの手を握った。ふたりは人力車で現場へ行くのだがダッジが先に着く。。三階建てのビルが見えたところでダッジを停めた。腕時計を見ると二時になっていた。計画通りだ。イワノフが移動式電信機を車の中で打った。すぐに盗聴されたことが判った。電信を打った場所を知られたくなかったので、平房を迂回させた。領事館の山中がさらに迂回させた。同じルートで憲兵本部から返信が届いた。――驚きました。急遽、出発します。護送車の憲兵は四人であります。
これも盗聴された。イワノフが長谷川にウインクした。GPUは信じたのだ。ダッジはそこから三階建てへ向かった。裏口が開いていた。狙撃兵の出口である。中へ入ると支那人の男女が野菜を洗ったり、切ったり、箱に入れていた。まず、イワノフを見て腰を抜かした。次に、長谷川の辮髪を見て安心した。次に、二人がライフルを持っていることに気が着いて震えたのである。ふたりが階段を駆け上がって行った。三階の、あの窓のある部屋の扉は中から鍵がかけられていた。手榴弾計画が潰れた。――予想していたので、長谷川が一升瓶に入れたガソリンを用意した。
「パ~ン、パ~ン」と二発聞こえた。支那服を脱ぎ捨てた長谷川が扉の下の隙間にドクドクとガソリンを撒いた。そして黄燐マッチを擦った。「ぼ~」というガソリンが燃える音が室内に聞こえた。ふたりの狙撃兵がパニックした。扉を開けて飛び出してきた。長谷川が南部を構えて待っていた。額を撃ち抜かれた敵兵がふたり転がった。イワノフは部屋の中に走った。長谷川が消火器を持って火を消した。窓際には土嚢が積んであった。ロシアのキラーが金岡の護送車を取り囲んでいた。護送車はパンクしていた。タイヤを撃たれたのだろう。運転していた憲兵と助手席の憲兵が降ろされて、手を高く上げていた。支那人の野次馬を装っていた平房特攻班が予習通りに動き出しているのが見えた。護送車の後ろから巨漢が現れた。金岡だ。密偵の一人が金岡を射殺する動きを見せた。イワノフがその男を撃ち殺した。音がトカレフ・ライフルだったので残りの七人が驚いて銃声のした方角を見た。そのとき、八九式擲弾筒が「ぽ~ん」と鳴った。七人が花びらの形に路上に倒れた。イワノフと長谷川が屋上に駆け上がって行った。その直後、部屋の窓にトカレフのライフルが目茶苦茶に撃ち込まれた。
倉庫の鉄の扉が「ば~ん」と開いた。自走砲が凶悪な顔を出した。道路に出てきた。その途端に二回、爆発音が起きた。自走砲がひっくり返った。ロシア教会の鐘楼から「パ~ン」と言う音がした。ウランが走って逃げた。縁石につまずいて倒れた。鐘楼の狙撃手の黒いシャツと白い腕が見えた。イワノフが撃った。円柱に当たった。男がライフルを持って円柱の影に隠れるのが見えた。キューポラの向こうに、ぽっかりと雲が浮かんでいた。長谷川がスコープを土嚢に置いていた。向いの倉庫の影からウランを狙っている男が見えた。イワノフが引き金を引いた。トカレフのノズルが詰まった。畜生!イワノフが喚いた。ライフルから詰まった不良弾を抜いた。そして長谷川を見た。ウランは怪我をしたのかトラックの影でうつ伏せになったまま動かない。ヘビーウエイトが泣き出しそうな顔になっていた。鐘楼の黒シャツが円柱の影から顔を出して、ウランに照準を合わせている。射程距離は九百メートル、、長谷川が引き金を柔らかく絞った。黒シャツが鐘楼から六十メートル下の庭園に落下して行った。
GPUのひとりが、ブロニスラフ・カミンスキーが鐘楼から落ちるのを目撃した。ソ連情報部暗殺部隊が動揺した。
「オーチン・ハラショ」とイワノフがトカレフを掴んで階段に出た。車道に出ると辮髪のライフル銃隊がGPUと撃ち合っていた。路上に正座したイワノフが甥の名を呼んで泣き出した。すると死体が裏返った。ウランが笑っていた。ウランの左の耳がなかった。赤チンが走ってきた。
長谷川が二百メートル東を見ると、大男のGPU四人がライフルを投げ込みトラックに這い上がっているのが見えた。ひとりがモタモタしている。その仲間を置いてトラックが急発進した。すると、「ぽ~ん」と擲弾筒の音がした。当たったが鉄の有蓋車なのである。乗り遅れた男だけが死んだ。イワノフが撃ったがこれも効果はなかった。
「パン、パン、パチ、パチ」とトカレフ半自動小銃の音がした。運転台のガラスにひびが走った。トラックが停まった。キラーが五人手を上げて出てきた。長谷川とイワノフが走って行った。辮髪の菊原が――どうしたものかと戸惑っている。長谷川も迷った。
「トバリシ、ダバイ、ダバイ、後ろ向きに並べ」とイワノフがキラーの五人に言った。そして菊原以下四人を手でまねいた。銃殺隊だ。菊原の辮髪隊が一斉にボルトをガチャ、ガチャ鳴らして弾を込めた。長谷川が目を瞑った、、銃声が遠くで観ていた野次馬にも聞こえた。女の悲鳴が上がった。
「戦闘は終わった。敵味方の死傷兵を数えろ」と辮髪に鉄兜を被った長谷川が同じ格好の兵曹と赤チンに命じた。後ろでカメラのシャッターの連続音が鳴った。振り返ると磯村が、ハンザ・キャノンを構えて立っていた。腕時計を見ると、午後の四時であった。
「長く感じたが、九十分か」長谷川が極度の疲労を覚えた。
5
平房に、辮髪隊が戻ってきた。長谷川、磯村、イワノフが、ダッジから降りると関東軍の司令官と三国憲兵大佐が出迎えた。次に豚肉公司のトラックが入ってきた。野菜トラックが続いた。
「食堂ではなしを聞こう」と三国大佐が言った。
食堂には、円卓が二つ並べてあった。すでに、酒とハーピーが並んでいた。給仕兵が熱いおしぼりをバケツに入れて持ってきた。
「大佐との、まず、わが方には戦死者はありません。負傷した者も二名であります。ひとりは、実戦に慣れていない憲兵がイワノフの撃ったライフルの音に動顛して逃げた際に石につまずいて足の親指をくじいたのであります。もう一人はウランが左耳を撃たれてツンボになり歩道の縁につまずいたのであります。GPUの死傷者の報告は明日になります。ただし、平房基地以下、ハルピン市内の憲兵隊には警戒命令を出してください。領事館前の憲兵本部は増員を勧めます」
「大尉、俺は非常に嬉しい。辮髪隊を俺はどう表彰すべきなのか新京と話す」
「おい、キサマら、酒を飲め」と町田少佐が言った。だが笑い声が起きた。町田の辮髪が可笑しかったからである。
「食後に会議室に床屋が来ます。辮髪隊の解散であります」と長谷川が言うと、歓声が上がった。
給仕兵が真っ二つに切った焼き鴨の十六皿を円卓に置いた。アワビ~びんちょう鮪の刺身~赤飯~雑煮、、これではまるで正月ではないか、、
頭に包帯を巻いたウランと杖をついた憲兵が現れた。赤チンも加わった。拍手が上がった。ウランがハーピーのジョッキを持ち上げた。
「乾杯」と三国が杯を上げていた。
「君らは、明日の起床ラッパで起きなくてもよい。うんと食って呑め。日本酒は軍規違反だが、俺がゆるす」
続く、、
*みなさん、面白いですか?時代遅れかな?伊勢
第十四章
1
平房の練兵場で模擬演習が行われた。長谷川がまず、五つのペアを作った。「それを、い・ろ・は・に・ほ、と呼んだ。「ほ組」は長谷川とイワノフの狙撃隊~「い組」と、「ろ組」は軽機関銃隊~「は組」と、「に組」はライフル銃隊である。つまり銃器は全部で八つであった。
「だが、もし敵が四五ミリ砲を持っていたら?」と菊原大尉が訊いた。
「よくわかります。それがウランと磯村の仕事なんであります」と言うと、ウランが両手を上げた。
「仕事?」と町田少佐が怪訝な顔をした。
「ご心配のないように。用意周到ですから」
――ははん、爆破する気だなと三国がウランを見ていた。
長谷川は四組の配置を野球に例えて黒板に書いた。太原の夜襲を想い出していた。違いはあの夜襲は国民軍相手で日本軍は八百名の精鋭部隊だったが、この平房憲兵特攻班は,ソ連の特殊部隊が相手で、十名である。
「狙撃組は何を狙撃するのか?」と三国が訊いた。
「わが方の軽機関銃隊をGPUは狙うでしょう。その狙撃手との一騎うちです」
「自信はあるのかね?」
「答えられません。われわれも、あの三階建てのビルに潜みます」
「それから?」
「手榴弾を投げ込みます」
「それ自信があるのか?」
「あります」
それにしても、ひとつ間違えば全員が死ぬ。磯村が戦死する、、長谷川は、ため息が出そうだった。だが、そんな弱音は、おくびにも出せないのだ。
「長谷川大尉殿は、実戦体験はあるのですか?」と顔に銃創のある北島中尉が訊いた。長谷川の目が鰐の目になっていた。北島が驚いて身を引き締めた。
「あります。憲兵少尉になって一か月、広島第五師団の夜襲について行った。太原で支那兵を殺した」と長谷川が遠くを見る目になった。
「俺は長谷川大尉を信じている。保証など戦争にはない。君らは、大尉が俺の代理だと知れ!」と三国が士官を叱った。士官全員が足を揃えて敬礼をした。
やはり軽機関銃の菊原班は、一日の訓練では無理のようだった。すると全員がライフル銃隊でしかなくなる。関東軍の陸軍少佐が見にきていた。長谷川が歩み寄った。
「少佐殿、知恵を貸してください」
「あのね、大尉、擲弾筒があるよ」
「ああ、なぜ気が着かなかったのか。少佐殿、二基出して頂けませんでしょうか?」と言うと、傍らの軍曹に「持って来い」と言った。
軍曹と上等兵二人が擲弾筒を手に下げて持ってきた。
「輪になれ」と陸軍少佐が言った。
町田少佐は、一介の憲兵と扱われたが文句を言わなかった。そんな余裕がなかったのだ。
「この八九式擲弾筒は五年前に作ったものだが、万里の長城戦で使った。今でも健在なのだ。八代軍曹、以下、説明してやれ」とさすがは陸軍、言葉がぞんざいであった。
「俺の言うことをよく聞け」と軍曹までが威張っている。菊原の顔が真っ赤になった。怒鳴り返そうとした。町田が菊原の肩に手をやって止めた。
「ちょっと言葉が荒っぽかった。八代は万里の長城から南京まで歩いた兵隊さんだ。勘弁してやってくれ」と少佐が言うと、爆笑が起きた。八代が頭を掻いていた。
「あのう、だいたいですね、この歳で軍曹では然るべき教育がなかったわけであります。さて、この擲弾筒はのちに迫撃砲に進化したのであります。だが、今回の諸君は迫撃砲を習う時間がないのであります。今から実弾演習を行う。そうとう危険とご承知ください」と軍曹が言うと、サイレンが鳴った。
「平房憲兵特攻班以外の者は三十分以内に演習場を出ろ。擲弾筒に当たりたくなければ室内に入れ!」と警告を出した。演習場で行進していた歩兵が一目散に走り出した。
「そこの四人、ここへ来て触ったり持ち上げたりしてみろ。簡単そうで、なかなか危険である」と八代が北島組と下士官に言った。四人は古年次兵なのだ。広島第五師団の歩兵よりも体格が劣る。だが、少なくとも青年だ。八代が四人の青年を観察していた。一回持ち上げて、ちらっと見て降ろした若者がいた。
「キサマは関心がない。ダメだ」と退場させた。「ひとり必要だ」と軍曹が言うと、菊原大尉が手を上げた。軍曹の目が動いた。士官に見えたからだ。落第はひとりだけである。他の三人が菊原に敬礼をした。菊原はメカが面白いのかいろんな角度から見て、上下左右に動かした。
「質問があるか?」と相変わらず言葉が乱暴であった。
「いろいろあるが、機械工学を学んでいる時間がない。擲弾筒という文字からこれは手榴弾を手で投げる代わりなのか?」
「その通りであります」と八代が言うと、歩兵がベルトに入った榴弾を持って来た。
手榴弾ではなかった。円筒で先に乳房のような突起がある。ボトルに見えた。
「上等兵、実演を頼む」
ゲートルを巻いた兵装の上等兵は若者だったが戦場の土を踏んでいる。四人を睨んだ。もの凄い目つきに若い憲兵が怯んだ。菊原は黙っていた。
「まず、二人一組なんだ。撃ち方と榴弾を筒先から入れる装填手と分担がある。撃ち方は利き腕で擲弾筒を持ち、もう一方の手で台座を地面に着ける。角度だが勘で決める。角度を決めると、榴弾を入れる。この装填は機敏でなくても良い。しかし、沈着でなければ危険なのだ」と榴弾の乳房にひとさし指を当ててトントンと叩いた。
「動顛して落とすとあの世へ行く。実際に、自分の部隊で起きた。周りにいた六人の兵隊を巻き込んで死んだ。負傷兵が十名であった」
聞いた四人が、ぞ~とした。自信を見せたのは菊原だけである。
「撃ち方であるが、この鈎のかたちの引き金を引くと榴弾が飛び出す。大尉殿はどちらをやりますか?」と菊原の目を覗いた。
「俺が撃ち方をやる」と言うと、「自分を弾入れにしてください」と憲兵曹長が名乗りを上げた。他のふたりも分担を決めた。
「よし、はじめは目を丸くして見ておれ」と八代軍曹と上等兵が実戦さながらの準備を二回見せた。上等兵が榴弾をベルトから抜いて両手に持った。ところが石油缶につまずく音がした。上等兵が音のした方角を見た。榴弾が手から滑り落ちた。見ていた全員が目を瞑った。長谷川は地面に伏せた。すると笑い声が聞こえた。
「芝居だよ。猿芝居」と陸軍少佐の声がした。町田少佐は腹が立ったが怒声を押さえた。菊原もみんなと同じように青い顔になっていた。
「わかったか?」などと八代軍曹が笑った。町田は腹が煮えくりかえったが睨みつけるだけにした。
「それでは実際に撃つぞ。標的は五百メートルだ」とミカン箱が積んである標的を指さした。
「ぽ~ん」と音がした。意外に発射音が軽快なのだ。榴弾と言うが缶詰めのサイズである。ミカン箱は揺れもしなかった。矢代が角度を上げた、、
「ぽ~ん」榴弾が弧を描いて飛んで行くのが見えた。五百メートル先に煙が上がった。ミカン箱が消えていた。
「しかしだな、この作戦を長谷川大尉から聞くと、標的は精々二百メートルと思った。すると角度が問題となる」と言いながら擲弾筒を小銃のように水平に標的に向けた。少しだが上を向いていた。上等兵が先から榴弾を入れた。全く急がなかった。
標的は三本のドラム缶であった。
「ぽ~ん」やはり榴弾は低い放物線を描いた。ドラム缶が倒れた。一等兵がドラム缶をトラックに載せて戻ってきた。無数の穴が空いていた。
「殺傷力、十メートル四方。これが最も役に立つだろう」と陸軍少佐が言った。そして立ち去った。演習は昼からも続けた。小銃隊の位置も決めた。擲弾筒の四人の腕が上がって行った。自信も次第についている。菊原大尉などは楽しんでいる。そこで菊原大尉のツウペアを擲弾筒班に変更した。それまでは軽機関銃だったが、これは廃案とした。
陸軍中尉と准尉がソ連製のライフル銃を四丁持ってきた。ヒョードル・トカレフ半自動小銃である。スコープから目を離さず連続狙撃が可能である。この訓練は簡単に終わった。的が四百メートルだとよく当たった。
「あのう、、大尉殿、赤チンが要るんじゃないですか?」
「あっ、そうだよな。どうしよう」
「俺が関東軍から借りてやる」と陸軍少佐が言ったので長谷川は助かった。
「ライフル銃隊が走ることはないです。突撃もありません。わが方に、金岡ひとりと交換する命などはない。いよいよダメなら逃げる。みなさん、ご苦労さまでした。風呂へ入ってください、ここからは自由であります。明日は現場を見学します。食堂へ九時に集まってください」と長谷川が敬礼をした。町田少佐、菊原大尉までが同時に敬礼をしていた。
2
七月の最後の日がきた。長谷川が起きて兵舎の窓を開けると、霧が平房飛行隊基地をすっぽりと包んでいた。八時頃に霧が晴れた。南の平山鎮の連山を見ると黒い雨雲が垂れ下がっていた。ハルピンの雨は松花江で発生する蒸気が原因である。磯村と兵隊食堂で朝飯を食った。麦飯~いわしの素干し~卵焼き~味噌汁であった。部屋に戻って歯を磨いた。そして支那服を着た。磯村がハンザ・キャノンに高感度のフイルムを入れていた。曇天だからである。
「大尉殿、南部はどうしますか?」
「持って行くけど?君も一応持って行け」
「他の士官さんらは一緒なのですか?」
「いや、別々の時間に行く。もう出発したはずだ」
「イワノフ組も別行動ですね?」
長谷川は頷いただけである。
「ただ、全員、ここへ戻ってくる。午後に、最後の作戦会議を行う。イワノフが最も重要な情報を入手したと言っている」
「金岡の護送車ですが、憲兵本部を何時に出る予定ですか?」
「朝の十時としているが、ちょっと仕掛けがあるんだ」
メモを取っていた磯村が興味を示した。
「今日は運転手なしだ。俺が運転する。さあ、出掛けるぞ」
臨機応変に現場検証をやりたいのだと磯村が理解した。
長谷川の運転するダッジが平房から領事館のある方角へ走って行った。磯村が腕時計を見ると十時前であった。走り出して十分ほどで東に雷が鳴った。大粒の雨が降り出した。長谷川がワイパーをいっぱいにしてヘッドライトを点けた。三十分ほど走ると投射機で見た三階建てのビルが左に見えた。道路は混雑していた。ビルの前で古いロシア製のトラックが故障したのか、帽子を被った労働者が降りしきる雷雨の中でトラックのボンネットを開けていた。よく見るとウランである。その後ろの小型トラックに町田少佐の顔が見えた。運転手の菊原大尉がクラクションをブーブーと鳴らしていた。猿芝居である。ビルを見上げた磯村が二人のロシア人の男が窓から首を出しているのを見た。望遠レンズを着けて二枚撮った。長谷川が笑っていた。五百メートル先にロシア教会の緑のキューポラが見えた。その前のロータリーでユーターンした。磯村が教会を撮った。倉庫群の場所に来ると路面を写真に撮った。ふたりは、唐人街を通って町中を走り平房へ戻った。
兵舎に入ると、「磯村、すぐ写真を現像しろ」と長谷川が言った。
「ハッ、只今、現像致します」と写真班へ走って行った。一時間後、憲兵特攻班とイワノフ組のトラックが平房に入った。菊原大尉も写真機を持っていた。菊原が写真班へ行った。
「カピタン、ドブラエ・ウートラ」
「ドブラエ・ウートラ、トバリシ・イワノフ」と抱き合った。
「イワノフとウランの宿はとなりの部屋だ。メシは食ったか?」
「食ったけど、ハラヘッタ」
「じゃあ、昼飯を食おう」
午後一時に最後の作戦会議が始まった。気になるのか三国大佐が出てきた。だが、昨日の練兵場での長谷川のリードは司令官に相応しかった。「一兵も死なさない」と言った長谷川大尉は佐官の階級にもいないと思った。
まず、磯村が幻燈にフィルムを装填して壁に映写した。三国大佐が電灯を消した。日満貿易公司と壁に大書された三階建てのビルが映った。ふたりのロシア人の男が窓から顔を出している。いかにも兵隊の顔なのだ。特攻班は誰も何も言わなかったが周知というわけである。次にイワノフのトラックが映った。ウランがボンネットを開けて首を突っ込んでいた。町田少佐が笑った。つられてみんな笑った。この笑うということは重要なのだと長谷川は司令術を知っていた。あのホロンバイルの小松原中将司令官にはこの笑うという明るさが欠けていた。次に路面が映った。
「なんだいこりゃ?」と菊原が素っ頓狂な声を出した。
「みなさん、このタイヤの跡は何だと思いますか?」と長谷川が訊いた。
「わからん」
「自走砲の車輪の跡であります。雨でぬかるみに入ったのでしょう。この桃色のレンガの倉庫に向かってカーブしている」
「わかったぞ」と菊原が大声で言った。
「菊原大尉殿、ご想像の通りであります。45ミリ自走砲であります。この野砲をぶっ放されますと、ロクなことはありません」
「う~む、、長谷川君、どうするんだね?」と三国が訊いた。
「イワノフの故障したトラックがそのビルの前に見えます。ウランは故障を直すと見せかけて、道路に有線地雷を埋めたのであります。それも二個もね。自走砲を撃つならこの鉄の扉が開く。そのときにスイッチを押すわけであります」
「わかった」と三国が言うと爆笑が起きた。
「ウランと磯村少尉は、普段着で唐人街から人力車に乗って現場へ行く。だが、二百メートル先の三階建ての三階にふたりの狙撃兵が潜んでいるのであります。これは、金岡の護送車を狙うものです。イワノフと僕が手榴弾で葬る計画であります。一発か二発撃たせてから襲撃します。なぜか?その狙撃手のライフルの音が合図になります。GPUは鉄の有蓋トラックでやって来る。それを迎え撃つ手はありません。GPUの特務班はトラックだけでなく、あちこちから護送車を襲います。これの予想は難しいのであります」
会議室の空気が緊張した。
{GPUは予備軍を用意するのかも知れません。わが方のライフル銃隊は変化に応じて機敏に撃ち返してください。実はみなさんにお願いがあります」
「何か難しいことか?」と町田が訊いた。
「みなさんに満人に一日なって頂く」と言うと、床屋の兵隊がバリカンを手に持って会議室に入ってきた。憲兵士官、下士官の一同が頸を傾げていた。
「辮髪になって頂く」
「俺たちは髪が短いんだが」
「カツラを用意してあります」と床屋がカツラを見せた。菊原が悲鳴を上げた。
「カミさんに離縁される」と誰かが言った。
「これは俺の命令だ」と三国が言ったので騒ぎが収まった。イワノフがクスクス笑う声が聞こえた。特攻班全員が巨漢を睨みつけた。
「我々、擲弾筒班も辮髪なんですか?」
「イワノフ、磯村、ウランを除いて、例外なく全員に辮髪になって頂きます。ただし、狙撃兵のライフルを合図に鉄兜を被ってください。それでは、みなさん、私に続いてください」と言ってから床屋に合図をした。長谷川が最初だった。長谷川を先頭に辮髪の特攻班が出て行った。支那服も用意されていた。二等兵が着付けを手伝った。青々とゾリンゲンのカミソリで剃ったアタマに辮髪が似合っていた。遠距離からだと日本人には見えない。
「なんで、今、着替えるんかよ?」と兵曹が文句を言った。
「黙ってやれ!」と町田が叱った。
一同が「最後の晩餐だ」と食堂へ行った。円卓が二つ用意されていた。兵隊食堂の中が騒然とした。満人の一団が入ってきたと思ったのだ。その中に町田憲兵少佐を見つけて兵隊が立ち上がった。そして敬礼をした。――このいでたちは祭りか何かあるのだろうと推測していた。
「申訳ありません。今夜は酒抜きです。無事に任務が済んだら、後日、ヤマトホテルの食堂で宴会を開きますので、おゆるしをください」と長谷川が四方に頭を下げた。全員が頷いていた。寡黙だった。日本の家族を想っているのである。
「少佐殿、似合いますねえ」と菊原がニヤ二ヤと笑っていた。
「黙れ!大尉。キサマも、よく似合っておるぞ」と言い返した。
3
八月の一日になった。起床ラッパが鳴った。五時である。雨はすっかり止んでいた。長谷川、磯村、イワノフ、ウランが食堂で朝飯を食った。特攻班がすでに支那服に着替えて辮髪でメシを食っていた。長谷川が町田少佐に話しかけた。
「少佐殿、おはようございます。実は、辮髪隊に食後、会議室に集まって頂きたいのです」
「辮髪隊?特攻隊じゃないのか?」と町田が怒声を発した。
「関東軍平房憲兵特攻班よりも呼びやすいもんですから」
「わかった。辮髪隊は、ハバカリの時間が要るから八時に行く」
「お待ちしております」
八時きっかりに長谷川が話し出した。
「護送車がハルピンの憲兵本部を出るのは、正午となっております。だが、この出発時間をソ連の情報機関は掴んでいます。そこで、今日は貨物機に不具合が見つかり、本日、日本には出発不可能となったと憲兵本部に電報を打ちます。これは罠であります。二時間後の午後二時にまた電報を打ちます。貨物機が用意できたから平房へ来られよと。すべての電信は、イワノフが実施します。すると、気を緩めているGPUが慌てます。我々、特攻班はこの二時間の枠の内に現場へ配置を終わらせます。何か、ご質問があるでしょうか?」
「いや、単純明快である。さらに余裕までくれた」と町田少佐が長谷川に握手の手を出した。
「誰の班から先発しますか?」と菊原が訊いた。
「長谷川イワノフ組であります」
「次にウラン磯村組であります」
「我々、四人のライフル銃隊が三十分後に野菜公司トラックで向かいます。
「最後に我々、擲弾筒班が豚肉公司トラックで配置に着きます」
三国が見まわすと、みんな意外に緊張していなかった。
「イワノフ何時に最初の電信を打つ?」
「カピタン、ここで打つよ。二回目は、ボクは移動式電信機を持って出るからカピタンと一緒に行き、現場近くからウツヨ」と笑っていた。そう言ってからイワノフが立ち上がった。
「みなさん、GPUの暗殺特務司令官は、ブロニスラフ・カミンスキーという四十歳のオトコヨ。GPU切っての切れ者です。ボクがハバロフスクで赤軍と戦ったとき以来の宿敵なのよ。ボクがうまくカミンスキーを騙せるのかちょっと心配が残る。このスラック(遅らせる)という手は誰でも使うからね。カミンスキーは疑い深く、盗聴の鉄人です。ボクと電信戦の一騎打ちなのです。ここで一番大事なのが、タイミングなのヨ。これも、カピタン・ハセカワとボクが狙撃兵をしとめるタイミングにかかっているヨ」
「罠を見抜かれた場合はどうする?」と町田が真剣な面持ちで質問をした。
「カーナル、マチダ、ウランが必要なときにカミンスキーの電信を妨害します」
「必要なときってどうして判るのか?」
「ウランはボクの甥です。戦友なのです。ボクが何を考えているのか電信の信号と時計でわかる」
平房憲兵特攻班の八名が、いかにイワノフとウランに命が掛かっているかを自覚した瞬間であった。司令塔の長谷川を見ると、禅宗の坊主のように静かな表情をしていた。
「よし、それではキサマら、部屋に帰ってノラクロを読んで寝ろ。甘いものを届けさせる」と三国司令官が言った。
「カピタン、ちょっと部屋に戻ります」とイワノフとウランが出て行った。 部屋に戻ったウランが時計を見た。九時前だ。二人が盗聴を開始したのである。
「叔父さん、何もないね」とウランが言うと、、
「カミンスキーは、おしゃべりじゃないんだ。以心伝心で工作員を動かす。だが、どこかで信号が入る。こっちから誘う手がある。ウラン、寝ておけ。交代で休もう」
ウランが起きると、イワノフがカタカタと電鍵を打っていた。時計を見た。午前十一時だ。イワノフが最初の罠を仕掛けたのだ。
「了解、出発は無期限に中止なんですね?」とハルピンの憲兵本部から返信が返って来た。暗号だが傍聴すると、こっちの聴信器に微かな音がするのである。ウランがイワノフにウインクした。――盗聴された、、今度はこっちが盗聴する番だ。ウランがダイアルを回している。三十分が経った。すると、カタカタカタとソ連大使館のGPUの信号が聞こえた。どうも、GPUは襲撃隊のサイズを大きくしたようだ。解読すると、総勢で十六人に膨れていた。さらに、現場にすでに配置済みのもようである。
「ウラン、カピタンをここへ呼んでくれ」
部屋が隣なので、すぐに長谷川がやってきた。
「イワノフ、聞かせろ」
「GPUがソ連の密偵などのキラーを加えたよ。だけど、この密偵らは鱶(ふか)の餌食になるだけだ。それとGPUには装甲車がない。ここは満州だ。だから、自走砲を考え着いたわけよ。護送車を取り巻くでしょう。我々は人数が十名。少し考えよう」
三人が腕を組んで考えていた。
「イワノフ、取り巻くやつらがキラーだね。向こうの兵器は、精々、マンドリン軽機関銃と手榴弾だろう。あんなもん当たらんし、わが方がどこにおるのか判らんはずだ」
「カピタン、その手榴弾を投げる兵隊は三十メートルに接近する。東から接近する。もうすでに現場にいるなら、散開している。ウラン絵を描いてくれ」
ウランが書いた絵に長谷川が赤い印を付けていった。一つがひとりである。まず、カミンスキー、多分、見通しのいい場所にひとりでいるだろう。三階建ての屋上は考えられない。すると、あのロシア教会の鐘楼かもしれない、、鐘楼に赤い二重丸と、?マークを描いた。
「イワノフ、この鐘楼だけどね、高さはどのくらいある?」
「六十メートル、アルヨ」
長谷川が鮎二を想いだした。――岡の上などを撃つには、角度が鍵だと言っていた。電話を取った。平房の狙撃班に来てもらった。一番腕のいい狙撃兵を頼んだ。すぐ部屋のドアにノックが聞こえた。
「大尉殿の狙撃銃を見せてください」
「アリサカですね。日本軍の誇る九九式狙撃銃であります」と言って銃身にキッスをした。
長谷川が壁の絵を見せて、ロシア教会の鐘楼の写真を見せた。
「距離は?」
「この三階建てのビルの屋上から鐘楼の男を狙撃する考えです」
「距離は五百メートル。高さは、ほぼ同じ。ただし、弾は右へ流れるのをご存じか?」
「ライフルの偏流ですね」
「撃ったご経験があられる?」
「あります。八百メートルでロシア兵に当たりました」
「どの戦場でありますか?」
「ホロンバイルです」
狙撃兵がホロンバイルと聞いて驚いていた。
「イワノフ、一時間で帰って来る」と言って、ふたりが狙撃銃を持って練兵場の一角にある射撃場に行った。スコープを狙撃兵が計算して右へずらしてネジで止めた。長谷川が九百メートルの人形に狙いを定めた。手が震えた。
「パ~ン」と撃った。外れた。二発目も外れた。狙撃兵がまたスコープを調整した。そして、ミカン箱の上に土嚢を置いた。手の震えが銃身に影響を与えないからだ。
「パ~ン」今度は見事に胸に当たった。二発目は人形の顔に当たった。三発目は腹に当たった。
「大尉殿、及第であります」
「有難う」
部屋に戻ると、イワノフがコッペパンを片手に敵の信号を待っていた。横でウランも聴いていた。そしてダイアルを調整した。
「叔父さん、奴ら波長を変えたよ。暗号も変えやがった」
イワノフがテープにキイパンチャーで穴を開けて長谷川に渡した。長谷川が拡大鏡でテープを見た。そして暗号のプログラムを書いた。時計を見ると午後の一時を過ぎていた。
「イワノフ、ウラン、磯村、簡単に昼飯を食って出発しよう」
長谷川は辮髪に黒い帽子~夏の兵装~ゲートルを巻いていた。その上に支那服を着ていた。
イワノフが給食兵にコッペパンにバターを塗ってくれと頼んだ。そしてミルクを一本貰った。長谷川が一瞬、青森の家族を想った。
4
長谷川が空を見た。青空だ。四人がダッジに乗って出発した。唐人街で磯村とウランを降ろした。長谷川がふたりの手を握った。ふたりは人力車で現場へ行くのだがダッジが先に着く。。三階建てのビルが見えたところでダッジを停めた。腕時計を見ると二時になっていた。計画通りだ。イワノフが移動式電信機を車の中で打った。すぐに盗聴されたことが判った。電信を打った場所を知られたくなかったので、平房を迂回させた。領事館の山中がさらに迂回させた。同じルートで憲兵本部から返信が届いた。――驚きました。急遽、出発します。護送車の憲兵は四人であります。
これも盗聴された。イワノフが長谷川にウインクした。GPUは信じたのだ。ダッジはそこから三階建てへ向かった。裏口が開いていた。狙撃兵の出口である。中へ入ると支那人の男女が野菜を洗ったり、切ったり、箱に入れていた。まず、イワノフを見て腰を抜かした。次に、長谷川の辮髪を見て安心した。次に、二人がライフルを持っていることに気が着いて震えたのである。ふたりが階段を駆け上がって行った。三階の、あの窓のある部屋の扉は中から鍵がかけられていた。手榴弾計画が潰れた。――予想していたので、長谷川が一升瓶に入れたガソリンを用意した。
「パ~ン、パ~ン」と二発聞こえた。支那服を脱ぎ捨てた長谷川が扉の下の隙間にドクドクとガソリンを撒いた。そして黄燐マッチを擦った。「ぼ~」というガソリンが燃える音が室内に聞こえた。ふたりの狙撃兵がパニックした。扉を開けて飛び出してきた。長谷川が南部を構えて待っていた。額を撃ち抜かれた敵兵がふたり転がった。イワノフは部屋の中に走った。長谷川が消火器を持って火を消した。窓際には土嚢が積んであった。ロシアのキラーが金岡の護送車を取り囲んでいた。護送車はパンクしていた。タイヤを撃たれたのだろう。運転していた憲兵と助手席の憲兵が降ろされて、手を高く上げていた。支那人の野次馬を装っていた平房特攻班が予習通りに動き出しているのが見えた。護送車の後ろから巨漢が現れた。金岡だ。密偵の一人が金岡を射殺する動きを見せた。イワノフがその男を撃ち殺した。音がトカレフ・ライフルだったので残りの七人が驚いて銃声のした方角を見た。そのとき、八九式擲弾筒が「ぽ~ん」と鳴った。七人が花びらの形に路上に倒れた。イワノフと長谷川が屋上に駆け上がって行った。その直後、部屋の窓にトカレフのライフルが目茶苦茶に撃ち込まれた。
倉庫の鉄の扉が「ば~ん」と開いた。自走砲が凶悪な顔を出した。道路に出てきた。その途端に二回、爆発音が起きた。自走砲がひっくり返った。ロシア教会の鐘楼から「パ~ン」と言う音がした。ウランが走って逃げた。縁石につまずいて倒れた。鐘楼の狙撃手の黒いシャツと白い腕が見えた。イワノフが撃った。円柱に当たった。男がライフルを持って円柱の影に隠れるのが見えた。キューポラの向こうに、ぽっかりと雲が浮かんでいた。長谷川がスコープを土嚢に置いていた。向いの倉庫の影からウランを狙っている男が見えた。イワノフが引き金を引いた。トカレフのノズルが詰まった。畜生!イワノフが喚いた。ライフルから詰まった不良弾を抜いた。そして長谷川を見た。ウランは怪我をしたのかトラックの影でうつ伏せになったまま動かない。ヘビーウエイトが泣き出しそうな顔になっていた。鐘楼の黒シャツが円柱の影から顔を出して、ウランに照準を合わせている。射程距離は九百メートル、、長谷川が引き金を柔らかく絞った。黒シャツが鐘楼から六十メートル下の庭園に落下して行った。
GPUのひとりが、ブロニスラフ・カミンスキーが鐘楼から落ちるのを目撃した。ソ連情報部暗殺部隊が動揺した。
「オーチン・ハラショ」とイワノフがトカレフを掴んで階段に出た。車道に出ると辮髪のライフル銃隊がGPUと撃ち合っていた。路上に正座したイワノフが甥の名を呼んで泣き出した。すると死体が裏返った。ウランが笑っていた。ウランの左の耳がなかった。赤チンが走ってきた。
長谷川が二百メートル東を見ると、大男のGPU四人がライフルを投げ込みトラックに這い上がっているのが見えた。ひとりがモタモタしている。その仲間を置いてトラックが急発進した。すると、「ぽ~ん」と擲弾筒の音がした。当たったが鉄の有蓋車なのである。乗り遅れた男だけが死んだ。イワノフが撃ったがこれも効果はなかった。
「パン、パン、パチ、パチ」とトカレフ半自動小銃の音がした。運転台のガラスにひびが走った。トラックが停まった。キラーが五人手を上げて出てきた。長谷川とイワノフが走って行った。辮髪の菊原が――どうしたものかと戸惑っている。長谷川も迷った。
「トバリシ、ダバイ、ダバイ、後ろ向きに並べ」とイワノフがキラーの五人に言った。そして菊原以下四人を手でまねいた。銃殺隊だ。菊原の辮髪隊が一斉にボルトをガチャ、ガチャ鳴らして弾を込めた。長谷川が目を瞑った、、銃声が遠くで観ていた野次馬にも聞こえた。女の悲鳴が上がった。
「戦闘は終わった。敵味方の死傷兵を数えろ」と辮髪に鉄兜を被った長谷川が同じ格好の兵曹と赤チンに命じた。後ろでカメラのシャッターの連続音が鳴った。振り返ると磯村が、ハンザ・キャノンを構えて立っていた。腕時計を見ると、午後の四時であった。
「長く感じたが、九十分か」長谷川が極度の疲労を覚えた。
5
平房に、辮髪隊が戻ってきた。長谷川、磯村、イワノフが、ダッジから降りると関東軍の司令官と三国憲兵大佐が出迎えた。次に豚肉公司のトラックが入ってきた。野菜トラックが続いた。
「食堂ではなしを聞こう」と三国大佐が言った。
食堂には、円卓が二つ並べてあった。すでに、酒とハーピーが並んでいた。給仕兵が熱いおしぼりをバケツに入れて持ってきた。
「大佐との、まず、わが方には戦死者はありません。負傷した者も二名であります。ひとりは、実戦に慣れていない憲兵がイワノフの撃ったライフルの音に動顛して逃げた際に石につまずいて足の親指をくじいたのであります。もう一人はウランが左耳を撃たれてツンボになり歩道の縁につまずいたのであります。GPUの死傷者の報告は明日になります。ただし、平房基地以下、ハルピン市内の憲兵隊には警戒命令を出してください。領事館前の憲兵本部は増員を勧めます」
「大尉、俺は非常に嬉しい。辮髪隊を俺はどう表彰すべきなのか新京と話す」
「おい、キサマら、酒を飲め」と町田少佐が言った。だが笑い声が起きた。町田の辮髪が可笑しかったからである。
「食後に会議室に床屋が来ます。辮髪隊の解散であります」と長谷川が言うと、歓声が上がった。
給仕兵が真っ二つに切った焼き鴨の十六皿を円卓に置いた。アワビ~びんちょう鮪の刺身~赤飯~雑煮、、これではまるで正月ではないか、、
頭に包帯を巻いたウランと杖をついた憲兵が現れた。赤チンも加わった。拍手が上がった。ウランがハーピーのジョッキを持ち上げた。
「乾杯」と三国が杯を上げていた。
「君らは、明日の起床ラッパで起きなくてもよい。うんと食って呑め。日本酒は軍規違反だが、俺がゆるす」
続く、、
*みなさん、面白いですか?時代遅れかな?伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第十三章
1
山中が運転するダットサンが平房に着いた。三国司令官が六人の憲兵士官を集めて会議室で待っていた。長谷川が敬礼をしようと足を揃えると司令官も士官もガタガタと立ち上がった。士官たちは三人の来客と同時に敬礼した。最後に司令官が敬礼して円卓を囲んで座った。
「長谷川大尉、君たちが、聖ソフィア教会の近くで銃撃を受けたことを聞いた。それとホテルからキタイスカヤに引っ越したのも島原領事さんから聞いた。それがベストだ。我々は君に質問がある。なぜ、金岡旭の東京移送を保留したいのか聞かせてくれたまえ」
「ハッ、三国司令官殿、この件はそう簡単でないのであります。イワノフをご存じですね?彼が傍聴で掴んだデータは、事件の前兆と思われます。ハルピンには、ソ連領事館のほかにGPUの工作員がいるのです。ご周知、工作員は特務機関であります。つまり暗殺団であります」
「君を狙っていると?」
「いいえ、大規模な報復戦を計画しているはずです」
「それと金岡移送と、どう関係があるんだね?」
「ソ連諜報部は金岡がしゃべることを恐れているのです。クチを封じるベストは暗殺であります。移送車を襲撃するはずです」
「それほど金岡は重要な人物かね?」
「金岡がしゃべると尾崎秀美が逮捕されます」
「う~む」と三国が腕を組んで天井を見上げた。
「大尉、君の対策を聞きたい」
「平房の憲兵司令部を一時、私に預からせて頂きたいのであります」
士官たちがガヤガヤと私語を交わした。三国大佐が長谷川を見つめていた。この長谷川大尉には、ここ一年間、驚かされるばかりであった。長谷川の実績は自分のキャリアを超えるものであった。この若い大尉が平房の関東軍憲兵司令部を「一時、貸せ」と言っている、、
六人の憲兵士官が司令官の返答を、固唾を飲んで待っていた。――長谷川大尉が一時でも司令官になる。今聞いたGPUの話は恐ろしい。ロシア人は支那人じゃない。自分は、今まで呑気に楽しい任務をしていた。
「わかった。長谷川大尉に指揮権を渡す。だが、その期間は長いのか?」
「司令官殿、七十二時間であります」
「司令官殿、質問があります」と少佐の襟章の町田士官が言った。
「何かね?」
「佐官も大尉の配下になるんですか」とその目が険しくなっている。
「いや、それは出来んな」
「少佐殿、ご心配ないように願います。自分は尉官と足りなければ下士官をお借りしたいのです」
「長谷川大尉、それでは、いつから憲兵隊司令部を乗っ取るんかね?」と三国が笑っていた。士官たちが息をのんだ。
「イワノフが掴んだ情報だとGPUが行動を起こすのは八月一日となります。本日は七月二十八日であります」
「GPUの編成は何人だと考えているのか?」
「十人であります」
「憲兵隊だが、君は何人を必要と考えている?」
「イワノフ、ウラン、磯村と私の四名なんですが、ウランと磯村少尉は戦闘員ではないのです。そこで、憲兵隊から戦闘経験のある下士官を八名お借り致したいのであります」
「わかった。自分がその八名を選びます」とさっきの町田少佐が言った。言葉を濁さない長谷川が気に言ったらしい。
「少佐殿、今夜ここへ泊まりますので、明日、人選を出来ないでしょうか?」
「明日と言われても」と町田が言いかけると、、
「町田、明日やれ」と三国が低い声で命令した。
「司令官殿、出張中の士官が三名います。みんな牡丹江です。その三名は戦場体験者ですから必要です」
「即時に電報を打って、明日の午後一時までに平房へ戻れと指示せよ」
「ハッ、承知致しました」
町田少佐が部下を部屋の隅に手招いた。喫茶室で山中が待っていた。
「長谷川さん、どうでしたか、その憲兵本部乗っ取り?」と山中が心配そうであった。
「三国司令官も、士官さんたちも気持ちよくご了解された」
山中がほっとしていた。だが、磯村は固い表情でメモを書いていた。
「大尉殿、あと三日しかありません」と磯村が心細い声を出した。長谷川が少尉の目を見て――春燕を心配していると頷いた。
「憲兵隊を編成したら、戦闘訓練をやる。だから明日の会議は重要なのだよ」と磯村に言うと、磯村が急いでメモを取った。
「磯村少尉、君は記録係だ。しっかり観戦せよ」
「山中さん、飯食う?兵隊食堂だけどね」
「はあ、是非お願します。平房のメシは評判ですから」
確かにメシもオカズも美味い。話のタネは単純。日本から平房基地に直接貨物機が運んで来るからである。冬なら広島湾の牡蠣まで生きたまま持ってくる。今日の出し物は伊勢の尾鷲の本ガツオである。山中が目を丸くした。カツオのなまりが好物なのである。磯村は、――従軍カメラマンとなったので安堵していた。カツオのたたきを鰐のように食っていた。
「大尉殿、ハーピーを飲んでも良いでしょうか?」
「僕も」と山中武官が長谷川を見た。長谷川は、ハハハと笑った。
「じゃあ、俺も飲むよ」
昼飯が済んだ。
「長谷川さん、それではここで失礼致します。明日の会議の成功を祈ります」と山中が立ち上がった。
2
七月二十九日、正午のサイレンが鳴る前、三人の憲兵士官が牡丹江から戻ってきた。町田少佐が迎えた。
「君たち、メシを食え。伊勢の尾鷲から届いたカツオだ」
士官たちが「ウォ~」と歓声を上げた。町田も一緒に食堂へ行った。
「北島君、長谷川大尉を知っているかね?」
「いいえ、噂を聞きましたが」
「長谷川大尉は君たちよりも歳が数個若い。だがここから三国憲兵司令官の代行を務める」
歴戦の歩兵から憲兵尉官に昇給した三人が顔をしかめた。
「平房憲兵司令部を乗っ取った?」
「いや、そうではない。三国大佐の判断だ」
憲兵大尉のひとりが目をギョロギョロさせて怖い顔をしている。
「菊原大尉、ここは競争の場ではない。それに長谷川大尉は軍令憲兵士官なのだ」
「では、われわれの任務を話してください」
軍令憲兵と聞いて菊原が降参した。町田が昨日の議会録を見せた。三人が何度も読んでいた。
「ソ連暗殺特務班ですか?」と菊原が言うとふたりが息を呑んだ。
「憲兵はわが日本軍を取り締まるのが任務のはずです」
「その通りだ。だが、長谷川大尉は暗殺が特務なのだよ」
「学者だと聞きましたが」
「それはね、君たちも周知の飛鳥参謀が育てたからだ」と町田が言うと、三人が立ち上がって敬礼をした。
「それでは、わが命を長谷川大尉に預けます」と菊原が、ほかのふたりを代表して宣言した。
会議が始まった。まず、三国司令官が「関東軍平房憲兵特別部隊」の使命を説明した。選ばれた八名は夫々、戦場体験を持っていた。顔に銃創のある士官がいた。みな精悍な青年ないし中年なのである。中支の戦場から生還した古年次兵である。
「それでは、長谷川大尉、ここからは君に任す」
八名の憲兵士官が長谷川を凝視した。ひとりの大尉は若造を睨みつけていた。
「長谷川道夫であります。私を長谷川大尉と戦場では言っておられません。そこで妙案を思い着いたのであります。私を子馬、イワノフを子熊と呼んでください」
「はあ、馬と熊ですか?」と菊原が言うと爆笑が起きた。
「それでは子馬さん、対GPU戦の作戦を話してください」と万里の長城戦を戦った宮本中尉が先を聞きたかった。磯村が憲兵特別部隊十名の名前を黒板に書いていた。
「磯村少尉が、みなさんのお名前を黒板に書きました。お名前を読む度に立ってください。これが部隊のメンバーを知る最短の方法であります。そのときに、どのような武器がその方に向いているか決めます」
長谷川が、憲兵八名とイワノフの守備と攻撃隊を編成した。まず、憲兵をペアで四組にした。長谷川とイワノフもペアである。
「戦闘が始まると私から指示は出ません。イワノフと私が狙撃組です。お若い菊原大尉殿の二人組~北島中尉殿の二人組~町田少佐殿の二組。菊原大尉殿の二組には最新の軽機関銃を差し上げます。町田少佐殿の二組にはソ連製の自動小銃を差し上げます」
「ソ連製?」
「そうであります。FG42 の音に敵が混乱するでしょう。この自動小銃の欠点は有効射程が一〇〇メートルと短いことであります。この戦闘はボルト式では敵にやられるんです」
「なるほど」
町田が長谷川の英知に関心していた。
「GPUの兵器は何でありますか?」と最も知りたい敵の戦力を菊原が訊いた。
「VSS狙撃銃、マンドリン軽機関銃、手溜弾です。わが方も手榴弾を体験された広島第六師団におられた士官さんたちに投げて頂きます」
「それで充分かね?」と三国司令官が不安そうな顔をしていた。
「金岡の護送は領事館の真向かいのハルピン憲兵本部から平房飛行場まで約一時間であります。途中に大きな建物は一つしかありませんが、他の建物はご覧のように倉庫であります。有線地雷を仕掛ける可能性が高いのであります」
「エエ~?」と奇声を上げた菊原を町田が睨みつけた。
「ソ連の地雷は大きいのです。護送車は、バラバラになって吹っ飛びます。だが、ご心配は無用です。どこに仕掛けるか、すでに判っております。ウランとイワノフが見張っております」
磯村が投射機で写真を壁に映した。長谷川が電灯を切った。二か所に赤い丸が記されていた。最初の赤い丸が有線地雷を埋めた個所。五百メートル先が、地雷が失敗したときの襲撃の場所なのである。
「ソ連の有線地雷が失敗するという確証はあるのか?」と三国がまた心配していた。
「司令官殿、ウランがすでに切断したのであります」
「すると、その先の五百メートルで戦闘になる?そのまた二百メートル先に三階建てのレンガ造りのビルがあるが、これは?」
「この窓を見てください。狙撃兵二名の銃眼であります」
「すると、やはりこの倉庫から飛び出してくるか、四五ミリ砲ぐらいを据えるのだろう」と町田少佐が言った。
「ご正解であります」
八名の憲兵特攻班が騒めいた。
「それでは、みなさん、明日の朝九時に練兵場にお越しください」と長谷川が締めくくった。三国司令官を除いて全員が立ち上がって長谷川司令官に敬礼をした。
3
「磯村、時間があるね。キタイスカヤへ戻って、イワノフとウランとメシを食おう」
「嬉しいです」
長谷川が山中武官に電話をかけてイワノフに伝えて貰った。
「長谷川さん、どこで落ち合うのでしょうか?」
「わからんけど、キタイスカヤのロシア教会の前で降りると言ってくださいませんか?」
まだ幼さが顔に残る憲兵が運転するダットサンがロシア教会の前でふたりを下した。街路樹の枝にとまっている蝉がシェンシェンと鳴き出した。――明日の朝七時にこの場所に迎えに来て欲しいと頼んだ。「了解しております」と憲兵が足を揃えて敬礼をした。磯村がイワノフとウランの姿を見た。二人のロシア人は不思議な恰好をしていた。モンゴルに思えた。
「さて何を食うかな?」
「朝鮮焼肉どうですか?」とウランが言うとみんな賛成した。
「カピタン、おごってネ。なぜかというと、ウランは日曜日の拳闘をキャンセルしたからネ」
「そりゃ悪かった。でもね、これまじめな戦争なんだよ」
「ロシア犬の肉アルヨ」と朝鮮の女は愛想が良かった。
磯村が頭を横に振った。メニューを見ると、牛肉はなかった。豚の臓物と羊が中心なのだ。
「う~む、どうする?」
「ボクたち、豚の臓物は食わないヨ」
「じゃあ、出よう」と磯村が言うと、イワノフが女に小銭をやった。
「好き焼き食べたい」とウランが言った。そこで、博多屋に決めた。
「牛(ぎゅう)はね、日本人しか注文しないのよ」と女将が――理由は戦時下で不足しているから高いと言った。
「何か罪悪感に襲われるね」
「でも、兵隊さんは戦死するから割引きなのよ」
「戦死するって決まったわけじゃないよ」と長谷川が横の磯村を見ながら言った。
「イワノフ、すき焼き一本でいいのか?」
「タクサン、タベルカラネ」
「わかっている」
「おふたりに手紙が届いています。それと島原領事が春燕に送金してくれたヨ」とイワノフが胸のポケットから封筒を二つ取り出した。佐和子と春燕だった。磯村が涙ぐんでいた。――磯村は体格がいいが戦場には向かないと長谷川が再び思った。
イワノフと磯村が二倍食ったのには、さすがの長谷川も呆れた。ふたりの大食漢は生のニンニクに味噌を付けてバリバリと馬のように食った。熱燗も河馬のように飲んだ。女将がニコニコしていた。
「磯村、君は飲めなかったはずだが?」
「僕は三日後に戦死しますから」
「バカモン」と言うと磯村が杯を伏せた。
「イワノフ、ウラン、明日、俺たちと一緒に平房へ来てくれ。戦闘の模擬演習をやる。自動ライフルを持って来てくれ。ウラン・磯村組には別の任務がある」
長谷川と磯村がアレックスの館に帰った。そして手紙を読んだ。佐和子と娘三人が八戸に海水浴に行った写真が入っていた。すべてがうまく回転していると書いてあった。磯村は春燕が唐辛子畑で働く写真を見ていた。――妊娠四か月のはずだが、、
続く、、
第十三章
1
山中が運転するダットサンが平房に着いた。三国司令官が六人の憲兵士官を集めて会議室で待っていた。長谷川が敬礼をしようと足を揃えると司令官も士官もガタガタと立ち上がった。士官たちは三人の来客と同時に敬礼した。最後に司令官が敬礼して円卓を囲んで座った。
「長谷川大尉、君たちが、聖ソフィア教会の近くで銃撃を受けたことを聞いた。それとホテルからキタイスカヤに引っ越したのも島原領事さんから聞いた。それがベストだ。我々は君に質問がある。なぜ、金岡旭の東京移送を保留したいのか聞かせてくれたまえ」
「ハッ、三国司令官殿、この件はそう簡単でないのであります。イワノフをご存じですね?彼が傍聴で掴んだデータは、事件の前兆と思われます。ハルピンには、ソ連領事館のほかにGPUの工作員がいるのです。ご周知、工作員は特務機関であります。つまり暗殺団であります」
「君を狙っていると?」
「いいえ、大規模な報復戦を計画しているはずです」
「それと金岡移送と、どう関係があるんだね?」
「ソ連諜報部は金岡がしゃべることを恐れているのです。クチを封じるベストは暗殺であります。移送車を襲撃するはずです」
「それほど金岡は重要な人物かね?」
「金岡がしゃべると尾崎秀美が逮捕されます」
「う~む」と三国が腕を組んで天井を見上げた。
「大尉、君の対策を聞きたい」
「平房の憲兵司令部を一時、私に預からせて頂きたいのであります」
士官たちがガヤガヤと私語を交わした。三国大佐が長谷川を見つめていた。この長谷川大尉には、ここ一年間、驚かされるばかりであった。長谷川の実績は自分のキャリアを超えるものであった。この若い大尉が平房の関東軍憲兵司令部を「一時、貸せ」と言っている、、
六人の憲兵士官が司令官の返答を、固唾を飲んで待っていた。――長谷川大尉が一時でも司令官になる。今聞いたGPUの話は恐ろしい。ロシア人は支那人じゃない。自分は、今まで呑気に楽しい任務をしていた。
「わかった。長谷川大尉に指揮権を渡す。だが、その期間は長いのか?」
「司令官殿、七十二時間であります」
「司令官殿、質問があります」と少佐の襟章の町田士官が言った。
「何かね?」
「佐官も大尉の配下になるんですか」とその目が険しくなっている。
「いや、それは出来んな」
「少佐殿、ご心配ないように願います。自分は尉官と足りなければ下士官をお借りしたいのです」
「長谷川大尉、それでは、いつから憲兵隊司令部を乗っ取るんかね?」と三国が笑っていた。士官たちが息をのんだ。
「イワノフが掴んだ情報だとGPUが行動を起こすのは八月一日となります。本日は七月二十八日であります」
「GPUの編成は何人だと考えているのか?」
「十人であります」
「憲兵隊だが、君は何人を必要と考えている?」
「イワノフ、ウラン、磯村と私の四名なんですが、ウランと磯村少尉は戦闘員ではないのです。そこで、憲兵隊から戦闘経験のある下士官を八名お借り致したいのであります」
「わかった。自分がその八名を選びます」とさっきの町田少佐が言った。言葉を濁さない長谷川が気に言ったらしい。
「少佐殿、今夜ここへ泊まりますので、明日、人選を出来ないでしょうか?」
「明日と言われても」と町田が言いかけると、、
「町田、明日やれ」と三国が低い声で命令した。
「司令官殿、出張中の士官が三名います。みんな牡丹江です。その三名は戦場体験者ですから必要です」
「即時に電報を打って、明日の午後一時までに平房へ戻れと指示せよ」
「ハッ、承知致しました」
町田少佐が部下を部屋の隅に手招いた。喫茶室で山中が待っていた。
「長谷川さん、どうでしたか、その憲兵本部乗っ取り?」と山中が心配そうであった。
「三国司令官も、士官さんたちも気持ちよくご了解された」
山中がほっとしていた。だが、磯村は固い表情でメモを書いていた。
「大尉殿、あと三日しかありません」と磯村が心細い声を出した。長谷川が少尉の目を見て――春燕を心配していると頷いた。
「憲兵隊を編成したら、戦闘訓練をやる。だから明日の会議は重要なのだよ」と磯村に言うと、磯村が急いでメモを取った。
「磯村少尉、君は記録係だ。しっかり観戦せよ」
「山中さん、飯食う?兵隊食堂だけどね」
「はあ、是非お願します。平房のメシは評判ですから」
確かにメシもオカズも美味い。話のタネは単純。日本から平房基地に直接貨物機が運んで来るからである。冬なら広島湾の牡蠣まで生きたまま持ってくる。今日の出し物は伊勢の尾鷲の本ガツオである。山中が目を丸くした。カツオのなまりが好物なのである。磯村は、――従軍カメラマンとなったので安堵していた。カツオのたたきを鰐のように食っていた。
「大尉殿、ハーピーを飲んでも良いでしょうか?」
「僕も」と山中武官が長谷川を見た。長谷川は、ハハハと笑った。
「じゃあ、俺も飲むよ」
昼飯が済んだ。
「長谷川さん、それではここで失礼致します。明日の会議の成功を祈ります」と山中が立ち上がった。
2
七月二十九日、正午のサイレンが鳴る前、三人の憲兵士官が牡丹江から戻ってきた。町田少佐が迎えた。
「君たち、メシを食え。伊勢の尾鷲から届いたカツオだ」
士官たちが「ウォ~」と歓声を上げた。町田も一緒に食堂へ行った。
「北島君、長谷川大尉を知っているかね?」
「いいえ、噂を聞きましたが」
「長谷川大尉は君たちよりも歳が数個若い。だがここから三国憲兵司令官の代行を務める」
歴戦の歩兵から憲兵尉官に昇給した三人が顔をしかめた。
「平房憲兵司令部を乗っ取った?」
「いや、そうではない。三国大佐の判断だ」
憲兵大尉のひとりが目をギョロギョロさせて怖い顔をしている。
「菊原大尉、ここは競争の場ではない。それに長谷川大尉は軍令憲兵士官なのだ」
「では、われわれの任務を話してください」
軍令憲兵と聞いて菊原が降参した。町田が昨日の議会録を見せた。三人が何度も読んでいた。
「ソ連暗殺特務班ですか?」と菊原が言うとふたりが息を呑んだ。
「憲兵はわが日本軍を取り締まるのが任務のはずです」
「その通りだ。だが、長谷川大尉は暗殺が特務なのだよ」
「学者だと聞きましたが」
「それはね、君たちも周知の飛鳥参謀が育てたからだ」と町田が言うと、三人が立ち上がって敬礼をした。
「それでは、わが命を長谷川大尉に預けます」と菊原が、ほかのふたりを代表して宣言した。
会議が始まった。まず、三国司令官が「関東軍平房憲兵特別部隊」の使命を説明した。選ばれた八名は夫々、戦場体験を持っていた。顔に銃創のある士官がいた。みな精悍な青年ないし中年なのである。中支の戦場から生還した古年次兵である。
「それでは、長谷川大尉、ここからは君に任す」
八名の憲兵士官が長谷川を凝視した。ひとりの大尉は若造を睨みつけていた。
「長谷川道夫であります。私を長谷川大尉と戦場では言っておられません。そこで妙案を思い着いたのであります。私を子馬、イワノフを子熊と呼んでください」
「はあ、馬と熊ですか?」と菊原が言うと爆笑が起きた。
「それでは子馬さん、対GPU戦の作戦を話してください」と万里の長城戦を戦った宮本中尉が先を聞きたかった。磯村が憲兵特別部隊十名の名前を黒板に書いていた。
「磯村少尉が、みなさんのお名前を黒板に書きました。お名前を読む度に立ってください。これが部隊のメンバーを知る最短の方法であります。そのときに、どのような武器がその方に向いているか決めます」
長谷川が、憲兵八名とイワノフの守備と攻撃隊を編成した。まず、憲兵をペアで四組にした。長谷川とイワノフもペアである。
「戦闘が始まると私から指示は出ません。イワノフと私が狙撃組です。お若い菊原大尉殿の二人組~北島中尉殿の二人組~町田少佐殿の二組。菊原大尉殿の二組には最新の軽機関銃を差し上げます。町田少佐殿の二組にはソ連製の自動小銃を差し上げます」
「ソ連製?」
「そうであります。FG42 の音に敵が混乱するでしょう。この自動小銃の欠点は有効射程が一〇〇メートルと短いことであります。この戦闘はボルト式では敵にやられるんです」
「なるほど」
町田が長谷川の英知に関心していた。
「GPUの兵器は何でありますか?」と最も知りたい敵の戦力を菊原が訊いた。
「VSS狙撃銃、マンドリン軽機関銃、手溜弾です。わが方も手榴弾を体験された広島第六師団におられた士官さんたちに投げて頂きます」
「それで充分かね?」と三国司令官が不安そうな顔をしていた。
「金岡の護送は領事館の真向かいのハルピン憲兵本部から平房飛行場まで約一時間であります。途中に大きな建物は一つしかありませんが、他の建物はご覧のように倉庫であります。有線地雷を仕掛ける可能性が高いのであります」
「エエ~?」と奇声を上げた菊原を町田が睨みつけた。
「ソ連の地雷は大きいのです。護送車は、バラバラになって吹っ飛びます。だが、ご心配は無用です。どこに仕掛けるか、すでに判っております。ウランとイワノフが見張っております」
磯村が投射機で写真を壁に映した。長谷川が電灯を切った。二か所に赤い丸が記されていた。最初の赤い丸が有線地雷を埋めた個所。五百メートル先が、地雷が失敗したときの襲撃の場所なのである。
「ソ連の有線地雷が失敗するという確証はあるのか?」と三国がまた心配していた。
「司令官殿、ウランがすでに切断したのであります」
「すると、その先の五百メートルで戦闘になる?そのまた二百メートル先に三階建てのレンガ造りのビルがあるが、これは?」
「この窓を見てください。狙撃兵二名の銃眼であります」
「すると、やはりこの倉庫から飛び出してくるか、四五ミリ砲ぐらいを据えるのだろう」と町田少佐が言った。
「ご正解であります」
八名の憲兵特攻班が騒めいた。
「それでは、みなさん、明日の朝九時に練兵場にお越しください」と長谷川が締めくくった。三国司令官を除いて全員が立ち上がって長谷川司令官に敬礼をした。
3
「磯村、時間があるね。キタイスカヤへ戻って、イワノフとウランとメシを食おう」
「嬉しいです」
長谷川が山中武官に電話をかけてイワノフに伝えて貰った。
「長谷川さん、どこで落ち合うのでしょうか?」
「わからんけど、キタイスカヤのロシア教会の前で降りると言ってくださいませんか?」
まだ幼さが顔に残る憲兵が運転するダットサンがロシア教会の前でふたりを下した。街路樹の枝にとまっている蝉がシェンシェンと鳴き出した。――明日の朝七時にこの場所に迎えに来て欲しいと頼んだ。「了解しております」と憲兵が足を揃えて敬礼をした。磯村がイワノフとウランの姿を見た。二人のロシア人は不思議な恰好をしていた。モンゴルに思えた。
「さて何を食うかな?」
「朝鮮焼肉どうですか?」とウランが言うとみんな賛成した。
「カピタン、おごってネ。なぜかというと、ウランは日曜日の拳闘をキャンセルしたからネ」
「そりゃ悪かった。でもね、これまじめな戦争なんだよ」
「ロシア犬の肉アルヨ」と朝鮮の女は愛想が良かった。
磯村が頭を横に振った。メニューを見ると、牛肉はなかった。豚の臓物と羊が中心なのだ。
「う~む、どうする?」
「ボクたち、豚の臓物は食わないヨ」
「じゃあ、出よう」と磯村が言うと、イワノフが女に小銭をやった。
「好き焼き食べたい」とウランが言った。そこで、博多屋に決めた。
「牛(ぎゅう)はね、日本人しか注文しないのよ」と女将が――理由は戦時下で不足しているから高いと言った。
「何か罪悪感に襲われるね」
「でも、兵隊さんは戦死するから割引きなのよ」
「戦死するって決まったわけじゃないよ」と長谷川が横の磯村を見ながら言った。
「イワノフ、すき焼き一本でいいのか?」
「タクサン、タベルカラネ」
「わかっている」
「おふたりに手紙が届いています。それと島原領事が春燕に送金してくれたヨ」とイワノフが胸のポケットから封筒を二つ取り出した。佐和子と春燕だった。磯村が涙ぐんでいた。――磯村は体格がいいが戦場には向かないと長谷川が再び思った。
イワノフと磯村が二倍食ったのには、さすがの長谷川も呆れた。ふたりの大食漢は生のニンニクに味噌を付けてバリバリと馬のように食った。熱燗も河馬のように飲んだ。女将がニコニコしていた。
「磯村、君は飲めなかったはずだが?」
「僕は三日後に戦死しますから」
「バカモン」と言うと磯村が杯を伏せた。
「イワノフ、ウラン、明日、俺たちと一緒に平房へ来てくれ。戦闘の模擬演習をやる。自動ライフルを持って来てくれ。ウラン・磯村組には別の任務がある」
長谷川と磯村がアレックスの館に帰った。そして手紙を読んだ。佐和子と娘三人が八戸に海水浴に行った写真が入っていた。すべてがうまく回転していると書いてあった。磯村は春燕が唐辛子畑で働く写真を見ていた。――妊娠四か月のはずだが、、
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第十二章
1
唐人街のアパートから二人の男が出てきた。朝の六時である。ひとりは、がっしりした体格で、もうひとりは、痩せて背が高い男である。山中武官が運転するダットサンの中から長谷川と磯村が見ていた。山中がダットサンを発進させて、ふたりを追い越した。ふたりより先に運送屋に行く為だ。運送屋の場所はイワノフの写真で知っていたのである。運送屋の横道に曲がって車のエンジンを切った。二人の男が現れた。間違いなく、金岡と鶴田である。鶴田は白い野球帽を被っている。三十分ほどすると、木炭トラック一台が出てきた。金岡だ。そのあとに白い野球帽の運転するトラックが続いた。山中が横に座っている長谷川を見た。長谷川が頷いた。磯村はまるで遠足にでも行くようにカメラを持っている。
「少尉、南部を持つべきだろ?」と長谷川が笑った。
鶴田と金岡が別れた。鶴田は馬家溝河(まちゃこかわ)の土手に向かっている。
「ああ、野菜市場へ行くんだな」と山中が言った。
「それは好都合だ。さて、どこで待ち伏せるかだ」
「鶴田はハルピン市街のホテルに配達しているらしい」
「市街に入ってからでは人目があります」
「さっき、左上というか花松江に続く曲がり角があった。そこがいいな」
「じゃあ、そこで待っていましょう」
一時間すると木炭トラックの音が聞こえた。運転台に白い野球帽が見える。プ~プ~とクラクションを鳴らしてダットサンの横を通り抜けて行った。山中が発進した。野菜を満載して、のろのろと走っていたトラックを通り越してから前に回った。そして、スピードを極度に落とした。鶴田がクラクションを立て続けに鳴らした。アタマに来たようだ。長谷川が窓を開けた。その手にスミス・ウエッソンを握っている。「エエ~?」と磯村が叫んだ。長谷川がトラックのラジエーターを狙って三発撃った。銃身が短いピストルは発射音が大きいのだ。驚いた鶴田がハンドルを左に切った。畑に突っ込んでトラックが横転した。西瓜~キュウリ~キャベツ~玉ねぎ~チンゲン菜~トウモロコシ~カボチャが散らばった。鶴田が這って出てきた。野球帽は、どっかへ飛ばしてしまったのか真ん中の毛がそっくり禿げた頭が見えた。そこへ通りかかった乗用車が停まった。若い男女が乗っている。長谷川が一発、空に向かって撃った。乗用車は急発進して土煙を上げて走っていった。鶴田をみると両手を上げていた。山中が鶴田を後部座席に放り込んだ。鶴田は憲兵服の磯村に睨まれて「ひゃあ」と叫んだ。
「憲兵だ」と磯村が鶴田を脅した。男が小便を漏らした。
領事館の向かいの憲兵隊の門を入った。警備兵は敬礼をしただけである。山中が前日、伝えていたからだ。四人が取調べ室に入った。
「鶴田、便所へ行きたいか?ここで脱糞されると困る」と山中が訊いた。――大丈夫ですと答えた。
鶴田の両側に二人の憲兵が銃剣を持って立っている。鶴田が怖そうに銃剣を見た。憲兵が銃剣を「ガチャ」と鳴らした。
「ひゃ~」と鶴田が叫んだ。誰も笑わなかった。
「キサマは、鶴田亀正だな?」長谷川が尋問を始めた。鶴田が気絶するんじゃないかと思うほど青くなっていた。長谷川が磯村に――水をやれと手で合図した。すべて長谷川が仕組んだ芝居であった。
「はい、鶴田です。勘弁してください」
「何を勘弁して貰いたいのかね?」
「金岡と付き合っていることです」
「付き合いが何か悪いのかね?」
「はい。金岡は、ロシアからカネを貰っているようです。どうか私を処刑しないでください」と、鶴田が、おいおいと泣き出した。聞くとどうも鶴田は、官製開拓団で満州へ渡ったらしい。妻子は、鳥西にいると言う。現金が不足なので自分はハルピンへ出稼ぎにきたのだと言うのだ。
「それでは取引をしようか」と鶴田に言った。鶴田の顔に希望の光がさした。なんでもやってここを逃げて妻子の元へ帰りたい、、
「なんでしょうか?」
「金岡をキタイスカヤ街のモッコバ賭博場へ誘え。それだけだ」
「モッコバですか、知ってますよ。配達しますんで」
「いつ呼び出せるのか?」
「明日、九月九日、重陽の節句なんです。野菜市場は休日なんですよ。明日の夜八時ではどうでしょうか?実は金岡は博打が好きなんですよ」
「知ってるよ」
2
長谷川と磯村は夕方まで領事館で大連憲兵調査官が送ってきた資料を精査していた。
「あんまり大したことないね」と磯村を安心させていた。インド象が入ってきた。
「君たち昼飯はどうする?」
「山中さんにこないだの幕内弁当を頼みたいのですが」
「忙しいんだね」
「ええ、あまりご心配は必要ないようですよ。駐在員には容疑者は皆無です」
「余計なことだが、カレンはどうしている?」
長谷川が双子の写真を胸のポケットから取り出した。カレンが男の子を両腕に抱いていた。インド象が長谷川の顔を見ていた。
「うん、お祝をせんといかんな」と言った。
「島原閣下、こないだ盛大にやったんであります」と磯村が言った。
「少尉、余計なことを言うな」と長谷川が言うと磯村が首を竦めた。そして、鶴田を捕獲したときの写真を領事に見せた。
「ひどいなこれ」とインド象が笑った。
「こいつがカネオカなの?」
「いいえ、カネオカのルームメイトなんです」
「カネオカを逮捕するのかね?」
「わかりません。カネオカは手ごわいです。追い込めば、死にもの狂いで噛みつくでしょう」
そこへ山中が入ってきた。
「ああ、幕の内ですね。領事さんもですか?」
「僕をのけ者にするなよ」と島原が笑った。
弁当を食った後も作業を続けた。ふたりは、日記を取り出して、七月二十五日のページを開いた。三時になった。山中がハイヤーを頼んだ。ふたりは龍門大厦に戻った。イワノフが迎えに来るまで寝るためである。長谷川は、部屋に入ると歯を磨いてから、鼻の短いスミス・ウエッソンを机の上において油を差した。クリップにスナッグとニックネームの着いた九ミリ弾丸を装填した。
「少尉、君は、拳銃は要らん。ハンザ・キャノンだけだ」
「ハッ、僕は頼りないですから」
「いや、そうじゃない。イワノフとウランが来るから大勢で暴れると却って危ないんだ。拳銃は俺だけだ。それに証拠の写真は大事なんだ」
「じゃあ、寝よう」と長谷川が言うと、越中一つになり、ベッドに転がって寝てしまった。磯村も歯を磨いて寝た。
長谷川の腕時計が鳴った。がばっと起きると、磯村はすでに起きてシャワーを浴びていた。長谷川もシャワーを浴びた。部屋に戻って支那服を着た。スミス・ウエッソンを胸のケースに入れて、両手で髪を撫でた。磯村も支那服を着て、ハンザ・キャノンを首に下げていた。二人は刺繍のある絹の靴を履くとロビーに降りた。イワノフがロビーに入ってきた。外で山中とウランがダットサンで待っていた。イワノフが山中の横に乗り、三人は後席に座った。五人がキタイスカヤ街に向かった。
3
カジノに着くと問題が発生した、それは金岡がもう一人の男と現れたからである。男は明らかに朝鮮人である。さらに男は首が太く手足が屈強であった。用心棒?長谷川がイワノフを見るとウインクして見せた。ウランの顔にはなんの変化もない。修羅場をくぐって生きた人間なのだ。磯村の心臓の動悸が激しくなっていた。カメラを見られないように支那服で覆った。長谷川が磯村に米ドルを五十ドル渡した。アメリカのクラップゲームだ。サイコロを投げて賭けるという単純なギャンブルである。ただ、磯村平助はサイコロを投げる技術をヤクザな父親から習った。目の出方も習っていた。サイコロには一定の法則があるのだ。ロシア人や満人のプレイヤーがテーブルを囲んでいた。磯村がサイコロを投げた。投げ手が満人に代わった。磯村は小さい金額を賭けては負け続けた。投げ手が一巡して再び磯村がサイコロを握った。――磯村はサイコロのど素人だとカネオカが十円張った。観衆が驚きの声を漏らした。磯村がサイコロを投げた。カネオカが勝った。今度は勝ったカネオカの番だ。磯村は小さく賭けては負けた。長谷川は、ず~と勝っていた。イワノフは太ったロシア女を捕まえてバーで飲んでいた。ウランは磯村の後ろでラムネを飲んでいた。磯村が長谷川にウインクした。長谷川が五円張った。カネオカが目を見張った。磯村も五円張った。胴元まで驚いた。雰囲気が一気に緊張した。カネオカがその太い腕をまくってサイコロを投げた。五六のイレブン。カネオカがまた勝ったのだ。
「サシでやろう」と磯村が日本語で言った。
「オマエ、日本人か?賭け金十円ならね」
「OK。だが、サイコロを投げるのは交代だ」
見ていたギャンブラーはこんな大金を賭ける勝負を見たことがない。カネオカが投げた。
「スリー」カネオカが負けた。磯村が二つのサイコロを握った。柔らかくポンと空中に円を描くように投げた。サイコロが壁に当たって壁際で止まった。
「セブン」とデイラーが叫んだ。磯村が勝った。カネオカが二十円立て続けに負けたので逆上した。
「オマエ、二十円でどうだ?カネあるのか?」
「いいよ」
カネオカが投げた。イチイチのゾロ目であった。
「クラップ・アウト!」とデイラーがカネオカの二十円をステッキで磯村の手元に掻き寄せた。カネオカが怒り狂った。
「三十円でどうだ?」
「OK」
磯村がサイコロを手から飛び出すように投げた。サイコロのひとつがフェルトの壁に当たって五が出た。だが、もうひとつは壁に当たってからパスラインの上でクルクルとコマのように回っている。六が出た。
「イレブン」とカネを集めるデイラーが叫んだ。カネオカがストレート負けしたのである。金岡が太い首をひねっていた。
「オマエ、いかさま師だろ」
「いかさまタアなんだ」と磯村が言うと金岡が跳びかかってきた。右手で磯村の首を掴んだ。イワノフがいつの間にか磯村の左横にきていた。金岡の右手を野球のグローブのような手で捕まえた。カネオカがイワノフを見た。カネオカの右肩の骨が外れた。用心棒がイワノフをナイフで刺そうとしていた。それを見たウランの右ストレートが用心棒の顔面に飛んだ。激痛に続いて脳震盪を起こしたが立ち直ると、今度はウランを刺そうとした。その瞬間、スミス・ウエッソンの弾ける音がした。男のこめかみから血が噴き出した。巨漢が崩れるように床に倒れた。それを見たカネオカが左手を高く上げた。
「俺たちは日本の憲兵だ」と長谷川がピストルを胸に下げた革のホルスターに入れた。観衆が沈黙した。外に出ると幌の掛かったトラックが停まっていた。用心棒の死体を憲兵が二台に放り込んだ。イワノフとウランが、山中が運転する憲兵隊のダッジに乗り込んだ。磯村が――後部座席に乗れとカネオカに顎をしゃくった。カネオカは長谷川と磯村の間に座った。朝鮮人レスラーの目が虚ろになっていた。憲兵司令部に着いた。憲兵が飛んで来た。カネオカを留置場へ連れて行った。
「アア、ハラヘッタ」とイワノフが言った。
「山中さん、この時間だとトトロしかないな。電話して聞いてくれる?」と長谷川が言うとイワノフの顔がほころんだ。
いつもの個室でなくフロアの前のテーブルに着いた。イワノフが料理を選んだ。山中が飲み物を選んだ。
「ところで少尉、写真は撮れたか?」
「いいえ。サイコロを振ってましたので、一枚も撮れませんでした」と磯村が言うと長谷川が笑った。山中は用心棒の死体を見ただけで青ざめていた。給仕が持ってきた泡立つハーピーを一気に飲んで吐息をついた。
4
九月十六日の朝九時に金岡旭の尋問が始まった。長谷川と金岡が机で向かい合っていた。壁際に大連憲兵調査官がノートを持って座っていた。金岡は右腕を包帯で太い首から釣っていた。よく見ると金岡は知的な顔をした男である。だがその細い目がせわしなく動いている。どうやって逃れようかと思っているのである。磯村がふたつ茶を入れて机の上に置いた。金岡の後ろに憲兵が銃剣を持って立っている。金岡が振り向いて、たじろぐのが見えた。自分の弟を射殺した長谷川を睨んだ。
「君は金岡旭だね?」
「そうだ」
「ハイ、そうですと言え」と憲兵が金岡の椅子を蹴った。長谷川が指を立てて憲兵を退出させた。金岡が今度は磯村を見た。磯村が南部を肩のホルスターに下げているのが見えた。
「君は、元札幌の荒川新世界塾の塾生だった。荒川熊蔵と面識はあるか?」
「あります。だが、深い教師と弟子の関係ではありません。自分は朝鮮人ですから信用されないのです」と金岡は答えたが、長谷川が瞬きもせず自分を直視しているその黒い瞳を見て膝に置いている手が震えた。――憲兵はそうとう自分を調べたと確信があった。そして長谷川の次の一声に青くなった。
「キサマはソ連沿岸州と通信をしている。最近では先週だが、誰と通信したのか話せるか?」
「いえ、そのような通信は全くしていません。何かその証拠があるのですか?」
金岡がぞんざいなクチをきいた。長谷川は金岡の質問に答えず続けた。
「東京の誰と通信しているのかね?」この質問をどうかわすか金岡が惑う様子が見えた。
「誰も東京に知人はいませんので」
長谷川が一呼吸おいて茶を飲んだ。湯呑茶椀を置くと金岡を見据えた。
「尾崎秀美を知っているか?」
巨漢の体が震えるのが見えた。金岡にとっては死ぬか生きるかの瀬戸際だからである。
「尾崎さん?近衛内閣特別顧問の位置にある重要人物が私のような朝鮮人とは付き合うわけがありませんよ」だが、金岡の震えが止まらない。
「ハハハ、あのね、君にいつ私が尾崎秀美は近衛内閣の特別顧問と言ったかね?」
金岡が真っ青になった。
「金岡旭さん、私は軍令憲兵だ。憲兵さんらよりも少々権力がある。君を絞首刑にするのを避けたい。だが、今日の供述は君にそうとう不利だよ」
「あなたは私を必ず死刑にする。昨夜は私のたったひとりの弟を殺した。自分は生涯ひとりぼっちになった。さあ、殺せ!」と喚いた。長谷川が立ち上がった。憲兵が戻って来て金岡を連れて行った。長谷川が大連の調査官ふたりと磯村を手でまねいた。
「長谷川大尉殿、これで迷宮入りでしょうか?」と年上の調査官が訊いた。
「いいえ、スタートラインに着いたばかりです。金岡は死を覚悟している。黙秘を続けるでしょう。つぎの手を考えます」と言うと調査官たちが安堵の息をついた。四人が向かいの領事館に歩いて行った。インド象に報告するためだ。山中武官が窓際で通りを見ると長谷川たちが歩道を渡るのが見えた。
「二時間ばかり、調査官さんたちと話があります。山中さん、牛丼の弁当をお願します」そこへ島原領事の巨躯が現れた。全員が立ち上がって頭を下げた。島原は金岡の尋問を聞いて暗い表情になった。近衛内閣を心配したのである。牛丼を食い、つぎの手を話し合った。
「これだと、在満州邦人の共産活動は大したことがないように思う」
「自分もそう思います」と長谷川が言った。
「金岡はどうなります?」
「GPUの工作員が口封じに金岡を殺すでしょう」
「どこで殺しますか?」
「東京に移送するときだと思います」
「大連には何も出来ませんが?」
「ハルピンのソ連の諜報やGPUと戦うのは自分の任務です」
聞いた磯村が「桜三号は長谷川大尉だ」と確信した。――自分がここで死んだら春燕と自分の子供はどうする?今日にでも、あるたけの米ドルを送金するほかない、、
「大尉殿、それでは、われわれは大連へ戻ります」と調査官が立ち上がって敬礼をした。
5
「大尉殿、僕は春燕に米ドルを送金したいのですが、方法が分かりません。助けてください」
「少尉、今いくら持っているのかね?」
「五十ドルです。貯金はありません」と磯村が言うと、長谷川がポケットに手を突っ込んだ。
「これね。昨夜のサイコロで勝った金岡のカネだ。君に五十円上げる。春燕には、その五十ドルを送れ。送金は上海領事館の岸田武官に依頼する」
磯村が将校カバンを開けて、五十ドルを長谷川に渡した。――ああ、自分は兵隊に向かないと平助が泣きそうになっていた。
「少尉、もうすぐ八月だが、ホロンバイルが燻ぶり出した。ここ二か月ほどで、大いくさが始まる」
「弟さんは大丈夫でしょうか?」
「鮎二はしぶとい。生き残るだろう」
島原が入ってきた。
「金岡を東京に移送すると平房の憲兵司令部が言ってきたよ」
「領事さん、僕が平房へ出向きます。すぐに移送したいのはわかりますが待つように言ってください。僕はそう簡単ではないと思っています」
ふたりがインド象に敬礼をした。
「山中君に送って貰えるが?」
「いえ、少し歩いて考えたいのであります」と領事館をあとにした。外に出ると、どんよりと曇っていた。西風の中に雨を感じた。二人は聖ソフィア教会へ向かっていた。一時間歩いた。長谷川がロダンの考える人のように沈思黙考していた。磯村はハンザ・キャノンで景色を取っている。聖ソフィア教会の緑色のキューポラが遠くに見えた。
「大尉殿、ちょっと待ってください。この景色は絵になります」と望遠レンズを付けた。磯村がファインダーを覗いた。シャッターを切ろうとすると、ファインダーの中にサイドカーが角を曲がってこっちへ走ってくるのが見えた。磯村が焦点を合わせた。ゴンドラに乗った男が鉄兜を被っているのがはっきり見えた。距離は七百メートル、、
「大尉殿、我々は銃撃されます」と言うやいなや、サイドカーの音に気が着いていた長谷川が南部を引き抜いた。新型の南部拳銃は銃身が長くなっているが、射程距離三十メートルが限界だ。レンガ造りの建物が続いていて横道がない。
「少尉、木の陰に伏せろ」と長谷川が言ったとき、空を割くような雷が鳴った。雨が降り始めた。サイドカーが三百メートルで停まった。ゴンドラの男が小銃をこちらへ合わせている、――狙撃兵だ、、長谷川の心臓の動悸が激しくなった。――俺を狙っている、、
「ぱ~ん」と男が撃ったがポプラの枝に当たって砕けただけだ。サイドカーが時速十キロぐらいで迫ってくる。そして百メートルで停まった。――万事休す、、
「ぽ~ん」と違う発砲音が聞こえた。運転をしていた男が路上に転げ落ちた。狙撃手が動顛する様子が見えた。狙撃手が路上に飛び降りて腹這いになった。
「ぽ~ん」ともう一発鳴った。狙撃手のアタマが地面に付くのが見えた。
発砲音だが、四階建てのビルの屋上から聞こえた。長谷川が見上げると、イワノフが手を振っているではないか。二人が立ち上がって歩いて行くとサイドカーの周りに野次馬が集まっていた。イワノフとウランが降りてきた。イワノフが鉄兜の狙撃手をゴンドラから引きずり出して自分が乗り込んだ。ウランが跨ってエンジンを始動した。
「カピタン、メシクワセ。ハハハハ」と言って走り出した。磯村がハイヤーを止めた。ハイヤーが走り去ろうとした。磯村が南部を空に向かって撃った。ハイヤーが停まった。
ふたりが雷雨の中を龍門大厦に戻った。
「少尉、考えていた手を忘れてしまったよ」
「GPUを二人殺してタダでは済まないでしょう?」
「あたりまえだよ。露助は必ず報復する」
「龍門大厦も危ない?」
「引っ越す考えだ。風呂へ入ろうや」と長谷川がフンドシ一つになって手拭いを持って風呂へ行った。この最上階の部屋には二人用の風呂がついていた。磯村も越中一つになった。風呂から上がると、フロントから電話があった。ハルピンの憲兵本部じゃないかと受話器を取った。
「カピタン、ハラヘッタ、メシクワセ」とイワノフだった。長谷川が吹きだした。
「命の恩人だよ。磯村、君も腹空いてるのか?」
「ハッ、いつも空いております」
二人が普段着に着替えて階下の珍味楼へ行った。
「イワノフ、明日朝ここを出る。身辺が危険になった」
「どこへ引っ越すの?」
「決めてないがホテルは危ないな」
「キタイスカヤに来る?」
「ロシア人街じゃないの?」と磯村が言った。
「ルテナント・イソムラ、キタイスカヤのロシア人はスターリンの民族浄化から逃げてきた人たちよ。日本人を歓迎してくれる。ソ連は共通の敵なのよ」
「じゃあ、そうしよう。明日ハイヤーで迎えに来てくれ」
6
九月二十七日になった。ポプラの葉がすっかり落ちて木が裸になっていた。
「このひと、アレクサンダーさんです。この街の世話役つまりボスです」
「ドブラエ・ウートラ、アレックスさん」と長谷川が挨拶した。
「カピタン・ハセガワ、この街はあなたたちを歓迎します。住んでみると判ります。面白い人々ですよ」
「ところで何処に住めば良いと思います?」
「私の館です。警備員もいます」
「アレックスさんは銀行家ナノヨ」
「すると、この館の部屋を借りられると?」
「そうです。条件が一つあります」
「なんでしょうか?」
「家賃を払わないでください」
「エエ~?」
「長谷川さん、あなたたち日本人は私たちの保護者ですから。島原領事さんに恩がある人がほとんどです。イワノフさんもそのひとりです」
「警備員の方たちは信用出来ますか?」
「血縁です」
それで決まった。中庭の泉水の横を通って部屋を見に行った。二階でバルコニーがある。居間はダンスが出来るほど広かった。アメリカ製の冷蔵庫まである。ベッドルームは二つで風呂が一つだが大理石で出来ていてこれも大きい。
「メシですが、この街は何でも揃っています。日本人街もあるんです」これを訊いた磯村が喜んだ。どうも龍門大厦は自分には豪華過ぎた、、所詮、俺は田舎者、、
「では、早速、日本メシを食おう」四人は歩いて日本町に行った。和服の日本婦人が日傘をさして歩いていた。その白い足袋と下駄が懐かしかった。割烹料理・博多屋という看板が目に入った。
「ココヤスイシ、オイシイヨ」とイワノフが熊のように下唇を舐めていた。暖簾を分けて入った。
「いらっしゃませ」と長谷川を日本人と見た女将が笑っていた。イワノフと知り合いのようである。
汽車の座席のような小部屋に招かれた。
「ウラン、拳闘どうなの?」と女将がウランに話しかけた。来週の日曜日にあるけど、対戦相手に賭けるようにと言った。
「それ八百長か?」と長谷川がウランを見た。
「いえいえ、対戦相手は六戦無敗、倒れても起き上がる。まだKOを食っていないから」
磯村が献立を見ていた。
「女将さん、夏の料理は出来る?」
「あら、博多の夏ほど美味いものがある町はないのよ。あなた九州訛りがあるわね」と男前の磯村が気に入ったようだ。
「小倉生まれだ」
「それじゃさ、お任せにしてくれる?私の亭主が料理長」と笑った。
熱燗とともにカツオのタタキがすぐに出た。手羽の塩ヤキ~カボチャと茄子の煮つけ~明太子~京都のスグキと酒の肴が並んだ。
お任せが出た。だが、旦那芸だった。どれも九州の田舎で食える家庭料理なのだ。磯村がハッピーな理由がそこにあった。イワノフは鯖の味噌煮が気に入っていた。銀シャリも美味かった。だが、長谷川が手を合わせると、ウランまで銀シャリを拝んだのだ。勘定を払った。
「これ、ずいぶん安いですね」
「これからこの店が俺たちの食堂だ」と長谷川が立ち上がった。
アレックスの館の部屋に戻ると磯村が部屋のデザインを写真に撮って回った。それが終わると電信機を箱から取り出した。
「少尉、ここでは使うな」
「はあ、自分もそう考えておりました」
「これからは、緊急でない限り、領事館の電信機を使う。ところで明日、平房へ行く」
「金岡の移送の件ですね?」
「そうだ。GPUと撃ち合いになるだろう」
磯村が、サイドカーの狙撃チームを想い出して「ぞ~」とした。――苗族でも何でもいいからここを逃げ出したいと思った。
「明日の朝、山中さんが迎えに来るって言ってました」
「イワノフが伝えているから。ところで、このべッド大きいね」
「日本人なら三人は寝られますね」
「少尉、寝るぞ」と言うや否や鼾を掻きだした。磯村が長谷川に毛布を掛けた。
続く、、
第十二章
1
唐人街のアパートから二人の男が出てきた。朝の六時である。ひとりは、がっしりした体格で、もうひとりは、痩せて背が高い男である。山中武官が運転するダットサンの中から長谷川と磯村が見ていた。山中がダットサンを発進させて、ふたりを追い越した。ふたりより先に運送屋に行く為だ。運送屋の場所はイワノフの写真で知っていたのである。運送屋の横道に曲がって車のエンジンを切った。二人の男が現れた。間違いなく、金岡と鶴田である。鶴田は白い野球帽を被っている。三十分ほどすると、木炭トラック一台が出てきた。金岡だ。そのあとに白い野球帽の運転するトラックが続いた。山中が横に座っている長谷川を見た。長谷川が頷いた。磯村はまるで遠足にでも行くようにカメラを持っている。
「少尉、南部を持つべきだろ?」と長谷川が笑った。
鶴田と金岡が別れた。鶴田は馬家溝河(まちゃこかわ)の土手に向かっている。
「ああ、野菜市場へ行くんだな」と山中が言った。
「それは好都合だ。さて、どこで待ち伏せるかだ」
「鶴田はハルピン市街のホテルに配達しているらしい」
「市街に入ってからでは人目があります」
「さっき、左上というか花松江に続く曲がり角があった。そこがいいな」
「じゃあ、そこで待っていましょう」
一時間すると木炭トラックの音が聞こえた。運転台に白い野球帽が見える。プ~プ~とクラクションを鳴らしてダットサンの横を通り抜けて行った。山中が発進した。野菜を満載して、のろのろと走っていたトラックを通り越してから前に回った。そして、スピードを極度に落とした。鶴田がクラクションを立て続けに鳴らした。アタマに来たようだ。長谷川が窓を開けた。その手にスミス・ウエッソンを握っている。「エエ~?」と磯村が叫んだ。長谷川がトラックのラジエーターを狙って三発撃った。銃身が短いピストルは発射音が大きいのだ。驚いた鶴田がハンドルを左に切った。畑に突っ込んでトラックが横転した。西瓜~キュウリ~キャベツ~玉ねぎ~チンゲン菜~トウモロコシ~カボチャが散らばった。鶴田が這って出てきた。野球帽は、どっかへ飛ばしてしまったのか真ん中の毛がそっくり禿げた頭が見えた。そこへ通りかかった乗用車が停まった。若い男女が乗っている。長谷川が一発、空に向かって撃った。乗用車は急発進して土煙を上げて走っていった。鶴田をみると両手を上げていた。山中が鶴田を後部座席に放り込んだ。鶴田は憲兵服の磯村に睨まれて「ひゃあ」と叫んだ。
「憲兵だ」と磯村が鶴田を脅した。男が小便を漏らした。
領事館の向かいの憲兵隊の門を入った。警備兵は敬礼をしただけである。山中が前日、伝えていたからだ。四人が取調べ室に入った。
「鶴田、便所へ行きたいか?ここで脱糞されると困る」と山中が訊いた。――大丈夫ですと答えた。
鶴田の両側に二人の憲兵が銃剣を持って立っている。鶴田が怖そうに銃剣を見た。憲兵が銃剣を「ガチャ」と鳴らした。
「ひゃ~」と鶴田が叫んだ。誰も笑わなかった。
「キサマは、鶴田亀正だな?」長谷川が尋問を始めた。鶴田が気絶するんじゃないかと思うほど青くなっていた。長谷川が磯村に――水をやれと手で合図した。すべて長谷川が仕組んだ芝居であった。
「はい、鶴田です。勘弁してください」
「何を勘弁して貰いたいのかね?」
「金岡と付き合っていることです」
「付き合いが何か悪いのかね?」
「はい。金岡は、ロシアからカネを貰っているようです。どうか私を処刑しないでください」と、鶴田が、おいおいと泣き出した。聞くとどうも鶴田は、官製開拓団で満州へ渡ったらしい。妻子は、鳥西にいると言う。現金が不足なので自分はハルピンへ出稼ぎにきたのだと言うのだ。
「それでは取引をしようか」と鶴田に言った。鶴田の顔に希望の光がさした。なんでもやってここを逃げて妻子の元へ帰りたい、、
「なんでしょうか?」
「金岡をキタイスカヤ街のモッコバ賭博場へ誘え。それだけだ」
「モッコバですか、知ってますよ。配達しますんで」
「いつ呼び出せるのか?」
「明日、九月九日、重陽の節句なんです。野菜市場は休日なんですよ。明日の夜八時ではどうでしょうか?実は金岡は博打が好きなんですよ」
「知ってるよ」
2
長谷川と磯村は夕方まで領事館で大連憲兵調査官が送ってきた資料を精査していた。
「あんまり大したことないね」と磯村を安心させていた。インド象が入ってきた。
「君たち昼飯はどうする?」
「山中さんにこないだの幕内弁当を頼みたいのですが」
「忙しいんだね」
「ええ、あまりご心配は必要ないようですよ。駐在員には容疑者は皆無です」
「余計なことだが、カレンはどうしている?」
長谷川が双子の写真を胸のポケットから取り出した。カレンが男の子を両腕に抱いていた。インド象が長谷川の顔を見ていた。
「うん、お祝をせんといかんな」と言った。
「島原閣下、こないだ盛大にやったんであります」と磯村が言った。
「少尉、余計なことを言うな」と長谷川が言うと磯村が首を竦めた。そして、鶴田を捕獲したときの写真を領事に見せた。
「ひどいなこれ」とインド象が笑った。
「こいつがカネオカなの?」
「いいえ、カネオカのルームメイトなんです」
「カネオカを逮捕するのかね?」
「わかりません。カネオカは手ごわいです。追い込めば、死にもの狂いで噛みつくでしょう」
そこへ山中が入ってきた。
「ああ、幕の内ですね。領事さんもですか?」
「僕をのけ者にするなよ」と島原が笑った。
弁当を食った後も作業を続けた。ふたりは、日記を取り出して、七月二十五日のページを開いた。三時になった。山中がハイヤーを頼んだ。ふたりは龍門大厦に戻った。イワノフが迎えに来るまで寝るためである。長谷川は、部屋に入ると歯を磨いてから、鼻の短いスミス・ウエッソンを机の上において油を差した。クリップにスナッグとニックネームの着いた九ミリ弾丸を装填した。
「少尉、君は、拳銃は要らん。ハンザ・キャノンだけだ」
「ハッ、僕は頼りないですから」
「いや、そうじゃない。イワノフとウランが来るから大勢で暴れると却って危ないんだ。拳銃は俺だけだ。それに証拠の写真は大事なんだ」
「じゃあ、寝よう」と長谷川が言うと、越中一つになり、ベッドに転がって寝てしまった。磯村も歯を磨いて寝た。
長谷川の腕時計が鳴った。がばっと起きると、磯村はすでに起きてシャワーを浴びていた。長谷川もシャワーを浴びた。部屋に戻って支那服を着た。スミス・ウエッソンを胸のケースに入れて、両手で髪を撫でた。磯村も支那服を着て、ハンザ・キャノンを首に下げていた。二人は刺繍のある絹の靴を履くとロビーに降りた。イワノフがロビーに入ってきた。外で山中とウランがダットサンで待っていた。イワノフが山中の横に乗り、三人は後席に座った。五人がキタイスカヤ街に向かった。
3
カジノに着くと問題が発生した、それは金岡がもう一人の男と現れたからである。男は明らかに朝鮮人である。さらに男は首が太く手足が屈強であった。用心棒?長谷川がイワノフを見るとウインクして見せた。ウランの顔にはなんの変化もない。修羅場をくぐって生きた人間なのだ。磯村の心臓の動悸が激しくなっていた。カメラを見られないように支那服で覆った。長谷川が磯村に米ドルを五十ドル渡した。アメリカのクラップゲームだ。サイコロを投げて賭けるという単純なギャンブルである。ただ、磯村平助はサイコロを投げる技術をヤクザな父親から習った。目の出方も習っていた。サイコロには一定の法則があるのだ。ロシア人や満人のプレイヤーがテーブルを囲んでいた。磯村がサイコロを投げた。投げ手が満人に代わった。磯村は小さい金額を賭けては負け続けた。投げ手が一巡して再び磯村がサイコロを握った。――磯村はサイコロのど素人だとカネオカが十円張った。観衆が驚きの声を漏らした。磯村がサイコロを投げた。カネオカが勝った。今度は勝ったカネオカの番だ。磯村は小さく賭けては負けた。長谷川は、ず~と勝っていた。イワノフは太ったロシア女を捕まえてバーで飲んでいた。ウランは磯村の後ろでラムネを飲んでいた。磯村が長谷川にウインクした。長谷川が五円張った。カネオカが目を見張った。磯村も五円張った。胴元まで驚いた。雰囲気が一気に緊張した。カネオカがその太い腕をまくってサイコロを投げた。五六のイレブン。カネオカがまた勝ったのだ。
「サシでやろう」と磯村が日本語で言った。
「オマエ、日本人か?賭け金十円ならね」
「OK。だが、サイコロを投げるのは交代だ」
見ていたギャンブラーはこんな大金を賭ける勝負を見たことがない。カネオカが投げた。
「スリー」カネオカが負けた。磯村が二つのサイコロを握った。柔らかくポンと空中に円を描くように投げた。サイコロが壁に当たって壁際で止まった。
「セブン」とデイラーが叫んだ。磯村が勝った。カネオカが二十円立て続けに負けたので逆上した。
「オマエ、二十円でどうだ?カネあるのか?」
「いいよ」
カネオカが投げた。イチイチのゾロ目であった。
「クラップ・アウト!」とデイラーがカネオカの二十円をステッキで磯村の手元に掻き寄せた。カネオカが怒り狂った。
「三十円でどうだ?」
「OK」
磯村がサイコロを手から飛び出すように投げた。サイコロのひとつがフェルトの壁に当たって五が出た。だが、もうひとつは壁に当たってからパスラインの上でクルクルとコマのように回っている。六が出た。
「イレブン」とカネを集めるデイラーが叫んだ。カネオカがストレート負けしたのである。金岡が太い首をひねっていた。
「オマエ、いかさま師だろ」
「いかさまタアなんだ」と磯村が言うと金岡が跳びかかってきた。右手で磯村の首を掴んだ。イワノフがいつの間にか磯村の左横にきていた。金岡の右手を野球のグローブのような手で捕まえた。カネオカがイワノフを見た。カネオカの右肩の骨が外れた。用心棒がイワノフをナイフで刺そうとしていた。それを見たウランの右ストレートが用心棒の顔面に飛んだ。激痛に続いて脳震盪を起こしたが立ち直ると、今度はウランを刺そうとした。その瞬間、スミス・ウエッソンの弾ける音がした。男のこめかみから血が噴き出した。巨漢が崩れるように床に倒れた。それを見たカネオカが左手を高く上げた。
「俺たちは日本の憲兵だ」と長谷川がピストルを胸に下げた革のホルスターに入れた。観衆が沈黙した。外に出ると幌の掛かったトラックが停まっていた。用心棒の死体を憲兵が二台に放り込んだ。イワノフとウランが、山中が運転する憲兵隊のダッジに乗り込んだ。磯村が――後部座席に乗れとカネオカに顎をしゃくった。カネオカは長谷川と磯村の間に座った。朝鮮人レスラーの目が虚ろになっていた。憲兵司令部に着いた。憲兵が飛んで来た。カネオカを留置場へ連れて行った。
「アア、ハラヘッタ」とイワノフが言った。
「山中さん、この時間だとトトロしかないな。電話して聞いてくれる?」と長谷川が言うとイワノフの顔がほころんだ。
いつもの個室でなくフロアの前のテーブルに着いた。イワノフが料理を選んだ。山中が飲み物を選んだ。
「ところで少尉、写真は撮れたか?」
「いいえ。サイコロを振ってましたので、一枚も撮れませんでした」と磯村が言うと長谷川が笑った。山中は用心棒の死体を見ただけで青ざめていた。給仕が持ってきた泡立つハーピーを一気に飲んで吐息をついた。
4
九月十六日の朝九時に金岡旭の尋問が始まった。長谷川と金岡が机で向かい合っていた。壁際に大連憲兵調査官がノートを持って座っていた。金岡は右腕を包帯で太い首から釣っていた。よく見ると金岡は知的な顔をした男である。だがその細い目がせわしなく動いている。どうやって逃れようかと思っているのである。磯村がふたつ茶を入れて机の上に置いた。金岡の後ろに憲兵が銃剣を持って立っている。金岡が振り向いて、たじろぐのが見えた。自分の弟を射殺した長谷川を睨んだ。
「君は金岡旭だね?」
「そうだ」
「ハイ、そうですと言え」と憲兵が金岡の椅子を蹴った。長谷川が指を立てて憲兵を退出させた。金岡が今度は磯村を見た。磯村が南部を肩のホルスターに下げているのが見えた。
「君は、元札幌の荒川新世界塾の塾生だった。荒川熊蔵と面識はあるか?」
「あります。だが、深い教師と弟子の関係ではありません。自分は朝鮮人ですから信用されないのです」と金岡は答えたが、長谷川が瞬きもせず自分を直視しているその黒い瞳を見て膝に置いている手が震えた。――憲兵はそうとう自分を調べたと確信があった。そして長谷川の次の一声に青くなった。
「キサマはソ連沿岸州と通信をしている。最近では先週だが、誰と通信したのか話せるか?」
「いえ、そのような通信は全くしていません。何かその証拠があるのですか?」
金岡がぞんざいなクチをきいた。長谷川は金岡の質問に答えず続けた。
「東京の誰と通信しているのかね?」この質問をどうかわすか金岡が惑う様子が見えた。
「誰も東京に知人はいませんので」
長谷川が一呼吸おいて茶を飲んだ。湯呑茶椀を置くと金岡を見据えた。
「尾崎秀美を知っているか?」
巨漢の体が震えるのが見えた。金岡にとっては死ぬか生きるかの瀬戸際だからである。
「尾崎さん?近衛内閣特別顧問の位置にある重要人物が私のような朝鮮人とは付き合うわけがありませんよ」だが、金岡の震えが止まらない。
「ハハハ、あのね、君にいつ私が尾崎秀美は近衛内閣の特別顧問と言ったかね?」
金岡が真っ青になった。
「金岡旭さん、私は軍令憲兵だ。憲兵さんらよりも少々権力がある。君を絞首刑にするのを避けたい。だが、今日の供述は君にそうとう不利だよ」
「あなたは私を必ず死刑にする。昨夜は私のたったひとりの弟を殺した。自分は生涯ひとりぼっちになった。さあ、殺せ!」と喚いた。長谷川が立ち上がった。憲兵が戻って来て金岡を連れて行った。長谷川が大連の調査官ふたりと磯村を手でまねいた。
「長谷川大尉殿、これで迷宮入りでしょうか?」と年上の調査官が訊いた。
「いいえ、スタートラインに着いたばかりです。金岡は死を覚悟している。黙秘を続けるでしょう。つぎの手を考えます」と言うと調査官たちが安堵の息をついた。四人が向かいの領事館に歩いて行った。インド象に報告するためだ。山中武官が窓際で通りを見ると長谷川たちが歩道を渡るのが見えた。
「二時間ばかり、調査官さんたちと話があります。山中さん、牛丼の弁当をお願します」そこへ島原領事の巨躯が現れた。全員が立ち上がって頭を下げた。島原は金岡の尋問を聞いて暗い表情になった。近衛内閣を心配したのである。牛丼を食い、つぎの手を話し合った。
「これだと、在満州邦人の共産活動は大したことがないように思う」
「自分もそう思います」と長谷川が言った。
「金岡はどうなります?」
「GPUの工作員が口封じに金岡を殺すでしょう」
「どこで殺しますか?」
「東京に移送するときだと思います」
「大連には何も出来ませんが?」
「ハルピンのソ連の諜報やGPUと戦うのは自分の任務です」
聞いた磯村が「桜三号は長谷川大尉だ」と確信した。――自分がここで死んだら春燕と自分の子供はどうする?今日にでも、あるたけの米ドルを送金するほかない、、
「大尉殿、それでは、われわれは大連へ戻ります」と調査官が立ち上がって敬礼をした。
5
「大尉殿、僕は春燕に米ドルを送金したいのですが、方法が分かりません。助けてください」
「少尉、今いくら持っているのかね?」
「五十ドルです。貯金はありません」と磯村が言うと、長谷川がポケットに手を突っ込んだ。
「これね。昨夜のサイコロで勝った金岡のカネだ。君に五十円上げる。春燕には、その五十ドルを送れ。送金は上海領事館の岸田武官に依頼する」
磯村が将校カバンを開けて、五十ドルを長谷川に渡した。――ああ、自分は兵隊に向かないと平助が泣きそうになっていた。
「少尉、もうすぐ八月だが、ホロンバイルが燻ぶり出した。ここ二か月ほどで、大いくさが始まる」
「弟さんは大丈夫でしょうか?」
「鮎二はしぶとい。生き残るだろう」
島原が入ってきた。
「金岡を東京に移送すると平房の憲兵司令部が言ってきたよ」
「領事さん、僕が平房へ出向きます。すぐに移送したいのはわかりますが待つように言ってください。僕はそう簡単ではないと思っています」
ふたりがインド象に敬礼をした。
「山中君に送って貰えるが?」
「いえ、少し歩いて考えたいのであります」と領事館をあとにした。外に出ると、どんよりと曇っていた。西風の中に雨を感じた。二人は聖ソフィア教会へ向かっていた。一時間歩いた。長谷川がロダンの考える人のように沈思黙考していた。磯村はハンザ・キャノンで景色を取っている。聖ソフィア教会の緑色のキューポラが遠くに見えた。
「大尉殿、ちょっと待ってください。この景色は絵になります」と望遠レンズを付けた。磯村がファインダーを覗いた。シャッターを切ろうとすると、ファインダーの中にサイドカーが角を曲がってこっちへ走ってくるのが見えた。磯村が焦点を合わせた。ゴンドラに乗った男が鉄兜を被っているのがはっきり見えた。距離は七百メートル、、
「大尉殿、我々は銃撃されます」と言うやいなや、サイドカーの音に気が着いていた長谷川が南部を引き抜いた。新型の南部拳銃は銃身が長くなっているが、射程距離三十メートルが限界だ。レンガ造りの建物が続いていて横道がない。
「少尉、木の陰に伏せろ」と長谷川が言ったとき、空を割くような雷が鳴った。雨が降り始めた。サイドカーが三百メートルで停まった。ゴンドラの男が小銃をこちらへ合わせている、――狙撃兵だ、、長谷川の心臓の動悸が激しくなった。――俺を狙っている、、
「ぱ~ん」と男が撃ったがポプラの枝に当たって砕けただけだ。サイドカーが時速十キロぐらいで迫ってくる。そして百メートルで停まった。――万事休す、、
「ぽ~ん」と違う発砲音が聞こえた。運転をしていた男が路上に転げ落ちた。狙撃手が動顛する様子が見えた。狙撃手が路上に飛び降りて腹這いになった。
「ぽ~ん」ともう一発鳴った。狙撃手のアタマが地面に付くのが見えた。
発砲音だが、四階建てのビルの屋上から聞こえた。長谷川が見上げると、イワノフが手を振っているではないか。二人が立ち上がって歩いて行くとサイドカーの周りに野次馬が集まっていた。イワノフとウランが降りてきた。イワノフが鉄兜の狙撃手をゴンドラから引きずり出して自分が乗り込んだ。ウランが跨ってエンジンを始動した。
「カピタン、メシクワセ。ハハハハ」と言って走り出した。磯村がハイヤーを止めた。ハイヤーが走り去ろうとした。磯村が南部を空に向かって撃った。ハイヤーが停まった。
ふたりが雷雨の中を龍門大厦に戻った。
「少尉、考えていた手を忘れてしまったよ」
「GPUを二人殺してタダでは済まないでしょう?」
「あたりまえだよ。露助は必ず報復する」
「龍門大厦も危ない?」
「引っ越す考えだ。風呂へ入ろうや」と長谷川がフンドシ一つになって手拭いを持って風呂へ行った。この最上階の部屋には二人用の風呂がついていた。磯村も越中一つになった。風呂から上がると、フロントから電話があった。ハルピンの憲兵本部じゃないかと受話器を取った。
「カピタン、ハラヘッタ、メシクワセ」とイワノフだった。長谷川が吹きだした。
「命の恩人だよ。磯村、君も腹空いてるのか?」
「ハッ、いつも空いております」
二人が普段着に着替えて階下の珍味楼へ行った。
「イワノフ、明日朝ここを出る。身辺が危険になった」
「どこへ引っ越すの?」
「決めてないがホテルは危ないな」
「キタイスカヤに来る?」
「ロシア人街じゃないの?」と磯村が言った。
「ルテナント・イソムラ、キタイスカヤのロシア人はスターリンの民族浄化から逃げてきた人たちよ。日本人を歓迎してくれる。ソ連は共通の敵なのよ」
「じゃあ、そうしよう。明日ハイヤーで迎えに来てくれ」
6
九月二十七日になった。ポプラの葉がすっかり落ちて木が裸になっていた。
「このひと、アレクサンダーさんです。この街の世話役つまりボスです」
「ドブラエ・ウートラ、アレックスさん」と長谷川が挨拶した。
「カピタン・ハセガワ、この街はあなたたちを歓迎します。住んでみると判ります。面白い人々ですよ」
「ところで何処に住めば良いと思います?」
「私の館です。警備員もいます」
「アレックスさんは銀行家ナノヨ」
「すると、この館の部屋を借りられると?」
「そうです。条件が一つあります」
「なんでしょうか?」
「家賃を払わないでください」
「エエ~?」
「長谷川さん、あなたたち日本人は私たちの保護者ですから。島原領事さんに恩がある人がほとんどです。イワノフさんもそのひとりです」
「警備員の方たちは信用出来ますか?」
「血縁です」
それで決まった。中庭の泉水の横を通って部屋を見に行った。二階でバルコニーがある。居間はダンスが出来るほど広かった。アメリカ製の冷蔵庫まである。ベッドルームは二つで風呂が一つだが大理石で出来ていてこれも大きい。
「メシですが、この街は何でも揃っています。日本人街もあるんです」これを訊いた磯村が喜んだ。どうも龍門大厦は自分には豪華過ぎた、、所詮、俺は田舎者、、
「では、早速、日本メシを食おう」四人は歩いて日本町に行った。和服の日本婦人が日傘をさして歩いていた。その白い足袋と下駄が懐かしかった。割烹料理・博多屋という看板が目に入った。
「ココヤスイシ、オイシイヨ」とイワノフが熊のように下唇を舐めていた。暖簾を分けて入った。
「いらっしゃませ」と長谷川を日本人と見た女将が笑っていた。イワノフと知り合いのようである。
汽車の座席のような小部屋に招かれた。
「ウラン、拳闘どうなの?」と女将がウランに話しかけた。来週の日曜日にあるけど、対戦相手に賭けるようにと言った。
「それ八百長か?」と長谷川がウランを見た。
「いえいえ、対戦相手は六戦無敗、倒れても起き上がる。まだKOを食っていないから」
磯村が献立を見ていた。
「女将さん、夏の料理は出来る?」
「あら、博多の夏ほど美味いものがある町はないのよ。あなた九州訛りがあるわね」と男前の磯村が気に入ったようだ。
「小倉生まれだ」
「それじゃさ、お任せにしてくれる?私の亭主が料理長」と笑った。
熱燗とともにカツオのタタキがすぐに出た。手羽の塩ヤキ~カボチャと茄子の煮つけ~明太子~京都のスグキと酒の肴が並んだ。
お任せが出た。だが、旦那芸だった。どれも九州の田舎で食える家庭料理なのだ。磯村がハッピーな理由がそこにあった。イワノフは鯖の味噌煮が気に入っていた。銀シャリも美味かった。だが、長谷川が手を合わせると、ウランまで銀シャリを拝んだのだ。勘定を払った。
「これ、ずいぶん安いですね」
「これからこの店が俺たちの食堂だ」と長谷川が立ち上がった。
アレックスの館の部屋に戻ると磯村が部屋のデザインを写真に撮って回った。それが終わると電信機を箱から取り出した。
「少尉、ここでは使うな」
「はあ、自分もそう考えておりました」
「これからは、緊急でない限り、領事館の電信機を使う。ところで明日、平房へ行く」
「金岡の移送の件ですね?」
「そうだ。GPUと撃ち合いになるだろう」
磯村が、サイドカーの狙撃チームを想い出して「ぞ~」とした。――苗族でも何でもいいからここを逃げ出したいと思った。
「明日の朝、山中さんが迎えに来るって言ってました」
「イワノフが伝えているから。ところで、このべッド大きいね」
「日本人なら三人は寝られますね」
「少尉、寝るぞ」と言うや否や鼾を掻きだした。磯村が長谷川に毛布を掛けた。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第十一章
1
ふたりは大連駅から特急アジア号に乗った。新京まで奉天で停車するだけである。新京に着くのは夕刻の四時である。七百キロの距離を八時間で着くのである。ふたりがドアの着いた個室に案内された。磯村が木箱を肩に担いでいた。それを膝の間におろした。アジア号が汽笛を鳴らして発車した。広軌なのでゆれない。座席が広く白いシーツがかけてあり重役室のようなのだ。磯村平助がはしゃいでいた。長谷川は窓外の景色を見ていたが、何かを深く考えていた。
二人一組の女給が台車を押して点心を売りにきた。磯村が、蒸し器に入った餃子や鶏肉骨団子を指さしていた。女給の日本語が怪しい。
「この娘たちは日本人じゃないね?」と磯村が切符を切りにやってきた車掌に訊いた。
「はい、この胡娘たちは満州国国民なのです」と磯村を嗜めるように言った。磯村が――ああ、そうだったという顔をしていた。
点心を食べ終わった磯村が長谷川を見た。
「大尉殿は、社会主義者をどう思われますか?」と勇気を絞って訊いた。性格の優しい長谷川の思想を聞きたかった。
「俺は哲学や思想に関心がなかった。だが満州を歩いていると、そんな甘い考えでは任務を果たせないことが判った。俺も飛鳥参謀に訊いたよ。飛鳥少佐の答えは明快だった」
――日本は天皇を中心とする七千万人の一家だ。一民族一言語の血族だ。仏教が地に着いた宗教である。さらに四方を海に囲まれた島国である。神道は自然神である。社会主義者はその価値を認めないのだよ。つまりマルキシストは天皇を認めないわけだ。宗教さえも認めないのだ。ただ、平等に働いて平等に食おうとね。ところが、天はそんな社会を認めない。つまり宗教のない国家などないわけだ。ロシアの宗教であるオーソドックス・キリスト教会にはキリストの教えなどない。坊主が煙を振り回す儀式だけだ。人間には自由を求める権利がある。宗教の自由を認めないとなると民衆の暴動が起きる。そこで、スターリンのような粛清による恐怖政治が行われる。共産主義を認めると皇国日本は崩壊する。
「はあ、霧が晴れるようによくわかります」と磯村が合掌した。
「君は仏教をどう思う?」
「日本に帰国したら帰依する考えであります」
2
ふたりは憲兵宿舎に泊まった。兵隊食堂に行くと浜中大佐が士官たちと話をしていた。長谷川と磯村を見ると手招いた。ふたりが敬礼した。
「もう大連の憲兵司令部から報告があった。報告は要らんが君たちはこれからどうするのか?」
「ハッ、明日の昼にハルピンへ戻りたく思います。ノモンハンも気になりますが、この合作社事件はまだ終わっていないのであります」
「明日、平房行きの貨物機の予定はあるのか?」と浜中が部下に訊いた。真昼にある。席もあるという返事だった。
「長谷川君、事件は終わっていないという理由を聞かせてくれ」
「憲兵隊は被検挙者の中からスパイ組織を作って在満日本人の動向を探らせることが必要なのです」
「ほう。そのスパイたちが面従腹背ならどうする?」
「それはすぐ判ります。裏切る者は徴兵して北満州の国境か東満州へ飛ばす考えであります。虎頭要塞の建設現場とかです」
「そのスパイ組織を君には出来ないのかね?」
「出来ますが、それは満鉄本社を管轄する大連憲兵司令部のお仕事だと思います」
「わかった。明日。大連から士官を呼ぶ。ご苦労であった」と浜中が頭を下げた。これには食堂に集っていた士官たちが驚いた。夕飯を兵隊と食い宿舎へ帰って風呂に入った。長谷川が頭に手拭いを乗せていた。
「少尉、ご褒美に陸王をくれというべきだったね」と笑った。
「大尉殿、お背中を洗わせてください」
「うん、ありがとう。君も洗ってあげよう」
3
二人が平房に戻った。まだ三時だった。三国憲兵司令官は――もう新京から聞いたよと言って休むように長谷川の肩に手を乗せた。
「司令官殿、車を出してください。一刻も早く島原領事に報告したいのであります」
「よし」と言って書類をめくっている士官を手招いた。
ふたりが領事館に入った。山中武官が出迎えた。
「山中さん、例の蓄音機が届いたよ」
「日本ビクターは日米合資なんです。東京から憲兵を送って脅しましたから」
長谷川が呆れていた。インド象は執務室にいた。
「ずいぶん、早く終わったんだね」
長谷川が、大連憲兵司令部がスパイを組織するというと島原の目が大きくなった。
「やはり、そうか。在満州邦人の共産主義活動というのは、このハルピンの邦人だろう」
「憲兵の調査が始まると逃げ出します。いずれ捕まりますが、まずは、活動を全滅させることです」
「ソ連の工作員が出てくるね」
「これは捕まえると面倒なのです」
「ではどうする?」
「暗殺します」
磯村は嫌な予感がした。
「君たちは今からどうする?」
「トトロでメシを食ってから龍門大厦に戻ります」
「山中君、行ってくれんかね?君も今日は帰りたまえ」とインド象が山中に頼んだ。ふたりが領事に頭を下げた。
「ああ、そうそう、留守中に手紙が着いている」と領事は引き出しを開けて、長谷川に二通。磯村にも二通を渡した。二人は上着の内ポケットに入れた。洗面所へ行って背広に着替えた。
トトロの亭主が笑いながら、いつもの個室に案内した。イワノフは来ているはずだ。長谷川はもう慣れていた。
「ドブラエ、ウートラ」と夕方だのに「おはようさん」という声がした。もちろん、イワノフとウランだ。一ワインのボトルが空になっていた。
「カピタン、今夜八時に、ボクたち拳闘の試合がある。カピタン、ルテナント・イソムラ来る?」
「いや、イワノフ、行きたいけどね。俺たちは疲れている。ただ。明日は日曜日だが、昼にでも龍門大厦に来てくれないか?メシを一緒に食おう」
「カピタン、食いに行きます。何でも食うよ」
「ちょっと頼みがある」
アコーデオンが「さあ、ダンスの時間だ」とばかりに「ブワ~」と鳴った。イワノフが飛び出して行った。
「曲も判らないのに、どうしてイワノフは飛んで行ったの?」と山中がウランに訊いたがボクサーは笑っていた。
「ウラン、今夜の試合は勝てる相手か?」と磯村が訊いたがウランは首を振った。フロアではウラル地方のスクエアダンスが始まっていた。イワノフの相手はいつか見たことがあるドーチである。前掛けをした山の娘という感じだ。ふたりが顔を真っ赤にして踊っている。一曲踊るとイワノフがドーチの頬にキッスした。そしてウランと出て行った。山中と別れた長谷川と磯村は龍門大厦に歩いて行った。部屋をチェックすると、長椅子に座って日記を書いた。七月十一日になっていた。最後にカレンから手紙が届いたのは六月の四日である。それから、二通の封筒を内ポケットから取出した。磯村を見ると机に向かってやはり二通の封筒を取りだしている。
――道夫さん、ノモンハンは、日本でも大きな記事なのよ。無事にハルピンに戻ったのね。日本はどんどん悪い道に入っていく気がする。あなたは、その最先端にいる。これではあなたは青森に帰ってこれないわね。娘たちが支えてくれているけど、私、この頃よく泣くの、、佐和子
写真が二枚入っていた。娘たちと佐和子~牧場。ミチル、十歳~ミチコ五歳~ミチヱは一歳。牧場の柵が新しくなっている。白黒ブチのホルスタインがレンゲ草を食っている。
――私が最も愛するミチオへ、
双子の男の子たち二か月になったわ。体重は二倍になったわ。昨日、寺院でネームが決まったの。上の子が、ベンジャミンで、下の子がモルデカイ。両方ともヘブライの聖書から取ったネームなのよ。私は、ベンとマーチンとアメリカ風に呼んでる。それが定着すると思うわ。ベン・スター~マーチン・スターって響きがいいと思わない?ほとんど同時に生まれたんだけど、一応、兄と弟なの。どっちがどっちか判らないほど似ているのよ。仕方がないから、赤い線が襟に入ったほうが兄ちゃんで、青い線が弟なの。ちょっと兵隊の襟章(笑い)なのよ。ところで、アメリカは映画全盛期なのよ。昨日、同僚と「風と共に去りぬ」っていう映画を観たの。何度も観たくなるのよ。ミチオと一緒に観たかったわ。カレン・スター
やはり写真が入っていた。ネームを付ける儀式を坊さんがやっていた。双子を抱いたカレンが写っている。細かったカレンが、双子を抱く為か腕が頑丈になっている。長谷川が目頭を押さえるのを磯村が見ていた。
「別府は大丈夫か?」と長谷川が磯村に訊いた。
「ハッ、妹が妊娠したようであります」
「子供が増えているなあ」と長谷川が笑っていた。
「春燕のおなかが大きくなっております」と磯村が写真を見せた。エクボの春燕が西瓜のようなおなかを両手で持って笑っていた。――結局、この世は女が勝つと長谷川が思った。
日曜日の朝、窓を開けると爽やかな風が松花江の方角から部屋に入って来た。サイドカーが宣化街の角を曲がるのが見えた。フロントから電話が入った。イワノフとウランが昼きっかりに龍門大厦にやってきた。ウランの目に痣が出来ていて、鼻に絆創膏を貼っていた。――ファーストラウンドでノック・アウトされたと笑っていた。
「でもおカネもらったよ」とイワノフまで笑っていた。
四人が階下の珍味楼へ行った。昼飯時だのにガラガラで、ウエイターが十人用の円卓に招いた。
「王さん、今日は、三割増しではありません」と笑った。長谷川がイワノフとウランにメニューを渡した。
「ボクたち、こんな豪華な中華料理を食うカネがないよ。伊勢海老を食べてもいい?」
「いいよ」と長谷川が鷹揚に答えた。そして、カレンと双子の写真を見せた。イワノフが涙ぐんだ。だが、伊勢海老はアペタイザーで、牛肉のスープに、四川風子豚の丸焼きを食ったのだ。さすがの磯村も呆れていた。
部屋に戻った。磯村が紅茶を作った。長谷川が、大連憲兵司令部が作る逮捕された日本人の共産主義者のスパイ組織を話し出した。イワノフが目を丸くして聞いていた。
「在満州日本人ってこのハルピンの日本人でしょ?」
「そうだよ」
「大勢いるとは思えないけど、カピタン、ソ連のGPUが出てくるよ」
「GPUは、軍事訓練を受けた殺し屋だ」
「それをボクが殺る?」
「そうだけど、イワノフひとりでは危ない。こっちもチームを作る」
「いつ頃?」
「わからんが、ここ一か月と思っていい」
「ボクらは、日本人で怪しい連中を掴んでいるよ」
「イワノフ、リストをくれ」
「明日、島原領事をまじえて会議をしたいよ」
「ハルピンのGPUは増えているの?」
「ニエット、増えていないよ。ソ連は、今、対ドイツ戦の心配で頭がいっぱいだから」
「それはいいことだね。それじゃ、明日は月曜日。十時に領事館で会おう」
4
「長谷川君、大連憲兵司令部から調査官がふたり来ている。会議に出て貰う」
七人の会議が始まった。山中がイワノフのリストをガリ版で複写して配った。怪しい日本人というのは、ほとんどが満州時報などの記者や教員であった。中には満鉄の調査部職員もいた。これは大学卒業者を意味する。トータルで十七名だった。長谷川が安堵していた。
「満州時報ですが、北海新聞の記者だった佐藤が言うには、北海道や東北の人間が多いのだそうです。まず、記者の出身が知りたいのです。トランプのようにカードを付き合わせて行くと、活動家の鎖が見えるはずです」
「長谷川大尉殿、大連憲兵司令部は逮捕した者からスパイ組織を作るのは出来ても電話の盗聴も罠を仕掛けることも出来ません。ロシア語が絡めばもうダメです」
「あなたも大尉ですね?職能が違うのは当然ですから、あまりご心配をなされぬように」
「お世話になります」とふたりの憲兵調査官が頭を下げた。
「イワノフとウランは島原領事の信頼する部下です。ヘルプしてくれます。ただし、メシに誘わないほうがよいと思います」
「それは何故ですか?」
「この体格をみればお分かりでしょう。クジラのように食いますからね。憲兵の給料では破産確実ですよ」というと大笑いになった。
大連の憲兵たちがほっとしていた。
「このお若いひとは目の周りに黒い痣や鼻柱に絆創膏を貼ってますが?」
「ライト級のボクサーなんですよ」と磯村が言ったので憲兵たちは驚いていた。
「それでは、リストを夫々お持ち帰りになり、今夜勉強して頂きます。その結果を明日また十時に、ここで協議しましょう」とインド象が言って立ち上がった。
「調査官さんたちは、平房基地に宿泊されておられるんですね?」と山中が訊いた。
「そうであります。車も借りて来ました」と若いほうが答えた。そして敬礼すると出て行った。
イワノフ~ウラン~長谷川~磯村は残った。十七名の名簿を睨んでつぎの手を考えていた。
「調査が終わるのを待とう」と長谷川が言った。
「カピタン、ひとりロシア語が分かるのがいるよ。カネオカっていう」
「カネオカ?朝鮮人に思えるが。どうして判った?」
「電信です」
「どこから」
「東京とハバロフスク。二か所と交信している」
「内容は?」
「関東軍特別演習よ」
長谷川の表情が変わった。
「そのカネオカを引っ張り出せるかな?」
「ちょっと考えるから、カピタン、ハラヘッタ、メシクワセ」
「じゃあ、トトロへ行こう。あそこは安全だからね。山中さん、僕らハイヤーで行く。呼んでくれる?」
トトロの亭主が早速、ワインを持ってやってきた。長谷川も磯村も飲まなかった。
「どうすれば、カネオカを引っ張り出せる?」
「カピタン、ボクは、カネオカがどこにいて、どういう人間か知らない。尾行して写真撮る。三日は要るよ」
「カネオカの居場所は俺が見つける。職業も判るだろう。そいつ、ひとりとは思われない」
磯村がこれは面白いのかも知れないと日記を付けることにした。
「日本国籍のカネオカが、ソ連と通じているとすれば、絞首刑もあり得る」と長谷川が言うと、一気に興が冷めた。
「カネオカを引っ張るより仲間を脅そうかな」
「カピタン、それはいい案だよ」
亭主と若いドーチが料理を持ってきた。イワノフが立ち上がると、そのドーチにキッスをした。長谷川が見るとフロアで踊っていたドーチではないか。ウクライナ人の亭主が凄い目付きでイワノフを睨んだ。
「私の娘、クララです。まだ、十七歳なんですよ」
「じゃあ、学校へ行ってる?」
「ダ、日本の商業高校へ行ってます。夜は店を手伝っています」
イワノフを見ると、なんだか、畏まっている。ウランを見ると、にやにや笑っている。磯村は合点が行った。イワノフが骨付きの子羊を手に持って食い始めた。長谷川がイワノフは一体、何歳なのだろうと考えていた。
5
三日が経った。イワノフとウランがサイドカーで龍門大厦にやってきた。階下の珍味楼で中華料理の昼飯を食うためである。メシを食う前に部屋にやってきて写真を見せた。ウランがキーパンチの穴が開いたテープをポケットから取り出した。長谷川が顎に手を当てて、テーブルの上に置かれた写真を見ていた。カネオカのバックグラウンドは山中が掴んでいた。写真を見ると明らかに朝鮮人である。体格が良くプロレスラーに見える。イワノフもじっとカネオカの写真を見ていた。
「新聞記者かと思ってたら、トラックの運転手なんですよ」
「知っているよ。函館生まれで、歳は、三十二歳だ。イワノフはいくつなの?」
「ボク、二十八。赤ちゃんよ」
「こんな大きな赤ちゃんがあるもんか」と磯村が笑った。
「すると、イワノフのほうがカネオカより若いわけだ」
「ボクと挌闘したらカネオカ死ぬよ」
「う~む、想像が着くな」
カネオカと痩せた背の高い男が唐人街を歩いている写真があった。
「こいつは誰かな?」
「ツルタというニッポンジン。唐人街の同じアパートに住んでる」
「よし、こいつを脅そう。おれと磯村で充分だ。こいつもトラックの運ちゃんかな?」
「そうよ」
「イワノフ、よくやった。下へ行ってメシ食おう」
珍味楼へ入ると、社長が手を揉み揉み、キャッシャーから立ち上がった。
「王さん、ようこそ、いらっしゃい」と日本語で言った。
「どうして俺たちが日本人だと判った?」
「こないだこわ~い憲兵さんがやってきたよ。部屋を検査されていたので、理由を訊いたよ」
「それで?」
「憲兵隊にとって大事なひとたちだから、口外するな。口外すれば、逆さまに吊るしてやるって脅したのよ。アタシ、体が震えたよ」と社長はまだ震えていた。
「悪かったな。気にするな」
「このロシアの人も恐いよ」とイワノフをみた。
「これね、大きな赤ちゃんなんだ。心配プヨプヨ」と磯村が言ったので、社長が声を出して笑った。
「社長、今日の特別料理を作ってくれ。美味いもん食う度に運が向くようだから」
「じゃあ、コック長オマカセでヨロシイカ?」
シベリアから飛んでくる雁~アムールのチョウザメ~キャビア~川鰻~フカヒレのスープ~山東省の黒豚~イワタケの塊をコック長が押し車に乗せて見せにきた。
「大尉殿、これ凄く高くつきそうですが?」
長谷川が磯村を無視した。信じられない四川料理が出た。イワノフまでが目を丸くしていた。
「叔父さん、ボク、こんなに食べるとヘビー級になってしまう」とウランがこぼした。
「じゃあ、食うな」
「それはないでしょ?」と変な喧嘩をしていた。
「飲み物は何にしますか?」と給仕が訊いた
「真昼間だが、俺は紹興酒」
「ボク、ハーピー」
「ハーピーって?」
「哈爾濱啤酒(ビール)のことよ」
「イワノフ、君はあのドーチに惚れとんのか?」
「うん、ボク夢に見るよ。でも、ドーチのパパが恐いよ」と目を三角にしていた。
「半年待て。その期間にトトロに通うしかない」
四人の男が飲んで食った。食後にパイナップルが出た。長谷川が勘定を給仕に頼んだ。すると社長が出てきた。
「本日は、永らくお贔屓にしてくださったので珍味楼の奢りです」と言った。
「いや、それはいかん」と長谷川が言ったが、中国人の太人は、一旦、言ったことを翻さないのである。
「そうか。それでは、ご馳走さまだった」と言うとみんなが一礼をした。どういうわけか、磯村がニコニコしていた。
続く、、
わが家の庭に赤キツネが、、

わが家の裏庭にグレーの野ウサギの親子が住んでいる。狐が徘徊する理由。銃で撃つことも、罠も禁止されている。「それじゃあ、兎の親子が殺されるけど?」と隣りに言うと、「それが自然の掟なのよ」だとさ。狐のはく製を壁に貼りたかっただけ(笑い)。伊勢
第十一章
1
ふたりは大連駅から特急アジア号に乗った。新京まで奉天で停車するだけである。新京に着くのは夕刻の四時である。七百キロの距離を八時間で着くのである。ふたりがドアの着いた個室に案内された。磯村が木箱を肩に担いでいた。それを膝の間におろした。アジア号が汽笛を鳴らして発車した。広軌なのでゆれない。座席が広く白いシーツがかけてあり重役室のようなのだ。磯村平助がはしゃいでいた。長谷川は窓外の景色を見ていたが、何かを深く考えていた。
二人一組の女給が台車を押して点心を売りにきた。磯村が、蒸し器に入った餃子や鶏肉骨団子を指さしていた。女給の日本語が怪しい。
「この娘たちは日本人じゃないね?」と磯村が切符を切りにやってきた車掌に訊いた。
「はい、この胡娘たちは満州国国民なのです」と磯村を嗜めるように言った。磯村が――ああ、そうだったという顔をしていた。
点心を食べ終わった磯村が長谷川を見た。
「大尉殿は、社会主義者をどう思われますか?」と勇気を絞って訊いた。性格の優しい長谷川の思想を聞きたかった。
「俺は哲学や思想に関心がなかった。だが満州を歩いていると、そんな甘い考えでは任務を果たせないことが判った。俺も飛鳥参謀に訊いたよ。飛鳥少佐の答えは明快だった」
――日本は天皇を中心とする七千万人の一家だ。一民族一言語の血族だ。仏教が地に着いた宗教である。さらに四方を海に囲まれた島国である。神道は自然神である。社会主義者はその価値を認めないのだよ。つまりマルキシストは天皇を認めないわけだ。宗教さえも認めないのだ。ただ、平等に働いて平等に食おうとね。ところが、天はそんな社会を認めない。つまり宗教のない国家などないわけだ。ロシアの宗教であるオーソドックス・キリスト教会にはキリストの教えなどない。坊主が煙を振り回す儀式だけだ。人間には自由を求める権利がある。宗教の自由を認めないとなると民衆の暴動が起きる。そこで、スターリンのような粛清による恐怖政治が行われる。共産主義を認めると皇国日本は崩壊する。
「はあ、霧が晴れるようによくわかります」と磯村が合掌した。
「君は仏教をどう思う?」
「日本に帰国したら帰依する考えであります」
2
ふたりは憲兵宿舎に泊まった。兵隊食堂に行くと浜中大佐が士官たちと話をしていた。長谷川と磯村を見ると手招いた。ふたりが敬礼した。
「もう大連の憲兵司令部から報告があった。報告は要らんが君たちはこれからどうするのか?」
「ハッ、明日の昼にハルピンへ戻りたく思います。ノモンハンも気になりますが、この合作社事件はまだ終わっていないのであります」
「明日、平房行きの貨物機の予定はあるのか?」と浜中が部下に訊いた。真昼にある。席もあるという返事だった。
「長谷川君、事件は終わっていないという理由を聞かせてくれ」
「憲兵隊は被検挙者の中からスパイ組織を作って在満日本人の動向を探らせることが必要なのです」
「ほう。そのスパイたちが面従腹背ならどうする?」
「それはすぐ判ります。裏切る者は徴兵して北満州の国境か東満州へ飛ばす考えであります。虎頭要塞の建設現場とかです」
「そのスパイ組織を君には出来ないのかね?」
「出来ますが、それは満鉄本社を管轄する大連憲兵司令部のお仕事だと思います」
「わかった。明日。大連から士官を呼ぶ。ご苦労であった」と浜中が頭を下げた。これには食堂に集っていた士官たちが驚いた。夕飯を兵隊と食い宿舎へ帰って風呂に入った。長谷川が頭に手拭いを乗せていた。
「少尉、ご褒美に陸王をくれというべきだったね」と笑った。
「大尉殿、お背中を洗わせてください」
「うん、ありがとう。君も洗ってあげよう」
3
二人が平房に戻った。まだ三時だった。三国憲兵司令官は――もう新京から聞いたよと言って休むように長谷川の肩に手を乗せた。
「司令官殿、車を出してください。一刻も早く島原領事に報告したいのであります」
「よし」と言って書類をめくっている士官を手招いた。
ふたりが領事館に入った。山中武官が出迎えた。
「山中さん、例の蓄音機が届いたよ」
「日本ビクターは日米合資なんです。東京から憲兵を送って脅しましたから」
長谷川が呆れていた。インド象は執務室にいた。
「ずいぶん、早く終わったんだね」
長谷川が、大連憲兵司令部がスパイを組織するというと島原の目が大きくなった。
「やはり、そうか。在満州邦人の共産主義活動というのは、このハルピンの邦人だろう」
「憲兵の調査が始まると逃げ出します。いずれ捕まりますが、まずは、活動を全滅させることです」
「ソ連の工作員が出てくるね」
「これは捕まえると面倒なのです」
「ではどうする?」
「暗殺します」
磯村は嫌な予感がした。
「君たちは今からどうする?」
「トトロでメシを食ってから龍門大厦に戻ります」
「山中君、行ってくれんかね?君も今日は帰りたまえ」とインド象が山中に頼んだ。ふたりが領事に頭を下げた。
「ああ、そうそう、留守中に手紙が着いている」と領事は引き出しを開けて、長谷川に二通。磯村にも二通を渡した。二人は上着の内ポケットに入れた。洗面所へ行って背広に着替えた。
トトロの亭主が笑いながら、いつもの個室に案内した。イワノフは来ているはずだ。長谷川はもう慣れていた。
「ドブラエ、ウートラ」と夕方だのに「おはようさん」という声がした。もちろん、イワノフとウランだ。一ワインのボトルが空になっていた。
「カピタン、今夜八時に、ボクたち拳闘の試合がある。カピタン、ルテナント・イソムラ来る?」
「いや、イワノフ、行きたいけどね。俺たちは疲れている。ただ。明日は日曜日だが、昼にでも龍門大厦に来てくれないか?メシを一緒に食おう」
「カピタン、食いに行きます。何でも食うよ」
「ちょっと頼みがある」
アコーデオンが「さあ、ダンスの時間だ」とばかりに「ブワ~」と鳴った。イワノフが飛び出して行った。
「曲も判らないのに、どうしてイワノフは飛んで行ったの?」と山中がウランに訊いたがボクサーは笑っていた。
「ウラン、今夜の試合は勝てる相手か?」と磯村が訊いたがウランは首を振った。フロアではウラル地方のスクエアダンスが始まっていた。イワノフの相手はいつか見たことがあるドーチである。前掛けをした山の娘という感じだ。ふたりが顔を真っ赤にして踊っている。一曲踊るとイワノフがドーチの頬にキッスした。そしてウランと出て行った。山中と別れた長谷川と磯村は龍門大厦に歩いて行った。部屋をチェックすると、長椅子に座って日記を書いた。七月十一日になっていた。最後にカレンから手紙が届いたのは六月の四日である。それから、二通の封筒を内ポケットから取出した。磯村を見ると机に向かってやはり二通の封筒を取りだしている。
――道夫さん、ノモンハンは、日本でも大きな記事なのよ。無事にハルピンに戻ったのね。日本はどんどん悪い道に入っていく気がする。あなたは、その最先端にいる。これではあなたは青森に帰ってこれないわね。娘たちが支えてくれているけど、私、この頃よく泣くの、、佐和子
写真が二枚入っていた。娘たちと佐和子~牧場。ミチル、十歳~ミチコ五歳~ミチヱは一歳。牧場の柵が新しくなっている。白黒ブチのホルスタインがレンゲ草を食っている。
――私が最も愛するミチオへ、
双子の男の子たち二か月になったわ。体重は二倍になったわ。昨日、寺院でネームが決まったの。上の子が、ベンジャミンで、下の子がモルデカイ。両方ともヘブライの聖書から取ったネームなのよ。私は、ベンとマーチンとアメリカ風に呼んでる。それが定着すると思うわ。ベン・スター~マーチン・スターって響きがいいと思わない?ほとんど同時に生まれたんだけど、一応、兄と弟なの。どっちがどっちか判らないほど似ているのよ。仕方がないから、赤い線が襟に入ったほうが兄ちゃんで、青い線が弟なの。ちょっと兵隊の襟章(笑い)なのよ。ところで、アメリカは映画全盛期なのよ。昨日、同僚と「風と共に去りぬ」っていう映画を観たの。何度も観たくなるのよ。ミチオと一緒に観たかったわ。カレン・スター
やはり写真が入っていた。ネームを付ける儀式を坊さんがやっていた。双子を抱いたカレンが写っている。細かったカレンが、双子を抱く為か腕が頑丈になっている。長谷川が目頭を押さえるのを磯村が見ていた。
「別府は大丈夫か?」と長谷川が磯村に訊いた。
「ハッ、妹が妊娠したようであります」
「子供が増えているなあ」と長谷川が笑っていた。
「春燕のおなかが大きくなっております」と磯村が写真を見せた。エクボの春燕が西瓜のようなおなかを両手で持って笑っていた。――結局、この世は女が勝つと長谷川が思った。
日曜日の朝、窓を開けると爽やかな風が松花江の方角から部屋に入って来た。サイドカーが宣化街の角を曲がるのが見えた。フロントから電話が入った。イワノフとウランが昼きっかりに龍門大厦にやってきた。ウランの目に痣が出来ていて、鼻に絆創膏を貼っていた。――ファーストラウンドでノック・アウトされたと笑っていた。
「でもおカネもらったよ」とイワノフまで笑っていた。
四人が階下の珍味楼へ行った。昼飯時だのにガラガラで、ウエイターが十人用の円卓に招いた。
「王さん、今日は、三割増しではありません」と笑った。長谷川がイワノフとウランにメニューを渡した。
「ボクたち、こんな豪華な中華料理を食うカネがないよ。伊勢海老を食べてもいい?」
「いいよ」と長谷川が鷹揚に答えた。そして、カレンと双子の写真を見せた。イワノフが涙ぐんだ。だが、伊勢海老はアペタイザーで、牛肉のスープに、四川風子豚の丸焼きを食ったのだ。さすがの磯村も呆れていた。
部屋に戻った。磯村が紅茶を作った。長谷川が、大連憲兵司令部が作る逮捕された日本人の共産主義者のスパイ組織を話し出した。イワノフが目を丸くして聞いていた。
「在満州日本人ってこのハルピンの日本人でしょ?」
「そうだよ」
「大勢いるとは思えないけど、カピタン、ソ連のGPUが出てくるよ」
「GPUは、軍事訓練を受けた殺し屋だ」
「それをボクが殺る?」
「そうだけど、イワノフひとりでは危ない。こっちもチームを作る」
「いつ頃?」
「わからんが、ここ一か月と思っていい」
「ボクらは、日本人で怪しい連中を掴んでいるよ」
「イワノフ、リストをくれ」
「明日、島原領事をまじえて会議をしたいよ」
「ハルピンのGPUは増えているの?」
「ニエット、増えていないよ。ソ連は、今、対ドイツ戦の心配で頭がいっぱいだから」
「それはいいことだね。それじゃ、明日は月曜日。十時に領事館で会おう」
4
「長谷川君、大連憲兵司令部から調査官がふたり来ている。会議に出て貰う」
七人の会議が始まった。山中がイワノフのリストをガリ版で複写して配った。怪しい日本人というのは、ほとんどが満州時報などの記者や教員であった。中には満鉄の調査部職員もいた。これは大学卒業者を意味する。トータルで十七名だった。長谷川が安堵していた。
「満州時報ですが、北海新聞の記者だった佐藤が言うには、北海道や東北の人間が多いのだそうです。まず、記者の出身が知りたいのです。トランプのようにカードを付き合わせて行くと、活動家の鎖が見えるはずです」
「長谷川大尉殿、大連憲兵司令部は逮捕した者からスパイ組織を作るのは出来ても電話の盗聴も罠を仕掛けることも出来ません。ロシア語が絡めばもうダメです」
「あなたも大尉ですね?職能が違うのは当然ですから、あまりご心配をなされぬように」
「お世話になります」とふたりの憲兵調査官が頭を下げた。
「イワノフとウランは島原領事の信頼する部下です。ヘルプしてくれます。ただし、メシに誘わないほうがよいと思います」
「それは何故ですか?」
「この体格をみればお分かりでしょう。クジラのように食いますからね。憲兵の給料では破産確実ですよ」というと大笑いになった。
大連の憲兵たちがほっとしていた。
「このお若いひとは目の周りに黒い痣や鼻柱に絆創膏を貼ってますが?」
「ライト級のボクサーなんですよ」と磯村が言ったので憲兵たちは驚いていた。
「それでは、リストを夫々お持ち帰りになり、今夜勉強して頂きます。その結果を明日また十時に、ここで協議しましょう」とインド象が言って立ち上がった。
「調査官さんたちは、平房基地に宿泊されておられるんですね?」と山中が訊いた。
「そうであります。車も借りて来ました」と若いほうが答えた。そして敬礼すると出て行った。
イワノフ~ウラン~長谷川~磯村は残った。十七名の名簿を睨んでつぎの手を考えていた。
「調査が終わるのを待とう」と長谷川が言った。
「カピタン、ひとりロシア語が分かるのがいるよ。カネオカっていう」
「カネオカ?朝鮮人に思えるが。どうして判った?」
「電信です」
「どこから」
「東京とハバロフスク。二か所と交信している」
「内容は?」
「関東軍特別演習よ」
長谷川の表情が変わった。
「そのカネオカを引っ張り出せるかな?」
「ちょっと考えるから、カピタン、ハラヘッタ、メシクワセ」
「じゃあ、トトロへ行こう。あそこは安全だからね。山中さん、僕らハイヤーで行く。呼んでくれる?」
トトロの亭主が早速、ワインを持ってやってきた。長谷川も磯村も飲まなかった。
「どうすれば、カネオカを引っ張り出せる?」
「カピタン、ボクは、カネオカがどこにいて、どういう人間か知らない。尾行して写真撮る。三日は要るよ」
「カネオカの居場所は俺が見つける。職業も判るだろう。そいつ、ひとりとは思われない」
磯村がこれは面白いのかも知れないと日記を付けることにした。
「日本国籍のカネオカが、ソ連と通じているとすれば、絞首刑もあり得る」と長谷川が言うと、一気に興が冷めた。
「カネオカを引っ張るより仲間を脅そうかな」
「カピタン、それはいい案だよ」
亭主と若いドーチが料理を持ってきた。イワノフが立ち上がると、そのドーチにキッスをした。長谷川が見るとフロアで踊っていたドーチではないか。ウクライナ人の亭主が凄い目付きでイワノフを睨んだ。
「私の娘、クララです。まだ、十七歳なんですよ」
「じゃあ、学校へ行ってる?」
「ダ、日本の商業高校へ行ってます。夜は店を手伝っています」
イワノフを見ると、なんだか、畏まっている。ウランを見ると、にやにや笑っている。磯村は合点が行った。イワノフが骨付きの子羊を手に持って食い始めた。長谷川がイワノフは一体、何歳なのだろうと考えていた。
5
三日が経った。イワノフとウランがサイドカーで龍門大厦にやってきた。階下の珍味楼で中華料理の昼飯を食うためである。メシを食う前に部屋にやってきて写真を見せた。ウランがキーパンチの穴が開いたテープをポケットから取り出した。長谷川が顎に手を当てて、テーブルの上に置かれた写真を見ていた。カネオカのバックグラウンドは山中が掴んでいた。写真を見ると明らかに朝鮮人である。体格が良くプロレスラーに見える。イワノフもじっとカネオカの写真を見ていた。
「新聞記者かと思ってたら、トラックの運転手なんですよ」
「知っているよ。函館生まれで、歳は、三十二歳だ。イワノフはいくつなの?」
「ボク、二十八。赤ちゃんよ」
「こんな大きな赤ちゃんがあるもんか」と磯村が笑った。
「すると、イワノフのほうがカネオカより若いわけだ」
「ボクと挌闘したらカネオカ死ぬよ」
「う~む、想像が着くな」
カネオカと痩せた背の高い男が唐人街を歩いている写真があった。
「こいつは誰かな?」
「ツルタというニッポンジン。唐人街の同じアパートに住んでる」
「よし、こいつを脅そう。おれと磯村で充分だ。こいつもトラックの運ちゃんかな?」
「そうよ」
「イワノフ、よくやった。下へ行ってメシ食おう」
珍味楼へ入ると、社長が手を揉み揉み、キャッシャーから立ち上がった。
「王さん、ようこそ、いらっしゃい」と日本語で言った。
「どうして俺たちが日本人だと判った?」
「こないだこわ~い憲兵さんがやってきたよ。部屋を検査されていたので、理由を訊いたよ」
「それで?」
「憲兵隊にとって大事なひとたちだから、口外するな。口外すれば、逆さまに吊るしてやるって脅したのよ。アタシ、体が震えたよ」と社長はまだ震えていた。
「悪かったな。気にするな」
「このロシアの人も恐いよ」とイワノフをみた。
「これね、大きな赤ちゃんなんだ。心配プヨプヨ」と磯村が言ったので、社長が声を出して笑った。
「社長、今日の特別料理を作ってくれ。美味いもん食う度に運が向くようだから」
「じゃあ、コック長オマカセでヨロシイカ?」
シベリアから飛んでくる雁~アムールのチョウザメ~キャビア~川鰻~フカヒレのスープ~山東省の黒豚~イワタケの塊をコック長が押し車に乗せて見せにきた。
「大尉殿、これ凄く高くつきそうですが?」
長谷川が磯村を無視した。信じられない四川料理が出た。イワノフまでが目を丸くしていた。
「叔父さん、ボク、こんなに食べるとヘビー級になってしまう」とウランがこぼした。
「じゃあ、食うな」
「それはないでしょ?」と変な喧嘩をしていた。
「飲み物は何にしますか?」と給仕が訊いた
「真昼間だが、俺は紹興酒」
「ボク、ハーピー」
「ハーピーって?」
「哈爾濱啤酒(ビール)のことよ」
「イワノフ、君はあのドーチに惚れとんのか?」
「うん、ボク夢に見るよ。でも、ドーチのパパが恐いよ」と目を三角にしていた。
「半年待て。その期間にトトロに通うしかない」
四人の男が飲んで食った。食後にパイナップルが出た。長谷川が勘定を給仕に頼んだ。すると社長が出てきた。
「本日は、永らくお贔屓にしてくださったので珍味楼の奢りです」と言った。
「いや、それはいかん」と長谷川が言ったが、中国人の太人は、一旦、言ったことを翻さないのである。
「そうか。それでは、ご馳走さまだった」と言うとみんなが一礼をした。どういうわけか、磯村がニコニコしていた。
続く、、
わが家の庭に赤キツネが、、

わが家の裏庭にグレーの野ウサギの親子が住んでいる。狐が徘徊する理由。銃で撃つことも、罠も禁止されている。「それじゃあ、兎の親子が殺されるけど?」と隣りに言うと、「それが自然の掟なのよ」だとさ。狐のはく製を壁に貼りたかっただけ(笑い)。伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第十章
1
長谷川と磯村が新京の憲兵司令部にいた。
「ノモンハンを聞いたよ。よく生きて帰ったな。ご苦労である」と浜中憲兵隊司令官がふたりを労った。
「ハ、われわれは戦闘員ではありませんから。日本軍は装甲車が不足です。歩兵が気の毒でした」と浜中にアルバム報告書を渡した。
「わかっておる。だが東京があの調子ではな。俺と平房の司令官がやれるだけのことをやる」
「大連の話はいつ聞けますか?」
「明日、会議室へ来てくれ給え。そうとう複雑な話だ。満鉄は、君たちが必要なんだ。ああ、そうだった。君に何かでっかい荷物が日本ビクターとかいう会社から届いている」
その木箱が運ばれてきた。下士官がバールで木箱をこじ開けた。「あっ」と長谷川が歓声を上げた。しゃれた蓄音機が出てきたからだ。レコードが数枚入っていた。木箱を元通りに直して保管して貰った。翌日の朝九時に憲兵司令部の会議室に行くと、関東軍の杉山参謀課長も出席していた。長谷川と磯村が敬礼をした。
「小松原中将から一時休戦と聞いた。長谷川大尉は飛鳥参謀の免許皆伝だな」と杉山が言った。
「いえ、自分ひとりの成果ではありません。それに東八百蔵大佐は、お国の為に戦死致しました。残念であります」
満州国国内情報将校が一礼すると黒板に「合作社事件」と白墨で書いた。
「満鉄調査部から報告があった。満鉄社内にアカが増えているのである」と驚くべきことを言った。会議室が騒めいた。磯村が長谷川の横顔を見るとクチを曲げているだけで、なんの変化もなかった。将校が続けた。
――今年、満鉄は人員を拡充した。大学卒業者を多く採用した。さすがに高学歴の者はなかなかの勤務ぶりである。ところが、新規採用者たちが、マルクス主義を社内で広めていると噂が立ったのである。極秘に調べてみると事実であることが判明した。内地で活動の場を失った大学卒業以上の学歴を持つ左翼が多数就職していた。連中は内地ではもはや不可能となったマルクス主義活動に血道を上げており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。
長谷川が手を挙げた。
「その左翼活動家は何人でありますか?」
「よい質問です」と名簿を配った。
「はあ。満鉄調査部の中にもマルクス主義者がいたのですね?」と名簿を見た長谷川が鉛筆で傍線を引いた。
「これらは逮捕された連中なんだが、問題は裾野が広いことである」
裾野と聞いた磯村が富士山の裾野を想っていた。
「自分たちの任務は何でありますか?」
「満鉄調査部そのものが怪しい。長谷川大尉と磯村少尉に満鉄の社員になっていただく」と浜中が言った。つまり命令である。
「いつ大連へ発てばよろしいのですか?」
「アカの撲滅が目的である。この司令部で頭にすべてが入るまで勉強をしていただく」と憲兵士官が答えた。
長谷川と磯村が士官宿舎へ帰った。七月なのにどんよりと曇っていた。
「少尉、この調査は難しいぞ。アカはバカではない」
「その主義者ですが、思想を変えればいいのではないでしょうか?」
「いったん共産主義にかぶれた高学歴の者は一生治らないんだ」
「殺すんでありますか?」と磯村が言うと長谷川がハハハと笑った。
「逮捕だけさ」
2
ふたりは軍令憲兵将校という肩書を貰った。磯村には意味が分からないが、どうも普通の憲兵士官ではないようだ。
七月、七夕の日の昼に貨物機に乗った。大連には二時間で着いた。大連の憲兵司令部は満鉄の大連駅の真向かいにあった。長谷川が自分たちは大和ホテルに泊まると言って、大連憲兵司令部の司令官を驚かした。なぜなら、将校といえども憲兵ほど素寒貧な軍人はこの世にいないからである。憲兵司令部が車を回してくれると言ったが、長谷川が歩いて土地勘を得たいと丁寧に断った。司令官が長谷川のことばから知性の高さを感じた。部下の磯村少尉は全く長谷川大尉を尊敬していると思った。
「司令官殿、明日ですが、逮捕者が収監されている監獄を訪ねたいのであります」
「監獄ではなくてね。陸軍旅順留置場に入れてある。市内から四十十キロ東南にある。車を出すから電話をくれたまえ」
「ハッ、お願い致します」
二人は足を揃えて敬礼をした。二人が中山路を歩いてロータリーに出た。
「これが中山広場だ。孫文の号が中山。孫中山は、スン・ジョン・シャンと呼ぶ。孫文は中華民国の父なんだ」
「はあ、自分は無学ですから教えてください」
「少尉、あれが満鉄本社で、こっちが大和ホテルさ。大連賓館と言ったほうが通じる」
磯村が見ると、大和ホテルは荘厳な石造りでフランスのゴシックを真似たように思われた。満鉄本社はやはり石造りだが質素であった。
「大尉殿、ここは宿泊料が高いんじゃないですか?」
「いや、そうでもない。田舎の社長でも泊まれる。メシがあまりよくないと聞いた。なにせ、節約主義の満鉄の経営だからね」
フロントが、長谷川が見せた軍令憲兵の証明書を見て緊張した。ちょび髭の社長が出てきて挨拶をした。長谷川が――頭を下げる必要はないと手で制した。三階の部屋に入ってみると、中山広場が見える窓際の部屋だが狭い。トイレも狭く、洗面器も小さい。
「ははは、だから言っただろう。背広に着替えろ。外へ食いに行く」
食うと聞いて磯村が喜んでいた。磯村がハンザ・キャノンを持って、長谷川は手ぶらであった。南部拳銃は憲兵司令部に預けてあった。日本人にとって大連ほど安全な都市はないのである。
「シャングリラというホテルの横に天天漁港酒家というのがある。そこの海鮮料理が美味いそうだ。それとも、日本メシにするか?」
「いえ、日本メシは兵隊食堂で食えます。自分は魚介類に飢えております。その海鮮料理をお願致します」
磯村は魚介類育ちである。幼少のときには、父母妹とアサリ掘り~牡蠣打ち~潜ってホタテを取った。その磯村が献立を見て驚いている。生ウニ・チャーハン~糖葫芦(サンザシの串刺し)~真珠奶茶(タピオカミルクティー)~羊肉串焼きなど、どれもこれも食いたいよう、、長谷川が笑っていた。
「少尉、大連料理を別府で出せ。海鮮の磯村っていい名前だからね。この店は安いんだ。なんでも食え」
ウエイターが上手な日本語をしゃべった。大連はウニが豊富に採れる。「ぷりぷりと美味しいよ」というとウニが大好きな磯村が降参した。大連鍋は生きて跳ねているクルマ海老~ホタテ貝~蛸~豚の臓物の寄せ鍋である。二人はこれを選んだ。飲み物は青島啤酒を飲んで料理を待ち、紹興酒で鍋を食う、、
「大尉殿、明日ですが、、」
「少尉、ここではまずい。中華料理を楽しめ。田舎者のふりをしろ」
「それは簡単であります」
長谷川はこの件を早く終わらせたかった。大和ホテルに帰ってから復習をした。
「大尉殿、自分に出来ることはあるのですか?」
「いや、あまりないがハルピンへ戻ったら俺と旅行する」
「ノモンハンは、もうもうもう結構であります」
「もう行くことはない」
磯村がほっとしていた。
「どういう人物に会うのでありますか?」
「佐藤大四郎と鈴木小兵衛という人物に会うだけだ」
「明日何時に出ますか?」
「十時に迎えが来る。予習をするために時間を取ったのだよ」
「それは有難いです。自分はこういう事件には身震いするんであります。憲兵には向かないのであります」
「君は、俺の書記であればよい。では今から寝て、朝、予習をしよう」と歯ブラシをもって立ち上がった。
3
朝七時にドアにノックが聞こえた。長谷川が山菜の支那粥を頼んだのだ。ふたりが粥をすすった。長谷川は、粥が好きだった飛鳥を想っていた。食べ終わって膳を片付けた。磯村が茶を入れた。
「磯村、この佐藤はね、橘樸(たちばな・しらき)の弟子なんだ。橘はね北海新聞の記者だったがこの大連に来て満州評論の編集長となった。彼は日本の開拓団や満州の支那人の貧困に心を痛めていた。そこで、興農合作社という農業組合を組織した。佐藤はその合作社の職員となった。ふたりとも共産主義者ではないよ。満鉄には調査部というのがある。鉄道網が広がるとともに地方の治安や生活水準を調べるのが仕事だ。実はこの満鉄調査部の中にアカが潜伏しているんだ。鈴木はそのひとりってわけさ」
「すると、鈴木某を締め上げると?」
「その通りだよ。だが、鈴木は、怖くなり、あっさり共産党員の存在を供述している」
「それなら、われわれの出番はないのではありませんか?」
「そうだがね。憲兵が拷問している噂がある。ここで睨みを利かさないとますます陰惨な事件が起きる。だから、俺たちは、軍令憲兵ってわけさ」
「憲兵隊を取り締まると?」
「まあ、そうだ」
磯村の顔色が恐怖に青く変わっていた。写真機が好きな若者は大連を逃げ出したくなった。長谷川が少尉の顔を見ていた。
4
大連市内から遼東半島に下がる景色は見事だった。海岸を走り、丘を越えて行く。陸軍監獄は旅順の手前にあった。二階建ての警察署ぐらいの古風な建物である。日露戦争の後、建てられた。監獄に収監される日本兵は非常に少ないと聞いていた。
二人の軍令憲兵士官が監獄長に会った。
「ごくろうさまです」と年上の監獄長がふたりに敬礼をした。
「敬礼は無用です」
「二人同時に接見しますか?」
「いいえ、鈴木を連れて来てください」
二十分も待っただろうか、手錠をかけられた鈴木が取り調べ室に入った。警棒を持った獄吏が横に立っている。
「どうぞ、退室してください」と長谷川が獄吏に言った。獄吏が怒ったような顔になった。右手に持った警棒を左の手の平に二度打った。長谷川の目が左右に動いた。磯村が緊張した。
「何か、不服なのかね?」
「逮捕された者を監視するのが自分の任務であります」
「俺が命令してもか?」
「あなたさまは、私の上官ではありません」
「磯村少尉、監獄長さんをここへ呼んでくれ」
入ってきた監獄長が怒った。
「キサマ、出ていけ!」と怒鳴った。獄吏が青くなった。
これを見ていた鈴木が、長谷川に一部始終を話すことにした。磯村が鈴木に茶を出した。接見は実のあるものだった。磯村が――重要人物は、前歴のある平賀某と書いた。長谷川は平賀を逮捕することにした。次に、左藤に会った。合作社の創始者である。右か左か、、どちらかというと、左傾化したジャーナリストである。だが単に貧農を思いやる良心的な人間に思えた。佐藤には、生まれながらの共産主義者、オットー・池田のような陰険な性格が感じられなかった。佐藤は四十歳だという。妻帯者である。高校生の息子と娘がいる。長谷川は、佐藤を釈放することに決めた。そして、大連の憲兵司令部に電話をかけた。鈴木が話した共産活動を行っていた満鉄調査部に勤務する者五十名を即時逮捕するように電報を打った。
「佐藤さん、明日の朝、釈放するがあなたはこれから何をする?」
「自分は、浜江省の綏芬(すいふん)県に戻って日本人入植者や満人の貧農を救助する活動を続けます」
「それなら、僕が満鉄に掛け合ってあげよう」
佐藤が深々と頭を下げた。四十男が目に涙を浮かべていた。ふたりの軍令憲兵が外へでた。天津方面に陽が傾いていた。
「大尉殿、大和ホテルに戻りますか?」
「いや、この町で一泊しよう。明日、旅順を見学しよう」
「ハッ、嬉しいです。下士官時代に旅順攻略を散々聞かされましたから」
「歴史より、二百三高地の写真を撮りたいのだろう?」と長谷川が笑った。
「よくお分かりで」と少尉が笑った。
二人は旅順飯店という田舎の旅館に泊まった。オーナーは漢民族の夫婦だったが、憲兵服に驚かなかった。娘なのか少女が出て来て、「ニッポンジン、オカネモチ」と言った。酒家に入ると旅順料理も大連とよく似たものだった。ただ、値段が安かった。
「少尉、また海鮮だよ」
「自分は、毎日、海鮮でよろしいのであります」
ホタテの炭焼き~赤鯛の丸揚げあんかけ~あさりと大根の入った雑炊、、紹興酒のお燗を頼んだ。修羅場を渡り歩いた長谷川が酒を飲むようになっていた。部屋に帰って寝た。遠くで波が岩に砕ける音が聞こえた。旅順観光を終わると、長谷川が監獄長に電話をかけた。
「名簿の全員が各地の憲兵に逮捕されました」と監獄長が言った。
「憲兵に手を出してはならぬと言ってください」
長谷川の目が天井を見た。監獄長が車を回してくれた。
「満鉄調査部で共産運動をやっていた逮捕された者はどうなるんですか?」
「長い裁判になるだろう。首謀者らは網走刑務所に入るが五年が最高刑だろうね。あとの連中は執行猶予さ」
続く、、
第十章
1
長谷川と磯村が新京の憲兵司令部にいた。
「ノモンハンを聞いたよ。よく生きて帰ったな。ご苦労である」と浜中憲兵隊司令官がふたりを労った。
「ハ、われわれは戦闘員ではありませんから。日本軍は装甲車が不足です。歩兵が気の毒でした」と浜中にアルバム報告書を渡した。
「わかっておる。だが東京があの調子ではな。俺と平房の司令官がやれるだけのことをやる」
「大連の話はいつ聞けますか?」
「明日、会議室へ来てくれ給え。そうとう複雑な話だ。満鉄は、君たちが必要なんだ。ああ、そうだった。君に何かでっかい荷物が日本ビクターとかいう会社から届いている」
その木箱が運ばれてきた。下士官がバールで木箱をこじ開けた。「あっ」と長谷川が歓声を上げた。しゃれた蓄音機が出てきたからだ。レコードが数枚入っていた。木箱を元通りに直して保管して貰った。翌日の朝九時に憲兵司令部の会議室に行くと、関東軍の杉山参謀課長も出席していた。長谷川と磯村が敬礼をした。
「小松原中将から一時休戦と聞いた。長谷川大尉は飛鳥参謀の免許皆伝だな」と杉山が言った。
「いえ、自分ひとりの成果ではありません。それに東八百蔵大佐は、お国の為に戦死致しました。残念であります」
満州国国内情報将校が一礼すると黒板に「合作社事件」と白墨で書いた。
「満鉄調査部から報告があった。満鉄社内にアカが増えているのである」と驚くべきことを言った。会議室が騒めいた。磯村が長谷川の横顔を見るとクチを曲げているだけで、なんの変化もなかった。将校が続けた。
――今年、満鉄は人員を拡充した。大学卒業者を多く採用した。さすがに高学歴の者はなかなかの勤務ぶりである。ところが、新規採用者たちが、マルクス主義を社内で広めていると噂が立ったのである。極秘に調べてみると事実であることが判明した。内地で活動の場を失った大学卒業以上の学歴を持つ左翼が多数就職していた。連中は内地ではもはや不可能となったマルクス主義活動に血道を上げており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。
長谷川が手を挙げた。
「その左翼活動家は何人でありますか?」
「よい質問です」と名簿を配った。
「はあ。満鉄調査部の中にもマルクス主義者がいたのですね?」と名簿を見た長谷川が鉛筆で傍線を引いた。
「これらは逮捕された連中なんだが、問題は裾野が広いことである」
裾野と聞いた磯村が富士山の裾野を想っていた。
「自分たちの任務は何でありますか?」
「満鉄調査部そのものが怪しい。長谷川大尉と磯村少尉に満鉄の社員になっていただく」と浜中が言った。つまり命令である。
「いつ大連へ発てばよろしいのですか?」
「アカの撲滅が目的である。この司令部で頭にすべてが入るまで勉強をしていただく」と憲兵士官が答えた。
長谷川と磯村が士官宿舎へ帰った。七月なのにどんよりと曇っていた。
「少尉、この調査は難しいぞ。アカはバカではない」
「その主義者ですが、思想を変えればいいのではないでしょうか?」
「いったん共産主義にかぶれた高学歴の者は一生治らないんだ」
「殺すんでありますか?」と磯村が言うと長谷川がハハハと笑った。
「逮捕だけさ」
2
ふたりは軍令憲兵将校という肩書を貰った。磯村には意味が分からないが、どうも普通の憲兵士官ではないようだ。
七月、七夕の日の昼に貨物機に乗った。大連には二時間で着いた。大連の憲兵司令部は満鉄の大連駅の真向かいにあった。長谷川が自分たちは大和ホテルに泊まると言って、大連憲兵司令部の司令官を驚かした。なぜなら、将校といえども憲兵ほど素寒貧な軍人はこの世にいないからである。憲兵司令部が車を回してくれると言ったが、長谷川が歩いて土地勘を得たいと丁寧に断った。司令官が長谷川のことばから知性の高さを感じた。部下の磯村少尉は全く長谷川大尉を尊敬していると思った。
「司令官殿、明日ですが、逮捕者が収監されている監獄を訪ねたいのであります」
「監獄ではなくてね。陸軍旅順留置場に入れてある。市内から四十十キロ東南にある。車を出すから電話をくれたまえ」
「ハッ、お願い致します」
二人は足を揃えて敬礼をした。二人が中山路を歩いてロータリーに出た。
「これが中山広場だ。孫文の号が中山。孫中山は、スン・ジョン・シャンと呼ぶ。孫文は中華民国の父なんだ」
「はあ、自分は無学ですから教えてください」
「少尉、あれが満鉄本社で、こっちが大和ホテルさ。大連賓館と言ったほうが通じる」
磯村が見ると、大和ホテルは荘厳な石造りでフランスのゴシックを真似たように思われた。満鉄本社はやはり石造りだが質素であった。
「大尉殿、ここは宿泊料が高いんじゃないですか?」
「いや、そうでもない。田舎の社長でも泊まれる。メシがあまりよくないと聞いた。なにせ、節約主義の満鉄の経営だからね」
フロントが、長谷川が見せた軍令憲兵の証明書を見て緊張した。ちょび髭の社長が出てきて挨拶をした。長谷川が――頭を下げる必要はないと手で制した。三階の部屋に入ってみると、中山広場が見える窓際の部屋だが狭い。トイレも狭く、洗面器も小さい。
「ははは、だから言っただろう。背広に着替えろ。外へ食いに行く」
食うと聞いて磯村が喜んでいた。磯村がハンザ・キャノンを持って、長谷川は手ぶらであった。南部拳銃は憲兵司令部に預けてあった。日本人にとって大連ほど安全な都市はないのである。
「シャングリラというホテルの横に天天漁港酒家というのがある。そこの海鮮料理が美味いそうだ。それとも、日本メシにするか?」
「いえ、日本メシは兵隊食堂で食えます。自分は魚介類に飢えております。その海鮮料理をお願致します」
磯村は魚介類育ちである。幼少のときには、父母妹とアサリ掘り~牡蠣打ち~潜ってホタテを取った。その磯村が献立を見て驚いている。生ウニ・チャーハン~糖葫芦(サンザシの串刺し)~真珠奶茶(タピオカミルクティー)~羊肉串焼きなど、どれもこれも食いたいよう、、長谷川が笑っていた。
「少尉、大連料理を別府で出せ。海鮮の磯村っていい名前だからね。この店は安いんだ。なんでも食え」
ウエイターが上手な日本語をしゃべった。大連はウニが豊富に採れる。「ぷりぷりと美味しいよ」というとウニが大好きな磯村が降参した。大連鍋は生きて跳ねているクルマ海老~ホタテ貝~蛸~豚の臓物の寄せ鍋である。二人はこれを選んだ。飲み物は青島啤酒を飲んで料理を待ち、紹興酒で鍋を食う、、
「大尉殿、明日ですが、、」
「少尉、ここではまずい。中華料理を楽しめ。田舎者のふりをしろ」
「それは簡単であります」
長谷川はこの件を早く終わらせたかった。大和ホテルに帰ってから復習をした。
「大尉殿、自分に出来ることはあるのですか?」
「いや、あまりないがハルピンへ戻ったら俺と旅行する」
「ノモンハンは、もうもうもう結構であります」
「もう行くことはない」
磯村がほっとしていた。
「どういう人物に会うのでありますか?」
「佐藤大四郎と鈴木小兵衛という人物に会うだけだ」
「明日何時に出ますか?」
「十時に迎えが来る。予習をするために時間を取ったのだよ」
「それは有難いです。自分はこういう事件には身震いするんであります。憲兵には向かないのであります」
「君は、俺の書記であればよい。では今から寝て、朝、予習をしよう」と歯ブラシをもって立ち上がった。
3
朝七時にドアにノックが聞こえた。長谷川が山菜の支那粥を頼んだのだ。ふたりが粥をすすった。長谷川は、粥が好きだった飛鳥を想っていた。食べ終わって膳を片付けた。磯村が茶を入れた。
「磯村、この佐藤はね、橘樸(たちばな・しらき)の弟子なんだ。橘はね北海新聞の記者だったがこの大連に来て満州評論の編集長となった。彼は日本の開拓団や満州の支那人の貧困に心を痛めていた。そこで、興農合作社という農業組合を組織した。佐藤はその合作社の職員となった。ふたりとも共産主義者ではないよ。満鉄には調査部というのがある。鉄道網が広がるとともに地方の治安や生活水準を調べるのが仕事だ。実はこの満鉄調査部の中にアカが潜伏しているんだ。鈴木はそのひとりってわけさ」
「すると、鈴木某を締め上げると?」
「その通りだよ。だが、鈴木は、怖くなり、あっさり共産党員の存在を供述している」
「それなら、われわれの出番はないのではありませんか?」
「そうだがね。憲兵が拷問している噂がある。ここで睨みを利かさないとますます陰惨な事件が起きる。だから、俺たちは、軍令憲兵ってわけさ」
「憲兵隊を取り締まると?」
「まあ、そうだ」
磯村の顔色が恐怖に青く変わっていた。写真機が好きな若者は大連を逃げ出したくなった。長谷川が少尉の顔を見ていた。
4
大連市内から遼東半島に下がる景色は見事だった。海岸を走り、丘を越えて行く。陸軍監獄は旅順の手前にあった。二階建ての警察署ぐらいの古風な建物である。日露戦争の後、建てられた。監獄に収監される日本兵は非常に少ないと聞いていた。
二人の軍令憲兵士官が監獄長に会った。
「ごくろうさまです」と年上の監獄長がふたりに敬礼をした。
「敬礼は無用です」
「二人同時に接見しますか?」
「いいえ、鈴木を連れて来てください」
二十分も待っただろうか、手錠をかけられた鈴木が取り調べ室に入った。警棒を持った獄吏が横に立っている。
「どうぞ、退室してください」と長谷川が獄吏に言った。獄吏が怒ったような顔になった。右手に持った警棒を左の手の平に二度打った。長谷川の目が左右に動いた。磯村が緊張した。
「何か、不服なのかね?」
「逮捕された者を監視するのが自分の任務であります」
「俺が命令してもか?」
「あなたさまは、私の上官ではありません」
「磯村少尉、監獄長さんをここへ呼んでくれ」
入ってきた監獄長が怒った。
「キサマ、出ていけ!」と怒鳴った。獄吏が青くなった。
これを見ていた鈴木が、長谷川に一部始終を話すことにした。磯村が鈴木に茶を出した。接見は実のあるものだった。磯村が――重要人物は、前歴のある平賀某と書いた。長谷川は平賀を逮捕することにした。次に、左藤に会った。合作社の創始者である。右か左か、、どちらかというと、左傾化したジャーナリストである。だが単に貧農を思いやる良心的な人間に思えた。佐藤には、生まれながらの共産主義者、オットー・池田のような陰険な性格が感じられなかった。佐藤は四十歳だという。妻帯者である。高校生の息子と娘がいる。長谷川は、佐藤を釈放することに決めた。そして、大連の憲兵司令部に電話をかけた。鈴木が話した共産活動を行っていた満鉄調査部に勤務する者五十名を即時逮捕するように電報を打った。
「佐藤さん、明日の朝、釈放するがあなたはこれから何をする?」
「自分は、浜江省の綏芬(すいふん)県に戻って日本人入植者や満人の貧農を救助する活動を続けます」
「それなら、僕が満鉄に掛け合ってあげよう」
佐藤が深々と頭を下げた。四十男が目に涙を浮かべていた。ふたりの軍令憲兵が外へでた。天津方面に陽が傾いていた。
「大尉殿、大和ホテルに戻りますか?」
「いや、この町で一泊しよう。明日、旅順を見学しよう」
「ハッ、嬉しいです。下士官時代に旅順攻略を散々聞かされましたから」
「歴史より、二百三高地の写真を撮りたいのだろう?」と長谷川が笑った。
「よくお分かりで」と少尉が笑った。
二人は旅順飯店という田舎の旅館に泊まった。オーナーは漢民族の夫婦だったが、憲兵服に驚かなかった。娘なのか少女が出て来て、「ニッポンジン、オカネモチ」と言った。酒家に入ると旅順料理も大連とよく似たものだった。ただ、値段が安かった。
「少尉、また海鮮だよ」
「自分は、毎日、海鮮でよろしいのであります」
ホタテの炭焼き~赤鯛の丸揚げあんかけ~あさりと大根の入った雑炊、、紹興酒のお燗を頼んだ。修羅場を渡り歩いた長谷川が酒を飲むようになっていた。部屋に帰って寝た。遠くで波が岩に砕ける音が聞こえた。旅順観光を終わると、長谷川が監獄長に電話をかけた。
「名簿の全員が各地の憲兵に逮捕されました」と監獄長が言った。
「憲兵に手を出してはならぬと言ってください」
長谷川の目が天井を見た。監獄長が車を回してくれた。
「満鉄調査部で共産運動をやっていた逮捕された者はどうなるんですか?」
「長い裁判になるだろう。首謀者らは網走刑務所に入るが五年が最高刑だろうね。あとの連中は執行猶予さ」
続く、、
06/25 | ![]() |
スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二章
第九話
1
「よく休んだかね?」とインド象がふたりに訊いた。
「閣下、食って寝ました。ホロンバイルの兵隊に申し訳がない」
「今日は、大事な話をせんといかん。イワノフも来ている」
島原領事~山中武官~長谷川~磯村の四人が会議室にいた。ドアにノックが聞こえた。山中が立ってドアを開けるとイワノフが手にノートブックを持って立っていた。女性事務員が紅茶とクッキーを持ってきた。
「ちょっと聞きにくいことを話すよ」
「はあ?重大な事件ですか?」
「小松原中将だけどね、彼が少佐だった頃、私とハルピンのロシア語学校の同級生なんだ。非常に優秀だった」とインド象が一同を驚かしたのである。
「すると、ロシア語が堪能だったと?」
「そうだよ。ホロンバイルの総司令官に命じられたのもそれが理由なんだ」
「すると、ソ連軍のノモンハン計画は周知していたと?どのように情報を入手していたのでしょうか?」と長谷川が訊くとイワノフを除いて長谷川までが緊張した。島原が、ひと呼吸置いて驚くべきことを言った。
「小松原には女がいた。ロシア語の教師でね」
「閣下、それはロシア人ですか?」と山中が訊いた。すでに何かを感じて鉛筆を持った手が震えていた。
「アンドリアーナ・アバルヒンという美しいスラブ人だったよ」と領事は言ってイワノフに手を出した。イワノフがノートブックを渡した。島原は一ページ目を開いてテーブルの上に置いてある地図を映す投射機の下に置いた。クリル文字が壁のスクリーンに映った。一同が息を飲んだ。
「長谷川君、日本語に訳してくれないか?」
長谷川が会釈して壁に映ったメモを呼んだ。
――ミチタロ―、今度いつ会える?私の一家のダーチャは、今週末は誰も使わないのよ。雪が積もっているけどベルカで行けるのよ。A・A。
「ダーチャというのは小さな農園です。A・Aは、彼女の頭文字でしょう」と長谷川が説明すると、領事がつぎのページを映した。
――愛しいアドリアーナ、平房の関東軍に嘘を言わないと二日も取れないよ。何か口実を考えるね。それから暗号を頻繁に変えないと気着かれる。ミチ。
一同が目を合わせていた。
「小松原君はハニートラップにかかったんだね。これ、イワノフが最初に気が着いた。だが、私が門外不出を命令した。今日、初めて公開することにした。ただ、門外不出には変わりない」とインド象がみんなの目をのぞいた。
「閣下、それが理由で日本軍の機甲師団が不足だと?」
「いや、そこまで私には言えないよ。しかしだね、もし小松原君が脅されていたなら、、」
「この女性は今、どこにいますか?」
「二年前からモスクワにイルヨ」とイワノフが言った。長谷川が顎に手をやって黙考していた。
「島原領事さん、閣下のお力で小松原さんを更迭出来ませんか?」
「関東軍司令官と話したが、中将となると難しんだそうだよ」
「それでは日本兵が犬死します。何か良い手はないのでしょうか?」すると、磯村が手を挙げて長谷川の許可を得た。
「みなさん、平房の陸軍飛行隊に陳情に行きましょう。今からでもです」
「分った。岩田大尉の戦力を増強する手があった。それしかない。少尉、俺と君で陳情に行こう」
「僕もお供させてください」と山中が言うと領事の目を見た。インド象が頷いた。
2
「岩田大尉からすでに要請があった。新京も賛成だ。ただね、いまホロンバイルには三十六機ある。足すといっても、九十七式戦闘機三十機が平房の限界だよ。軽装甲車師団と自走砲が増強されるがソ連軍の機甲師団のほうが投入は速いんだ。ところがね、東京は未だに限度を超えるな、などと戯言を言っておる」と飛行隊司令官が憤怒した。
このあと、長谷川たちは総司令官室へアルバムを届けに行った。
「凄いな、これ」とアルバムを一目見て司令官が驚いていた。長谷川が質問をした。
「総司令官殿は小松原中将をご存じでしょうか?」
「ああ、何ども会ったよ。優秀だが、軍人に向かない繊細な人だ」
「最近では、何日でしょうか?」
「正月だった。何故かね?」
「小松原中将のお顔が悪い。何か疾患があるように思いましたので」
「胃潰瘍だとかで解任を要請してきた。戦闘がひとしきり終わったら予備役に入る」
「それでは帰ります。ご連絡はこの島原領事のスタッフ、山中武官にお願いたします」
「ああ、山中君はここへよく来るよ。長谷川君はどうするのか?」
「まだ、決めていませんが、傍聴班を作ります」
「ソ連の極東赤軍は大きくなるかね?」
「いえ、そう思いません。というのは、スターリンはドイツを恐れていますから、この地の果てまで手が回らなくなると思います」
「それは有難いな。われわれの運命も神のみぞ知る。飛鳥参謀が恋しいな。モクゾウ蟹なんて言えなくなった」と窓の外を見た。どこへ飛んで行くのか一式爆撃機が空に舞い上がった。三人が足を揃えて敬礼をした。そして憲兵司令部へ行って山中が領事館の女性書記に今日は領事館に帰らないと電話をした。
山中が運転するダットサンでトトロへ行った。小羊のラムチョップ・ラタトゥーユ包みローストを食うためである。
「オーチン・ハラショー」という声が聞こえた。イワノフとウランが個室で待っていた。トトロの亭主が挨拶に来た。イワノフと話している。この五十歳の亭主は、ウクライナ人である。イワノフと同様、赤軍に家族を殺害された流浪の民なのである。
「カピタン、ボクらがホロンバイルに行っているうちに露探が二度もこの店に来たって言ってる。これがその男らの写真です」とテーブルの上に置いた。長谷川が背広の内ポケットへ入れた。
子羊は少し時間がかかるというので、ワイン~ビールで生ハムと茹でたジャガイモに塩を振って食べた。イワノフと競争になるので、三皿取った。
「カピタン、こいつらを殺りますか?」
「イワノフ、こちらから襲撃してはいけない」
「長谷川大尉さん、磯村少尉さんにロシア語を習って頂けませんか?」と山中が訊いた。
「実はね、大連で新たな事件が起きている。われわれは新京へ戻ることになる。傍聴はイワノフとウランが適任者です。山中さん、済まん」と頭を下げた。山中が慌てて立ち上がって頭を深々と下げた。
長谷川と磯村は、宣化街を歩いて龍門大厦へ帰った。運動のためだ。松花江から吹く夜風が気持ちいい。
「大尉殿、いつ新京へ発ちますか?」
「今月いっぱいは領事館で仕事をしよう」
「それは有難いです。ところで、大連の事件って何でありますか?」
「新京で話す。戦争ではない。満州国内のことだ」
「ところで、春燕には手紙出したか?」
「ハ、有難うございました」
続く、、
第九話
1
「よく休んだかね?」とインド象がふたりに訊いた。
「閣下、食って寝ました。ホロンバイルの兵隊に申し訳がない」
「今日は、大事な話をせんといかん。イワノフも来ている」
島原領事~山中武官~長谷川~磯村の四人が会議室にいた。ドアにノックが聞こえた。山中が立ってドアを開けるとイワノフが手にノートブックを持って立っていた。女性事務員が紅茶とクッキーを持ってきた。
「ちょっと聞きにくいことを話すよ」
「はあ?重大な事件ですか?」
「小松原中将だけどね、彼が少佐だった頃、私とハルピンのロシア語学校の同級生なんだ。非常に優秀だった」とインド象が一同を驚かしたのである。
「すると、ロシア語が堪能だったと?」
「そうだよ。ホロンバイルの総司令官に命じられたのもそれが理由なんだ」
「すると、ソ連軍のノモンハン計画は周知していたと?どのように情報を入手していたのでしょうか?」と長谷川が訊くとイワノフを除いて長谷川までが緊張した。島原が、ひと呼吸置いて驚くべきことを言った。
「小松原には女がいた。ロシア語の教師でね」
「閣下、それはロシア人ですか?」と山中が訊いた。すでに何かを感じて鉛筆を持った手が震えていた。
「アンドリアーナ・アバルヒンという美しいスラブ人だったよ」と領事は言ってイワノフに手を出した。イワノフがノートブックを渡した。島原は一ページ目を開いてテーブルの上に置いてある地図を映す投射機の下に置いた。クリル文字が壁のスクリーンに映った。一同が息を飲んだ。
「長谷川君、日本語に訳してくれないか?」
長谷川が会釈して壁に映ったメモを呼んだ。
――ミチタロ―、今度いつ会える?私の一家のダーチャは、今週末は誰も使わないのよ。雪が積もっているけどベルカで行けるのよ。A・A。
「ダーチャというのは小さな農園です。A・Aは、彼女の頭文字でしょう」と長谷川が説明すると、領事がつぎのページを映した。
――愛しいアドリアーナ、平房の関東軍に嘘を言わないと二日も取れないよ。何か口実を考えるね。それから暗号を頻繁に変えないと気着かれる。ミチ。
一同が目を合わせていた。
「小松原君はハニートラップにかかったんだね。これ、イワノフが最初に気が着いた。だが、私が門外不出を命令した。今日、初めて公開することにした。ただ、門外不出には変わりない」とインド象がみんなの目をのぞいた。
「閣下、それが理由で日本軍の機甲師団が不足だと?」
「いや、そこまで私には言えないよ。しかしだね、もし小松原君が脅されていたなら、、」
「この女性は今、どこにいますか?」
「二年前からモスクワにイルヨ」とイワノフが言った。長谷川が顎に手をやって黙考していた。
「島原領事さん、閣下のお力で小松原さんを更迭出来ませんか?」
「関東軍司令官と話したが、中将となると難しんだそうだよ」
「それでは日本兵が犬死します。何か良い手はないのでしょうか?」すると、磯村が手を挙げて長谷川の許可を得た。
「みなさん、平房の陸軍飛行隊に陳情に行きましょう。今からでもです」
「分った。岩田大尉の戦力を増強する手があった。それしかない。少尉、俺と君で陳情に行こう」
「僕もお供させてください」と山中が言うと領事の目を見た。インド象が頷いた。
2
「岩田大尉からすでに要請があった。新京も賛成だ。ただね、いまホロンバイルには三十六機ある。足すといっても、九十七式戦闘機三十機が平房の限界だよ。軽装甲車師団と自走砲が増強されるがソ連軍の機甲師団のほうが投入は速いんだ。ところがね、東京は未だに限度を超えるな、などと戯言を言っておる」と飛行隊司令官が憤怒した。
このあと、長谷川たちは総司令官室へアルバムを届けに行った。
「凄いな、これ」とアルバムを一目見て司令官が驚いていた。長谷川が質問をした。
「総司令官殿は小松原中将をご存じでしょうか?」
「ああ、何ども会ったよ。優秀だが、軍人に向かない繊細な人だ」
「最近では、何日でしょうか?」
「正月だった。何故かね?」
「小松原中将のお顔が悪い。何か疾患があるように思いましたので」
「胃潰瘍だとかで解任を要請してきた。戦闘がひとしきり終わったら予備役に入る」
「それでは帰ります。ご連絡はこの島原領事のスタッフ、山中武官にお願いたします」
「ああ、山中君はここへよく来るよ。長谷川君はどうするのか?」
「まだ、決めていませんが、傍聴班を作ります」
「ソ連の極東赤軍は大きくなるかね?」
「いえ、そう思いません。というのは、スターリンはドイツを恐れていますから、この地の果てまで手が回らなくなると思います」
「それは有難いな。われわれの運命も神のみぞ知る。飛鳥参謀が恋しいな。モクゾウ蟹なんて言えなくなった」と窓の外を見た。どこへ飛んで行くのか一式爆撃機が空に舞い上がった。三人が足を揃えて敬礼をした。そして憲兵司令部へ行って山中が領事館の女性書記に今日は領事館に帰らないと電話をした。
山中が運転するダットサンでトトロへ行った。小羊のラムチョップ・ラタトゥーユ包みローストを食うためである。
「オーチン・ハラショー」という声が聞こえた。イワノフとウランが個室で待っていた。トトロの亭主が挨拶に来た。イワノフと話している。この五十歳の亭主は、ウクライナ人である。イワノフと同様、赤軍に家族を殺害された流浪の民なのである。
「カピタン、ボクらがホロンバイルに行っているうちに露探が二度もこの店に来たって言ってる。これがその男らの写真です」とテーブルの上に置いた。長谷川が背広の内ポケットへ入れた。
子羊は少し時間がかかるというので、ワイン~ビールで生ハムと茹でたジャガイモに塩を振って食べた。イワノフと競争になるので、三皿取った。
「カピタン、こいつらを殺りますか?」
「イワノフ、こちらから襲撃してはいけない」
「長谷川大尉さん、磯村少尉さんにロシア語を習って頂けませんか?」と山中が訊いた。
「実はね、大連で新たな事件が起きている。われわれは新京へ戻ることになる。傍聴はイワノフとウランが適任者です。山中さん、済まん」と頭を下げた。山中が慌てて立ち上がって頭を深々と下げた。
長谷川と磯村は、宣化街を歩いて龍門大厦へ帰った。運動のためだ。松花江から吹く夜風が気持ちいい。
「大尉殿、いつ新京へ発ちますか?」
「今月いっぱいは領事館で仕事をしよう」
「それは有難いです。ところで、大連の事件って何でありますか?」
「新京で話す。戦争ではない。満州国内のことだ」
「ところで、春燕には手紙出したか?」
「ハ、有難うございました」
続く、、
06/24 | ![]() |
暗殺が商売、、 |
06/23 | ![]() |
スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
最八章
1
この間、岩田大尉の率いる戦闘機攻撃隊の貢献は大きかった。ノモンハン事件の日本陸軍飛行部隊は終始空中戦で優勢を保った。スペイン内戦で大勝利したソ連軍の星、ポリカリポフを数十機撃墜した。騎兵小隊が不時着した一機を飛行士共に鹵獲(ろかく)した。この飛行士は強情だった。
「三日間、水だけだ。メシ食わすな」とイワノフが言った。飛行士がイワノフを睨みつけた。
三日が経った、、飛行士の目がうつろだった。
「トバリシ、素直に話せば食わすぞよ」とイワノフが、湯気が立つビーフ・シチュウとバスケットにいっぱいのパンを横のテーブルに置いた。そしてパンを一つ取ってバターをべったりとぬった。飛行士が唾を飲んだ。
長谷川とパンを片手に持ったイワノフが尋問した。飛行士が日本兵の銃剣に怯えて大きな体を震わしていた。ついに、シチュウの匂いに負けた。ソ連軍の全てを吐いた。ソ連軍はハルハ作戦失敗でスターリンの激怒に怯えているのだと言った。新任の司令官ジューコフがやってくる。戦闘機はもう一機もない。再編成に一か月はかかると言ったのである。
「カピタン、こいつさ、白状したからクビハネル?」とイワノフがロシア語で言った。憲兵が軍刀を抜いた。
「ひゃあ~」と飛行士が悲鳴を上げた。みんな大笑いになった。
長谷川と磯村が小松原に会った。小松原総司令官は東八百蔵大佐を失ったことに意気消沈していた。悪い顔色をさらに悪くしていた。「八百さん、敵前逃亡だよ」などと言ったことを悔悟していた。長谷川の報告を受けても顔色は好くならかった。
「それで、君たちはどうする?」
「戦闘になったからには、我々の任務は終えました。明日、貨物機を一機出して頂きたいのであります」
「そうか、ご苦労であった。飛行部隊に伝える」と電話を取った。小松原はなぜか寂しそうであった。部屋に戻った長谷川が島原領事に電報を送った。いそいそと磯村が荷物をまとめた。嬉しそうであった。
2
六月三日の朝は快晴だった。傷病兵が担架に乗せられて一式貨物機に向かった。貨物機の前に岩田と北上がニコニコ笑いながら待っていた。
「岩田大尉さん、北上少尉さん、有難う。戦闘が終わったらハルピンへ来てください」と長谷川がエースたちと握手をした。ついで、磯村とウランが敬礼をした。
「ドブラエ・ウートラ、カピタン・イワタ。ルテナント・キタガミ、スパシーボ。ドーシダーニャ」とイワノフが大きな手を出した。
「おお、イワノフ、お土産をあげよう。君にポリカリポフを上げるよ」
「いいえ、ケッコウデス」と大男が手を振って言うと爆笑が起きた。
長谷川一行とハイラルの陸軍病院に収容される傷病兵十二人が飛び立った。飛行場の上空を旋回した。地上で岩田たちが手を振っているのが見えた。磯村が写真に撮った。
「磯村少尉、また生き残ったな」
「大尉殿のおかげであります」
ハイラルで傷病兵を降ろすと、手足を切断された重症の兵隊たちが運ばれてきた。ハルピンの平房陸軍病院へ空輸するのである。どれも若い兵隊である。長谷川が見ていると、看護兵が首を振った。磯村が目を瞑った。一式貨物機の翼は遅いが、ハイラルから一二〇〇キロあるハルピンの平房飛行場に三時間四十分で着いた。夕方の四時になっていた。自動車班がイワノフとウランに車を手配してくれた。長谷川が三日間だが休んでくれとイワノフに言った。
「オーチン、ハラショー」と、ふたりはキタイスカヤ街へ帰って行った。
長谷川たちは平房の総司令官に報告に行った。
「おお、そうか。帰還した将校らから聞いたが、やはり長谷川君でないと要領を得ないんだ」
「司令官殿、磯村がアルバムで報告書を作りますので二日ほどください。それとソ連軍も混乱しているようです。ジューコフという新任の司令官が到着するまでホロンバイルは静かだと思います。つぎの戦闘が始まるのは、八月だと思います」
「もう一度、ここへ来てくれないか。俺が何をすればいいのか指導してくれ」
「ハッ、何度でも来ます。電報には目をお通しだと思いますが、担当士官に落ち度のないように伝えてください。ノモンハンは事件ではなく戦争であります」
二人は兵隊食堂へ行った。麦飯とカツオの刺身が出た。「ウォ~」と磯村が吠えた。給仕兵がびっくりしている。注意しようと長谷川が見ると少尉が涙をこぼしていた。しばらく待った。長谷川が磯村平助の湯飲みに酒を注いだ。
「磯村、痩せたな。うんと食え。島原領事が明日朝、まっすぐ領事館へ来てくれと言っている。明日だけどね。領事館で現像してアルバムを三冊作ってくれ。戦場の土産だよ」
「大尉殿、済みません。涙が出てしまったのあります」
「いや、俺だって泣きたいよ」と杯を空けた。ノモンハン帰りと聞いた給仕兵が熱燗をもう一本持ってきた。
「准尉殿には乗馬以来、会わなかったのですか?」
「ハルハ川の北へ斥候に行った。無事だと聞いた。あいつは死なない」
磯村がカツオを猫のように平らげてしまった。長谷川が給仕兵に緑茶とカツオの生姜醤油漬けを頼んだ。
「ああ、 カツオ茶漬け、大好物であります」とついでに麦飯を頼んだ。ふたりは羊羹を食った後、将校宿舎の風呂に入った。洗濯物を新兵に渡すと新しいフンドシ~シャツ~靴下を貰った。部屋に行って寝た。
「磯村、明日朝八時に軍医の身体検査がある」と言って長谷川はさっさと寝てしまった。磯村は――春燕の手紙を早く見たかった。苗族の胡娘を脳裏に描いた。やがて酒がまわって寝てしまった。
「長谷川大尉、磯村少尉、おふたりとも健康に異常なし。だが血圧が一六〇と高い。少し休め」と聴診器を首にかけた軍医長がアドバイスをした。若い看護婦が携帯医薬を持ってきた。ふたりの憲兵将校がハンサムなので顔を赤くした。
下士官がダットサンで領事館へ送ってくれた。山中武官が玄関で迎えた。ニコニコと笑っている。早速、島原領事の執務室へ行った。部屋にユリの花の香りがした。アベ・マリア像の前に鉄砲ユリが活けられた花瓶があった。磯村が怪訝な顔をした。
「長谷川君、無事だったね。磯村君は少し痩せたようだね」とふたりと握手をした。
「僕らは戦闘員ではないですから。領事さん、ノモンハンは本当の戦争です。上海のギャング相手のほうが僕らには向いております」と長谷川が笑った。
「大砲の怖さを体験しました」と磯村が言った。
「少尉、山中さんに手伝って貰って現像をしてくれ。領事さんと二人で話があるんだ」
「ああ、長谷川君と磯村君への手紙だ。まずそれを読みたまえ」とインド象が机の引き出しから二通の封筒を取り出した。ふたりは読まずに上着の内ポケットに入れた。山中と磯村が部屋を出た。
「それ楽しいですね」と山中が廊下を歩きながら言った。
「そうでもない写真があります」と磯村の声が聞こえた。
二人が暗室に入った。山中が赤いランプを点けた。現像液を作りフイルムを浸けた。磯村がどんどん現像して山中が洗濯挟みで紐に下げた。乾くまで紅茶を飲んだ。
「山中さん、島原領事さんはキリスト教徒なんですか?」
「島原家は備前岡山藩の良家。カトリック教徒なんだよ」
「キリシタン大名のご子孫でしょうか?」
「それは僕には分らん。札幌農業学校でもクラーク博士の影響でキリスト教に帰依した学生が多いからね」
「少尉は、宗教に興味があるのかね?」
「あると言えばあります。飛鳥少佐の故郷の奈良へ行ったときに感化されました。飛鳥山門参謀は元天台宗の僧侶であられたと聞きました」
「古来より日本の武人は仏に帰依している。殺生をしなければならないためと聞いたことがある。これが怨親平等なのだ。そしてその基礎が我が帝の一視同仁だと思う」
磯村平助は山中武官が好きになった。やはり領事館付きの武官は士官とは違うんだ、、
「ところで、これすごい量だね」
「昼飯抜きかな」と磯村が心配した。
「いや、大和ホテルに幕内弁当の配達を頼んだよ。もう一人の沢田武官はね、関東軍との通信が担当で傍聴には関与しない。ミス・スターがアメリカに行ってしまったので、ロシア課では欠員が出ているんだ」と磯村の目を覗いた。
「はあ、僕はロシア語がわかりません。長谷川大尉にこれからの予定を聞きます」
「う~む、、ロシア語が出来る奴は、池田のような信用出来ない主義者が多いからね」
「よし乾いたようです。まず、幻燈で見ましょう」
会議室へ行くとインド象と長谷川大尉が紅茶を飲んでいた。上官の山中が沢田に映写機を持って来させた。
「弁当先に食うか?」とインド象が若者に気つかって提案をした。
「ハッ、お願い致します」と、すかさず磯村が言った。女性の事務員ふたりが弁当と緑茶を持って現れた。手こね寿司まである。幕の内も七人分あった。
「君たちも一緒にどうかね?」と領事が女性事務員に訊いた。
「いいえ領事さん、女には女の話がありますから」と笑った。
「これ美味いです。嬉しいです」と磯村が手こね寿司をしゃもじで皿に掬って食べた。
「少尉、幕の内を二つ貰え」
「ハッ、そのつもりであります」と言うと爆笑が起きた。
昼飯の後、幻燈を準備した。長谷川が電灯を消した。最初に岩田機と北上機のトムスク爆撃が写った。並んだソ連軍の軽装甲車が見えた。ポリカリポフが数機見えた。テープレコーダーで爆音や二人のエースの話し合う声が聞こえた。高射砲の音~急降下する岩田機の金切り音~爆弾の破裂する音、、長谷川が領事を見た。インド象は拳を硬く握ってスクリーンを見ていた。「ワハハ」と岩田が笑う声が聞こえると山中が奇声を発した。だが、全滅した東支隊の累々と仰向けに横たわる日本兵が写ると山中が沈黙した。領事は手を組んで祈っていた。東大佐の仏姿も写った。フルン湖の漁師一家も写った。小川で鱒を釣ったのもあった。ホロンバイルの航空写真は地形を語った。小松原中将の生気のない痩せた顔が写った。長谷川は島原領事が不機嫌になるのを見た。
「領事さん、アルバムで報告書を作ります」
「焼き付けは僕がやっておきます」と山中が言った。
「うむ、疲れていると思う。休んでくれたまえ。明後日、来てくれんかな?」
「ハッ、朝九時に参ります」
ふたりは背広に着替えた。
3
山中が運転して松花江の宣化街で降りた。龍門大厦のロビーに入ると、フロントが「ニイハオ」と挨拶した。ふたりの憲兵将校はすっかり常連なのである。おなじみの最上階の部屋に入った。ボーイがトランクを持ってついてきた。磯村がチップをやった。
ハルピン領事館の真向かいにある憲兵隊が抜き打ち検査をしたと聞いたが、部屋を一巡した長谷川が「メシクッタカ」と言った。長谷川が極度の疲労を感じた。
「少尉、俺、二時間ばかり寝るぞ」とフンドシ一つになった。
「自分も寝ます」
二人はベッドに転がるやいなや鼾をかき始めていた。長谷川が起きると、磯村がスタンドを点けて手紙を読んでいた。辞書を引いてはアタマを捻っている。長谷川も佐和子の手紙を開けた。――開墾はうまく進んでいて、事故はなく、父母も娘たちも、秋田犬の子犬もぐんぐん育っている、、買ったホルスタインは乳の量が多い。政府がバターを買い上げる値段を上げてくれた。クロガネは故障がなく元気です。道夫さんが命を賭けたお給料が長谷川一家を大きくしています。写真が五枚入っていた。二通目はカレンからだった。
――私がもっとも愛するミチオへ、
五月二十日、双子が生まれました。男の子です。早産で体重が三〇〇〇グラム、身長は五〇センチ。でも、とても元気なのよ。お乳を吸う力も強いの。私、涙が出て仕方がないのよ。名前だけど、私のパパが着ける。これユダヤの習慣なの。スターコビッツ家の初めての男の子なので訪問客が多いのよ。サンフランシスコ領事館からもお祝を頂いたわ。こっちのことばかり書いてごめんなさいね。ミチオは今どこにいるのかしら。日本領事館は島原領事と私が話すことを禁じている。アメリカ国務省が傍聴している。この手紙もロスアンゼルスの友人に投函を頼んだのよ。これを読んだらすぐお手紙頂戴。カレン・スター
写真が数枚入っていたが、どれも双子の写真ばかりだった。ユダヤの坊さんが儀式をやっていた。一家が大広間で祝賀会をやっていた、カレンが少し太ったようだ。
長谷川が目頭を抑えるのを磯村が見た。
「少尉、心配するな。カレンが双子の男の子を産んだ。これで五人の子の父親となった。君、さっきアタマを捻っていたが何かあるのか?」
「ハッ、ちょっと分らない漢字があるのです。月血中間痛ってなんでありますか?」
「バカモノ、キサマは父親になるんだ」
「エエ~?」
「ちょっとその手紙を見せろ」
長谷川が一読した。判ったのは春燕が妊娠したことである。
「春燕がびっこを引いて帰ったのは、太湖のカジノホテルだったよな?」
「そうであります」
「すると、四月の三日ぐらいだろうかな?」と日記帖をめくった。
「やはりそうだ。すると、来年の一月には生まれるぞ」
「はあ?大尉殿、自分はどうすれば良いと思いますか?」
「バカコケ!自分で考えろ」
ふたりは支那服に着替えて階下の珍味楼へ行った。お祝だ。一番でかいテーブルに着いた。
「そこは十人様用です」
「いくら払えばいいのか」
「三割、料金が高くなります」
「我知道了(ウォーツータオラ)」
聞いた周りの客が驚いて振り向いた。
「大尉殿、あのう、オカネは節約したほうが良いかと、、」
「黙れ!今夜は何を食ってもいいぞ。明日は一日寝るだけだ」
「それでは」と平助が日本産の伊勢海老二匹と北京家鴨のピータンを頼んだ。長谷川が鱶ヒレのスープ~子豚の上海風丸焼きと紹興酒の最高のものを注文した。フロントのボーイを呼んで子供が生まれたのでミュージシャンを呼べ。花を円卓の真ん中に飾れと言った。酒家の社長が挨拶に来た。紹興酒はお目出度なので無料ですと言った。もっとも、この得体の知れない二人は最近にない上客なのであった。
胡弓を持った満人のロートル~琴を抱えたこれも老人~もうひとりの老人がチャルメラを吹きながら店に入ってきた。
「なんだ、ロートルばかりじゃないか」と長谷川が文句を言った。すると三人の老人のミュージシャンの後ろにミチルぐらいの胡娘がついてくるのが見えた。可愛い袖のある白いワンピースを着ていた。舞台に駆け上がると「私は雪蘭」と言ってから黒髪を大人のように結った頭を下げた。拍手が沸いた。
「あの娘は有名なんです」と紹興酒を温めて持ってきた社長が言った。胡弓を持ったロートルが優しい調べを弾きだした。
「みなさん、王さんの太太が双子の男の子を産みました」と雪蘭が、花が飾られた円卓に手を差し伸べた。拍手が起こった。王さんが立ち上がって四方に頭を下げた。
「みなさん、お酒を飲んでください」と王さんが言うと、ウエイターたちがワインや紹興酒をグラスに注いで回った。
――世上只有媽媽好(世界でたったひとりのママが大好き)と胡娘が歌いだした。最初の歌詞は質素なララバイである。それが二分ほど続いた。磯村が九州の子守歌と違うなと思った。だがどちらも涙を誘う調べである。まわりを見ると若い夫婦がハンカチを目がしらに当てていた。歌姫が蚊細い声で第二の歌詞を歌い出すとそれがクライマックスなのか、隣のテーブルの青年が涙をポロポロこぼした。磯村が長谷川を見た。やはり目に涙を溜めていた。小倉生まれの平助までが春燕を想って泣き出した。歌い終わると大きな拍手が起きた。そして「カンペイ」とグラスを持ち上げた。
「あなたたちも食べなさい」と王さんが楽団に円卓に座れと手招きをした。メニューを持って来させた。雪蘭が、もりもりと焼き豚を食べてデザートをオーダーした。
「これは、高く付きますよ」と磯村少尉が上官に耳打ちした。
「神田川のカネだ。ヤクザの贈り物さ」と長谷川が笑った。磯村が玄界灘の皆殺しを想い出して苦笑いした。ふたりは部屋に戻って寝間着に着替えた。それから手紙を書いた。
「大尉殿、ここはどう書けば良いのでありますか?」
「日本語で書け。俺が広東語に翻訳する」
「プライべートな話もありますが」
「バカモン、俺には関係ないぞ」
夜が更けていった。磯村が窓へ行って松花江を見た。ランタンを灯した漕ぎ船が見えた。鰻の夜釣りである。遠い四川省の山奥にいる春燕を想った。――子供に会える日が来るのだろうか。俺の子共は苗族か、、
4
久しぶりに朝の九時に起きた。ふたりが洗面所で歯を磨いていた。電話が鳴った。電話を長谷川が取ると山中武官である。ロビーに来ていると言ったので部屋に来てもらった。
「写真を持って来ました」と山中は言ってからロココ風の豪華な部屋に驚いていた。鉄砲ユリの匂いがした。
「済みません。僕らの仕事を担いで頂いて」
「いや、印画は楽しかったですよ」
長谷川が見ると見事な焼き付けであった。
「山中さん、朝飯は?」
「まだです」
「クロワッサンをご存じですか?」
「大尉殿、自分は大学時代、パリに留学したのであります。政治ではなく絵画であります。わが家系は安土桃山以来の狩野幽斎派の絵師であります」と山中が言った。この武官は軍人では勿体ないと長谷川が思った。長谷川が以前から気になっていたことを山中に訊いた。
「山中さん、あなたはミッチェル撮影機を知っていますか?」
「ええ、パリでカンカン・ダンスの撮影に呼ばれたんです。1920にアメリカで作られたと言っていました。日本でも昨年にミッチェルで撮った映画、愛染かつらと言うのがあります。旅の夜風と言う歌が流行っています。黒白ですが、アメリカではカラー映画が出来ていると聞きました」
――花も嵐も踏み越えて、、父親の清太郎が歌っていたあれか?と長谷川が帰国宴会の夜を思い出した。
「ボクはそのミッチェルが欲しいんだ」
「ボクでも欲しいんです。素人の映画愛好家が上海事変を撮影したんです。軍部が取り上げて燃やしたんです。以来、撮影を禁止しているんです」
「軍部は間違っているな。映像技術に遅れる。すると特務機関のボクでも許可されないだろう」
「長谷川さん、蓄音機があります。日本ビクターと言うんですが、試作しています」
「それ欲しいな。山中さん、手に入るかね?」
「脅せば手に入りますよ」と山中が笑った。
「ところで、長谷川さん、桜三号を知っていますか?」
「いや、聞いたことがない。桜?何なんですか?」
「いえ、ボクも知りませんが、飛鳥参謀の手帳にあるんです」
長谷川道夫が遠くを見る目になっていた。長谷川が「それでは」と電話を再び取った。磯村が山中に部屋を案内した。ドアを開けてバルコニーに出た。ハルピン市街と松花江が五月の青空の下に広がっていた。
「山中さんにはお世話になります」と磯村が言った。
「いや飛鳥少佐と長谷川大尉が日本軍を守ったのですよ」
そう言えば、今でも長谷川大尉は自分と春燕を守ってくれている。
「山中さん、明日朝、アルバム報告を持って領事館へ行きます。お話を聞きたいのです」
ドアにノックが聞こえた。カートを押してボーイが入ってきた。たちまち、コーヒーの香りが部屋を占拠した。欧州の製品が手に入るハルピンは満洲のパリなのだ。満人でもない、ロシア人でもないユダヤ民族が東西の橋渡しをしていた。
続く、、
最八章
1
この間、岩田大尉の率いる戦闘機攻撃隊の貢献は大きかった。ノモンハン事件の日本陸軍飛行部隊は終始空中戦で優勢を保った。スペイン内戦で大勝利したソ連軍の星、ポリカリポフを数十機撃墜した。騎兵小隊が不時着した一機を飛行士共に鹵獲(ろかく)した。この飛行士は強情だった。
「三日間、水だけだ。メシ食わすな」とイワノフが言った。飛行士がイワノフを睨みつけた。
三日が経った、、飛行士の目がうつろだった。
「トバリシ、素直に話せば食わすぞよ」とイワノフが、湯気が立つビーフ・シチュウとバスケットにいっぱいのパンを横のテーブルに置いた。そしてパンを一つ取ってバターをべったりとぬった。飛行士が唾を飲んだ。
長谷川とパンを片手に持ったイワノフが尋問した。飛行士が日本兵の銃剣に怯えて大きな体を震わしていた。ついに、シチュウの匂いに負けた。ソ連軍の全てを吐いた。ソ連軍はハルハ作戦失敗でスターリンの激怒に怯えているのだと言った。新任の司令官ジューコフがやってくる。戦闘機はもう一機もない。再編成に一か月はかかると言ったのである。
「カピタン、こいつさ、白状したからクビハネル?」とイワノフがロシア語で言った。憲兵が軍刀を抜いた。
「ひゃあ~」と飛行士が悲鳴を上げた。みんな大笑いになった。
長谷川と磯村が小松原に会った。小松原総司令官は東八百蔵大佐を失ったことに意気消沈していた。悪い顔色をさらに悪くしていた。「八百さん、敵前逃亡だよ」などと言ったことを悔悟していた。長谷川の報告を受けても顔色は好くならかった。
「それで、君たちはどうする?」
「戦闘になったからには、我々の任務は終えました。明日、貨物機を一機出して頂きたいのであります」
「そうか、ご苦労であった。飛行部隊に伝える」と電話を取った。小松原はなぜか寂しそうであった。部屋に戻った長谷川が島原領事に電報を送った。いそいそと磯村が荷物をまとめた。嬉しそうであった。
2
六月三日の朝は快晴だった。傷病兵が担架に乗せられて一式貨物機に向かった。貨物機の前に岩田と北上がニコニコ笑いながら待っていた。
「岩田大尉さん、北上少尉さん、有難う。戦闘が終わったらハルピンへ来てください」と長谷川がエースたちと握手をした。ついで、磯村とウランが敬礼をした。
「ドブラエ・ウートラ、カピタン・イワタ。ルテナント・キタガミ、スパシーボ。ドーシダーニャ」とイワノフが大きな手を出した。
「おお、イワノフ、お土産をあげよう。君にポリカリポフを上げるよ」
「いいえ、ケッコウデス」と大男が手を振って言うと爆笑が起きた。
長谷川一行とハイラルの陸軍病院に収容される傷病兵十二人が飛び立った。飛行場の上空を旋回した。地上で岩田たちが手を振っているのが見えた。磯村が写真に撮った。
「磯村少尉、また生き残ったな」
「大尉殿のおかげであります」
ハイラルで傷病兵を降ろすと、手足を切断された重症の兵隊たちが運ばれてきた。ハルピンの平房陸軍病院へ空輸するのである。どれも若い兵隊である。長谷川が見ていると、看護兵が首を振った。磯村が目を瞑った。一式貨物機の翼は遅いが、ハイラルから一二〇〇キロあるハルピンの平房飛行場に三時間四十分で着いた。夕方の四時になっていた。自動車班がイワノフとウランに車を手配してくれた。長谷川が三日間だが休んでくれとイワノフに言った。
「オーチン、ハラショー」と、ふたりはキタイスカヤ街へ帰って行った。
長谷川たちは平房の総司令官に報告に行った。
「おお、そうか。帰還した将校らから聞いたが、やはり長谷川君でないと要領を得ないんだ」
「司令官殿、磯村がアルバムで報告書を作りますので二日ほどください。それとソ連軍も混乱しているようです。ジューコフという新任の司令官が到着するまでホロンバイルは静かだと思います。つぎの戦闘が始まるのは、八月だと思います」
「もう一度、ここへ来てくれないか。俺が何をすればいいのか指導してくれ」
「ハッ、何度でも来ます。電報には目をお通しだと思いますが、担当士官に落ち度のないように伝えてください。ノモンハンは事件ではなく戦争であります」
二人は兵隊食堂へ行った。麦飯とカツオの刺身が出た。「ウォ~」と磯村が吠えた。給仕兵がびっくりしている。注意しようと長谷川が見ると少尉が涙をこぼしていた。しばらく待った。長谷川が磯村平助の湯飲みに酒を注いだ。
「磯村、痩せたな。うんと食え。島原領事が明日朝、まっすぐ領事館へ来てくれと言っている。明日だけどね。領事館で現像してアルバムを三冊作ってくれ。戦場の土産だよ」
「大尉殿、済みません。涙が出てしまったのあります」
「いや、俺だって泣きたいよ」と杯を空けた。ノモンハン帰りと聞いた給仕兵が熱燗をもう一本持ってきた。
「准尉殿には乗馬以来、会わなかったのですか?」
「ハルハ川の北へ斥候に行った。無事だと聞いた。あいつは死なない」
磯村がカツオを猫のように平らげてしまった。長谷川が給仕兵に緑茶とカツオの生姜醤油漬けを頼んだ。
「ああ、 カツオ茶漬け、大好物であります」とついでに麦飯を頼んだ。ふたりは羊羹を食った後、将校宿舎の風呂に入った。洗濯物を新兵に渡すと新しいフンドシ~シャツ~靴下を貰った。部屋に行って寝た。
「磯村、明日朝八時に軍医の身体検査がある」と言って長谷川はさっさと寝てしまった。磯村は――春燕の手紙を早く見たかった。苗族の胡娘を脳裏に描いた。やがて酒がまわって寝てしまった。
「長谷川大尉、磯村少尉、おふたりとも健康に異常なし。だが血圧が一六〇と高い。少し休め」と聴診器を首にかけた軍医長がアドバイスをした。若い看護婦が携帯医薬を持ってきた。ふたりの憲兵将校がハンサムなので顔を赤くした。
下士官がダットサンで領事館へ送ってくれた。山中武官が玄関で迎えた。ニコニコと笑っている。早速、島原領事の執務室へ行った。部屋にユリの花の香りがした。アベ・マリア像の前に鉄砲ユリが活けられた花瓶があった。磯村が怪訝な顔をした。
「長谷川君、無事だったね。磯村君は少し痩せたようだね」とふたりと握手をした。
「僕らは戦闘員ではないですから。領事さん、ノモンハンは本当の戦争です。上海のギャング相手のほうが僕らには向いております」と長谷川が笑った。
「大砲の怖さを体験しました」と磯村が言った。
「少尉、山中さんに手伝って貰って現像をしてくれ。領事さんと二人で話があるんだ」
「ああ、長谷川君と磯村君への手紙だ。まずそれを読みたまえ」とインド象が机の引き出しから二通の封筒を取り出した。ふたりは読まずに上着の内ポケットに入れた。山中と磯村が部屋を出た。
「それ楽しいですね」と山中が廊下を歩きながら言った。
「そうでもない写真があります」と磯村の声が聞こえた。
二人が暗室に入った。山中が赤いランプを点けた。現像液を作りフイルムを浸けた。磯村がどんどん現像して山中が洗濯挟みで紐に下げた。乾くまで紅茶を飲んだ。
「山中さん、島原領事さんはキリスト教徒なんですか?」
「島原家は備前岡山藩の良家。カトリック教徒なんだよ」
「キリシタン大名のご子孫でしょうか?」
「それは僕には分らん。札幌農業学校でもクラーク博士の影響でキリスト教に帰依した学生が多いからね」
「少尉は、宗教に興味があるのかね?」
「あると言えばあります。飛鳥少佐の故郷の奈良へ行ったときに感化されました。飛鳥山門参謀は元天台宗の僧侶であられたと聞きました」
「古来より日本の武人は仏に帰依している。殺生をしなければならないためと聞いたことがある。これが怨親平等なのだ。そしてその基礎が我が帝の一視同仁だと思う」
磯村平助は山中武官が好きになった。やはり領事館付きの武官は士官とは違うんだ、、
「ところで、これすごい量だね」
「昼飯抜きかな」と磯村が心配した。
「いや、大和ホテルに幕内弁当の配達を頼んだよ。もう一人の沢田武官はね、関東軍との通信が担当で傍聴には関与しない。ミス・スターがアメリカに行ってしまったので、ロシア課では欠員が出ているんだ」と磯村の目を覗いた。
「はあ、僕はロシア語がわかりません。長谷川大尉にこれからの予定を聞きます」
「う~む、、ロシア語が出来る奴は、池田のような信用出来ない主義者が多いからね」
「よし乾いたようです。まず、幻燈で見ましょう」
会議室へ行くとインド象と長谷川大尉が紅茶を飲んでいた。上官の山中が沢田に映写機を持って来させた。
「弁当先に食うか?」とインド象が若者に気つかって提案をした。
「ハッ、お願い致します」と、すかさず磯村が言った。女性の事務員ふたりが弁当と緑茶を持って現れた。手こね寿司まである。幕の内も七人分あった。
「君たちも一緒にどうかね?」と領事が女性事務員に訊いた。
「いいえ領事さん、女には女の話がありますから」と笑った。
「これ美味いです。嬉しいです」と磯村が手こね寿司をしゃもじで皿に掬って食べた。
「少尉、幕の内を二つ貰え」
「ハッ、そのつもりであります」と言うと爆笑が起きた。
昼飯の後、幻燈を準備した。長谷川が電灯を消した。最初に岩田機と北上機のトムスク爆撃が写った。並んだソ連軍の軽装甲車が見えた。ポリカリポフが数機見えた。テープレコーダーで爆音や二人のエースの話し合う声が聞こえた。高射砲の音~急降下する岩田機の金切り音~爆弾の破裂する音、、長谷川が領事を見た。インド象は拳を硬く握ってスクリーンを見ていた。「ワハハ」と岩田が笑う声が聞こえると山中が奇声を発した。だが、全滅した東支隊の累々と仰向けに横たわる日本兵が写ると山中が沈黙した。領事は手を組んで祈っていた。東大佐の仏姿も写った。フルン湖の漁師一家も写った。小川で鱒を釣ったのもあった。ホロンバイルの航空写真は地形を語った。小松原中将の生気のない痩せた顔が写った。長谷川は島原領事が不機嫌になるのを見た。
「領事さん、アルバムで報告書を作ります」
「焼き付けは僕がやっておきます」と山中が言った。
「うむ、疲れていると思う。休んでくれたまえ。明後日、来てくれんかな?」
「ハッ、朝九時に参ります」
ふたりは背広に着替えた。
3
山中が運転して松花江の宣化街で降りた。龍門大厦のロビーに入ると、フロントが「ニイハオ」と挨拶した。ふたりの憲兵将校はすっかり常連なのである。おなじみの最上階の部屋に入った。ボーイがトランクを持ってついてきた。磯村がチップをやった。
ハルピン領事館の真向かいにある憲兵隊が抜き打ち検査をしたと聞いたが、部屋を一巡した長谷川が「メシクッタカ」と言った。長谷川が極度の疲労を感じた。
「少尉、俺、二時間ばかり寝るぞ」とフンドシ一つになった。
「自分も寝ます」
二人はベッドに転がるやいなや鼾をかき始めていた。長谷川が起きると、磯村がスタンドを点けて手紙を読んでいた。辞書を引いてはアタマを捻っている。長谷川も佐和子の手紙を開けた。――開墾はうまく進んでいて、事故はなく、父母も娘たちも、秋田犬の子犬もぐんぐん育っている、、買ったホルスタインは乳の量が多い。政府がバターを買い上げる値段を上げてくれた。クロガネは故障がなく元気です。道夫さんが命を賭けたお給料が長谷川一家を大きくしています。写真が五枚入っていた。二通目はカレンからだった。
――私がもっとも愛するミチオへ、
五月二十日、双子が生まれました。男の子です。早産で体重が三〇〇〇グラム、身長は五〇センチ。でも、とても元気なのよ。お乳を吸う力も強いの。私、涙が出て仕方がないのよ。名前だけど、私のパパが着ける。これユダヤの習慣なの。スターコビッツ家の初めての男の子なので訪問客が多いのよ。サンフランシスコ領事館からもお祝を頂いたわ。こっちのことばかり書いてごめんなさいね。ミチオは今どこにいるのかしら。日本領事館は島原領事と私が話すことを禁じている。アメリカ国務省が傍聴している。この手紙もロスアンゼルスの友人に投函を頼んだのよ。これを読んだらすぐお手紙頂戴。カレン・スター
写真が数枚入っていたが、どれも双子の写真ばかりだった。ユダヤの坊さんが儀式をやっていた。一家が大広間で祝賀会をやっていた、カレンが少し太ったようだ。
長谷川が目頭を抑えるのを磯村が見た。
「少尉、心配するな。カレンが双子の男の子を産んだ。これで五人の子の父親となった。君、さっきアタマを捻っていたが何かあるのか?」
「ハッ、ちょっと分らない漢字があるのです。月血中間痛ってなんでありますか?」
「バカモノ、キサマは父親になるんだ」
「エエ~?」
「ちょっとその手紙を見せろ」
長谷川が一読した。判ったのは春燕が妊娠したことである。
「春燕がびっこを引いて帰ったのは、太湖のカジノホテルだったよな?」
「そうであります」
「すると、四月の三日ぐらいだろうかな?」と日記帖をめくった。
「やはりそうだ。すると、来年の一月には生まれるぞ」
「はあ?大尉殿、自分はどうすれば良いと思いますか?」
「バカコケ!自分で考えろ」
ふたりは支那服に着替えて階下の珍味楼へ行った。お祝だ。一番でかいテーブルに着いた。
「そこは十人様用です」
「いくら払えばいいのか」
「三割、料金が高くなります」
「我知道了(ウォーツータオラ)」
聞いた周りの客が驚いて振り向いた。
「大尉殿、あのう、オカネは節約したほうが良いかと、、」
「黙れ!今夜は何を食ってもいいぞ。明日は一日寝るだけだ」
「それでは」と平助が日本産の伊勢海老二匹と北京家鴨のピータンを頼んだ。長谷川が鱶ヒレのスープ~子豚の上海風丸焼きと紹興酒の最高のものを注文した。フロントのボーイを呼んで子供が生まれたのでミュージシャンを呼べ。花を円卓の真ん中に飾れと言った。酒家の社長が挨拶に来た。紹興酒はお目出度なので無料ですと言った。もっとも、この得体の知れない二人は最近にない上客なのであった。
胡弓を持った満人のロートル~琴を抱えたこれも老人~もうひとりの老人がチャルメラを吹きながら店に入ってきた。
「なんだ、ロートルばかりじゃないか」と長谷川が文句を言った。すると三人の老人のミュージシャンの後ろにミチルぐらいの胡娘がついてくるのが見えた。可愛い袖のある白いワンピースを着ていた。舞台に駆け上がると「私は雪蘭」と言ってから黒髪を大人のように結った頭を下げた。拍手が沸いた。
「あの娘は有名なんです」と紹興酒を温めて持ってきた社長が言った。胡弓を持ったロートルが優しい調べを弾きだした。
「みなさん、王さんの太太が双子の男の子を産みました」と雪蘭が、花が飾られた円卓に手を差し伸べた。拍手が起こった。王さんが立ち上がって四方に頭を下げた。
「みなさん、お酒を飲んでください」と王さんが言うと、ウエイターたちがワインや紹興酒をグラスに注いで回った。
――世上只有媽媽好(世界でたったひとりのママが大好き)と胡娘が歌いだした。最初の歌詞は質素なララバイである。それが二分ほど続いた。磯村が九州の子守歌と違うなと思った。だがどちらも涙を誘う調べである。まわりを見ると若い夫婦がハンカチを目がしらに当てていた。歌姫が蚊細い声で第二の歌詞を歌い出すとそれがクライマックスなのか、隣のテーブルの青年が涙をポロポロこぼした。磯村が長谷川を見た。やはり目に涙を溜めていた。小倉生まれの平助までが春燕を想って泣き出した。歌い終わると大きな拍手が起きた。そして「カンペイ」とグラスを持ち上げた。
「あなたたちも食べなさい」と王さんが楽団に円卓に座れと手招きをした。メニューを持って来させた。雪蘭が、もりもりと焼き豚を食べてデザートをオーダーした。
「これは、高く付きますよ」と磯村少尉が上官に耳打ちした。
「神田川のカネだ。ヤクザの贈り物さ」と長谷川が笑った。磯村が玄界灘の皆殺しを想い出して苦笑いした。ふたりは部屋に戻って寝間着に着替えた。それから手紙を書いた。
「大尉殿、ここはどう書けば良いのでありますか?」
「日本語で書け。俺が広東語に翻訳する」
「プライべートな話もありますが」
「バカモン、俺には関係ないぞ」
夜が更けていった。磯村が窓へ行って松花江を見た。ランタンを灯した漕ぎ船が見えた。鰻の夜釣りである。遠い四川省の山奥にいる春燕を想った。――子供に会える日が来るのだろうか。俺の子共は苗族か、、
4
久しぶりに朝の九時に起きた。ふたりが洗面所で歯を磨いていた。電話が鳴った。電話を長谷川が取ると山中武官である。ロビーに来ていると言ったので部屋に来てもらった。
「写真を持って来ました」と山中は言ってからロココ風の豪華な部屋に驚いていた。鉄砲ユリの匂いがした。
「済みません。僕らの仕事を担いで頂いて」
「いや、印画は楽しかったですよ」
長谷川が見ると見事な焼き付けであった。
「山中さん、朝飯は?」
「まだです」
「クロワッサンをご存じですか?」
「大尉殿、自分は大学時代、パリに留学したのであります。政治ではなく絵画であります。わが家系は安土桃山以来の狩野幽斎派の絵師であります」と山中が言った。この武官は軍人では勿体ないと長谷川が思った。長谷川が以前から気になっていたことを山中に訊いた。
「山中さん、あなたはミッチェル撮影機を知っていますか?」
「ええ、パリでカンカン・ダンスの撮影に呼ばれたんです。1920にアメリカで作られたと言っていました。日本でも昨年にミッチェルで撮った映画、愛染かつらと言うのがあります。旅の夜風と言う歌が流行っています。黒白ですが、アメリカではカラー映画が出来ていると聞きました」
――花も嵐も踏み越えて、、父親の清太郎が歌っていたあれか?と長谷川が帰国宴会の夜を思い出した。
「ボクはそのミッチェルが欲しいんだ」
「ボクでも欲しいんです。素人の映画愛好家が上海事変を撮影したんです。軍部が取り上げて燃やしたんです。以来、撮影を禁止しているんです」
「軍部は間違っているな。映像技術に遅れる。すると特務機関のボクでも許可されないだろう」
「長谷川さん、蓄音機があります。日本ビクターと言うんですが、試作しています」
「それ欲しいな。山中さん、手に入るかね?」
「脅せば手に入りますよ」と山中が笑った。
「ところで、長谷川さん、桜三号を知っていますか?」
「いや、聞いたことがない。桜?何なんですか?」
「いえ、ボクも知りませんが、飛鳥参謀の手帳にあるんです」
長谷川道夫が遠くを見る目になっていた。長谷川が「それでは」と電話を再び取った。磯村が山中に部屋を案内した。ドアを開けてバルコニーに出た。ハルピン市街と松花江が五月の青空の下に広がっていた。
「山中さんにはお世話になります」と磯村が言った。
「いや飛鳥少佐と長谷川大尉が日本軍を守ったのですよ」
そう言えば、今でも長谷川大尉は自分と春燕を守ってくれている。
「山中さん、明日朝、アルバム報告を持って領事館へ行きます。お話を聞きたいのです」
ドアにノックが聞こえた。カートを押してボーイが入ってきた。たちまち、コーヒーの香りが部屋を占拠した。欧州の製品が手に入るハルピンは満洲のパリなのだ。満人でもない、ロシア人でもないユダヤ民族が東西の橋渡しをしていた。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第七章
1
五月八日の朝がやってきた。会議をするからと給仕兵に五人分の朝飯を持って来させた。四人なのだが、大食漢イワノフを考慮に入れたのだ。
「明日にも戦闘が始まる気配です」と給仕兵が豚肉の韮炒めと麦飯を食缶に入れて持ってきた。食後、どこから持ってきたのかイワノフがコーヒーを入れた。
「磯村少尉、ここ三日で何が判ったのか話してくれ」
「イワノフとウランが集めた情報ですが、ソ連軍は、わが軍を西と東から挟み撃ちにする動きであります」
「ソ連軍は日本軍基地の東には基地がないよ。どうして挟み撃ちができるのかね?」
「東(ひがし)八百蔵師団長がおっしゃるには、ソ連軍は、ハルハ川の北から戦車部隊を送る公算が最も高いのだそうであります」と磯村が話した。長谷川がハルハ川のマップを見た。川というが幅が最大でも一〇メートルの溝と池である。ハルハ川は、西北から東南へカーブして小腸のようにくねっている。――これは白亜紀の川だと河の博士は一目で理解した。この川はどこからでも簡単な仮設橋で渡れる。ソ連機甲師団が北を回る理由も単純だ。ハルハ川の東側二十キロは満洲領でノモンハンという西側のソ連基地を直線で結んだ地点を注視した基地だからだ。
「我々四人は、午後の小松原司令官の作戦会議に出る。司令官がどのようなお考えなのか聞きたい」と言ったときにイワノフが驚くべきことを言った。
「カピタン、小松原さんを信用してはいけない」
「それは、どうしてか?」と長谷川の目が左右に動いた。
「島原領事の忠告です。ボクにも何のことかワカラナイヨ」とイワノフがコーヒーをがぶりと飲んだ。
磯村平助が、ここを逃げ出したいという表情になっていた。その顔を長谷川が見ていた。
2
小松原中将は痩せてどこかに疾患があるのかと思うほど顔色の悪い男であった。歯もボロボロ、笑っても生気がないのだ。長谷川がイワノフを見た。イワノフが両目でウインクした。小松原はひと通り師団の士気を高める演説をした。
「ここから先は東君が説明する。八百さん、しっかり頼むよ」
磯村が情けない顔をした。東八百蔵師団長は小柄だが日焼けした精悍な四十男である。中佐の襟章である。
「五月に入ってからハルハ川東側の満洲領二十キロの上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発しており、ご周知のとおり日本軍が制空している。我々、東(ひがし)国境守備師団はこれから規模を大きくする。我々は捜索隊と名付けられたが実際は戦闘部隊である。この部隊名は誤解を招く。改善してもらいたい。戦場はハルハ川の満洲国側である。その規模は、幅が二十キロ~右斜め下へと八十キロの草原である。草原と言うが草が茂っているわけではなく、高さ二十センチほどの雑草が生えておる。軽戦車が数日でハイラルから到着する。これがホロンバイルを走ると土埃が濛々と巻き上がるのだ。さて諸君、ここ数日ソ連軍の動きが活発になっておる。昼間は偵察機と先兵隊の集音器でそれが判る」と言って東中佐が拡声器のスイッチを押した。すると、ポリカリトフ戦闘機の爆音や軽戦車のジーゼル音が聞こえた。長谷川が磯村に、BA・6貨物トラック軽装甲車の写真を見せた。東中佐が「諸君、ここ数日で戦闘が起きると思ってよい」と締め括った。士官も下士官も緊張した顔になった。
「岩田さんの顔が見えなかったけど、今どこにおるんかな?」と長谷川が飛行服の青年に訊いた。
「トムスク基地の西へ飛んで行ったのであります」
「鉄道があるって言ってたね」
「そうであります。チョイバルサン基地であります。トムスクからさらに西へ百キロだと聞きました。写真を撮りに行かれたのであります」
「単機でか?」
「いや、北上少尉も同行であります。それから岩田さんは大尉に昇級されました」
「俺と同格だ。戻ってきたら一杯飲むか?」と長谷川が振り返ると磯村が、元気が出たのか笑っていた。
部屋に戻ると岩田大尉がフィルムを持って現れた。イワノフがコーヒーを沸かした。磯村とウランが現像した。軽便鉄道の線路とチョイバルサン基地が写っていた。
「北上少尉が五十キロ爆弾二個を線路に落としたよ。だがすぐに修理するだろうね」
「イワノフ、ウラン、兵隊食堂はしばらくやめて、この部屋で食おう。岩田さんの話は重大だ。電信解読は一分も無駄に出来ないんだ。作業を怠れば俺たちもあの世に行く」
「大尉殿、いつハルピンへ戻れますか?」
「今月いっぱいはここで仕事をする。俺の命令だ」と磯村を睨んだ。
「ハッ、済みませんでした。ちょっと気になることがありましたので」
「春燕か?」
「はあ、済みません」と平助が泣きそうになっていた。
「いや、かまわんよ。昨夜、島原領事が春燕から手紙が来ていると言ってきた」と長谷川が言うと磯村がにっこり笑った。
五月十日、朝起きると東から戦車の轟音が聞こえた。
「日本軍の軽戦車隊がやって来る」と磯村が興奮していた。長谷川、イワノフ、ウランが外へ出ると、東の方面に土埃が濛々と立ち上がっていた。駐屯地の兵隊二万名が外に立っていた。戦車部隊が到着することは知っていたので、四棟の兵隊食堂の給食時間は五部に分けられていた。戦車部隊の構成は、九七式中戦車チハが二台で、九五式軽戦車ハ号が六十台であった。軽戦車のほうが、移動が速く散開し易いということなのである。
「ソ連の大砲大きいよ」とイワノフが言った。
「僕も戦車に乗ってみたい」と磯村が戦車隊長に言った。
「戦闘が始まったらな」と少佐の隊長が笑った。
翌日の五月十一日の暁、その戦闘が始まった。岩田機と北上機の十二試艦戦二機と一式陸攻五機が編隊を組んで西へ飛んで行った。
「九十六式爆撃機は要らないのかな?」と長谷川が呟いた。
「偵察が目的の緒戦だからです。重爆は撃ち落されると高くつきますから」と給油兵が答えた。岩田編隊はすぐに戻ってきた。
「ノモンハンに工兵が橋を架けるのを目撃した。昼には渡河を始めるだろう」
「二時間後に俺たちはノモンハンへ行く。橋を爆撃してやる」と兵隊食堂へ消えた。
岩田大尉の報告と写真を見た東八百蔵中佐が部隊を集めた。
「われわれはどうするのでありますか?」と歩兵中隊長が東中佐に訊いた。
「我々の出動は岩田エースの成果に依る。お前たち、時間がある。食って寝ておけ」と九百名の混成師団に檄を飛ばした。
3
「朝飯食って朝寝した。さあ、出かけるぞ」と岩田が北上少尉に言った。再び、七機の編隊が飛び上がった。だが飛んで行った方向は南西であった。戦闘の岩田機と続く北上機は十五分でノモンハンの上空へきた。五月晴れで地上の全てがくっきりと見える。ソ蒙軍の軽装甲車部隊が見える。一〇〇〇両はある。ソ連兵がポリカリトフと違う爆音に空を見上げている。
「一式陸攻の高度は五〇〇〇で良し。橋を殺るのは俺と北上だけだ。キサマらは、集まっているソ連装甲車部隊に爆弾を落とせ」と無線で言ってからワハハと笑った。岩田の笑い声を兵隊食堂でも聞いていた。兵隊は箸を置いてガタガタと立ち上がった。
やがて、ゼロ戦の急降下する悲鳴のような音に続いて爆弾が破裂する音まで聞こえた。北上は無言だが任務に集中していることが判った。一式陸攻が襲っている爆音まで聞こえた。
「よっしゃ、今日は、うちは出ないぞ。よく休んでおけ。昼飯食ったら、わが師団の点検を行う。騎兵は早めに馬を出しておけ」と東中佐が言った。
岩田編隊は四十分で戻ってきた。岩田大尉が出撃する前にハルピンの平房航空隊に要請した一式陸攻三十機が、夕日が沈む頃に続々と着陸した。やがて陽が西へ沈んだ。ほとんど同時に東の荒原に月が登ってきた。満月だ。ノモンハンの川岸を偵察に言った斥候から無線電信が入った。――ソ蒙軍は。橋を架けなおして満洲側にわたり始めた。BA・6軽装甲車ばかりで、数も二十両前後。歩兵二個師団。自走砲は四門もあれば敵は敗走する。自分たちは撤退する。
「自走砲小隊はもう行っているよ。われわれも準備をしよう」と東中佐が言った。
その時、斥候が――ソ蒙軽装甲車部隊は渡河せず野営している。岩田大尉殿に再び出撃をお願いすると言ってきた。岩田大尉の編隊が再び満月の空を飛び立った。
翌朝、東捜索隊が出かけた。八時間後、東捜索隊百名は手ぶらで帰ってきた。仮設の橋はまた爆破されたので、ソ蒙軍はトムスクへ帰って行った。数人残していった蒙古兵の斥候は日本軍の餌食になった。
五月十五日、朝から雨が降った。始めは小雨だったのが地面に穴が開くほどの嵐になった。岩田が飛行兵を呼んで戦闘機にシートを掛けさせた。
「この雨天でも飛べるが暴風はまずいな」と北上に言った。午後になっても雨は止まなかった。斥候から電信が入った。
「露助がまた橋を架けている。それも三つである。大きな戦車一台を見た」
「今度は間違いなく渡河する。それも大部隊だろう」小松原中将が言った。
――小松原の発言はいつも弱気だと東八百蔵中佐が思った。
「だが、一気には攻めてこない。ノモンハンから四十キロ北にも橋を架けているはずだ」歩兵連隊長の山形大佐が言った。山形は満洲事変以来の歴戦の指揮官であった。翌朝、暴風雨はパタっと止んだ。岩田と北上が偵察のために飛び立った。岩田はノモンハンへ飛び、北上はハルハ川の北へ向かった。機体を軽くするために爆弾は積まなかった。十五分後、日本軍の司令官室のスピーカーが鳴った。岩田機からだ。――ソ連軍の規模は、戦車旅団~偵察中隊~装甲車十六両~兵力約一二〇〇人、、モンゴル軍の騎兵師団二五〇〇人。自走砲四門~対戦車砲六門、、
北へ飛んだ北上機からも報告があった。――橋は完成してソ連軍装甲車四両~自走砲四門~歩兵二百人ほどが高射砲陣地を構築している。陸攻の爆撃が難しくなる、、わが方は戦闘機のみとなる。小松原が山形を呼んだ。攻撃隊を組めと命令を出した。
「攻撃をかけるよりも、モンゴルが主張する二十キロを容認すればよいのではないでしょうか?」
「山形君、俺たちは、敵前逃亡と言われるよ」
「両軍とも無駄死にしますよ」
聞いていた長谷川が磯村を見た。磯村が暗い目をしていた。ふたりは部屋に戻ってイワノフとウランに話した。イワノフまでが暗い顔になった。長谷川は、――突撃しか頭に浮かばない単細胞と飛鳥が言っていたのを想いだしていた。
五月二十一日、小松原総司令官が再び山形大佐を呼んで攻撃を命令した。山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点三か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。歩兵連隊三大隊~山砲三門~速射砲三門~軽重部隊~満洲国軍~九二式重装甲車一両を持つ東支隊、、総兵力は、二〇八二人である。
五月二十五日にハルハ川の東に入ったソ蒙軍の兵力は一四五〇だったが、火砲と装甲車両で日本軍よりも勝っていた。ソ連軍は正面をモンゴル兵に守らせつつ、自分たちは北と南に入り扇状に防衛線を張っていった。作戦でもソ連軍が勝っていたのである。山形は歩兵中心の戦術を考えていた。東捜索隊二百二十名を先発させた。九二式重装甲車一両と自走砲に正面のモンゴル軍はたじろいだ。東支隊はほとんど抵抗なくノモンハンの渡河地点を制圧した。だが、橋を爆破することは出来なかった。いったん退却したソ蒙軍は編成を立て直して、日本軍に襲いかかった。山形の支援部隊が遅い、、
「これでは孤立する」と東が撤退を考えた。遅かった。ソ連軍に後方を遮断されてしまったのである。さらに悪いことには、ソ連軍の狙撃師団がトラックで到着するのが見えた。
「丸く陣地を作れ」と東が言うのを聞いた兵長が――これではアメリカ映画の幌馬車隊ではないかと思った。
「我々は突撃をかける」と電信を打った。その日の夕刻、東支隊は全滅した。東八百蔵中佐は兵と共に戦死した。
五月三十日になった。モンゴル騎兵部隊がハルハ河の東岸へと進出したが岩田大尉の日本軍航空部隊により軍馬に大きな損害を受けた。それでも夕刻にハルハ河東方の高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止されて、ハルハ河の西岸へ撤退した。日本軍主力は小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。いったん休戦である。
「日本軍に勝てなかったソ連軍の指揮官が更迭されたって言ってるよ」とウランがイワノフに報告した。以後は目立った戦闘は起きなかった。両軍とも戦闘の通例である遺体と生存者を収容して引き上げた。
続く、、
第七章
1
五月八日の朝がやってきた。会議をするからと給仕兵に五人分の朝飯を持って来させた。四人なのだが、大食漢イワノフを考慮に入れたのだ。
「明日にも戦闘が始まる気配です」と給仕兵が豚肉の韮炒めと麦飯を食缶に入れて持ってきた。食後、どこから持ってきたのかイワノフがコーヒーを入れた。
「磯村少尉、ここ三日で何が判ったのか話してくれ」
「イワノフとウランが集めた情報ですが、ソ連軍は、わが軍を西と東から挟み撃ちにする動きであります」
「ソ連軍は日本軍基地の東には基地がないよ。どうして挟み撃ちができるのかね?」
「東(ひがし)八百蔵師団長がおっしゃるには、ソ連軍は、ハルハ川の北から戦車部隊を送る公算が最も高いのだそうであります」と磯村が話した。長谷川がハルハ川のマップを見た。川というが幅が最大でも一〇メートルの溝と池である。ハルハ川は、西北から東南へカーブして小腸のようにくねっている。――これは白亜紀の川だと河の博士は一目で理解した。この川はどこからでも簡単な仮設橋で渡れる。ソ連機甲師団が北を回る理由も単純だ。ハルハ川の東側二十キロは満洲領でノモンハンという西側のソ連基地を直線で結んだ地点を注視した基地だからだ。
「我々四人は、午後の小松原司令官の作戦会議に出る。司令官がどのようなお考えなのか聞きたい」と言ったときにイワノフが驚くべきことを言った。
「カピタン、小松原さんを信用してはいけない」
「それは、どうしてか?」と長谷川の目が左右に動いた。
「島原領事の忠告です。ボクにも何のことかワカラナイヨ」とイワノフがコーヒーをがぶりと飲んだ。
磯村平助が、ここを逃げ出したいという表情になっていた。その顔を長谷川が見ていた。
2
小松原中将は痩せてどこかに疾患があるのかと思うほど顔色の悪い男であった。歯もボロボロ、笑っても生気がないのだ。長谷川がイワノフを見た。イワノフが両目でウインクした。小松原はひと通り師団の士気を高める演説をした。
「ここから先は東君が説明する。八百さん、しっかり頼むよ」
磯村が情けない顔をした。東八百蔵師団長は小柄だが日焼けした精悍な四十男である。中佐の襟章である。
「五月に入ってからハルハ川東側の満洲領二十キロの上空では日本軍とソ連軍の空中戦が頻発しており、ご周知のとおり日本軍が制空している。我々、東(ひがし)国境守備師団はこれから規模を大きくする。我々は捜索隊と名付けられたが実際は戦闘部隊である。この部隊名は誤解を招く。改善してもらいたい。戦場はハルハ川の満洲国側である。その規模は、幅が二十キロ~右斜め下へと八十キロの草原である。草原と言うが草が茂っているわけではなく、高さ二十センチほどの雑草が生えておる。軽戦車が数日でハイラルから到着する。これがホロンバイルを走ると土埃が濛々と巻き上がるのだ。さて諸君、ここ数日ソ連軍の動きが活発になっておる。昼間は偵察機と先兵隊の集音器でそれが判る」と言って東中佐が拡声器のスイッチを押した。すると、ポリカリトフ戦闘機の爆音や軽戦車のジーゼル音が聞こえた。長谷川が磯村に、BA・6貨物トラック軽装甲車の写真を見せた。東中佐が「諸君、ここ数日で戦闘が起きると思ってよい」と締め括った。士官も下士官も緊張した顔になった。
「岩田さんの顔が見えなかったけど、今どこにおるんかな?」と長谷川が飛行服の青年に訊いた。
「トムスク基地の西へ飛んで行ったのであります」
「鉄道があるって言ってたね」
「そうであります。チョイバルサン基地であります。トムスクからさらに西へ百キロだと聞きました。写真を撮りに行かれたのであります」
「単機でか?」
「いや、北上少尉も同行であります。それから岩田さんは大尉に昇級されました」
「俺と同格だ。戻ってきたら一杯飲むか?」と長谷川が振り返ると磯村が、元気が出たのか笑っていた。
部屋に戻ると岩田大尉がフィルムを持って現れた。イワノフがコーヒーを沸かした。磯村とウランが現像した。軽便鉄道の線路とチョイバルサン基地が写っていた。
「北上少尉が五十キロ爆弾二個を線路に落としたよ。だがすぐに修理するだろうね」
「イワノフ、ウラン、兵隊食堂はしばらくやめて、この部屋で食おう。岩田さんの話は重大だ。電信解読は一分も無駄に出来ないんだ。作業を怠れば俺たちもあの世に行く」
「大尉殿、いつハルピンへ戻れますか?」
「今月いっぱいはここで仕事をする。俺の命令だ」と磯村を睨んだ。
「ハッ、済みませんでした。ちょっと気になることがありましたので」
「春燕か?」
「はあ、済みません」と平助が泣きそうになっていた。
「いや、かまわんよ。昨夜、島原領事が春燕から手紙が来ていると言ってきた」と長谷川が言うと磯村がにっこり笑った。
五月十日、朝起きると東から戦車の轟音が聞こえた。
「日本軍の軽戦車隊がやって来る」と磯村が興奮していた。長谷川、イワノフ、ウランが外へ出ると、東の方面に土埃が濛々と立ち上がっていた。駐屯地の兵隊二万名が外に立っていた。戦車部隊が到着することは知っていたので、四棟の兵隊食堂の給食時間は五部に分けられていた。戦車部隊の構成は、九七式中戦車チハが二台で、九五式軽戦車ハ号が六十台であった。軽戦車のほうが、移動が速く散開し易いということなのである。
「ソ連の大砲大きいよ」とイワノフが言った。
「僕も戦車に乗ってみたい」と磯村が戦車隊長に言った。
「戦闘が始まったらな」と少佐の隊長が笑った。
翌日の五月十一日の暁、その戦闘が始まった。岩田機と北上機の十二試艦戦二機と一式陸攻五機が編隊を組んで西へ飛んで行った。
「九十六式爆撃機は要らないのかな?」と長谷川が呟いた。
「偵察が目的の緒戦だからです。重爆は撃ち落されると高くつきますから」と給油兵が答えた。岩田編隊はすぐに戻ってきた。
「ノモンハンに工兵が橋を架けるのを目撃した。昼には渡河を始めるだろう」
「二時間後に俺たちはノモンハンへ行く。橋を爆撃してやる」と兵隊食堂へ消えた。
岩田大尉の報告と写真を見た東八百蔵中佐が部隊を集めた。
「われわれはどうするのでありますか?」と歩兵中隊長が東中佐に訊いた。
「我々の出動は岩田エースの成果に依る。お前たち、時間がある。食って寝ておけ」と九百名の混成師団に檄を飛ばした。
3
「朝飯食って朝寝した。さあ、出かけるぞ」と岩田が北上少尉に言った。再び、七機の編隊が飛び上がった。だが飛んで行った方向は南西であった。戦闘の岩田機と続く北上機は十五分でノモンハンの上空へきた。五月晴れで地上の全てがくっきりと見える。ソ蒙軍の軽装甲車部隊が見える。一〇〇〇両はある。ソ連兵がポリカリトフと違う爆音に空を見上げている。
「一式陸攻の高度は五〇〇〇で良し。橋を殺るのは俺と北上だけだ。キサマらは、集まっているソ連装甲車部隊に爆弾を落とせ」と無線で言ってからワハハと笑った。岩田の笑い声を兵隊食堂でも聞いていた。兵隊は箸を置いてガタガタと立ち上がった。
やがて、ゼロ戦の急降下する悲鳴のような音に続いて爆弾が破裂する音まで聞こえた。北上は無言だが任務に集中していることが判った。一式陸攻が襲っている爆音まで聞こえた。
「よっしゃ、今日は、うちは出ないぞ。よく休んでおけ。昼飯食ったら、わが師団の点検を行う。騎兵は早めに馬を出しておけ」と東中佐が言った。
岩田編隊は四十分で戻ってきた。岩田大尉が出撃する前にハルピンの平房航空隊に要請した一式陸攻三十機が、夕日が沈む頃に続々と着陸した。やがて陽が西へ沈んだ。ほとんど同時に東の荒原に月が登ってきた。満月だ。ノモンハンの川岸を偵察に言った斥候から無線電信が入った。――ソ蒙軍は。橋を架けなおして満洲側にわたり始めた。BA・6軽装甲車ばかりで、数も二十両前後。歩兵二個師団。自走砲は四門もあれば敵は敗走する。自分たちは撤退する。
「自走砲小隊はもう行っているよ。われわれも準備をしよう」と東中佐が言った。
その時、斥候が――ソ蒙軽装甲車部隊は渡河せず野営している。岩田大尉殿に再び出撃をお願いすると言ってきた。岩田大尉の編隊が再び満月の空を飛び立った。
翌朝、東捜索隊が出かけた。八時間後、東捜索隊百名は手ぶらで帰ってきた。仮設の橋はまた爆破されたので、ソ蒙軍はトムスクへ帰って行った。数人残していった蒙古兵の斥候は日本軍の餌食になった。
五月十五日、朝から雨が降った。始めは小雨だったのが地面に穴が開くほどの嵐になった。岩田が飛行兵を呼んで戦闘機にシートを掛けさせた。
「この雨天でも飛べるが暴風はまずいな」と北上に言った。午後になっても雨は止まなかった。斥候から電信が入った。
「露助がまた橋を架けている。それも三つである。大きな戦車一台を見た」
「今度は間違いなく渡河する。それも大部隊だろう」小松原中将が言った。
――小松原の発言はいつも弱気だと東八百蔵中佐が思った。
「だが、一気には攻めてこない。ノモンハンから四十キロ北にも橋を架けているはずだ」歩兵連隊長の山形大佐が言った。山形は満洲事変以来の歴戦の指揮官であった。翌朝、暴風雨はパタっと止んだ。岩田と北上が偵察のために飛び立った。岩田はノモンハンへ飛び、北上はハルハ川の北へ向かった。機体を軽くするために爆弾は積まなかった。十五分後、日本軍の司令官室のスピーカーが鳴った。岩田機からだ。――ソ連軍の規模は、戦車旅団~偵察中隊~装甲車十六両~兵力約一二〇〇人、、モンゴル軍の騎兵師団二五〇〇人。自走砲四門~対戦車砲六門、、
北へ飛んだ北上機からも報告があった。――橋は完成してソ連軍装甲車四両~自走砲四門~歩兵二百人ほどが高射砲陣地を構築している。陸攻の爆撃が難しくなる、、わが方は戦闘機のみとなる。小松原が山形を呼んだ。攻撃隊を組めと命令を出した。
「攻撃をかけるよりも、モンゴルが主張する二十キロを容認すればよいのではないでしょうか?」
「山形君、俺たちは、敵前逃亡と言われるよ」
「両軍とも無駄死にしますよ」
聞いていた長谷川が磯村を見た。磯村が暗い目をしていた。ふたりは部屋に戻ってイワノフとウランに話した。イワノフまでが暗い顔になった。長谷川は、――突撃しか頭に浮かばない単細胞と飛鳥が言っていたのを想いだしていた。
五月二十一日、小松原総司令官が再び山形大佐を呼んで攻撃を命令した。山県はソ連軍が刻々増強されつつあることを知っていたが、敵兵力を実際より少なく見積もり、包囲撃滅作戦を立てた。その作戦では、主力は山県が直率して北から進み、東と南には満州軍騎兵と小兵力の日本軍歩兵を配する。ハルハ川渡河点三か所のうち、北と南はそれぞれ両翼の日本軍部隊が制圧する。中央の橋を封鎖するために、東捜索隊が先行して敵中に入り、橋を扼する地点に陣地を築く。こうして完全に包囲されたソ連・モンゴル軍を破砕し、その後ハルハ川を越えて左岸(西岸)の陣地を掃討するというものであった。歩兵連隊三大隊~山砲三門~速射砲三門~軽重部隊~満洲国軍~九二式重装甲車一両を持つ東支隊、、総兵力は、二〇八二人である。
五月二十五日にハルハ川の東に入ったソ蒙軍の兵力は一四五〇だったが、火砲と装甲車両で日本軍よりも勝っていた。ソ連軍は正面をモンゴル兵に守らせつつ、自分たちは北と南に入り扇状に防衛線を張っていった。作戦でもソ連軍が勝っていたのである。山形は歩兵中心の戦術を考えていた。東捜索隊二百二十名を先発させた。九二式重装甲車一両と自走砲に正面のモンゴル軍はたじろいだ。東支隊はほとんど抵抗なくノモンハンの渡河地点を制圧した。だが、橋を爆破することは出来なかった。いったん退却したソ蒙軍は編成を立て直して、日本軍に襲いかかった。山形の支援部隊が遅い、、
「これでは孤立する」と東が撤退を考えた。遅かった。ソ連軍に後方を遮断されてしまったのである。さらに悪いことには、ソ連軍の狙撃師団がトラックで到着するのが見えた。
「丸く陣地を作れ」と東が言うのを聞いた兵長が――これではアメリカ映画の幌馬車隊ではないかと思った。
「我々は突撃をかける」と電信を打った。その日の夕刻、東支隊は全滅した。東八百蔵中佐は兵と共に戦死した。
五月三十日になった。モンゴル騎兵部隊がハルハ河の東岸へと進出したが岩田大尉の日本軍航空部隊により軍馬に大きな損害を受けた。それでも夕刻にハルハ河東方の高地頂上に到達した。そこで、日本軍の機関銃射撃により前進を阻止されて、ハルハ河の西岸へ撤退した。日本軍主力は小兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。いったん休戦である。
「日本軍に勝てなかったソ連軍の指揮官が更迭されたって言ってるよ」とウランがイワノフに報告した。以後は目立った戦闘は起きなかった。両軍とも戦闘の通例である遺体と生存者を収容して引き上げた。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第六章
日が暮れるころフルン湖の北にある低山の山麓に着いた。古代には河原だったんだろうかラクダのこぶのような岩が北に向かって飛び石のように並んでいる。長谷川が六メートルはある岩を見た。硬い花崗岩である。テントを張った。満月に近い月が東に出ていた。
「ここは満洲側なのか?」
「そうですが、ソ連兵が軽装車で見回っているから、この岩を選んだんだ」
「なぜ、ソ連兵が見回る?」
「あの丘の向うに 浜洲線の終点、満洲里がある。そのまた向うはソ連領なんだ。そこにソ連の飛行場が建設されているからね」
「明日の行動はどうする?」と長谷川が気になった。鮎二は答えず笑った。長谷川は冷えてきたので毛布を被った。狼の遠吠えが聞こえた。
夕日が落ちると寝たので、早く目が覚めた。時計を見ると三時だ。隣を見ると鮎二がいなかった。パチパチという焚火の音がした。テントの外に出ると鮎二が馬に餌をやっていた。空を見上げた。満天の星空だった。
「鮎、おはよう」
「おはよう。兄さん、味噌汁を作った。握り飯も焼いた。食ったら出発しよう」
「今日はどこまで行くんか?」
「飛び石を伝って、あの森林まで行くつもりだ」
「行ってどうするんだ?」
「いや、別に目的があるわけじゃない」と笑った。長谷川が双眼鏡で見た。三十キロメートルはある。そこまでは石ころの多い荒地なのだ。飛び石状の岩は十キロメートルほどで途切れている。
「道産子はここへ置いていく」と鮎二が岩の上に目印の石を積んでいた。ロシア馬が身軽になった。持っていくのは、狙撃銃~双眼鏡~ハンザ・キャノン~水筒だけである。
二頭のドンは石ころを上手に避けて歩いている。石が多いと斜め横へ移動する。目がいいのである。草食動物は肉小動物に襲われるために耳と目が鋭い。太陽が東から昇ってきた。二頭の耳がピンと立った。何かを聞いたのだ。鮎二が馬から降りた。長谷川もそれに従った。爆音が幽かに聞こえた。双眼鏡を目に当てると北の丘の上に点が現れた。
「偵察機だよ」と兄が弟に言った。長谷川は、音に覚えがあった。ポリカリポフだろう。時計の秒針を見た。高度を一〇〇〇メートルに下げて飛び石に向かってくる。鮎二を見ると、岩陰で狙撃銃にクリップを差し込んでいた。銃口を空に向けてテストをしていた。
「撃つ気か?爆弾を落とされるぞ」と兄が言ったが、弟は笑っていた。
緑色の機体に赤い星。「ロシアのロバ」ことポリカリポフが肉眼で見えた。飛行帽を被ったパイロットが見えた。最高速と思われたが鈍足だ。だが、あと一分で上空へ来るだろう、、鮎二を見ると、ファインダーを起こしてボルトを引いていた。ロバが岩の真上に来ていた。岩陰に馬を見たのか急上昇した。鮎二が引き金を三回続けて引いた。三発とも当たった。燃料タンクから三条のガスが噴き出した。ポリカリポフは急旋回すると森林に向かって飛んで行った。長谷川が双眼鏡を目に当てて時計を見ていた。二分が経った。ロバが下降するのが見えた。爆発音と共に火の手が上がった。鮎二を見ると、何も言わずただ笑っていた。それから双眼鏡を取って目に当てた。
「道夫兄さん、右八度を見て」長谷川が右方向に双眼鏡を合わせた。すると、貨物トラックが猛スピードで向かってくるのが見えた。
「あれはね、BA・6軽装甲車という。貨物トラックを改造したガラクタなのさ。だが四六口径・四五ミリ戦車砲を搭載してるんだ。言われて見てみると、トラックの後ろに砲塔が見えた。
「貨物トラックを改造したから足は速いよ。時速六十キロのはずだから、二十分でここへやって来るね」訊いた長谷川が嫌な予感がした。四五ミリというと十キロ先が撃てる自走砲と同じではないか。
「兄さん、心配するな。ぼくらの位置は判らないはずだ」ただ、岩を伝ってやって来る。二十分が経った。鮎二が狙撃銃に銃座を付けた。
「う~む、、鮎、装甲車を相手に小銃かい?」
「奴らスピードを落としたね。ぼくらの居場所を探してるんだ」と鮎二が兄を振り返って言った。双眼鏡を目に当てると丸い小窓のある装甲車が一四〇〇メートルまで接近している。戦車砲が右手方向の一番大きい岩を撃った。花崗岩はびくともしなかったが長谷川が身震いした。鮎二がクリップを取り換えてスコープを覗いていた。装甲車はハンドルを切って前輪を右方向に変えた。砲塔がリベットで固定されているので回らないからである。機関砲を下げて二人が隠れている岩に照準を合わせてきた。その瞬間、パ~ンと鮎二の九九式狙撃銃が火を噴いた。その一発は丸い小窓の防弾ガラスに当たったようだ。徐行していた装甲車が石ころに乗り上げると突然左に傾いて停まった。エンストしたのかジーゼルの音が聞こえない。見ていると歩兵が装甲車の後ろのハッチから二人出てきた。
「ははん。前輪のサスペンションが折れたんだな」と鮎二が言った。
「兄さん、左の岩へ行ってくれる?ぼくが手を挙げたら一番後尾の歩兵を撃ってくれ。連射してはいけない。一発だけだ。位置が判るから」と鮎二が指示した。長谷川はうなずいた。習ったばかりの狙撃銃を持って五十メートル左の岩の影に隠れた。そして水筒の水をごくりと飲んだ。長谷川は――左へ行けと言った意味がわかった。二人のソ連兵が修理するために装甲車の右側に移動しているからである。
長谷川のスコープに入ったソ連兵は大男だった。鮎二が手を挙げた。銃把を握る長谷川の手が震えた。ソ連兵はスコープの中で揺れている。この距離だと命中率は低い。弾道の偏流を想い出した。右下へ弾は流れるのだ。思い切ってクロスをソ連兵の鉄兜の左に合わせた。
「パ~ン」と一発撃った。ソ連兵が立っている。――外れたのか?すると大男がゆらりと前に倒れた。残った一人のソ連兵が戦友を抱えて装甲車に飛び込むのが見えた。抱えられた兵隊の足が動いたので、死ななかったようだ。装甲車は左に傾いたままUターンした。猛スピードで逃げていくのが可笑しかった。
長谷川兄弟は道産子が待つ場所に戻った。伝書鳩も元気だった。
「フルン湖の西側を帰ろう。基地まで二十キロ短いから」
西側には全く漁師小屋さえもなかった。湖岸は御影石の岩が多く灌木も生えていた。二頭のロシア馬も道産子も基地へ帰ることを知っているのか脚が速い。ふたりは昼飯を食わず、煎餅を齧ったり、甘納豆を食べた。やがて、フルン湖が見えなくなった。夕日が西へ傾いた。小川があった。三十センチほどの魚がスイっと逃げた。
「兄さん、鱒だよ。釣り竿持ってきたから釣る?」長谷川が鱒を釣っている間に鮎二がテントを張った。焚火を起こすと石の上にヤカンを置いた。米を小川で洗ってから飯盒に入れた。
「鮎、これいくらでも釣れるなあ」と長谷川が鱒を紐に差して帰ってきた。鮎二が笑っていた。兄弟が子供に戻っていた。鮎二が小刀でぬめりを取った。はらわたを出して鉄串に刺した。塩をしっかりとかけて焚火の近くの地面に差した。
「兄さん、酒飲むか?」
「飲もう。鮎、お前は鱒のことが気になるか?」
「朝鮮のどの部隊にいるのかな?」
「あいつなあ、運がいいんだ。釜山の港に配置されている。青森にも毎年帰っとる」
「それは良かった」と鮎二が言ったが表情に憂いがあった。
「どうした?」
「兄さん、ぼくはホロンバイルで死ぬ。万寿子と千鶴は大丈夫です。農家の娘だから。ただ、ぼくが死んだら後家でいてはいけないと言ってください」
弟の覚悟を聞いて滅多に泣かない長谷川が涙をこぼした。
「あのな、鮎、お前は偵察隊なんだ。国境で戦闘が始まったらフルン湖へ逃げろ」
鮎二は黙って酒をすすった。顔を上げて兄を見た。長谷川がトカレフと弾薬をケースごと鮎二に渡した。
「兄さん、チチハルで貰ったメキシコ銀貨は役に立たない」と袋を返した。
「そうかも知れないと思ってこれを持ってきた。二年は食えるだろう」と一ドル金貨と五十セント銀貨の入った革袋を渡した。
朝の五時に起きた。鮎二は外で馬に餌を食わしていた。テントを畳んで道産子に乗せた。東が明るくなっている。鮎二が伝書鳩を籠から取り出して飛ばした。鳩は空を一周すると、まっすぐ南へ飛んで行った。
「兄さん、握り飯作ったから出発しよう」
ふたりは途中で握り飯を食ってトイレを済ました。夕刻まで馬を進めた。南西から騎兵がふたりやって来るのが見えた。伝書鳩が帰還の時間を知らせたからだ。騎兵が敬礼をした。
「何かあったか?」と鮎二が騎兵に訊いた。
「准尉殿、日本軍とソ連軍の空中戦がありました。日本軍が勝ちました。日本機は国境を越えてハルハ川西岸のソ連軍陣地に攻撃を加えました。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めたようであります」
「つまり開戦だな?」、、
「そうであります」
続く、、
第六章
日が暮れるころフルン湖の北にある低山の山麓に着いた。古代には河原だったんだろうかラクダのこぶのような岩が北に向かって飛び石のように並んでいる。長谷川が六メートルはある岩を見た。硬い花崗岩である。テントを張った。満月に近い月が東に出ていた。
「ここは満洲側なのか?」
「そうですが、ソ連兵が軽装車で見回っているから、この岩を選んだんだ」
「なぜ、ソ連兵が見回る?」
「あの丘の向うに 浜洲線の終点、満洲里がある。そのまた向うはソ連領なんだ。そこにソ連の飛行場が建設されているからね」
「明日の行動はどうする?」と長谷川が気になった。鮎二は答えず笑った。長谷川は冷えてきたので毛布を被った。狼の遠吠えが聞こえた。
夕日が落ちると寝たので、早く目が覚めた。時計を見ると三時だ。隣を見ると鮎二がいなかった。パチパチという焚火の音がした。テントの外に出ると鮎二が馬に餌をやっていた。空を見上げた。満天の星空だった。
「鮎、おはよう」
「おはよう。兄さん、味噌汁を作った。握り飯も焼いた。食ったら出発しよう」
「今日はどこまで行くんか?」
「飛び石を伝って、あの森林まで行くつもりだ」
「行ってどうするんだ?」
「いや、別に目的があるわけじゃない」と笑った。長谷川が双眼鏡で見た。三十キロメートルはある。そこまでは石ころの多い荒地なのだ。飛び石状の岩は十キロメートルほどで途切れている。
「道産子はここへ置いていく」と鮎二が岩の上に目印の石を積んでいた。ロシア馬が身軽になった。持っていくのは、狙撃銃~双眼鏡~ハンザ・キャノン~水筒だけである。
二頭のドンは石ころを上手に避けて歩いている。石が多いと斜め横へ移動する。目がいいのである。草食動物は肉小動物に襲われるために耳と目が鋭い。太陽が東から昇ってきた。二頭の耳がピンと立った。何かを聞いたのだ。鮎二が馬から降りた。長谷川もそれに従った。爆音が幽かに聞こえた。双眼鏡を目に当てると北の丘の上に点が現れた。
「偵察機だよ」と兄が弟に言った。長谷川は、音に覚えがあった。ポリカリポフだろう。時計の秒針を見た。高度を一〇〇〇メートルに下げて飛び石に向かってくる。鮎二を見ると、岩陰で狙撃銃にクリップを差し込んでいた。銃口を空に向けてテストをしていた。
「撃つ気か?爆弾を落とされるぞ」と兄が言ったが、弟は笑っていた。
緑色の機体に赤い星。「ロシアのロバ」ことポリカリポフが肉眼で見えた。飛行帽を被ったパイロットが見えた。最高速と思われたが鈍足だ。だが、あと一分で上空へ来るだろう、、鮎二を見ると、ファインダーを起こしてボルトを引いていた。ロバが岩の真上に来ていた。岩陰に馬を見たのか急上昇した。鮎二が引き金を三回続けて引いた。三発とも当たった。燃料タンクから三条のガスが噴き出した。ポリカリポフは急旋回すると森林に向かって飛んで行った。長谷川が双眼鏡を目に当てて時計を見ていた。二分が経った。ロバが下降するのが見えた。爆発音と共に火の手が上がった。鮎二を見ると、何も言わずただ笑っていた。それから双眼鏡を取って目に当てた。
「道夫兄さん、右八度を見て」長谷川が右方向に双眼鏡を合わせた。すると、貨物トラックが猛スピードで向かってくるのが見えた。
「あれはね、BA・6軽装甲車という。貨物トラックを改造したガラクタなのさ。だが四六口径・四五ミリ戦車砲を搭載してるんだ。言われて見てみると、トラックの後ろに砲塔が見えた。
「貨物トラックを改造したから足は速いよ。時速六十キロのはずだから、二十分でここへやって来るね」訊いた長谷川が嫌な予感がした。四五ミリというと十キロ先が撃てる自走砲と同じではないか。
「兄さん、心配するな。ぼくらの位置は判らないはずだ」ただ、岩を伝ってやって来る。二十分が経った。鮎二が狙撃銃に銃座を付けた。
「う~む、、鮎、装甲車を相手に小銃かい?」
「奴らスピードを落としたね。ぼくらの居場所を探してるんだ」と鮎二が兄を振り返って言った。双眼鏡を目に当てると丸い小窓のある装甲車が一四〇〇メートルまで接近している。戦車砲が右手方向の一番大きい岩を撃った。花崗岩はびくともしなかったが長谷川が身震いした。鮎二がクリップを取り換えてスコープを覗いていた。装甲車はハンドルを切って前輪を右方向に変えた。砲塔がリベットで固定されているので回らないからである。機関砲を下げて二人が隠れている岩に照準を合わせてきた。その瞬間、パ~ンと鮎二の九九式狙撃銃が火を噴いた。その一発は丸い小窓の防弾ガラスに当たったようだ。徐行していた装甲車が石ころに乗り上げると突然左に傾いて停まった。エンストしたのかジーゼルの音が聞こえない。見ていると歩兵が装甲車の後ろのハッチから二人出てきた。
「ははん。前輪のサスペンションが折れたんだな」と鮎二が言った。
「兄さん、左の岩へ行ってくれる?ぼくが手を挙げたら一番後尾の歩兵を撃ってくれ。連射してはいけない。一発だけだ。位置が判るから」と鮎二が指示した。長谷川はうなずいた。習ったばかりの狙撃銃を持って五十メートル左の岩の影に隠れた。そして水筒の水をごくりと飲んだ。長谷川は――左へ行けと言った意味がわかった。二人のソ連兵が修理するために装甲車の右側に移動しているからである。
長谷川のスコープに入ったソ連兵は大男だった。鮎二が手を挙げた。銃把を握る長谷川の手が震えた。ソ連兵はスコープの中で揺れている。この距離だと命中率は低い。弾道の偏流を想い出した。右下へ弾は流れるのだ。思い切ってクロスをソ連兵の鉄兜の左に合わせた。
「パ~ン」と一発撃った。ソ連兵が立っている。――外れたのか?すると大男がゆらりと前に倒れた。残った一人のソ連兵が戦友を抱えて装甲車に飛び込むのが見えた。抱えられた兵隊の足が動いたので、死ななかったようだ。装甲車は左に傾いたままUターンした。猛スピードで逃げていくのが可笑しかった。
長谷川兄弟は道産子が待つ場所に戻った。伝書鳩も元気だった。
「フルン湖の西側を帰ろう。基地まで二十キロ短いから」
西側には全く漁師小屋さえもなかった。湖岸は御影石の岩が多く灌木も生えていた。二頭のロシア馬も道産子も基地へ帰ることを知っているのか脚が速い。ふたりは昼飯を食わず、煎餅を齧ったり、甘納豆を食べた。やがて、フルン湖が見えなくなった。夕日が西へ傾いた。小川があった。三十センチほどの魚がスイっと逃げた。
「兄さん、鱒だよ。釣り竿持ってきたから釣る?」長谷川が鱒を釣っている間に鮎二がテントを張った。焚火を起こすと石の上にヤカンを置いた。米を小川で洗ってから飯盒に入れた。
「鮎、これいくらでも釣れるなあ」と長谷川が鱒を紐に差して帰ってきた。鮎二が笑っていた。兄弟が子供に戻っていた。鮎二が小刀でぬめりを取った。はらわたを出して鉄串に刺した。塩をしっかりとかけて焚火の近くの地面に差した。
「兄さん、酒飲むか?」
「飲もう。鮎、お前は鱒のことが気になるか?」
「朝鮮のどの部隊にいるのかな?」
「あいつなあ、運がいいんだ。釜山の港に配置されている。青森にも毎年帰っとる」
「それは良かった」と鮎二が言ったが表情に憂いがあった。
「どうした?」
「兄さん、ぼくはホロンバイルで死ぬ。万寿子と千鶴は大丈夫です。農家の娘だから。ただ、ぼくが死んだら後家でいてはいけないと言ってください」
弟の覚悟を聞いて滅多に泣かない長谷川が涙をこぼした。
「あのな、鮎、お前は偵察隊なんだ。国境で戦闘が始まったらフルン湖へ逃げろ」
鮎二は黙って酒をすすった。顔を上げて兄を見た。長谷川がトカレフと弾薬をケースごと鮎二に渡した。
「兄さん、チチハルで貰ったメキシコ銀貨は役に立たない」と袋を返した。
「そうかも知れないと思ってこれを持ってきた。二年は食えるだろう」と一ドル金貨と五十セント銀貨の入った革袋を渡した。
朝の五時に起きた。鮎二は外で馬に餌を食わしていた。テントを畳んで道産子に乗せた。東が明るくなっている。鮎二が伝書鳩を籠から取り出して飛ばした。鳩は空を一周すると、まっすぐ南へ飛んで行った。
「兄さん、握り飯作ったから出発しよう」
ふたりは途中で握り飯を食ってトイレを済ました。夕刻まで馬を進めた。南西から騎兵がふたりやって来るのが見えた。伝書鳩が帰還の時間を知らせたからだ。騎兵が敬礼をした。
「何かあったか?」と鮎二が騎兵に訊いた。
「准尉殿、日本軍とソ連軍の空中戦がありました。日本軍が勝ちました。日本機は国境を越えてハルハ川西岸のソ連軍陣地に攻撃を加えました。両軍とも、敵の越境攻撃が継続中であると考え、投入兵力を増やすことを決めたようであります」
「つまり開戦だな?」、、
「そうであります」
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第五章
1
五月一日になった。メーデーだ。イワノフとウランが騾馬を引き出した。標高が二百メートルの丘の上のアンテナ塔へ向かっているのである。肺の大きい騾馬は軽々と岩の道を上って行った。イワノフたちが丘に行ったのは塔から自室へ電線を敷くためである。警備兵がふたり、景色を見るしかやることがなく煙管で煙草をふかしていた。ロシア人の二人を待っていたので、姿が現れると立ち上がって敬礼をした。イワノフが持ってきた弁当を飯台に置いた。警備兵が湯を沸かしてみんなで食った。頂上の展望台には屋根があった。五月の荒原の空気は爽やかである。イワノフとウランが景色を見ていた。
「あれがハルハ川です」と警備兵がイワノフに言った。裸眼でも微かに見えたが双眼鏡を目に当てると川幅が十メートルほどの川が蛇のようにクネクネと西北から南東へ流れている。向きを九十度右へ変えると北に荒原が広がっていた。さらに九十度右を見ると岩山がラクダの瘤のように連なっていて、そのまた北東は荒原だった。遥か向こうに森林と大きな湖が見えた。クリル文字の地図を見ると、モンゴル領であった。
長谷川が弟鮎二のチチハル騎兵小隊の位置を知った。伝えたのはイワノフだ。日本軍の電信で分かったのである。第二十三師団長の小松原中将は、モンゴル軍を叩くために東中佐の師団捜索隊と二個歩兵中隊~満州国軍騎兵からなる部隊を東支隊と名付けて送り出していた。現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、偵察機によって東支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えたことが判った。
五月の初旬のその朝、西方六キロメートルに砂塵が見えた。砂塵は野砲大隊の自走砲が巻き上げているのだ。やがて東支隊が荒原に現れた。歩兵六百名~騎馬三百騎の大軍である。
「あれがチチハル騎兵小隊であります」と青森出身の曹長が長谷川に言った。双眼鏡をケースから取り出して見ると、先頭に長谷川鮎二准尉が東中佐と轡を並べて進んでくるのが見えた。長谷川は鮎二が無事であることに胸を撫で下した。騎兵に続き野砲大隊~歩兵が野戦基地に到着した。留守番していた兵隊が駆け出して行った。ジーゼル発動機を回して井戸から水を汲んだ。石鹸が配られた。九百名の兵隊が越中フンドシ一つになって水を浴びた。新しい、フンドシ~靴下~シャツが配給された。その九百名が野外のテント食堂に入った。長谷川が鮎二を見ていた。急いでメモを書いて磯村に渡した。長谷川准尉に持って行かせたのである。「返事を貰ってこい」と言った。磯村平助が長谷川准尉に敬礼をした。長谷川鮎二がメモを見た。そして短いメモを書いて磯村に渡した。――道夫兄さん、四日休みが貰える。馬でホロンバイルへ行こう。
2
夜明けに、騎兵が長谷川の宿舎のドアを叩いた。厩舎へきてくれと言った。乗馬服を着て長靴を履いた。磯村が起きてきた。――鮎二とホロンバイルへ行く、、四日間は帰らないと言った。そして背嚢を背負った。迎えに来た騎兵と厩舎へ行くと、鮎二が背の高い馬二頭と道産子一頭を引き出して道産子に燕麦、乾燥肉、テント、鍋と伝書鳩の籠を括り付けていた。兄の道夫が観ているのに気が着いて微笑んだ。騎兵の馬なのか実に馬格が好い。やはり飛鳥が言っていた道産子は騎兵には向かない。脚が短いからである。つまり道産子は競走馬ではないのである。ただ道産子は長距離には強いのだ。騎兵が銃身の長い小銃を二丁持ってきた。長谷川が興味を見せた。
「アリサカであります」と言ったが、長谷川には何のことか分らなかった。
「兄さん、後で説明する。背嚢をください」と鮎二が言った。
厩舎を出たふたりが轡を並べた。三頭の馬は東へ向かっていた。道夫がコンパスの蓋を開いてマップを見ている。村落も道もないので岩山が目印なのだと鮎二が兄に言った。鮎二がマップを兄に渡した。手書きで岩の絵がある。
「道夫兄さん、ここから七キロ北にフルン湖がある」と鮎二が言って写真を見せた。見ると、乾いた荒原に湖が広がっている。樹木の影はなく、湖畔にだけ草が生えている。湖の両側は全くの土の平原で岩さえないのだ。
「鮎、湖の北に幽かだが低山が連なっているね」
「あの山脈の向うはね、ソ連領なんだよ。そこから森林が広がっているんだ」
長谷川が飛鳥と東満洲のソ連国境を超えたあの雪の日を想い出していた。綏芬河の騒々しい街~ボグリニチのロシア人一家、、なぜか涙が出た。鮎二がそれを見ていた。
「鮎、この馬は馬格が大きいけど何の種なのかね?」
「ロシア馬で、ドン種という長距離走用の馬なんだよ。記録では、ロシアで生育した品種のドンが二十四時間で二百八十キロメートルを走ったというのがある」
鮎二に馬の速度を訊いた。
「兄さん、馬の歩様には、並足~速歩~駈足~襲歩とあります。時速六キロ~十二キロ~二十キロ~四十キロくらいです。競馬用のサラブレッドはね、最後の追い込みでは時速六十五キロなんだ」と、さすがは騎兵隊獣医なのである。二人はトロットという速歩で北へ進んでいた。トンガリ帽子のような赤い岩が見えた。花崗岩ではなく砂岩である。手押しポンプのある井戸があった。満州軍が掘ったものだ。鮎二が馬から降りて、水を桶に汲んだ。兄弟は給仕兵が作ってくれた弁当を開いた。長谷川がハンザ・キャノンを取り出して岩に腰かけている鮎二を撮った。岩手の義妹に送ってやるつもりなのだ。
「日暮れにはフルン湖に着くよ」
弁当を食うと、ふたりは再び馬にまたがった。三時間ほど行くと日が西へ傾き始めた。そよそよと吹く風が気持ちいい。細い小川が所々にあった。長谷川が地図を見て湖が近いと知った。二頭のドンが耳を立てた。馬の脚が速くなっていた。道産子も負けてはいなかった。一生懸命に歩く道産子に磯村の彼女、春燕(ちゅんえん)を想い出していた。フルン湖が見えた。西から太陽が湖面を照らしている。小屋と帆かけ船が見える。――漁師の小屋だと鮎二が言った。
「ふ~ん、どんな魚がおるんかな?」
「焼いて食わしてくれるよ」と弟が笑った。馬の日詰の音に漁師の一家が出てきた。子供が四人もいた。 モンゴル系である。――カルムイク族だと鮎二が言った。鮎二の満洲語は通じなかったが、長谷川のロシア語は通じた。この意味するところは、ロシア人がこのあたりに出没するということである。のちに、長谷川は彼らがソ連から逃げてきたと知ったのである。
「兵隊か?」と長谷川がライフルを見せて訊いた。すると漁師の妻が行商なのだと答えた。
「一晩、五円でどうか?」と亭主が訊いた。これは歩兵の半月分の給料に当たる。長谷川が高いと言うと、風呂~夕飯~朝飯~馬の世話も入っているのだと言うのでオーケーにした。鮎二が日本米をやると喜んだ。長谷川がこどもたちに黒砂糖を包んでやった。二人を漁師が生簀に案内した。一メートルはあろうかと思う斑点のある大きな魚が泳いでいた。鯉かな?と思ったが鱗がなく爬虫類に見えた。大きな目と凄い歯があるではないか。「スムーク」と子供が言った。
「兄さん、カワカマスだよ」
「カワカマスの燻製ほど美味いものはない。冬には川鮭も上がってくる」と漁師が言った。もう一つの生簀にはウナギのこれまた化け物が泳いでいるではないか。男の子が体長十五センチほどの鉄蟹を持ってきた。長谷川が河の博士に戻っていた。なかなか美しい湖だ。博士がミチオに戻っていた。ブルマひとつのカレンを想い出していた。向う岸は見えない。地図を見ると。幅四十キロメートル~斜め縦に八十キロメートルとあった。写真機を取り出して風景を撮った。
「兄さん、風呂に入ろう。明日この岸を北へ行くからいくらでも写真が撮れるよ」長谷川は鮎二が頑丈な体格になっていることに驚いた。――あの痩せてよく泣いた弟が強くなっている。環境が人間を強くすることは間違いない、、自分はこの弟をどう助けられるのか?
風呂から上がると、魚を焼く匂いがした。亭主がスムークを丸ごと炭火で焼いていた。包丁で切れ目が入っており荒塩がふってある。かみさんがごはんを炊いていた。こどもたちはテーブルのまわりに座って不思議な絵のかるたで遊んでいた。
「焼けたよ」と亭主が鉄板に乗せてテーブルに持ってきた。かみさんが、ほうれん草の湯がきとタンポポのサラダを木製のボウルに入れて持ってきた。醤油に似た液体を皿に垂らした。長谷川が見ていると主婦が「醤油」と言った。生姜の摺ったのが出た。子供たちは客が魚に手を付けるまで待っていた。
「俺たちは酒を飲む。子供たちに食わせてやってくれ」と鮎二が手真似で言った。上の娘が砂糖をくれた長谷川を見ていた。ミチルの年齢だろうか。
「学校行ってる?」
「トムスク」と答えたが長谷川には何のことか分らなかった。
亭主が日本酒を薬缶で温めた。――飲むか?と長谷川が訊くとにっこりと笑った。スムークは油が乗っていて大鰻のように美味かった。身がとろりとしている。肉食なのだろう。こんなモンゴルの湖でカワカマスの塩焼きを食うとは自分も不思議な運命だなどと他愛もないことを考えていた。長谷川兄弟は絨毯の上で寝た。竹の枕を並べて毛布を被った。五月でも湖畔の夜は冷えるのだ。長谷川は「ぎゃあ」という水鳥の鳴き声を聞いた。長谷川は夜明け前に起きた。主婦はもう起きているらしく台所で音がした。手帳を開けて、五月六日と書いた。それから電信機を箱から取り出してイワノフにカタカタと打った。返信がすぐ入った。――アルグン川の上流にはアムール河のヘルレン川がある。フルン湖のアルグン川は、モンゴル平原の国内陸河。魚類が豊富なり、、
3
主婦が焼いてくれたパンケーキと馬乳酒で朝飯を終えた。たらふく燕麦を食ってよく寝た馬が元気にいなないた。快晴だ。長谷川が馬に跨ると主婦がパンケーキをくれた。百メートルほど行ってから振り向くと子供たちが手を振っていた。太陽が真上に来ていた。湖畔で軽食を取ることにした。鮎二が指さす方向を見ると湖底にハッチのある貨物船の影が見えた。魚が銀色の鱗を光らせて沈没船のハッチを出たり入ったりしている。ソ連領の低山が連なっている。
「鮎、アリサカって何?」と兄が訊くと鮎二がライフルを持ってきた。三八歩兵銃に比べて銃身が長い。その分、重い。
「兄さん、有坂と書くんだ。ボルトアクション方式の小銃のことさ。それまでの村田銃を改良する為に明治二年より製造が始まったと聞いた。有坂銃は六・五x五〇ミリの実包を用いたけど、兄さんが持っているのは七・七x五八ミリ、リムレスの九九式実包を用いる九九式狙撃銃なんだよ」
「鮎、俺はね戦場には向かないんだ。初年兵のときに広島第五軍と太原に行ったんだ。夜襲だった。高粱畑の中で支那兵を一人撃った。俺は学者で牧童なんだ。腰が抜けた。結局、敵の戦死一千百名~捕虜三千名~わが方の戦死三百名~負傷七百名という戦闘だった。
「兄さん、このノモンハンはもっと大きいよ。戦車部隊~戦闘機~爆撃機、、ここ二年で兵器が進歩したから。この九九式狙撃銃もその一つなんだよ」
「鮎は狙撃兵なのか?」
「騎兵はみんな狙撃兵なんだ。僕は獣医だが騎馬を与えられたから訓練を受けた」
「敵兵を撃ったことがある?」
「チチハルの最前線が歩兵第一部隊だったから共産匪を撃った」と弟が言って沈没船を見た。――少尉、去年の大晦日、チチハル陸軍監獄で、百十五名の八路軍のスパイが集団脱獄した。脱獄者のうち二十名は抵抗したので途中で射殺された。九十名が再逮捕された。再逮捕者は今年正月の四日,チチハル市北大営草原で銃殺されたと飛鳥が恐ろしいことを淡々と語ったことを想い出していた。そして弟の顔をじっと見た。鮎二がライフルを手に取った。製造の略歴を話した。
「銃身だけどね、三八歩兵銃よりも十二センチ長い。重さも三百グラム増えたけど銃座を付けると安定する。これは小倉陸軍造兵廠で作ったものだ。狙撃メガネは日本工学~機械構造は、日本タイプライターが作った」と言ってから七・七ミリの実包を見せた。道夫が手に取った。薬莢が大きいことに目を見張った。
「銃口から飛び出す初速が秒速十ミリに増えた。その分、有効射程も伸びて一五〇〇メートルなんだ。最大射程が四百メートルの三八銃とは大きく違う」
「なぜ、そんなに違うの?」
「弾の先がとがった細身だから三八銃は三百メートルを超えると右へ流れる欠点がある。施条が急であることが原因で量産するにはそうなる」
「すると、施条も銃身の鋼鉄そのものも進歩した?」
「そうです。前者の量産型九九式小銃がベースなんだけど、銃身や機関部などの精度が高く精密射撃に向いているものを選び出したのね。それに照準メガネとハンドル付きの銃座を着けた」
長谷川がスコープを覗いてみた。銃身よりも照準線の縦目盛は右斜めに入っていると思った。不思議な顔になった。
「弾道の偏流と言うんです」と言ってから長谷川のライフルに実包五発をまとめた挿弾子(クリップ)を差し入れた。長谷川が引き金の位置が下方に修正されていることに気が着いた。
「撃ってもいいか?」と腹這いになった。
「あの流木は、八百メートルはある」と指さしてから、長谷川の手~ひじの位置~目をスコープから一センチ離すように指導した。長谷川が引き金を絞った。「パ~ン」と軽い音がした。右肩に衝撃を受けた。
「合格。当たったね」と鮎二が笑っていた。
続く、、
第五章
1
五月一日になった。メーデーだ。イワノフとウランが騾馬を引き出した。標高が二百メートルの丘の上のアンテナ塔へ向かっているのである。肺の大きい騾馬は軽々と岩の道を上って行った。イワノフたちが丘に行ったのは塔から自室へ電線を敷くためである。警備兵がふたり、景色を見るしかやることがなく煙管で煙草をふかしていた。ロシア人の二人を待っていたので、姿が現れると立ち上がって敬礼をした。イワノフが持ってきた弁当を飯台に置いた。警備兵が湯を沸かしてみんなで食った。頂上の展望台には屋根があった。五月の荒原の空気は爽やかである。イワノフとウランが景色を見ていた。
「あれがハルハ川です」と警備兵がイワノフに言った。裸眼でも微かに見えたが双眼鏡を目に当てると川幅が十メートルほどの川が蛇のようにクネクネと西北から南東へ流れている。向きを九十度右へ変えると北に荒原が広がっていた。さらに九十度右を見ると岩山がラクダの瘤のように連なっていて、そのまた北東は荒原だった。遥か向こうに森林と大きな湖が見えた。クリル文字の地図を見ると、モンゴル領であった。
長谷川が弟鮎二のチチハル騎兵小隊の位置を知った。伝えたのはイワノフだ。日本軍の電信で分かったのである。第二十三師団長の小松原中将は、モンゴル軍を叩くために東中佐の師団捜索隊と二個歩兵中隊~満州国軍騎兵からなる部隊を東支隊と名付けて送り出していた。現地に到着した東支隊は、敵が既にいないことを知って引き上げた。しかし、偵察機によって東支隊の帰還後になって、モンゴル軍は再びハルハ川を越えたことが判った。
五月の初旬のその朝、西方六キロメートルに砂塵が見えた。砂塵は野砲大隊の自走砲が巻き上げているのだ。やがて東支隊が荒原に現れた。歩兵六百名~騎馬三百騎の大軍である。
「あれがチチハル騎兵小隊であります」と青森出身の曹長が長谷川に言った。双眼鏡をケースから取り出して見ると、先頭に長谷川鮎二准尉が東中佐と轡を並べて進んでくるのが見えた。長谷川は鮎二が無事であることに胸を撫で下した。騎兵に続き野砲大隊~歩兵が野戦基地に到着した。留守番していた兵隊が駆け出して行った。ジーゼル発動機を回して井戸から水を汲んだ。石鹸が配られた。九百名の兵隊が越中フンドシ一つになって水を浴びた。新しい、フンドシ~靴下~シャツが配給された。その九百名が野外のテント食堂に入った。長谷川が鮎二を見ていた。急いでメモを書いて磯村に渡した。長谷川准尉に持って行かせたのである。「返事を貰ってこい」と言った。磯村平助が長谷川准尉に敬礼をした。長谷川鮎二がメモを見た。そして短いメモを書いて磯村に渡した。――道夫兄さん、四日休みが貰える。馬でホロンバイルへ行こう。
2
夜明けに、騎兵が長谷川の宿舎のドアを叩いた。厩舎へきてくれと言った。乗馬服を着て長靴を履いた。磯村が起きてきた。――鮎二とホロンバイルへ行く、、四日間は帰らないと言った。そして背嚢を背負った。迎えに来た騎兵と厩舎へ行くと、鮎二が背の高い馬二頭と道産子一頭を引き出して道産子に燕麦、乾燥肉、テント、鍋と伝書鳩の籠を括り付けていた。兄の道夫が観ているのに気が着いて微笑んだ。騎兵の馬なのか実に馬格が好い。やはり飛鳥が言っていた道産子は騎兵には向かない。脚が短いからである。つまり道産子は競走馬ではないのである。ただ道産子は長距離には強いのだ。騎兵が銃身の長い小銃を二丁持ってきた。長谷川が興味を見せた。
「アリサカであります」と言ったが、長谷川には何のことか分らなかった。
「兄さん、後で説明する。背嚢をください」と鮎二が言った。
厩舎を出たふたりが轡を並べた。三頭の馬は東へ向かっていた。道夫がコンパスの蓋を開いてマップを見ている。村落も道もないので岩山が目印なのだと鮎二が兄に言った。鮎二がマップを兄に渡した。手書きで岩の絵がある。
「道夫兄さん、ここから七キロ北にフルン湖がある」と鮎二が言って写真を見せた。見ると、乾いた荒原に湖が広がっている。樹木の影はなく、湖畔にだけ草が生えている。湖の両側は全くの土の平原で岩さえないのだ。
「鮎、湖の北に幽かだが低山が連なっているね」
「あの山脈の向うはね、ソ連領なんだよ。そこから森林が広がっているんだ」
長谷川が飛鳥と東満洲のソ連国境を超えたあの雪の日を想い出していた。綏芬河の騒々しい街~ボグリニチのロシア人一家、、なぜか涙が出た。鮎二がそれを見ていた。
「鮎、この馬は馬格が大きいけど何の種なのかね?」
「ロシア馬で、ドン種という長距離走用の馬なんだよ。記録では、ロシアで生育した品種のドンが二十四時間で二百八十キロメートルを走ったというのがある」
鮎二に馬の速度を訊いた。
「兄さん、馬の歩様には、並足~速歩~駈足~襲歩とあります。時速六キロ~十二キロ~二十キロ~四十キロくらいです。競馬用のサラブレッドはね、最後の追い込みでは時速六十五キロなんだ」と、さすがは騎兵隊獣医なのである。二人はトロットという速歩で北へ進んでいた。トンガリ帽子のような赤い岩が見えた。花崗岩ではなく砂岩である。手押しポンプのある井戸があった。満州軍が掘ったものだ。鮎二が馬から降りて、水を桶に汲んだ。兄弟は給仕兵が作ってくれた弁当を開いた。長谷川がハンザ・キャノンを取り出して岩に腰かけている鮎二を撮った。岩手の義妹に送ってやるつもりなのだ。
「日暮れにはフルン湖に着くよ」
弁当を食うと、ふたりは再び馬にまたがった。三時間ほど行くと日が西へ傾き始めた。そよそよと吹く風が気持ちいい。細い小川が所々にあった。長谷川が地図を見て湖が近いと知った。二頭のドンが耳を立てた。馬の脚が速くなっていた。道産子も負けてはいなかった。一生懸命に歩く道産子に磯村の彼女、春燕(ちゅんえん)を想い出していた。フルン湖が見えた。西から太陽が湖面を照らしている。小屋と帆かけ船が見える。――漁師の小屋だと鮎二が言った。
「ふ~ん、どんな魚がおるんかな?」
「焼いて食わしてくれるよ」と弟が笑った。馬の日詰の音に漁師の一家が出てきた。子供が四人もいた。 モンゴル系である。――カルムイク族だと鮎二が言った。鮎二の満洲語は通じなかったが、長谷川のロシア語は通じた。この意味するところは、ロシア人がこのあたりに出没するということである。のちに、長谷川は彼らがソ連から逃げてきたと知ったのである。
「兵隊か?」と長谷川がライフルを見せて訊いた。すると漁師の妻が行商なのだと答えた。
「一晩、五円でどうか?」と亭主が訊いた。これは歩兵の半月分の給料に当たる。長谷川が高いと言うと、風呂~夕飯~朝飯~馬の世話も入っているのだと言うのでオーケーにした。鮎二が日本米をやると喜んだ。長谷川がこどもたちに黒砂糖を包んでやった。二人を漁師が生簀に案内した。一メートルはあろうかと思う斑点のある大きな魚が泳いでいた。鯉かな?と思ったが鱗がなく爬虫類に見えた。大きな目と凄い歯があるではないか。「スムーク」と子供が言った。
「兄さん、カワカマスだよ」
「カワカマスの燻製ほど美味いものはない。冬には川鮭も上がってくる」と漁師が言った。もう一つの生簀にはウナギのこれまた化け物が泳いでいるではないか。男の子が体長十五センチほどの鉄蟹を持ってきた。長谷川が河の博士に戻っていた。なかなか美しい湖だ。博士がミチオに戻っていた。ブルマひとつのカレンを想い出していた。向う岸は見えない。地図を見ると。幅四十キロメートル~斜め縦に八十キロメートルとあった。写真機を取り出して風景を撮った。
「兄さん、風呂に入ろう。明日この岸を北へ行くからいくらでも写真が撮れるよ」長谷川は鮎二が頑丈な体格になっていることに驚いた。――あの痩せてよく泣いた弟が強くなっている。環境が人間を強くすることは間違いない、、自分はこの弟をどう助けられるのか?
風呂から上がると、魚を焼く匂いがした。亭主がスムークを丸ごと炭火で焼いていた。包丁で切れ目が入っており荒塩がふってある。かみさんがごはんを炊いていた。こどもたちはテーブルのまわりに座って不思議な絵のかるたで遊んでいた。
「焼けたよ」と亭主が鉄板に乗せてテーブルに持ってきた。かみさんが、ほうれん草の湯がきとタンポポのサラダを木製のボウルに入れて持ってきた。醤油に似た液体を皿に垂らした。長谷川が見ていると主婦が「醤油」と言った。生姜の摺ったのが出た。子供たちは客が魚に手を付けるまで待っていた。
「俺たちは酒を飲む。子供たちに食わせてやってくれ」と鮎二が手真似で言った。上の娘が砂糖をくれた長谷川を見ていた。ミチルの年齢だろうか。
「学校行ってる?」
「トムスク」と答えたが長谷川には何のことか分らなかった。
亭主が日本酒を薬缶で温めた。――飲むか?と長谷川が訊くとにっこりと笑った。スムークは油が乗っていて大鰻のように美味かった。身がとろりとしている。肉食なのだろう。こんなモンゴルの湖でカワカマスの塩焼きを食うとは自分も不思議な運命だなどと他愛もないことを考えていた。長谷川兄弟は絨毯の上で寝た。竹の枕を並べて毛布を被った。五月でも湖畔の夜は冷えるのだ。長谷川は「ぎゃあ」という水鳥の鳴き声を聞いた。長谷川は夜明け前に起きた。主婦はもう起きているらしく台所で音がした。手帳を開けて、五月六日と書いた。それから電信機を箱から取り出してイワノフにカタカタと打った。返信がすぐ入った。――アルグン川の上流にはアムール河のヘルレン川がある。フルン湖のアルグン川は、モンゴル平原の国内陸河。魚類が豊富なり、、
3
主婦が焼いてくれたパンケーキと馬乳酒で朝飯を終えた。たらふく燕麦を食ってよく寝た馬が元気にいなないた。快晴だ。長谷川が馬に跨ると主婦がパンケーキをくれた。百メートルほど行ってから振り向くと子供たちが手を振っていた。太陽が真上に来ていた。湖畔で軽食を取ることにした。鮎二が指さす方向を見ると湖底にハッチのある貨物船の影が見えた。魚が銀色の鱗を光らせて沈没船のハッチを出たり入ったりしている。ソ連領の低山が連なっている。
「鮎、アリサカって何?」と兄が訊くと鮎二がライフルを持ってきた。三八歩兵銃に比べて銃身が長い。その分、重い。
「兄さん、有坂と書くんだ。ボルトアクション方式の小銃のことさ。それまでの村田銃を改良する為に明治二年より製造が始まったと聞いた。有坂銃は六・五x五〇ミリの実包を用いたけど、兄さんが持っているのは七・七x五八ミリ、リムレスの九九式実包を用いる九九式狙撃銃なんだよ」
「鮎、俺はね戦場には向かないんだ。初年兵のときに広島第五軍と太原に行ったんだ。夜襲だった。高粱畑の中で支那兵を一人撃った。俺は学者で牧童なんだ。腰が抜けた。結局、敵の戦死一千百名~捕虜三千名~わが方の戦死三百名~負傷七百名という戦闘だった。
「兄さん、このノモンハンはもっと大きいよ。戦車部隊~戦闘機~爆撃機、、ここ二年で兵器が進歩したから。この九九式狙撃銃もその一つなんだよ」
「鮎は狙撃兵なのか?」
「騎兵はみんな狙撃兵なんだ。僕は獣医だが騎馬を与えられたから訓練を受けた」
「敵兵を撃ったことがある?」
「チチハルの最前線が歩兵第一部隊だったから共産匪を撃った」と弟が言って沈没船を見た。――少尉、去年の大晦日、チチハル陸軍監獄で、百十五名の八路軍のスパイが集団脱獄した。脱獄者のうち二十名は抵抗したので途中で射殺された。九十名が再逮捕された。再逮捕者は今年正月の四日,チチハル市北大営草原で銃殺されたと飛鳥が恐ろしいことを淡々と語ったことを想い出していた。そして弟の顔をじっと見た。鮎二がライフルを手に取った。製造の略歴を話した。
「銃身だけどね、三八歩兵銃よりも十二センチ長い。重さも三百グラム増えたけど銃座を付けると安定する。これは小倉陸軍造兵廠で作ったものだ。狙撃メガネは日本工学~機械構造は、日本タイプライターが作った」と言ってから七・七ミリの実包を見せた。道夫が手に取った。薬莢が大きいことに目を見張った。
「銃口から飛び出す初速が秒速十ミリに増えた。その分、有効射程も伸びて一五〇〇メートルなんだ。最大射程が四百メートルの三八銃とは大きく違う」
「なぜ、そんなに違うの?」
「弾の先がとがった細身だから三八銃は三百メートルを超えると右へ流れる欠点がある。施条が急であることが原因で量産するにはそうなる」
「すると、施条も銃身の鋼鉄そのものも進歩した?」
「そうです。前者の量産型九九式小銃がベースなんだけど、銃身や機関部などの精度が高く精密射撃に向いているものを選び出したのね。それに照準メガネとハンドル付きの銃座を着けた」
長谷川がスコープを覗いてみた。銃身よりも照準線の縦目盛は右斜めに入っていると思った。不思議な顔になった。
「弾道の偏流と言うんです」と言ってから長谷川のライフルに実包五発をまとめた挿弾子(クリップ)を差し入れた。長谷川が引き金の位置が下方に修正されていることに気が着いた。
「撃ってもいいか?」と腹這いになった。
「あの流木は、八百メートルはある」と指さしてから、長谷川の手~ひじの位置~目をスコープから一センチ離すように指導した。長谷川が引き金を絞った。「パ~ン」と軽い音がした。右肩に衝撃を受けた。
「合格。当たったね」と鮎二が笑っていた。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第四章
1
岩田中尉と北上少尉が試作機という十二試艦戦に乗り込んだ。九十七式戦闘機六機を加えた編隊が次々とハイラルを飛び立った。飛行時間はほんの三十分である。青空に白い雲がひとつぽっかりと浮んでいる。高度は二千メートルと低かった。岩田が長谷川たちにホロンバイル平原を見せるためである。平原は乾いた荒原と緑一色の草原なのである。この原因は無数にある小川にある。その小川の源泉は岩山なのだ。満州国側と北東のモンゴルとの境が岩山なのだ。西方向に日本軍の飛行基地が見えた。滑走路がたった一本である。
「あの滑走路をやられるとハイラル飛行隊しかソ連機を迎撃出来なくなる」と岩田が無線で貨物機に乗っている長谷川達に言った。十二試艦戦二機が上空に残り爆撃機から先に着陸した。それを駐機場に引導すると、次が降りてくる。長谷川が時計を見ていた。八機が着陸するのに時間がかかっていると思った。地上に降り立った十四名が空を見上げた。すると岩田機と北上機が西へ飛んで行くのが見えた。
「岩田さんらはソ連のトムスク基地を見に行ったんだよ」と九十七式戦闘機の飛行兵が言った。
「エエ~?」と長谷川がびっくりした。
「速度四五〇キロメートル。俺は高度五〇〇〇まで上がる。少尉は二〇〇〇メートル後ろを高度二〇〇〇でついてこい」と岩田が北上に指示した。北上はその意味をよく理解していた。岩田が――きさまは俺よりも着弾率が高いと言っていたからである。
十分でハルハ川西方のモンゴル・ソ連飛行基地が見えた。まわりには低い丘がある盆地なのだ。そのトムスクという基地からさらに西へ軽便鉄道の線路が見えた。ソ連軍の戦車が二百台は並んでいる。岩田機に気が着いたソ連兵が速射砲に飛び付いた。北上の眼に岩田中尉が急降下するのが見えた。
岩田は管制塔の上空でカメラのスイッチを押した。速射砲が鳴り出したが爆弾投下を恐れているのか見当違いの方向を撃っている。岩田は戦車群の真上を飛んでスロットルをいっぱい押して急上昇した。三機の速射砲が鳴り出した。そのとき、高度を三〇〇メートルに下げた北上機の七・七ミリ機銃が火を噴いた。ソ連兵が倒れるのが見えた。二台の速射砲が砲を回して北上機を撃ち出した。だが、北上は丘の上で旋回して管制塔へ機首を向けた。管制塔の中の管制員がパニックするのが見えた。北上が距離を眼で測り五十キロ爆弾を切り離した。管制塔が吹っ飛んだ。岩田が空中で宙返りすると格納庫に向かって急降下した。岩田が五十キロ爆弾を切り離した。ど~んと破裂する音が谷間に響いた。速射砲の機銃兵はパニックして逃げた。岩田が丘の上で旋回した。見ると、北上が燃料タンク群に向かっていた。北上がもう一つの五十キロ爆弾を切り離して全速力で急上昇した。巨大な火の手が上がった。
「ウッハッハ。少尉、帰ろうか?」と岩田がラジオで言った。
長谷川たちは岩田と北上が帰って来るのを今か今かと待っていた。司令官まで空を見ていた。西方に爆音が聞こえた。ゴロゴロと快適な音に全員が安心した。実に優美な姿である。岩田に続いて北上が着陸した。地上員が走って行った。岩田が機首の下に取り付けてあるカメラからフィルムを取り出していた。
小松原司令官が岩田と北上に敬礼をした。小松原は中将である。拍手が上がった。
「というわけです」とフイルムを司令官に渡した。
「岩田君、ここでは現像が出来んのだよ」と小松原が言った。それを聞いた磯村平助が――現像液を持って来たましから出来ますと言った。われわれに二室をくださいと長谷川が言った。
「おお、そうか、そうか」と中将が喜んだ。一分でも早くソ連の飛行基地を見たいとありありだった。また拍手が起きた。
「司令官殿、幻燈を見ればモンゴル・ソ連飛行基地が破壊されたことが分かります。修理するには、一か月はかかるでしょう。その間にハイラル飛行隊と防衛網を作ります。地上戦はわれわれには何も出来ませんがね」
2
磯村と長谷川が現像室を作った。寝室が隣なのだが現像室でイワノフ、ウランと会議が出来る。長谷川が現像室に電信機を据えて丘の上のアンテナに有線で繋いだ。これなら好きな時間に山中武官と通信が可能となるのである。現像は一時間で出来た。その旨、小松原に伝えると食堂で、みんなで見ようと言った。中将は歩兵の士気を懸念していた。長谷川は食堂へ行ったが、弟鮎二の騎兵小隊はいなかった。明日は騎兵や歩兵大隊の状況を掴みたかった。技師が投射機にフイルムを装填した。壁に張ったシーツに十二試艦戦が現れると食堂に歓声が上がった。今夜は全員を集めることができない。士官と下士官のみが見ることにして数日間、中隊や大隊に見てもらうことにした。
ソ連兵やモンゴル兵が灰緑色の胴体に赤い日の丸の小型の戦闘機に驚いている。その日本軍の戦闘機がオニヤンマのようにくるくると方向を変えるかと思うと宙返りするのを見ている。ソ連軍の少年兵が敵機なのにサーカスでも見ているように感激しているではないか。ところが北上機が急降下して爆弾を投下しては急上昇するとその表情が驚愕に変わった。
続く、、
第四章
1
岩田中尉と北上少尉が試作機という十二試艦戦に乗り込んだ。九十七式戦闘機六機を加えた編隊が次々とハイラルを飛び立った。飛行時間はほんの三十分である。青空に白い雲がひとつぽっかりと浮んでいる。高度は二千メートルと低かった。岩田が長谷川たちにホロンバイル平原を見せるためである。平原は乾いた荒原と緑一色の草原なのである。この原因は無数にある小川にある。その小川の源泉は岩山なのだ。満州国側と北東のモンゴルとの境が岩山なのだ。西方向に日本軍の飛行基地が見えた。滑走路がたった一本である。
「あの滑走路をやられるとハイラル飛行隊しかソ連機を迎撃出来なくなる」と岩田が無線で貨物機に乗っている長谷川達に言った。十二試艦戦二機が上空に残り爆撃機から先に着陸した。それを駐機場に引導すると、次が降りてくる。長谷川が時計を見ていた。八機が着陸するのに時間がかかっていると思った。地上に降り立った十四名が空を見上げた。すると岩田機と北上機が西へ飛んで行くのが見えた。
「岩田さんらはソ連のトムスク基地を見に行ったんだよ」と九十七式戦闘機の飛行兵が言った。
「エエ~?」と長谷川がびっくりした。
「速度四五〇キロメートル。俺は高度五〇〇〇まで上がる。少尉は二〇〇〇メートル後ろを高度二〇〇〇でついてこい」と岩田が北上に指示した。北上はその意味をよく理解していた。岩田が――きさまは俺よりも着弾率が高いと言っていたからである。
十分でハルハ川西方のモンゴル・ソ連飛行基地が見えた。まわりには低い丘がある盆地なのだ。そのトムスクという基地からさらに西へ軽便鉄道の線路が見えた。ソ連軍の戦車が二百台は並んでいる。岩田機に気が着いたソ連兵が速射砲に飛び付いた。北上の眼に岩田中尉が急降下するのが見えた。
岩田は管制塔の上空でカメラのスイッチを押した。速射砲が鳴り出したが爆弾投下を恐れているのか見当違いの方向を撃っている。岩田は戦車群の真上を飛んでスロットルをいっぱい押して急上昇した。三機の速射砲が鳴り出した。そのとき、高度を三〇〇メートルに下げた北上機の七・七ミリ機銃が火を噴いた。ソ連兵が倒れるのが見えた。二台の速射砲が砲を回して北上機を撃ち出した。だが、北上は丘の上で旋回して管制塔へ機首を向けた。管制塔の中の管制員がパニックするのが見えた。北上が距離を眼で測り五十キロ爆弾を切り離した。管制塔が吹っ飛んだ。岩田が空中で宙返りすると格納庫に向かって急降下した。岩田が五十キロ爆弾を切り離した。ど~んと破裂する音が谷間に響いた。速射砲の機銃兵はパニックして逃げた。岩田が丘の上で旋回した。見ると、北上が燃料タンク群に向かっていた。北上がもう一つの五十キロ爆弾を切り離して全速力で急上昇した。巨大な火の手が上がった。
「ウッハッハ。少尉、帰ろうか?」と岩田がラジオで言った。
長谷川たちは岩田と北上が帰って来るのを今か今かと待っていた。司令官まで空を見ていた。西方に爆音が聞こえた。ゴロゴロと快適な音に全員が安心した。実に優美な姿である。岩田に続いて北上が着陸した。地上員が走って行った。岩田が機首の下に取り付けてあるカメラからフィルムを取り出していた。
小松原司令官が岩田と北上に敬礼をした。小松原は中将である。拍手が上がった。
「というわけです」とフイルムを司令官に渡した。
「岩田君、ここでは現像が出来んのだよ」と小松原が言った。それを聞いた磯村平助が――現像液を持って来たましから出来ますと言った。われわれに二室をくださいと長谷川が言った。
「おお、そうか、そうか」と中将が喜んだ。一分でも早くソ連の飛行基地を見たいとありありだった。また拍手が起きた。
「司令官殿、幻燈を見ればモンゴル・ソ連飛行基地が破壊されたことが分かります。修理するには、一か月はかかるでしょう。その間にハイラル飛行隊と防衛網を作ります。地上戦はわれわれには何も出来ませんがね」
2
磯村と長谷川が現像室を作った。寝室が隣なのだが現像室でイワノフ、ウランと会議が出来る。長谷川が現像室に電信機を据えて丘の上のアンテナに有線で繋いだ。これなら好きな時間に山中武官と通信が可能となるのである。現像は一時間で出来た。その旨、小松原に伝えると食堂で、みんなで見ようと言った。中将は歩兵の士気を懸念していた。長谷川は食堂へ行ったが、弟鮎二の騎兵小隊はいなかった。明日は騎兵や歩兵大隊の状況を掴みたかった。技師が投射機にフイルムを装填した。壁に張ったシーツに十二試艦戦が現れると食堂に歓声が上がった。今夜は全員を集めることができない。士官と下士官のみが見ることにして数日間、中隊や大隊に見てもらうことにした。
ソ連兵やモンゴル兵が灰緑色の胴体に赤い日の丸の小型の戦闘機に驚いている。その日本軍の戦闘機がオニヤンマのようにくるくると方向を変えるかと思うと宙返りするのを見ている。ソ連軍の少年兵が敵機なのにサーカスでも見ているように感激しているではないか。ところが北上機が急降下して爆弾を投下しては急上昇するとその表情が驚愕に変わった。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第三章
1
翌朝の十時、四人は一式貨物機の乗客となった。アイグンまで一時間三十分である。その朝も快晴で平房飛行場の赤い吹き流しも穏やかだった。改良された一式貨物機はゴロゴロと快適に飛んだ。アイグン飛行場の滑走路に見たことがない小型の戦闘機と爆撃機が四機並んでいた。その向こうに鉛色に光るアムール河が見えた。四人が貨物機を降りると、昼飯のサイレンが鳴った。普通ならラッパなのだが飛行場では聞こえないからだ。四人が食堂へ歩いて行った。食堂に入ると、岩田中尉と北上一等航空兵が迎えた。イワノフとウランに「ダブロ・パシャロビッチ(いらっしゃい)」と笑った。四人は飯盒を持って飛行兵や整備兵と一緒に給仕兵から昼飯を貰った。磯村が粗食で頑張る兵隊たちに感謝していた。円卓に戻ると岩田中尉が待っていた。
「飯の後で、最新型の戦闘機と爆撃機をお見せします。この北上一等航空兵は少尉に昇級しました。空中戦のエースですから」と岩田が言うと、北上が「いやいや」とばかりに手を横に振った。長谷川は飯よりも試作機が見たかった。飛行兵は飯を食うのも速い。白湯を飲み干すと外へ出た。灰緑色に塗られた機体に赤い日の丸のある戦闘機が見えた。初印象は優美であった。
「岩田中尉、戦闘機は単座ですよね?」と九十七式戦闘機を見慣れている長谷川は試作機が意外に小さいのにびっくりしていた。
「そうであります。この十二試艦戦はまだ試作中なのであります。三月にテストされてアイグンに二機送られてきたのあります」
「試作中なんですか?」と磯村がびっくりしていた。岩田の解説が続いた。
「三菱が造ったのです。軽量化のかけ言葉で、肉抜きといって機材の骨に穴を開けた。暴弾ガラスまで薄いんです。ただ、両翼に二十ミリ機銃を内装して~機首には七・七ミリ機銃がこれも二機据えてあります。だが、二十ミリ機銃は旋回中や急降下中には重力のために使えないし~七・七ミリちゅうのは、サンパチと同じ口径なんです。それで、上方の敵機へ向かって撃つとションベン弾になる。さらに、自分がテストしたことでわかったのですが、十二試艦戦は急降下に向かないんであります」
「確かに華奢に見えますね。急降下に向かないですって?どうしてですか?」
「機体が軽すぎるからであります。それに二枚のプロペラは三枚と違って振動が起きるのです」
これが改良されて一万機も量産されたゼロ戦の原点だったと長谷川は後年になって知るのである。
「ロシア機と遭遇するとどうなります?」とイワノフが訊いた。
「ははは、大丈夫ですよ。速度も、高度も、上昇力も、旋回能力も、十二試艦戦はロシア機よりもダントツに優れているからね。これは住友金属が造るジュラルミンがロシアには出来ないからであります」と言ってから、岩田中尉が大きな双発の爆撃機の前で立ち止まった。垂直尾翼が二つある。
「これが九六式陸上攻撃機であります。諸君はこれで行きます。最高速度は三百七十キロと遅いが高度は五千メートルまで行ける。高射砲が届かないし、ロシアのロバ、ポリカリポフは上昇中に我々が撃墜するからね」と爆撃機の中を見せた。イワノフが気もそぞろとなり、青くなっていた。ウランがその大きな背中を擦っていた。
「岩田中尉、有難う。明日はわれわれ歩兵をタノンマス」と長谷川が緊張気味の磯村やイワノフを気使って、岩田と北上に頭を下げた。
翌朝、食堂に集まった長谷川と磯村は本当に歩兵の兵装だった。襟章だけが将校と判るだけで、ゲートルを巻いていた。イワノフとウランだけが満州国軍電信兵と胸に縫われたジャンパーと短靴をゆるされた。イワノフが北上少尉のにこやかな表情に安心したのか、熱い麦飯に豚汁をザンブリとかけて、かき込んでいた。岩田中尉がイワノフのもの凄い食欲に目を丸くしていた。
翌朝、ハルピンの四人組と岩田中尉が兵舎を出て駐機場に向かっていた。
「今回の出動は。十二試艦戦二機~九十六式陸攻一機~一式貨物機一機であります。最初の目的地はハイラル飛行基地であります。そこで二泊して、ハイラル飛行隊の九十七式戦闘機六機が加わります。ハイラルまで一時間五十分であります」
「岩田中尉殿、ソ連の飛行基地を空から見ることは出来ますか?」と長谷川が聴くと、――いや、満州の国境から百キロ西の内部にある。露助は速射砲を据えているから夜なら偵察は可能でありますと答えた。駐機場に出て四人が九十六式陸攻に乗り込んだ。エンジン始動のためのイナーシャ・スターターを乗せた軽自動車が九十六式陸攻と一式貨物機のプロペラを回していた。陸攻の操縦士は磐梯と名乗った。副操縦士がクラッチのようなレバーを引いた。黒煙と共に爆音が機体を震わせた。イワノフが目を瞑っていた。それを磯村が写真に撮った。ノモンハン行きのアルバムの表紙がイワノフであった。
試作機だという十二試艦戦二機はすでに上空で輪を描いて待っていた。一式陸攻が飛び立った。貨物機もついてきた。
「進路南西二十度~高度三千メートル~速度三百五十キロ」と岩田中尉がラジオで指示をした。磯村がイワノフを見ると、左手に牛乳瓶を持って、右手で大きなパンの塊を食っていた。それも写真に撮った。ウランは眼下の森林をしばらく見ていたがグウグウと鼾をかいていた。長谷川も手拭いを顔に乗せて寝てしまった。
ハイラルは七か月前に飛鳥と来たときから大きく変わっていた。飛鳥がここは松茸が採れると言っていた。鄙びた街はそのままだが基地が大きくなっていた。軽装甲車が百台はあった。兵隊の顔も違う。岩田中尉が、ハイラルで二泊して、翌日の昼に編隊を組んで紛争地帯のハルハ河へ飛ぶんだと長谷川に言った。長谷川と三人が、それならとハイラルの混成旅団連隊長に挨拶に出かけた。
2
「ご一同、遥々ごくろうである」連隊長は道場史郎大佐と名乗った。道場は胡麻塩の髪を五分刈りにしていた。軍司令官は初めて会う者に笑いかけるものだが、道場は笑わなかった。長谷川は大佐の固い表情が気になった。道場の横にいた歩兵連隊長がハルハ河の地図と写真を黒板に画鋲で止めた。なんと、ロシア製の地図だった。さすがの長谷川も地名が読めなかった。ここはイワノフの分野なのだ。
「カピタン、地名はむりやりにクリル文字にしたもんです。一枚地図を貰ってください。ボクがカタカナを入れます」とイワノフが言うのを聞いた士官が地図を二枚持ってきた。なぜか、長谷川がにっこりと笑った。
「道場連隊長殿、今日と明日の一日、ご講義を頂けませんでしょうか?」
「大尉、これは大事なんだよ。東京では単なる極地の国境紛争だとか事件だとかネームしているが明らかに日ソ戦争なんだ。軍部が不拡大を声高く言っているのはけしからん」と道場の満面に怒りが表れていた。
「戦闘を避ける方法はないのですか?」
「そりゃ、あるよ。野砲部隊を残して撤退するとか、、」
「東京は?」
「ならんとだけである。陸大出の坊ちゃんは戦争が机上で出来ると思っておるんだ。命令を出せば済むとな」と爆発するかと思うほど怒っていた。
四人が空中写真を見た。川というよりも溝に近いと思った。道場が――日ソ間には日露戦争以来、紛争はなかったが、満洲国が出来てからはモンゴルの社会主義政府と旧王朝の間には散発的な騎馬戦が起きていた。理由は国境線の解釈の違いなのだ。満州国側は旧王朝の主張の通りハルハ川を国境としていたが、モンゴル側は大昔から川の東二十キロまでが国境なのだと譲らなかった。ホロンバイルという幅が二十キロの土地は草原と荒原で放牧以外に価値はなかったのである。モンゴル社会主義政府も旧王朝側も自由に遊牧をしていた平和な土地なのである。国境の印だが、石を積み上げて青色のぼろ布を被せるモンゴルはオボーと呼んでいた。二百年の昔からその位置は変わらないから日本がモンゴルの主張に合意すれば紛争までには至らなかっただろうと言った。
「日ソ間の戦闘になっているという理由は何でありますか?」と長谷川が紛争のスタートラインとその終結を探りたかった。
「五年前にソ連とモンゴル人民政府は軍事同盟国となった。ソ連は満州国を承認していないのも理由だろう。ここ二年ぐらいでモンゴルの騎兵師団~機甲師団は膨れておる。飛行隊までも持つに言った。その規模は判らんが、ソ連が代理戦争を企てていることは間違いない」
「去年の七月、朝鮮の豆満江の東岸で起きた張鼓峰事件を関東軍司令官から聞きました。双方に多大な死傷者が出ました。この激しい戦闘で日本側は戦死五百名、負傷者九百名の損害を出した。国境線は日本軍が張鼓峰の頂上を奪回した状態で停戦終結となった」と長谷川が日ソ間の最初の軍事衝突事件を話した。
「自分は張鼓峰奪回作戦を指揮した。張鼓峰を占領すると朝鮮の羅津港から豆満江さらに満州北部にソ連領が確保できるとモスクワとハバロフスク軍司令部が交信していた。それを関東軍が傍聴して判っていた。今回のハルハ川も日ソ間の戦闘になるだろう。傍聴がもっとも重要になっている。その分析を長谷川大尉にお願いしたい」と道場大佐が下級士官にその胡麻塩頭を下げた。道場大佐は相当の苦労人であると長谷川が思った。
「道場連隊長殿、勿論であります。そのために我々四人がきました」と笑いかけた。道場の顔がようやくほころんだ。
四人は資料を抱えて宿舎に帰った。イワノフとウランの仕事が多い。イワノフが鉛筆を舐め舐めフンドシのように長いリボンを解読していた。長谷川と磯村は日本軍の構成と戦力を計算した。長谷川が混成旅団の中にチチハル歩兵第一連隊の文字を見つけた。その配置がわからない。現地の連隊長に訊くほかないが騎兵小隊だと最前線のはずだと思った。翌日も作戦室へ行って質問をした。だが、道場大佐はハルハ川の陣地からくる電信を待っているだけなのだ。ハイラル基地では現況を把握できないと磯村に言った。イワノフは新米中尉の解説などに耳も貸さなかった。ウランは朝早くから電信室に入ったままで出てこない。便所と飯を食う時しか出てこない。
「カピタン、今朝から暗号コードが変わった。ソ連軍の交信の量が増えている」とウランが食堂で長谷川に報告した。ボクサーの表情に変化はなかったが、長谷川は危険信号と取った。長谷川が島原領事に応援を依頼した。山中武官がコードを送ってくれた。ついでに日本側のコードを変えた。これが傍聴戦なのである。
続く、、
第三章
1
翌朝の十時、四人は一式貨物機の乗客となった。アイグンまで一時間三十分である。その朝も快晴で平房飛行場の赤い吹き流しも穏やかだった。改良された一式貨物機はゴロゴロと快適に飛んだ。アイグン飛行場の滑走路に見たことがない小型の戦闘機と爆撃機が四機並んでいた。その向こうに鉛色に光るアムール河が見えた。四人が貨物機を降りると、昼飯のサイレンが鳴った。普通ならラッパなのだが飛行場では聞こえないからだ。四人が食堂へ歩いて行った。食堂に入ると、岩田中尉と北上一等航空兵が迎えた。イワノフとウランに「ダブロ・パシャロビッチ(いらっしゃい)」と笑った。四人は飯盒を持って飛行兵や整備兵と一緒に給仕兵から昼飯を貰った。磯村が粗食で頑張る兵隊たちに感謝していた。円卓に戻ると岩田中尉が待っていた。
「飯の後で、最新型の戦闘機と爆撃機をお見せします。この北上一等航空兵は少尉に昇級しました。空中戦のエースですから」と岩田が言うと、北上が「いやいや」とばかりに手を横に振った。長谷川は飯よりも試作機が見たかった。飛行兵は飯を食うのも速い。白湯を飲み干すと外へ出た。灰緑色に塗られた機体に赤い日の丸のある戦闘機が見えた。初印象は優美であった。
「岩田中尉、戦闘機は単座ですよね?」と九十七式戦闘機を見慣れている長谷川は試作機が意外に小さいのにびっくりしていた。
「そうであります。この十二試艦戦はまだ試作中なのであります。三月にテストされてアイグンに二機送られてきたのあります」
「試作中なんですか?」と磯村がびっくりしていた。岩田の解説が続いた。
「三菱が造ったのです。軽量化のかけ言葉で、肉抜きといって機材の骨に穴を開けた。暴弾ガラスまで薄いんです。ただ、両翼に二十ミリ機銃を内装して~機首には七・七ミリ機銃がこれも二機据えてあります。だが、二十ミリ機銃は旋回中や急降下中には重力のために使えないし~七・七ミリちゅうのは、サンパチと同じ口径なんです。それで、上方の敵機へ向かって撃つとションベン弾になる。さらに、自分がテストしたことでわかったのですが、十二試艦戦は急降下に向かないんであります」
「確かに華奢に見えますね。急降下に向かないですって?どうしてですか?」
「機体が軽すぎるからであります。それに二枚のプロペラは三枚と違って振動が起きるのです」
これが改良されて一万機も量産されたゼロ戦の原点だったと長谷川は後年になって知るのである。
「ロシア機と遭遇するとどうなります?」とイワノフが訊いた。
「ははは、大丈夫ですよ。速度も、高度も、上昇力も、旋回能力も、十二試艦戦はロシア機よりもダントツに優れているからね。これは住友金属が造るジュラルミンがロシアには出来ないからであります」と言ってから、岩田中尉が大きな双発の爆撃機の前で立ち止まった。垂直尾翼が二つある。
「これが九六式陸上攻撃機であります。諸君はこれで行きます。最高速度は三百七十キロと遅いが高度は五千メートルまで行ける。高射砲が届かないし、ロシアのロバ、ポリカリポフは上昇中に我々が撃墜するからね」と爆撃機の中を見せた。イワノフが気もそぞろとなり、青くなっていた。ウランがその大きな背中を擦っていた。
「岩田中尉、有難う。明日はわれわれ歩兵をタノンマス」と長谷川が緊張気味の磯村やイワノフを気使って、岩田と北上に頭を下げた。
翌朝、食堂に集まった長谷川と磯村は本当に歩兵の兵装だった。襟章だけが将校と判るだけで、ゲートルを巻いていた。イワノフとウランだけが満州国軍電信兵と胸に縫われたジャンパーと短靴をゆるされた。イワノフが北上少尉のにこやかな表情に安心したのか、熱い麦飯に豚汁をザンブリとかけて、かき込んでいた。岩田中尉がイワノフのもの凄い食欲に目を丸くしていた。
翌朝、ハルピンの四人組と岩田中尉が兵舎を出て駐機場に向かっていた。
「今回の出動は。十二試艦戦二機~九十六式陸攻一機~一式貨物機一機であります。最初の目的地はハイラル飛行基地であります。そこで二泊して、ハイラル飛行隊の九十七式戦闘機六機が加わります。ハイラルまで一時間五十分であります」
「岩田中尉殿、ソ連の飛行基地を空から見ることは出来ますか?」と長谷川が聴くと、――いや、満州の国境から百キロ西の内部にある。露助は速射砲を据えているから夜なら偵察は可能でありますと答えた。駐機場に出て四人が九十六式陸攻に乗り込んだ。エンジン始動のためのイナーシャ・スターターを乗せた軽自動車が九十六式陸攻と一式貨物機のプロペラを回していた。陸攻の操縦士は磐梯と名乗った。副操縦士がクラッチのようなレバーを引いた。黒煙と共に爆音が機体を震わせた。イワノフが目を瞑っていた。それを磯村が写真に撮った。ノモンハン行きのアルバムの表紙がイワノフであった。
試作機だという十二試艦戦二機はすでに上空で輪を描いて待っていた。一式陸攻が飛び立った。貨物機もついてきた。
「進路南西二十度~高度三千メートル~速度三百五十キロ」と岩田中尉がラジオで指示をした。磯村がイワノフを見ると、左手に牛乳瓶を持って、右手で大きなパンの塊を食っていた。それも写真に撮った。ウランは眼下の森林をしばらく見ていたがグウグウと鼾をかいていた。長谷川も手拭いを顔に乗せて寝てしまった。
ハイラルは七か月前に飛鳥と来たときから大きく変わっていた。飛鳥がここは松茸が採れると言っていた。鄙びた街はそのままだが基地が大きくなっていた。軽装甲車が百台はあった。兵隊の顔も違う。岩田中尉が、ハイラルで二泊して、翌日の昼に編隊を組んで紛争地帯のハルハ河へ飛ぶんだと長谷川に言った。長谷川と三人が、それならとハイラルの混成旅団連隊長に挨拶に出かけた。
2
「ご一同、遥々ごくろうである」連隊長は道場史郎大佐と名乗った。道場は胡麻塩の髪を五分刈りにしていた。軍司令官は初めて会う者に笑いかけるものだが、道場は笑わなかった。長谷川は大佐の固い表情が気になった。道場の横にいた歩兵連隊長がハルハ河の地図と写真を黒板に画鋲で止めた。なんと、ロシア製の地図だった。さすがの長谷川も地名が読めなかった。ここはイワノフの分野なのだ。
「カピタン、地名はむりやりにクリル文字にしたもんです。一枚地図を貰ってください。ボクがカタカナを入れます」とイワノフが言うのを聞いた士官が地図を二枚持ってきた。なぜか、長谷川がにっこりと笑った。
「道場連隊長殿、今日と明日の一日、ご講義を頂けませんでしょうか?」
「大尉、これは大事なんだよ。東京では単なる極地の国境紛争だとか事件だとかネームしているが明らかに日ソ戦争なんだ。軍部が不拡大を声高く言っているのはけしからん」と道場の満面に怒りが表れていた。
「戦闘を避ける方法はないのですか?」
「そりゃ、あるよ。野砲部隊を残して撤退するとか、、」
「東京は?」
「ならんとだけである。陸大出の坊ちゃんは戦争が机上で出来ると思っておるんだ。命令を出せば済むとな」と爆発するかと思うほど怒っていた。
四人が空中写真を見た。川というよりも溝に近いと思った。道場が――日ソ間には日露戦争以来、紛争はなかったが、満洲国が出来てからはモンゴルの社会主義政府と旧王朝の間には散発的な騎馬戦が起きていた。理由は国境線の解釈の違いなのだ。満州国側は旧王朝の主張の通りハルハ川を国境としていたが、モンゴル側は大昔から川の東二十キロまでが国境なのだと譲らなかった。ホロンバイルという幅が二十キロの土地は草原と荒原で放牧以外に価値はなかったのである。モンゴル社会主義政府も旧王朝側も自由に遊牧をしていた平和な土地なのである。国境の印だが、石を積み上げて青色のぼろ布を被せるモンゴルはオボーと呼んでいた。二百年の昔からその位置は変わらないから日本がモンゴルの主張に合意すれば紛争までには至らなかっただろうと言った。
「日ソ間の戦闘になっているという理由は何でありますか?」と長谷川が紛争のスタートラインとその終結を探りたかった。
「五年前にソ連とモンゴル人民政府は軍事同盟国となった。ソ連は満州国を承認していないのも理由だろう。ここ二年ぐらいでモンゴルの騎兵師団~機甲師団は膨れておる。飛行隊までも持つに言った。その規模は判らんが、ソ連が代理戦争を企てていることは間違いない」
「去年の七月、朝鮮の豆満江の東岸で起きた張鼓峰事件を関東軍司令官から聞きました。双方に多大な死傷者が出ました。この激しい戦闘で日本側は戦死五百名、負傷者九百名の損害を出した。国境線は日本軍が張鼓峰の頂上を奪回した状態で停戦終結となった」と長谷川が日ソ間の最初の軍事衝突事件を話した。
「自分は張鼓峰奪回作戦を指揮した。張鼓峰を占領すると朝鮮の羅津港から豆満江さらに満州北部にソ連領が確保できるとモスクワとハバロフスク軍司令部が交信していた。それを関東軍が傍聴して判っていた。今回のハルハ川も日ソ間の戦闘になるだろう。傍聴がもっとも重要になっている。その分析を長谷川大尉にお願いしたい」と道場大佐が下級士官にその胡麻塩頭を下げた。道場大佐は相当の苦労人であると長谷川が思った。
「道場連隊長殿、勿論であります。そのために我々四人がきました」と笑いかけた。道場の顔がようやくほころんだ。
四人は資料を抱えて宿舎に帰った。イワノフとウランの仕事が多い。イワノフが鉛筆を舐め舐めフンドシのように長いリボンを解読していた。長谷川と磯村は日本軍の構成と戦力を計算した。長谷川が混成旅団の中にチチハル歩兵第一連隊の文字を見つけた。その配置がわからない。現地の連隊長に訊くほかないが騎兵小隊だと最前線のはずだと思った。翌日も作戦室へ行って質問をした。だが、道場大佐はハルハ川の陣地からくる電信を待っているだけなのだ。ハイラル基地では現況を把握できないと磯村に言った。イワノフは新米中尉の解説などに耳も貸さなかった。ウランは朝早くから電信室に入ったままで出てこない。便所と飯を食う時しか出てこない。
「カピタン、今朝から暗号コードが変わった。ソ連軍の交信の量が増えている」とウランが食堂で長谷川に報告した。ボクサーの表情に変化はなかったが、長谷川は危険信号と取った。長谷川が島原領事に応援を依頼した。山中武官がコードを送ってくれた。ついでに日本側のコードを変えた。これが傍聴戦なのである。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第二章
1
「痛快だったか?」と関東軍植田謙吉総司令官が長谷川に訊いた。
「ハッ、閣下、写真入りの報告書を作りましたのでご笑覧ください」
「飛鳥君もこれで浮かばれるだろう。君たちは昇級の功績なんだが、ふたりとも陸大を出ておらんのでそれが出来ん。佐官が原則の参謀にもなれない。襟章に緑の星を加えて給料を増やすしかない」
「司令官殿、われわれは、どん百姓であります。昇給とは有難いご酌量であります」と長谷川が言った。長谷川は大金を持っていることを言わなかった。つぎにふたりは憲兵司令官室へ行った。浜中大佐にも報告ブックを差し上げた。浜中がアルバムを見ては「ほう、ほう」と言っていた。
「君たちには指図はできんな」と笑った。
「司令官殿、われわれに陸王を貸してください。気を休めないとこの磯村少尉が潰れます」と言うと、浜中が大笑いした。外に出ると、早速、サイドカー陸王を借りた。磯村を見るとクチが裂けるほど笑っていた。そして憲兵に「三日ばかり帰らん」と言った。
「大尉殿、どこへ行きます?」
「吉林へ行こう」
「何かあるんですか?」
「いや、旅館で話す」
長春の東、吉林まで一三〇キロに過ぎない。だが、丘陵がある。松花江がS字に流れている。小高い丘の展望台に着いた。長谷川が吉林案内のブックを読んだ。
――吉林市は長白山から松嫩平原に移行する地帯に位置している。おおくの山と松花江が吉林に流れ込む。四季に富む。吉林は長春の水の資源である。松花江はハルピンと違って冬も凍結しない。シベリアから渡り鳥が飛んでくる。
「すると、ここが長白山なんだ」と磯村がカメラで景色を撮っていた。
「吉林の満人は親日なんだそうだ。ここから鳥西や牡丹江は遠くない」と長谷川が東北を指さしていた。このルートでソ連軍は新京にやってくるだろう。」ソ連軍は、張粛林の青封ではない。関東軍が現在やっておる重慶攻略などは満州にとって隙間なのだ」
聞いていた磯村の背筋が凍った。陸王が吉林市内に入った。通行人が多い。大都市なのだ。大衆はおっとりしていた。憲兵のサイドカーを見て手を振っている。吉林花園大酒家という下品なホテルを選んだ。ベルボウイが飛んできてサイドカーを地下の駐車上に案内した。
「陸王に触ったら殺すぞ」と磯村が黒光りする南部を見せた。ボウイは、チップを貰ったが青くなった。
「大尉殿、これそうとう下品ですが」
「下品なほど料理は美味い。カジノも、ストリップもあるよ」
だが満蒙料理は上海料理には適わないのだ。二日泊まることにした。骨休めなんだから、、磯村が喜んでいた。
「明日は地形を見ておこうか」
2
吉林案内の通りだった。丘があり、小川があり、人々が穏やかだった。磯村が非情の世界、小倉よりもいいなと思った。
「少尉、今夜、インチキ賭博を見せてくれ」と長谷川が行楽の雰囲気を壊した。
「この松嫩平原ですが、ソ連の機甲師団には楽しい遠足です」と磯村が言った。
「少尉、ハルピンへ行こう」
「ノモンハンですか?」
「そうだ。少尉、吉林の貯水湖を見てこよう」
その貯水湖の湖畔にも桜が咲いていた。子供も、大人も釣りをしていた。聞くと、鱒だと。見ていると釣れた。竿がしなっている。その鱒はシベリアからくると言った。長谷川が「河と人類」の博士に戻っていた。地球は人間が戦争している間も太陽を回っている、、博士は神の存在を確信していた。
吉林花園大酒家に戻った二人は風呂に入った。酒も、カジノも遠慮した。ただ熟睡だけが欲しかったのである。
ふたりは昼頃までゴロゴロとしていた。長谷川は佐和子に手紙を書いた。磯村はハンザ・キャノンを弄っていた。少尉は写真機に夢中なのである。改良するべき点をノートに書いていた。
ふたりは南のルートで新京に帰った。士官宿舎に戻った。
「来週、ハルピンへ飛ぶ」とだけ長谷川が言って寝てしまった。磯村はひとりで食堂へ行き部屋に戻ると春燕と別府の妹夫婦に絵葉書を書いた。長谷川が日記を取り出して四月十五日のページを開いた。快晴~昼の便で磯村平助少尉とハルピンへ飛ぶと書き入れた。それから、磯村と浜中大佐に北部満州とノモンハンへ視察に行くと報告した。浜中が改良された南部拳銃をふたりにくれた。
ふたりの憲兵将校は再び貨物機の乗客となった。貨物機もエンジンが改良されて速くなっていた。雲間から下界が見えた。山岳地帯を飛んでいる。やがて、松花江の支流に湖が見えた。吊水湖だ。すると東の鉄道の駅は平山鎮だろう。貨物機がゆるゆると下降している。翼のフラップが伸びるのが見えると速度が落ちた。ガタンと車輪を出す音が聞こえた。
ふたりはハルピン平房飛行基地の憲兵隊本部へ挨拶に言った。憲兵士官たちが立ち上がって迎えた。そしてダットサンを出してくれたのである。ハルピン領事館では島原領事と山中武官が出迎えた。インド象がニコニコと笑っていた。領事の執務室に入ると長谷川が報告ブックを取り出して領事に渡した。島原がページをめくった。山中がそれを覗いていた。「ほう」「お~!」と感嘆の声をあげていた。
「長谷川君、どっかで飯食おう」
「ヤマトホテルの日本食が食べたいのです」
「そうであります」と磯村が横から変な応援をした。味噌に絡めた大豆油が濃く、ネギとニンニクの満蒙料理のマトンにうんざりしていた。
ヤマトホテルのVIP用個室に入ると、長谷川が室内を見まわしていた。すると、山中が心配ありませんと言った。飲み物を待っている間、領事がポケットから電報を取り出した。カレンからである。長谷川は読まず胸のポケットに入れた。
「領事さん、イワノフはどこにいますか?」
「キタイスカヤにウランとおるけど?」
「明日、領事館へ呼んでください。会議をしたいのです」
「いよいよノモンハンだね?」とインド象が深刻な顔をした。
紀州の初ガツオの刺身が運ばれてきた。摺り生姜が添えてある。磯村と山中が笑っていた。春菊のおしたし~蕗~たいの吸い物~赤飯、、酒も出た。運転手の山中はビールにした。食後、山中が運転するダットサンが松花江の龍門大厦でふたりを降ろした。フロントが長谷川を覚えていた。最上階の部屋に案内された。長谷川が部屋を一巡して「メシクッタカ」と言った。ふたりは風呂に入ってローブに着替えた。長椅子に座ってからカレンの電報を解読した。
――ミチオ、元気なのね。わたし、とても嬉しいわ。サンフランシスコの領事館でも私は電信係りなの。ただ、アメリカでは傍聴は出来ないのよ。アメリカの通信技術はとても発達してる。おなかが大きくなったわ。順調だって。六月に生まれるわよ。電報頂戴。カレン。
「少尉、また岩田中尉に会えるぞ」
「はあ、空中戦はもう結構ですが」
「あり得るね」と言うとベッドに入って寝てしまった。磯村も自分の寝室へ行った。腕時計の目覚ましを確認すると寝た。日本以来の疲れがど~と出たのだ。
3
会議は午後一時だったので、ふたりは階下でトーストと紅茶で朝飯を済ませた。部屋に戻ってゴロゴロすることにした。ふたりは戦地へ行くまでにいろいろな連絡をして置きたかった。長谷川は鮎二が気になった。
「おい、少尉、改良型南部を持ってこい」
「何が改善されたのでしょうかね?」と磯村がハンドブックを開いた。口径は同じ八ミリだったが、銃身が少し長くなっている。照準がやりやすくなっていた。握りも手にしっくりとしている。
「この銃身は神戸製鋼だな。青光りしている。これだと二十メートルは間違いなく当たる」と長谷川が壁のポスターの女に照準を合わせた。そして竜神組の神田川を葬った一発を想い出していた。スミス・ウエッソンを持ってきて南部と比べた。遜色はなかった。
「少尉はあのとき誰かを撃ったか?」
「いいえ、写真を撮るのに精いっぱいでありました」と笑っていた。
「少尉、フイルムはあるのか?ノモンハンで相当、君は忙しいぞ。俺も撮りたいが機甲師団との話のほうに気を取られるんだ」
「フイルムは新京からひと箱持ってきました。ノモンハンは相当、危険でありますか?」
「わからん。会議で島原領事さんから聞く」と言ってから長谷川が床で体操を始めた。磯村も腕立て伏せや四股の運動をしていた。
4
「ドブラエ・ウートラ」と太い声がした。島原領事~山中武官~イワノフが待っていた。長谷川がイワノフと抱き合った。
「早速ですが、領事さん、ノモンハンを解説してください」
「うむ、先にイワノフから聞こう」とインド象がジャポチンスキーを振り返った。このふたりの巨人と一つの部屋にいると体格の良い磯村も長谷川も圧倒された。酸素がふたりに取られる気がした。イワノフが地図を机の上に置いて解説し始めた、、
――満州国側のホロンバイル高原の南に細い川がある。その周辺にソ連軍の機甲師団が集結している。ボクのデータは一週間前のものだから今はもっと変わっているとオモウ。最近の偵察で撮った航空写真をアイグンで見られるでしょう。現在、日本軍はチチハルの野砲部隊を派遣している。だが遠巻きにしているだけです。戦車部隊はこれからダヨ。
「うむ、少し付け加えておこう」と島原領事が驚くべきことを語った。――一九三五年に国境紛争の規模が大きくなった。これはソ連側の外交姿勢の高圧化が原因なのだ。ソ蒙相互援助の締結もこの時期であり、その政策によってソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍中央と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団参謀の片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに努力していたんだ。こういった腰が引けた日本の軍部の姿勢はソ連には有利なんだよ。
「関東軍はどういう主張なんですか?」と長谷川が鋭い質問をした。領事は右手を顎に当てた。正確に伝えたかったからだ。
「長谷川君もご存じの朝鮮とソ連の国境の張鼓峰事件で陸軍省軍務局などが不拡大方針を採ったのに対して関東軍は強い不満を抱いた。断固とした対応を強調した。関東軍は満ソ国境紛争処理要綱を独自に策定した。辻政信参謀が起草し、先月四月に植田謙吉関東軍司令官が陸軍省に示達した。要綱では――国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官が自主的に国境線を認定し~万一衝突すれば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期すとして日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣る兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された。この処理方針に基づいた関東軍の強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる。この要綱を東京の大本営は、正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかったのだ。また、関東軍司令部ではハルハ川がソ連との確定された国境線とみなされるに至った。それによって本年には紛争件数は約二百件にも達した」
「日ソの戦力を教えてください」と長谷川が島原領事に訊いた。
「長谷川君、日ソ両軍の戦力バランスは、常にソ連側が優っている。ちょうど五年前の時点では、日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて五個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は十一個歩兵師団を配備していた。去年末までには十六個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍の軍事力を有するに至った。ハルピンの傍聴機関であるこの領事館がすべてをほぼ把握していたんだ。報告に従って日本軍も軍備増強を進めたが、日支事変の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた。その影響もあって容易には進まず、今年は、日本は相変わらず十一個歩兵師団に対しソ連軍は三十個歩兵師団となった。なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備をゆだねていた。だが、それも変わった。ここまでは君はご周知でしょ?」
「いえ、メモを読んだだけであります」
「今度の偵察は偵察機では出来ないと言っている」と島原領事が言った。
「すると、何で行くのでありますか?」
「何か、今年の三月に出来た試作機だそうだよ」
「エエ~?」とイワノフが悲鳴を上げた。だが誰も笑わなかった。
「参謀本部が知りたいのは敵の規模です。ソ連極東軍といえども戦車をあの極地に集めるのは容易ではないのです。だがハバロフスクの戦車部隊が汽車で移動しているのです」と山中が言った。
「まあ、行ってみないと何とも云いようがない。戦闘になることは間違いない」と長谷川が天井を見上げた。
「イワノフ、いつ出発しようか?」
「カピタン、今度は上海の太湖じゃないデスヨ。大きい戦争だから準備に三日チョーダイ。四月二十日がいいのよ」とイワノフが決めた。長谷川も賛成した。もう三日休めるのだ。
「領事さん、それではホテルへ戻ります」と長谷川が立ち上がってインド象と握手をした。象の目が長谷川の目をじっとみていた。山中が改良された電信機を長谷川に渡した。随分、軽量だった。磯村がそれを持った。ふたりが龍門大厦の部屋に戻った。すぐに階下へ行って中華料理を食った。
「少尉、うんと食っておけ。これから何日間かは野戦部隊の兵隊食だ。食えない日もあるだろう」と北京料理のフルコースを頼んだ。
「大尉殿、そろそろ麦飯を食ったほうが体にいいんじゃないかと思っておりました」と磯村が笑った。これが最後の酒だと紹興酒も頼んだ。ふたりは飲んで食った。上海ならストリッパーたちと食っただろう、、上海が遠い想い出になっていた。そのあと、部屋に戻ってさっさと寝た。
翌日も休養と思いつくもののすべてを準備した。簡易テント~カンテラ~ゴムの長靴~水中眼鏡やゴムで出来た潜水具まであった。
「少尉、電信機を持ってこい」と長谷川が言ってから暗号文解読のコードを変えた。ふたりが新型の電信機を観察していた。対して変わりがないようだが、マニュアルを読むと、遠距離~雑音が入らない~軽量と書いてあった。敵に取られそうになったら二極を金鎚で壊せ!と赤い字で書いてある。磯村は――まだまだ自分は素人だと連続撮影の要点を読んでいた。
「満州北部は好い天気が続いているそうです」
「それだけが好いニュースなんだ」と青空を飛ぶ試作機を想像していた。だが戦闘機は確か単座だが?さすがの長谷川まで溜息が出た。磯村は戦闘機と聞いただけで青くなっていた。陸王の方がよっぽどいいなどと頓珍漢なことを想っていた。長谷川がイワノフに電信を送って夕飯を塔道斯(トトロ)で食うことにした。ウランを口説くためだった。塔道斯(トトロ)で四人が会った。
「ノモンハンの野戦部隊にも電信班はあるが対応が悪い」と長谷川がウランに言うと、ウランは知っていた。傍聴でわかるのだ。なぜ対応が悪いのかを現地で調べてくれと長谷川が言った。ウランが頷いた。
「イワノフ、済まんな。太湖でも泳げない君が命を張ってくれた」と長谷川が言うと巨漢が長谷川の手を握った。
「飛鳥少佐の弔い合戦だから命いくつ張っても足りない。黄金太鎮城の天守閣に炎が見えたとき、ボク万歳シタヨ。でもひとつ惜しいことがアルヨ。ボク、あの大女に乗っておけばよかった」と大笑いした。そして磯村平助の顔をうかがっていた。平助の顔には何の変化もなかった。イワノフが、野菜スープ、魚料理、ラム、ビーフと豚肉のフィレ、ハウスワインを注文した。焼きたての素敵なパンが出た。ふたりの大食漢がクジラのように食った。ウランが呆れて見ていた。長谷川がダンスフロアを見た。カレンと踊った夜を想い出していた。
続く、、
第二章
1
「痛快だったか?」と関東軍植田謙吉総司令官が長谷川に訊いた。
「ハッ、閣下、写真入りの報告書を作りましたのでご笑覧ください」
「飛鳥君もこれで浮かばれるだろう。君たちは昇級の功績なんだが、ふたりとも陸大を出ておらんのでそれが出来ん。佐官が原則の参謀にもなれない。襟章に緑の星を加えて給料を増やすしかない」
「司令官殿、われわれは、どん百姓であります。昇給とは有難いご酌量であります」と長谷川が言った。長谷川は大金を持っていることを言わなかった。つぎにふたりは憲兵司令官室へ行った。浜中大佐にも報告ブックを差し上げた。浜中がアルバムを見ては「ほう、ほう」と言っていた。
「君たちには指図はできんな」と笑った。
「司令官殿、われわれに陸王を貸してください。気を休めないとこの磯村少尉が潰れます」と言うと、浜中が大笑いした。外に出ると、早速、サイドカー陸王を借りた。磯村を見るとクチが裂けるほど笑っていた。そして憲兵に「三日ばかり帰らん」と言った。
「大尉殿、どこへ行きます?」
「吉林へ行こう」
「何かあるんですか?」
「いや、旅館で話す」
長春の東、吉林まで一三〇キロに過ぎない。だが、丘陵がある。松花江がS字に流れている。小高い丘の展望台に着いた。長谷川が吉林案内のブックを読んだ。
――吉林市は長白山から松嫩平原に移行する地帯に位置している。おおくの山と松花江が吉林に流れ込む。四季に富む。吉林は長春の水の資源である。松花江はハルピンと違って冬も凍結しない。シベリアから渡り鳥が飛んでくる。
「すると、ここが長白山なんだ」と磯村がカメラで景色を撮っていた。
「吉林の満人は親日なんだそうだ。ここから鳥西や牡丹江は遠くない」と長谷川が東北を指さしていた。このルートでソ連軍は新京にやってくるだろう。」ソ連軍は、張粛林の青封ではない。関東軍が現在やっておる重慶攻略などは満州にとって隙間なのだ」
聞いていた磯村の背筋が凍った。陸王が吉林市内に入った。通行人が多い。大都市なのだ。大衆はおっとりしていた。憲兵のサイドカーを見て手を振っている。吉林花園大酒家という下品なホテルを選んだ。ベルボウイが飛んできてサイドカーを地下の駐車上に案内した。
「陸王に触ったら殺すぞ」と磯村が黒光りする南部を見せた。ボウイは、チップを貰ったが青くなった。
「大尉殿、これそうとう下品ですが」
「下品なほど料理は美味い。カジノも、ストリップもあるよ」
だが満蒙料理は上海料理には適わないのだ。二日泊まることにした。骨休めなんだから、、磯村が喜んでいた。
「明日は地形を見ておこうか」
2
吉林案内の通りだった。丘があり、小川があり、人々が穏やかだった。磯村が非情の世界、小倉よりもいいなと思った。
「少尉、今夜、インチキ賭博を見せてくれ」と長谷川が行楽の雰囲気を壊した。
「この松嫩平原ですが、ソ連の機甲師団には楽しい遠足です」と磯村が言った。
「少尉、ハルピンへ行こう」
「ノモンハンですか?」
「そうだ。少尉、吉林の貯水湖を見てこよう」
その貯水湖の湖畔にも桜が咲いていた。子供も、大人も釣りをしていた。聞くと、鱒だと。見ていると釣れた。竿がしなっている。その鱒はシベリアからくると言った。長谷川が「河と人類」の博士に戻っていた。地球は人間が戦争している間も太陽を回っている、、博士は神の存在を確信していた。
吉林花園大酒家に戻った二人は風呂に入った。酒も、カジノも遠慮した。ただ熟睡だけが欲しかったのである。
ふたりは昼頃までゴロゴロとしていた。長谷川は佐和子に手紙を書いた。磯村はハンザ・キャノンを弄っていた。少尉は写真機に夢中なのである。改良するべき点をノートに書いていた。
ふたりは南のルートで新京に帰った。士官宿舎に戻った。
「来週、ハルピンへ飛ぶ」とだけ長谷川が言って寝てしまった。磯村はひとりで食堂へ行き部屋に戻ると春燕と別府の妹夫婦に絵葉書を書いた。長谷川が日記を取り出して四月十五日のページを開いた。快晴~昼の便で磯村平助少尉とハルピンへ飛ぶと書き入れた。それから、磯村と浜中大佐に北部満州とノモンハンへ視察に行くと報告した。浜中が改良された南部拳銃をふたりにくれた。
ふたりの憲兵将校は再び貨物機の乗客となった。貨物機もエンジンが改良されて速くなっていた。雲間から下界が見えた。山岳地帯を飛んでいる。やがて、松花江の支流に湖が見えた。吊水湖だ。すると東の鉄道の駅は平山鎮だろう。貨物機がゆるゆると下降している。翼のフラップが伸びるのが見えると速度が落ちた。ガタンと車輪を出す音が聞こえた。
ふたりはハルピン平房飛行基地の憲兵隊本部へ挨拶に言った。憲兵士官たちが立ち上がって迎えた。そしてダットサンを出してくれたのである。ハルピン領事館では島原領事と山中武官が出迎えた。インド象がニコニコと笑っていた。領事の執務室に入ると長谷川が報告ブックを取り出して領事に渡した。島原がページをめくった。山中がそれを覗いていた。「ほう」「お~!」と感嘆の声をあげていた。
「長谷川君、どっかで飯食おう」
「ヤマトホテルの日本食が食べたいのです」
「そうであります」と磯村が横から変な応援をした。味噌に絡めた大豆油が濃く、ネギとニンニクの満蒙料理のマトンにうんざりしていた。
ヤマトホテルのVIP用個室に入ると、長谷川が室内を見まわしていた。すると、山中が心配ありませんと言った。飲み物を待っている間、領事がポケットから電報を取り出した。カレンからである。長谷川は読まず胸のポケットに入れた。
「領事さん、イワノフはどこにいますか?」
「キタイスカヤにウランとおるけど?」
「明日、領事館へ呼んでください。会議をしたいのです」
「いよいよノモンハンだね?」とインド象が深刻な顔をした。
紀州の初ガツオの刺身が運ばれてきた。摺り生姜が添えてある。磯村と山中が笑っていた。春菊のおしたし~蕗~たいの吸い物~赤飯、、酒も出た。運転手の山中はビールにした。食後、山中が運転するダットサンが松花江の龍門大厦でふたりを降ろした。フロントが長谷川を覚えていた。最上階の部屋に案内された。長谷川が部屋を一巡して「メシクッタカ」と言った。ふたりは風呂に入ってローブに着替えた。長椅子に座ってからカレンの電報を解読した。
――ミチオ、元気なのね。わたし、とても嬉しいわ。サンフランシスコの領事館でも私は電信係りなの。ただ、アメリカでは傍聴は出来ないのよ。アメリカの通信技術はとても発達してる。おなかが大きくなったわ。順調だって。六月に生まれるわよ。電報頂戴。カレン。
「少尉、また岩田中尉に会えるぞ」
「はあ、空中戦はもう結構ですが」
「あり得るね」と言うとベッドに入って寝てしまった。磯村も自分の寝室へ行った。腕時計の目覚ましを確認すると寝た。日本以来の疲れがど~と出たのだ。
3
会議は午後一時だったので、ふたりは階下でトーストと紅茶で朝飯を済ませた。部屋に戻ってゴロゴロすることにした。ふたりは戦地へ行くまでにいろいろな連絡をして置きたかった。長谷川は鮎二が気になった。
「おい、少尉、改良型南部を持ってこい」
「何が改善されたのでしょうかね?」と磯村がハンドブックを開いた。口径は同じ八ミリだったが、銃身が少し長くなっている。照準がやりやすくなっていた。握りも手にしっくりとしている。
「この銃身は神戸製鋼だな。青光りしている。これだと二十メートルは間違いなく当たる」と長谷川が壁のポスターの女に照準を合わせた。そして竜神組の神田川を葬った一発を想い出していた。スミス・ウエッソンを持ってきて南部と比べた。遜色はなかった。
「少尉はあのとき誰かを撃ったか?」
「いいえ、写真を撮るのに精いっぱいでありました」と笑っていた。
「少尉、フイルムはあるのか?ノモンハンで相当、君は忙しいぞ。俺も撮りたいが機甲師団との話のほうに気を取られるんだ」
「フイルムは新京からひと箱持ってきました。ノモンハンは相当、危険でありますか?」
「わからん。会議で島原領事さんから聞く」と言ってから長谷川が床で体操を始めた。磯村も腕立て伏せや四股の運動をしていた。
4
「ドブラエ・ウートラ」と太い声がした。島原領事~山中武官~イワノフが待っていた。長谷川がイワノフと抱き合った。
「早速ですが、領事さん、ノモンハンを解説してください」
「うむ、先にイワノフから聞こう」とインド象がジャポチンスキーを振り返った。このふたりの巨人と一つの部屋にいると体格の良い磯村も長谷川も圧倒された。酸素がふたりに取られる気がした。イワノフが地図を机の上に置いて解説し始めた、、
――満州国側のホロンバイル高原の南に細い川がある。その周辺にソ連軍の機甲師団が集結している。ボクのデータは一週間前のものだから今はもっと変わっているとオモウ。最近の偵察で撮った航空写真をアイグンで見られるでしょう。現在、日本軍はチチハルの野砲部隊を派遣している。だが遠巻きにしているだけです。戦車部隊はこれからダヨ。
「うむ、少し付け加えておこう」と島原領事が驚くべきことを語った。――一九三五年に国境紛争の規模が大きくなった。これはソ連側の外交姿勢の高圧化が原因なのだ。ソ蒙相互援助の締結もこの時期であり、その政策によってソ連軍の極東兵力増加が進んだ。この時期の日本は、陸軍中央と関東軍司令部のいずれも不拡大方針で一致していた。前線部隊でも、騎兵集団参謀の片岡董中佐らが慎重な行動を図り、紛争の拡大に歯止めをかけることに努力していたんだ。こういった腰が引けた日本の軍部の姿勢はソ連には有利なんだよ。
「関東軍はどういう主張なんですか?」と長谷川が鋭い質問をした。領事は右手を顎に当てた。正確に伝えたかったからだ。
「長谷川君もご存じの朝鮮とソ連の国境の張鼓峰事件で陸軍省軍務局などが不拡大方針を採ったのに対して関東軍は強い不満を抱いた。断固とした対応を強調した。関東軍は満ソ国境紛争処理要綱を独自に策定した。辻政信参謀が起草し、先月四月に植田謙吉関東軍司令官が陸軍省に示達した。要綱では――国境線明確ならざる地域においては、防衛司令官が自主的に国境線を認定し~万一衝突すれば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期すとして日本側主張の国境線を直接軍事力で維持する方針が示され、安易な戦闘拡大は避けるべきだが、劣る兵力での国境維持には断固とした態度を示すことがかえって安定につながると判断された。この処理方針に基づいた関東軍の強硬な対応が、ノモンハン事件での紛争拡大の原因となったとも言われる。この要綱を東京の大本営は、正式な報告があったにもかかわらず正式の意思表示も確たる判断も示さなかったのだ。また、関東軍司令部ではハルハ川がソ連との確定された国境線とみなされるに至った。それによって本年には紛争件数は約二百件にも達した」
「日ソの戦力を教えてください」と長谷川が島原領事に訊いた。
「長谷川君、日ソ両軍の戦力バランスは、常にソ連側が優っている。ちょうど五年前の時点では、日本軍は関東軍と朝鮮軍合わせて五個歩兵師団であったのに対し、ソ連軍は十一個歩兵師団を配備していた。去年末までには十六個歩兵師団に増強され、ソ連軍は日本軍の三倍の軍事力を有するに至った。ハルピンの傍聴機関であるこの領事館がすべてをほぼ把握していたんだ。報告に従って日本軍も軍備増強を進めたが、日支事変の勃発で中国戦線での兵力需要が増えた。その影響もあって容易には進まず、今年は、日本は相変わらず十一個歩兵師団に対しソ連軍は三十個歩兵師団となった。なお、満蒙国境では、日ソ両軍とも最前線には兵力配置せず、それぞれ満州国軍とモンゴル軍に警備をゆだねていた。だが、それも変わった。ここまでは君はご周知でしょ?」
「いえ、メモを読んだだけであります」
「今度の偵察は偵察機では出来ないと言っている」と島原領事が言った。
「すると、何で行くのでありますか?」
「何か、今年の三月に出来た試作機だそうだよ」
「エエ~?」とイワノフが悲鳴を上げた。だが誰も笑わなかった。
「参謀本部が知りたいのは敵の規模です。ソ連極東軍といえども戦車をあの極地に集めるのは容易ではないのです。だがハバロフスクの戦車部隊が汽車で移動しているのです」と山中が言った。
「まあ、行ってみないと何とも云いようがない。戦闘になることは間違いない」と長谷川が天井を見上げた。
「イワノフ、いつ出発しようか?」
「カピタン、今度は上海の太湖じゃないデスヨ。大きい戦争だから準備に三日チョーダイ。四月二十日がいいのよ」とイワノフが決めた。長谷川も賛成した。もう三日休めるのだ。
「領事さん、それではホテルへ戻ります」と長谷川が立ち上がってインド象と握手をした。象の目が長谷川の目をじっとみていた。山中が改良された電信機を長谷川に渡した。随分、軽量だった。磯村がそれを持った。ふたりが龍門大厦の部屋に戻った。すぐに階下へ行って中華料理を食った。
「少尉、うんと食っておけ。これから何日間かは野戦部隊の兵隊食だ。食えない日もあるだろう」と北京料理のフルコースを頼んだ。
「大尉殿、そろそろ麦飯を食ったほうが体にいいんじゃないかと思っておりました」と磯村が笑った。これが最後の酒だと紹興酒も頼んだ。ふたりは飲んで食った。上海ならストリッパーたちと食っただろう、、上海が遠い想い出になっていた。そのあと、部屋に戻ってさっさと寝た。
翌日も休養と思いつくもののすべてを準備した。簡易テント~カンテラ~ゴムの長靴~水中眼鏡やゴムで出来た潜水具まであった。
「少尉、電信機を持ってこい」と長谷川が言ってから暗号文解読のコードを変えた。ふたりが新型の電信機を観察していた。対して変わりがないようだが、マニュアルを読むと、遠距離~雑音が入らない~軽量と書いてあった。敵に取られそうになったら二極を金鎚で壊せ!と赤い字で書いてある。磯村は――まだまだ自分は素人だと連続撮影の要点を読んでいた。
「満州北部は好い天気が続いているそうです」
「それだけが好いニュースなんだ」と青空を飛ぶ試作機を想像していた。だが戦闘機は確か単座だが?さすがの長谷川まで溜息が出た。磯村は戦闘機と聞いただけで青くなっていた。陸王の方がよっぽどいいなどと頓珍漢なことを想っていた。長谷川がイワノフに電信を送って夕飯を塔道斯(トトロ)で食うことにした。ウランを口説くためだった。塔道斯(トトロ)で四人が会った。
「ノモンハンの野戦部隊にも電信班はあるが対応が悪い」と長谷川がウランに言うと、ウランは知っていた。傍聴でわかるのだ。なぜ対応が悪いのかを現地で調べてくれと長谷川が言った。ウランが頷いた。
「イワノフ、済まんな。太湖でも泳げない君が命を張ってくれた」と長谷川が言うと巨漢が長谷川の手を握った。
「飛鳥少佐の弔い合戦だから命いくつ張っても足りない。黄金太鎮城の天守閣に炎が見えたとき、ボク万歳シタヨ。でもひとつ惜しいことがアルヨ。ボク、あの大女に乗っておけばよかった」と大笑いした。そして磯村平助の顔をうかがっていた。平助の顔には何の変化もなかった。イワノフが、野菜スープ、魚料理、ラム、ビーフと豚肉のフィレ、ハウスワインを注文した。焼きたての素敵なパンが出た。ふたりの大食漢がクジラのように食った。ウランが呆れて見ていた。長谷川がダンスフロアを見た。カレンと踊った夜を想い出していた。
続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話 |
第二話
第一章
1
太湖の対岸の半島に海軍陸戦隊が回した円太郎バスが待っていた。運転手の下士官が長谷川に敬礼した。それを夢華が不思議そうに見ていた。春燕は磯村の腕にぶら下がっていた。朕さんが日本の軍人だと知っているのである。長谷川は夢華から逃げていた。イワノフとならんで座った。夢華が、ふたりがロシア語で話すのを聞いた。そして長谷川を口説く作戦を断念した。
円太郎バスが上海の市街に入った。そして夢華と春燕を南京路で降ろした。磯村がふたりにお祝儀袋をくれていた。胡娘たちは満面の笑顔で受け取った。次に長谷川と磯村が天国道大酒家で降りた。「大仕事ご苦労様でした」と水兵と下士官がこれも笑いながら敬礼をした。ふたりはエレベーターで最上階の部屋に戻った。
「少尉、うまくいったなあ」
「ハッ、まことに見事でありました」
「午後から領事館へ行くぞ」とフロントに中華三昧を注文した。
「それと、明日の夜は一色さんの招待で飯を食うが夢華と春燕を呼んでもいいよ」と磯村を喜ばした。ふたりは中華三昧でランチを終えてから風呂に入った。磯村が風呂から上がると、長谷川が手帳を胸において、ごうごうと鼾をかいていた。磯村も日記を書いた。四月四日になっていた。
2
「長谷川大尉さん、カレン・スターさんから手紙が来ています」と岸田武官が長谷川を驚かした。そして封筒を受け取った。早く読みたいと、はやる心を制して黒駒総領事の執務室に歩いて行った。
「総領事さん、昨年の夏以来、ご無沙汰しております。これは磯村平助少尉です。私の唯一の兵隊なのであります」と長谷川が言うと領事が磯村に会釈をした。
「長谷川大尉さん、飛鳥さんが亡くなられたことを聞いて上海領事館は喪に服しました。小倉の竜神組組長ら幹部をみな殺しにしたことも聞きました。私ども外交官にはどうにもならない連中でした。それで、本日の要件はなんですか?」
「今朝、青封をせん滅しました」と長谷川が黒駒領事を驚かした。聞いた岸田武官が――歴史が変わると言った。長谷川はハルピンの島原領事に報告するまで日本租界に言わないようにと釘を差した。露探が反撃するからだとその理由を言うと、スパイ同士の戦争の凄まじさに黒駒領事の体が震えた。それを岸田武官が見ていた、、
ふたりが外に出ると、四月初めの上海の街路はソメイヨシノが満開だった。風に吹かれて落ちた花びらが街路を敷き詰めている。長谷川が磯村を振り返った。
「少尉、君は上海が見足りないだろう。それに春燕もあるしなあ」
「はあ」磯村はどう返事してよいのか分からなかった。
「新京へ戻らんといかんがね、エライさんたちに鬼退治の報告だけだ。海軍陸戦隊にも呼ばれている。明日、旅程を立てようか。君はいずれにせよ、今夜は自由だ。朝までには戻れよ」と長谷川が笑った。
「大尉殿、ストリップ小屋に付き合ってください」
「う~む、俺はやめとくわ」と上官がいうと磯村が夢華を想い出して笑った。
「今から何をしますか?」
「大寧霊石公園を見たいんだが、君も来るか?月季花というバラが満開なんだとボウイが言っていた」
「ハッ、是非、自分も見たいです」と磯村がハンザ・キャノンのケースを指で叩いた。
桜桃博覧会と入口に幕が張ってあった。入ってみると、池の周りに色とりどりのチューリップが咲き誇っている。桃の花が可憐だ。杉村が夢中になっていた。
「君、一人で回って来いよ。あそこの茶店で会おう。一時間で良いか?」というと磯村平助が喜んだ。残った長谷川も上海ローズ~牡丹~咲き始めた藤の蕾をカメラで捉えた。茶店に入ると、カレンの封筒を開けた。玄界灘や太湖では静かだった心臓の鼓動の音が高くなっていた。
――私が最も愛するミチオへ、
私たちは、今年一月二十日にサンフランシスコの港に着きました。太平洋は冬の海だったけど航海はとても楽しかったのよ。十八名みんな元気です。ロシアン・ヒルというユダヤ人地区の簡易住宅だけどカリホルニアは新天地という希望があるので、すべてが楽しいのよ。ハルピンを出てからすでに三か月が経ったわ。私、ここのところ体調が悪くてお医者さんに行ったの。女医さんが私は妊娠していると言うのよ。妊娠四か月で心音が二つ聞こえるって。びっくりしたわ。うれしくって涙が出たわ。
去年の九月、ミチオとラブした龍門大厦の夜を覚えている?するとピッタリなのよ。ママも、パパも、親戚もみんな大喜びなの。この双子はアメリカで生まれる最初のスターコビッツ家の子供だからなのよ。女医さんが性別を知りたいかって訊いたけど断ったわ。
ミチオは今どこにいるの?島原領事さんがミチオは日本に帰国中だってサンフランシスコの日本領事館に知らせてくれたのよ。日本なら安全ね。青森のご家族が喜んだでしょう。先週、領事館でインタビューを受けたの。島原領事のおかげで雇ってくださるの。私はミチオを愛しています。忘れないでね。一九三十九年二月十日、カレン・スター
写真が一枚入っていた。日本郵船の浅間丸がサンフランシスコ港に着いたときの記念写真だった。長谷川はあふれる涙を抑えられなかった。胡娘の女給がびっくりした顔になった。そこへ磯村が戻ってきたが長谷川がハンカチで目を拭くのを見て黙って座った。そして、フィルムを巻き取ると新しいフィルムを装填した。胡娘がおしゃべりをしている。磯村が「撮ってもいいか?」と訊いた。平助は広東語がうまくなっていた。春燕が布団の中で教えたからである。ふたりは、ジャズミン茶と菜饅頭を黙々と食べた。磯村が顔を上げて長谷川を見た。
「少尉、心配は要らない。カレンが身籠った。双子らしい。サンフランシスコの日本領事館に勤めると言っている」
「大尉殿、こんな大事なことを自分に話して下さって嬉しいです」と情が深い平助が声を詰まらせた。
「俺は買い物をしてホテルへ帰るが、君はどうする?」
「自分も買い物がしたいのです。ご一緒しても良いですか?」
「あたりまえだよ。だが春燕は?」
「ストリップ小屋が閉まる真夜中に行きますので、夕飯も大尉殿と食べます」
「少尉、イワノフは、明日の朝、ハルピンに飛ぶ。夢華と土産物を買いに行った。夕飯で一緒になるよ」と長谷川が言った。
3
イワノフが天国道大酒家の上海飯店にやってきた。
「夢華はどうしたの?」と内心、ほっとしてはいたが長谷川が訊いた。
「カピタン、あの胡娘もの凄いよ。寝よう、寝ようとイッタノヨ」と長谷川と磯村を笑わせた。
「あのう、、イワノフは本当に泳げないの?」と磯村が訊いた。
「ソレ、ホントヨ」と目が三角になっていた。
上海キング・フルコースが運ばれてきた。さすがの磯村もイワノフの食欲には勝てない。ウームとうなっただけである。ドアの前に弁髪のバウンサーがいた。福建人の大男である。イワノフと目が会った。バウンサーが目を伏せた。つまり負けたのである。
「カピタン、ハルピンには来ないの?」と片手に牛の肩甲骨の焼肉を持ったイワノフが訊いた。
「行くと思うがいつとは判らないんだよ」
「ノモンハンが騒がしくナッテイルヨ」とイワノフが言ったとき、長谷川は一瞬、弟の鮎二を想った。
「新京に明後日の昼に飛ぶつもりだよ。イワノフ、島原領事にそう言っておくれ」
磯村は上海に居たかったが、自分が軍人であることに気が着いた。春燕を新京に連れて行きたいなと思った。イワノフが立ち上がった。ウエイターを磯村が呼んだ。三人の写真を撮った。
磯村が真夜中に起きて一張羅の支那服に着替えていた。ストリップ劇場に春燕を迎えに行くためである。布製の支那靴を履いて出ようとした。
「磯村、ちょっと待て」と長谷川が起きてきた。磯村が上官の手招きで長椅子に座った。すると、長谷川が百ドルをくれたのである。一ドル札で百枚だから分厚い。二等兵の十六か月分の給料に当たる。
「これ何でしょうか?」と磯村が驚いた。
「いや、何でもない。君が杜月生に勝った花札の報酬さ。だがね、申しわけがないが春燕と別れろ」と長谷川が磯村の目を覗いた。
「ハッ、自分もそのつもりであります」と少尉が目を瞑った。百ドルを頭陀袋に入れると長谷川に一礼して出て行った。
4
磯村平助が朝の九時にホテルに戻ってきた。長谷川はすでに起きていて電信機をカタカタと鳴らしていた。
「少尉、これからの予定を話す」と長谷川が電信機を箱に入れるとクチを開いた。
「大尉殿、着替えますので待ってください」と自分の部屋に入った。出てきた磯村は背広を着ていた。歯を磨いて髭を剃ったのか爽やかな顔をしていた。
「明朝の定期便で新京に飛ぶ。もうイワノフはハルピンに発った。関東軍参謀室で会議を開く。ノモンハンのことだよ。岩田純一中尉の空中戦を覚えているか?」
「忘れようがありません」と、ここまで聞いた磯村はすっかり憲兵隊情報将校に戻っていた。
「今夜は海軍陸戦隊と一杯飲む。それで上海はおしまいだ。だが、まだまだ上海には来なくてはなるまい。夕方まで時間がある。玄界灘のいきさつ~太湖のいきさつを書類にしてくれないか?」
「ハッ、写真入りで作成いたします」磯村は春燕との別れを話したかったが控えた。
長谷川は海軍陸戦隊基地に行きたくなかったが、犬養大佐には命を助けてもらった。太湖に漁船、水兵、機雷を配備してくれた。だが、宴会と戦勝話が終わると、あさ、新京に発つからと席を立った。磯村は南京路のストリップ劇場で降りた。
「大尉殿、すぐにホテルに戻ります。ご勘弁ください」と言った。長谷川が大きく頷いていた。
5
「春燕、ストリップをやめなさい」
「うん、ヘエスケ、やめて故郷に帰る。アタイと夢華は料理屋で知り会ったの。店主がドケチな奴で、ご飯が食べれるだけの賃金でこき使われた。ある夜、ストリッパーが食べにきたよ。それで、ストリッパーになろうとテストを受けたの。夢華は鈍くさいけどお尻が大きいからと採用されたけど、アタイは若すぎるし小さいからダメだと。そしたら、ストリッパーたちが、この胡娘は可愛い。雇わないならストライキするって言ったのよ」
「それでどうなったの?」と平助が身を乗り出していた。
「アタイね、踊りは上手なの。苗族だから」
「苗族?支那人じゃないの?」
「タイとの国境の山岳民族なの。山にパンダという熊猫がいるよ」
「それで、肌の色が少し褐色なんだね?でもそのジェイドの首飾りがよく似合うよ」
「うん、でもアタイは白いほうなの。お父ちゃんが支那人だから。お母ちゃんの苗族はとても貧乏なのよ。塩と唐辛子しか出来ないから」
磯村が五十ドルを封筒に入れて持っていた。それを春燕にやった。封筒を開けた春燕がびっくりしていた。
「ヘエスケ、謝々」そして磯村に抱き着くとふたりはもの凄い接吻をした。磯村が新京に帰ると言うと苗族という胡娘は泣いた。涙に負けた平助は許されない関東軍憲兵隊の住所を春燕に書いてあげたのである。磯村は一時間で部屋に帰ってきた。長谷川が緑茶を入れていた。
「少尉、よかったら、話せ」と春燕との別れ話を訊いた。苗族の話は長谷川を驚かした。
「大尉殿、風呂に入って寝ます」
6
翌朝の十時きっかりに陸軍一式貨物機が上海の浦東陸軍飛行場を軽々と離陸した。上海植物園が見えた。満開のソメイヨシノの上を飛んだ。磯村がカメラを取り出していた。貨物機は二千メートルの高度で飛んだ。大連の飛行場に一時間三十分で着いた。
「少尉、空港の写真を撮るな」
「ハッ、わかりました」
周水子から三時間後、貨物機が高度を下げた。南新京満州国飛行場に五時きっかりに着陸した。駐機場に向かっている。夕日の中に軍楽隊が整列しているのが見えた。誰かエライサンが来るのだろうか?
「少尉、挨拶は朝にして食堂へ行こうか?」と長谷川がトランクを持って立ち上がった。ふたりがステップを踏んで地上に降りると、軍楽隊が「君が代行進曲」を演奏し始めた。陸軍武官二人が長谷川と磯村に敬礼をした。一緒に乗ってきた海軍士官たちがびっくりして立ち止まった。長谷川が気着いた。軍楽隊は自分たちのためなのだ。
「長谷川大尉殿、お帰りなさい。今夕はゆっくりと休んでください」と車の中で武官が言った。
「大尉殿、あれすごい軍楽隊でしたね。写真を撮るのを忘れていました」と磯村は興奮が冷めないようだった。
「少尉殿、あれが日本一の富山学校軍楽隊なんです」と武官のひとりが陸軍富山学校軍楽隊の歴史を語ったのである。新京の街路のポプラが芽を吹きだしている。迎春花も咲いている。春なのだ。伊通川の方面に日が沈んでいった。ふたりに武官たちが敬礼した。そして、将校宿舎へ案内した。相部屋である。ふたりはトランクを部屋に置くと、食堂へ歩いて行った。両開きの扉が大きく開いている。長谷川が中へ入ると、将校たちが立ち上がって拍手をした。その中に浜中憲兵隊司令官がいた。長谷川が浜中大佐に足を揃えて敬礼をした。浜中が答礼をした。磯村は汗びっしょりになっていた。
「報告は明朝、聞く。大筋は聞いたが、ご本人から聞かんとな」と笑った。
続く、、
*ゴリポン先生、名無し先生、これ、話が前後してるね。出版するような事件が起きたら直すわ。伊勢
第一章
1
太湖の対岸の半島に海軍陸戦隊が回した円太郎バスが待っていた。運転手の下士官が長谷川に敬礼した。それを夢華が不思議そうに見ていた。春燕は磯村の腕にぶら下がっていた。朕さんが日本の軍人だと知っているのである。長谷川は夢華から逃げていた。イワノフとならんで座った。夢華が、ふたりがロシア語で話すのを聞いた。そして長谷川を口説く作戦を断念した。
円太郎バスが上海の市街に入った。そして夢華と春燕を南京路で降ろした。磯村がふたりにお祝儀袋をくれていた。胡娘たちは満面の笑顔で受け取った。次に長谷川と磯村が天国道大酒家で降りた。「大仕事ご苦労様でした」と水兵と下士官がこれも笑いながら敬礼をした。ふたりはエレベーターで最上階の部屋に戻った。
「少尉、うまくいったなあ」
「ハッ、まことに見事でありました」
「午後から領事館へ行くぞ」とフロントに中華三昧を注文した。
「それと、明日の夜は一色さんの招待で飯を食うが夢華と春燕を呼んでもいいよ」と磯村を喜ばした。ふたりは中華三昧でランチを終えてから風呂に入った。磯村が風呂から上がると、長谷川が手帳を胸において、ごうごうと鼾をかいていた。磯村も日記を書いた。四月四日になっていた。
2
「長谷川大尉さん、カレン・スターさんから手紙が来ています」と岸田武官が長谷川を驚かした。そして封筒を受け取った。早く読みたいと、はやる心を制して黒駒総領事の執務室に歩いて行った。
「総領事さん、昨年の夏以来、ご無沙汰しております。これは磯村平助少尉です。私の唯一の兵隊なのであります」と長谷川が言うと領事が磯村に会釈をした。
「長谷川大尉さん、飛鳥さんが亡くなられたことを聞いて上海領事館は喪に服しました。小倉の竜神組組長ら幹部をみな殺しにしたことも聞きました。私ども外交官にはどうにもならない連中でした。それで、本日の要件はなんですか?」
「今朝、青封をせん滅しました」と長谷川が黒駒領事を驚かした。聞いた岸田武官が――歴史が変わると言った。長谷川はハルピンの島原領事に報告するまで日本租界に言わないようにと釘を差した。露探が反撃するからだとその理由を言うと、スパイ同士の戦争の凄まじさに黒駒領事の体が震えた。それを岸田武官が見ていた、、
ふたりが外に出ると、四月初めの上海の街路はソメイヨシノが満開だった。風に吹かれて落ちた花びらが街路を敷き詰めている。長谷川が磯村を振り返った。
「少尉、君は上海が見足りないだろう。それに春燕もあるしなあ」
「はあ」磯村はどう返事してよいのか分からなかった。
「新京へ戻らんといかんがね、エライさんたちに鬼退治の報告だけだ。海軍陸戦隊にも呼ばれている。明日、旅程を立てようか。君はいずれにせよ、今夜は自由だ。朝までには戻れよ」と長谷川が笑った。
「大尉殿、ストリップ小屋に付き合ってください」
「う~む、俺はやめとくわ」と上官がいうと磯村が夢華を想い出して笑った。
「今から何をしますか?」
「大寧霊石公園を見たいんだが、君も来るか?月季花というバラが満開なんだとボウイが言っていた」
「ハッ、是非、自分も見たいです」と磯村がハンザ・キャノンのケースを指で叩いた。
桜桃博覧会と入口に幕が張ってあった。入ってみると、池の周りに色とりどりのチューリップが咲き誇っている。桃の花が可憐だ。杉村が夢中になっていた。
「君、一人で回って来いよ。あそこの茶店で会おう。一時間で良いか?」というと磯村平助が喜んだ。残った長谷川も上海ローズ~牡丹~咲き始めた藤の蕾をカメラで捉えた。茶店に入ると、カレンの封筒を開けた。玄界灘や太湖では静かだった心臓の鼓動の音が高くなっていた。
――私が最も愛するミチオへ、
私たちは、今年一月二十日にサンフランシスコの港に着きました。太平洋は冬の海だったけど航海はとても楽しかったのよ。十八名みんな元気です。ロシアン・ヒルというユダヤ人地区の簡易住宅だけどカリホルニアは新天地という希望があるので、すべてが楽しいのよ。ハルピンを出てからすでに三か月が経ったわ。私、ここのところ体調が悪くてお医者さんに行ったの。女医さんが私は妊娠していると言うのよ。妊娠四か月で心音が二つ聞こえるって。びっくりしたわ。うれしくって涙が出たわ。
去年の九月、ミチオとラブした龍門大厦の夜を覚えている?するとピッタリなのよ。ママも、パパも、親戚もみんな大喜びなの。この双子はアメリカで生まれる最初のスターコビッツ家の子供だからなのよ。女医さんが性別を知りたいかって訊いたけど断ったわ。
ミチオは今どこにいるの?島原領事さんがミチオは日本に帰国中だってサンフランシスコの日本領事館に知らせてくれたのよ。日本なら安全ね。青森のご家族が喜んだでしょう。先週、領事館でインタビューを受けたの。島原領事のおかげで雇ってくださるの。私はミチオを愛しています。忘れないでね。一九三十九年二月十日、カレン・スター
写真が一枚入っていた。日本郵船の浅間丸がサンフランシスコ港に着いたときの記念写真だった。長谷川はあふれる涙を抑えられなかった。胡娘の女給がびっくりした顔になった。そこへ磯村が戻ってきたが長谷川がハンカチで目を拭くのを見て黙って座った。そして、フィルムを巻き取ると新しいフィルムを装填した。胡娘がおしゃべりをしている。磯村が「撮ってもいいか?」と訊いた。平助は広東語がうまくなっていた。春燕が布団の中で教えたからである。ふたりは、ジャズミン茶と菜饅頭を黙々と食べた。磯村が顔を上げて長谷川を見た。
「少尉、心配は要らない。カレンが身籠った。双子らしい。サンフランシスコの日本領事館に勤めると言っている」
「大尉殿、こんな大事なことを自分に話して下さって嬉しいです」と情が深い平助が声を詰まらせた。
「俺は買い物をしてホテルへ帰るが、君はどうする?」
「自分も買い物がしたいのです。ご一緒しても良いですか?」
「あたりまえだよ。だが春燕は?」
「ストリップ小屋が閉まる真夜中に行きますので、夕飯も大尉殿と食べます」
「少尉、イワノフは、明日の朝、ハルピンに飛ぶ。夢華と土産物を買いに行った。夕飯で一緒になるよ」と長谷川が言った。
3
イワノフが天国道大酒家の上海飯店にやってきた。
「夢華はどうしたの?」と内心、ほっとしてはいたが長谷川が訊いた。
「カピタン、あの胡娘もの凄いよ。寝よう、寝ようとイッタノヨ」と長谷川と磯村を笑わせた。
「あのう、、イワノフは本当に泳げないの?」と磯村が訊いた。
「ソレ、ホントヨ」と目が三角になっていた。
上海キング・フルコースが運ばれてきた。さすがの磯村もイワノフの食欲には勝てない。ウームとうなっただけである。ドアの前に弁髪のバウンサーがいた。福建人の大男である。イワノフと目が会った。バウンサーが目を伏せた。つまり負けたのである。
「カピタン、ハルピンには来ないの?」と片手に牛の肩甲骨の焼肉を持ったイワノフが訊いた。
「行くと思うがいつとは判らないんだよ」
「ノモンハンが騒がしくナッテイルヨ」とイワノフが言ったとき、長谷川は一瞬、弟の鮎二を想った。
「新京に明後日の昼に飛ぶつもりだよ。イワノフ、島原領事にそう言っておくれ」
磯村は上海に居たかったが、自分が軍人であることに気が着いた。春燕を新京に連れて行きたいなと思った。イワノフが立ち上がった。ウエイターを磯村が呼んだ。三人の写真を撮った。
磯村が真夜中に起きて一張羅の支那服に着替えていた。ストリップ劇場に春燕を迎えに行くためである。布製の支那靴を履いて出ようとした。
「磯村、ちょっと待て」と長谷川が起きてきた。磯村が上官の手招きで長椅子に座った。すると、長谷川が百ドルをくれたのである。一ドル札で百枚だから分厚い。二等兵の十六か月分の給料に当たる。
「これ何でしょうか?」と磯村が驚いた。
「いや、何でもない。君が杜月生に勝った花札の報酬さ。だがね、申しわけがないが春燕と別れろ」と長谷川が磯村の目を覗いた。
「ハッ、自分もそのつもりであります」と少尉が目を瞑った。百ドルを頭陀袋に入れると長谷川に一礼して出て行った。
4
磯村平助が朝の九時にホテルに戻ってきた。長谷川はすでに起きていて電信機をカタカタと鳴らしていた。
「少尉、これからの予定を話す」と長谷川が電信機を箱に入れるとクチを開いた。
「大尉殿、着替えますので待ってください」と自分の部屋に入った。出てきた磯村は背広を着ていた。歯を磨いて髭を剃ったのか爽やかな顔をしていた。
「明朝の定期便で新京に飛ぶ。もうイワノフはハルピンに発った。関東軍参謀室で会議を開く。ノモンハンのことだよ。岩田純一中尉の空中戦を覚えているか?」
「忘れようがありません」と、ここまで聞いた磯村はすっかり憲兵隊情報将校に戻っていた。
「今夜は海軍陸戦隊と一杯飲む。それで上海はおしまいだ。だが、まだまだ上海には来なくてはなるまい。夕方まで時間がある。玄界灘のいきさつ~太湖のいきさつを書類にしてくれないか?」
「ハッ、写真入りで作成いたします」磯村は春燕との別れを話したかったが控えた。
長谷川は海軍陸戦隊基地に行きたくなかったが、犬養大佐には命を助けてもらった。太湖に漁船、水兵、機雷を配備してくれた。だが、宴会と戦勝話が終わると、あさ、新京に発つからと席を立った。磯村は南京路のストリップ劇場で降りた。
「大尉殿、すぐにホテルに戻ります。ご勘弁ください」と言った。長谷川が大きく頷いていた。
5
「春燕、ストリップをやめなさい」
「うん、ヘエスケ、やめて故郷に帰る。アタイと夢華は料理屋で知り会ったの。店主がドケチな奴で、ご飯が食べれるだけの賃金でこき使われた。ある夜、ストリッパーが食べにきたよ。それで、ストリッパーになろうとテストを受けたの。夢華は鈍くさいけどお尻が大きいからと採用されたけど、アタイは若すぎるし小さいからダメだと。そしたら、ストリッパーたちが、この胡娘は可愛い。雇わないならストライキするって言ったのよ」
「それでどうなったの?」と平助が身を乗り出していた。
「アタイね、踊りは上手なの。苗族だから」
「苗族?支那人じゃないの?」
「タイとの国境の山岳民族なの。山にパンダという熊猫がいるよ」
「それで、肌の色が少し褐色なんだね?でもそのジェイドの首飾りがよく似合うよ」
「うん、でもアタイは白いほうなの。お父ちゃんが支那人だから。お母ちゃんの苗族はとても貧乏なのよ。塩と唐辛子しか出来ないから」
磯村が五十ドルを封筒に入れて持っていた。それを春燕にやった。封筒を開けた春燕がびっくりしていた。
「ヘエスケ、謝々」そして磯村に抱き着くとふたりはもの凄い接吻をした。磯村が新京に帰ると言うと苗族という胡娘は泣いた。涙に負けた平助は許されない関東軍憲兵隊の住所を春燕に書いてあげたのである。磯村は一時間で部屋に帰ってきた。長谷川が緑茶を入れていた。
「少尉、よかったら、話せ」と春燕との別れ話を訊いた。苗族の話は長谷川を驚かした。
「大尉殿、風呂に入って寝ます」
6
翌朝の十時きっかりに陸軍一式貨物機が上海の浦東陸軍飛行場を軽々と離陸した。上海植物園が見えた。満開のソメイヨシノの上を飛んだ。磯村がカメラを取り出していた。貨物機は二千メートルの高度で飛んだ。大連の飛行場に一時間三十分で着いた。
「少尉、空港の写真を撮るな」
「ハッ、わかりました」
周水子から三時間後、貨物機が高度を下げた。南新京満州国飛行場に五時きっかりに着陸した。駐機場に向かっている。夕日の中に軍楽隊が整列しているのが見えた。誰かエライサンが来るのだろうか?
「少尉、挨拶は朝にして食堂へ行こうか?」と長谷川がトランクを持って立ち上がった。ふたりがステップを踏んで地上に降りると、軍楽隊が「君が代行進曲」を演奏し始めた。陸軍武官二人が長谷川と磯村に敬礼をした。一緒に乗ってきた海軍士官たちがびっくりして立ち止まった。長谷川が気着いた。軍楽隊は自分たちのためなのだ。
「長谷川大尉殿、お帰りなさい。今夕はゆっくりと休んでください」と車の中で武官が言った。
「大尉殿、あれすごい軍楽隊でしたね。写真を撮るのを忘れていました」と磯村は興奮が冷めないようだった。
「少尉殿、あれが日本一の富山学校軍楽隊なんです」と武官のひとりが陸軍富山学校軍楽隊の歴史を語ったのである。新京の街路のポプラが芽を吹きだしている。迎春花も咲いている。春なのだ。伊通川の方面に日が沈んでいった。ふたりに武官たちが敬礼した。そして、将校宿舎へ案内した。相部屋である。ふたりはトランクを部屋に置くと、食堂へ歩いて行った。両開きの扉が大きく開いている。長谷川が中へ入ると、将校たちが立ち上がって拍手をした。その中に浜中憲兵隊司令官がいた。長谷川が浜中大佐に足を揃えて敬礼をした。浜中が答礼をした。磯村は汗びっしょりになっていた。
「報告は明朝、聞く。大筋は聞いたが、ご本人から聞かんとな」と笑った。
続く、、
*ゴリポン先生、名無し先生、これ、話が前後してるね。出版するような事件が起きたら直すわ。伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第一話 |
第一話
第七章
1
長谷川は最上階の部屋にいた。日曜日の朝だ。窓から太湖が見えた。帆掛船が魚を取っていた。雲間から冬の太陽が出ている。――戦争さえなければ、佐和子と娘らを呼びたいと想った。長谷川は電信機を叩いていた。「全て順調」と返信があった。磯村が時間通りの正午に部屋にきた。フロントに電話して支那粥を注文した。
「春燕は?」
「びっこを引いて帰りました」
「どうして?」
「僕、やり過ぎました」
「バカモン。その体格で一晩に八回もやられたら誰でもびっこ引くよ。君はダイジョウブなのか?」
「全然」ふたりが笑い出した。
ドアの外の廊下が騒がしい。英語で話している。英国人らが埠頭へ向かって歩いているのが見えた。ジャンク「緋龍」の横に漁船がひとつ停まっている。緋龍がドラを叩きだした。出航である。長谷川と磯村が埠頭へ歩いて行った。六人の兵隊が漁船を検閲していた。そして首を横に振った。爆薬などないという意味だ。ストリッパーたちが埠頭にいた。欧米の客に手を振っていた。夢華と春燕が王さん、朕さんを見つけて走ってきた。春燕がジェイドのチョーカーを首に着けていた。朕さんの贈り物なのだ。春燕が磯村の手を取った。夢華はまだあきらめていないという風にワンさんを見詰めていた。
「ねえ、アタイたちも連れて行って」と夢華が鯉を釣りに行くと言ったワンさんにねだった。「んじゃ、弁当六人分買ってきな」と銀貨を袋から掴み出すと夢華にあげた。
二人の支那人~二人の踊り子~二人の漁師が出発した。湖面は波がなく透明である。漁船はミャオミャオ島と東の半島の中間で停まった。船頭が四人に釣竿を持ってきた。餌は海老なのだ。朕さんがストリッパーにサービスしていた。夢華と春燕がもう弁当をあけて食いはじめた。一時でも遅れると食いはぐれる中国である。春燕の竿がしなった。最初に掛かったのは大もののようだ。春燕が悲鳴を上げた。陳さんが春燕を助けた。それでも魚は上がってこない。ワンさんが「どれどれ」と竿を立てるのを手伝った。漁師が「草魚だ」と柄の付いた網を持ってきた。四十キロはある。白黒の縞がある太った草魚が跳ねた。漁師が釣り針を外すと船底の水槽に入れた。「これ油で揚げると美味しいよ」と夢華が言った。見事な魚なのだ。朕さんが写真を撮った。春燕が「日本製の写真機よ」と夢華に言うのをワンさんが聞いた。鯉も数匹釣れた。二時間後、ふたりのストリッパーは夜の仕事で疲れたのか船室で寝てしまった。朕さんが毛布を掛けてやった。
船頭が長谷川に目配せした。船尾に結んで湖底に沈めてあった木箱を開けた。磯村平助がビックリした。棘のある機雷が四個出て来たからである。船頭は日本海軍の水兵だった。舵取りは漁船をゆるゆると走らせていた。長谷川と船頭が機雷の信管をONにして次々と湖面に落とした。機雷が、どんぶり、どんぶりと流れて行った。そして水面から消えた。
2
日曜日の夕方、チャルメラの音が風の中に聞こえた。王侯たちと妾そして兵隊が埠頭に繋がれた緋龍に乗り込んでいた。他の来賓はすでに上海に帰ったか、後の便で帰るのだ。イワノフが乗り込むのが見えた。大きなトランクを手に持っていた。王侯たちが天守閣の形の館に入った。兵隊は色とりどりのテープを持って甲板に立っていた。岸壁ではストリッパーたちがテープの端っこを手に持っていた。銅鑼が鳴った。ジャンクが桟橋を離れた。時速三キロでゆらゆらと湖面を渡って行った。船首でイワノフが沖を見ていた。東に半島が見える。三キロの距離だ。イワノフの横に立っていた兵隊が「機雷だ」と叫んだ。イワノフがトランクを開けて石油缶を取り出した。石油を甲板に撒くと浮き輪を抱えて太湖に飛び込んだ。兵隊が石油の匂いに気着いて拳銃で浮き輪につかまって泳いでいるイワノフを撃った。揺れる船から撃つピストルほど当たらないものはこの世にはない。イワノフが鵜のように潜った。兵隊が小銃で一斉に湖面を撃った、、浮き輪だけが残った。長谷川が息を呑んだ。イワノフが水面に浮上しないからだ。ジャンクに火の手が上がった。帆が燃えている。張粛林ら王様が館から飛び出してきた。力士のような弁髪の男が銅鑼をガンガン鳴らしていた。船頭たちが一斉に櫓を漕いだ。だが帆かけ船は簡単に方向を変えられないのだ。
長谷川と二人の水兵が双眼鏡を目に当てた。湖面に黒い突起が見えた。「ど~ん、ど~ん、ど~ん」と凄い爆発音とともに水柱が立ち上がった、、張粛林が焼き豚になった、、磯村平助がハンザ・キャノンを連続シャッターに切り替えてすべての情景を撮っていた。
ワンさん~チンさん~夢華(もんふぁ)~春燕(ちゅんえん)と日本海軍の水兵ふたりが乗った漁船が対岸に向かった。弁髪のかつらを被ったワンさんがミャオミャオ島を見ていた。黄金太鎮城の天守閣にめらめらと炎が上がるのが見えた。そのとき、一〇〇〇メートル西にイワノフの浮き輪が見えた。水兵が舵を切った。
「ドブラエ、ウートラ」とイワノフの声が聞こえた。海坊主のような頭が湖面に現れた。
「第二話」に続く、、
第七章
1
長谷川は最上階の部屋にいた。日曜日の朝だ。窓から太湖が見えた。帆掛船が魚を取っていた。雲間から冬の太陽が出ている。――戦争さえなければ、佐和子と娘らを呼びたいと想った。長谷川は電信機を叩いていた。「全て順調」と返信があった。磯村が時間通りの正午に部屋にきた。フロントに電話して支那粥を注文した。
「春燕は?」
「びっこを引いて帰りました」
「どうして?」
「僕、やり過ぎました」
「バカモン。その体格で一晩に八回もやられたら誰でもびっこ引くよ。君はダイジョウブなのか?」
「全然」ふたりが笑い出した。
ドアの外の廊下が騒がしい。英語で話している。英国人らが埠頭へ向かって歩いているのが見えた。ジャンク「緋龍」の横に漁船がひとつ停まっている。緋龍がドラを叩きだした。出航である。長谷川と磯村が埠頭へ歩いて行った。六人の兵隊が漁船を検閲していた。そして首を横に振った。爆薬などないという意味だ。ストリッパーたちが埠頭にいた。欧米の客に手を振っていた。夢華と春燕が王さん、朕さんを見つけて走ってきた。春燕がジェイドのチョーカーを首に着けていた。朕さんの贈り物なのだ。春燕が磯村の手を取った。夢華はまだあきらめていないという風にワンさんを見詰めていた。
「ねえ、アタイたちも連れて行って」と夢華が鯉を釣りに行くと言ったワンさんにねだった。「んじゃ、弁当六人分買ってきな」と銀貨を袋から掴み出すと夢華にあげた。
二人の支那人~二人の踊り子~二人の漁師が出発した。湖面は波がなく透明である。漁船はミャオミャオ島と東の半島の中間で停まった。船頭が四人に釣竿を持ってきた。餌は海老なのだ。朕さんがストリッパーにサービスしていた。夢華と春燕がもう弁当をあけて食いはじめた。一時でも遅れると食いはぐれる中国である。春燕の竿がしなった。最初に掛かったのは大もののようだ。春燕が悲鳴を上げた。陳さんが春燕を助けた。それでも魚は上がってこない。ワンさんが「どれどれ」と竿を立てるのを手伝った。漁師が「草魚だ」と柄の付いた網を持ってきた。四十キロはある。白黒の縞がある太った草魚が跳ねた。漁師が釣り針を外すと船底の水槽に入れた。「これ油で揚げると美味しいよ」と夢華が言った。見事な魚なのだ。朕さんが写真を撮った。春燕が「日本製の写真機よ」と夢華に言うのをワンさんが聞いた。鯉も数匹釣れた。二時間後、ふたりのストリッパーは夜の仕事で疲れたのか船室で寝てしまった。朕さんが毛布を掛けてやった。
船頭が長谷川に目配せした。船尾に結んで湖底に沈めてあった木箱を開けた。磯村平助がビックリした。棘のある機雷が四個出て来たからである。船頭は日本海軍の水兵だった。舵取りは漁船をゆるゆると走らせていた。長谷川と船頭が機雷の信管をONにして次々と湖面に落とした。機雷が、どんぶり、どんぶりと流れて行った。そして水面から消えた。
2
日曜日の夕方、チャルメラの音が風の中に聞こえた。王侯たちと妾そして兵隊が埠頭に繋がれた緋龍に乗り込んでいた。他の来賓はすでに上海に帰ったか、後の便で帰るのだ。イワノフが乗り込むのが見えた。大きなトランクを手に持っていた。王侯たちが天守閣の形の館に入った。兵隊は色とりどりのテープを持って甲板に立っていた。岸壁ではストリッパーたちがテープの端っこを手に持っていた。銅鑼が鳴った。ジャンクが桟橋を離れた。時速三キロでゆらゆらと湖面を渡って行った。船首でイワノフが沖を見ていた。東に半島が見える。三キロの距離だ。イワノフの横に立っていた兵隊が「機雷だ」と叫んだ。イワノフがトランクを開けて石油缶を取り出した。石油を甲板に撒くと浮き輪を抱えて太湖に飛び込んだ。兵隊が石油の匂いに気着いて拳銃で浮き輪につかまって泳いでいるイワノフを撃った。揺れる船から撃つピストルほど当たらないものはこの世にはない。イワノフが鵜のように潜った。兵隊が小銃で一斉に湖面を撃った、、浮き輪だけが残った。長谷川が息を呑んだ。イワノフが水面に浮上しないからだ。ジャンクに火の手が上がった。帆が燃えている。張粛林ら王様が館から飛び出してきた。力士のような弁髪の男が銅鑼をガンガン鳴らしていた。船頭たちが一斉に櫓を漕いだ。だが帆かけ船は簡単に方向を変えられないのだ。
長谷川と二人の水兵が双眼鏡を目に当てた。湖面に黒い突起が見えた。「ど~ん、ど~ん、ど~ん」と凄い爆発音とともに水柱が立ち上がった、、張粛林が焼き豚になった、、磯村平助がハンザ・キャノンを連続シャッターに切り替えてすべての情景を撮っていた。
ワンさん~チンさん~夢華(もんふぁ)~春燕(ちゅんえん)と日本海軍の水兵ふたりが乗った漁船が対岸に向かった。弁髪のかつらを被ったワンさんがミャオミャオ島を見ていた。黄金太鎮城の天守閣にめらめらと炎が上がるのが見えた。そのとき、一〇〇〇メートル西にイワノフの浮き輪が見えた。水兵が舵を切った。
「ドブラエ、ウートラ」とイワノフの声が聞こえた。海坊主のような頭が湖面に現れた。
「第二話」に続く、、
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感動も、感激も、興奮もしない、、 |
伊勢は、現代の日本人は、感動も、感激も、興奮もしないと思っている。何故だろうか?と言っている暇はない。知的活動が死んでいる。と言っても、たぶん、コメントはないと思う。感動、感激、興奮は生きているということです。この感受性がないと何かに蝕発されて決心をすると言う行動には出ない。明治の日本人にはこれがあった。日本人はいつから生きることに熱意を失ったんだろうか?
五輪は失敗する、、
日本の青年は、全てのことにおいて冷めている。意気消沈ではなく、生きる力がないということです。人口の25%が高齢者。女は40になっても結婚しない。ま、男がいなくなったから解らないわけじゃない。女もしぐさを見ると、子供のようで大人の持つ性的な魅力がない。いるのは、中性だけだ。ここがアメリカとの違いなんです。アメリカの人々は、老若男女、生きることに意欲がある。すぐ、感激して、興奮する人達なんです。伊勢
五輪は失敗する、、
日本の青年は、全てのことにおいて冷めている。意気消沈ではなく、生きる力がないということです。人口の25%が高齢者。女は40になっても結婚しない。ま、男がいなくなったから解らないわけじゃない。女もしぐさを見ると、子供のようで大人の持つ性的な魅力がない。いるのは、中性だけだ。ここがアメリカとの違いなんです。アメリカの人々は、老若男女、生きることに意欲がある。すぐ、感激して、興奮する人達なんです。伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第一話 |
第一話
第六章
1
「ミャオミャオ島だって?」
「大尉殿、太湖にある島です。漢字で書きますと」
「少尉、漢字はいいよ。それよりも地図を見せろ」
磯村が地図を広げた。長谷川が上海から太湖へのルートを見ていた。
「上海から太湖は七十キロ西だが半島との間に橋がないね」
「でっかいジャンクがあります」と一色が絵葉書を見せた。舳先に竜の頭がついていて、鯱(しゃちほこ)の着いた瓦屋根の館が真ん中にある。百人は乗れると長谷川が思った。ここでも、張粛林は巨大な力を見せている。
「どうしてこれが判ったのか?」
「僕の胡娘ですよ」
「ボクの?」長谷川が小さくて可愛い春燕(ちゅんえん)を想い出して笑った。
「あのストリッパー六人が雇われたんです」
「あの大女もかね?」長谷川は大きな尻とピンクのズロース以外、名前を忘れてしまった。
「ハッ、そうであります」
「こらあ、少尉、キサマ、春燕と出来てんじゃなかろうな?」と訊いたが磯村は笑って答えなかった。これには一色まで噴き出していた。
「まじめな話しをせんといかん。どうしようかこれ?」長谷川がリストを見ると、三百人の来賓であった。それに加えて百人の兵隊である。やはり英米人がいた。
「この金土日だと、今日は月曜日です。あと四日しかありません」と長谷川があきらめることを磯村は期待した。長谷川は「う~む」と言っただけで顎に手を当てて考えていた。
一色が帰ったあと、長谷川が電信機を取り出してどこかにトンツーを送っていた。
「少尉、今日は自由にしろ。俺はちょっと忙しい」と言うと磯村平助がにっこりと笑った。長谷川は、エクボの春燕だと検討がついていたが黙っていた。磯村が一丁羅の支那服を来て出て行った。あとにオーデコロンの匂いが残った。甘い薔薇の匂いである。トンツーに「クプチャクカーン」と返信があった。長谷川がにんまりと笑った。
長谷川がハイヤーに乗って海軍陸戦隊基地へ向かった。犬養大佐の前に座っていた。
「太湖に軍艦は出せないよ」と犬養が笑っていた。
「私と磯村では何もできません。助けてください」
「飛鳥少佐と君には借りがあるからな手榴弾ぐらいは提供する」と長谷川が大嫌いな手榴弾をくれるのだと、、そこで長谷川が自分の計画を話した。
「青封を殲滅するんだと?ウ~ム、君の要請は難しいぞ。広島鎮台に聞いてみるがね」
明け方、磯村が帰ってきた。白粉の匂いがした。
「ストリップを観に行ったのかね?」
「ハッ、その通りであります」と言ってシャワーを浴びに行った。
「僕、今から寝ていいでしょうか?」
「それしか仕方がないだろ?」と笑った。
磯村が十時に起きた。長谷川を見てビックリした。大尉がカミソリで頭を青々と剃っていたからだ。長谷川はミャオミャオ島の地図と黄金太鎮城の構図を見ていた。「飲む、打つ、買う」のジャイアント・カジノと書いてあった。
「少尉、明日朝、太湖に行くぞ。拳銃は要らない。付け髭と弁髪のカツラを買っておいた。風呂に入れ。俺が頭を青々と剃ってやる」
「エエ~?それ命令なんですか?」
「命令だ。俺も弁髪なんだ」
――まあ、いいか。春燕が喜ぶから、、
「ここ数日は天気が好いらしいな」
「大尉殿、これ遠足じゃないですよね?」
「ああ?」
2
四月に入ったその日の朝、王さんと朕さんのふたりがジャンク「緋龍」の客となった。胡弓のメロデイを聞きながら三十分で金庭鎮の港に着いた。そこから待っていた人力車で黄金太鎮城へ行った。鉄柵に囲まれたほんとうに城なのだ。ここへ来たからには、ありったけのカネを使えと言うばかりなのだ。飲んで~打って~買う、淫乱城なのである。
「少尉は博打を打つのか?」
「いえ、やりませんが賭け事に強いのです。神田川が驚いておりました」と笑った。
「ほう」
「死んだ親父が田舎ヤクザで、飲む、打つ、買う。これを一生やり通した男ですから、いんちき賭博を小学生の僕に教えたのです」
「ふ~ん、それ役に立つかも知れないな」
二人が受付に行った。ゲストブックに書き入れた。(一)広島の鯨神一家の番頭~(二)王と朕、、(三)お祝い金、一〇〇〇円の札束、、受付の胡娘が大金に眼を丸くした。
「こちらで飲み物をどうぞ」と早速、巨額を寄付した長谷川に流し目をくれた。ボウルルームに入ると、中国大陸の各地の親分たちとその妾がワイワイ騒いでいた。小柄というか小人のウエイトレスがやって来た。見ると、春燕ではないか。朕平助がメチャクチャな広東語で喋っていた。言葉などどうでもいいらしい。春燕と平助は発情期の犬になっていた。向こうから大女がやってきた。王さんは立ち上がって逃げようとしたが時すでに遅し。夢華(もんふぁ)が横にどかっと座った。
「誰とでも寝るのか?」と朕さんが春燕を詰問していた。
「うううん、アタイの朕さんだけ」
夢華が王さんにウインクした、、これを予期して長谷川は部屋を二つ取っていた。だが夢華と寝る気は毛頭なかった。言い訳を考えていた。
「いつ踊るの?」
「今夜からよ。絶対に来てね。お部屋の番号教えて」
磯村の部屋の番号を教えた。その夜、ストリップを観に行った。「ハリウッドの夜」と幕が下がっていた。「支那の夜」じゃないので可笑しかった。長谷川が隣の英国人と話していた。やっぱり夢華がピンクのズロースで踊っていた。ふたりは途中で出た。
「なにを話していたのですか?」
「英米の来賓は土曜日の夕方までだそうだよ。これは都合が好い」
「土曜日の品目ですが、夕方から頭目たちの総長博打ですね。招待状がドアの下に放り込まれてましたよ」
「あれだけ寄付したからね」
――あんなに出さなくてもいいのにと赤貧に苦労した磯村が思った。
夜明けに誰かがドアをノックしていた。朕さんが起きてローブを着た。春燕を見るとスヤスヤと寝ていた。
「誰?」
「夢華(もんふぁ)よ」と聞いた磯村がドアを開けた。春燕が目を覚ました。
「ワンさん?我不知道」
「めいふぁ~ず」と言って夢華は大股で帰って行った。
3
土曜日は、朝からチャルメラの音が聞こえた。張粛林と上海の顔役が到着したからだ。ジャンクから降りた王様たちは妾と一緒に神輿に乗っていた。八人のクーリーが神輿を担いだ。冬なのにクーリーは半裸である。行列がカジノに向かって動き出した。ドンチャン、ドンチャンと太鼓とシンバルが響いた。長谷川は始めて張粛林を見た。青封の首魁は黒いベールを被っていた。顔は見えなかったが王冠を頭に載せていた。クーリーの中に蒙古人がひとり混じっていた。もの凄い体格である。そのクーリーが長谷川を見た。長谷川がクチの右端を曲げて笑うのを磯村が見た。
「今夜花火大会があるって」といつの間にか朕さんの横に来ていた春燕が言った。
「アタイたち、今夜が最後のショーなのよ。観にきてね」と夢華がワンさんに何かを示唆するように言った。
「今夜は、大事な商談があるから明日デートしよう」とワンさんが言った。赤い靴を履いた夢華が笑った。
土曜日の夕方から総長博打が始った。日本のオイチョ株ではなくて大体がルーレット~ブラックジャック~サイコロ博打である。王さんと朕さんもクラップゲームのテーブルに着いた。「セブン」「スネークアイ」「テン」とサイコロが転がってみどりのクロスの上で止まると棒を持った男が叫んだ。王さんに夢華(もんふあ)~朕さんの横に春燕(ちゅんえん)が抱きついていた。長谷川が夢華にチップスをあげた。春燕がサイコロを投げた、、「イレブン」と春燕のチップスが倍になった、、長谷川が「張粛林とビジネスがある」と言って、夢華に残りのチップスをあげた。「わ~い」とふたりのストリッパーが大声を上げた。
昇竜の字のある扉が中から開いた。一段高いところに張粛林~黄金栄、杜月生の三人の顔役が揃っている。ボスたちは夫々のボデイガードを連れていた。張粛林の後ろにトカレフを胸の脇のケースに入れた男をみて、磯村が息をのんだ。イワノフではないか、、
「あんたが王さんだね。鯨神さんによろしく言ってくれ」と黒いベールの中から青封の首魁が言った。
「花札やるか?」と杜月生が朕さんに訊いた。
「今日は、早目に上海へ帰るので、そうですね、三回勝負、一回五百ドルでどうですか?」と磯村が言うと黄金栄の目が丸くなった。五百ドルは大金だからである。賭け金を予め長谷川とうち合わせていた。磯村は三回とも勝った。寄付金を上回る千五百ドルを無造作にポシェットに入れた。
「謝謝、謝謝、、」と言ってタイミングを計っていた長谷川と立ち上がった。ふたりの立ち上がり方に杜月生が不審を抱いた。王と朕の弁髪が不自然に思えた。長谷川が感ずいていた。だが、このカジノでは襲わないだろう、、来賓が多いからだ。磯村が戦利品の千五百ドルを長谷川に渡した。
続く
第六章
1
「ミャオミャオ島だって?」
「大尉殿、太湖にある島です。漢字で書きますと」
「少尉、漢字はいいよ。それよりも地図を見せろ」
磯村が地図を広げた。長谷川が上海から太湖へのルートを見ていた。
「上海から太湖は七十キロ西だが半島との間に橋がないね」
「でっかいジャンクがあります」と一色が絵葉書を見せた。舳先に竜の頭がついていて、鯱(しゃちほこ)の着いた瓦屋根の館が真ん中にある。百人は乗れると長谷川が思った。ここでも、張粛林は巨大な力を見せている。
「どうしてこれが判ったのか?」
「僕の胡娘ですよ」
「ボクの?」長谷川が小さくて可愛い春燕(ちゅんえん)を想い出して笑った。
「あのストリッパー六人が雇われたんです」
「あの大女もかね?」長谷川は大きな尻とピンクのズロース以外、名前を忘れてしまった。
「ハッ、そうであります」
「こらあ、少尉、キサマ、春燕と出来てんじゃなかろうな?」と訊いたが磯村は笑って答えなかった。これには一色まで噴き出していた。
「まじめな話しをせんといかん。どうしようかこれ?」長谷川がリストを見ると、三百人の来賓であった。それに加えて百人の兵隊である。やはり英米人がいた。
「この金土日だと、今日は月曜日です。あと四日しかありません」と長谷川があきらめることを磯村は期待した。長谷川は「う~む」と言っただけで顎に手を当てて考えていた。
一色が帰ったあと、長谷川が電信機を取り出してどこかにトンツーを送っていた。
「少尉、今日は自由にしろ。俺はちょっと忙しい」と言うと磯村平助がにっこりと笑った。長谷川は、エクボの春燕だと検討がついていたが黙っていた。磯村が一丁羅の支那服を来て出て行った。あとにオーデコロンの匂いが残った。甘い薔薇の匂いである。トンツーに「クプチャクカーン」と返信があった。長谷川がにんまりと笑った。
長谷川がハイヤーに乗って海軍陸戦隊基地へ向かった。犬養大佐の前に座っていた。
「太湖に軍艦は出せないよ」と犬養が笑っていた。
「私と磯村では何もできません。助けてください」
「飛鳥少佐と君には借りがあるからな手榴弾ぐらいは提供する」と長谷川が大嫌いな手榴弾をくれるのだと、、そこで長谷川が自分の計画を話した。
「青封を殲滅するんだと?ウ~ム、君の要請は難しいぞ。広島鎮台に聞いてみるがね」
明け方、磯村が帰ってきた。白粉の匂いがした。
「ストリップを観に行ったのかね?」
「ハッ、その通りであります」と言ってシャワーを浴びに行った。
「僕、今から寝ていいでしょうか?」
「それしか仕方がないだろ?」と笑った。
磯村が十時に起きた。長谷川を見てビックリした。大尉がカミソリで頭を青々と剃っていたからだ。長谷川はミャオミャオ島の地図と黄金太鎮城の構図を見ていた。「飲む、打つ、買う」のジャイアント・カジノと書いてあった。
「少尉、明日朝、太湖に行くぞ。拳銃は要らない。付け髭と弁髪のカツラを買っておいた。風呂に入れ。俺が頭を青々と剃ってやる」
「エエ~?それ命令なんですか?」
「命令だ。俺も弁髪なんだ」
――まあ、いいか。春燕が喜ぶから、、
「ここ数日は天気が好いらしいな」
「大尉殿、これ遠足じゃないですよね?」
「ああ?」
2
四月に入ったその日の朝、王さんと朕さんのふたりがジャンク「緋龍」の客となった。胡弓のメロデイを聞きながら三十分で金庭鎮の港に着いた。そこから待っていた人力車で黄金太鎮城へ行った。鉄柵に囲まれたほんとうに城なのだ。ここへ来たからには、ありったけのカネを使えと言うばかりなのだ。飲んで~打って~買う、淫乱城なのである。
「少尉は博打を打つのか?」
「いえ、やりませんが賭け事に強いのです。神田川が驚いておりました」と笑った。
「ほう」
「死んだ親父が田舎ヤクザで、飲む、打つ、買う。これを一生やり通した男ですから、いんちき賭博を小学生の僕に教えたのです」
「ふ~ん、それ役に立つかも知れないな」
二人が受付に行った。ゲストブックに書き入れた。(一)広島の鯨神一家の番頭~(二)王と朕、、(三)お祝い金、一〇〇〇円の札束、、受付の胡娘が大金に眼を丸くした。
「こちらで飲み物をどうぞ」と早速、巨額を寄付した長谷川に流し目をくれた。ボウルルームに入ると、中国大陸の各地の親分たちとその妾がワイワイ騒いでいた。小柄というか小人のウエイトレスがやって来た。見ると、春燕ではないか。朕平助がメチャクチャな広東語で喋っていた。言葉などどうでもいいらしい。春燕と平助は発情期の犬になっていた。向こうから大女がやってきた。王さんは立ち上がって逃げようとしたが時すでに遅し。夢華(もんふぁ)が横にどかっと座った。
「誰とでも寝るのか?」と朕さんが春燕を詰問していた。
「うううん、アタイの朕さんだけ」
夢華が王さんにウインクした、、これを予期して長谷川は部屋を二つ取っていた。だが夢華と寝る気は毛頭なかった。言い訳を考えていた。
「いつ踊るの?」
「今夜からよ。絶対に来てね。お部屋の番号教えて」
磯村の部屋の番号を教えた。その夜、ストリップを観に行った。「ハリウッドの夜」と幕が下がっていた。「支那の夜」じゃないので可笑しかった。長谷川が隣の英国人と話していた。やっぱり夢華がピンクのズロースで踊っていた。ふたりは途中で出た。
「なにを話していたのですか?」
「英米の来賓は土曜日の夕方までだそうだよ。これは都合が好い」
「土曜日の品目ですが、夕方から頭目たちの総長博打ですね。招待状がドアの下に放り込まれてましたよ」
「あれだけ寄付したからね」
――あんなに出さなくてもいいのにと赤貧に苦労した磯村が思った。
夜明けに誰かがドアをノックしていた。朕さんが起きてローブを着た。春燕を見るとスヤスヤと寝ていた。
「誰?」
「夢華(もんふぁ)よ」と聞いた磯村がドアを開けた。春燕が目を覚ました。
「ワンさん?我不知道」
「めいふぁ~ず」と言って夢華は大股で帰って行った。
3
土曜日は、朝からチャルメラの音が聞こえた。張粛林と上海の顔役が到着したからだ。ジャンクから降りた王様たちは妾と一緒に神輿に乗っていた。八人のクーリーが神輿を担いだ。冬なのにクーリーは半裸である。行列がカジノに向かって動き出した。ドンチャン、ドンチャンと太鼓とシンバルが響いた。長谷川は始めて張粛林を見た。青封の首魁は黒いベールを被っていた。顔は見えなかったが王冠を頭に載せていた。クーリーの中に蒙古人がひとり混じっていた。もの凄い体格である。そのクーリーが長谷川を見た。長谷川がクチの右端を曲げて笑うのを磯村が見た。
「今夜花火大会があるって」といつの間にか朕さんの横に来ていた春燕が言った。
「アタイたち、今夜が最後のショーなのよ。観にきてね」と夢華がワンさんに何かを示唆するように言った。
「今夜は、大事な商談があるから明日デートしよう」とワンさんが言った。赤い靴を履いた夢華が笑った。
土曜日の夕方から総長博打が始った。日本のオイチョ株ではなくて大体がルーレット~ブラックジャック~サイコロ博打である。王さんと朕さんもクラップゲームのテーブルに着いた。「セブン」「スネークアイ」「テン」とサイコロが転がってみどりのクロスの上で止まると棒を持った男が叫んだ。王さんに夢華(もんふあ)~朕さんの横に春燕(ちゅんえん)が抱きついていた。長谷川が夢華にチップスをあげた。春燕がサイコロを投げた、、「イレブン」と春燕のチップスが倍になった、、長谷川が「張粛林とビジネスがある」と言って、夢華に残りのチップスをあげた。「わ~い」とふたりのストリッパーが大声を上げた。
昇竜の字のある扉が中から開いた。一段高いところに張粛林~黄金栄、杜月生の三人の顔役が揃っている。ボスたちは夫々のボデイガードを連れていた。張粛林の後ろにトカレフを胸の脇のケースに入れた男をみて、磯村が息をのんだ。イワノフではないか、、
「あんたが王さんだね。鯨神さんによろしく言ってくれ」と黒いベールの中から青封の首魁が言った。
「花札やるか?」と杜月生が朕さんに訊いた。
「今日は、早目に上海へ帰るので、そうですね、三回勝負、一回五百ドルでどうですか?」と磯村が言うと黄金栄の目が丸くなった。五百ドルは大金だからである。賭け金を予め長谷川とうち合わせていた。磯村は三回とも勝った。寄付金を上回る千五百ドルを無造作にポシェットに入れた。
「謝謝、謝謝、、」と言ってタイミングを計っていた長谷川と立ち上がった。ふたりの立ち上がり方に杜月生が不審を抱いた。王と朕の弁髪が不自然に思えた。長谷川が感ずいていた。だが、このカジノでは襲わないだろう、、来賓が多いからだ。磯村が戦利品の千五百ドルを長谷川に渡した。
続く
06/13 | ![]() |
スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第一話 |
第一話
第五章
1
福岡陸軍飛行基地から上海の浦東陸軍飛行場までは八百九十キロである。二人の憲兵士官を乗せた九七式輸送機キ三四が厚い雨雲を突き抜けて青空に出た。航続速度が四百五十キロメートル、、よって、上海の摩天楼が見えるところまで福岡から二時間三十分なのだ。上海湾は晴れていた。磯村が写真を撮るのに夢中になっている。長谷川が手帳をトランクから取り出していた。三月二十四日の日付けがあるページを開いた。鉛筆で上海と書き入れた。そして考えごとをしていた。
――上海の豚、張粛林をどうしてくれようか、、
浦東陸軍飛行場が見えた。長谷川が腕時計を見ると正午を過ぎていた。輸送機は旋回もせずまっすぐ滑走路に向かって行った。赤い吹き流しが見えた。
「磯村、美味い飯食うか?」
「美味いもんばっかり食ってますが?もう普通に戻れません」と言うと、長谷川が豪快に笑った。
「まず、背広に着替えよう」と飛行場の洗面所へ行った。
二人はハイヤーの中にいた。運転手は日本人だった。磯村が地図にXをつけては、写真を撮っていた。磯村平助は生来の情報員なのだ。橋を渡ってバンドに出た。
「あれが日本領事館のあるビルだ」
「もの凄い上流租界ですねえ」
「いや、別府の旅館のほうがいいよ。名前は決まったのかね?」
「温泉旅館岩戸屋というんです」
「いい名前だ」
浦東運河の橋を渡って南京路に入った。
「珍宝楼へやってくれ」
「去年、大火事で焼けて、今、北京飯店が建築中ですよ」
「その近くのホテルへ連れて行ってくれ」
ハイヤーが「OK牧場」と看板のある建物の前を通った。そこから西へ走って「天国道大酒家」というホテルに着いた。金箔の看板で料金が高そうだった。エレベーターがある。長谷川が、上海が一望に出来る最上階の部屋を選んだ。 磯村が子供のように喜んでいた。
「大尉殿、上海領事には用はないのですか?」
「ない。明日、銀行家に会う」
「もうおカネいりませんけど?」
「ハハハ、おい少尉、カネはあればあるほどいい」ふたりは階下の海鮮料理を食おうとエレベーターに乗った。
「上海のメシはどこのメシよりも美味い気がします」
「日本にはない支那の不思議さ」
「この南京路ってのも不思議な街ですね」
「少尉、君はストリップに興味はあるかね?」
「はあ?」
2
福岡から上海に帰ったその夜だった。支那服を着た二人の憲兵がストリップ劇場のかぶりつきで大きな体格の胡娘を見ていた。胡娘はクイーンサイズのピンクのズロースを穿いて左の腿に大きなダイアモンドのガーターをはめていた。もちろんガラスだが、、一生懸命に肢体を動かしているが色気が不足していた。磯村が居眠りし始めた。長谷川が銀貨を掴んで舞台に投げた、、
「あら?ニイハオ」とにっこり笑った。長谷川をどこかで見たというわけである。
「何か起きましたか?」と磯村が寝ぼけていた。
「磯村のネームはここから朕さんでいいかね?」
「はあ?」
「俺は前から王さんなんだよ」
「このストリップ、、面白いですか?」
「そりゃ面白いさ」と王さんが笑ってから、朕さんを驚かした。もうすぐ劇場が閉まるからストリッパーを連れて夜食をしようと言ったのだ。
六人の胡娘が二の返事でついてきた。
「どこが一番美味いの?」と王さんが赤いパンプスを履いた大女に訊いた。
「アンタさ、どっかで会ったよね?」
「いや、初めてだよ。でもアンタが好きだよ」と長谷川がお世辞を言った。
「エ~?ほんと?嬉しい。アタイね、夢華(もんふぁ)って言うの」と長谷川をじっと見ていた。
「ミーね、みんな大好きだよ」と朕さんが余計なくちを出した。
「老克勒飯店が南京路でベストよ。でもアンタ、オカネアルノ?」と一番若く、一番背の低い春燕(ちゅんえん)が言った。
「王さんは大人(たあじん)」と朕さんが言った。春燕が人力車の列に走って行った。
老克勒飯店は王侯貴族の店ではなかったが、中に入ると、テーブルが仕切りで囲ってある。大きな水槽が玄関を入るとならんでいた。まず、壮大なのはマレーからくる大海老だ。鯉~鰻~上海蟹、、肉も遼東の黒豚~太原の牛~烏骨鶏、、Silky Fowlと欧米人の客用に英語が付いていた。ストリッパーだとウエイターが、気がついていたが、店の雰囲気が明るくなっている。「出て行け」と普段は言っていたが、王さん、珍さんがカネ持ちに見えたので大歓迎と言った。
胡娘たちがわいわいと好きなものを注文していた、どれも高価なものばかりである。老克勒飯店の社長が挨拶にきた。大女の夢華(もんふぁ)が「アタイ、ワンさんのものよ」とばかりに長谷川の横に座った。春燕は磯村が好きなようだ。何だか、にわか夫婦になっていた。
「アンタの支那語は癖があるね」と言ったが胡娘たちはハンサムで気前の好いふたりを大好きになってしまった。
「ワンさん、アンタさあ、太太(タイタイ)はいるのよね?」
「おお、おるよ」
「二番目の太太欲しい?」と話が商談になっていた。
「うん、考えとく」と長谷川が言って横の春燕を見ると、大きなエクボと目が可愛い。その目で、しきりに磯村に流し目を送っていた。
四人の胡娘は、ばんばん食べて饒舌になっていた。長谷川が中国の女はあまりアルコールを飲まないことに気がついていた。夢華に訊くと「こどもが出来なくなるから」と言った。
「ふ~ん、だから飲まないわけ?」
「こどもが出来ないと亭主に離縁する権利があるのよ」と長谷川の目をじっと見ていた。
「さっきの社長だけど、あのひとがオーナーなの?」
「ウウン、、張粛林がオーナーよ。上海の王様よ」
外に出た。夢華が「どこのホテル?」と訊いたが、王さんは「今度ね。約束」と手を握って別れた。春燕は「ホテルに連れてって」と朕さんにぶら下がっていた。朕さんは「今度ね」と言って春燕のエクボにキッスした。長谷川と磯村は人力車で天国道大酒家のペントハウスに帰った。夜が明け始めていた。長谷川が部屋の中を点検した。「メシクッタカ」と磯村に言った。
「胡娘も可愛いですね」
「こらあ」と長谷川が朕平助を睨んだ。
3
ふたりが起きた。昼を過ぎていた。長谷川が歯ブラシを持って洗面所へ行った。磯村も起き出していた。
「君は張粛林をどこまで知ってる?」と再びベッドに入って磯村に訊いた。
「青封(ちんぱん)の首魁とだけですが」
「青封は犯罪シンジケートなんだ。ありとあらゆる犯罪を商売としている。問題は、アンダーグラウンドじゃないことだ。欧米も日本も青封を陰で利用するからだよ。上海に法律なんかない。ここが東京と違うところさ」
「何時に銀行家に会いに行くのでありますか?」
「夕方の四時だ。ここからハイヤーで行く」
「新京へは何日戻りますか?」
「何日までに帰れという命令はない。参謀課長は竜神組が潰れたことを知っている。関東軍の海軍武官から聞いているからね」と長谷川がクチを曲げて笑った。
「あの神田川の百万円はどうなるのですか?」と磯村が心配そうな顔になった。
「どうにもならんよ。神田川は死んだ。所有者を確定できないから軍は関係したくないんだ」
「はあ?」
「何に使いますか?」
「わからん。われわれの使命は予算が立て難いものだ。武器ひとつ貰うにも時間がかかる。軍隊は巨大な官僚組織だから」
「やはりカネはあればあるほど良いのですね?」
「その通りだ。頑張れ!」
磯村がカレンのことを訊こうとしてやめた。
「銀行家ですが、何を着て行きます?」
「支那服だ」
二人は昼寝をした。起きると、支那服を着て拳銃を後ろの帯に着けた。フロントが笛を吹いてハイヤーを呼んだ。
「今日は活劇じゃないですよね?」というと長谷川が声を出して笑った。二十分で南京路に出た。ふたりは北京東路と南京東路の間の寧波(にんぽ)路でハイヤーを降りた。銀行街である。浦東江が見えた。横浜正金銀行の本社ビルがあった。銀行の後ろは繁華街である。中華大楼~四五六大酒家、、龍門のある巨大な料理店が一キロは続いている。長谷川と磯村が「寧波両替交易公司」と書かれたビルに入って行った。受付の日本人事務員が支那服を着た日本人を怪訝な顔で見た。用件を聞いた。
「頭取には予約なしでは会えません」と髪を四分六に分けた受付の男が素っ気なく言った。
「これは頭取にとって大事な手紙なんだ」と長谷川が封筒をその事務員に渡した。
「預かります」
「今すぐに届けろ」と磯村平助が凄んだ。事務員は去年の夏にこれに似た経験をしたことを想いだした。手紙を受け取ると、自分で頭取の執務室に走って行った。
一色金造が受付に出て来た。長谷川の両手を取った。
「長谷川少尉さん、お久しぶりです。どうぞこちらへ来てください」
「一色さん、頼みがあって来た。聞いてくれないか?」
「キサマら帰れ!」と従業員に一色が怒鳴った。
飛鳥が竜神組の凶弾に倒れたことを話した。一色はもろ手を膝につけて泣いた。
「長谷川さん、私に出来ることなら何でも仰ってください」
長谷川がもの凄い話しをした、、張粛林を殺したいと言ったのだ。
「張粛林はアメリカに資産を移しているとおっしゃるのですか?」
「そうです。これをなんとか凍結できないものか」
「調べてみますがルーズベルトはキリスト教会を使って青封を保護してますから」
「そうだね。それなら違う作戦が要る」
「おカネなら出します」
「一色さん、有難うね。だがこれはカネでは解決しない」
長谷川が「青封討伐作戦」を計画した。磯村平助には力を超える作戦に思えた。犬養海軍大佐は上海駐屯軍にはどうしようもないと言った。長谷川はどうしても一色金造の力が必要であった。長谷川が一色金造を天国大酒家のペントハウスに呼んだ。
「黄金栄、杜月生、張粛林の三人の顔役を一堂に集めることは出来ますか?」と訊くと、一色の目がギラギラと光った。
「張粛林が極度の火傷で頭のてっぺんが溶けて最近になって退院したと聞きました。以来、あまり外へ出ないようです。だが快気祝いをやるからと献上金を強制されました」
一色金造は南原竜蔵や京子を強姦した猪八戒が死んだくらいでは腹が治まらなかった。張~黄~杜を地獄にマッツグ送る決心をした。長谷川には一色の決心が見えた。
「それいつ、どこで、誰が来賓なのかね?」長谷川の心配は英米の来賓であった。
「その参加者リストを手に入れます」と一色が頷いていた。
「集まったところでどうするんでありますか?」と磯村が心配そうに訊いた。
「青封は秘密結社だ。陸軍中隊ぐらいの数の兵隊を張るだろう。これが問題だ」と長谷川が腕を組んだ。
「海軍陸戦隊を要請できませんか?」と磯村の動悸が速くなっていた。
「いや、もう断られた」
磯村平助は-―こんな作戦をふたりで出来るわけがないと落ち込んでいた。長谷川が磯村を見ていた。
続く
第五章
1
福岡陸軍飛行基地から上海の浦東陸軍飛行場までは八百九十キロである。二人の憲兵士官を乗せた九七式輸送機キ三四が厚い雨雲を突き抜けて青空に出た。航続速度が四百五十キロメートル、、よって、上海の摩天楼が見えるところまで福岡から二時間三十分なのだ。上海湾は晴れていた。磯村が写真を撮るのに夢中になっている。長谷川が手帳をトランクから取り出していた。三月二十四日の日付けがあるページを開いた。鉛筆で上海と書き入れた。そして考えごとをしていた。
――上海の豚、張粛林をどうしてくれようか、、
浦東陸軍飛行場が見えた。長谷川が腕時計を見ると正午を過ぎていた。輸送機は旋回もせずまっすぐ滑走路に向かって行った。赤い吹き流しが見えた。
「磯村、美味い飯食うか?」
「美味いもんばっかり食ってますが?もう普通に戻れません」と言うと、長谷川が豪快に笑った。
「まず、背広に着替えよう」と飛行場の洗面所へ行った。
二人はハイヤーの中にいた。運転手は日本人だった。磯村が地図にXをつけては、写真を撮っていた。磯村平助は生来の情報員なのだ。橋を渡ってバンドに出た。
「あれが日本領事館のあるビルだ」
「もの凄い上流租界ですねえ」
「いや、別府の旅館のほうがいいよ。名前は決まったのかね?」
「温泉旅館岩戸屋というんです」
「いい名前だ」
浦東運河の橋を渡って南京路に入った。
「珍宝楼へやってくれ」
「去年、大火事で焼けて、今、北京飯店が建築中ですよ」
「その近くのホテルへ連れて行ってくれ」
ハイヤーが「OK牧場」と看板のある建物の前を通った。そこから西へ走って「天国道大酒家」というホテルに着いた。金箔の看板で料金が高そうだった。エレベーターがある。長谷川が、上海が一望に出来る最上階の部屋を選んだ。 磯村が子供のように喜んでいた。
「大尉殿、上海領事には用はないのですか?」
「ない。明日、銀行家に会う」
「もうおカネいりませんけど?」
「ハハハ、おい少尉、カネはあればあるほどいい」ふたりは階下の海鮮料理を食おうとエレベーターに乗った。
「上海のメシはどこのメシよりも美味い気がします」
「日本にはない支那の不思議さ」
「この南京路ってのも不思議な街ですね」
「少尉、君はストリップに興味はあるかね?」
「はあ?」
2
福岡から上海に帰ったその夜だった。支那服を着た二人の憲兵がストリップ劇場のかぶりつきで大きな体格の胡娘を見ていた。胡娘はクイーンサイズのピンクのズロースを穿いて左の腿に大きなダイアモンドのガーターをはめていた。もちろんガラスだが、、一生懸命に肢体を動かしているが色気が不足していた。磯村が居眠りし始めた。長谷川が銀貨を掴んで舞台に投げた、、
「あら?ニイハオ」とにっこり笑った。長谷川をどこかで見たというわけである。
「何か起きましたか?」と磯村が寝ぼけていた。
「磯村のネームはここから朕さんでいいかね?」
「はあ?」
「俺は前から王さんなんだよ」
「このストリップ、、面白いですか?」
「そりゃ面白いさ」と王さんが笑ってから、朕さんを驚かした。もうすぐ劇場が閉まるからストリッパーを連れて夜食をしようと言ったのだ。
六人の胡娘が二の返事でついてきた。
「どこが一番美味いの?」と王さんが赤いパンプスを履いた大女に訊いた。
「アンタさ、どっかで会ったよね?」
「いや、初めてだよ。でもアンタが好きだよ」と長谷川がお世辞を言った。
「エ~?ほんと?嬉しい。アタイね、夢華(もんふぁ)って言うの」と長谷川をじっと見ていた。
「ミーね、みんな大好きだよ」と朕さんが余計なくちを出した。
「老克勒飯店が南京路でベストよ。でもアンタ、オカネアルノ?」と一番若く、一番背の低い春燕(ちゅんえん)が言った。
「王さんは大人(たあじん)」と朕さんが言った。春燕が人力車の列に走って行った。
老克勒飯店は王侯貴族の店ではなかったが、中に入ると、テーブルが仕切りで囲ってある。大きな水槽が玄関を入るとならんでいた。まず、壮大なのはマレーからくる大海老だ。鯉~鰻~上海蟹、、肉も遼東の黒豚~太原の牛~烏骨鶏、、Silky Fowlと欧米人の客用に英語が付いていた。ストリッパーだとウエイターが、気がついていたが、店の雰囲気が明るくなっている。「出て行け」と普段は言っていたが、王さん、珍さんがカネ持ちに見えたので大歓迎と言った。
胡娘たちがわいわいと好きなものを注文していた、どれも高価なものばかりである。老克勒飯店の社長が挨拶にきた。大女の夢華(もんふぁ)が「アタイ、ワンさんのものよ」とばかりに長谷川の横に座った。春燕は磯村が好きなようだ。何だか、にわか夫婦になっていた。
「アンタの支那語は癖があるね」と言ったが胡娘たちはハンサムで気前の好いふたりを大好きになってしまった。
「ワンさん、アンタさあ、太太(タイタイ)はいるのよね?」
「おお、おるよ」
「二番目の太太欲しい?」と話が商談になっていた。
「うん、考えとく」と長谷川が言って横の春燕を見ると、大きなエクボと目が可愛い。その目で、しきりに磯村に流し目を送っていた。
四人の胡娘は、ばんばん食べて饒舌になっていた。長谷川が中国の女はあまりアルコールを飲まないことに気がついていた。夢華に訊くと「こどもが出来なくなるから」と言った。
「ふ~ん、だから飲まないわけ?」
「こどもが出来ないと亭主に離縁する権利があるのよ」と長谷川の目をじっと見ていた。
「さっきの社長だけど、あのひとがオーナーなの?」
「ウウン、、張粛林がオーナーよ。上海の王様よ」
外に出た。夢華が「どこのホテル?」と訊いたが、王さんは「今度ね。約束」と手を握って別れた。春燕は「ホテルに連れてって」と朕さんにぶら下がっていた。朕さんは「今度ね」と言って春燕のエクボにキッスした。長谷川と磯村は人力車で天国道大酒家のペントハウスに帰った。夜が明け始めていた。長谷川が部屋の中を点検した。「メシクッタカ」と磯村に言った。
「胡娘も可愛いですね」
「こらあ」と長谷川が朕平助を睨んだ。
3
ふたりが起きた。昼を過ぎていた。長谷川が歯ブラシを持って洗面所へ行った。磯村も起き出していた。
「君は張粛林をどこまで知ってる?」と再びベッドに入って磯村に訊いた。
「青封(ちんぱん)の首魁とだけですが」
「青封は犯罪シンジケートなんだ。ありとあらゆる犯罪を商売としている。問題は、アンダーグラウンドじゃないことだ。欧米も日本も青封を陰で利用するからだよ。上海に法律なんかない。ここが東京と違うところさ」
「何時に銀行家に会いに行くのでありますか?」
「夕方の四時だ。ここからハイヤーで行く」
「新京へは何日戻りますか?」
「何日までに帰れという命令はない。参謀課長は竜神組が潰れたことを知っている。関東軍の海軍武官から聞いているからね」と長谷川がクチを曲げて笑った。
「あの神田川の百万円はどうなるのですか?」と磯村が心配そうな顔になった。
「どうにもならんよ。神田川は死んだ。所有者を確定できないから軍は関係したくないんだ」
「はあ?」
「何に使いますか?」
「わからん。われわれの使命は予算が立て難いものだ。武器ひとつ貰うにも時間がかかる。軍隊は巨大な官僚組織だから」
「やはりカネはあればあるほど良いのですね?」
「その通りだ。頑張れ!」
磯村がカレンのことを訊こうとしてやめた。
「銀行家ですが、何を着て行きます?」
「支那服だ」
二人は昼寝をした。起きると、支那服を着て拳銃を後ろの帯に着けた。フロントが笛を吹いてハイヤーを呼んだ。
「今日は活劇じゃないですよね?」というと長谷川が声を出して笑った。二十分で南京路に出た。ふたりは北京東路と南京東路の間の寧波(にんぽ)路でハイヤーを降りた。銀行街である。浦東江が見えた。横浜正金銀行の本社ビルがあった。銀行の後ろは繁華街である。中華大楼~四五六大酒家、、龍門のある巨大な料理店が一キロは続いている。長谷川と磯村が「寧波両替交易公司」と書かれたビルに入って行った。受付の日本人事務員が支那服を着た日本人を怪訝な顔で見た。用件を聞いた。
「頭取には予約なしでは会えません」と髪を四分六に分けた受付の男が素っ気なく言った。
「これは頭取にとって大事な手紙なんだ」と長谷川が封筒をその事務員に渡した。
「預かります」
「今すぐに届けろ」と磯村平助が凄んだ。事務員は去年の夏にこれに似た経験をしたことを想いだした。手紙を受け取ると、自分で頭取の執務室に走って行った。
一色金造が受付に出て来た。長谷川の両手を取った。
「長谷川少尉さん、お久しぶりです。どうぞこちらへ来てください」
「一色さん、頼みがあって来た。聞いてくれないか?」
「キサマら帰れ!」と従業員に一色が怒鳴った。
飛鳥が竜神組の凶弾に倒れたことを話した。一色はもろ手を膝につけて泣いた。
「長谷川さん、私に出来ることなら何でも仰ってください」
長谷川がもの凄い話しをした、、張粛林を殺したいと言ったのだ。
「張粛林はアメリカに資産を移しているとおっしゃるのですか?」
「そうです。これをなんとか凍結できないものか」
「調べてみますがルーズベルトはキリスト教会を使って青封を保護してますから」
「そうだね。それなら違う作戦が要る」
「おカネなら出します」
「一色さん、有難うね。だがこれはカネでは解決しない」
長谷川が「青封討伐作戦」を計画した。磯村平助には力を超える作戦に思えた。犬養海軍大佐は上海駐屯軍にはどうしようもないと言った。長谷川はどうしても一色金造の力が必要であった。長谷川が一色金造を天国大酒家のペントハウスに呼んだ。
「黄金栄、杜月生、張粛林の三人の顔役を一堂に集めることは出来ますか?」と訊くと、一色の目がギラギラと光った。
「張粛林が極度の火傷で頭のてっぺんが溶けて最近になって退院したと聞きました。以来、あまり外へ出ないようです。だが快気祝いをやるからと献上金を強制されました」
一色金造は南原竜蔵や京子を強姦した猪八戒が死んだくらいでは腹が治まらなかった。張~黄~杜を地獄にマッツグ送る決心をした。長谷川には一色の決心が見えた。
「それいつ、どこで、誰が来賓なのかね?」長谷川の心配は英米の来賓であった。
「その参加者リストを手に入れます」と一色が頷いていた。
「集まったところでどうするんでありますか?」と磯村が心配そうに訊いた。
「青封は秘密結社だ。陸軍中隊ぐらいの数の兵隊を張るだろう。これが問題だ」と長谷川が腕を組んだ。
「海軍陸戦隊を要請できませんか?」と磯村の動悸が速くなっていた。
「いや、もう断られた」
磯村平助は-―こんな作戦をふたりで出来るわけがないと落ち込んでいた。長谷川が磯村を見ていた。
続く
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第一話 |
第一話
第四章
1
長谷川が博多駅に着いた。磯村はさきに来て改札口で待っていた。二人は、「トラフグあります」と看板のある駅前の朝陽旅館に入った。しばらくこの旅館をアジトにするためだった。亭主が玄関に出た。憲兵将校に驚いた。めったに軍人がそれも憲兵が泊まることがないからである。長谷川がフグ料理を頼んだ。これも亭主を驚かした。軍人の懐は寒くフグを頼むことがなかった。ふたりは共同風呂に入ってから座敷に帰り浴衣で座布団にあぐらをかいた。火鉢に炭が赤々と入れてあり、そのうえにヤカンが載せてあった。そこへ、亭主と板前が生きたトラフグを入れたバットを持って現れた。
「下関でとれたトラフグです。この季節は産卵期なのでうまいのです。おまかせ料理が伝統なんです」と板前が言った。つまり、――あなたがたは、カネはあるのか?というわけなのである。磯村が値段を聞いて震えた。
菊の形に盛られたフグ刺しで始まり、刺身で熱燗を飲んでいる間に鍋が火鉢にかけられた。若い女給が、春菊がどっさり入った大皿を持って現れた。長谷川が春菊の横に盛られた大きな肝を見てたじろいだ。
「大尉殿、自分は極貧育ちでトラフグを食ったことがありませんが、フグ鍋は、うまいはずです。これは白子です。雄の精卵です。それに精が付きます」
「いやいや、もう精は要らんよ」と長谷川が笑った。若い女給まで笑っていた。思春期の女給は男前のふたりの憲兵将校が優しいので頬が赤くなっていた。どうも磯村に気があるようなのだ。磯村の横に座ると鍋に飯を入れてフグ雑炊にした。久しぶりにふたりは熱燗を四本もあけていた。「お燗をつけますか?」と女給が訊いた。磯村が手を振って断った。
「どうしてた?」と羊羹を口に放り込んで緑茶をごくりと飲んだ長谷川が磯村平助に訊いた。
「僕の愛人は結婚しました」と磯村が長谷川を驚かした。磯村がその十日で何をしたか話した。
――三池炭鉱の町、飯塚へ行った。案の定、母親と妹が長屋でタケノコ生活をしていた。だが妹が「別府に旅館をやっている知り合いがいて大分に移りたい」と言ったのである。妹は婚礼期である。磯村がぴ~んときた。「じゃあ、別府へ行こう」と早速、熊本へ南下して、豊肥線の乗客となった。阿蘇山駅で対向車を待つために停車した。三人は駅の食堂でうどんを食べた。大分には夕方に着いた。別府温泉へバスで行って、その豊後旅館に泊まった。妹が階下へ行って青年を連れてきた。青年は三池炭鉱で働いて旅館を買ったのだと。磯村は合点が行った。妹は炭鉱の飯場で炊事婦をやってたからだ。
「ふ~ん、それでどうなったの?」
「湯は好いんですが、部屋が四つしかないんです。これでやって行けるわけがない」と言ったのであります。そしたら、――兄さん、カネを貸してくれとふたりが手を合わしたのであります。僕は貯金が少々あるだけです」
「カネをどうする?」
「隣の旅館が売りに出ているのよ」と聞いて満州へ帰る自分にはこれしかないと磯村が決心した。
「足りない分は月五十円を郵便局で受け取ってくれ」と、ありたけのカネをやった。おかげで自分はスッテッテンになった。
「お兄ちゃん帰ってきてよ」とこれで磯村一家の門出となったのだ。傍で母親がおいおいと泣いていた。
長谷川の顔が笑っていた。そしてトランクを開けた。
「少尉、これを君にやろう」と札束をテーブルに乗せた。磯村がビックリした。千五百円もあったからである。
「大尉殿、お返しが出来ませんが?」
「磯村君、俺に命を貸してくれ」
「竜神組の神田川ですね?」
「そうだ。俺は神田川を殺す」
磯村平助の背筋に戦慄が走った。小倉育ちの磯村はいかに小倉のヤクザが恐いものかよく知っているからだ。それに、神田川は小倉港を取り仕切っているボスなのだ。
「少尉、それで竜神組の何が判ったのか?」と長谷川が聞くと磯村が数枚の写真を見せた。
「この左脚の膝から下が、すっぽりない男ですが、鎌田という奴です」
長谷川の眼が左右に動いた。やはりそうか、、
「どうして鎌田と判ったのか?」
「実は竜神組に十日ほどワラジを脱いだのです」
「エエ~?」
別府から小倉に帰った磯村は。竜神組に出入りする連中の写真を向かいの旅館の窓から撮っていた。松葉杖をついた片脚の男に注目した。どこかで見たことがある、、そうだ、長谷川大尉のアルバムで見た男だ、、
「御敷居内、御免下されまし。広島は村上水軍、八幡大菩薩、鯨神一家のサンシタ、兵頭和夫でござんす。御一同さま、御賢察の通り、しがなき者にござんす。後日に御見知り置かれ、行末万端、御熟懇に願います」と竜神組の玄関で仁義を切ったと言うのだ。
長谷川の胸がワクワクしてきた。仁義には厳しい掟がある。左手の拳を腰の後ろに置いて、右手で三つ指を上がり框に置く。少しでも言葉と動作を間違えれば、偽物と見抜かれて袋叩きになる。 長谷川は磯村の博学に感心した。
「それで?」
「いろんな事が判ったのであります」
神田川が竜神丸という大型漁船を持っていること~その漁船はヤンマー・ジーゼルを二機つまりプロペラが二つ付いていること~神田川が福州丸(ふうちょうまる)という貨物船とトンツーを交わしていること~その福州丸が香港から小倉港へ来ることを話した。そして福州丸の写真を長谷川に見せた。巨船だったが船体が赤く錆びていた。
「福州丸は今どこにいるのかね?」
「上海と済州島の中間を航行しております」
「いつ小倉港に入る?」
「二日で来ます」
長谷川が畳に転がって腕を組んで考えていた。その間、磯村が海図にx点を書き込んでその点に定規を当てて赤鉛筆で線を引いていた。
「大尉殿、特高が日明埠頭を見張っております。竜神丸が出航する気配だからです」
「ははあ、沖で荷物を受け取ると考えられるね。だが、どこだろうか?」
「ここです。竜神丸が出港すればどこで福州丸と落ち合うかがわかります」
「済州島の南かな?」
「その通りです」と磯村が海図を見せた。長谷川が電信機を取り出して卓袱台に置いた。そして受信機を耳に付けた。
2
翌朝の七時、二人は福岡港の海軍基地へ行った。長谷川が海軍中尉の襟章を着けた指令官と会った。中尉は髪に白いものが混じっていた。五十歳ぐらいに見えた。司令官と言っても、雷艇という高速舟艇八隻の小部隊なのだ。
「高速艇と水兵さんを貸してください」と長谷川が切り出した。
「上海の犬養大佐から要請がありました。問題があります。うちには魚雷艇はなく、雷艇しかないのであります」と水島鮫蔵と名乗った雷帝の艇長が言った。
雷艇というのは乗員八名。四五粍重機関砲二機を搭載した海戦には向かない代物なのだと司令官が臆面もなく言った。だが、ガソリンエンジンを搭載していて、最高四十ノットが出るのだと言った。早速、六名の乗組員と憲兵士官二人が乗り込んだ。この福州丸作戦は長谷川が指令官と決めた。福岡港を朝の八時に出た。海上に出ると波浪が高く、寒く、曇天である。沖を見ると黒い雨雲が海面に垂れていた。
「玄海灘は、ここ三日ほど時化であります」と操舵手が横に立って沖を見ている長谷川に言った。
長谷川は水上機を考えていたが、「バカコケ」と断られた。この荒天では飛べなかったのである。雷艇「あかね」は三十ノットで飛魚のように海面を走った。abcのb点へ向かっていた。
「水島さん、その福州丸ですが、速度はどのくらいなんですか?」
「福州丸は三万トンのばら積み貨物船です。平均速度は、十四ノットなんです。、積荷が屑鉄なんかだと十二ノットと鈍足なんであります」
「竜神丸が朝の六時に小倉の日明埠頭を出たと特高から電話があったのです。奴らの速度はなんですか?」
「ジーゼルじゃ二十ノットだろう」と機関兵が言った。
「どこへ向かって行ったんじゃろか?」とサメさんと部下に親しまれている水島艇長が心配顔で言った。
「水島さん、やつらは福州丸や小倉の竜神組とトンツーしている。たいへんなおしゃべりが乗っておる」と長谷川が笑っていた。
「それで奴らの位置が判るんでありますか?」
「交差通信で判っています」と海図のX点を指さした。
「すると、夕方には福州丸が水平線に見えるじゃろ」
「奴らは夜中に荷受すると思う」
「磯村少尉、特高がね、神田川が竜神丸に子分らと乗るのを見たとさ。びっこが一人いたとさ」と長谷川が笑った。
「ようし、沈没させてやろう」と磯村平助が笑った。
「しかし、その阿片が欲しいな」と長谷川が磯村を見た。
3
午後三時になった。雲間に太陽が顔を出した。あかねの操縦を航海士に任せて水島が双眼鏡を眼に当てていた。
「あれが福州丸だな」と言ってからその前方三十キロメートルに大漁旗を立てた竜神丸を見つけた。
「機銃手、準備せよ」と水島が命令してから「さあ、どうぞ」と長谷川に笑いかけた。あかねはゆるゆると波間を動いている、、
「それでは、みなさん、作戦を御開帳致します。ふうちょうまるは足が遅いから無視する。竜神丸に停船を命じる。水兵さん、発炎筒を三本用意お願いします」
「大尉殿、質問!停船に応じたら、何をしますか?」と磯村平助が代表して訊いた。
「少尉、やつらは必死なのだ。雷艇が魚雷を積んでいないことを知っている。停船なんかに応じないよ。機銃で停船させる」
「よしそれで行こう。ただ、あいつらも武器をモッチョルじゃろ」とサメが警戒した。そして、あかねの速度を四十ノットに上げた。雷艇は波間を飛ぶように走った。竜神丸は気が着いたのか、速度を上げるのが見えた。黒煙を上げて福州丸の後ろに隠れた。水兵が発炎筒を三発連続で打ち上げた。福州丸が停まった。赤く錆びた巨船が波間をゆらゆらと上下していた。
あかねが福州丸の船尾に廻った。竜神丸が見えた。その途端、全速力で逃げ出した。あかねはすぐに追い着いたが、竜神丸は停船しない、、
「おい、機銃屋さんよ、撃とうか?」と長谷川が言うやいなや、ガンガンガンと機銃が鳴り出した。竜神丸の船腹に穴が開いた。竜神丸が停まった、、長谷川が拡声器を右手にとって怒鳴った、、
「キサマら、武器を置いて手を挙げろ。甲板に出ろ!」と命令した。ヤクザがゾロゾロと出てきた。びっこの鎌田が漁船の手すりに寄りかかっているのが見えた。その後ろに神田川がふてぶてしく立っている。向こうも八人だ。どれも角刈りである。あかねの操舵手が雷艇を竜神丸に横着けにしようと舵をユーターンに切った。そのとき、鎌田が手榴弾をあかねに投げた。神田川も、子分らもどんどん投げ始めた。だが、あかねは鋼鉄船である。窓ガラスが砕けただけで、手榴弾は甲板で炸裂して散った。
「皆殺しにしろ」と長谷川が低い声で全員に命令した。神田川がトミーガンを構えた。長谷川がトカレフを両手で持って連発した。角刈りの組長がのけぞるのが見えた。雷帝の水兵が三八のボルトを引いて撃ち始めた。鎌田の姿が見えない、、長谷川とハンザ・キャノンを手に持った磯村が竜神丸に乗り移った。鎌田を除いてみんなひっくり返っていた。神田川が虫の息になっていた。長谷川を見て「小僧。さあ、殺しやがれ!」と言った。長谷川の目が左右に動いた。神田川が胸に下げていたピストルに手を伸ばした。その神田川の顔を長谷川がブーツで蹴った。前歯が折れる音がした。長谷川が神田川のピストルを拾った。スミス・ウエッソン三八口径である。「形見に貰っておく」と長谷川が笑った。そこへ水島が石油の一斗缶を持って乗り込んできた。
「水島さん、ちょっと待ってください」と長谷川が船内に入った。大きな手金庫を持って戻ってきた。長谷川が神田川の額に手金庫を乗せた。組長の顔が悔しさに引き攣った。磯村がその神田川の顔を写真に撮った。雷艇あかねが漁船を離れた。長谷川が発炎筒を漁船に投げ込んだ、、ボ~という音とともに竜神丸が燃えあがった、、神田川が生きたまま荼毘に付されたのである。波間にうつ伏せになった死体が浮いていた。鎌田中尉だった。長谷川が福州丸を見ると、夕闇にまぎれて逃げ出していた。水島には三万トンの貨物船を停船させる手段がなかった。水兵が手榴弾を数個投げ込んだが福州丸はゆるゆると上海方面に逃げて行った。そのとき、突然、海面に探照灯が数条光ったと思うと、福州丸が停船した。日本海軍の軽順が闇の中に見えた。福州丸の舷側から木箱が数個海面に落ちた。福建人の船員が阿片を投げ込んだのだ。長谷川がクチを曲げて笑った。木箱は三個だった、それを拾ってあかねに積んだ。軽順が短い汽笛を三回鳴らした。水島艇長がやはり汽笛三声を返礼していた。
「みなさん、本日は大漁でありました。帰りましょう」と長谷川が腹の底から笑った。雷艇あかねが最高巡航速度の三十五ノットで福岡港に戻った。
「阿片はどうするんですか?」
「海軍に渡す」
「戦利品の手金庫は?」
「関東軍新京憲兵隊大尉の長谷川が貰っておく」と笑った。
4
ふたりは博多駅前の朝陽旅館に戻った。女給が磯村を見て赤くなった。
「少尉、拳銃を持って来い」と長谷川が机の上にトカレフを置いて機械油を差していた。横に手金庫が置いてあった。
「少尉、それを開けてみろ」
「百円札で百万円あります」
「別府の旅館は全部でいくらなのか?」
「はあ?残り五千円でありますが?」というと長谷川が札束五個を鷲掴みにして卓袱台に乗せると磯村に「取れ」と言って押した。磯村平助が目を丸くしていた。そして札束に手を伸ばした。あまりの大金に手が震えて長谷川に感謝するのを忘れていた。
「磯村、別府の妹夫婦をここへ呼べ。現金だ。遠慮なく値切れと言え」と忠告した。
「これで日本の勤務は終わりですか?」
「市ヶ谷はハルピンのソ連領事館と尾崎秀実の交信を知りたいのだよ。ロシア語だからね」
「山中武官は暗号を解読できるのですか?」
「優秀なひとだ」
「大尉殿、これからわれわれは何処へ行くのでありますか?」
「上海だ」と長谷川が再び磯村平助を驚かした。
続く
第四章
1
長谷川が博多駅に着いた。磯村はさきに来て改札口で待っていた。二人は、「トラフグあります」と看板のある駅前の朝陽旅館に入った。しばらくこの旅館をアジトにするためだった。亭主が玄関に出た。憲兵将校に驚いた。めったに軍人がそれも憲兵が泊まることがないからである。長谷川がフグ料理を頼んだ。これも亭主を驚かした。軍人の懐は寒くフグを頼むことがなかった。ふたりは共同風呂に入ってから座敷に帰り浴衣で座布団にあぐらをかいた。火鉢に炭が赤々と入れてあり、そのうえにヤカンが載せてあった。そこへ、亭主と板前が生きたトラフグを入れたバットを持って現れた。
「下関でとれたトラフグです。この季節は産卵期なのでうまいのです。おまかせ料理が伝統なんです」と板前が言った。つまり、――あなたがたは、カネはあるのか?というわけなのである。磯村が値段を聞いて震えた。
菊の形に盛られたフグ刺しで始まり、刺身で熱燗を飲んでいる間に鍋が火鉢にかけられた。若い女給が、春菊がどっさり入った大皿を持って現れた。長谷川が春菊の横に盛られた大きな肝を見てたじろいだ。
「大尉殿、自分は極貧育ちでトラフグを食ったことがありませんが、フグ鍋は、うまいはずです。これは白子です。雄の精卵です。それに精が付きます」
「いやいや、もう精は要らんよ」と長谷川が笑った。若い女給まで笑っていた。思春期の女給は男前のふたりの憲兵将校が優しいので頬が赤くなっていた。どうも磯村に気があるようなのだ。磯村の横に座ると鍋に飯を入れてフグ雑炊にした。久しぶりにふたりは熱燗を四本もあけていた。「お燗をつけますか?」と女給が訊いた。磯村が手を振って断った。
「どうしてた?」と羊羹を口に放り込んで緑茶をごくりと飲んだ長谷川が磯村平助に訊いた。
「僕の愛人は結婚しました」と磯村が長谷川を驚かした。磯村がその十日で何をしたか話した。
――三池炭鉱の町、飯塚へ行った。案の定、母親と妹が長屋でタケノコ生活をしていた。だが妹が「別府に旅館をやっている知り合いがいて大分に移りたい」と言ったのである。妹は婚礼期である。磯村がぴ~んときた。「じゃあ、別府へ行こう」と早速、熊本へ南下して、豊肥線の乗客となった。阿蘇山駅で対向車を待つために停車した。三人は駅の食堂でうどんを食べた。大分には夕方に着いた。別府温泉へバスで行って、その豊後旅館に泊まった。妹が階下へ行って青年を連れてきた。青年は三池炭鉱で働いて旅館を買ったのだと。磯村は合点が行った。妹は炭鉱の飯場で炊事婦をやってたからだ。
「ふ~ん、それでどうなったの?」
「湯は好いんですが、部屋が四つしかないんです。これでやって行けるわけがない」と言ったのであります。そしたら、――兄さん、カネを貸してくれとふたりが手を合わしたのであります。僕は貯金が少々あるだけです」
「カネをどうする?」
「隣の旅館が売りに出ているのよ」と聞いて満州へ帰る自分にはこれしかないと磯村が決心した。
「足りない分は月五十円を郵便局で受け取ってくれ」と、ありたけのカネをやった。おかげで自分はスッテッテンになった。
「お兄ちゃん帰ってきてよ」とこれで磯村一家の門出となったのだ。傍で母親がおいおいと泣いていた。
長谷川の顔が笑っていた。そしてトランクを開けた。
「少尉、これを君にやろう」と札束をテーブルに乗せた。磯村がビックリした。千五百円もあったからである。
「大尉殿、お返しが出来ませんが?」
「磯村君、俺に命を貸してくれ」
「竜神組の神田川ですね?」
「そうだ。俺は神田川を殺す」
磯村平助の背筋に戦慄が走った。小倉育ちの磯村はいかに小倉のヤクザが恐いものかよく知っているからだ。それに、神田川は小倉港を取り仕切っているボスなのだ。
「少尉、それで竜神組の何が判ったのか?」と長谷川が聞くと磯村が数枚の写真を見せた。
「この左脚の膝から下が、すっぽりない男ですが、鎌田という奴です」
長谷川の眼が左右に動いた。やはりそうか、、
「どうして鎌田と判ったのか?」
「実は竜神組に十日ほどワラジを脱いだのです」
「エエ~?」
別府から小倉に帰った磯村は。竜神組に出入りする連中の写真を向かいの旅館の窓から撮っていた。松葉杖をついた片脚の男に注目した。どこかで見たことがある、、そうだ、長谷川大尉のアルバムで見た男だ、、
「御敷居内、御免下されまし。広島は村上水軍、八幡大菩薩、鯨神一家のサンシタ、兵頭和夫でござんす。御一同さま、御賢察の通り、しがなき者にござんす。後日に御見知り置かれ、行末万端、御熟懇に願います」と竜神組の玄関で仁義を切ったと言うのだ。
長谷川の胸がワクワクしてきた。仁義には厳しい掟がある。左手の拳を腰の後ろに置いて、右手で三つ指を上がり框に置く。少しでも言葉と動作を間違えれば、偽物と見抜かれて袋叩きになる。 長谷川は磯村の博学に感心した。
「それで?」
「いろんな事が判ったのであります」
神田川が竜神丸という大型漁船を持っていること~その漁船はヤンマー・ジーゼルを二機つまりプロペラが二つ付いていること~神田川が福州丸(ふうちょうまる)という貨物船とトンツーを交わしていること~その福州丸が香港から小倉港へ来ることを話した。そして福州丸の写真を長谷川に見せた。巨船だったが船体が赤く錆びていた。
「福州丸は今どこにいるのかね?」
「上海と済州島の中間を航行しております」
「いつ小倉港に入る?」
「二日で来ます」
長谷川が畳に転がって腕を組んで考えていた。その間、磯村が海図にx点を書き込んでその点に定規を当てて赤鉛筆で線を引いていた。
「大尉殿、特高が日明埠頭を見張っております。竜神丸が出航する気配だからです」
「ははあ、沖で荷物を受け取ると考えられるね。だが、どこだろうか?」
「ここです。竜神丸が出港すればどこで福州丸と落ち合うかがわかります」
「済州島の南かな?」
「その通りです」と磯村が海図を見せた。長谷川が電信機を取り出して卓袱台に置いた。そして受信機を耳に付けた。
2
翌朝の七時、二人は福岡港の海軍基地へ行った。長谷川が海軍中尉の襟章を着けた指令官と会った。中尉は髪に白いものが混じっていた。五十歳ぐらいに見えた。司令官と言っても、雷艇という高速舟艇八隻の小部隊なのだ。
「高速艇と水兵さんを貸してください」と長谷川が切り出した。
「上海の犬養大佐から要請がありました。問題があります。うちには魚雷艇はなく、雷艇しかないのであります」と水島鮫蔵と名乗った雷帝の艇長が言った。
雷艇というのは乗員八名。四五粍重機関砲二機を搭載した海戦には向かない代物なのだと司令官が臆面もなく言った。だが、ガソリンエンジンを搭載していて、最高四十ノットが出るのだと言った。早速、六名の乗組員と憲兵士官二人が乗り込んだ。この福州丸作戦は長谷川が指令官と決めた。福岡港を朝の八時に出た。海上に出ると波浪が高く、寒く、曇天である。沖を見ると黒い雨雲が海面に垂れていた。
「玄海灘は、ここ三日ほど時化であります」と操舵手が横に立って沖を見ている長谷川に言った。
長谷川は水上機を考えていたが、「バカコケ」と断られた。この荒天では飛べなかったのである。雷艇「あかね」は三十ノットで飛魚のように海面を走った。abcのb点へ向かっていた。
「水島さん、その福州丸ですが、速度はどのくらいなんですか?」
「福州丸は三万トンのばら積み貨物船です。平均速度は、十四ノットなんです。、積荷が屑鉄なんかだと十二ノットと鈍足なんであります」
「竜神丸が朝の六時に小倉の日明埠頭を出たと特高から電話があったのです。奴らの速度はなんですか?」
「ジーゼルじゃ二十ノットだろう」と機関兵が言った。
「どこへ向かって行ったんじゃろか?」とサメさんと部下に親しまれている水島艇長が心配顔で言った。
「水島さん、やつらは福州丸や小倉の竜神組とトンツーしている。たいへんなおしゃべりが乗っておる」と長谷川が笑っていた。
「それで奴らの位置が判るんでありますか?」
「交差通信で判っています」と海図のX点を指さした。
「すると、夕方には福州丸が水平線に見えるじゃろ」
「奴らは夜中に荷受すると思う」
「磯村少尉、特高がね、神田川が竜神丸に子分らと乗るのを見たとさ。びっこが一人いたとさ」と長谷川が笑った。
「ようし、沈没させてやろう」と磯村平助が笑った。
「しかし、その阿片が欲しいな」と長谷川が磯村を見た。
3
午後三時になった。雲間に太陽が顔を出した。あかねの操縦を航海士に任せて水島が双眼鏡を眼に当てていた。
「あれが福州丸だな」と言ってからその前方三十キロメートルに大漁旗を立てた竜神丸を見つけた。
「機銃手、準備せよ」と水島が命令してから「さあ、どうぞ」と長谷川に笑いかけた。あかねはゆるゆると波間を動いている、、
「それでは、みなさん、作戦を御開帳致します。ふうちょうまるは足が遅いから無視する。竜神丸に停船を命じる。水兵さん、発炎筒を三本用意お願いします」
「大尉殿、質問!停船に応じたら、何をしますか?」と磯村平助が代表して訊いた。
「少尉、やつらは必死なのだ。雷艇が魚雷を積んでいないことを知っている。停船なんかに応じないよ。機銃で停船させる」
「よしそれで行こう。ただ、あいつらも武器をモッチョルじゃろ」とサメが警戒した。そして、あかねの速度を四十ノットに上げた。雷艇は波間を飛ぶように走った。竜神丸は気が着いたのか、速度を上げるのが見えた。黒煙を上げて福州丸の後ろに隠れた。水兵が発炎筒を三発連続で打ち上げた。福州丸が停まった。赤く錆びた巨船が波間をゆらゆらと上下していた。
あかねが福州丸の船尾に廻った。竜神丸が見えた。その途端、全速力で逃げ出した。あかねはすぐに追い着いたが、竜神丸は停船しない、、
「おい、機銃屋さんよ、撃とうか?」と長谷川が言うやいなや、ガンガンガンと機銃が鳴り出した。竜神丸の船腹に穴が開いた。竜神丸が停まった、、長谷川が拡声器を右手にとって怒鳴った、、
「キサマら、武器を置いて手を挙げろ。甲板に出ろ!」と命令した。ヤクザがゾロゾロと出てきた。びっこの鎌田が漁船の手すりに寄りかかっているのが見えた。その後ろに神田川がふてぶてしく立っている。向こうも八人だ。どれも角刈りである。あかねの操舵手が雷艇を竜神丸に横着けにしようと舵をユーターンに切った。そのとき、鎌田が手榴弾をあかねに投げた。神田川も、子分らもどんどん投げ始めた。だが、あかねは鋼鉄船である。窓ガラスが砕けただけで、手榴弾は甲板で炸裂して散った。
「皆殺しにしろ」と長谷川が低い声で全員に命令した。神田川がトミーガンを構えた。長谷川がトカレフを両手で持って連発した。角刈りの組長がのけぞるのが見えた。雷帝の水兵が三八のボルトを引いて撃ち始めた。鎌田の姿が見えない、、長谷川とハンザ・キャノンを手に持った磯村が竜神丸に乗り移った。鎌田を除いてみんなひっくり返っていた。神田川が虫の息になっていた。長谷川を見て「小僧。さあ、殺しやがれ!」と言った。長谷川の目が左右に動いた。神田川が胸に下げていたピストルに手を伸ばした。その神田川の顔を長谷川がブーツで蹴った。前歯が折れる音がした。長谷川が神田川のピストルを拾った。スミス・ウエッソン三八口径である。「形見に貰っておく」と長谷川が笑った。そこへ水島が石油の一斗缶を持って乗り込んできた。
「水島さん、ちょっと待ってください」と長谷川が船内に入った。大きな手金庫を持って戻ってきた。長谷川が神田川の額に手金庫を乗せた。組長の顔が悔しさに引き攣った。磯村がその神田川の顔を写真に撮った。雷艇あかねが漁船を離れた。長谷川が発炎筒を漁船に投げ込んだ、、ボ~という音とともに竜神丸が燃えあがった、、神田川が生きたまま荼毘に付されたのである。波間にうつ伏せになった死体が浮いていた。鎌田中尉だった。長谷川が福州丸を見ると、夕闇にまぎれて逃げ出していた。水島には三万トンの貨物船を停船させる手段がなかった。水兵が手榴弾を数個投げ込んだが福州丸はゆるゆると上海方面に逃げて行った。そのとき、突然、海面に探照灯が数条光ったと思うと、福州丸が停船した。日本海軍の軽順が闇の中に見えた。福州丸の舷側から木箱が数個海面に落ちた。福建人の船員が阿片を投げ込んだのだ。長谷川がクチを曲げて笑った。木箱は三個だった、それを拾ってあかねに積んだ。軽順が短い汽笛を三回鳴らした。水島艇長がやはり汽笛三声を返礼していた。
「みなさん、本日は大漁でありました。帰りましょう」と長谷川が腹の底から笑った。雷艇あかねが最高巡航速度の三十五ノットで福岡港に戻った。
「阿片はどうするんですか?」
「海軍に渡す」
「戦利品の手金庫は?」
「関東軍新京憲兵隊大尉の長谷川が貰っておく」と笑った。
4
ふたりは博多駅前の朝陽旅館に戻った。女給が磯村を見て赤くなった。
「少尉、拳銃を持って来い」と長谷川が机の上にトカレフを置いて機械油を差していた。横に手金庫が置いてあった。
「少尉、それを開けてみろ」
「百円札で百万円あります」
「別府の旅館は全部でいくらなのか?」
「はあ?残り五千円でありますが?」というと長谷川が札束五個を鷲掴みにして卓袱台に乗せると磯村に「取れ」と言って押した。磯村平助が目を丸くしていた。そして札束に手を伸ばした。あまりの大金に手が震えて長谷川に感謝するのを忘れていた。
「磯村、別府の妹夫婦をここへ呼べ。現金だ。遠慮なく値切れと言え」と忠告した。
「これで日本の勤務は終わりですか?」
「市ヶ谷はハルピンのソ連領事館と尾崎秀実の交信を知りたいのだよ。ロシア語だからね」
「山中武官は暗号を解読できるのですか?」
「優秀なひとだ」
「大尉殿、これからわれわれは何処へ行くのでありますか?」
「上海だ」と長谷川が再び磯村平助を驚かした。
続く
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第一話 |
第一話
第三章
1
清太郎と道夫が道産子に乗って駒込川に向かっていた。小さな田んぼと畑があった。雷鳥が驚いて飛び出した。「道、何を見たいんかな?」長谷川はそれには答えず、鮎二に会った話をした。
「あれは俺の息子じゃない。陛下に背いたんだ。でもね。嫁と息子には送金しとる。鱒三はどこへ行ったのかね?ときどきカネを送ってくるが」
「朝鮮にいる。一番安全なんだよ」
ふたりが小川の縁で馬を停めた。小川の向こう岸は山林である。
「お父さん。この土地は売り出している。五千坪はある。池もある。レンゲは毎年の春、処せましと咲く」
「買ってもどうしようもないよ」
「僕が戦死しなければ給料で買える。買ってレンゲやタンポポを牛に食わせる。川に水車小屋を建てる。臼を廻して麦を引ける。米よりもパンの時代がくる」
「う~む」
「お父さん、戦争はいずれ終わる。終わると、農地を持つものが強いんだ。支那を見てそう思った」
「それでは道の言うようにしよう。鮎も、鱒も帰ってくるからな」
2
翌朝、親子が駒込の村役場へ行った。売主は喜んだ。長谷川が値切らなかったからだ。これで、長谷川牧場は一万坪になった。
長谷川が雇った十八歳の若者たちと話していた。この青年らも徴兵される、、この先、人を雇うことは不可能だろう、、牧場を電化してドイツ製の自動搾乳器を買う考えだった。ミルクからチーズ~バターを作る。これは婦人でも出来た。長谷川はこの寒村に雇用を造る考えなのだ。
買った土地に柵をめぐらすのに人夫を雇った。雑木を切り払った。佐和子が大釜でメシを炊いて人夫に食わした。長谷川も裸になって働いた。清太郎がミチルと八甲田温泉から帰ってきた。秋田犬の仔犬を三匹フゴに入れて馬に括っていた。
「とうちゃん、名前を考えて」
「は、は、は、ミチルとミチコが考えなさい」
そこへ、オート三輪の独特な音が聞こえた。清太郎と青年たちが新品のクロガネ号を見ていた。
「道、これこうたのか?」
「こうた。こうた」
3
日本内燃機関の社員が説明をした。十八歳の若者に乗り方を教えた。ガソリンの弁を開く~チョークを引っぱる~ペダルをキックする、、北沢という名の若者が目を輝かして興奮していた。
「雪の上を走るときは、こうしてチェーンを巻いて走ります」
「どのくらい荷駄が積めるんや?」
「一トンです」
清太郎が「これがあれば、冬場に道産子で駒込川を渡らんでもええ」と激流に飲まれた花子を想い出していた。あの夜、小学生の道夫が泣いた。――ああ、それでこうたんやな、、
長谷川一家五人が乗ったクロガネ号が村役場へ行った。登録して、駄菓子屋で水飴を買った。八甲田に帰ってから十二日が経った。娘たちは学校が休みなので佐和子を助けていた。
「佐和子、明日朝、青森第五連隊へ行く。そのまま、東京へ帰る」と長谷川が妻に言った。
「道夫さん、あなたは、やっぱり兵隊さんなのね」
「僕は必ずここへ帰って来る。それまで親父とうまくやっておくれ」と言うと佐和子が珍しく涙ぐんだ。
下着~靴下~セーター~干し柿~餅を背嚢に詰めた。長谷川は「拳銃が入ってるから」とトランクを触らせなかった。
翌朝、北沢が運転するクロガネ号に佐和子と娘三人が乗って、八甲田温泉のバス停に送ってきた。バスが時間通りにやってきた。長谷川を乗せたバスが走り去った。
続く
第三章
1
清太郎と道夫が道産子に乗って駒込川に向かっていた。小さな田んぼと畑があった。雷鳥が驚いて飛び出した。「道、何を見たいんかな?」長谷川はそれには答えず、鮎二に会った話をした。
「あれは俺の息子じゃない。陛下に背いたんだ。でもね。嫁と息子には送金しとる。鱒三はどこへ行ったのかね?ときどきカネを送ってくるが」
「朝鮮にいる。一番安全なんだよ」
ふたりが小川の縁で馬を停めた。小川の向こう岸は山林である。
「お父さん。この土地は売り出している。五千坪はある。池もある。レンゲは毎年の春、処せましと咲く」
「買ってもどうしようもないよ」
「僕が戦死しなければ給料で買える。買ってレンゲやタンポポを牛に食わせる。川に水車小屋を建てる。臼を廻して麦を引ける。米よりもパンの時代がくる」
「う~む」
「お父さん、戦争はいずれ終わる。終わると、農地を持つものが強いんだ。支那を見てそう思った」
「それでは道の言うようにしよう。鮎も、鱒も帰ってくるからな」
2
翌朝、親子が駒込の村役場へ行った。売主は喜んだ。長谷川が値切らなかったからだ。これで、長谷川牧場は一万坪になった。
長谷川が雇った十八歳の若者たちと話していた。この青年らも徴兵される、、この先、人を雇うことは不可能だろう、、牧場を電化してドイツ製の自動搾乳器を買う考えだった。ミルクからチーズ~バターを作る。これは婦人でも出来た。長谷川はこの寒村に雇用を造る考えなのだ。
買った土地に柵をめぐらすのに人夫を雇った。雑木を切り払った。佐和子が大釜でメシを炊いて人夫に食わした。長谷川も裸になって働いた。清太郎がミチルと八甲田温泉から帰ってきた。秋田犬の仔犬を三匹フゴに入れて馬に括っていた。
「とうちゃん、名前を考えて」
「は、は、は、ミチルとミチコが考えなさい」
そこへ、オート三輪の独特な音が聞こえた。清太郎と青年たちが新品のクロガネ号を見ていた。
「道、これこうたのか?」
「こうた。こうた」
3
日本内燃機関の社員が説明をした。十八歳の若者に乗り方を教えた。ガソリンの弁を開く~チョークを引っぱる~ペダルをキックする、、北沢という名の若者が目を輝かして興奮していた。
「雪の上を走るときは、こうしてチェーンを巻いて走ります」
「どのくらい荷駄が積めるんや?」
「一トンです」
清太郎が「これがあれば、冬場に道産子で駒込川を渡らんでもええ」と激流に飲まれた花子を想い出していた。あの夜、小学生の道夫が泣いた。――ああ、それでこうたんやな、、
長谷川一家五人が乗ったクロガネ号が村役場へ行った。登録して、駄菓子屋で水飴を買った。八甲田に帰ってから十二日が経った。娘たちは学校が休みなので佐和子を助けていた。
「佐和子、明日朝、青森第五連隊へ行く。そのまま、東京へ帰る」と長谷川が妻に言った。
「道夫さん、あなたは、やっぱり兵隊さんなのね」
「僕は必ずここへ帰って来る。それまで親父とうまくやっておくれ」と言うと佐和子が珍しく涙ぐんだ。
下着~靴下~セーター~干し柿~餅を背嚢に詰めた。長谷川は「拳銃が入ってるから」とトランクを触らせなかった。
翌朝、北沢が運転するクロガネ号に佐和子と娘三人が乗って、八甲田温泉のバス停に送ってきた。バスが時間通りにやってきた。長谷川を乗せたバスが走り去った。
続く
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スペードのエースと呼ばれた男 (中巻) 第一話 |
第一話
第二章
1
ふたりは大阪上本町の駅で別れた。長谷川は上がり東京行き特急に乗った。磯村は下り博多行きに乗った。二月の夜は新月であった。窓の外に見えるのは踏み切りの赤い点滅やカンカンという音だけである。朝の六時に東京駅に着いた。ハイヤーに乗り込んで市ヶ谷の大本営へ向かった。東京は露探のいない街なのだ。長谷川がハルピンの緊張感を失っていた。長谷川が憲兵隊本部の検問所で誰何された。即座に一等憲兵が敬礼をした。玄関で武装解除を受けた。指令官の永田大佐に会った。
「飛鳥君は貴重なひとだった。君と飛鳥君の行動は逐一知らせれている。たいへんご苦労さんです。だが、東京も君を必要としている」
永田が恐るべきことを話した。天皇陛下の命が狙われていると言うのだ。
「大正末期の虎ノ門事件を覚えているか?」
「私は青森の高校生でしたが、体が震えました」
「現在も社会主義者の塾が流行っている」
「自分は甘粕大尉と面会しました。社会主義者は暗殺する必要はありません」
「うむ、俺もそう思っているが、追跡しておいてくれ」と永田が言うと主義者のリストを長谷川に渡した。それほど多くはおらず、一読できる数であった。長谷川が荒川熊蔵、北海道大学近代思想科卒業という名前を見た。他には、尾崎秀実、京都大学大学院法学部卒業生があった。長谷川が飛鳥と上海の杏花楼に泊まった日を想い出した。尾崎が住んでいたホテルである。あのアグネスというアメリカ黒人はその後どうしただろうか?
「大佐殿、この尾崎秀実は近衛内閣の参与ですが?」
「その通り。だが尾崎を追跡すると面白いことが判るよ」
「荒川熊蔵の名前は聞いたか、会った気がするのです」
「こいつは凶悪なのだよ。多分、ロシアの沿海州に住んでいる。すべて、尾崎~ゾルゲ~荒川のルートで日本政府のソ連政策や陸軍でも一枚岩でないことはモスクワに筒抜けだろう」と永田が言った。長谷川は飛鳥がゾルゲは新京へ戻ったら教えるといったことを覚えていた。永田がリヒャルト・ゾルゲというドイツ人の新聞記者のブリーフをくれた。
2
長谷川は市ヶ谷に泊まらず上野駅へ行った。駅前で土産を山ほど買った。そして東北本線青森行き「北斗」に乗った。佐和子には電報で東京に着いたと伝えてあった。暗い冬の夜汽車が北へ走った。窓の外は雪景色である。窓のガラスに赤いスカーフを被ったカレンの幻が映った。カレンの目がうるんでいた。長谷川が未練を振り切るように眼を左右に動かしていた。朝が明けた。窓外に津軽の海が見えた。今年は鰊(にしん)が豊漁だと隣の乗客が言った。
「あなたさまは、軍人さんに見えますが、青森へ行かれるのですか?」
「津軽の人間です」
汽車が青森のプラットホームに滑り込んだ。男たちが騒いでいた。東京に出稼ぎに行って冬の生業を稼いだのだ。一晩中、一升瓶を飲みまわしていた。津軽弁が聞こえた、、
「おちろ。おちろ」降りろという意味なのだ。長谷川が背嚢を背負って、トランクを持って降りた。粉雪が舞っている。陸奥湾から北風が吹いている。あまりもの寒さにトランクを置いて襟を立てた。
八甲田温泉のバス停に佐和子と三人の娘が待っていた。みんな防寒頭巾を被っていて顔が見えなかった。佐和子の顔が濡れていた。涙が、たちまちのうちに、ツララになった。
「あなた三十歳になったのね。とても元気ねえ」と一歳になったミチエを負ぶった佐和子が言った。
「八甲田山が鍛えてくれた脚が助けてくれた」
「雪で今日は温泉宿に泊まるしかないのよ」
「東京で菓子をどっさり買ってきたよ」
「わ~い」とミチルとミチコが長谷川に飛び付いた。長谷川が幸福の頂上に立っていた。
八甲田屋温泉の土間に入った。
「今日はお客さまだけです。あなたは長谷川牧場の道夫さんですね。お父さまが先月来られましたよ。ご馳走を早速作ります。お任せですが」と女将が言った。長谷川がハルピンの切り子ガラスの花瓶をトランクから取り出して女将に上げた。
「まあ、なんて美しい花瓶でしょう」としげしげと見ていた。やがて台所へ消えた。女中さんが十条間を案内してくれた。
「階下でお食事なさるなら布団を敷きますが」
「いいえ、この児たちは恥ずかしがりやなんです。このお部屋で食べられるかしら?」
「それと主人にカラフトマスを焼いていただけませんか?このひと満州帰りなんですよ」
「昨日、駒込川で取れたのが生簀で泳いでいます。見ますか?」
「わ~い」とミチコが喜んだ。見に行くと、一キロ級が数匹泳いでいる。どれも真っ青な色の美しい魚なのだ。長谷川までが子供になっていた。
「二匹焼きましょう」と料理人兼亭主が勢いのいい鱒をタモで掬った。翌朝、旅館の馬車が駒込川の長谷川牧場へ連れて行ってくれた。
3
清太郎と母親が泣いた。清太郎が少し老いている。だが健康一杯なのだ。
「道の話しが聞きたいが、牧場のことで話しがある」
「お父さん。満州の話しは出来ないんだよ」
「お前のおかげで、牧場が大きくなった。だが、チーズとバターを政府が決めた値段で買うので儲からない。大きくした分、苦労が増えたよ」
「お父さん。お母さん、大尉に昇級したので月給が百円になった。七十円を役場で受け取っておくれ」
「金は有り難いがこの日中戦争ちゅうのは、どうなる?」
「日本は間違った方向に進んでいます。大きなバクチなんです」
「う~む」大連港で働いた清太郎には想像がついた。
「お父さん、明日、僕と馬で駒込川の上流へ行かないか?」
「いいけど、なんもあらへん」
「お父さん、そうでもないでしょ?」
佐和子が風呂を沸かして道夫を入れた。着物の裾を端折って兵隊の背中をこすった。
「まあ、大きな背中になってるわ。脚も太いわ。この脚で満州を歩き廻っていたのね」
「うん、葉書はちゃんと着いたの?」
「古いものが先に来たりするのよ」佐和子が夫の陰茎が固くなるのを見た。そして、にっこりと笑った。浴衣に着がえた道夫と佐和子と赤ん坊のミチエが十畳間に寝た。ミチエには赤ちゃん布団が敷いてある。隣部屋にミチルとミチコが同衾であった。この八畳間の壁に三味線が立てかけてある。ふすまを開けた長谷川が微笑んだ。
「あなたミチエが起きるわよ」
「佐和子が僕の妻でよかったと思う」
「どうしてそんなことを言うの?」長谷川は答えず佐和子を抱いた。
「またこどもが増えるわよ」と佐和子が笑った。それを隣部屋のミチルが聞いた、、
続く
第二章
1
ふたりは大阪上本町の駅で別れた。長谷川は上がり東京行き特急に乗った。磯村は下り博多行きに乗った。二月の夜は新月であった。窓の外に見えるのは踏み切りの赤い点滅やカンカンという音だけである。朝の六時に東京駅に着いた。ハイヤーに乗り込んで市ヶ谷の大本営へ向かった。東京は露探のいない街なのだ。長谷川がハルピンの緊張感を失っていた。長谷川が憲兵隊本部の検問所で誰何された。即座に一等憲兵が敬礼をした。玄関で武装解除を受けた。指令官の永田大佐に会った。
「飛鳥君は貴重なひとだった。君と飛鳥君の行動は逐一知らせれている。たいへんご苦労さんです。だが、東京も君を必要としている」
永田が恐るべきことを話した。天皇陛下の命が狙われていると言うのだ。
「大正末期の虎ノ門事件を覚えているか?」
「私は青森の高校生でしたが、体が震えました」
「現在も社会主義者の塾が流行っている」
「自分は甘粕大尉と面会しました。社会主義者は暗殺する必要はありません」
「うむ、俺もそう思っているが、追跡しておいてくれ」と永田が言うと主義者のリストを長谷川に渡した。それほど多くはおらず、一読できる数であった。長谷川が荒川熊蔵、北海道大学近代思想科卒業という名前を見た。他には、尾崎秀実、京都大学大学院法学部卒業生があった。長谷川が飛鳥と上海の杏花楼に泊まった日を想い出した。尾崎が住んでいたホテルである。あのアグネスというアメリカ黒人はその後どうしただろうか?
「大佐殿、この尾崎秀実は近衛内閣の参与ですが?」
「その通り。だが尾崎を追跡すると面白いことが判るよ」
「荒川熊蔵の名前は聞いたか、会った気がするのです」
「こいつは凶悪なのだよ。多分、ロシアの沿海州に住んでいる。すべて、尾崎~ゾルゲ~荒川のルートで日本政府のソ連政策や陸軍でも一枚岩でないことはモスクワに筒抜けだろう」と永田が言った。長谷川は飛鳥がゾルゲは新京へ戻ったら教えるといったことを覚えていた。永田がリヒャルト・ゾルゲというドイツ人の新聞記者のブリーフをくれた。
2
長谷川は市ヶ谷に泊まらず上野駅へ行った。駅前で土産を山ほど買った。そして東北本線青森行き「北斗」に乗った。佐和子には電報で東京に着いたと伝えてあった。暗い冬の夜汽車が北へ走った。窓の外は雪景色である。窓のガラスに赤いスカーフを被ったカレンの幻が映った。カレンの目がうるんでいた。長谷川が未練を振り切るように眼を左右に動かしていた。朝が明けた。窓外に津軽の海が見えた。今年は鰊(にしん)が豊漁だと隣の乗客が言った。
「あなたさまは、軍人さんに見えますが、青森へ行かれるのですか?」
「津軽の人間です」
汽車が青森のプラットホームに滑り込んだ。男たちが騒いでいた。東京に出稼ぎに行って冬の生業を稼いだのだ。一晩中、一升瓶を飲みまわしていた。津軽弁が聞こえた、、
「おちろ。おちろ」降りろという意味なのだ。長谷川が背嚢を背負って、トランクを持って降りた。粉雪が舞っている。陸奥湾から北風が吹いている。あまりもの寒さにトランクを置いて襟を立てた。
八甲田温泉のバス停に佐和子と三人の娘が待っていた。みんな防寒頭巾を被っていて顔が見えなかった。佐和子の顔が濡れていた。涙が、たちまちのうちに、ツララになった。
「あなた三十歳になったのね。とても元気ねえ」と一歳になったミチエを負ぶった佐和子が言った。
「八甲田山が鍛えてくれた脚が助けてくれた」
「雪で今日は温泉宿に泊まるしかないのよ」
「東京で菓子をどっさり買ってきたよ」
「わ~い」とミチルとミチコが長谷川に飛び付いた。長谷川が幸福の頂上に立っていた。
八甲田屋温泉の土間に入った。
「今日はお客さまだけです。あなたは長谷川牧場の道夫さんですね。お父さまが先月来られましたよ。ご馳走を早速作ります。お任せですが」と女将が言った。長谷川がハルピンの切り子ガラスの花瓶をトランクから取り出して女将に上げた。
「まあ、なんて美しい花瓶でしょう」としげしげと見ていた。やがて台所へ消えた。女中さんが十条間を案内してくれた。
「階下でお食事なさるなら布団を敷きますが」
「いいえ、この児たちは恥ずかしがりやなんです。このお部屋で食べられるかしら?」
「それと主人にカラフトマスを焼いていただけませんか?このひと満州帰りなんですよ」
「昨日、駒込川で取れたのが生簀で泳いでいます。見ますか?」
「わ~い」とミチコが喜んだ。見に行くと、一キロ級が数匹泳いでいる。どれも真っ青な色の美しい魚なのだ。長谷川までが子供になっていた。
「二匹焼きましょう」と料理人兼亭主が勢いのいい鱒をタモで掬った。翌朝、旅館の馬車が駒込川の長谷川牧場へ連れて行ってくれた。
3
清太郎と母親が泣いた。清太郎が少し老いている。だが健康一杯なのだ。
「道の話しが聞きたいが、牧場のことで話しがある」
「お父さん。満州の話しは出来ないんだよ」
「お前のおかげで、牧場が大きくなった。だが、チーズとバターを政府が決めた値段で買うので儲からない。大きくした分、苦労が増えたよ」
「お父さん。お母さん、大尉に昇級したので月給が百円になった。七十円を役場で受け取っておくれ」
「金は有り難いがこの日中戦争ちゅうのは、どうなる?」
「日本は間違った方向に進んでいます。大きなバクチなんです」
「う~む」大連港で働いた清太郎には想像がついた。
「お父さん、明日、僕と馬で駒込川の上流へ行かないか?」
「いいけど、なんもあらへん」
「お父さん、そうでもないでしょ?」
佐和子が風呂を沸かして道夫を入れた。着物の裾を端折って兵隊の背中をこすった。
「まあ、大きな背中になってるわ。脚も太いわ。この脚で満州を歩き廻っていたのね」
「うん、葉書はちゃんと着いたの?」
「古いものが先に来たりするのよ」佐和子が夫の陰茎が固くなるのを見た。そして、にっこりと笑った。浴衣に着がえた道夫と佐和子と赤ん坊のミチエが十畳間に寝た。ミチエには赤ちゃん布団が敷いてある。隣部屋にミチルとミチコが同衾であった。この八畳間の壁に三味線が立てかけてある。ふすまを開けた長谷川が微笑んだ。
「あなたミチエが起きるわよ」
「佐和子が僕の妻でよかったと思う」
「どうしてそんなことを言うの?」長谷川は答えず佐和子を抱いた。
「またこどもが増えるわよ」と佐和子が笑った。それを隣部屋のミチルが聞いた、、
続く
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スペードのエースと呼ばれた男(中巻) |
スペードのエースと呼ばれた男(中巻)
*最終編集がまだ終わっていません。
第一話
第一章
1
昭和十四年の三月十日の朝、長谷川道夫と磯村平助が舞鶴海軍飛行基地に着いた。新京から一二八〇キロである。それを三時間半で飛んで来た。ふたりの憲兵士官は、外套に背嚢を背負っていた。舞鶴駅で福鉄に乗り南に下がった。山陰本線に乗り換えて京都に出た。京都を素通りして京阪鉄道で大阪上本町に着いた。
「東京へ行けと命令じゃないのですか?」
「それは参謀本部の基本方針だ。命令は俺が出した。これからも俺からしか命令は出ない」
大阪駅で、ふたりの憲兵は国民服に着替えた。一般人と違うのは肩に担いでいる背嚢である。一般人となったふたりは近鉄大阪線に乗って河内山本で降りた。右側の街は八尾である。プラットホームの向かい側で待っていた信貴線に乗り換えた。たった一両であった。信貴南畑で降りた。寒気は強いが雲ひとつない快晴である。ダムのある湖の向こうに信貴山が見えた。生駒山系の一つである。――日本は水源には事欠かないなと長谷川が自然科学の学者に戻っていた。そして杭州の西湖を想い出していた。
飛鳥の家族と親類が駅に迎えに来ていた。長谷川は飛鳥の妻と息子を見た。陸男が潮吹き蟹に思えた。二人の憲兵と飛鳥の家族を乗せた自動三輪車がドカドカドカと田舎道を走った。長谷川が磯村を見ると、何か幸せそうな顔をしていた。ハンザを取り出して冬景色を撮っていた。
信貴村の長老が大きなしわのある手で長谷川の手を握った。
「正月は終わりなんですが、消防団が餅を突くと言っていますわ」と笑った。大きな藁葺きの農家に着いた。ペッタンコ、ペッタンコ、ハイ、ハイと合いの手を入れる声が聞こえた。赤フンドシとサラシ一枚の若者が杵を振り上げていた。
「私たちは墓参を先に致したいのです」と長谷川が長老に言った。
「陸男、しきびを取って来なさい」と長老が言った。樒(しきみ)を関西では「しきび」という。仏事に欠かせない樹木である。墓地の庭木として植えられ、毒があるために墓から野生動物を遠ざけ墓を守るのに植えられた。
2
水桶~水仙~しきび~線香を持って飛鳥の妻と陸男と四人がオート三輪に乗り込んだ。消防団の青年が運転した。
「この信貴山にはお寺が多いんですよ。仏寺もこの経済じゃたいへんなんです。それで、宿泊客に精進料理を出すお寺が増えました」
「この西浄寺は四キロの距離だけど?」と地図を見ていた長谷川が行った。
「ええ、そうなんですが、山なんです。歩くとたいへんですから」
「そういえば、オート三輪が多いですね」と磯村が会話に加わった。
「木炭ですけどね」と若者が笑った。
「君は徴兵されなかったの?」と長谷川が訊いた。
「はい、聴覚が悪いんで丙種不合格なんですよ」と大声で笑った。
五人が本尊阿弥陀如来を安置する本堂に案内された。長谷川が住職に頭を下げる前に住職が床に手を着いて「お国のためにご苦労さまです」と頭を下げた。西浄寺は飛鳥家の菩提寺なのだ。看板に浄土真宗本願寺派~宿所ありますと書いてあった。阿弥陀如来に向かって一同が正坐した。和尚が木魚を叩いて念仏を唱えた。長谷川が、確か飛鳥少佐は天台坊主だったと言ったはずだがこの浄土真宗は親鸞さまが教祖なのだ。親鸞は肉食妻帯を許したリベラルである。飛鳥も結構リベラルだった。その因縁を知りたかった。
境内へ出ると、磯村が無邪気に写真を撮っていた。
「少尉、寺に興味があるのか?」
「いいえ、ありませんが、この建築は素晴らしいと思います」と言った。
「しばらく逗留したい処だが、明日の夜行で東京へ行く」
「ハ、東京は始めてであります」
「東京には、俺だけが行く。君は福岡に帰りたまえ」と長谷川が磯村を驚かした。
その夜の宴会は盛大だった。お神酒で始った。ふたりは酒のみではなかったが丙種不合格の消防団青年たちと飲んだ。酢に漬けたコノシロ~酢牡蠣~干し柿と和えたナマスで飲んだ。雑煮が出た。長谷川と磯村は飛鳥の書斎を見た。蔵書がぎっしりとならんでいた。ほとんどがインド哲学に関する書物で小止観などと長谷川にはよくわからないものであった。ふたりは飛鳥の寝室に入った。布団が二つならんで敷かれていた。
「大尉殿、あなたにとって、飛鳥少佐は教師であられたのですね?」と磯村平助が言ったが、長谷川は深く頷いただけであった。山寺の鐘が遠くに聞こえた。ふたりは、一日の疲れが出たのか眠りに落ちた。
「朝ご飯です」と陸男が起こしに来た。赤飯~焼き魚~赤だしが出た。
「正午の電車で大阪へ帰ります」
「オート三輪が向かえに来ます」と飛鳥の妻が言った。若くして後家さんである。そして「主人の形見です」と長谷川に飛鳥の襟章と南部拳銃を渡した。陸男が蛇腹の写真機を持っていた。記念写真を撮った。ふたりがオート三輪に乗り込んだ。後家さんが風呂敷包みを磯村に渡した。
大阪本町に午後三時に着いた。
「少尉、夜行まで時間がある。大阪を歩こうか?」
「大尉殿、大阪城を見たいのですが」
「磯村少尉は、すっかり写真屋になってしまった」と長谷川が笑った。
大阪城は修復されたばかりで石垣が見事だった。ふたりが天守閣から大阪の市街を見ていた。磯村が写真に夢中になっていたので長谷川は、その興奮が収まるのを待った。
「磯村君、聞きたまえ」と長谷川が茶園で玉露を飲みながら福岡へ帰ったときの行動を指示した。磯村平助が目を丸くした、、そして、命よりも大事なカメラを落としそうになった。
続く
*最終編集がまだ終わっていません。
第一話
第一章
1
昭和十四年の三月十日の朝、長谷川道夫と磯村平助が舞鶴海軍飛行基地に着いた。新京から一二八〇キロである。それを三時間半で飛んで来た。ふたりの憲兵士官は、外套に背嚢を背負っていた。舞鶴駅で福鉄に乗り南に下がった。山陰本線に乗り換えて京都に出た。京都を素通りして京阪鉄道で大阪上本町に着いた。
「東京へ行けと命令じゃないのですか?」
「それは参謀本部の基本方針だ。命令は俺が出した。これからも俺からしか命令は出ない」
大阪駅で、ふたりの憲兵は国民服に着替えた。一般人と違うのは肩に担いでいる背嚢である。一般人となったふたりは近鉄大阪線に乗って河内山本で降りた。右側の街は八尾である。プラットホームの向かい側で待っていた信貴線に乗り換えた。たった一両であった。信貴南畑で降りた。寒気は強いが雲ひとつない快晴である。ダムのある湖の向こうに信貴山が見えた。生駒山系の一つである。――日本は水源には事欠かないなと長谷川が自然科学の学者に戻っていた。そして杭州の西湖を想い出していた。
飛鳥の家族と親類が駅に迎えに来ていた。長谷川は飛鳥の妻と息子を見た。陸男が潮吹き蟹に思えた。二人の憲兵と飛鳥の家族を乗せた自動三輪車がドカドカドカと田舎道を走った。長谷川が磯村を見ると、何か幸せそうな顔をしていた。ハンザを取り出して冬景色を撮っていた。
信貴村の長老が大きなしわのある手で長谷川の手を握った。
「正月は終わりなんですが、消防団が餅を突くと言っていますわ」と笑った。大きな藁葺きの農家に着いた。ペッタンコ、ペッタンコ、ハイ、ハイと合いの手を入れる声が聞こえた。赤フンドシとサラシ一枚の若者が杵を振り上げていた。
「私たちは墓参を先に致したいのです」と長谷川が長老に言った。
「陸男、しきびを取って来なさい」と長老が言った。樒(しきみ)を関西では「しきび」という。仏事に欠かせない樹木である。墓地の庭木として植えられ、毒があるために墓から野生動物を遠ざけ墓を守るのに植えられた。
2
水桶~水仙~しきび~線香を持って飛鳥の妻と陸男と四人がオート三輪に乗り込んだ。消防団の青年が運転した。
「この信貴山にはお寺が多いんですよ。仏寺もこの経済じゃたいへんなんです。それで、宿泊客に精進料理を出すお寺が増えました」
「この西浄寺は四キロの距離だけど?」と地図を見ていた長谷川が行った。
「ええ、そうなんですが、山なんです。歩くとたいへんですから」
「そういえば、オート三輪が多いですね」と磯村が会話に加わった。
「木炭ですけどね」と若者が笑った。
「君は徴兵されなかったの?」と長谷川が訊いた。
「はい、聴覚が悪いんで丙種不合格なんですよ」と大声で笑った。
五人が本尊阿弥陀如来を安置する本堂に案内された。長谷川が住職に頭を下げる前に住職が床に手を着いて「お国のためにご苦労さまです」と頭を下げた。西浄寺は飛鳥家の菩提寺なのだ。看板に浄土真宗本願寺派~宿所ありますと書いてあった。阿弥陀如来に向かって一同が正坐した。和尚が木魚を叩いて念仏を唱えた。長谷川が、確か飛鳥少佐は天台坊主だったと言ったはずだがこの浄土真宗は親鸞さまが教祖なのだ。親鸞は肉食妻帯を許したリベラルである。飛鳥も結構リベラルだった。その因縁を知りたかった。
境内へ出ると、磯村が無邪気に写真を撮っていた。
「少尉、寺に興味があるのか?」
「いいえ、ありませんが、この建築は素晴らしいと思います」と言った。
「しばらく逗留したい処だが、明日の夜行で東京へ行く」
「ハ、東京は始めてであります」
「東京には、俺だけが行く。君は福岡に帰りたまえ」と長谷川が磯村を驚かした。
その夜の宴会は盛大だった。お神酒で始った。ふたりは酒のみではなかったが丙種不合格の消防団青年たちと飲んだ。酢に漬けたコノシロ~酢牡蠣~干し柿と和えたナマスで飲んだ。雑煮が出た。長谷川と磯村は飛鳥の書斎を見た。蔵書がぎっしりとならんでいた。ほとんどがインド哲学に関する書物で小止観などと長谷川にはよくわからないものであった。ふたりは飛鳥の寝室に入った。布団が二つならんで敷かれていた。
「大尉殿、あなたにとって、飛鳥少佐は教師であられたのですね?」と磯村平助が言ったが、長谷川は深く頷いただけであった。山寺の鐘が遠くに聞こえた。ふたりは、一日の疲れが出たのか眠りに落ちた。
「朝ご飯です」と陸男が起こしに来た。赤飯~焼き魚~赤だしが出た。
「正午の電車で大阪へ帰ります」
「オート三輪が向かえに来ます」と飛鳥の妻が言った。若くして後家さんである。そして「主人の形見です」と長谷川に飛鳥の襟章と南部拳銃を渡した。陸男が蛇腹の写真機を持っていた。記念写真を撮った。ふたりがオート三輪に乗り込んだ。後家さんが風呂敷包みを磯村に渡した。
大阪本町に午後三時に着いた。
「少尉、夜行まで時間がある。大阪を歩こうか?」
「大尉殿、大阪城を見たいのですが」
「磯村少尉は、すっかり写真屋になってしまった」と長谷川が笑った。
大阪城は修復されたばかりで石垣が見事だった。ふたりが天守閣から大阪の市街を見ていた。磯村が写真に夢中になっていたので長谷川は、その興奮が収まるのを待った。
「磯村君、聞きたまえ」と長谷川が茶園で玉露を飲みながら福岡へ帰ったときの行動を指示した。磯村平助が目を丸くした、、そして、命よりも大事なカメラを落としそうになった。
続く
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旅の写真集 |
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旅から帰ってきました |

ボストン空港で車を借りて、北56キロのグロワスターで二泊。グローセスターと呼ばない。グロワスターは、人口2万人の港町。1620年、メイフラワー号がプリマス・ロックについてから正教徒は北へ食べ物を求めて移動。グワスターに入植。よって、この港町も入植は1620年。最もアメリカで古い港町なんです。写真を載せたいけどダウンロードしていない。出来る順に載せてお話しをします。事故なし、病気なし。ただ、この旅は歩いた。80歳となった伊勢にとってチャレンジだった。アメリカンは親切で行動が速く、バスに乗るのにもがいている伊勢を助けてくれた。女性の乗客は席を譲った。妻のクリステインは元気で荷物を担いで、伊勢の腕を支えた。彼女は「とても楽しかった」と言っている。めでたしめでたし。伊勢
06/01 | ![]() |
16人のロビンソン・クルーソー |
第二章
1
六月十日になった。嵐は止むどころか雲が海面に垂れ下がり、みぞれが降って来た。大王丸は三十メートルの波の頂上から空中に浮かんでは、海面に船体を叩きつけた。乗組員は三名の経験者を除いて、激しい船酔いであちらこちらへ反吐を吐いた。
「山形課長、船長は丸山甲子男(32)、航海士は丸山源太郎(40)、機関士は鵜飼玉夫(38)、漁労長は長門鉄次(46)、最年少は大形陸夫(16)、御座洋一(18)、北浜達夫(19)の順であり。あとの九人は兄弟であったり、従兄弟ですね」
「妻帯者は、船長、航海士、機関士、漁労長の四名なんだね?」
海難事故課の課長が船長の丸山甲子男の経歴を読んでいた。戦艦大和の生き残りだったと知って驚いていた。海保がニュージーランドの海軍に消えた大王丸の捜査を依頼した。砕氷船を持っている英国の南極探検隊が承諾した。ニュージーランドは南極の基地に物資を運ぶ貨物機を飛ばした。貨物機は、三〇〇〇海里四方の海域を捜索したが、南極海は荒れており、波高は三十メートルはあった。貨物機は低空で飛んだ。だが、どこにも、大王丸の姿はなかった。
一週間が経った。海保の山形課長が目を瞑った。
「だが、大王丸が音信を絶ったのは、西経一八〇度、南緯は五〇度であった。その海域は嵐に見舞われていた、、波高が三〇メートルと言っていた、、」
「山形課長、大王丸の船足なんですが、向かってくる波では、八ノットが限界だったでしょう。横転したと考えると、姿が見えない理由がそこにあります。沈没しなかったと考えると、南極大陸のどこかへ流れ着いたのかも知れませんね。南半球では南氷洋の北限は、ほぼ南緯 四〇度です。つまり南極は南緯四〇度から始まります」
「でも、海流があるだろう」
「そうです。北半球の反対なんです。海流は右回りになります」
「それなら、西へ流れて行ったのではないのかな?」
「課長、百八十トンの大王丸では途轍もないことです。ボクは、大王丸は南氷洋の海底に沈んだと考えています」
六月十八日の午後三時になった。嵐が止んで雲間に青空が見えた。海面に氷の破片が広がっていた。あるものは大形トラックぐらいのサイズであった。どいうわけなのか靴の形をしていた。航海士のゲンさんが日時計を紙で作って太陽の角度と時間を計算した。
「甲子さん、西経一二〇度、南緯五〇度。わいらは西へ流されておるんや」
「よっしゃ。まっすぐ北へ行こう。ゲンタロ叔父さん、短波のアンテナを直してんか?」
ゲンタロウがリクを連れて煙突の上に上って行った。見ると煙突そのものが半分に折れていて、一部分が中に落ちていた。これが大王丸の速度が出ない原因であった。アンテナのディッシュは根こそぎ消えていた。機関士の玉男と煙突を修理することにした。甲子男が機関を停めるように玉夫に言った。こうして、大王丸は海上に漂っていた。夕闇の中で煙突を溶接した。煙突は修理できたが、短波のディッシュがどうにもならかった。甲子男は機関を始動させて北ヘ進路を立てた。ゲンタロ叔父さんが船首の探照灯を点けた。船長の甲子男が航速を十五ノットに上げた。三菱ジーゼルが力強い音を立てた。だが、真夜中を過ぎたころ、北風が吹き出して波が高くなった。また、ピッチングとローリングに翻弄された。雨が降り出した。みぞれ交じりの小雪に変わった。甲子男は大王丸を八ノットにせざるを得なかった。乗組員が心配した。
「船長、氷山は怖いで」とゲンタロが言うと、甲子男が首を縦に振って、航速を三ノットに落とした。これでは、一か所に停止しことになる。それでも氷山に衝突するよりは良いと考えた。三人の少年がライスカレーを作った。みんな、久しぶりに食欲が出た。
「みんな寝ろ。起きとるのは、ゲンタロ叔父さんと俺だけや」
乗組員たちが波間に上下するマグロはえ縄船の船室で寝た。
「ゲンタロ叔父さんも寝たらどうやな?船は停止したも同じやから俺だけ起きとりゃええ」
甲子男のこの判断は間違っていた。甲子男が朝の四時頃にウトウトと眠ってしまったのである。
「甲子男、起きろ!スターボードを見ろ!」
甲子男が目を覚ますといつの間にかゲンタロ叔父さんが横に来ていた。探照灯の中に氷山がぼんやりと映っていた。戦艦大和ぐらいのサイズなのだ。甲子男が舵輪を左へ回した。左にあった氷山に当たった。大王丸が横転した。ぐっすりと寝ていた乗組員たちがベッドから放り出された。三人の少年がパニックした。漁労長がリクの頬を平手で叩いた。
「救命具を着けろ!」と航海長が伝声管に向かって怒鳴った。だが、大王丸は荒れる海面に横にはなったが、沈まなかった。横になった左舷に、甲子男、ゲンタロ航海士、玉夫機関士と乗組員たちが立っていた。辺りが明るくなり初めていた。大王丸は氷海の中にいた。気温がグングンと下がって行った。
「みんな、船室を改良しろ!」
「甲子ちゃん、ジーゼル機関は起こせへんで。そやけど、救命ボートの発動機二基で発電できるかも知らん」
これはうまく行った。電灯を点けて船室を温めることができた。料理用のプロパンガスは使えた。食料は心配なかった。牛肉、豚肉、鳥肉は氷点下で凍っていた。
「ゲンタロ叔父さん、運命を天に任せるしか手はないなあ。これでは、大和と同じや」
「甲子ちゃん、失望したらいかん」
「叔父さん、このままやと、南極へ着くで。それも南極の北西部やな」
乗組員は楽天家が多い。誰も悲観しなかった。鉱石ラジオを持っている者がほとんどだった。演歌を聞いたり、落語、漫才、広沢虎蔵の浪花節を聞いた。
「船長、海保がイギリスの南極砕氷船に俺たちを見つけてくれと頼んだらしい」
八月七日、遠くに飛行機の爆音が聞こえたが、機影は見えず、東へ飛び去った。八月三十日になった。六月十九日に、大王丸が氷山に衝突してから七十日が経っていた。
「叔父さん、イギリスの砕氷船がニュージ―ランドヘ帰ったらしいで。これで、俺たちは漂流船の行くがままとなったんや」
「ま、呑気に行こうか」
「みんなで、好き焼きを作って、酒を飲もう」
八月十日になった。ゲンタロ叔父さんが紙で作った分度器機を睨んでいた。ここ数日は曇天だったが、みぞれもなく、波浪も静かだった。
「甲子ちゃん、西経は三五度、南緯は四〇度に近いでえ。すると横倒しになってから五〇〇〇キロは西へ来とるね」
ゲンタロ航海士が地図を広げた。漁労長と機関士が覗いていた。ゲンタロがある地点に丸を描いた。
「ええ~?ケイプタウンの南におるんやな。そのサソリのような岬はなんなんや?」
「ラーセン棚氷ちゅうんや。陸地の岸にできた氷の縁側なんや」
「ほなら、わいらは南極ヘ来とるんか?」
「漁労長、その通りや。二、三日で南極が見えるやろ」
2
八月十五日の朝が来た。お盆である。
「叔父さん、南極が見えた」と甲子男がゲンタロに双眼鏡を渡した。双眼鏡に高く険しい山脈が映った。夕刻にラーセンに着いた。全員が荷物を持って氷上に立った。クルーはテントを張った。船内ヘ戻って、米、味噌、醤油、牛肉、マグロなどと毛布、飯台、ベンチ、鍋、釜、プロパンガスを持って来た。久しぶりに真っすぐ背筋を伸ばすことができた。
翌朝、リクが小便にテントを出ると、ペンギンが並んで見ていた。みんな、起きて来て小便をした。朝飯に豚汁を作った。ゲンタロが指揮して救命ボート二隻を持ってきた。気温はマイナス二度だった。
「叔父さん、ボートをどうするんや?」
「運搬用のソリを作るんさ。岸まで三十キロはある。そうやな、食い物やが、持てるだけ持って来い」
ソリに、肉類、マグロ、冷凍の牛乳、乾燥野菜、米、プロパンガス二十本、木箱などを積んだ。燃料にするためである。小型トラック二台分に当たった。その夜は早く寝た。朝起きると雪が降っていた。甲子男がひとり大王丸に戻って短波ラジオと電池を数箱持ってきた。八月十六日の夕刻に岩山の麓でテントを張った。夜はマイナス十四度まで下がった。雪が降る夜は比較的に暖かく感じた。ゲンタロが岩山に「ゲンタロ山」と名を着けた。
十六人がファミリーになっていた。戦前、鳥羽水産高校を出て呉海兵団で航海士となったゲンタロを酋長にした。南極の動物は、セイウチ、シャチ、アザラシ、白鷲である。食えるのは、アザラシだけだった。リクたちが、氷に穴を掘って釣り糸を垂らしたが魚はいなかった。一番、日当たりが言い場所に移動した。
二週間が経った。
「玉夫さん、これいかんな」と甲子男が自作のアンテナを試して言った。
「甲子ちゃん、増幅器がないとあかんのや」
甲子男が短波ラジオを断念した。
大王丸の一家が探検を楽しんだ。だが、ついに十月になった。南極に春が来たのである。リクたち少年が湖を見つけた。そしてリクが戻って来た。
「ゲンタロ叔父さん、湖底に森があるでえ」
みんなが驚いて見に行った。湖底に針葉樹の森が鬱蒼と茂っていた。毬藻のような藻が生えていた。ゲンタロが教師になって南極の大自然を解説した。
ついに、正月が来た。青年たちが残りの米を餅にした。スキ焼、漬物、、鯵の干物、、日本酒を鍋で沸かして祝った。食料が尽きる一歩手前であった。みんな、アザラシを食えばいいと思うようになっていた。甲子男が毛布に包まって寝転がると通信機入門を読んでいた。甲子男がガバッと起きて玉夫の肩を叩いた。
「玉夫さん、これ読んでみいな。無線の簡単なのができると書いてある。モールス信号やけど」
みんなが集まって来た。一日で無線機が完成した。電線でアンテナを作った。夕飯も作らず、全員が注目していた。通信を習った酋長のゲンタロがキイをカタカタと打った。返事はなかった。二時間、なんども繰り返したが返事はなかった。飯を作ってヤケ酒を飲んだ。
「もう寝よう」と漁労長が悲しい声を出した。そのとき、電鍵が動いた。ゲンタロがガバッと起きて無線機の前に座った。五分ほどで電鍵が停まった。
「おい、甲子ちゃん、南アフリカのケープタウンからやで」
「何を言うて来たん?」
「位置を知らせよと言うって来た」
酋長の話しに、クルーも、甲子男も踊り上がった。ゲンタロが位置を知らせた。二分後、また電鍵が鳴った。
――明日の正午、北の空を見よ。南アフリカ海軍の貨物機が見えるか、爆音が聞こえるはずだ。病人はいないのか?
――全員、十六名は元気である。貴国の親切を忘れることはない。
「おい、リク、コーヒーを沸かせ!三十分で飲酒を禁じる」と甲子男が船長に戻っていた。
去年の正月、気仙沼の港を出てから一年近くが経っていた。快晴である。午前十一時、親方がベンチを壊して作った薪に火を着けた。十六人が北の空を見ていた。爆音が聞こえた。双発の軍用機だ。十六人が千切れるばかりに手を振った。軍用機が頭の上を一周すると楽々と着陸した。胴体のドアを開けてパイロットが二人降りた。十六人が駆けだして行った。
「ハロー、ロビンソン・クルーソー』
大王丸の一六人を乗せたアブロアンソンが雪原を離陸した。水平飛行に入ると、副操縦士が紅茶のポットとビスケットを持ってきた。ケープタウンまで六千九百キロで、十六時間だと言った。紅茶を一口飲んだゲンタロの頬を涙が流れて膝の上に落ちた。
完
みなさん、短編の冒険小説を書いてみた。面白かった?明日、早朝にニューオーリンズ空港からワシントン~ボストンへ飛びます。ラップトップを持っていかないので、5日間、休刊しますね。伊勢
1
六月十日になった。嵐は止むどころか雲が海面に垂れ下がり、みぞれが降って来た。大王丸は三十メートルの波の頂上から空中に浮かんでは、海面に船体を叩きつけた。乗組員は三名の経験者を除いて、激しい船酔いであちらこちらへ反吐を吐いた。
「山形課長、船長は丸山甲子男(32)、航海士は丸山源太郎(40)、機関士は鵜飼玉夫(38)、漁労長は長門鉄次(46)、最年少は大形陸夫(16)、御座洋一(18)、北浜達夫(19)の順であり。あとの九人は兄弟であったり、従兄弟ですね」
「妻帯者は、船長、航海士、機関士、漁労長の四名なんだね?」
海難事故課の課長が船長の丸山甲子男の経歴を読んでいた。戦艦大和の生き残りだったと知って驚いていた。海保がニュージーランドの海軍に消えた大王丸の捜査を依頼した。砕氷船を持っている英国の南極探検隊が承諾した。ニュージーランドは南極の基地に物資を運ぶ貨物機を飛ばした。貨物機は、三〇〇〇海里四方の海域を捜索したが、南極海は荒れており、波高は三十メートルはあった。貨物機は低空で飛んだ。だが、どこにも、大王丸の姿はなかった。
一週間が経った。海保の山形課長が目を瞑った。
「だが、大王丸が音信を絶ったのは、西経一八〇度、南緯は五〇度であった。その海域は嵐に見舞われていた、、波高が三〇メートルと言っていた、、」
「山形課長、大王丸の船足なんですが、向かってくる波では、八ノットが限界だったでしょう。横転したと考えると、姿が見えない理由がそこにあります。沈没しなかったと考えると、南極大陸のどこかへ流れ着いたのかも知れませんね。南半球では南氷洋の北限は、ほぼ南緯 四〇度です。つまり南極は南緯四〇度から始まります」
「でも、海流があるだろう」
「そうです。北半球の反対なんです。海流は右回りになります」
「それなら、西へ流れて行ったのではないのかな?」
「課長、百八十トンの大王丸では途轍もないことです。ボクは、大王丸は南氷洋の海底に沈んだと考えています」
六月十八日の午後三時になった。嵐が止んで雲間に青空が見えた。海面に氷の破片が広がっていた。あるものは大形トラックぐらいのサイズであった。どいうわけなのか靴の形をしていた。航海士のゲンさんが日時計を紙で作って太陽の角度と時間を計算した。
「甲子さん、西経一二〇度、南緯五〇度。わいらは西へ流されておるんや」
「よっしゃ。まっすぐ北へ行こう。ゲンタロ叔父さん、短波のアンテナを直してんか?」
ゲンタロウがリクを連れて煙突の上に上って行った。見ると煙突そのものが半分に折れていて、一部分が中に落ちていた。これが大王丸の速度が出ない原因であった。アンテナのディッシュは根こそぎ消えていた。機関士の玉男と煙突を修理することにした。甲子男が機関を停めるように玉夫に言った。こうして、大王丸は海上に漂っていた。夕闇の中で煙突を溶接した。煙突は修理できたが、短波のディッシュがどうにもならかった。甲子男は機関を始動させて北ヘ進路を立てた。ゲンタロ叔父さんが船首の探照灯を点けた。船長の甲子男が航速を十五ノットに上げた。三菱ジーゼルが力強い音を立てた。だが、真夜中を過ぎたころ、北風が吹き出して波が高くなった。また、ピッチングとローリングに翻弄された。雨が降り出した。みぞれ交じりの小雪に変わった。甲子男は大王丸を八ノットにせざるを得なかった。乗組員が心配した。
「船長、氷山は怖いで」とゲンタロが言うと、甲子男が首を縦に振って、航速を三ノットに落とした。これでは、一か所に停止しことになる。それでも氷山に衝突するよりは良いと考えた。三人の少年がライスカレーを作った。みんな、久しぶりに食欲が出た。
「みんな寝ろ。起きとるのは、ゲンタロ叔父さんと俺だけや」
乗組員たちが波間に上下するマグロはえ縄船の船室で寝た。
「ゲンタロ叔父さんも寝たらどうやな?船は停止したも同じやから俺だけ起きとりゃええ」
甲子男のこの判断は間違っていた。甲子男が朝の四時頃にウトウトと眠ってしまったのである。
「甲子男、起きろ!スターボードを見ろ!」
甲子男が目を覚ますといつの間にかゲンタロ叔父さんが横に来ていた。探照灯の中に氷山がぼんやりと映っていた。戦艦大和ぐらいのサイズなのだ。甲子男が舵輪を左へ回した。左にあった氷山に当たった。大王丸が横転した。ぐっすりと寝ていた乗組員たちがベッドから放り出された。三人の少年がパニックした。漁労長がリクの頬を平手で叩いた。
「救命具を着けろ!」と航海長が伝声管に向かって怒鳴った。だが、大王丸は荒れる海面に横にはなったが、沈まなかった。横になった左舷に、甲子男、ゲンタロ航海士、玉夫機関士と乗組員たちが立っていた。辺りが明るくなり初めていた。大王丸は氷海の中にいた。気温がグングンと下がって行った。
「みんな、船室を改良しろ!」
「甲子ちゃん、ジーゼル機関は起こせへんで。そやけど、救命ボートの発動機二基で発電できるかも知らん」
これはうまく行った。電灯を点けて船室を温めることができた。料理用のプロパンガスは使えた。食料は心配なかった。牛肉、豚肉、鳥肉は氷点下で凍っていた。
「ゲンタロ叔父さん、運命を天に任せるしか手はないなあ。これでは、大和と同じや」
「甲子ちゃん、失望したらいかん」
「叔父さん、このままやと、南極へ着くで。それも南極の北西部やな」
乗組員は楽天家が多い。誰も悲観しなかった。鉱石ラジオを持っている者がほとんどだった。演歌を聞いたり、落語、漫才、広沢虎蔵の浪花節を聞いた。
「船長、海保がイギリスの南極砕氷船に俺たちを見つけてくれと頼んだらしい」
八月七日、遠くに飛行機の爆音が聞こえたが、機影は見えず、東へ飛び去った。八月三十日になった。六月十九日に、大王丸が氷山に衝突してから七十日が経っていた。
「叔父さん、イギリスの砕氷船がニュージ―ランドヘ帰ったらしいで。これで、俺たちは漂流船の行くがままとなったんや」
「ま、呑気に行こうか」
「みんなで、好き焼きを作って、酒を飲もう」
八月十日になった。ゲンタロ叔父さんが紙で作った分度器機を睨んでいた。ここ数日は曇天だったが、みぞれもなく、波浪も静かだった。
「甲子ちゃん、西経は三五度、南緯は四〇度に近いでえ。すると横倒しになってから五〇〇〇キロは西へ来とるね」
ゲンタロ航海士が地図を広げた。漁労長と機関士が覗いていた。ゲンタロがある地点に丸を描いた。
「ええ~?ケイプタウンの南におるんやな。そのサソリのような岬はなんなんや?」
「ラーセン棚氷ちゅうんや。陸地の岸にできた氷の縁側なんや」
「ほなら、わいらは南極ヘ来とるんか?」
「漁労長、その通りや。二、三日で南極が見えるやろ」
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八月十五日の朝が来た。お盆である。
「叔父さん、南極が見えた」と甲子男がゲンタロに双眼鏡を渡した。双眼鏡に高く険しい山脈が映った。夕刻にラーセンに着いた。全員が荷物を持って氷上に立った。クルーはテントを張った。船内ヘ戻って、米、味噌、醤油、牛肉、マグロなどと毛布、飯台、ベンチ、鍋、釜、プロパンガスを持って来た。久しぶりに真っすぐ背筋を伸ばすことができた。
翌朝、リクが小便にテントを出ると、ペンギンが並んで見ていた。みんな、起きて来て小便をした。朝飯に豚汁を作った。ゲンタロが指揮して救命ボート二隻を持ってきた。気温はマイナス二度だった。
「叔父さん、ボートをどうするんや?」
「運搬用のソリを作るんさ。岸まで三十キロはある。そうやな、食い物やが、持てるだけ持って来い」
ソリに、肉類、マグロ、冷凍の牛乳、乾燥野菜、米、プロパンガス二十本、木箱などを積んだ。燃料にするためである。小型トラック二台分に当たった。その夜は早く寝た。朝起きると雪が降っていた。甲子男がひとり大王丸に戻って短波ラジオと電池を数箱持ってきた。八月十六日の夕刻に岩山の麓でテントを張った。夜はマイナス十四度まで下がった。雪が降る夜は比較的に暖かく感じた。ゲンタロが岩山に「ゲンタロ山」と名を着けた。
十六人がファミリーになっていた。戦前、鳥羽水産高校を出て呉海兵団で航海士となったゲンタロを酋長にした。南極の動物は、セイウチ、シャチ、アザラシ、白鷲である。食えるのは、アザラシだけだった。リクたちが、氷に穴を掘って釣り糸を垂らしたが魚はいなかった。一番、日当たりが言い場所に移動した。
二週間が経った。
「玉夫さん、これいかんな」と甲子男が自作のアンテナを試して言った。
「甲子ちゃん、増幅器がないとあかんのや」
甲子男が短波ラジオを断念した。
大王丸の一家が探検を楽しんだ。だが、ついに十月になった。南極に春が来たのである。リクたち少年が湖を見つけた。そしてリクが戻って来た。
「ゲンタロ叔父さん、湖底に森があるでえ」
みんなが驚いて見に行った。湖底に針葉樹の森が鬱蒼と茂っていた。毬藻のような藻が生えていた。ゲンタロが教師になって南極の大自然を解説した。
ついに、正月が来た。青年たちが残りの米を餅にした。スキ焼、漬物、、鯵の干物、、日本酒を鍋で沸かして祝った。食料が尽きる一歩手前であった。みんな、アザラシを食えばいいと思うようになっていた。甲子男が毛布に包まって寝転がると通信機入門を読んでいた。甲子男がガバッと起きて玉夫の肩を叩いた。
「玉夫さん、これ読んでみいな。無線の簡単なのができると書いてある。モールス信号やけど」
みんなが集まって来た。一日で無線機が完成した。電線でアンテナを作った。夕飯も作らず、全員が注目していた。通信を習った酋長のゲンタロがキイをカタカタと打った。返事はなかった。二時間、なんども繰り返したが返事はなかった。飯を作ってヤケ酒を飲んだ。
「もう寝よう」と漁労長が悲しい声を出した。そのとき、電鍵が動いた。ゲンタロがガバッと起きて無線機の前に座った。五分ほどで電鍵が停まった。
「おい、甲子ちゃん、南アフリカのケープタウンからやで」
「何を言うて来たん?」
「位置を知らせよと言うって来た」
酋長の話しに、クルーも、甲子男も踊り上がった。ゲンタロが位置を知らせた。二分後、また電鍵が鳴った。
――明日の正午、北の空を見よ。南アフリカ海軍の貨物機が見えるか、爆音が聞こえるはずだ。病人はいないのか?
――全員、十六名は元気である。貴国の親切を忘れることはない。
「おい、リク、コーヒーを沸かせ!三十分で飲酒を禁じる」と甲子男が船長に戻っていた。
去年の正月、気仙沼の港を出てから一年近くが経っていた。快晴である。午前十一時、親方がベンチを壊して作った薪に火を着けた。十六人が北の空を見ていた。爆音が聞こえた。双発の軍用機だ。十六人が千切れるばかりに手を振った。軍用機が頭の上を一周すると楽々と着陸した。胴体のドアを開けてパイロットが二人降りた。十六人が駆けだして行った。
「ハロー、ロビンソン・クルーソー』
大王丸の一六人を乗せたアブロアンソンが雪原を離陸した。水平飛行に入ると、副操縦士が紅茶のポットとビスケットを持ってきた。ケープタウンまで六千九百キロで、十六時間だと言った。紅茶を一口飲んだゲンタロの頬を涙が流れて膝の上に落ちた。
完
みなさん、短編の冒険小説を書いてみた。面白かった?明日、早朝にニューオーリンズ空港からワシントン~ボストンへ飛びます。ラップトップを持っていかないので、5日間、休刊しますね。伊勢