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管理人は、アメリカ南部・ルイジアナ住人、伊勢平次郎(81)です。
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07/31
赤とんぼ
第十章

昭和十九年の八月の上旬、次郎柿が固い実を着けた。みつおたちが予科練に入隊してから一年が経っていた。南国に赤いダリアが咲いた。そんなある日、日本海軍飛行教育隊付け、黒岩少尉が霞ケ浦から佐賀空にやってきた。

「黒岩少尉殿は言わずとも日本一のエースである。エースの撃墜録を教科書でよく読んでおけ」と教官が三百名の練習生に言った。

佐賀空の誰もが撃墜王、黒岩哲夫を胸に描いていた。予科練教育隊は日本のエースを空中戦の引き合いに出していたからである。撃墜王は思っていたよりも気軽な人だった。村役場の事務員に見えた。長髪がその優しい眼や口元に合っていた。

「俺が天下のゼロ戦虎徹だ」と黒岩が開口一番、戯れた。これが最前列に座っていたドモショウの緊張を解いた。

「真珠湾攻撃後の昭和十七年一月二三日 から 二月の期間、パプアニューニア沖のニューブリテン島にあるオーストラリア軍基地を叩く作戦が始まった。これは近未来に米国艦隊や米陸軍がオーストラリア委任統治領のガダルカナル島などに基地を作ると考えたからである。その作戦は大成功した。第一次ソロモン海戦は日本の勝利であった。山本五十六元帥はここまでご健在であられたが昨年、昭和十八年にブーゲンビル島で戦死された。実に痛恨の至りである。やはりアメリカはニューギニアに空母艦隊を送った。第二次、第三次とアメリカが勝ったのだ。きさまらは実戦には未熟だ。まず、敵艦のシルエットを覚えることをして貰う」と壁に貼ってある米国艦隊のシルエットを指さした。黒岩が体格の優れたドモショウに気が着いた。

「そこの飛行兵、この航空母艦は何かね?」
「フ、フ、フ、フランクリンであります」

黒岩がどもった若者に驚いたが、同期の桜にもそう言えば、どもる少年がいたと想いだした。

「偵察中には図面を広げている暇がないのだ」と黒岩が偵察機練習生九六名に偵察、索敵、哨戒の要領を教えた。
「哨戒はだいたい敵地哨戒になる。偵察も索敵も同じだ」

写真技師が投射機を持ってきた。

「これがラバウルにおける空中戦だ。よく見ろ」

九六名の偵察機隊員が息を飲んだ。機体と翼が斑(まだら)に塗られていた。胴体と翼に日の丸の付いた日本機が雲の上を飛んでいた。三菱 A6M零式艦上戦闘機21 型の編隊であった。

「昭和一八年十一月十日の夜明けに俺たち一六機は館山基地を出発して、トラック島に向かった。三八〇〇キロである。一晩、泊まり、翌朝、ニューブリテン島のラバウル基地に向かった。一二〇〇キロ、約三時間の飛行である。見渡す限り海だけだ。この飛行は安全ではなかった。なにしろ戦闘経験のあるのは俺だけだったからね。ラバウルではここ一週間、〇八〇〇から一〇〇〇の間、米空軍の爆撃を受けていた。これを俺たちは定期便と呼んでいた」

空中戦には向かない偵察隊が緊張した。偵察機でも機銃掃射は可能であるが、あくまでも守りの為なのである。日本のエース黒岩少尉の解説は正確でよどみがなかった。椰子の木の密林を切り開いたラバウル航空隊基地が映った。現在の基地である。噴煙を上げる花吹山が見えた。夥しい数の戦闘機が並んでいた。講習生が再び息を飲んだ。

「まず、きさまらが知っておくことがある。中国戦線でデビューした零戦だが、太平洋戦争で戦況が日本不利になるにつけ修理も改善もままならず老朽化して行った。米軍は日本本土から助っ人が着いたことを知って夜間爆撃に切り替えた。日本軍も夜間爆撃機月光を投入した。おかげで定期便は時々しか来なくなった」 と黒岩が一呼吸置いた。

「到着した夜、飯を食って寝ようとすると敵のB25爆撃機二〇機が襲ってきた。われわれは椰子の密林に逃げたが、滑走路に二〇〇キロ爆弾が穴を空けた。敵機がゆうゆうと飛び去った後、地上兵がスコップで穴を埋めて元に戻した。翌朝の六時、あたりが明るくなる時間にわが編隊はラバウル基地を離陸してブーゲンビル島のトロキナに向かった。歴戦の勇者、磯田二飛曹の率いる零21型一六機と偵察機彩雲一機である。昨夜、米陸軍の空軍基地トロキナに戻った爆撃隊に報復するわけだ。我々の編隊は高度五〇〇〇を取って、飛行速度三〇〇キロメートルである。きさまらは、ゼロ戦が最高速度五五〇キロ出ることをすでに知っているだろう。先頭を飛んでおるのが俺だ。最後尾を飛んでいる二機が戦闘訓練を終えたばかりの実習生である。きさまらよりも四期上の飛行兵である」

空中戦を撮ったのは偵察機と磯田機であった。磯田機には、エルモ16ミリ撮影機が左の翼の端に固定されていた。

「ラバウルから東隣りのブーゲンビル島までは一時間である。林立する入道雲の切れ目から黒点が見えた。我々は高度四〇〇〇メートルを飛んで行った。カーチスSB2C八機が見えた。やつらも俺たちが早朝に襲撃すると待っていた。俺はシメタと思った。なぜなら、カーチスSB2Cは劣等極まる戦闘機だからだ。米軍はこれを大量生産したので、零戦の餌食となった。零戦が撃墜した最も多い機種なのだ」と言った黒岩がコップの水をごくりと飲んだ。

「俺は、磯崎二飛曹に雲の中、五〇〇〇メートルを飛べと電信を入れた。それは、新たにグラマンF4Fの中隊八機が見えたからだ。F4Fは最新の戦闘機でゼロ戦の能力を上回っている。F4Fは、十二・七ミリ機銃を前部に備えている手怖い相手である。わが方の零戦21の機銃は七・七ミリである」

佐賀空の教官が予科練習生によく見せた絵図を黒板に貼った。

「俺は単独で雲を出ると急降下してSB2C一機を五〇メートルの距離から機銃で葬った。もう一機が下方に逃げた。撃っても当たらない。それでも、しつこく追い回して機銃を浴びせた。そのSB2Cが密林に落ちて炎上した。この日の成果は、わが本体は、p40、p38、F4Fの合計、十三機を撃墜、八機不確実」

「わが別動隊は、p40.p39の四機を撃墜。俺の中隊はp40とp39の四機撃墜、一機不確実。p38を六機、SB2Cを二六機撃墜。四機不確実。総計、撃墜は五二機であり、不確実が一七機である。この日の俺の撃墜はp39二機、p38二機、SB2C三機の七機であった。初めての空中戦がほとんどの者で構成された部隊としては大いなる戦果であった」

大きな拍手が起こった。

「だが、昭和十九年になると、敵機の数が一五〇機から二〇〇機に増えた。襲来の回数も増えた。わが戦闘隊は邀撃と追撃に一日中飛び回った。燃料補給の時だけ着陸するが滑走路に大きな穴が空いていて地上員の振る白旗や、夜ならカンテラか蛍光塗料を塗った棒を目印に着陸した。自慢話はこのへんでやめておく。最前線に出て行く者は決して楽観してはならない。悲観もならない」

続く、、

07/30
赤とんぼ
第七章

日曜日になった。休暇が与えられた。みつおが松山の碁将棋会所に行くために市バスに乗った。プロと一戦やってみる考えだった。玄関で靴を脱ぎ窓口で三円を賞金として払った。みつおは一〇〇手であっさり負けた。月給の半分を失った。靴を履いて棋会所を出た。下町には、かき氷屋があった。店に入って、餡蜜を頼んだ。汗が乾いて気分爽快である。負けたことも三円も忘れた。勘定を払って外に出た。バス停へ向かって歩いた。すると三人の男が立ちはだかった。男たちは麻の背広を着ていたが帽子は上等兵のものである。みつおが走り出した。だがすぐに追いつかれて倒れた。ひとりの男がみつおの横腹を蹴った。みつおが呻いて目を瞑った、、バタバタと走ってくる足音が聞こえた。みると、ドモショウとどこかで見た細面の特丙飛がこん棒を振り回していた。ふたりも下町へきていたのだ。

事件を聞いた田代校長が頭から湯気が出るほど激怒した。

――二手差しで恥を搔いた上にリンチだと?

「キサマらヤクザか?三か月休暇なし」と下士官三人に命じた。田代は同じ体験を持っていた。年上の棋士を負かして初段になったときのことである。地方新聞の夕刊に天才少年棋士誕生と記事になった。十年経っても初段になれない先輩の嫉妬を買ったのである。鼻を殴られて路上に転倒したあの悔しさが海軍飛行隊の校長になった今でも残っていた。

みつおは広島空での初戦で勝った。小牧空、土浦空と勝ち進み霞が関に着いた。そこで一回戦で負けたのである。それでも、ファイナリストの飾りを貰って帰った。飾りは、大理石を削った阪田三吉の胸像であった。明治のおわり、字の読み書きができない阪田三吉が名人を破り王将に上り詰めたのである。

田代がみつおと練兵場の檀上に立っていた。みつおが田代に胸像を渡して敬礼をした。松山空の九〇〇名の飛行士が手を叩いた。

「松山予科練、万歳、万歳、万歳」と叫んだ。そして誰からでもなく歌いだした。

――若い血潮の予科練の、七つ釦は桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ、でっかい希望の雲が湧く、、

第八章

ともかく赤とんぼの練習が終わった。練習生は、複座式零戦闘機、複座式九八式偵察機、複座式銀河急降下爆撃機の三組に分けられた。みつおとドモショウに、一九三九年、陸軍省が開発した九八式偵察機キ36が与えられた。ドモショウが、小型の偵察機を見てがっかりした顔をした。

「おい、ドモショウ、偵察機ほど大事なものはない。九八式は立川が作った小型の偵察機だが操縦性も低速安定性もよく、エンジン故障少なく整備も容易なのだ。最大速度は速くはないが時速三百五十キロ出る。七・七ミリ機関銃二機を備えている。だが偵察機はよく帰還しないのだ。理由は速度に優位なグラマンに襲われるからだ」と教官が言った。

「日本帝国海軍四等航空兵を命ス」と田代校長が言った。飛行学科、実飛訓練、機銃の扱い方を習った予科練習生たちが飛行兵になった。

昭和十九年の二月、高松に梅の花が咲くころ、みつおとドモショウが佐賀空に送られた。鹿児島湾の知覧のほうが偵察機に向いていたが、海岸に近く狭かったのである。海岸に近い航空基地は米軍の空襲を頻繁に受けていた。海軍は貴重な偵察隊を内陸部の佐賀空に置いた。僚機は、彗星、彩雲、景雲、九八式偵察機キ36の四六機である。偵察飛行兵は九六名と小規模なものであった。訓練時間は赤とんぼと合わせて一〇〇時間足らずであった。飛行時間が短い理由は航空燃料が不足していたからである。

昭和十九年の六月になった。みつおが空を仰ぐとどんよりと曇っていた。佐賀空の偵察飛行練習生九六名が大隅半島の鹿児島県鹿屋海軍航空隊基地の滑走路に次々と着陸していた。鹿屋は鹿児島湾の東で知覧は西側にある。みつおとドモショウが噴煙をモクモクと上げている桜島の上空を飛んだ。

その日、初めて実戦経験のある戦闘機隊員と話しをした。教室で空中写真を見た。雲の中からスマートな日本機が急降下して敵艦に爆弾を落とすのを見た。雷撃を敢行した日本機が上昇に転じた瞬間に対空機関砲の二〇ミリ弾を雨霰と浴びせられて海面に落ちて行くのを見た。だが雷撃を受けた敵の空母が黒煙を上げて炎上するのを見た。

伊藤と名乗った攻撃隊中尉は四十歳前に見えた。

「これが第二次ソロモン海戦である。昭和十七年八月二三日から二十四日の二日間にソロモン海で行われた日本海軍とアメリカ海軍との間で行われた海戦である。アメリカ軍の勝利により日本軍増援部隊は阻止され、ガダルカナルの戦いはアメリカ軍優勢となった」と中尉が語った。だがその声には落ち着きがあった。
  
「み、み、みっちゃん、う、う、撃ち落されたのは九九式艦爆やな」とドモショウが言った。
「向こうに見える島がガダルカナルかな?」
「その通りだ。日本軍の被害は小さくない。空母龍驤一隻沈没、艦載機二五機損失、駆逐艦一隻沈没、、アメリカ軍の被害も小さくはないだろう。この敗因は偵察機の誤算とされる。だから、きさまらの偵察に全てがかかっているのである」と伊藤中尉がみつおの目を突き刺すように見た。みつおが震えた。

「電探はレーダーのことだが日本は米軍に遅れている。通信は電信だが、基地の電信兵の訓練が足りない。無線電話は一〇〇キロを超えると使えない。このような条件の下でも偵察機が索敵してその位置と天候を詳細に知らせることが重要なのである。航空母艦は言わずと知れた海上に浮かぶ航空基地である。偵察機を発見すれば一斉に艦載機が飛び立つ。つまり航空母艦攻撃はギャンブルなのである。鹿児島空の飛行兵のほとんどは、第一航空艦隊である。軍令部参謀源田実中佐の構想は南太平洋の島々を空母の代わりとする陸上攻撃隊なのである。第一航空隊五三四機を三部隊に分けて一六〇〇機を投入し、飛行時間三〇〇〇時間以上の歴戦有能な者を当てた。熟練者を南方方面に回したいため、後方は練習航空機隊教程終了程度の新人をあてた。訓練期間は一年である。軍令部直属として消耗戦に巻き込まれないようにする考えであった」

「考えであった」という部分にドモショウの心臓の鼓動が速くなった。
「み、み、みっちゃん、そ、そ、その一六〇〇機は、ど、ど、どうなったんやろ?」
「わからんけど、飛行時間二〇〇時間未満のボクたちを投入する考えには間違いないやろ」

ふたりに中島 C6N彩雲が与えられた。彩雲は三座式艦上偵察機なのだが、航空母艦を失った海軍の運用が変わり、重量を軽くして陸上偵察機に改造されていた。米軍が太平洋を北上する戦況で、メジュロ環礁やサイパン島、ウルシー環礁などへの状況偵察を行っていた。その際、追撃してきたF6Fを振り切ったときに発した「ワレニオイツクグラマンナシ」の電文は、本機の高速性能を示す有名なエピソードである。

「まぁ、ちいとつめたってかえんかも」と織田信助がみつおの横に座った。
「あんときは、おおきんな」とみつおが織田信介四等飛行兵に頭を下げた。織田は笑っていた。この織田が三人目の搭乗員である。彩雲は赤とんぼと大きく違った。胴の長いスマートな設計で、三座式である。三枚のプロペラの直径も長かった。これは長距離や台風の中を飛ぶためである。教官はドモショウを操縦士および前方機銃手と決め、みつおに測定、天候、写真撮影、電探、電信を命じた。織田信助に後部上方機銃手を命じた。教官がみつおと織田の集中力に目を見張った。

「おい、ドモショウ、彩雲を壊すなよ。壊せば、連帯責任だ。きさまらにビンタの嵐が待っちょるぞ」と教官が笑った。訓練は基本的には一二〇時間なのだが偵察隊員が戦死して激減したという理由で八〇時間の特訓を終えた。飛行訓練以外では筋トレを朝晩やった。さすがのみつおも体が引き締まり、大人の顔になっていた。みつおはレンズの付いた三角形の測定器に関心を持った。

三人の戦友が彩雲の前に立っていた。教官が「時間がある度に愛機をよく見ておけ」と言ったからだ。織田は名古屋空の小牧基地から送られてきたのである。細面だが目が吊り上った殿様の顔を持っていた。丸髷を頭に立てれば信長だろう。早速、「信長公」という愛称が着けられた。尾張名古屋の織田信介機銃兵が笑った。

第九章

「みっちゃん、彩雲ナモ新型機カナモ?」と信長公が名古屋弁で言った。みつおは飛行機の技術に精通していたが、体育系のドモショウや機銃手の織田には知識がなかった。そこで、年少のみつおが教師になっていた。

――彩雲は直線的な細長い胴体と大径プロペラ、長い主脚が特徴のスマートな機体である。艦載機という条件の中で、高速性能を持たせた設計に特徴がある。主翼は高速性能を重視し面積を低くおさえた。だが彩雲の長い主脚は破損しやすく、着陸時の三点姿勢が高くなり前方視界が遮られる欠点がある。大径プロペラの反トルクが大きい点、機の失速限界速度が高い点などから、着陸は難しいと言われている。増槽無しでも三〇〇〇キロメートルを飛行できる。これは鹿児島県鹿屋基地からタイのスワンナプーム基地まで無給油で飛行できるようにとの軍部の要求を満たしたのである。発動機は二重星型十八気筒の空冷式であり、高馬力で軽量である。高度六〇〇〇メートルで二〇〇〇馬力の出力が要求されたが、六〇〇〇メートルでは一六〇〇馬力しか発揮できず、残リ四〇〇馬力の不足分を機体設計と推力式単排気管によるロケット効果で補う形となった。一式旋回機銃を後部座席に装備した。一式7.9粍機銃は一分間で一〇〇〇発の発射速度を有し、それまでの九二式旋回機銃よりも四〇%も発射速度が速い、、

教官はまず操縦桿を握るドモショウを訓練した。みつおは教室で、射的観測、空中撮影、電探と電信を習った。みつおが「T字不利」という言葉を覚えた。信長公が機銃はおもろいと言った。三人は教官が驚くほど全てを短時間で覚えた。教官が少年のみつおは計算が速く正確で、手が器用であると評価した。ドモショウを偵察隊の初年兵の中でも心身、操縦ともに最優秀と評価した。――ふたりとも有事に慌てない性格だと書いた。織田信介には殺気があると書いた。

「一時間で長崎を偵察してこい。これが第一次試験だ」とみつおに飛行プランを渡した。海上の偵察飛行と同じように高度を低速で飛ぶこと。みつおにはポイントで実測と空中写真を命じた。後ろ上空の敵機を二〇ミリ機関砲で撃つ機銃手の織田に電信を打てと命じた。

「あいつらは、ようやらんやろな。必ずチョンボをやる。そのときはみんなでビンタを思いっきり張ったろや」と教官たちが笑った。

みつおが赤鉛筆を持ってドモショウと信長公に飛行プランを見せた。ポイントは、佐賀空から西へ飛ぶ。佐世保海軍基地を把握する。大村湾を南下して長崎市の上空へ出る。東北に進路を変えて多々良山を目指す。そこで西北に進路を変える。虚空蔵山を超えてそのまま北上する。佐賀空に帰還するのである。全行程一八〇キロ。一時間で充分である。

「ショウちゃん、わかったか?」とみつおがドモショウの目を見た。

「ワッワッワ、ワカッタ」と操縦士が大きく頷いた。

「オリャアの腕前を見せたらないかんなもし」と信長公が言った。

三人が彩雲に乗り込んだ。ドモショウが操縦席、みつおが真ん中、信長公が後席に後ろ向きに座った。大きなホイールの付いた始動車がプロペラの軸にクランクを合わせた。

「エッエッエナーシャ、コッコッコッコ、コンタク」とドモショウが言った。爆音は意外に静かなのだ。二重星型十八気筒の空冷式だからである。偵察機は空中戦に巻き込まれることが少ない。敵機が視界に現れた瞬間、Uターンするからである。
「み、み、み、みっちゃん、コッコッ怖いか?」
「怖わない」とみつおが怒った声で言った。ドモショウが大声で笑った。どういうわけなのか、笑い声だけはドモらないのである。

彩雲が離陸した。真昼の青空に丸く絵を描いた。佐世保は佐賀空からたったの二〇キロである。長崎造船所と巡洋艦が二隻見えた。これがポイント1なのだ。

「われら軽巡二隻みゆ」と信長公がカタカタと電信を打った。佐世保海軍基地の上空から撮影した。
「わが機、時速二〇〇キロ、只今、南下中」

大村湾の上に出た。長崎市まで五〇キロである。長崎の西に山脈が見えた。長崎は盆地である。そのとき、突然、零戦四機が現れた。大村練習航空隊の零戦三二型 (A6M3)が横一文字に並んでいる。高度は五〇〇〇だ。

「ショウちゃん、これがT字不利だよ」

みつおが写信を撮った。ドモショウが高度を七〇〇〇に上げた。零戦がUターンするのが見えた。ドモショウが進路を東北に変えた。多々良山が見えた。多々良山の西北にとんがり帽子の虚空蔵山が見える。標高六〇〇メートルである。みつおが虚空蔵山と大村湾に面する東彼杵町を撮影した。

「只今、虚空蔵山の上空なり」と信長公が電信を打った。五分後、佐賀市の北に佐賀空の滑走路が見えた。地上兵が旗を振っていた。飛行時間五五分であった。

「よし、合格」と教官がその白い歯を出して笑っていた。三人の航空兵に給仕兵が天丼の大盛とビールを持ってきた。信長公がガブリと一気に飲んだ。みつおがドモショウに自分のビールをあげた。

続く、、

*東京のX出版社が「胡椒の王様を出版したい」と言ってきたけど、出版費用を出してほしいと。そこで、「自分の作品に投資することはない。著作権を買うなら応じる」と返答しました(笑い)伊勢
07/29
赤とんぼ
第四章

松山海軍飛行生予科教育隊を教官たちは松山空と略称で呼んでいた。みつおたちに特別丙種飛行予科練習生(特丙飛)という甲種~乙種~丙種の最下位のランクが与えられた。

境域飛行訓練が始まった。「赤とんぼ」という双翼の練習機を見て練習生が興奮していた。九三式中間練習機は、大日本帝国海軍の練習機である。日本軍の練習機は目立つように橙色に塗られていたことから別名「赤とんぼ」と呼ばれていた。

赤とんぼと戦闘機は猫と虎ほど違う。教官はみつおの適合性を疑っていた。赤とんぼの訓練が五〇時間経った。そんなある日、教官が、みつおとドモショウに飛行図を渡して単独飛行を命じた。三番機に乗り込んだ。最初にみつおが操縦して、折返し点でドモショウが操縦する。四機が編隊となって松山を飛び立った。みつおの操縦する三番機が積乱雲に入った。前方が全く見えない。その雲を出た。すると僚機がいない。西風に吹かれて仲間から離れてしまったのである。「赤とんぼ」は、川西航空機が作った世界でも類のない優秀な双翼機である。その赤とんぼが上下左右に揺れた。コンパスがグルグルと廻っていた。燃料がなくなる、、どこかに着陸しないと、、ふたりは焦った。そのとき雲間から滑走路が見えた。その向こうに海が見える。「松山に違いない」とみつおは思った。でも太陽の位置が気になった。カタンと着陸した。濃緑色のゼロ戦が駐機している方向から兵隊が走ってくるのが見えた。みつおが発動機を切った。身軽な少年飛行兵は風防を開けて滑走路に飛び降りた。

「キサマら、ここをどこだと思っておるのか?」
「判りません」
「米子航空隊だよ。キサマらは松山の練習生だな」というと、みつおにいきなりビンタを張った。燃料補給車が横に停まった。無言で満タンにしてくれた。水を水筒に入れてくれた。乾パンもくれた。

「着いて来い」とみつおにビンタを張った飛行兵が緑色の機体のゼロ戦に乗り込んだ。中国山脈を超えたとき、ビンタをくれた戦闘機乗りが手を前後に振るのが見えた。「まっすぐ飛んで行け!」という合図なのだ。何か知らぬが、少年飛行兵たちは泣いていた。ドモショウが操縦する三番機が松山飛行基地に着陸した。想像していた通り、ビンタの嵐が待っていた。みつおは罪のないドモショウが殴られるのを見た。以来、みつおは、松山が好きになれなかった。

予科練習生に休暇が与えられた。朝早く、宿舎の門を出て、夕方の六時に基地に戻るのである。兵舎に戻るのが遅れたり、息が酒臭ければビンタビンタで日が暮れるのである。始めての休暇がきた。みつおは朝起きると、海軍の支給した腕時計を見た。市バスに乗って高松城へ行楽に出かけるのだ。ドモショウは休暇を取らず教官と偵察機に乗り込んだ。四国山脈を越えて足摺岬まで訓練という名目の遊覧飛行に出かけた。

市バスの座席にみつおが座った。松山の下町に近付くと車内が込んできた。竹篭を担いだ行商がみつおの前に立った。このあたりの産業は養鶏である。名古屋コーチン、白色レグホン、プリマスロック、、その行商は生卵を入れた篭を置いた。みつおの膝に当たった。男が何かブツブツ呟いていた、、

「この餓鬼い、ぶっ叩いたろかい…」

みつおは男の顔を見ず、靴のつま先を見ていた。次のバス停で降りた。男がさっと席に座るのを見た。この時代の日本の男は恐かった。伊勢の赤目十三滝がその典型だろう。まったく見ず知らずの他人をすれ違い様に殴る風習があった。みつおは楽譜を見ながらオルガンを弾いたり、江戸時代の棋譜を見ながら解読する詰め将棋に夢中になっていた。その中でも模型の飛行機を組み立てるのが大好きな少年であった。「孤独癖がある」と小学校の担任が書いた。みつおは、―なぜ、暴力が楽しいんだろう?と暴力を振るう男たちを心底から嫌っていた。

高射砲が鳴るのが聞こえた。米軍の本土空襲が頻繁になっていたからである。福岡空、佐賀空、長崎空、国分空、鹿屋基地でも同じであった。

第五章

兵舎のベッドの上でみつおとドモショウが将棋を指していた。みつおが新京から組み立て式将棋のキットを持ってきたのである。

「ショウちゃん、それあかん」
「な~ん、な~ん、な~んでや?」

ドモショウがオペラの歌手のように答えた。どもり矯正セラピーを受けていたからである。その教室にはもうひとりいた。その青年は名古屋弁矯正セラピーを受けていた。

「二手指し言うて、相手の手番なのに自分の駒を動かすことなんや。反則で即座に負けなんや」

そこへ一飛曹が兵舎点検にやってきた。ふたりが立ち上がって敬礼した。

「ドモショウ、将棋が好きか?」
「オ~、オ~、オオガタク~ンに習っているところで~す」

一飛曹が笑った。ドモショウが睨みつけた。一飛曹が、しばらく将棋を見ていた。みつおが駒の役目をドモショウに教えていた。生徒のドモショウも覚えるのが速い。

「大形、なかなかの腕前だ。どこで習ったのか?」
「新京将棋院であります」
「段位は何かね?」
「二段であります」

一飛曹が飛び上がるように驚いた。プロの棋士の段位は四段から九段まである。三段以下はいわば白帯である。従ってみつおは棋士でメシを食うには段位が足りないのである。

「ほう大形は二段かね」

松山飛行予科練習学校の校長、田代大佐は関西将棋院の三段だった。自称、将棋の名人である。予科練では毎年将棋大会をやっていた。全国の予科練が競った。昨年は予科練の本家、霞ケ浦空が優勝杯を持って行った。松山空は三位にもならなかった。田代は悔しがった。そこで、技能がある者たちで松山将棋倶楽部を作った。その倶楽部が秋の全国大会に出す棋士をトーナメントで選抜した。

「大形を呼べ」

みつおが四人の先輩棋士の前に立っていた。朝の七時だった。田代大佐を除いてみんな初段である。みつおが下士官の目つきに圧力を感じて体が震えた。一飛曹、二飛曹、兵曹の歴戦の強者なのだ。

――小僧、ぶっ叩いてやるからな、、

誰もが全国大会に出たいのだ。

「本日、この四人と大形に特別休暇を与える。八時から総当たりトーナメントを始める」
みつおが勝ち進んだ。二段と初段とでは勝負にもならなかった。田代三段も勝ち進んだ。大佐とみつおの勝負となった。

「きさまら、飯を食ったら一時にここへ集まれ」

第六章

田代大佐が角の右斜めの歩を前に出した。早めに勝負をつけてあとの二番をリードするためである。みつおが相手の積極攻勢で無残に負けた日を想い出していた。

新京将棋院の座敷。四段プロの先輩と指していた。先輩は飛車角抜きである。みつおが四〇手で負けた。

「よし、おまえが積極的に攻めてみろ」

みつおが角の道を開けた。すると、先輩は、金を王将のまえに置いて防衛の姿勢を取った。石田組みである。二〇〇手が経った。さらに一〇〇手が経った。そのとき、一瞬、みつおが不安になった。息も吸えない攻防戦が続いた。だが、ついにみつおが負けた。

「それはね、俺は、お前の力が尽きるのをじっと待ったからだよ。秘訣は持ち時間をいっぱいに使って対戦相手の頭が疲れるのを待つことだよ。相手は辛坊出来なくなる。そして過ちを犯す」

大佐が飛車角を交互に動かして突撃した。みつおは石田組みを堅固に続けた。三〇〇手目で大佐が首を傾げた。弾薬が少ないことに気が着いたからだ。みつおが攻撃に出た。大佐が駒を盤上に投げた。見ていた士官が唖然とした。

第二局目は、みつおが先手である。角の右上の歩を前に出した。攻勢に出たのだ。

「ほう?」と言った大佐が石田組みで守勢にまわった。三〇〇手で勝負が着いた。みつおが負けたのである。観戦していた士官たちが緊張した。

第三局目で勝つ者が松山空の棋士代表となる。大佐は去年も代表となった。霞が関へ飛んだ。松山空は三位にも入らなかった。観戦していた者は――今度も上位には入らないだろうと田代大佐とみつおのふたりを凝視していた。

第三局が始まった。大佐が飛車を真ん中に横滑りさせた。中飛車戦法である。この戦法は攻守両方に豹変することが可能なのである。みつおは迷っていた。そして自分も中飛車戦法を選んだ。大佐の目が光った。香車の前の歩を出した。

――次は桂馬を歩の下へ飛ばしてくる、、またみつおが迷った。飛車を元の位置に戻した。大佐の目が光った。

――小僧とみくびると負ける、、

双方ともに相手の駒を食って行った。みつおが取った駒は、歩6、香車1、桂馬1、銀1であった。一方の大佐は、歩8、香車1、桂馬1、飛車を捕虜にした。

田代大佐は、コレヒドールを爆撃した飛行中隊の指揮者である。事あるごとにマッカーサーが敵前逃亡したと腹の底から笑った。操縦桿を握ってマニラ湾を見たあの日の自分に戻っていた。

一〇〇手目、大佐が攻勢に入った。相手を一挙に殲滅する手に決めた。いきなり捕虜の飛車をパチリと金の二歩前に置いた。

――小僧、さあどうする?これが日本軍の銃剣術だ。銃剣の恐怖がマッカーサーを敗北に追いやったんだ、、

すると、みつおが時間いっぱいに将棋盤を見つめていた。

「あと一分」と審判がみつおに注意した。

「五〇秒」と再び警告した。そのとき、みつおが角を下げた。大佐が突撃を開始した。みつおが下がる度に持ち駒を次々と張った。あわや、これまで、、

みつおが再び腕を組んで将棋盤を睨んだ。

「あと一分」
「あと五〇秒」

みつおが角を犠牲にした。大佐が飛びかかって角を食った。みつおが捕虜の桂馬を打った。「王手」とみつおが言った。大佐が逃げた。再び、みつおが持ち時間ぎりぎりまで腕を組んでいた。

「あと五秒」と審判が怒鳴った。その瞬間、大佐が銀を動かした。観戦していた下士官たちがあっと息を飲んだ。軍配がみつおの頭上に上がった。

「田代大佐殿、二手指し、失格であります」

これは松山空では大騒ぎになった。特丙飛が司令官に勝ったのだから。下士官らは内密にみつおをリンチする計画を立てた。それを少年が好きな一飛曹がドモショウに耳打ちした。

続、、
07/29
赤とんぼ

赤とんぼ

太平洋戦争の開戦と同時に、海軍航空隊は各地で戦果を挙げ、時勢は一挙に航空主兵に傾いていた。南太平洋における戦線の拡大とともに、航空隊要員の大増強が要求され、練成航空隊の増強も不可欠となった。入門者が実機に触れるまでの基礎学習を行う予科練も大増強が要求された。海軍飛行予科練習生とは、大日本帝国海軍における航空兵養成制度に志願した若者の総称である。予科練教育を一手に引き受けていた土浦海軍航空隊だけでは任務遂行は不可能であった。海軍は予科練を増設した。松山海軍飛行予科練習学校もその一つであった。

第一章

「君は終戦時、鹿児島空にいたんだね。階級は海軍二等航空兵、偵察機彩雲の搭乗員だったと海軍鹿屋基地飛行隊の記録にある」

昭和二十六年の夏、大形みつおが浜松南の警察予備隊航空学校の教官の前に座っていた。教官は一等空佐の襟章を着けていた。

「ハッ、そうであります」
「大形君、ここは日本軍じゃない。兵隊用語は不要なんだ」
「はあ?」
「それでは、赤とんぼが最後の飛行訓練だね?」
「いいえ、九八式偵察機キ36、中島 C6N彩雲が最後です。計測兵でも、操縦の訓練はあったのです。計測兵としては実戦体験もあります」

みつおが空中戦を語った。空佐が目を大きく開いた。

「ドモショウ?聞いた気がする」
「はあ、松山空でも、佐賀空でも、鹿児島空でもショウちゃんは人気者でしたから」
「空中戦は誰にも他言しないように。ところで、君は、英語は出来るかね?」
「はい、アメリカの中学生程度の英語が話せます」

一等空佐が航空学校創設の経緯をみつおに話した。

――今年、昭和二十六年春、つまり三か月前のことです。警察予備隊はアメリカ陸軍で使用していた連絡、偵察、弾着観測用であるp51ムスタングの導入を決めた。このため浜松南基地で航空学校の創設準備と飛行訓練の準備が始まったのです。第一期ムスタング操縦学生は旧陸軍、旧海軍のパイロットで構成されたのです。

――卒業生は次期学生に対する教官になった。すべて、この摩訶不思議な突然変異は朝鮮戦争が原因なんです。旧日本軍の飛行経験者の技量回復訓練はアメリカ空軍主導で実施された。米空軍の教官によるパイロット要員の教育は着々と進んで行った。当然、その教育は英語で進められた。このため旧日本軍出身のパイロットの中には英会話能力が不足している者がおり、技量が優秀であっても英語を理解出来ないとの理由で学生が淘汰されたり、あるいは失望して自ら去って行った者が出た。

大形みつお、満二十六歳が保安隊飛行兵予科練習生に合格した。これが、みつおの人生、二度目の予科練入隊であった。

「あれから八年が経ったんだ」とみつおが松山海軍飛行予科練習学校の門をくぐった日を想い出していた。

第二章

大形みつおが、昭和十八年の春、十八歳になった。みつおは新京商業高等学校の生徒である。南湖植物園の池の氷が解け、新京に春迎花(いんちょんほあ)が咲き始めていた。みつおは父親から戦況が悪いと聞いていた。みつおは、まもなく卒業する。だが満州鉄道の社員になる考えはなかった。その理由は単純である。みつおは飛行機に興味を持っていた。それが理由で新京商業高校のグライダー倶楽部に入った。操縦桿を握って満州の青空を飛んだ。

その日の午後、グライダーの滑走路の脇の草原に学生が集まっていた。夏の青空を零戦が鳶(とび)のように円を描いて飛んでいた。それが着陸したのだ。飛行士が発動機を切るとプロペラが停まった。風防が開いた。飛行帽、首に純白のマフラー、半長靴を履いた飛行士が降りた。強い脚、強い腕、、その精悍な顔の戦闘機乗りが少年たちに与えたインパクトは筆舌に尽くし難いものであった。

「そこの学生、操縦桿を握ってみたいか?」
「はい、握ってみたいです」

みつおが操縦席に着くと、満州国飛行隊が用意した始動車がプロペラの軸にクランクを差し込んだ。そして翼に立っていた飛行士がエンジンを始動した。轟音があたりに響いた。みつおは体が震えた。だが、次第に「自分は飛行機乗りに生まれた」と思ったのである。

「予科練に入りたいか?」
「是非、入隊させて下さい」
これがみつおの人生にとって大きな分岐点となった。    
      
昭和一八年の夏の日、満州新京市は、朝から気温が三〇度を超え、蒸し暑かった、大形虎雄とみつおが慈光路の館の庭の縁台に座っていた。井戸で冷やした西瓜を食っていた。ふたりとも黙って食っていた。西瓜を棗(なつめ)の木に投げた虎雄が口を開いた。

「みつお、おまえ、予科練に志願したんか?」
みつおは大形の先妻の三男である。
「お父さん、志願した」と少年が答えた。後日、「親父に、バ~ンと、一発張られるかなと思った」と大形の後妻のフキに語った。だが、大形は殴らなかった。黙って、地面を見ていた。

「お父さん、アタマの中を轟音が通り抜けたんだ」と虎雄に言った。        
「う~む、みつお、死ぬなよ」と父親が言った。

その朝、空から雨雲が垂れていた。朝の八時なのに夜のように暗かった。親子三人がダットサンに乗り込むと小雨が降りだした。虎雄とフキが新京駅で、みつおが釜山行きの汽車に乗るのを見送った。それから二ヶ月が経った。虎雄は改めて、みつおが予科練に志願したことに驚いていた。虎雄は、みつおは性格が優し過ぎると思っていたからである。みつおは、上の兄二人と違う性格を持っていると虎雄は観察していた。小学生時代、みつおは小動物に愛情を持った。近所の満人がみつおに生まれたばかりの野兎を上げたのである。大形の後妻のフキはみつおが兎を部屋で飼うことを許した。みつおは兎を可愛がった。一週間後の朝、「お母ちゃん、兎がおらん」とみつおがパニックしていた。起きたらいないと言うのだ。フキが部屋の中を見て廻った。仔兎は布団の中で死んでいた。一緒に寝ているうちに、みつおの背中に押し潰されたのである。みつおが声を出して泣いた。この事件が大形を憂慮させた。みつおの手は少女にように華奢で器用であった。中学生になった頃は飛行機のモデルを作ることに夢中になっていた。零戦や一式陸攻重爆撃機を天井に吊り下げていた。

みつおが松山に発って行った一年前、昭和十七年(一九四二年)の六月、大形虎雄は海軍武官省の士官から、連合艦隊がミッドウエーでほぼ全滅したと聞いた。その後、日本本土が始めて空襲を受けた。翌年の昭和十八年(一九四三年)には攻守が入れ替わった。まず、四月、山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死した。五月、米軍がアッツ島に上陸。日本軍が全滅し「玉砕」の語の使用始まる。九月、イタリアが連合国に降伏。十月、東京の明治神宮外苑にて学徒出陣壮行式開催。十一月一日、 ブーゲンビル島沖海戦。十一月二十一日、米軍、マキン・タラワ上陸(日本軍玉砕)。十二月五日、マーシャル諸島沖航空戦が起きた。マリアナ海戦からニミッツ提督の南太平洋北上作戦は米海軍の優れた装備と艦上戦闘機によって着々と進んでいた。十二月には、一九四二年の一月以来、日本軍が占領していたラバウルも陥落した。海軍武官省に自由に出入りできた大形でも戦況が日本に不利になっていたことを逐一知っていたのではなかった。だが満州国建国当時には、二千人もいた海軍省の武官が少なくなったことから想像がついた。大形とソ満国境に関東軍の飛行場を建設した佐々木社長の長男と次男も大連港から輸送船団に乗り込んで水平線の彼方へ消えて行った。奉天会戦の勇者である佐々木ジャングイが始めて暗い顔をした日であった。

第三章

二等兵装の大形みつおは、巻いても巻いても足元に団子になってしまうゲートルをついにあきらめて取ってしまった。となりの兵隊が笑った。車内は混んでいた。異様な臭いがした。夏の真っ盛りである。一台の客車に百人もの青年が乗っており、汗を搔いていたからだ。みつおは五千人の新兵に混じっていた。この部隊は満朝組と呼ばれていた。満朝組が奉天から特急興亜号に乗って釜山に向かっていた。釜山から船で下関に着いた。対馬あたりにアメリカの潜水艦が出没していたが、台風の為か現れなかった。 満朝組は下関で四手に別れた。ほとんどの者が長崎に行った。みつおたち九百名の予科練候補生は鹿児島海軍航空隊、三重海軍航空隊、土浦海軍航空隊、松山海軍航空隊に向かった。この時期の予科練生は全国で二万四千名であった。みつおの組は三百名だった。その一団が広島から四国の松山に着いた。松山海軍航空隊のトラックが五台並んで待っていた。少年たちを満載したトラックが松山海軍飛行予科練習学校の門をくぐった。

松山の空が夕焼けで美しかったのをみつおは一生涯覚えていた。夕方から歓迎会が始まった。新入生は、その日の朝、甲飛十三期からなる第一期生が卒業したことを知った。みつおは酒が飲めなかった。みつおは名物の海軍カレーを食い、お多福饅頭を食い、お茶を飲んだ。茶碗には菊のマークが入っていた。下士官がみつおを見ていた。そして首を傾げた。どう見ても飛行兵には向かない、、

兵舎の中にベッドが並んでいた。みつおの横のベッドにレスリングの選手のように体格の良い青年が座った。その青年は黒人かと思うほど日焼けしていた。二人が会釈した。

「トテ、トテ、トテチテター」と消灯ラッパが鳴った。船旅に疲れた志願兵たちが深い眠りに陥った。翌朝、いきなり訓練が始まった。お互いの名前も知らない若者たちが練兵場を駆け巡り、腕立て伏せを五〇〇回やり、鉄棒で懸垂をやった。教官がひとりひとりの体力を採点した。

そのまた翌朝、総員起こしのラッパが鳴った。次に「めしあげ」というラッパが鳴った。飛行予科練習生の候補者三百名がアルマイトのどんぶり二つを手に持って並んだ。給食兵がどんぶりに麦飯を投げ入れ、煮魚を他方のどんぶりに投げ入れた。みつおが金目鯛の大きな目を見て喜んだ。新京ではクチに入らないからだ。隣に、あの体格の良い青年が座った。やはり鯛の目を見て笑っていた。

「きさまら、飯を食ったら練兵場に集まれ。便所に行きたい者は集合する前に行っておけ。集合時間は今から一時間である」と教官が怒鳴った。練兵場の東に滑走路が見えた。その北に瀬戸内海が見えた。みつおが興奮していた。審査官は十人である。日章旗を上げてからラジオに合わせて君が代を歌った。日章旗の前に机が並んでいた。教官が候補生の名前を読み上げるとあの体格のいい青年が列から離れて机の前に座った。審査官たちが青年の体格の良さに驚いていた。

「高浜昌一、きさまの名前を述べよ」
「タ、タ、タ、、カカカ、、ハッハマ、ショッ、ショッ、ショウイチであります」と青年が言ってから息を深く吸った。  

審査官がびっくりして一斉に教官を振り向いた。高浜昌一は、みつおの一歳上の十九歳である。

「きさまは、なぜ予科練を志願したのか?」
「トットットット、トッコーになりたいです。ク、ク、ク、黒岩少尉のキョッキョッ教育隊に入りたい」と高浜が言ったとき、審査官が腕を組んで首をかしげた。
「どういたしますか?」と審査官が教官の大尉に訊いた。
「この若者はドモリだが、体力と視力では抜群だ。操縦士には、ことばは関係ない」と合格のスタンプをどんと押したのである。

教官たちは高浜昌一に、ドモショウというあだ名を着けた。教官の間ではドモショウをどう扱うか議論があった。体格と一言で言うには、ドモショウは確かに筋肉の発達が日本人離れしていた。ドモショウは逆立ちして三十メートル歩けた。鉄棒では大車輪を十回もやり、相撲大会ではいつも横綱なのである。飛行訓練でも教官を仰天させた。「ドモショウには飛行士の天性がある」と教官が報告した。

一方の大形みつおだが、十八歳という年齢を見て審査官が首を傾げた。まだ成長しきっておらず体格が貧弱だからだ。手足も首も細く、表情が頼りない、、体力の評価を見ると駆け足など丙種なのだ。

「大形みつお、きさまはなぜ予科練を志願したのか?」
「自分は、グライダー部に所属していました。操縦に能力があると評価されました」
「戦闘機は違うぞ」
「ボクを落とさないでください」とみつおが嘆願していた。教官のひとりが、みつおの学歴を見ていた。
「新京商業高校で何を習ったのか?」
「数学理論と簿記であります」
「きさまはピタゴラスを知っておるか?」
「はい、三角関数であります」

三角関数とは、三角形の角の大きさと底辺の長さの関係を用いる手法である。様々な数学の分野の中でもきわめて古くから存在し、測量などの実用上の要求と密接に関連して生まれたものである。審査官が話し合っていた。心臓の動悸が聞こえるほどみつおが緊張していた。

「よし。合格」と大尉が合格のスタンプをどんと押した。大形みつおと、ドモショウが一生涯の戦友となった瞬間であった。

続く、、
07/29
女の闘い、、


アリスには自信がない。でも、自分は歌えることを証明しにきた。家族に知らせず、この世界で一番視聴率が高いBGTに1人でやってきた。彼女の神経質な表情や手の動きを審査員たちは心配した。アマンダはアリスの歌声に女であることの悲しさを共感した。涙を抑えた。結果は満場総立ちの拍手だった。7220万の再生数。一国の人口に当たる。イギリス人は皆見た。だが、二度目のオーディションでは、1600万人の投票の結果落選した。その理由は「ベッドを渡り歩く女」という印象だった。伊勢もアリスの厚化粧としぐさにそう思った。アリスは彼女の美しい唇に深紅の口紅を丸く塗っっていた。服装も下品だった。自信のない女ほど真っ赤な口紅を塗る、、そこには清純で泣きベソのアリスはいなかった。そこには「売笑婦」が立っていた。

女の闘い

それは「遮二無二、生きよう」という女の闘いなんです。女も生き物。毎日食べなければ生きてはいけない。プロの歌手ほど高いハードルはこの世にはない。特に、イギリスでは。イギリス人には、「紳士淑女の国」というプライドがある。アリスはそれに合格しなかった。アリスは復帰すると伊勢は信じている。バカじゃないから。

名無し先生のコメント

しばらく見ていませんでした。このタレント番組はスーザンボイル以降時々見ています。蛯名健一氏のダンスはすごい、これを見てから、もう日本の番組は見る気がしません。みる気がするのは落語や文楽、都都逸などです。到底かないませんよ。
 それと
>それは、女性と言えども毎日食わなきゃならないからなんです。

この意味が分かる人がすくない。
町の売春婦が<これしかできない>といったがその意味がなぜかすぐに分かった。金をくれてやって、かえった。しばらくねられなかった。こんな単純なことを知らなかったとは。

 その後会社をすぐに辞めることが男はできないことにきずいた。私は嫌ならやめればいいと思っていた。
妻子がない時です。

芸能はガタガタですよ。

その社会を知るにはその社会の売春状況を知ることです、ここ倭きちんと把握していない政治家は失格です。わが町についても通がおり、相当な状態のようです。一度奇妙な喫茶店へ行ったが、あとで、その聞くとそこは売春の場所だでした。雰囲気がありますから。以前父親が同級生と会合をしていたところですが、送っていったころはそのような状態ではなかったです。

これから貧富の差が表に出てきます。これからです。同じ日本人だから頑張ろうという意識がないです。皆伝統的な他人として、行動しています。米中が衝突するのは目に見えているから、その対策を考えているところです。

(伊勢)この娘は最初のオーディションでは28歳だった。今、35歳で未婚。二度目のとき母親だけがきた。父親なしで育ったかもね。それに美容コンサルタントという職業。これは看護婦とか医者とか教師とか社会で認められる職業じゃない。高卒でしょう。気おくれしている。アリスは歌が好きな子だったが母親は聞いたことがないと言った。孤独壁ですね。これが必死に生きようとする理由かも知れない。

日本もこういう女性は多いと思うね。いつもグループで、個人としては自信がない。日本人同士が助け合わないという印象です。ボクがアメリカに渡る前の日、東京の友人に会いに行って遅くなった。電車が込んでいた。ドアの角に土木工事の服装の男が若いオフィスガールを抱きしめていた。彼女は恐怖に凍っていた。ボクが彼女の手を取って引き寄せると、男は次の駅でコソコソと降りた。問題は、周りのサラリーマンです。新聞や週刊誌を読むフリをして彼女を助けなかった。彼女は大森で降りるときボクの名前を聞いた。頭を下げた。最近も、横須賀行の京急の車内で若い男が女性に絡んでいる光景を見た。72歳だったボクが男を怒鳴った。周りの男も女もスマホから目を離さなかった。その女性は「有難う」とも言わなかった。日本人はどうなってしまったんだろう?

お知らせ

在日米軍基地の監査の締め切りが目の前に迫っているため、筆をおきます。「スペードのエース」は未完成なんです。脱稿するまで短編「赤とんぼ}を連載します。ご期待乞う。伊勢
07/27
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第二話

第二話
第六章

1

五月に入った。その日、香港はカンカン照りだった。ラジオが摂氏三十度を超えるから日傘を勧めると朝のニュースで流した。軽巡阿武隈が香港の北東軍港の沖に停泊していた。エースとジョーカーが水島とムーチョを見送った。水島が艦長に敬礼するのが埠頭から見えた。エースが望遠レンズを写真機に取り付けて撮った。就航の汽笛が鳴るとムーチョとサメが手を振った。

――阿武隈(あぶくま)は、日本海軍の軽巡洋艦。長良型の6番艦である。その艦名は、福島県を流れる阿武隈川より名づけられた。

「阿武隈は軽巡という小型巡洋艦だ。排水量5400トン、全長が164メートル~乗組員は400名。任務は兵員輸送が主であるが、兵装は重巡並みなのだよ」と艦長がふたりを艦内巡りに誘った。サメが――34000トンの扶桑は大きかったなあと旧海軍の軍艦を懐かしく想っていた。

「インド洋が忙しくなった。豪雪ものともせず、アッツ島の要塞が完成したので、遥々と香港へやってきたわけだ。南はいいなあ。この港は深い。良港だ」

「艦長、シンガポールは香港から一三八二海里ですが、何日で着くのでありますか?」

「三菱重油式タービン三基。だから煙突が三本ある。五七九〇〇馬力。速力は三五・五ノットである。四十時間で着く」

「シンガポールの要塞を見ることは出来ますか?」

「ああ、許可を貰ってあげよう」

阿武隈はシンガポールで二日間停泊して、夕刻の六時に出港した。スマトラ島とマレー半島の間のマラッカ海峡をゆっくりと北西に上って行った。

「セイロンまでは、一四二八海里。やはり四〇時間はかかる。行き先を東海岸のコロンボ沖に変更した。北東部には英豪空軍の基地があるからだ」

艦長がサメとムーチョと甲板に出た。マラッカ海峡はまったく静かな海だった。インド洋に出てからベンガル湾まで波のないのんびりとした航海であった。四十時間が経った。阿武隈が速度を落としていることにムーチョが気着いた。

「サメ、来たんじゃないか?」とムーチョが時計を見た。正午である。太陽が真上にあった。

阿武隈が停船した。周りは青々と海が広がっていて島影などどこにも見えなかった。

「荷物はそれだけか?」と艦長が背嚢を手に持ったふたりに訊いた。

「ハッ、これだけであります」

水兵が一枚帆のあるカヌーを海面に降ろした。カヌーは馬の革で出来ていた。

「艦長、コロンボまでの距離は何でありますか」

「三十五キロだ。ま、六時間はかかるかな?」

「エエ~?」とふたりが同時に言った。食料の乾パンや飲料水をカヌーに投げ込んだ水兵が笑った。

「長谷川大尉には電信をすでに打ってある。セイロンは天国だ。命を落とすことはない。元気に行け」

ふたりの海賊が艦長に敬礼をした。そしてオールを漕ぎだした。海流なのか意外に速い。帆は張った。



エースとジョーカーが居間で向き合っていた。

「ジョーカー、一言で言えば、物資が不足する日本陸軍に海賊行為で側援するわけだ」

「はあ?それが理由でカラチ行きなんですね?」

「何を持って帰るかわからないが、ジョン&ジョン商会は日本と組みたいはずだ」

「そうでしょうか?英国の干渉があると思いますがね」

「加藤洋行でも出来ないよ。出来るのは俺たちだけだ」

ジョーカーが頷いていた。

「王虎山は何をエースに話したのですか?」

「一族を食わせることが出来るのかと俺たちと同じことを心配している。俺は、ジョン&ジョン商会に接近するとだけ言っておいた」

「サメとムーチョが帰って来るまで待つんですね?」

「それしかない」

「ウランがムーチョに写真機を持たせたそうです」

「それは聞いたよ。磯村にもう一台買えと言っておいた」

「ところで、日本円よりも香港ドルの方が安定してるね」

「英米は必ず香港を取り返すでしょう。日本円をポンドと米ドルに替えます」

「一色社長が分散の方法を考えている」

「エース、ジョン&ジョンの国際力を借りる考えです」

「時間はあるね」

「来年の正月までに分散を始めます」

「今年が日本の命運を決めると考えているんだね?」

「エース、日本は負けます」

長谷川が腕を組んで天井の扇風機を見ていた。



追い風が吹いていた。二人は四時間、帆を張って進んだ。西に陽が傾いている。セイロンの山が見えた。

「ムーチョ、あれは、アダムの高峰だろう」

「サメ、俺、疲れたよ」と四十男が言った。

「それでは流し碇を投げ込もう」

「海流はセイロンに向かっているね」

サメが帆をたたんだ。海面は湖のように波がなかった。二人が毛布を被って寝た。

朝が明けた。「あっ」とサメが叫ぶ声でムーチョが起き出した。目の前に山があった。それどころではない。カヌーが岩礁の間を漂っていた。

「ムーチョここは危ない。一旦、沖に出よう」

ふたりがオールを狂ったように漕いだ。だが海藻が海面を敷き詰めていた。沖に出ることを諦めた。カヌーはゆるゆると浜辺に向かっている。ついに砂浜に乗り上げた。ふたりは海中に飛び降りてカッターを砂浜に引き上げた。まわりが明るくなっていた。全く人家のない無人島に思えた。ムーチョが流木を集めて焚火を作った。サメが飯盒でメシを炊いた。それに鰹節をかけて醤油を垂らした。

「サメ、ここで一日休もう」

「俺も疲れたよ」と胡麻塩頭が言った。林の中に毛布を敷いた。やがてふたりは轟々と鼾を掻き出した。

ムーチョが足音を聞いた。浜辺を見ると島人が三人、見たことがないカヌーを見て何か喋っている。ポルトガル語だ。ムーチョがサメの肩を揺すった。

「ムーチョ、どうした」

その声を聞いて島人が振り返った。一人は少年である。ふたりの男が手に櫂を持って近付いてくる、、サムが背嚢の中から南部を取り出した。だがその必要はなかった。ムーチョがポルトガル語で何か言った。すると男たちがにっこりと笑ったのだ。ひとりが「おはよう」と言った。男たちは潮干狩りに来たのである。バケツにハマグリが入っていた。

「サメ、うちに泊まれって言っている」

「そうだな。俺たちはまず現在地を知らないとどこへ行っていいのかも判らん」

四人でカヌーを担いだ。入り江が見えた、人家が見える。漁村である。小屋のひとつに案内された。中に入るとなかなか快適である。サメは腹が減っていた。それが判ったのか少年が「メシを作る」と言った。母屋に行くと若い母親と娘三人が出てきた。くちぐちに何か言っている。笑っているのでムーチョが安心した。母親と娘たちがバケツを持って台所に行った。やがて美味いにおいがした。それをテーブルに並べた。ポルトガル風パエアであった。ハマグリ~オコゼ~海老~ソーセージ、、亭主がマテオと名乗った。ワインのボトルを開けた。

「ワイン?どこで手に入れたの?」

「沈没船」とマテオが沖を指さした。聞くと沈没船の墓場なのだと言った。レベルを見るとリズボアと書いてあった。娘は小学生だろうか。学校はあるのか?ムーチョが訊いた。

「この村はキリンダっていうの。学校は西へ一時間歩いて行く」

上の娘が地図を持ってきた。ムーチョがコロンボに行くしかないと距離を訊いた。明日、亭主が馬車でコロンボへ行く。

「う~む、俺たち、やけに幸運だな」

「サメ、あのカヌーをくれてやってもいいか?」

「それとカネも払おう」

サメが背嚢から2ポンドを出した。母親が喜んだ。小麦粉、バター、オリーブオイルが必要だ。娘たちに運動靴が要ると言った。亭主がカヌーを喜んだ。また沈没船から引き揚げたワインを持ってきた。外で少年が三匹の魚に塩をふって焼いていた。見るとクロダイではないか。ムーチョの腹がぐ~と鳴った。娘たちが笑った。結局、朝っぱらからワインを飲んでパエアを食い、午前中なのに昼寝した。夕飯も美味かった。

翌朝、サメが雄鶏のときの声で起きると疲れがすっかり取れていた。紅茶の好いにおいが漂っていた。

「コロンボまで山道、四時間」とマテオが言った。二頭立ての馬車だ。となりに少年が座っている。

「この子は学校へ行かないのかね?」

「学校が嫌いで、牧場で働いている」

「四時間は長いなあ」とサメが毛布を被って寝てしまった。犬養少将が言っていたようによく寝る男である。二時間後、小川の傍で馬を休ませた。二頭の馬が水を飲んでいた。父親が麦藁をくれた。

コロンボの町に入った。午後の二時である。相当、蒸し暑い。四つ角へきた。右手に尖塔のある教会が見えた。

「ハビエル」とマテオが言って胸に十字を切った。ムーチョが写真を撮った。少年が珍しそうに写真機を見ていた。バナナを下げた八百屋があった。そこで、ふたりは降りた。料理屋があった。中へ入るとひんやりとして気持ちが良かった。電気があるのか、扇風機が回っていた。ふたりは地図を見ながらソラマメの入ったメシを食った。この料理屋の後ろ二百メートルに駅があるようだ。汽笛が聞こえた。外へでると蒸気機関車に客車と無蓋車一台の汽車が見えた。ふたりが駅に向かった。ポプラの並木道は写真で見たヨーロッパの町に見えた。ハビエル教会から出てきた貴品のある婦人が日傘をさしてマーケットへ向かって歩いている。ムーチョが手帳を出した。やはりサンデーなのだ。コロンボ駅に着いた。この列車はカンデイまでしか行かないと窓口が言った。

「そこで泊まろう」と地図を見ていたサメが言った。

「何があるの?」

「仏教のお寺があるいい町ですよ」と改札が言った。

カンデイに三時間で着いた。駅前に飾りを着けた象が三頭いた。ムーチョが駅でカンデイ案内と表紙に書かれた本を買った。カンデイは高地にあった。ふたりが駅を出たときは陽がとっぷりと暮れていた。駅前のフランスホテルに泊まった。ホテルの食堂で夕飯を食った。山鳥のシチュウ~パゲット~ワインだけで終えたが満足した。

「サメ、明日は一日観光ができるよ。マナール・ベイ行きの汽車は夜だからね」

「ムーチョ、今夜は寒いな」

「標高一〇〇〇メートルだってさ」

二人はカンデイ湖に向かって歩いた。時計塔のある広場に馬車が待っていた。御者に十ペンスを払って馬車に乗り込んた。色とりどりに飾った象がタクシーのように観光客を待っていた。馬車を降りて象に乗ることにした。象が膝ま着いた。ふたりが象の背中に乗った。サメが後ろでムーチョの腰を抱いていた。山の中腹に金ぴかの大仏が蓮の上に座っていた。

「南無阿弥陀仏」とサメが言ったが、ムーチョには何のことかわからなかった。

「ずいぶん高い山に囲まれているね」

「歯の寺院というらしい。行って見るか?」

ふたりが象を降りた。階段を上ると参拝者が記念写真を撮っていた。ほとんどがヨーロッパの人たちであった。湖を南に下るとダムがあった。渓流が白波を立てて流れている。帰途、左に競馬場が見えた。英国王立競馬場と看板が出ていた。競馬場を西へカンデイ駅の方角に向かった。トウモロコシ畑に孔雀が群れていた。

「おい、ムーチョ。お釈迦さまがここで生まれたんだと書いてある」

「誰それ?」

サメがたばこに火を着けて肺臓に届けとばかりに深く吸った。それをヒンズーの警官が見ていた。

「女王陛下万歳」とムーチョが言った。警官が手を振った。

真夜中の十二時に汽車は出た。乗客はインド兵と英国王立海軍の兵隊十人であった。

「東北にトマンコマリーというイギリスの海軍基地がある」とサメが片言の英語でムーチョに言った。

「そこで降りるんか?」

「俺たちは、西北のマンナ―湾の終点で降りるんだ」

軽便鉄道はコトンコトンとよく走った。小川が流れる峡谷の橋を渡り~木造の橋脚の下を通った。ふたりは年齢からかよく眠った。朝、車掌が紅茶とクッキーを持ってきた。

「美味いな、これ」と写真機にフィルムを入れているムーチョにサメが言った。

田んぼが見えた。水牛が河で遊んでいる。サメが――釈迦牟尼の誕生地は本当かも知れないと思った。終着駅マンナ―にようやく着いた。十二時間もかかった。真昼だ。インド大陸が西に見えた。タミールの船頭が客を待っていた。サメは何故か感動を覚えた。

―マドラスからカラチは一二八〇キロメートルあった。途中ボンベイに停車するがボンベイへ行くには、インド大陸を斜め西北へ横断するのである。

「あと一時間で終点カラチ」と車掌が告げた。ふたりは寝台列車の二段ベッドに寝ていた。

「おい、ムーチョ、起きろ」

ムーチョが起きて窓を開けた。風が飛び込んできた。朝の六時だ。マドラスから六日たっていた。乗客というか難民らしいのが屋根の上にまで溢れていた。どれも寝間着のような服装をして麻の袋を持っていた。行商かもしれない。インド人は彫りの深い顔をしている、、哲学者のように見えた。それにうるさい支那人と違って非常に無口である。

「サメ、俺たち、どうやって香港に帰るのか心配になってきたよ」

「ムーチョ、海と同じだ。出たとこ勝負だ」

蚊に食われたのかサメが左腕をボリボリと掻いていた。

続く、、

*みなさん、話が大風呂敷になっていますが、荒唐無稽で良いですか?ご意見をください。伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第二話
第二話
第五章



「上田さん、ジョン&ジョン商会をご存じですか?」

「ええ、ジョン・マーチン男爵に会いましたよ。彼は、スコットランド生まれでインド航路の貨物船の船員だったのです。卓越した商才を認められてジャーディン・マチソン商会の取り締まり役社長に登ったんです」

「香港の本社を畳んでいるけど、どこに行ったのかな?」

「南アフリカのケープタウンに本社を置いている。大西洋では英国領バミューダです。カリブ海では英国領ジャマイカ島~ベリーズ~パナマ」

「どれも海賊が名を成した地域ですね」

「いえ、ときの政権と組んで資産を成したのです」

「ブリテンには忠誠ではない?」

「アウトローです」

上田は「ちょうどあなたのように」と言いかけてクチを噤んだ。

「コンタクトは可能ですか?」

「インドのボンベイにジョン&ジョン商会のインド本社がある」

「何故、男爵なんですか?」

「イギリスが女王陛下に忠誠を誓わないこのスコットランド人を多目に見ているのは、阿片戦争でイギリスに巨富を齎したジョン・マチソンの功績なんです。現在は、世界市場の知識とコンタクトが理由です。つまり情報の王城なんです」

「情報の王城?」

「つまり政商です。新参の日本帝国には大英帝国の足元にも及ばないわけです」

「インドに入る方法はあるのですか?」

「ありません。だがイスラム教徒のカラチ港なら入れる」

エースが腕を組んで考えていた。



上海の犬養陸戦隊大佐が少将に昇級した。その日、夕日が沈む時間、海軍士官四名と飛行艇で香港へ飛んで来た。磯村が士官をモーリス・サルーンで珍寶海鮮坊へ案内した。士官たちは外車が並んでいることに驚いていた。犬養が緑色のロードスターに目を見張った。犬養は生まれて初めてイギリス製のスポーツカーに乗ったのだ。次にイワノフとウランが乗った真紅のパッカードが珍寶海鮮坊のゲートに着いた。警備員が電話を取った。王虎山の太太が受話器を取った。軍人たちは浮かぶ海鮮料理店には度肝を抜かれた。伊勢神宮の宇治橋に似た橋を渡った。支配人が日本の海軍士官を迎えた。個室に案内した支那人のボウイが緊張して青くなっていた。丸いテーブルでは士官たちがすでに怪気炎を上げていた。犬養とエースが入ってくるのを見ると一斉に立ち上がって敬礼をした。漢服を着た王虎山と旗袍(チイパオ)を着た王虎山の太太がやってきて犬養に挨拶をした。

「タイパン長谷川、今夜は香港占領祝賀会ですか?」と流暢な日本語を話した。犬養が驚いていた。太太が料理長を呼んだ。

「お任せがベストです」と太太が言うと、エースが「求求您(お願いします)」と流暢な広東語で言った。広東語がわからない士官が感心していた。料理がどんどん運ばれてきた。

「長谷川君、これ高くつくぞ」と犬養が言うとエースが笑った。そして外人部隊を紹介した。犬養と士官たちがメンバーを見回していた。

「犬養少将殿、長くなりますが聞いてください。香港と言うネームですが香木が採れたことが由来なんです。清代になり広州が開港されると、一六九九年以降はイギリス東インド会社などが来航するようになり、一七一〇年には広州にイギリス商館が開設されている。イギリスは茶葉の大量輸入に起因する貿易赤字に対応すべく、インドからアヘンを輸出し販売を開始したが、アヘン輸入規制を推進する清朝とイギリスの間に紛争が発生した。当時アヘンを取り扱った商会の一つであるジャーディン・マセソン商会の清朝への政治的圧力を行いアヘンの販路拡大を目指すロビー活動により、イギリス国会は1票という僅差で軍の派遣を決定、一八三九年にアヘン戦争が勃発、一八四一年一月二十日にチャールズ・エリオット大佐率いるイギリス軍は香港島を占領した。そして翌年締結された南京条約により、香港島はイギリスに永久割譲されたんです」

長谷川が中国大陸からの避難民が流入している。治安は安定しているが物価が高騰している。香港島は水道水の供給が最大の弱点で降雨量が安定せず水不足、通常時でも水の半分は九龍側に依存していると犬養に説明した。犬養の目が遠くを見る目になっていた。士官たちがビールを飲むのをやめて、手帳に書き取っていた。

「長谷川君、俺も香港の歴史に興味があったんで、一八七三年に明治政府を代表して香港にやって来た岩倉具視使節団を読んだよ。ざんぎり頭で羽織はかまのいでたちだった。その写真を見て、俺、感激したんだ。イギリスの香港統治はアヘン戦争後からだが港を使う日英協定があるんだ。それで、香港政庁は飛行艇の着水を許可した。意外に親切だったよ」  

「少将殿、もともと日英関係は良好なんです。日露海戦以後は、強国ロシアと戦った日本人の勇気を称えているんです。香港政庁は、日本がいずれ香港を占領すると思ってるんです。自分たちもそうやって奪ったんだからと」

「長谷川君、来月、軽巡阿武隈が香港に寄港する。マラッカ海峡を通ってセイロン沖に行く」

エースがムーチョを紹介した。ムーチョと犬養が英語で話した。そこへ、遅れて、水島が入ってきた。

「おお、鮫よ元気か?」と犬養が大声を出した。

「少将になられたんですね?上海上陸戦を聞きました。在任中のボクは幼かった。お世話になりました」とふたりが昔話をした。士官たちが目を丸くして聞いていた。

「つまり、セイロン沖まで連れて行って頂けるのですね?」とエースが確認をした。

「その通りだ。鮫とロドリゲスはそこからインドのマドラスへ渡る。阿武隈がふたりをセイロン島北端の沖で降ろす。そこからインドのマドラスは手に取るように近い距離にあるのだ。だが、トマンコマリーの英豪空軍基地の近くを通る。どうする?深夜か雨天に歩いて行くのが良いだろう」

続く、、


07/25
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第二話

第二話
第四章



昭和十六年三月三日、香港には桃の花が咲き始めていた。話題は、欧米による石油輸出と北米の鉄クズの日本向け輸出が禁止されたことだった。ただ、それは、米国内やオランダ領インドネシアの事情があって、全面禁止ではなかった。長谷川と月岡はこの意味が解っていた。翌年の昭和十六年は、日米戦争が起きると確信があった。飛鳥が石原莞爾少将の「来たる日米戦争」を長谷川に「読め」とくれたからである。それに、広東の日本陸軍の田中均一少将が香港の事情を頻繁に訊いてくるからであった。道路、上下水、英海軍、通信塔などが主だった。

エースがジョーカーを部屋に呼んだ。

「月岡さん、来月、俺と日本へ行かないか?」

「私もそれを考えていました」

「どうしても、陸軍省へ行って参謀たちと話さないといかん」

「多分、我々をアウトサイダーと位置つけて重要なことは話さないでしょう」

「外者と話さないことが海戦準備の証明なのさ」

「軍部は先制攻撃を考えていると?」

「山本五十六大将ならそうするね。月岡さん、イギリスの海軍新聞の記者ヘクター・バイウォーターを知っているか?」

「いいえ聞いたことがありません」

「一九二五年、ワシントンで行われた軍縮会議で山本五十六少将と面会している。バイウォーターは実はスパイなのだ。バイウォーターは「日米開戦」という記事を書いたんだ。日本は軍縮に応じなだろう。日本軍はフィリッピンのレイテを奇襲するだろうと書いてアメリカを驚かした」

「日本軍は先制攻撃をすると?」

「聖徳太子が曽我兄弟を討って以来、不意打ちは日本の歴史だからね」

月岡が茫然としていた。

「現在、我々が持っている資金を報告しましたが、エース、ここから何をやります?」

「竜神組の日本円の残りが約八十万円、飛鳥少佐が暮れた米ドルが五千ドル、一色さんがくれた米ドルが二万ドル、英国ポンドが約四万ポンド。だけどね、さらに、米ドルを五万ドル欲しいんだ」

「日本円は米ドルに徐々に換金できると思いますが、キャッシュで持つのはリスクが高い。工夫がいる。五万ドルですか?どうすれば、そんな大金を稼げるんですか?」

「今は分からん。今は景気がいいが、石油禁輸をどうするかと一色さんも、上田さんも頭を抱えている」

「エース、一つあるのは、マカオのゴールドです。ゴールドがあれば石油は海上で買えます。マカオと言うがインド産の二十四金なんです。戦争が始まるとゴールドが高騰します」

「インドから直接、買ったらどうかな?」

「インドと言っても気が遠くなる」

「ムーチョと磯村を呼んでくれ」

ジョーカーが電話器を取った。エースは何か大きな箱を開けていた。

「今、来るそうです。ウランも一緒ですが。エース、それ何ですか?」

「映写機だよ」とエースがリールに巻いたフイルムを映写機に取り付けた。

「映画ですか?」

「広東軍から貰ったんだ」

磯村、ムーチョ、ウランがやってきた。エースが窓のカーテンを閉めると、映写機のスイッチを入れた。壁にどこかの海岸が移った。密林が広がっている。それが移動していた。空中撮影だ!

――岩田大尉だなとエースが思った。

字幕が出た。セイロンと書いてあった。コロンボから北上して~カンデイ王国~北端のトマンコマリーの上空を飛んだ。トマンコマリーには、英オーストラリアの空軍基地がある。英軍の戦闘機がスクランブルするのが映った。スピットファイアMK・Ⅴと字幕に出た。偵察機が高度を上げてベンガル湾に出た。

「ムーチョ、君はセイロンを見たいか?」

「シ、シニョール」

「どうやって行くかだが、少し考えよう」

「エース、まさか筏じゃないよね?」とムーチョが心配した。みんなが笑った。



「エース、それで新京に行くのですか?」

「いや、参謀室に呼び出された」

「いつ、どのくらいの期間ですか?」

「この日曜日だ。四日間だけだ。磯村と俺が行く。ジョーカーに留守中を頼む」

「遠足ぐらいしか何も出来ませんが?」とジョーカーが笑った。

「何もすることはない」

「王虎山はあれから何か言ってきましたか?」

「明日の夜、珍寶海鮮坊に呼ばれている。君と二人で行く」

――いよいよ来たかとジョーカーが興奮を覚えた。

「長谷川であります」とエースが新任の関東軍総司令官に敬礼をした。日焼けした海賊の首領が憲兵大尉に戻っていた。

「君が長谷川大尉なんだね。三十三歳か、若いな。履歴をこの参謀室で聞いたよ」と頭を丸く剃った梅津美治郎関東軍総司令官が長谷川と磯村を迎えた。梅津の人柄は温厚に思えた。

――ノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた。再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀らの粛正が求められていた。梅津美治郎陸軍大将が関東軍司令官に就任。太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。のちの東京裁判でもここが配慮されたが梅津は獄死した。

関東軍参謀室に、少佐から少将まで九人が集まっていた。そうそうたるメンバーに磯村中尉が緊張した。

「さて、梅津司令官殿、自分が大尉に説明いたします」と東京から出張してきた少佐が梅津に一礼をした。

「長谷川大尉、要件は単純である。日米開戦が起きる。いつどこでとは口が割けても言えない。この戦果によって日本の命運が決まる。満州事変のようにはいかないという参謀がいる。自分もそう思うひとりである。広島から広東軍へ物資が輸送船で運ばれている。君にはその理由が何か判っているはずだ」

ここまで少佐が話すと参謀室に溜息が聞こえた。だが、ほとんどの参謀は沈黙していた。

「 われわれは英海軍には目もくれない。敵はアメリカ海軍だけだ」

長谷川が手を挙げた。

「自分と磯村中尉のふたりでは何も出来ませんが」

「いや、君なら出来ることがある」

「何でしょうか?」

「ジョン&ジョン商会と王虎山と手を組むことである」

参謀たちが騒めいた。長谷川は黙っていた。

「大佐殿、自分も磯村も利用後は秘密保持のために粛清されると思いますが」

長谷川が突っこんだ。参謀たちが長谷川の挑戦的なことばに驚いた。

「いや、それはない。東京の要請だからである。さらに暗殺部隊は君だけだ。スペードのエースとアメリカ情報部が君のことを話している。クレムリンは、君がハルピン特務機関員、桜三号だと知っている。つまりロシアもアメリカも君を殺すだろう」

「大尉、ジョン&ジョンを知っているか?」と今度は中佐が訊いた。

「いえ、知りません。だが王虎山とは面識があります。来たる日本の香港統治に恭順の意思を見せています」

「王虎山は信用できると思うか?」と今度は小佐が訊いた。

「ハッ、タイパンは裏切りません。理由は資産を多く持っているからであります」

「それなら王虎山との関係を深めよ。石油を持っているはずだ」

梅津大将自ら命令書を長谷川に手渡した。

「閣下、参謀のみなさま、明後日に再びここへ集まってください」と少佐が閉会を宣言した。

長谷川と磯村に個室が与えられた。長谷川が電信室へ行って島原領事に電文を打った。返信が山中からあった。――カレンと青森から手紙が届いている。ハルピンは平穏である。自分も香港へ行ってみたい、、

部屋に戻ると、磯村が命令書に添えられたメモを読んでいた。そしてハンザ・キャノンで接写レンズを着けて写真を撮った。翌朝、浜中憲兵司令官に会った。

「満鮮銀行の頭取がピストル自殺をしたとき、君を想った」

「司令官殿、どうしてですか?」と長谷川が笑いながら訊いた。

「月岡さ」

「これは問題になりますか?」

「いや、東京の大蔵官僚が数人逮捕されただけだ。俺らも調査をしていたが、君の方が速かった」

「満州は、どうなっているのでありますか?」

「梅津閣下が任官されてから落ち着いている。有難いことだよ」

長谷川と磯村が敬礼をした。

「磯村、浜中さんが東京へ行くなと言われた。陸王を借りた。これが新京を見る最後かも知れない。一周して記念写真を撮ろう」



ふたりが再び貨物機に乗った。一式貨物機が小雨の中を離陸した。六時間後、ビクトリア・ピークが夕陽に映えているのが見えた。香港には渡らず、九龍埠頭の香港洲際酒店に泊まった。

「磯村、ジョーカーをここへ呼べ」

磯村が電話の受話器を取った。

「大尉殿、すぐ来るそうです。王虎山は何を話したのでありますか?」

「磯村、君はカメラだけだ。首を突っ込まない方が好い」

「ハッ、わかりました」

「ジョーカーが来たら、階下でメシを食おう」

続く、、
07/25
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第二話
第二話
第三章



ムーチョ・ロドリゲスが高士徳大馬路で人力車を降りた。ムーチョがポルトガル王立闘牛場に向かって歩いていた。大馬路は歩行者~人力車~馬車で混雑していた。新年が明けて今年はじめての闘牛があるからだ。中国人の警官が交番から顔を出して見回していた。三試合があり人気者のマタドール、ペドロが最後に出るので貴族がやってくる。警官はポルトガル人の男がタキシードにシルクハットを被っているのを見て首を傾げた。貴族なら婦人を連れて花馬車でやってくるからだ。警官が部下のひとりに男をつけさせた。男が入場料を窓で買った。だが、貴賓席の横のハイクラスの席に座った。闘牛を見るならベストだからだ。当然、切符が高いのである。警官が見ていると男が落花生をクチに放り込んではビールを飲んでいた。上流の者ならワインを飲むはずだ。男の右横の席が空いていた。警官は――誰かがやってくるのだと直感した。痩せて背の高い若い男が座った。警官がその男たちを観察した。あとから来た男がロシア人に見えた。ソフトを被った男は右耳がなかった。二人は面識がないのか挨拶も会話もしない。給仕に夫々が注文したが、一人は揚げた海老で、ロシア人はマスタードをぬったハムサンドイッチである。

ムーチョがペドロのパンフレットを見ていた。――ペドロ・ホセ・ハビエル二十五歳は十九回連続無傷のマタドールと書いてあった。勝率は九割。深い傷を負ったら牡牛の勝ちとする。牡牛に賭けた人は掛け金が九倍になる。エルトロ券を窓口で買ってくださいとアナウンスがあった。

――セビリア生まれか、、ペドロは浅黒く男前である。娘のマドンナが惚れた理由がわかる。耳のないロシア人は漫画本を読んでいる。

一回目の闘牛は、ノビエーロ(見習い闘牛士)が勝った。二回目は、牡牛がなかなか倒れずマタドールの負けとなった。

「紳士淑女のみなさま、今から一時間で最後の闘牛が始まります。この時間内にエルトロ券をお買いください。賭けの規則をパンフレットでお読みください」

どういうわけか、移動式舞台が闘牛場に運ばれた。スペインの名曲マラドーニャが拡声器から流れ始めた。ダリアの模様の民族衣装を着たダンサーが赤いパンプスの踵で床を踏んで鳴らした。両手に持ったカスタネットをカチカチカチと鳴らしてクルクルと回った。スカートとフレアが夏の花のように開いた。ウランがフラメンコを初めて見た。

「巡査部長、あのふたりは賭け札を買わなかったよ」と二人を観察していた警官が報告した。

「別在意(きにするな)」

賭けごとが嫌いなんだろうと気にしないことにした。

賭け札を買った観客が席に戻った。ウランが札を手に握った広東人の夫婦を見た。マタドールの絵札~牡牛の絵札の二種類である。トランペットが鳴った。ファンファーレだ。馬に乗って槍を持ったパラドールが四人出てきた。中世のスペインの衣装を着ている。つぎに赤い布ムレータを持った四人の男たちが現れた。ムレータで牡牛の興奮を高めるのだ。一通りの行進が終わった。
ペドロが現れた。写真と違って小柄な男だ。観衆が立ち上がって「オレー、オレー」と叫んだ。ペドロがゲートの前で膝間着いた。これは危険性が伴う闘牛では尊敬される行動なのだ。ゲートが開いて牡牛が突進してきた。ペドロが剣を右手に持って立ち上がった。その動作が一瞬遅かった。いきなり、牡牛に跳ね上げられた。観衆が息を飲んだ。賭け札が紙きれになるからだ。地面にうつ伏せになったペドロを牡牛が襲った。四人のムレータが赤い布で牡牛を誘った。ペドロが立ち上がった。怪我はなかったと剣を高く上げて見せた。観衆が歓声を上げた。――ペドロが牡牛に殺されるといいとムーチョが胸に十字を切った。パラドールは騎兵なのだ。牡牛を攪乱して槍で刺した。数回刺された牡牛が血だらけとなった。ペドロが矢を二本持って見栄を切った。牡牛が突進した。ペドロは横に飛んだ。その瞬間両手の矢を牡牛の背中に突き刺した。牡牛が遮ろうとしたパラドールを無視してペドロに向かった。牡牛の目には憎いペドロだけしかなかった。ペドロが剣をかざした。牡牛が突進してきた。剣が深々と牡牛の背骨近くに刺さった。牡牛が向きを変えた。ぺドロが一突きとばかりに剣をかざした瞬間、牡牛が突進してきた。ペドロが遅れた。ペドロが右脇を突かれて剣を落とした。観衆が総立ちとなった。ペドロ・ホセ・ハビエルが逃げた。牡牛が迫った。ペドロが柵を乗り越えようと手を掛けたが、脇の激痛に遅れた。牡牛の右の角がペドロの尻を突き上げた。ペドロが地面に転がった。観衆はあまりの惨敗に声が出なかった。牡牛は生き残った。ペドロが担架で運ばれて行った。

「牡牛の勝ち~、掛け金は九倍になります」



ペドロが麻酔から目を覚ました。窓から朝陽が射していた。――何が起きた?首をゆっくりと回して自分を見た。包帯で右腕が肩から釣られていた。左の臀部に添え木が見えた。体が動かない、、看護婦を大声で呼んだ。そして牛肉のトマト煮のアントレをオーダーした。

「この時間に取り寄せることは出来ません。下のキッチンで料理しますから一時間待ってください」

「赤いワインを持って来い」

朝っぱらから酒だが、墜ちた偶像ペドロ・ホセ・ハビエルはヤケクソになっていた。看護婦が憎しみのある目をした。自分は女給ではない、、ペドロがワインを一本開けてから一時間が経った。だがメシが来ない。ペドロが苛々していた。大声を上げようとしたとき、ドアにノックが聞こえた。さっき、ワインを持ってきた耳のない男とカートを押しているポルトガル人の二人だった。

「俺はマタドールのペドロだ。右腕が聞かない。それと腰かけることも出来ない。食うのをヘルプしてくれ。チップを弾むぞ」

「もちろんですよ。マタドール」とムーチョがケラケラと笑った。ペドロが怪訝な顔をした。

「シャンパンも持ってきた。痛みが遠のくよ」とウランがボルドー産の大瓶を見せた。

一時間後、看護婦が鎮痛剤を持ってペドロの病室にきた。悲鳴が上がった。真っ裸のペドロが血の海の中で仰向けになって死んでいた。

二月十六日、巡航船に乗ってふたりの殺し屋が帰ってきた。午後の三時、アバデイーンの埠頭に着くと磯村とイワノフが待っていた。誰も何も言わない。ムーチョが親指を立てた。

「ウラン、ムーチョ、ハウスが見つかったよ。見に行こう」

「叔父さん、スパシーボ」

「ムーチョ、グラシアス」

緑色の鯱鉾の屋根が印象に残った。赤レンガの三階建てのビルは深港湾の丘にあった。庭が広い。瀟洒なゲストハウスまであった。建物は鉄柵で囲まれていた。

「これ、高いんじゃないの?」

「エースが買ってくれた。ジョーカーが容赦なく値切ったけどね。一時間で半値になったんだよ」

「半値?」

「日本の統治下になると軍票が強制されるので米麦の闇屋が出来ない。持ち主の広東人は二束三文で売って上海へ引越した」と磯村が解説した。

「ボクたちも引っ越しダ」

イワノフとクララが三階~磯村一家が二階、一階は、共同のダイニング・キッチンだった。ウランとムーチョはゲストハウス。ふたりがオオグチを開けて笑っていた。サメは加藤洋行の屋敷に引っ越して、ジョーカーと相部屋と決めた。その方が戦略的なのだ。海岸通りが坂の下に見えた。屋台が犇めいていた。

「エースが磯村中尉の客間に電話を付けると言ってるよ。ウランとムーチョのハウスにマルコーニを置く。あとは、真空管ラジオ二台ダケヨ。来週、みんなで自動車を見にイク。エースが二台買えと言ってル」

「ボクら、念願のジープが欲しい。ああ嬉しい」とウランが言った。

そこへ、エースの運転するロードスターが来て停まった。

「珍寶海鮮坊で夕飯を食う。ムーチョの凱旋祝だ。中尉、サルーンに四人乗れるか?をジョーカーと俺が先に行っている。春燕とバオバオを連れて来い」

今回は部屋を取らなかった。密談がないからだ。

「ムーチョ、これから俺の許可なく人を殺さんでくれ。このような件なら許可を出した」と報告を聞いたエースがムーチョを戒めた。

「ウイ、タイパン」とムーチョが立ち上がってエースの手に接吻をした。宴会をやっていた広東商人の富豪たちが驚いた。写真屋がカメラを構えた。ムーチョが睨み付けると目を伏せて立ち去った。イワノフとウランがサイドカーでやって来た。水上生活者は、一族を恐れていた。魚雷艇を持っていると噂が立ったからである。今夜の海賊は、エース~カメラ~ジョーカー~ムーチョの四人を除いてサメ、イワノフ、ウランがケースに入った南部を胸のベルトに下げていた。



林彪は黒封のナンバーツウ、海龍星が殺されたと知って、次は自分だなと怯えた。契約殺人が商売だったので、自分は助からないと逃げた。その林豹というボスが愛車のアメリカ製のパッカード・クリッパーを売った。そのパッカードをイワノフと磯村が深海鎮で見た。真紅のバラを想わせる塗装の珍しい車だったからだ。磯村が写真を撮って帰った。それを見たエースが、誰がオーナーなのか上田社長に訊いた。なんと、珍寶海鮮坊のオーナーが買ったのだ。

「それ結構人気がある車ですよ」と自分も自動車狂の上田が言った。だが珍寶海鮮坊のオーナー王虎山は七代目のタイパンなのだ。浮かぶ大飯店のオーナーだけではない。先代がタイガーバームで富を造り上げていた。清朝時代から、ならず者千五百人を養う南支那海の海賊なのである。王虎山は父親から跡目相続を継いだばかりの若者である。

「王虎山も万山群島の海賊の領首だよ。今、海龍星が消えたから王タイパンが支配海域を拡げるだろう」とムーチョがエースに耳打ちした。エースが腕を組んで考えごとをしていた。考えごとをしている長谷川が囲碁の名人のように思えた。

春燕のお腹が大きくなっていた。バオバオはイワノフの膝の上で巨漢の鼻をつまんで笑っている。磯村の顔が憲兵ではなくなっていた。――この幸せな一家の将来は自分次第だ。ひそかに長谷川は磯村を守らなくてはならないと決心をした。そのとき、誰かの視線を感じた。

「ウラン、しばらく車は待てるか?」

「カピタン、モトルンカがある。ハウスを買って頂いた。自動車はイラナイヨ」

「いや、香港はモンスーン地帯だからね。気温が上がるとスコールが降る。台風も来る。磯村はあれで良いが、イワノフ~クララ~ウラン~サメ~クララのパパに大型車が一台必要だ」

イワノフが横で春燕とおしゃべりに夢中になっているクララを想っていた。――やっぱり車は要る、、

エースが「明日の午後一時に会議を開く」と言うと立ち上がった。どこかでフラッシュが光った。視力が抜群のウランが支那服の男が立ち去るのを見た。

続く、、
07/24
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第二話
第二話
第二章



「白波又五郎、お久しぶり」とジョーカーが言った。

「あんたは誰かね?」

「月岡夢次郎だよ」

月岡と聞いた白波の顔面が真っ白になった。そこへ、イワノフとウランがフィッシュボール・スープと五香炒飯を持ってきた。そして机の上に並べた。陳克強が手を出した。その禿頭をイワノフが平手でバ~ンとたたいた。ついでに、白波とユダヤ男のアタマを手で張った。白波がイワノフを睨みつけた。すると、イワノフが机ごと朝飯を部屋の隅に持って行った。ムーチョ・ロドリゲスがケラケラと笑った。

「白波さんよ、俺の質問に答えろ」

「俺はあんたを知らない」

「銀座の三ツ矢百貨店の三ツ矢海平を知っているか?」

「知らない」

「満鮮銀行の朴本鉄を知らないか?」

「そんな仁を俺は知らない」

「イワノフ、こいつにもう三日間メシを食わすな。陳とファルケンバーグにメシを食わせてやれ」とエースが白波に引導を渡した。
「エエ~?」と白波が叫んだ。陳とファルケンバーグがどんぶりに顔を埋めてガツガツと野良犬のように食った。ふたりは白波を見ないようにしていた。陳は白波の分も食ってしまった。

「お前ら、生かしてはおかない」と白波が脅したが、陳とファルケンバーグは綿のバットを床に敷いて寝てしまった。やがて陳克強が大きな屁を放った。



翌朝、イワノフが地下室へ行った。陳克強とファルケンバーグの頭を「起きろ」とピッピッとはたいた。エースが二人を釈放したのだ。顔を知られていない磯村が後をつけた。二人が馬車を拾った。西海岸周りで香港の港へ向かっていた。磯村も馬車を拾った。陳が御者に何がしかのペンスを払っているのが見えた。クイーンズ通りのカフェに入った。磯村も入った。一番奥のテーブルに座った。仕立てのいい背広を着た小柄な男が入ってきた。香港上海銀行の玉森頭取だ。玉森は店の中をひとしきり見回していたが、太極拳の格好をしている磯村を支那人と思った。磯村が紅茶を飲んで月餅をクチに放り込むと小銭をテーブルに置いて立ち上がった。通りに出て人力車に乗った。車夫に人を待っているのでこのままここにいてくれと言って小銭を渡した。磯村がケースからハンザ・キャノンを取り出した。陳とファルケンバーグが出てきて玉森と握手をしていた。そのとき、クラクションが鳴った。磯村が連射で写真を撮った。ふたりが人力車に夫々乗った。港に着くと埠頭六番に入って来たフェリーに乗った。磯村も後部から乗った。
エース~カメラ~ジョーカー~イワノフ~ウラン~ムーチョが下町の点心菜館に集まっていた。すでに、イワノフが竹籠の器を山積みにしていた。

「中尉、それで陳とファルケンバーグはどこへ行ったのか?」とエースが磯村に訊いた。

「ネーサン通りの商店街にある福笑大飯店にチェックインしたのです。自分はこの太極拳の姿では入れませんでしたが、しばらく人力車の中から商店街の風景を撮っていたのです。すると、あのびっこの辮髪の力士が歩いて来たのです」

そこまで語ると、ジョーカーが声を出して笑った。なぜなら、ジョーカーが力士のケツを撃った張本人だからである。

「エース、その福笑大飯店はね、黒幇(へいぱん)の本部なんですよ」

「ジョーカー、俺もそう思っていたところだ」

「エース、福笑大飯店を盗聴する?」

「ムーチョ、その通りだ。やってくれ」

「大尉殿、広東の日本軍は何を言ってきたのでありますか?」

「総員一万二千名で香港ni侵攻する。現在、訓練中であると言ってきた。いつとは言わんかった。司令官は田中均大佐だ」

「私たちはどうするんですか?」

「磯村、日本軍が香港の英軍の情報を送れと言っている。それはもう把握しているが城門貯水池を見ておこう」

「カピタン、対空速射砲はあの競馬場のあたりにしかないよ。北東軍港の駆逐艦はもう逃げたよ」

「作戦開始となれば、日本軍は偵察機を飛ばす。俺はあまり心配をしていない。だが」

「だが?」

「香港攻略はいつのことか判らんから、とりあえず、俺たちは福笑大飯店を襲う。黒幇(へいぱん)を一掃するチャンスだ」
何故か、ジョーカーが笑っていた。ムーチョが手を叩いて喜んでいた。

「ジョーカーと俺が作戦を立てる。大した作戦ではない。娯楽だと思って良い」

「はあ?」と中尉に戻ったカメラが言った。

「それから白波又五郎は釈放する。二日に一回ほどメシを食わせておけ」

「白波は、もうそうとう痩せていますが?」

「歩けないほどガリガリにしてやれ」



「ジョーカー、日本が香港を統治すると俺たちの口座はどうなるのかね?」

「どうにもしない。日本政府は日本の領地にするつもりがないから英国ポンドも金庫の中で眠るだけですよ」

「玉森は信用出来るか?」

「信用出来る玉じゃない。エース、これ見てください」とキャビネットサイズの写真をカバンから取り出して机の上に置いた。エースがみると、貯金口座や電信振り込みの記録であった。中のひとつに――黒駒勝男上海総領事のファイルがあった。黒駒の残高は一万ポンド。ファルケンバーグの口座には、二万ポンドの巨額が入っていた。玉森の口座には五千ポンドが記録されていた。

「ジョーカー、このファイルをどうして手に入れたの?」

髪を四分六に分けてポマードをべったり塗ったジョーカーは笑っているばかりで返事をしなかった。エースが長谷川に戻っていた。――月岡夢次郎は金庫破り破獄の達人なのだ。

「エース、ファルケンバーグは香港を脱出する考えだろう」

「黒駒と玉森は?」

「香港を逃げる理由がないからそのままです」

「ジョン・アンド・ジョン商会のジョン・マーチン男爵の銀行はどこかね?」

「大英帝国ブリトン銀行ですが、ヨーロッパはもとよりアメリカ、日本にも口座を持っている」

「何か動きはあるか?」

「あります。先月、神戸の極東貿易銀行の口座を解消している」

「ははあ、広東の日本軍の内部情報が洩れているね。黒駒勝男だろう」

エースと相談役のジョーカーが綿密な作戦を立てては、手直しをしていた。外でサイドカーの音がした。窓から中庭を見るとと、ウランとイワノフが守衛と握手をしていた。

「カピタン、海龍星らが九竜海運の貨物船に荷を積んでるよ」

「どうして判った?」

「磯村中尉とウランが福笑飯店を見に行ったのよ、ネーサン通りは交通止めになっていたのネ。福笑飯店の前に警官が立っていた。トラックの行列にクーリーが家具や梱包された箱を積んでいたのネ」

「トラックの後を人力車で着いて行ったら、九龍埠頭の第三桟橋に貨物船が横付けになってた」とウランが言った。そこへ磯村が飛び込んできた。

「大尉殿、偵察機が一機、 貯水池の上空を飛ぶのが見えました」と写真を見せた。見ると、ゼロ戦だった。長谷川が――岩田純一大尉ではないかと一瞬想った。

「磯村、水島さんを連れてきてくれんか?」

「ハッ、」と磯村は言うとサル―ンに乗って走り去った。



「水島さん、また出番ですが」

「貨物船を殺るんですね?その海龍星がボスなんですね?」とサメに戻った水島が笑った。

「いや、海龍星はナンバーツウだ。貨物船を乗っ取る考えだ。積荷が欲しいのだよ」

サメ~エース~カメラ~ムーチョが天女に乗って竹洲仔島に向かった。そこで魚雷艇に乗り換えた。よほど嬉しいのかサメが大声で笑った。ジャンクの杜船頭は竹洲仔島で待機した。

「杜さん、沖に発煙筒の合図が見えたら全速力で来てくれ」

「タイパンの為ならなんでもスルヨ」と筒袖に手を入れて清国式叩頭をしスルヨ」
雨が降り出して、あたりが暗くなっていた。

「好都合だ」とサメがエースに言った。

「海龍星~子分の力士~陳克強とファルケンバーグが乗った九竜海運の貨物船が九竜埠頭を出港した。機関砲を一機載せている」

これもウランがムーチョに急報した。

「エース、あと三十分で貨物船がここを通るよ」

磯村とムーチョが擲弾筒を船首に取り付けた。元海賊のムーチョの方が慣れていた。サメが東の方向を双眼鏡で見ていた。
「ああ、来た来た」と双眼鏡をエースに渡すと、魚雷艇を低速にして沖へ出た。船体が赤錆びた貨物線はそうとう老朽船に見えた。速度をいっぱいにしてマカオに向かっているのがその煙突から吐き出す黒煙で判った。エースが写真を撮った。実は、あまりやることがなかったからである。

貨物船のブリッジに立っていた海龍星が、魚雷艇が緩々と近着いてくるのを見た。

「機関砲を持ってこい」とびっこの力士に怒鳴った。しかし、相手は魚雷を持っていると気が着いて青くなった。サメは魚雷艇を貨物船から一〇〇〇メートルで微速に落とした。そして停船せよと旗を振った。貨物線が停まった。サメに双眼鏡をエースが渡した。自分は木箱を開けてアリサカを取り出した。

「機関砲を海中に捨てろ」とムーチョが旗を振っていた。

「あの野郎」と海龍星が双眼鏡の中に見えたムーチョを見て唸った。力士三人が機関砲を捨てる風をして撃ち出した。だが、一〇〇〇メートルでは届かない。海面にプスプスと弾丸が落ちた。

「ぽ~ん」とアリサカが鳴った。ひとりの力士が海中に落ちた。残った力士が機関砲を海面に投げ込んで両手を高く挙げた。太った辮髪の力士が可笑しかった。磯村がハンザ・キャノンを手に持って撮っていた。サメが発煙筒を焚いた。ジャンク天女が現れた。黒封のナンバーツウが積荷のすべてを奪われた。

「おまえ、必ず殺してやる」と海龍星が杜にガナッタ。船頭は笑って応じなかった。ジャンクが貨物船を離れた。

サメとムーチョが魚雷を放った。シングル魚雷が白い航跡を描いて貨物船の船腹に吸い込まれた。

「ど~ん」

海龍星~びっこの力士~陳克強とファルケンバーグが乗った九竜海運の貨物船が逆さとんぼりになって海中に消えた。海面に重油が広がっていた。ケラケラと笑うムーチョの声が風の中に聞こえた。



香港上海銀行の玉森が自分の口座から五千円のカネが消えていることに気が着いた。青くなって黒駒の口座を調べると一万ポンドが消えていた。ファルケンバーグの二万ポンドも消えていた。玉森の心臓が停まりかけた。――月岡の仕業だと確信があったが、軍令憲兵の長谷川大尉が恐かった。しばらくして落ち着きを取り戻すと上海の満朝銀行に電話をかけた。満朝銀行の頭取が黒駒勝男に電話をかけた。

「ぱ~ん」

上海領事館の岸田武官が拳銃の発射音を聞いた。岸田が黒駒総領事の執務室へ走って行った。黒駒がデスクにうつ伏せになって息絶えていた。同じことが満朝銀行でも起きた。頭取が拳銃をクチに咥えて自殺したのである。

続く、、
07/23
女は女神ではない、、


8年前、アリス(28)は、清楚で純粋な女性。「彼女の声は液体のゴールド」とサイモンは絶賛。女性では珍しいバリトン。歌唱力で一次予選を満場喝采で通過した。この動画は、再生数7700万。最近ではトップ。



第二次予選でも、審査員はアリスを絶賛した。ところが、1600万人の投票の結果は落選だった。理由は、lady Tramp 「ベッドからベッドを渡り歩く堕ちた女の印象」とです。イギリス人は気品を好むからなんです。ソニーエンターテイメントはアリスをテストしたが契約しなかった。失脚して以来、うつ病になったと言っている。

では、何故、女性は媚を売り、体を無料で与えたり、または売るのか?それは、女性と言えども毎日食わなきゃならないからなんです。良い伴侶を得て家庭を造るのがベストなんだけど、アリスは今年36歳で独身なんです。なんとなく結婚に踏み切れないまま齢を取ったということです。自由を選んだとも言える。こういう女性は日本でも増えている。伊勢が知っているイギリスの女性は本能で生きていて、タフではないです。アメリカの女性は気品が高いとは言えない。だが、体力も精神力も強いんです。遮二無二生きる。夫が先立つと、すぐ相手を見つけて結婚する。うちのは、スペイン、ドイツ、フランスの混血で兵隊を戦地に空輸する部隊の大尉だった。伊勢がデートしていた頃はベトナムに飛んでいた。殴れば殺されます。イギリスの女性だけでなく、日本人の女性も壊れやすいと思う。ということで、女は女神などじゃない。男と同じ生物なんです。伊勢

*多忙なんだけど、連載は遅れても続けます。伊勢
07/22
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第二話
第二話
第一章



一九四〇年十一月のある日のことカレンの手紙を上海領事館の岸田武官が送ってくれた。

―私の最も愛するミチオへ、

双子が一歳と五か月になったのよ。離乳食を食べるようになったのよ。今日から保育園に行くの。歩いて行ける距離なのよ。毎日四時間だけど友達が好きらしいのよ。保育園で私が作ったお弁当を食べて、いろんな遊びを習っているわ。サンフランシスコも木枯らしが吹く季節に入ったわ。もうクリスマスの飾りが出ているのよ。でも、領事さんが昨日、怖い顔をしていらしゃった。同僚の女性が――日米の間に戦争が始まるんじゃないかって言っている。これが最後の手紙にならないことを祈っています。カレン・スター

双子が保育園で遊んでいる写真が入っていた。タイパンがハンカチで瞼を拭った。

一九四〇年十一月二十八日の夜明け、エース~カメラ~イワノフ~ムーチョ~サメがジャンクに乗り込んだ。ウランとジョーカーは留守番だった。船頭の杜と倅たちが帆を上げた。波は穏やかで北斗七星が北に見えた。天女は南西に向かっていた。微かに竹洲仔島が見えた。このクイーン・ビクトリア号作戦はエース長谷川が指令官である。だが実際は水島が艇長でムーチョが電信係である。ジャンクが五人を竹洲仔島で降ろすと、アバデイ―ンに帰って行った。

海賊が持ってきたほやほやの朝飯を食って休憩をとった。早起きだったので、みんな毛布を被って寝てしまった。サメの腕時計が鳴った。全員十時に起きた。イワノフが用意した四日分の食料と毛布や枕を魚雷艇に次々と積んだ。サメとエースが魚雷を点検した。ついで、発煙筒と探照灯を点検した。サメがエースの目を見て、OKと親指を立てた。小屋に戻ると、ムーチョが毛布をアタマから被って無線の受信機を耳に当てていた。誰も喋らなかった。ムーチョが東岸の軍港に停泊していた駆逐艦が出航したとエースに言った。サメが鉛筆で計算しては海図に書き入れていた。兵隊に戻った長谷川が、水島がいなかったらどうなっていたかと思っていた。赤い夕陽が水平線に沈む頃、竹洲仔島を出た。海上に出ると寒く曇天である。進行方向を見ると黒い雨雲が海面に垂れていた。

「南支那海は、ここ二日ほど時化だよ」とサメが横に立って、黒い海原を見ているエースに言った。エースが黙っていた。

「エース、俺たちは駆逐艦よりも二時間早く着くよ」

「カピタン、魚雷艇に名前を付けよう」

蒸して湯気が出ている豚饅の入った籠を手に持ったイワノフが言った。

「そうだな、デンスケで好いか?」とエースが豚饅をひとつ手に取った。陰鬱な満州から解放されたためか、長谷川がジョークを言うようになっていた。

「イギリスのデンスケね。好いネームだ。エースには文才がある」とサメが大口を開けて笑った。そして豚饅をクチに放り込んだ。肉汁がクチの中に広がった。サメが豚饅を美味そうに咀嚼しながらデンスケの巡航速度を十八ノットに下げた。万山群島は海難事故が多いからである。コンパスを見て進んだ。サメとエースが闇の中に浮かんだ大きな島を凝視していた。

「エース、あれは遊泳島だ」と舵を南西に大きく切った。デンスケは万山群島最後の遊泳島を右手に見て進んだ。三日月がときどき雲間から顔を出してはまた隠れた。サメが速度を上げた。

「サメ、西沙諸島まで何時間かかるのかな?」

「ここから二百八キロ。巡航速度二十五ノットなら雨が止めば、六時間弱で見えるじゃろ。フィリピン側の南沙も、ベトナム側の西沙も日本の島だと聞いた」

「日本海軍の巡洋艦には出くわさないかね?」

「いや、出くわさんだろう。クイーン・ビクトリア号は、西沙の東百キロを通る。エース、これさ、戦闘になるんかな?」

「サメ、日本とイギリスはヨーロッパの戦争では中立なんだ。戦闘になることはない。俺たちはイギリスのデンスケに乗った海賊なんだから関係ない」

「しかし、魚雷一本で大丈夫なんかね?」

「大丈夫だ」とエースが大声で笑った。

ムーチョが操舵室へやってきた。

「思ったとおり、駆逐艦は西沙へ向かっている。ウランがビクトリア号と駆逐艦の交信を掴んでいる。ジョーカーが後方を心配せず目的を達することを願うってさ」

「ははは、そっちこそ心配するなと言ってやれ」

「サメ、その駆逐艦だが、速度はどのくらいなんだ?」

「廃艦ぎりぎりの駆逐艦でも三〇ノットは出る。だが、小回りが出来んのよ」

百キロ南西へ来た。海の色が鉛色に変わった。雲間から星が見える。あと三時間だ。サメがコンパスと海図を見ていた。そして後ろに立っているエースを振り返った。

「エース、海流が計算出来ん。コースから四〇キロ外れると双眼鏡でも船影は見えない」

「同じことをビクトリア号も言っている。東へ流されていると言っている」とムーチョがサメに言った。

「よし太陽の位置を計算しよう」とサメが六分儀を箱から取り出した。海軍兵学校の航海士科で習う天文航法だ。

――天文航法とは、陸地の見えない外洋で天体を観測することで船舶や航空機の位置を特定する航海術である。この航海術は数千年に亘って徐々に発達してきた。目に見える天体(太陽、月、惑星、恒星)と水平線(視地平)の仰角を計測するのが基本である。太陽と水平線から太陽の高度角を計測するのが最も一般的である。熟練した航海士はそれに加えて月や惑星や航海年鑑に座標が出ている57個の恒星を使う。

マドロス帽子を後ろ前に被った粋な姿の水島鮫蔵が海図と六分儀を交互に見ては点と線を書きいれていた。これは地球学の博士のエースに興味を持たせた。河ではないが大洋と天体なのだ。―戦争が終わったら大学の研究室に戻りたい。そして天文学をやろう、、

「エース、判ったぞ、俺たちは意外に近い処におる」とサメが言うとコンパスに合わせて舵を右へ回した。
二時間が経った。さっきまで雲間に見え隠れしていた星も三日月も消えた。雨雲が海面に届いている。あちらこちらで雷の閃光が走った。

「時化が西北から急速に近着いている」とサメが言ったとき、雷の閃光が海面を照らした。遠くに霧笛が聞こえた。クイーン・ビクトリア号が十キロ西に浮かび上がった。客室~艦橋~船尾、電球という電球を点けている。船体を満艦飾に輝かせて霧笛を連続して鳴らした。サメがエースを振り返った。マドロスがクチに咥えた国分に火を着けた。そして深々と吸うと白い煙を吐き出した。くわえタバコだけがこの男の欠点だが注意するわけにも行かない。魚雷艇を操れるのはサメだけだから。

「エース、舵を取ってくれ」と言うとサメがキャビンの外へ出て行った。探照灯を点けて信号を送った。

「こちら、英国王立海軍CMB魚雷艇である。応答せよ」

「何か問題が?」と探照灯で返事してきた。

「近辺に海賊の動きがある。ビクトリア号を臨検する。ただちに停船を命じる」

ビクトリア号のブリッジは大騒ぎになった。船長のサー・グラスゴーが首を捻っていた。

「臨検?」

「キャプテン、これは罠です。海兵隊を甲板に集めてください」

「ブレン機関砲を持ってこい。舳先(へさき)に二基据えろ!」と赤ひげの大尉が機銃班に命令を下した。エイブルマンと呼ばれるベテランの航海長と船長が双眼鏡で魚雷艇を観察していた。

「間違いなくCMB魚雷艇です。英国旗も上げている。積んでる魚雷は一本です。おかしいな」

「ビクトリア号、ただちに停船せよ」と探照灯がチカチカと暗い海に光った。

「キャプテン、停めましょう」

エイブルマンが双眼鏡で見ると、魚雷艇も停船したのか、波間を上下している。

「CMBは ビクトリア号から三・六キロメートルで停めた。機銃が届かない距離だからです。これは海賊です。駆逐艦に連絡します」

ムーチョがサメと代わって信号を点滅させた。

「われわれは海賊ではない。船長と話しがあるだけだ。クルー四人と救命艇を送れ」

発動機付きのライフボートがビクトリア号を離れた。白波を蹴立ててやってくる。一五分でCMBの舷側に着いた。クルーは英国海兵隊だ。全員が武装していた。エース一人が救命艇に乗り込んだ。海兵がエースの体を探った。「クリーン」と言った。三分後、ビクトリア号の縄梯子を昇った。船長のサー・グラスゴーが長谷川を見た。

「日本人か?」

ナイトの称号を持った船長が卑下するように訊いた。

「そうだ。ユーと交渉をしたい」

ユー(おまえ)と呼ばれたことがないグラスゴーの赤ら顔が真っ赤になった。

「グラスゴー男爵と呼べ」とボースンが怒鳴った。今にも殴りかかる様子を見せた。エースの目が左右に動いた。それを見たグラスゴーがボースンを遮った。

「日本の若者よ、勇気があるな。名は何という?」

「長谷川関東軍憲兵大尉だ」

士官たちが動揺した。

「これは英国女王陛下の名を冠したクルーザーである。気品のあるひとたちが乗っている。知っているのか?」

「知っている」

「要件を言え」とグラスゴーが言うと、士官たちが詰め寄った。

「まず、この犬どもを引きさげろ」

グラスゴーは、先客9〇〇名~自分を含む4〇〇名の乗り組員が魚雷一発で南支那海の藻屑になることをよくわかっていた。

「わかった。要件を言ってくれ」

「白波又五郎~陳克強~リチャード・ファルケンバーグの三人をここへ呼び出せ。俺は、この三人を連れて行く。それだけだ」

グラスゴーはこの三人がインドのボンベイで乗船したことを不快に思っていた。だが、ロンドンの船舶保険大手の要請では断れなかった。それが、この若者が連れて行くと言っている。グラスゴーが笑った。三人の男が士官に付き添われて甲板に現れた。 三人とも、言い合わせたように三つ揃いのスーツ~ハイカラ―に蝶ネクタイを絞めてシルクハットを被っていた。長谷川が白波の細い目に印象を受けた。白波は頑健な体格をしていた。頬が高いので朝鮮人に見えた。陳克強は泥鰌髭を生やしている。小柄だが太っていた。いかにも美味い物をたらふく食ったという顔をしていた。ファルケンバーグはユダヤ系アメリカ人だ。三人とも、ふてぶてしい態度を取った。救命艇がビクトリア号を離れた。サメが魚雷艇を一八〇度回して東北に向かった。二時間後、駆逐艦が水平線に見えたがどういうわけか旋回して香港へ向かった。エースとムーチョがシルクハットの三人を観察していた。五時間が経った。

「何か食うものないのか?」と陳克強が要求をした。その顔にイワノフがビンタを入れた。もの凄い衝撃が走った。陳克強は生まれて初めてビンタを食ったのだ。「何をしさらす?」と、イワノフを睨んだ。イワノフがその禿頭を平手でバ~ンと叩いた。目が回った陳は文句を言わなくなった。生まれて始めて頭を叩かれた。あまりの屈辱に体が震えた。エースが三人の写真を撮った。前~後ろ~横、、記念写真だと笑った。ムーチョが白波を見てケケケと笑った。上空で飛行機の爆音が聞こえたが機影は見えなかった。国分をクチにくわえたサメは、一直線に竹洲仔島の隠れ家に向かっていた。夜が明け始めた。遊泳島が前方に見えた。天女に乗り換えてアバデイーンに戻った。

磯村と月岡が桟橋で一行を迎えた。ふたりは笑っていなかった。長谷川が不審に思った。磯村が両脚を揃えた。

「大尉殿、日本帝国陸軍が仏領インドシナに上陸しました。アメリカが石油輸出全面禁止に踏み切ったのあります」

「何だと?それだとイギリスも石油禁輸に踏み切るだろう」とサメが言った。

――ああ、それで駆逐艦が旋回したんだ、、ビクトリア号もシンガポールに引き返すだろう。日本語がわかる三人のギャングが青くなっていた。特に白波の顔が真っ白になっていた。その白波を長谷川が見た。そしてクチを曲げて笑った。

イワノフが三人を地下室に入れて手錠を掛けた。

「メシいつ食わすのか?」とまた泥鰌髭が目を三角にして言った。

「三日間、水だけやれ」とエースがイワノフに言った。

「エエ~?」と三人が同時に叫んだ

三人は、まだシルクハットを被っていた。ウランが次々とハネ飛ばした。

ボクシングの経験がある白波が右の拳を固めていた。

「ヤルカ?」とウランが言った。拳が飛んできた。ウランが左フックを一発、白波の横ッ腹にお見舞いした。白波が床に倒れた。

「磯村中尉、今夜、宴会をやる。地下室の三人をどうするかな?」

「上田さんのシェパード2頭を借りてあります」

「よしどこで宴会をする?」

「カピタン、ボク、南北楼が気にいってオリヤス。寿司職もオリヤス。ボク、マグロの大トロが食いたいヨウ」

「高くつく男だな」と長谷川がエースに戻っていた。

春燕とバオバオも招かれた。襟が高く袖のない絹のチャイナドレスを着た苗族の妻を磯村が誇りに思った。一生涯見たことがない英国の城のような酒家に春燕が眼を丸くした。バオバオはイワノフの腕に抱かれていた、バオバオはこの巨漢が大好きなのだ。ウランが室内をチェックした。そして「メシクッタカ」と言った。

続く、、

お知らせ

完結編の第二話に入りましたが、実は、在日米軍基地の燃料タンクの塗装の基準が変わり、その条件を充たすぺーパーワークを今月末までに提出しなければならないんです。小説の連載と両立しない。一時、筆を停めますのでよろしく。伊勢


07/21
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第十五章



「ジョーカー、口座だけどね、金(きん)に兌換出来る米ドル以外の紙幣はどれも保証はない」

「その通りです。香港上海銀行が潰れたら、すべてがパーになります」

「自分と磯村は、故郷の土地を買った。それは残るが、満州円~日本円~関東軍が送ってくる軍票は全部紙切れに過ぎんね。ジョーカーの知恵を借りたい」

「つまり、エース、あなたは、皇国日本は滅びるとお考えですか?」

長谷川が目を瞑った。

「滅びる」

「それで、マカオのゴールドなんですね?」

「そうだが、その先が問題なのだ。それをどうする?」

「カリホルニアに口座を持つのがベストですが出所が判ると凍結される。その点では、闇の深いロンドンがいいのです。または、スイスです」

「ここ二年は、日本円は大丈夫だろう。二年以内に分散しよう」

「上海の一色さんなら米英の戦争債を買うでしょうね」

月岡があたかも「そうしろ」と言わんばかりに長谷川に言った。

「それだけは俺には出来ん」

「エース、もう一つ英米のロスチャイルド系銀行と組んでこの香港に貿易会社を作る手があります。JPモーガンです」
長谷川の目が遠くを見る目になっていた。佐和子と娘三人を想った。カレンと双子の男の子を想った。――自分は青森に帰れるのだろうか、、長谷川の胸に人生初めて不安が横切った。

磯村の運転するモーリスがゲートを通って泉水の前で停まった。イワノフ~ウラン~水島が降りた。みんな背広に蝶ネクタイを締めていた。水島だけが似合わなかった。だが、マドロス帽を被ってパイプを咥えている。なかなかのハンサムなのだ。

「銅鑼湾で夕飯を食う。君たちに話がある」

昼下がり、モーリス二台がビクトリア・ピークを港に向かって下がって行った。長谷川が運転するロードスターは人目を引いた。イワノフが横に座っていた。九竜半島が北に見える。高士威道で右へ曲がった。大きな噴水のある南北楼のドライブウエイに入った。玄関に、あずき色のロールス・ロイスが停まっていた。ロードスターから降りた長谷川が磯村に「一枚撮れ」と言った。磯村がロールス・ロイスを連続写真で自動小銃のように撮った。

「タイパン、いらっしゃい」と詰襟の制服を着た英国人のボウイが並んでお辞儀をした。長谷川がボウイの顔を見た。そしてロードスターの鍵を渡した。磯村が英国人のボウイを睨みつけると鍵を渡した。ボウイがイワノフとウランを見て緊張した。明らかにボデイガードだからである。

「タイパン、ハセカワ、ミスター・ウエダのゲストと聞きました」と支配人がウイリアム・ハドソンと名乗った。長谷川は個室を取っていた。個室に入ると、イワノフがチェックした。「メシクッタカ」と言った。盗聴器は仕掛けられていないという意味である。

「クイーン・ビクトリア号を乗っ取ろう」と長谷川がクチを切った。聞いた一同がクチをパックリと開けて長谷川を見ていた。一言も反対意見を言わさない雰囲気である。

「乗っ取るというには言い過ぎだが、乗客三名を連れて帰る」

「誰なんですか?」

「今に判る」

英国の女王の名を頂いた大洋航路客船が定期的に香港にやってくる。クイーン・ビクトリアは、ロンドン~エジプト~インド~香港を往復していた。オーシャン・ライナーは一時的に船旅や軍隊の輸送など他の目的で使用されることがある。貿易に携わることを前提条件に設計されており、そのため、外洋において波浪や不測の事態に耐えるため強固に建造されている。数週間の航海で消耗する燃料やその他物資を搭載するため搭載能力が大きい。つまり巨船である。

ドアを叩く音がした。香港一の紹興酒が運ばれてきたが誰も杯を取らない。どんどんフルコースが運ばれた。だが、誰も手を付けない。イワノフまで、腕を組んだままエースの顔を見ていた。

「何の為に?」と、ついにサメが訊いた。

「金銀財宝でありますか?」とジョーカーが訊いた。

長谷川はクチを固く結んで、それには返事をしなかった。

「十二月一日に香港に入ってくる。作戦は俺とサメが作る。君たちは、俺かサメの命令で動く」

「カピタン、ボクとウランは貯金しているよ」とイワノフが無関係な発言をした。

「どこに?」と長谷川が訊いた。

「トランクの中よ」

「イワノフ、口座は残高が判るからダメだ。俺が代表で香港上海銀行に貸金庫を借りよう。それと、何事もジョーカーに相談しろ」

「自分も仲間に入れてください」と磯村が言った。

「じゃあ、俺も」とサメが乗った。

「でも、エースは月給なんか出さないよ」とジョーカーが一同を驚かせた。

「エエ~?」

「いや、いや、それは誤解を招く。作戦が終わるごとに支払う。関東軍の給料はメシの足しにもならない。俺が稼ぐ」

イワノフが立ち上がって長谷川の手に接吻をした。ウランも、磯村も、水島も、、月岡だけが座って笑っていた。

「カメラ、それで春燕の健康状態は?」

「今回はラクチンだと言っております」

「美味い物を春燕とバオバオに持って帰れ」



「大尉殿、あのロールス・ロイスの持ち主が判りました。黒幇(へいぱん)のボスの中のボス、海龍星です」
長谷川は「うむ」と言っただけであった。

十一月の中頃、広東の軍用トラック修理工場に依頼した魚雷艇のエンジンがリホールされて戻ってきた。ラジエーターも日本製に代わっていた。スクリュウも川崎重工の最新型が梱包されていた。

「二十ミリ機銃が欲しいが、どうにもならんな」と水島が長谷川に言った。

「サメ、そのシングル魚雷は使えるのか?」

「これはOKよ。だが一本しかないよ」

「ビクトリア号を乗っ取ると言っても、オーシャン・ライナーには、英国皇室海兵隊が乗っているよ」とサメが――わかっておるのかとエースの目を覗きこんだ。

「こっちは、たったの六人。どうして乗っ取れるんでありますか?」と磯村が上官の目を見た。

エースは、それには返事をしなかった。

「ジョーカー、魚雷艇の修理代金の明細を出してくれ」

「もの凄い金額です」

みんなが固唾を呑んだ。そしてジョーカーの顔を見た。

「約二十万円です。即金を要求したので払いました」

みんながエースの顔を見た。

「たったそれだけか?」とエースが言うと一同が安心した。



六人の男が万山群島の竹洲仔島の猟師小屋に隠していた魚雷艇を見に行った。エンジンなどを据え付けるためだ。天気晴朗なれども波は高かった。だが、台風の海ではない。船頭の杜さんが喜んでいた。帰りにブリを釣ると言っていた。エース~サメ~イワノフ~ウランの四人を残してカメラとジョーカーはジャンクと一緒にアバデイ―ンへ帰って行った。

四人がエンジンを据え付けた。ウランが無線を取り付けた。磯村と音信するためだ。イワノフとウランが重作業を受け持った。船体の底部を鉄板で強化した。最後に舵を取り付けて作業が終わった。これに五日が掛かった。

六日目の朝、四人が起きると、雨が降っていた。イワノフがサンドイッチを作っていた。ウランが各自の水筒に白湯を入れていた。四人が丸太に乗せたCMBをゴロゴロと転がして桟橋に行った。水島がエンジンを始動した。油圧計を見て横に立っている長谷川に親指を立てた。OKのサインだ。操舵室に戻った水島がコンパスと海図を見ていた。

「エース、初航海だ。どこへ行くかな?」

「英国海軍はどこにいる?」

「台湾の沖にいる。香港には老朽艦だけだ。この雨じゃあ、湾仔(わんちゃい)(軍港におるやろう)

「サメ、ここから西へ行ってマカオが見えるところまで行こう」

「よっしゃ。この竹洲仔島からたったの四〇キロだ。こいつは最高時速が七八キロだ。巡航速度の六〇キロでも、三十分でマカオが見えるはずだ」

途中、巡航船のジャンクとすれ違った。そぼ降る雨で街は見えなかったがマカオの山が見えた。エースが写真に撮った。イワノフが無線で磯村を呼び出していた。

ガーガー、ピーピー、ビギャ~、、「こちらイワノフ。応答せよ」

「こちらカメラ。テンフォー」

「ワレラ、アバデイ~ンに戻る」

ジャンク天女が竹洲仔島に迎えにきた。雨が止んで香港方面に完璧な虹が出ていた。アバデイ~ンへの帰途、烏賊釣りを楽しんだ。ヤリイカである。いくらでも釣れた。烏賊がピュッピュッと墨を吐いて鳴いた。甲板の底に生け簀がある。そこへ放り込んだ。ジャンクが桟橋に着くとジョーカーと磯村と春燕とバオバオが待っていた。

「ボク、ハラヘッタヨ」

「さっき市場でチンゲン菜と菜種油を買ったのよ。今から烏賊を炒めるわ。イワノフ、韮と唐辛子は好き?」と春燕が心配そうに訊いた。

「なんでも大好きよ」とウランが笑った。イワノフが甥を睨んだ。磯村のハウスで宴会になった。

「大尉殿、それで、マカオが見えたんですね?」

「山だけさ」

「自分も見たいです」

「来月見れるよ」

ここ三日ほどウランの姿が見えなかった。磯村が訊いてもイワノフは笑うばかりで要領を得ない。ただ、カタカタとマルコーニを打っていた。海賊どもは今か今かとエースの命令を待っていたが、十二月になっても「出かけるぞ」と言わなかった。ただ、水島鮫蔵艇長がイワノフと準備をしていた。そんなある日、磯村がイワノフに訊いた。

「モトルンカを一日貸せ」と磯村がイワノフに言った。ソビエト軍用サイドカーのことである。

「サルーンじゃダメなの?」

「目立つんだよ」

訊くと、春燕が香港島を一周したいと言ったのだと。田舎の市場で買い物がしたいのだと。

「う~ん、これ壊すとウランに締め殺されるよ。壊したらそのサルーンくれな」

モトルンカ七五〇のゴンドラに春燕がバオバオを膝に載せて乗った。春燕は金魚の模様のある香港パンツである。ふたりはハイキング帽子だ。磯村がベルトで二人を椅子にクリップした。春燕が大きなエクボで笑っていた。

「ヘエスケ、東回りで香港の埠頭へ行こう?」

「道がないよ」

「それじゃ、沙湾(サンデイ・ビーチ)周りで湾仔(わんちゃい)を見に行こうよ」

横でイワノフが心配そうな顔で見ていた。ヘエスケがキックした。凄い爆音がしたが、バオバオがキャッキャッと喜んでいた。モトルンカに乗った磯村一家がドカドカドカと西へ向かった。サンデイ・ビーチは北風が吹いて海が荒れていた。ひとしきり、バオバオを遊ばせた。香港の埠頭に向かう田舎道には、ぽつんぽつんと野菜を売る野天の店があった。

「買い物は帰りね」

北に埠頭が見えた。そのまた向こうに九龍の埠頭が見える。日本の客船がブリッジの上に日の丸を翻していた。モトルンカが海岸通りを東へ向かったいた。やがて、湾仔(ワンチャイの繁華街に入った。

「ねえ、春燕、昼飯を四五六酒家で食う?」

「うん、宝石が見たいの」

サイドカーを駐車場に入れて鎖で鉄管につないだ。

「盗まれたら、きさまを殺す」と磯村がアテンダントの支那人を脅した。親子は四五六酒家で点心を食べた。妊娠四か月の苗族の娘が蒸し器を山積みにしていた。磯村は酒を頼まなかった。それには理由があった。どうもつけられている、、上着のポケットに入れていたカラーボール・ピストルを手で確かめた。点心で満腹になった。腹をこなすために少し歩いた。荘士敦道にある六福玉宝という宝石の有名店に入った。春燕がガラスケースに入った宝石を見ていた。磯村はドアの近くのベンチに座った。

――やっぱり、つけられていた。

三人の弁髪がショウウインドウを見て中を窺った。三人とも力士のように凄い体格である。そのひとりがびっこを引いていた。磯村がポケットのピストルを握って外へ出た。三人の力士が角を曲がって消えた。駐車場からサイドカーを出して東へ行った。

「春燕、ここからさきは通行禁止なんだ」

「どうして?」

「英国王立海軍の軍港だから」

「ふ~ん、男ってつまらないのね」

「どうして真珠を買わなかったの?」

「アタイ、子供が生まれるから、真珠は要らない」とエクボが笑った。磯村は――自分は春燕を愛していると心の底から思った。アバデイーンへ行く山道を登った。急坂である。春燕が後ろを振り返ると湾仔(ワンチャイ)の繁華街が見えた。四キロほど走った。左手に競馬場が見えた。ハッピーバレー香港競馬場である。競馬場を過ぎて黄土鋪道という標識を左に曲がった。さらに急坂になった。磯村が手動ギアをセコンドに入れた。頂上の見晴台に着いた。

「オカネモチの屋敷ね」と春燕が言った。

「ジャーデイン展望台というんだ」磯村が風景や北東の軍港をハンザ・キャノンに収めた。全長一〇〇メートルの老朽駆逐艦が見えた。何故、老朽と判ったのか?それは船体と煙突から見て旧式の蒸気タービン艦だからである。だが、これは調べる必要があると磯村が憲兵に戻っていた。アバデイーンが南に見えた。途中でサイドカーを停めて野菜や果物を買った。



ウランがいい夢を見ていた。箒に乗って魔女の編隊が夜空を飛んで行った、、ウランがマカオの珠海市のホテルで目が覚めた。魔女の夢はホテルの雑誌売り場で買って読んだ漫画が原因だった。バルコニーを開けると、爽やかな風が入って来た。ウランが背広を着てソフトを被った。実に似合っていた。マカオは香港と違った。道路が広く大王椰子の並木道なのだ。イエズス会の教会の尖塔が見えた。その教会の斜め前のカサブランカというカフェに入った。アラベスクの入り口が荘厳だった。十七世紀の建物である。

ムーチョ・ロドリゲスは復讐に燃えていた。日焼けした手でセイロン茶に角砂糖を四個入れてゴクリと飲んだ。―娘のマドンナが憧れていたスターの闘牛士とデイトをした。マイタイ酒を飲まされて強姦された。マドンナが護身用のナイフで寝ているマタドールを刺そうとした。腕を捻られて肩を外された。敬虔なカトリック教徒のマドンナは教会の鐘楼から身を躍らせて死んだ。十六歳だった。

「俺たちをどうして知ったのか?」

「俺の口座に香港上海銀行からカネが振り込まれた。振り込み人は、ツキオカとだけだった」

「あんたの商売は何か?」とウランがロドリゲスに訊いた。

「海賊のメンバーだった」

「誰がボスか?」

「海龍星だ」

「娘のことをボスに相談したのか?」

「した。だが、マタドールは海龍星にカネを払った。海龍星は俺にお涙金を投げた」

「海賊船のなんの役目だったのか?」

「マルコーニ電信機を船員学校で習ったけど、競争が激しくて年上の俺はいつも失業していた」

「そうかわかった。ミスター・ツキオカは俺らの仲間だ。タイパンに信頼されている。ところで、今の住居はあんたのモノなのか?」とウランが言うとムーチョが怪訝な顔になった。

「いや、借家さ。マドンナが死んだからマカオの町には用はない。俺には生きる道がない」と鼻を啜った。

「俺、明日の夕方、巡行船で香港へ戻るが一緒に来るか?」

「是非、俺を連れて行ってくれ」と声を出して泣き出した。華やかなスカートを穿いたポルトガル人の女給が驚いていた。

双眼鏡で海を見ていたイワノフがジャンクの帆影を捉えた。サイドカーに飛び乗った。夜明けが近かったがまだ月が出ていた。数人の船客がジャンクから桟橋に降りた。ウランの姿が見えた。叔父と甥が抱き合った。

春燕が朝飯を作っていた。フィッシュボール・スープと五香炒飯だ。バオバオも起きていてもう食べている。ジョーカーがこの三人を外人部隊と読んだ。ムーチョが電信に精通しているのをエースが高く評価した。

続く、、
07/20
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第十四章



「ジョーカー、この流民の一日の収入は何なのかな?」

エースとジョーカーに住み込みの女中がトーストと紅茶を持ってきた。エースが女中に会釈した。

「フィッシュ・スープが日本円に換算すれば五銭です。その五杯分が一日の現金収入の目安らしいのです」

「現金以外というのは?」

「物々交換です。魚と米が主流です」

「この人たちはもっと収入が欲しいのだろうか?」

「もちろんです。支那では、農民なら旱魃による飢饉で浮浪者になるか軍閥に召し上げられるのです」

「どうすれば手なずけられると思うか?」

エースとジョーカーがサンパンの人々を指揮下に入れる協議をしていた。

「難しいですね。何しろ、背骨の髄から疑い深い」

「給料を信じない?」

「そうなんですよ。日当をそれも前金を要求する」

「すると、忠誠心は買えないね」

「エース、支那人ですよ」とジョーカーが笑った。

そこへ、上海にやったカメラが上海から帰ってきた。

「ご苦労さん。何か判ったかな?」

「エース、犬養少将が、ジャンクはダメだと仰っています」

「俺も気が着いていた。夕日に赤い帆はロマンチックだが船足が遅過ぎるね」

エースが顎に手を当てて考えていた。そしてマルコーニを持ってきた。カタカタカタと長いフンドシ電報を打った。返事が一時間後に返って来た。暗号である。

――長谷川大尉殿、お久しぶりであります。水島艇長は年齢五十五歳に達して博多雷艇小隊長を退任した。馬渡島(まだらしま)でアザラシ漁をしております。連絡しますか?

――アザラシ漁?勿体ない。香港へ招待したいと伝えてください。

「磯村、水島鮫蔵艇長に香港に来てもらう」

磯村が神田川の最期を想い出していた。福州丸(ふうちょうまる)が夕闇に消えて行った。今でも夜中に飛び起きる。浴衣がびっしょりと汗で背中にひっついていた。

――長谷川大尉殿、われ老骨なれども、喜んでお受けしたい。サメより。

そのサメが福岡~上海~九龍へと飛んで来た。日本政府はサメ・ミズシマを加藤洋行の社員として旅券を発行した。エースが、ごま塩アタマの水島を「サメ」と呼ぶことに決めた。

「水島さん、ここは香港。サメさんと呼ばせてください。自分はエースですが、俺で行きます」
水島がビクトリア・ピークの豪邸に驚いていた。

「エース~カメラ~ジョーカー、、うむむ、夫々のお方に特技がある。なかなかいいですな」と水島が言ってから、不思議そうに、イワノフとウランの顔を見た。

「これはイワノフ・ジャポチンスキー。こっちは甥のウラノス・サマルカンド。われわれの護衛隊です」

「ずいぶん、体格がいいね」と水島がごつい手を出してイワノフとウランと握手をした。

「今、カメラとジョーカーがイワノフに泳ぎを教えているんですよ」

「そうなのよ。ボク泳げないからネ」

「エエ~?」

クラシックなモーリス・サルーンを見た水島の目が丸くなっていた。六人の男が、モーリス・サルーンに乗り込んだ。水島にイワノフの隠れ家を見せるためである。サメと呼ばれる男は、アバデイ~ンの港が気にいった。水島がサンパンに住む水上の住民を初めて見た。

「これがゲットーですね?」

隠れ家に着くと、水島の部屋を見せた。狭かったが南西に海が見えて窓から陽が入る。台所にはアメリカ製の冷蔵庫もあった。水島が冷蔵庫を開けてみると腸詰めがぎっしりと冷凍されていた。ストーム・ウインドウから海に浮かぶジャンクが見える。気温も海も穏やかである。時化る玄界灘よりも快適だった。水島が気にいったのか口元が揺るんでいた。

「ミスター、サメ、子供はいないノ?」

「おるけど、兵隊だ」

「ママさんは?」

「早う死んでしもた」

「イワノフ、あまり詮索するな」とエースが人差し指を振った。

磯村が春燕とバオバオを連れてきた。珍寶王國に浮かぶ中国料理酒家、珍寶海鮮坊で水島の歓迎会を盛大に行うためである。

「バオバオ?面白い名前だね」

山海の珍味が運ばれてきた。銅鑼の音が入り口で聞こえた。胡弓の悲しい悲しい音色に酔客がさらに酔っていた。

「ミスター、サメはお酒飲むの?」と春燕が訊いていた。

「飲むよ、海の上ではやることがないからね」

「ところで、エース、何故、ワシを呼んだの?」

「海賊船の船長になって貰うためだ」

「海賊船?」

なぜか水島が笑っていた。なぜなら海賊になることが水島鮫蔵の生涯の夢だったからである。

「サメさん、今夜は歓迎会だ。ビジネスは明日からだ」とカメラが言った。これは命令なのだ。磯村憲兵中尉はエースに次いで上官だからである。月岡が水島を観察していた。

「エース、どうも春燕がまた月痛のようです」

「それは良かった。サメさんとカメラの一家に乾杯しよう」

「エース、この鱶のヒレスープは美味いね?」

「鱶は鮫だけど?」

「アザラシを獲ってどうするのかね?」とジョーカーがサメに訊いた。

「アザラシのアタマをポコンとこん棒で殴るのよ」

「それから?」

「皮を剥いで下駄の緒にする。臓物は捨てて肉は干物にする」

「酷いなあ」とジョーカーが言うとエースが声を出して笑った。

イワノフがバオバオを膝に乗せていろんな顔を作っては笑わしていた。視力の良いウランは周囲に気を配っていた。

翌朝、アバデイ~ンの四人がビクトリア・ピークの上田邸にやってきた。いよいよ、海賊ビジネスのスタートなのだ。

「エース、会議の前に気になることがある。香港上海銀行の玉森頭取です。われわれの行動は把握出来なくても、口座の出納が判る。それが上海の黒駒総領事に筒抜けです」とジョーカーが言った。

「例えば?」

「例えば先月の関東軍の振り込みです。玉森はエースが長谷川道夫軍令憲兵大尉と知っている。ただ、こないだのようにモーリス二台を買うために大金を引き出すと、関東軍以外の収入があると判る。あの陸軍の予算てのは冗談ですからね」

「分かった。これは明日、君と話す。サメさん、何か意見を言ってくれ」

「意見も何も、海賊商売なら船が要るよ。それも雷艇のような高速船でないと不可能だよ」

ジョーカーがエースを見た。

「これは俺がサメさんと話す」

「カピタン、これさ、怖い話じゃないノ?」とイワノフが恐ろしいという目で聞いた。

「バカモン、恐くない海賊がこの世にあるのか?」とエースが言うと一同が笑った。



九月に入ると台風がやってきた。空気は湿っているが気温が下がった。香港や九龍の丘に茸がニョキニョキと生えた。魚も秋の鯖やマグロがシイラに代わって店頭に並んだ。もうすぐ、烏賊釣りの季節だ。やはりサメは魚釣りの名人だった。魚のはらわたで漬ける干物の作り方をサンパンの人々に教えた。鮮魚の選別、さしみの作り方を教えた。平和な日が続いた。そんなある日、エースが海賊予備隊を集合した。

「日本~ドイツ~イタリアが軍事同盟に署名した。先月八月、ルーズベルトはイギリスとオランダを仲間に入れて日本を経済封鎖する協議をしている。たぶん、石油を禁油する」

「大尉殿、米英オランダが石油を禁油すると日本はどうなるのでありますか?」とカメラが磯村中尉に戻っていた。

「対米開戦をするだろう」

「日米が開戦したらわれわれはどうなるのですか?」とジョーカーが訊いたが、その目は意外にクールなのだ。

「われわれの海賊業が繁盛する」とエースが言うと、さすがのベテランたちも騒めいた。

「エース、あのジャンクはあかん。なんとか雷艇ぐらい手に入らないか?」とサメがぞんざいに言った。軍隊ではないので、言葉もぞんざいでよいとエースが言ったからだ。

「雷艇は無理だ。だが、犬養少将がアイデアをくれた。イギリスの魚雷艇が一隻、広州湾の入り口に沈んでいるのだそうだ」と荷包湾を指さした。

「アバデイ~ンから南西一三〇キロですね。どうして引き揚げなかったんだろうか?」とサメが水島鮫蔵に戻っていた。

「理由は海流が速いうえに海底三〇〇メートルと深いからだ」

「エース、いつ頃沈没した?」

「最近だ。サメさん、その引き揚げ方を考えてくれ」

サメがその太い腕を組んで考えていた。

「エース、その魚雷艇は沿岸モーターボートかな?」

「正解。魚雷艇は製造が一九二二年と古いもので、英国海軍は沿岸モーターボートと呼んでいる。日本海軍の鉄船の魚雷艇に対してマホガニーの合成木材なのだ。だが、スピードは雷艇に負けない」

――五五 foot CMB~十一トン~スピード三五ノットから四二ノット~乗組員五名~一八インチ魚雷二本~機関砲一基、、

「日本の雷艇の半分のサイズだ。魚雷も小型だ。英国海軍は魚雷も放置したのかな?」

「そうだよ。廃船に近いし、誰も引き揚げられないと判断したのだろうね」

「どうやって見に行くことが出来るかな?」

「ジャンクで行く。俺~カメラ~ジョーカーとサメ~船頭~船頭の倅二人の七人で行く」

「支那人の船頭は信用できるのですか?」

「上田社長が育てた。つまり加藤洋行の雇人さ。日本語も上手だ」

「エース、三日くれんか?サルベージの作業工程を作る」

「サメさん、三日でも七日でもいいから考えてくれ」

「エース、サメと呼んでくれよ。俺ね、香港に来てから、鮫になった気分なんだ」



台風が接近しているとラジオのアナウンサーが言った。朝から雨が降っていた。夜明けにジャンク天女が出港した。ジーゼル機関を据えたので天女は巡航速度16ノット、一〇〇トンの輸送船なのだ。クレーンもリグもデレッキも据えてあった。サメとエースがデレッキを見ていた。デレッキは、本体とは別に設置された原動機付のウインチからワイヤを介して本体ブームの上げ下げや旋回を行うことで稼動する機械装置のことである。見ると原動機はヤンマー、デレッキの本体はクボタ鉄鋼が作ったものだった。

「エース、CMBは十一トン。水中なら三分の一の軽さだよ。このワイヤは、五トンが限界だろう。海面に出るときにワイヤは切れるもんだ」

「そのときはどうする?」とエースが訊いた。

「心配要らん」

天女は帆を揚げなかった。5時間で現場に着いた。太陽がぼんやりと雲間に見え隠れしていた。荷包岬に灯台の灯が点滅するのが見えた。灯台まで三十キロはあるとサメが言った。つまり肉眼では、ジャンクは見えないはずだ。水島が磁石を付けたワイヤを海底に降ろした。その磁石は金属に近着くとスイッチが入り甲板の電灯が点く仕掛けなのだ。ジャンクがそのワイヤをジグザグに曳航した。

三時間が経ったが電灯は点かなかった。みんなは船室で電灯を凝視していた。月岡が時計を見ると、昼を過ぎていた。「交代で昼飯を食おう」と磯村が、春燕が作った中華丼を行李から取り出した。そのとき、船の霧笛が聞こえた。音からすると、そうとう大型船だ!エースが緊張した。弁当を食うのをやめて息を呑んだ。サメが双眼鏡で北の方角を見た。遠くにマストに点滅する赤い灯が見えた。ひと昔前の三本マストの蒸気駆逐艦が台風に怯えてアバデイ~ンの軍港に急いでいた。風速が四〇キロとまだ嵐とは言えないが、波が高くなり波長が短くなっていた。

「サメ、今日は帰るか?」とエースが言った。そのとき、艦橋の電灯がパチっと点いた。クルーが歓声を上げた。

「サメ、波が高い。今日はこれだけにして戻ろう」と再びエースが言った。だがサメは返事をせず、潜水具を着始めた。そして船頭に巨大な三本鈎が先に付いたデレッキを降ろすように命じた。――魚雷艇のキャビンの窓か手摺りに必ず引っかかると確信していた。デレッキのワイヤがピ~ンと張った。やはり引っかかった。

「よし。引き揚げろ」

ワイヤがガリガリと音を立てた。海流が強い。ワイヤが斜めになった。魚雷艇の船体が化け物のように水中に浮かんだ。水島が鈎の付いたマニラロープを持って海中に飛び込んだ。もの凄い波である。水島が浮き沈みしていた。長谷川に戻ったエースが月岡の顔を見た。浮き沈みする水島をみて、クールな男が珍しく青くなっている。――はて、死刑台では青くならなかったが?その月岡がパンツ一つになった。隣の磯村がハンザ・キャノンを構えていた。やはり手が震えている。水島が海面に現れて「ひゅ~」と息を吐いた。手を振った。ウキを投げろと言う合図だ。月岡が飛び込んだ。二人の海の男が一〇本のウキを魚雷艇に付けるのに二時間掛かった。牧場育ちの長谷川には到底出来ない技であった。南支那海は雨雲が垂れ込み、豪雨に変わっていた。

魚雷艇を万山群島の竹洲仔島へ曳航した。船頭の生まれ故郷だからだ。長谷川が腕時計を見ると朝の六時である。雨は止みそうもない。水島と月岡と磯村が魚雷艇の水を掻き出していた。磯村と船頭の倅が夕飯を作った。七人は漁師小屋で一泊した。月岡と磯村が疲れ切って寝ていた。長谷川が起きると水島と船頭の姿がなかった。雨具を着て漁師小屋を出ると雨はすっかり上がっており、青空が広がっていた。

「エース、魚雷はシングルヘッドという旧式の沿岸用だね。使えるが、一本しかないよ。機関砲は錆びてダメだわ。弾丸は油紙に包装されている。さて機関だが、航空機用のそれも水冷式エンジンだ。これも分解してみないと使えるのかも判らん」と戻ってきたサメが言った。六人の男が魚雷艇を丸太に載せて漁師小屋に引っ張り込んだ。マホガニー製合板の船体は全く傷が着いていない。サメが水冷エンジンを床のマウンドから外した。四時間も掛かった。そしてデレッキで釣り上げた。メシを炊いて食った。昼寝をした。

六人がジャンク天女に乗って竹洲仔島を出た。アバデイ~ン方面にジャンクが数隻出ていた。台風の後は、烏賊がよく釣れるからだ。船頭の倅が帆を上げた。天女は西風を受けて快走した。水島が延縄を投げた。五〇キロ級のビンチョウ鮪が三尾掛かった。船頭の倅が支那包丁で手際良くはらわたを抜いた。伊豆諸島の男月岡が笑っていた。長谷川が月岡と相談して杜という船頭に一〇ポンドを与えた。

「タイパン、多謝」と言ってお辞儀をした。船頭はしゃべれば、一〇〇%命を落とすことを知っていた。タイパンを裏切ることは香港ではタブーなのだ。

続く、、

07/19
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第十三章



結局全員が香港島に住むことになった。エースとジョーカーは、ビクトリア・ピークの加藤洋行の別棟を借りた。上田社長が申し出たからだ。上田にとって、長谷川は貴重な存在なのだ。上田は日本軍が広東から香港に進駐すると長谷川のプロテクションンが必要になると思っていた。一方の長谷川にも上田の翼(つばさ)が必要なのである。ふたりは守りあう形となった。磯村夫婦とイワノフ組はアバデイーンの丘にハウスを二軒借りた。隣同士である。引っ越しと住環境に慣れるまでにひと月が掛かった。磯村がライカ35mmを買って、ウランに撮り方を教えた。ウランのサイドカーが届いた。ふたりが香港はもとより九龍半島をドカドカと走り回った。エースがウランに撮影するオブジェクトを指示した。ウランは「ウンウン」とうなずいていた。ウランが撮った写真を磯村とジョーカーが現像して整理した。

磯村にも足が必要だった。エース、磯村、ジョーカーが英国モータースの販売店へ行った。一九三九年型のモーリス・テンフォー・サルーンが展示されていた。エンジンが一二八〇㏄六気筒。価格一八六ポンド。

「もう少し馬力が欲しいならこっちだ」とセールスマンが同じサイズだが、エンジンが一五六〇cc。価格が二二〇ポンドを見せた。両方とも、緑色のフェンダーでボデイ―が黒でシックである。あまりにも値段が高いので磯村が黙っていると、長谷川が馬力の大きいほうを選んだ。

ーーこれが自分との違いなんだなと磯村が思った。

「一番良いモーリスはあるか?」

「これだ」とセールスマンが「お前、カネはあるのか?」と言いたげにエースを見ていた。モーリス・テンシックス・スペシャルであった。一三七八cc6気筒。ロードスターである。フェンダーが緑色。ボデイ―はクリーム。コンバーチブルである。

「いくらか?」

セールスマンがびっくりしてマネージャーを呼んだ。マネージャーは、イギリス人女性であった。ボデイ―を意識したタイト・スカートに黄色いブラウス。乳首が突起していた。エースが突起を見ていた。女性が三五〇ポンドだと言った。ジョーカーが「エース、やめとけ」と耳打ちした。すると、マネージャーがにっこりと笑った。

「サルーンとロードスターの両方を買うなら、一〇%割引く」と言ったのである。長谷川が女性の青い目を見て笑顔になった。だが「買う」と言わなかった。セールスマンがマネージャーに耳打ちをした。

「あなたはタイパンなのね。一五%を割引きます。これで、私はクビになるわ」と笑った。



四月になった。香港の丘に鉄砲ユリが咲き乱れた。気温が一八度から二五度である。香港は北回帰線上にある。台湾の南~インド北部~エジプトの中部へ線を引くとだいたいその気候が判る。磯村が借りているハウスの庭にツツジが満開である。苗族の春燕は庭が好きなのだ。ハウスの周りに野菜を植えた。香港は何でもよく育った。バオバオが母親の横で日向ぼっこをしていた。長谷川、磯村、ジョーカーが山田洋行の別棟の中にいた。

「アメリカ~イギリス~オランダが連盟で日本に対して禁油処置を施行する協議に入ったよ」

「はあ?東京政府に対策はあるのでしょうか?」

「対米交渉しかない。だがワシントンが理不尽な要求をすれば日本の軍部は黙ってはいないだろう」

磯村は新緑の初夏だのに寒気がした。ジョーカーは腕を組んで目を瞑っていた。エースがこのふたりの部下に伝えた理由は、生き残り作戦をスタートしたいからである。当然、軍人であるからには逃亡は許されない。長谷川は上官がいないばかりに困難なパズルを自分で解かなければならない。自分は死んでもいいではない。佐和子と娘三人~カレンと双子の男の児をどうするのか?磯村も軍人だ。だが春燕とバオバオはどうするのか?イワノフ~ウラン~ジョーカーはどうする?

「エース、まだ時間があります。香港で何をするのかでわれわれの運命は決まります」とジョーカーがエースにスローダウンするように言った。

「自分は、大尉殿に助けられた人間です。何でも命令してください」と磯村が自分は軍人なのだと言った。

「中尉の英語は進んでいるのかね?」

「ハッ、自動車のラジオが役に立っています」

「二人とも水泳は上手か?」

「わたしは三宅島の人間です。磯の小島のわたり蟹なんです」

「自分は筑紫川の河童であります。ヘラブナを素手で摑まえる技腕を持っております」

「バカモン、それでは、二人で、イワノフに泳ぎを教えてやってくれないか?」

八月が来た。気温はそれほどではないが、湿気がすごい。満州から持ってきた着物は全く役に立たなかった。五人の男も春燕もバオバオも現地人のように黒くなった。イワノフとウランは裸になってサンパンに乗って毎日、どこかへ出かけていた。サンパンは海老漁用と住居用の二種類がある。香港ではサンパンに住む者を「タンカの民」と呼んでいた。つまりボートピープルである。タンカには千年の歴史がある。アバデイーン湾には、六〇〇のサンパン~四〇〇の帆かけ船が浮かんでいた。支那人たちはジャンクと呼んでいた。サンパンは小舟で海老漁の船なのである。長谷川が上田社長の知り合いから一〇〇トンのジャンクを買った。カッター2隻、船室6室、通信室、ダイニングキッチンがある。大型なのでマストが2本ある帆かけ船である。なので、でっかい舵が付いてた。イワノフがそのジャンクを見たとき、外洋船だと気が着いた。ウランとジョーカーがイワノフに平泳ぎを教えた。それでも救命道着をいつも着けていた。夜は、手に持って寝た。メバチ漁もうまくなった。この二人はだいたいが野性のシベリア人だった。二人は香港で死んでもいいと思うほど気にいっていた。

「エース、何故、ジャンクを買ったのですか?」とジョーカーが訊いた。アルバムを作っては解説を書いていた磯村が顔を上げて長谷川を見た。

「密輸だよ」

「はあ?」

「海賊をやる考えだ」

「はあ?」

ふたりの部下は冗談だと思っていた。だがエースは笑っていなかった。

「何を密輸するのでありますか?」

「ゴールドだ」

そのわけを前大蔵官僚のジョーカーは知っていた。だが長谷川は実行しようとしている。

「どのように密輸しますか?」

「アバデイーンの流民を味方にする。彼らが協力するのか自分には判らないがチャレンジする価値はある」

「日本の為に?」

エースは返事をしなかった。沈黙が続いた。電話が鳴った。上田社長だ。

「エースの計画は私でも判る。だが広東へ行って広州湾封鎖作戦の全容を知るべきですよ。日本海軍の広州沿岸行動は大規模です。エース船長の海賊船がこれと衝突するとエースでも誰でも確実にあの世に行きます」



磯村が運転するモーリス・サルーンが九竜半島の西北端へ向かっていた。青々と茂る林を抜けた。ロンドン流行の英国車は土埃を巻き上げて走っていた。北西に海が見えた。入道雲が立ち上がっていた。磯村が峠でサルーンを停めた。写真を撮る為だ。磯村が握り飯と緑茶の入った水筒をもって車を降りた。春燕が作ったのだ。

「天水囲岬へ飛んで来るんですね?」とジョーカーがエースに訊いた。エースが頷いた。

「ジョーカー、磯村良く聞け。武漢三鎮から広州へ南下した日本軍は何の抵抗もなく広東全域を掌握した。なぜなら蒋介石が逃げてしまったからだ」とエースがハルピンの山中武官から受け取った電信の内容をふたりに話した。

――一九三七年七月七日の盧溝橋事件が発端となった支那事変は宣戦布告のなかった戦争である。それが拡大していく中、自由貿易港としての英領・香港を中継とする華南地区補給路は当時、日本海軍が実施中の大陸沿岸封鎖の網をくぐる最大のものであった。香港を経由する中国の輸入量は一九三七年から激増した。一九三八年一〇月頃には海外補給総量の約8割に達すると見込まれるに至り、また香港、広東等の援蒋補給路の基地は同時に列強の援蒋策謀の源泉地となった。大本営は、この香港ルートを遮断すべく、一九三八年秋、武漢作戦と時を同じくして広州を攻略することとし、一九三八年九月一九日、大陸命第二〇〇号をもって第二一軍および第四飛行団の戦闘序列及び編成を令すると同時に大陸命第二〇一号をもって広東の攻略を命じたのである。

 ――一九三八年一〇月一二日、塩沢幸一海軍中将の指揮する第五・第九戦隊基幹に支援された第二一軍の主力部隊は、第一八師団と第一〇四師団が、およそ一〇〇隻の輸送船に分乗し、白耶士(バイヤス)湾に奇襲上陸。一〇月一三日には第二一軍司令部も上陸して広東攻略戦が開始された。途中国民政府軍を撃破しつつ、一挙に一〇月二一日広東に入城した。占領翌日の二二日には珠湾を封鎖して外国船の出入りを禁止した。また第二一軍を構成したもう一つの師団である第5師団は海軍陸戦隊と協同して虎門要塞を攻略し、珠江を遡行して仏山(一一月二日)附近に進出した。こうして日本軍は一〇月一二日の上陸以来、早くも一一月初頭には広東附近の要域を制圧占拠した。

「磯村、俺が広東で勉強しているうちに、上海の海軍陸戦隊と俺たちに必要な武器を話せ。犬養大佐を覚えておるか?犬養さんは少将になられた。白耶士(バイヤス)湾に奇襲上陸したのは上海陸戦隊だよ。話をよく聞いてくれ。ここを間違えると命取りになるぞ」

「ハッ、大尉殿、全部、了解です」

「磯村、大尉はやめよう。エースで十分だ。君も、そうだな、、カメラとしよう」

「カメラ?」とジョーカーが笑った。――自分は関東軍憲兵中尉なのだ。磯村がジョーカーを睨みつけた。

「ジョーカー、笑ってはいけない」と気が着いたエースが言った。

「磯村中尉殿、自分が悪かったであります。どうか堪忍してください」

双翼の水上偵察機が海岸で待っていた。九五式水上偵察攻撃機である。エースが後部座席に乗り込んだ。坂本中尉と名乗った操縦士が星型七気筒を始動した。七・七機銃もついていた。小型爆弾二個を翼の下に据えていた。

「これは、時速三五〇キロと遅いのであります。広東基地まで三十分であります」と坂本は言うとワイパーのレバーを引いた。霧雨だ。眼下に広東が見えた。河南ならどこにもある河の街だ。

「坂本中尉、岩田大尉をご存知か?」

「はっ、大尉殿、存じております。たいへんなお方ですから」

九五式水上偵察攻撃機が着陸した。兵舎の上に日の丸が翻っていた。エースが司令官室に歩いて行った。

「指令官殿、それで広州湾ルートは完全に掌握されたのありますか?」

長谷川が憲兵情報将校に戻っていた。

「いや、支那人ちゅうのは簡単じゃない。密輸船を完全に排除したとは言えない。われわれも全域を把握する艦船も飛行機も不足なのだ。理由だが、大本営は機動部隊を広島に帰している」

百隻の舟艇というのが、ヤンマージーゼルを取り付けた漁船だと聞いて長谷川の目が大きくなった。

「それ以上の船はないのでありますか?」

「今年に入ってから雷艇を依頼した。ようやく、リストを送ってきたよ」

長谷川が水島を想い出していた。リストを見せて貰った。水島鮫蔵の名はなかった。エースに戻った長谷川が何となくがっかりした。それと、上田社長の懸念は日本軍を恐れる杞憂だと判断した。

「指令官殿、岩田大尉はここにおられるんですか?会えないでしょうか?」

「いや、それは言えないんだ。岩田君は、急降下爆撃訓練を指導している」

翌朝、広東を離陸して広州湾に出た。

「坂本中尉、珠江を遡行して仏山を見せて頂けないかな?」

「あのあたりに密輸船が頻繁に群れているのであります」と言うと、九五式水上機を旋回して西南の空へ向かった。やはり霧雨が海上を覆っていた。エースがハンザ・キャノンを取り出したが、視界が悪かった。すると、坂本が双翼機を高度三〇〇メートルに下降させた。雨雲の下に鉛色の広州湾が見えた。サンパン船が櫓を漕いでいる。ジャンクが緩々と北上していた。貨物船は皆無である。

「坂本中尉、貨物船を目撃したことはありますか?」

「一昨年の封鎖後には一隻も見ません」

「アメリカは蒋援助を諦めたのかな?」

「いえ、いえ、イギリス海軍が代理をやっております」

「どのようなルートで?」

「ビルマ・ロードであります。これは迂回を余儀なくされたわけですが、一方で、魚雷艇をこの膠州湾の入り口付近に送っています」

――イギリスの魚雷艇は製造が一九二二年と古いもので、沿岸モーターボートと呼んでいる。日本海軍の鉄船の魚雷艇に対して合成木材なのだ。だが、スピードは雷艇に負けないものであった。

そのとき、眼下に大きなジャンクが見えた。大虎水道から西北へ流れる沙湾水道を遡っていた。坂本が高度五〇メートルまで急降下した。そして三〇キロ爆弾を切り離した。その一発でジャンクは二つに折れた。

「なぜ、爆弾を落としたのですか?」

「あれは密輸船です。二十ミリ機銃が帆の下に見えたからであります」

坂本中尉は鋭い目を持っていた。

水上機が桟橋に着いた。磯村とジョーカーがモーリス・サルーンの前で待っていた。天蓋を開けて、九竜半島の新界の水田地域を走った。西海岸に近いので、九龍の地形がよくわかった。フェリーで香港に渡ると、日がとっぷりと暮れた。

続く、、
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スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第十二章



長谷川と磯村が新京関東軍参謀室にいた。ふたりは、三人の参謀の質問に答えていた。大佐~中佐~少佐のトップである。参謀の後ろには書記が並んでいた。長谷川たちの後ろには士官が十名座って訊いていた。国会の証人喚問に似て空気がびりびり張り詰めていた。磯村がプレッシャーに潰れそうになっていた。

「長谷川大尉の言うことはわかる。しかし、香港は難しいぞ」と参謀大佐がクチを切った」

「日本軍は広州へ向かっている。英米はこの意味を熟知している」と参謀中佐が言った。

「日本軍の香港占領を今か今かと英米は警戒している。そのときに君が香港で地下活動をするわけか?」と参謀少佐が首を傾げた。

「少佐、だがね、長谷川大尉は諜報戦では世界クラスだ。支那大陸には、ほかに人材がいない。香港に進駐する前にこの闇の深い英領を把握する必要がある。俺は賛成だ」と大佐が言うと、中佐が頷いた。

「ハルピンに欠員が出るのは問題ではないのでありますか?」

長谷川が右手を挙げた。

「島原領事閣下から許可を頂いております」と長谷川が言うと参謀室がどよめいた。

「島原さんは、ここ数年間はソ満国境には紛争が起きないと仰っている。昨年九月のノモンハンが最後だと見ています。東京も同じ意見だそうです」と参謀中佐が言った。

「それでは、長谷川大尉、予算を提出してくれ」

参謀三人が長谷川大尉の情報特務班を香港に送る決定をした。参謀が立ち上がると、士官たちがガタガタと椅子を片付けた。

「磯村、午後の貨物機でハルピンへ戻ろう」

ふたりが兵隊食堂で昼飯を食った。

「磯村、春燕にはまだ言ってはならない」

「わかっております」

「磯村、君は中尉に昇級する。予算を多く貰うためだ。なにしろ、ジョーカーの給与を念出しなければならないからね」

「ブルース陳を殺ったのは千金に値します」

「黒幇(へいぱん)は必ず復習をする」

家族のある磯村が震えた。



ハルピンに戻った長谷川が一家を呼び寄せた。トトロで会議を開いた。イワノフが神妙な顔をしていた。長谷川一家と別れるのを悲しんでいるのだ。

「イワノフ、ウラン、君たちも香港へ行くよ」

「ワオ~!」とイワノフが両手を挙げて吠えた。クララが驚いて振り返った。ジョーカーが――ヒグマのような男だなと思った。

「最初の三か月間は、地理~人物の調査~黒幇(へいぱん)を監視する。俺とジョーカーは上海へ頻繁に行くことになる。住居が最も大事だ。始めは、ホテルを転々とする。キタイスカヤのように安全ではない。それと武器をどうするか?」

イワノフがワクワクしてきた。磯村は緊張した。

「俺たちは、香港では加藤洋行の社員だ。従って西九龍に家を借りる。島原領事が五人の旅券を作る。名前が変わる。春燕とバオバオはそのままだ」

「今日は何もやることないから、カピタン、飲むよ」

「イワノフ、好きなものを食って飲め」

「明日から、持ち物を整理しろ。荷物は少ない方が良い」

「カピタン、ウランがサイドカーを持って行きたいよ」

「GPUのか?」

「あれ結構いいよ」

「貨物機で送るしかない。平房に聞いてみるけど」

クララが香港のキイパオを着て出てきた。イワノフのお土産である。トトロの親父が、娘がヒグマにキッスするのを見た。――仕方がない。ママが幼いクララを残して死んだから、、

イワノフが料理をバンバン注文した。牛レバの塩焼き~雉のリンゴ煮~子羊の骨付き焼肉~ウラル地方の玉葱スープ、、

「イワノフ、ウラン、明日の朝、アレックス館へ来てくれ。梱包を始めよう。磯村中尉は自分の持ち物を梱包するだけで良い」

「中尉ですって?」

ジョーカーが驚いて訊いた。

「磯村は中尉に昇級した。だが軍令憲兵ではない写真班だ」

イワノフ~ウラン~ジョーカーが立ち上がって磯村に敬礼をした。シャンパンで乾杯をした。



年末になった。島原領事が五人と春燕、バオバオの出発を大和ホテルで祝った。アレックス夫妻が招かれた。和子令嬢も出た。
「長谷川さんには、ハルピン迎賓館の祝賀会以来、驚かされるばかりでした。香港だなんて、あなたにはピッタリだと思います。くれぐれもお怪我のないようにお願いします。ハルピンに、必ず帰って来てください」と和子が長谷川に言った。インド象が――和子も大人になったなと思った。

「ところで、みなさん、発表があります。それは、イワノフ君がトトロのクララさんと婚約をしたのです」と長谷川が言った。イワノフは蝶ネクタイを純白のシャツのカラーに締めていた。来賓が立ち上がった。割れるような拍手が起きた。大和ホテルの社長がシャンパンを持ってきた。ヒグマの顔が真っ赤になっていた。甥のウランがその背中をさすっていた。

長谷川が佐和子に手紙を書いた。

――新しい任務で香港へ住居が移る。三年間、香港周辺と上海で任務を遂行する。ソ連のように危険ではない。そちらの暮らしを知らせておくれ。正月には帰れない。送金する。道夫。

翌朝の十時、男五人と春燕とバオバオが平房を貨物機で立った。ハルピン~新京~大連~上海~最終地の広州に十六時間である。貨物機なので各地で荷を降ろしたり、載せたり乗員も乗客も代わった。香港には日本軍の基地はなかった。広州の日本軍飛行基地で降りて、深圳(しんせん)へ軍用バスで行く。深圳からハイヤーであった。

長谷川が磯村と話していた。

「バオバオが疲れている」と磯村が言ったからだ。

「深圳は九竜半島に最も近い支那の都市だ。そこで泊まろう」

広州からバスで深圳に着いた。平房を出てから十六時間が経っている。深夜であった。下町へ行った。四角い近代的なホテルがあった。加藤洋行が経営する深圳飯店である。部屋を三室取った。フロントの日本人従業員がイワノフを見て拒否する態度を取った。長谷川が加藤洋行の社員証を見せた。

「申し訳ありませんでした。みなさん、食事はどうしますか?メニュウものなら夜でも出せます」と言った。ボーイが部屋に案内をした。部屋に荷物を置いて階下の酒家で夜食を摂った。

「みんな、ゆっくりと休んでくれ。九竜のビクトリア港はここから南へ四〇キロに過ぎない。午後の三時に出て香港洲際酒店へ日暮れにチェックインする。あとは宴会してまた寝るだけだから」とエースが笑った。部屋からジョーカーが香港洲際酒店に電話を掛けた。フロントは長谷川男爵を覚えていた。歓迎歓迎と言った。みんなシャワーを浴びてベッドに潜りこんだ。イワノフがクララに貰った十八金の十字架を首に下げていた。

朝が来た。ホテルがバスを出してくれた。大英帝国の統治する九竜半島の入り口が見えた。入国検査である。

「ジャパニーズ?」英国人と支那人の入管は加藤洋行をよく知っていた。高額納税企業だからだ。

「永住か?」

「いや、駐在員です。このロシア人は私の使用人です。港湾で荷受けが仕事なんです。私~磯村~月岡が正社員です。この婦人は磯村のカミさんです」とエースが言うと、英国人の役人がバオバオに飴をくれた。そしてスタンプをガチャリと押した。

九竜半島は意外に岡と森が多かった。あちこちに何々公園入口と書いてあった。右手に海が見えた。低い岡を超えて南へ下がった。気温は一月から四月まで快適なのだ。下がっても、一六度である。ただ霧がよく出ると運転手が言った。西へ夕日が沈む頃、一行が香港洲際酒店に着いた。ベルボウイが三人出て来て荷物を台車に乗せた。エースが「短くても五泊する」とチェックインを済ませた。

「夕飯は各自、自由に食べてくれ。移動に疲れた。俺とジョーカーは下で食うだけだ」と言うとみんなそれがいいと言ったので、七時に飯店で会うと決めた。一晩寝たバオバオが元気になっていた。磯村がエースに感謝した。

三室は隣同志で最上階にあった。――参謀室の予算がいくらあってもこれでは足りないなとジョーカーが先を心配した。エースを見ると表情に変化がなかった。――香港上海銀行に預けたあの百万円はどこで入手したのだろうか?しかし、考えてみると、磯村もしゃあしゃあとしている。これは一体どうしたことなのか?

「ジョーカー、俺たちを誰かつけていないか目を配ってくれたまえ」

「今のところ影はありません」

「黒幇(へいぱん)は俺たちを知りようもない。だが玉森は、このホテルと通じているはずだ」

「私もお同じように考えております」

「ジョーカーと俺で作戦を考えよう」

「エース、気をゆるすと命を落とします。武器はどうするんですか?」

「上海の陸戦隊が送ってくれる。さっき、ホールに香港の警察がいたが、俺たちの旅券を調べただろう。俺たちは加藤洋行の社員なのだからクリアする。日本軍の出入り業者だからと言っても物資を買う貿易商社に過ぎない。香港も日本のカネで潤っているんだ」

「日英の相互不干渉関係がいつまで続くのか。われわれの諜報は大仕事です」

ふたりは窓の外が薄明るくなるまで話していた。エースが日記を書いた。――一九四一年正月五日。香港。三十二歳。



二日目の朝、エースが起きて腕時計を見ると十一時を過ぎていた。エースとジョーカーが食堂へ降りて行くと、磯村夫婦とバオバオが洋食を楽しんでいた。イワノフとウランは、ネーサン・ロードのマーケット通りへ行っていた。買い物ではなく、隠れ家を探しに行ったのだ。イワノフは満州語が出来た。貸出し中の看板を見ては大家に会った。どれも汚いか、風呂が悪かった。商店街は路上の騒音が気になった。二人が戻ってきた。

「カピタン、新天地のマーケット通りはダメだ。巨大なチャイナタウンよ」

「イワノフ、香港島の向こう側に、アバデイーン地区っていうのがある。漁船やジャンクの造船場だって書いてある。行ってみるといい」と英字のガイドブックを見ていたジョーカーが言った。

「それ、いい考えだと思うな」とエースが顎に手を当てて何か考えていた。

「カピタン、昼飯食ったら、香港へ行くよ」

「磯村の住み家はどうするかな?」

「私らもそのアバデイーンに行っていいですか?」

「じゃあ、みんなで行こう」

ジャンクが香港の埠頭に着いた。海際にモダンなビルが並んでいる。その後ろに南国の樹木に覆われた丘があり、そのまた後ろにビクトリア・ピークが見える。春燕の顔が夢を見ているように輝いていた。ターミナルを出るとロータリーがあった。人力車~馬車~二階建てのバスが待っていた。

「エース、どれにしますか?」

「アタイ、馬車に乗りたい」と春燕が大きなエクボで磯村に言った。エースが御者と話していた。

「この薄扶林道がアバデイーンへ行く道だと言っている。二時間だそうだよ」

二頭立ての馬車はフランス製であった。幌が着いているが今日は快晴で雨も降らないと香港人が言った。香港生まれの中国人は支那人と呼ばれることを毛嫌っていた。御者が――ビクトリア・ピークへ行くかと訊いたが、時間がないとエースが言った。

「薄扶林道は、ポク・フ・ラムと言うんだ。俺も習ったばかりだが、中尉とイワノフは、まず地名を覚えるといい」

イワノフがノートブックを開いて聞いたことをメモした。磯村は写真に集中していた。前の座席に座っているジョーカーが、ライカの二眼レフを首に掛けていた。

「呀(ヤ)!」と業者が馬に鞭を当てた。雪原のトロイカを想ってウランが笑った。

ポク・フ・ラム道路を右方向に行った。買い物客と人力車がごった返す商店街を通った。客を箱状の台に載せてふたりの人夫が担いでいた。提げるのではないので、客は高いところから街を見ることが出来る。江戸時代の籠かきだが、日本では、そんなものはとっくに消えていた。黒い雨傘を日よけに翳した支那服の女性が歩いている。磯村が写真に撮った。

「いくらでも交通手段があるのに」ジョーカーがつぶやいた。

「俺様は金持ちと知らせたいのだ。支那の伝統文化だ。英国人も好んで乗る。セダン・チェアと言うらしい」

イワノフとウランが地図を見てロシア語で話していた。ビクトリア・ピークの丘が左手に見えた。馬車がゆるやかな坂道にかかった。二頭の馬はワゴンを力強く引っ張っている。御者が煙管でタバコをふかしていた。いい匂いがした。――トルコタバコだと言った。馬が下り坂に向かっている。速度が速い。御者が手動のブレーキを引っ張った。右手に海が見えた。

「アバデイーン」と業者が言った。

「カピタン、ハラヘッタ」

海岸通りで馬車を停めた。食い物屋が押し競べをしていた。湾に浮かんだ巨大な料理店がある。

「珍寶王國だって」と磯村が春燕に言うと「オチンポ?おもしろ~い」と苗族の女房が笑った。ジョーカーが呆れて聞いていた。

「あれが珍寶海鮮坊だね」とエースが沖に浮かんだ巨大な城を指さした。桟橋がその水上料理店につながっていた。

「エース、あそこで休みませんか?」

「カピタン、ボクたちは街を見てくるよ。すぐ帰るから先に食べてて」

ジョーカーが御者に乗車賃とチップを払った。長谷川がジョーカーの方が会計に強いと思ったからである。

イワノフがどっさりチラシを持って帰ってきた。不動産情報だ。

やはり海鮮料理は美味かった。ジョーカーが、名物フィッシュボール・スープを注文した。朝、漁船が沖に出る時にしか出さないが六人前なら作るとウエイターが言った。アマダイのから揚げあんかけ~トラエビの炭焼き~アンコウまで出た。エースが店の土産屋で雑誌を買った。ローカルを知る最短距離だからだ。

帰りは二階建てバスで埠頭まで三十分だった。夕闇が迫っていた。夕陽の中を向かいがわの九龍埠頭に着いた。

「アタイ、アバデイーンにハウスを借りて住みたい」と春燕がいうのをエースが聞いた。

続く、、、


07/18
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話

第十一章 



「お帰り」とインド象が桂林から戻った七人とバオバオを迎えた。一行は三週間の大旅行で、みんな日焼けしていた。イワノフ、磯村、月岡が土産物をテーブルの上に置いた。山中武官~領事館員への土産である。島原領事には奥様と和子令嬢に民芸品を持って帰った。

「どうする昼飯?」と領事が山中の顔を見た。

「大和ホテルの出前でどうでしょうか?」

全員が賛成した。事務員ともうひとりの武官にもそう伝えた。磯村が山中と暗室へ行った。

「月岡さん、香港はどうでしたか?」

「閣下、自分には勿体ないぐらいでした。住んで見たいです」

「長谷川君と話があるが、一般事情だから急ぐことでもない。来週にしよう。私も、来月、東京へ行く用事がある」

「イワノフ、上等なスーツを来ているね。その白い帽子も良く似合うよ」

「ロンドン仕立てよ」

香港や桂林の話が続いた。磯村と山中が暗室から戻ってきた。

「閣下、ものすごい量なので、今日は現像だけにして焼き増しは山中さんがやってくれると仰っております」

「山中君、手紙を持って来てくれんか?」

山中が数枚の封筒と絵葉書を手に持って戻って来た。佐和子~カレン~岩田純一飛行隊大尉から絵葉書。一枚、差出人のない封筒があった。磯村には大分の妹から岩戸屋の絵葉書が届いていた。磯村がハハハと笑った。事務員が緑茶の入った土瓶を持ってきた。また大宴会が始まった。

「春燕、バオバオはいくつなの?」

「八か月。この子ネ、小さいけどケンコウ、ケンコウ」

「閣下、苗族の盆踊りの写真もあります」

「私も、一度家族を連れて桂林へ行ってみたいな」

「山中君、済まんが、ラジオを持って来てくれんか?」

山中が四〇センチx三〇センチの長方形のラジオを持って戻ってきた。外側が木製で、丸いスピーカーとダイアルが二つ付いていた。

「長谷川大尉、これを君にあげよう。ラジオがこれから大事になる」とインド象がマニュアルを渡した。長谷川がびっくりした。

「閣下、真空管ですね?」

「放送局型受信機という。陸軍は東芝~シャープ~ナショナルに量産を命令した。どんどん改良されるだろう」

長谷川と月岡は、「どんどん改良される」意味がよく分かっていた。宴会が終わると一行がキタイスカヤの館に帰って行った。一行は土産の整理~洗濯~部屋の整頓で忙しかった。月岡が長谷川の部屋へ引越した。マルコーニを月岡に教えるためだ。英語も復習しなければならない。長谷川は、まず岩田大尉の絵葉書を見た。広州の飛行隊からだった。

次に佐和子の手紙を読んだ。

――道夫さん、あなたが満州へ帰ってから長谷川牧場は忙しくなったわ。仔馬が生まれ~仔牛が生まれ、子羊が増えたのよ。七月に入ってから蓮華もたんぽぽも消えたけど、代わりにオオバと野菊が茂っています。山城さんから買った五千坪は森を切り拓いて陽当たりが良くなりました。農協が県から許可を受けて駒込川に橋を架けてくれた。今、お父さんと若い衆が水車小屋を作っています。発電気を回して製材が出来る。水道管を畑に敷きます。娘たちはすくすくと育っています。私たちは幸せです。佐和子

写真が三枚入っていた。仔牛~水車小屋。十才になったミチルは鼻筋が通っていて、一重瞼の大和なでしこである。黒髪をポニーテールに結んでいた。――自分に似ている、、

次にカレンの手紙を呼んだ。

――私が最も愛するミチオへ

ベンとマーチンが保育所に入ったわ ベンは考え深い子なのよ。マーチンは体育型でちょっと無謀なくらい活発な子供なの。木に上ったり、池に入ったり。やってはいけないことを全部やるので目が放せない。ふたりとも、食欲が旺盛なので、ママと私は一日中クッキングしてる。

ベンジャミンとモルデカイが保育園で遊んでいる写真が入っていた。長谷川が瞼を拭った。――この子供たちにいつ会えるのだろうか?

最後に差出人のない封筒を開けた。思ったとおり鮎二からである。

――道夫兄さん、ボクは今、フルン湖の東北三〇〇キロにいる。住民は遊牧民とアジア少数民族。ハバロフスクへ行きたいけど二五〇〇キロもある。動けない。ときどきソ連兵が見回りにくる。満州里は五〇〇キロ南。ハイラルへ行けば逃亡兵で処刑される。心配しなくてもいい。何か考える。言葉がわからないけど、馬の歯~出産~病気を見てあげている。彼らは羊を河船で満州に持って行く。この手紙もハイラルに行く家畜運搬船に頼んだ。電信機を手に入れたい。鮎二より

長谷川がナショナルKS-1真空管ラジオを机の上に置いた。

「ジョーカー、これを見ておいてくれんか?」と月岡を呼んだ。ジョーカーが飛んできた。ラジオに関心があるのか細かく観察していた。マニュアルの一ページにこう書いてあった。

――一九四〇年、東芝と放送技術研究所によるトランスレス真空管の開発によって、日本でも電源トランスを持たないラジオの生産が可能となった。東芝による試作的なセットが発売されたが、一九四一年から放送局型一二二号(3球再生式)、123号(4球高一)が本格的に量産される。

「長谷川大尉、これは日本全国に放送するということですね?」

「その通り。世界大戦が始まると思う」

「大尉、われわれはこのハルピンで何をすれば良いのでしょうか?」

「島原領事と話し合わなければならない。俺たちは、上海と香港に必要な人間になる」

「大尉殿は、来年とおっしゃられたが、来年のいつでしょうか?」

「正月を考えている。新京の関東軍参謀とも話す。東京は従う」

「あと五か月です。私にどんどんご指示をください」

「ジョーカーの任務は、傍受と英語と分析である。あなたには他にも重要な仕事がある」

「暗殺でしょうか?」とジョーカーが訊いた。

「月岡さん、あなたを暗殺に雇ったことはないよ」とエースが大声で笑った。エースが顎に手を当てて何かを考えていた。顔を上げた。

「ジョーカー、あの口座のことを他言してはならない」

「もちろんです」

夏が過ぎて、ハルピンに菊の花が咲いた。磯村と月岡のふたりは、真空管ラジオに夢中になっていた。屋上にアンテナを張って一日中、ロシアや日本の放送を聞いていた。長谷川が窓を開けると秋風が入ってきた。食い物が美味くなっていた。長谷川が月岡と磯村を昼飯に誘った。三人が博多屋の暖簾をくぐって店に入った。

「まあ、ご三人ともハンサムねえ」と女将が言った。香港のサラリーマンが着るコットンの簡単服とパナマ帽だったからだ。

長谷川が磯村と今週末に新京へ行くと言った。月岡は――いよいよ始まったと思った。

「大尉殿、ソ連は今大騒動です。極東どころじゃないのであります」

「少尉、東京は何を言っている?」

「尾崎とゾルゲを逮捕したと言っています」

「ジョーカー、俺たちは、一週間は新京にいる。香港に移動するには何が必要か勉強をしておいてくれ」

「磯村さん、香港って好いとこだってね?」と女将が冷えたビールを持ってきた。

「自分には天国に見えたよ」

「英国人ってどうなの?」

「日本人よりも優しいよ」

「ふ~ん」

女将が台所へ帰って行った。

「磯村、岩田大尉から絵葉書を貰った。重慶爆撃が終わって、広東へ移動したと仰っている。部隊のことは伏せているけど、あの十二式艦攻は量産体制に入った。零戦と略され「れいせん」と呼ばれるらしいよ。これが日本軍の主力戦闘機になるんだよ」

「大尉殿、やはり日米戦争が予期されるんでありますか?」

「あきらかだ」

磯村の顔が曇った。自分の力を超えた大きなモーメントが迫っている。ジョーカーは――家族のある者は切ないなと思っていた。

「真空管ラジオはいいな」

「ハッ、世界が変わります。領事館も一台持っています」

「エース、ラジオに英語が入るんです。雑音で聞き取れないのですが、米語に思えるのです。オーケーって言ってますから。イギリス人ならオーライですから」

「考えられるのは、アリューシャンのキスカ米海軍潜水艦基地だね。アメリカのノーチラスが稚内の沖を通ると聞いた。旭川に訊いてみる」

「ジョーカー、これから外貨が少なくなる。香港の口座がわれわれの生命線になるだろう」

「その通りです。残高を増やす方法と分散が必要になります」

「香港へ行くまでに研究をしてくれたまえ」

「いずれ黒幇(へいぱん)と接触するでしょう」

「俺たちの人生が変わる」

「イワノフとウランは香港じゃ役に立たないとエースは仰ったが、私には考えがある。今は言えませんが」

「大尉殿、正月に青森へお帰りになりますか?」

「来年は無理だな。支那大陸の長谷川一家が増えている。少尉は九州へ帰りたいのか?」

「いいえ、こちらが家族であります」

磯村も、ジョーカーも長谷川にピッタリとついて行く決心をしていた。



十月が来た。島原領事が東京からハルピンに戻ってきた。

「長谷川君、松岡洋介外相の名前を聞いたことがあるだろう?」

「はあ、何か?」

「松岡さんは今、ベルリンに行っている。ヒットラー総統と会談をしている。これは歴史が変わることを意味する」

「ソ連牽制ですね?」

「その通り」

「閣下、来年の正月に自分は香港に活動拠点を移す考えです」

「わかる。君は、新京の参謀本部に行く必要がある」

「今週、磯村を連れて行きます。揉めれば一週間は滞在します。島原閣下の許可が得られたと言っても良いでしょうか?」

「もちろんだよ」

「閣下、英米を相手の諜報戦はソ連のようには行きません。これも研究が必要になります」

「君と月岡さんに預ける」

「島原閣下、自分は、今こそ日本のために全力を尽くす決意です」とジョーカーがインド象に言った。

「月岡さん、有難う」

インド象が元死刑囚に感謝の辞を述べた。

続く、、
07/18
ブログのサーバーが無能、、
みなさん

管理画面が機能しなくなって、FC2に問い合わせたところ、「あれこれをやれ」と。やると、メニュー場=が出ないので、先に進めない。4度それを伝えても同じことを言ってくる。ついに、在日米軍基地と契約のあるMEPHIST社長に頼んだ。約5分で解決してくれた。伊勢

ところで、東京五輪はどうなると思いますか?ボクは中止せざるを得ないと思う。菅、小池、バッハ、西村は日本国家を自分のものと思っている。失敗したら、訴訟するべきです。伊勢
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スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第十章 



「閣下、月岡さんの任務が終わりました」

「ごくろうさまです」

「月岡さんは自由の身です」と長谷川が言うと、月岡夢次郎が目を瞑った。

「長谷川さん、自分は行くところがないのです」

「閣下、月岡さんは軍人ではないので自分の元には置けないのです。お知恵を貸してください」

「月岡さんは、朝鮮語が出来るんだね?」

「はい、京城育ちですから、朝鮮語はいわば母国語なんです」と苦笑した。

「元死刑囚を部下に持ったことはないが、私の配下になるかね?イワノフたちと同じ待遇だがね」

「自分の特技は破獄ではなく、銀行の闇を見破る能力です」

「う~む、それ役に立つが、満銀や満鉄を敵に廻すよ」

長谷川が上海の一色金造を想った。――この二人を組み合わせるとどういうことになるのか?支那には、何か、自分の知らない闇が黒々と広がっている、、

「島原閣下、後生ですから私を使ってください」と月岡が床に手をついて懇願した。

島原が横で聞いていた山中武官の顔を見た。

「山中君、どう思うかね?」とインド象が山中の意見を訊いた。

「閣下、日本は、月岡さんを必要としています」

「ところで、その布袋は何なのかね?」

「収容所の金庫から持ってきたルーブルですが、五〇〇〇円の価値しかないです。領事館で使ってください」

「それは出来ん。困ったな」

「自分が頂きます」と長谷川が布袋を足元に引き寄せた。磯村は、機を逃さない長谷川の機敏さを何度も見た。

「ところで、長谷川君、君は充分に命を張った。新京の参謀室がしばらく自由にせよと言ってきた。

「閣下、六月中は、ハルピンで情報を集める考えです。イワノフたちも休暇が必要です」

「ジェネラール、スターリンが収容所所長を処刑した。極東赤軍が、ハバロフスクの日本人を迫害する。出国するように言ってください」

「イワノフ、有難う。在ハバロフスク邦人は、すでに出国したよ」



七月が近着いていた。長谷川が磯村~月岡~イワノフ~ウランをトトロに呼んだ。ランチなのに、ワインとビールが出た。イワノフが生ハムをクチに放り込んでワインを飲み干した。

「さて、一か月も夏休みを頂いた。どこへ出かけるかね?自分は桂林を見たいと思っているんだが遠すぎるかな?」

「ボクもグイリンが見たいです。春燕の親が北の山岳地方に住んでいるんですよ。その界隈には熊猫が棲んでるって言ってます」と磯村が言った。

「熊猫?」と月岡が素っ頓狂な声を出した。

「どうする」

「それがいい、それがいい」と全員が賛成した。

「よし、それでは磯村少尉に旅程を組んで貰おう」

そこへ、クラーラが皿に持ったレモンと牛タンの塩焼きを持って現れた。

「まあ、桂林ですって?わたしも行きたいわ」

「パパが許さないよ」

親父が話を聞きつけてイワノフを睨みつけた。

「ボク、誘っていないよ」

みんながワイワイと食ったり飲んだりしている間、磯村が地図を見ては何か書きこんでいた。そして外へ出て行った。しばらくして磯村が三冊の旅行雑誌を腕に抱えて帰ってきた。

「大尉殿、出来ました。これ、そうとう旅費がかかります」と雑誌を配った。そして旅程を説明した。汽車で六日かかると言った。桂林は森と湖の公園なので、マーチョ(馬車)で桂林駅から丸一日で渓谷に着く。つまり、すくなくても片道七日が掛かる。

「少尉、カネは露助の給料で充分に間に合うが汽車はダメだ。着いた途端に寝込んでしまうだろう。バオバオが病気になったらどうする?」

「大尉殿、こないだ乗ったとおっしゃった飛行艇は借りられますか?」

「バカコケ」

長谷川が考えていた。そして「そうだ」と手を打った。

「大連まで満鉄で行って、そこから船で香港へ行こう。少尉、どういう船があるか新京に訊いてみろ。貨物船はいかん」

「月岡さん、あなたは香港へ行ったことがありますか?」と長谷川がエースに戻っていた。

「とんでもない。下級官僚です。上海も見たことがないのです。自分には外国です」とジョーカーが見たことがない広州の旅にワクワクしていた。



七月七日、七夕の日であった。長谷川~磯村夫婦と生後三か月のバオバオ~月岡~イワノフ~ウランの七人が大連港に立っていた。ウランが釣竿を手に持っている。

「ウラン、それどうするのか?」と磯村が質問した。

「ええ~と、ボク、象鼻湖で錦鯉を釣るよ」

埠頭に日本郵船の保有する遠洋航海船「龍田丸」が停泊していた。タラップを上がって乗り込んだ。外国航路の豪華船である。乗務員の中に海軍士官と水兵が六十名乗っていた。クルーは合計で三百人である。先客は九百人。一等船室が二百人~二等船室が三百人~三党船室が四百人である。クルーのほとんどが客室係であった。コック~ドクター、、あとは機関士と船長たちである。

「長谷川大尉殿、われわれはあなたたちを歓迎する」と船長が挨拶をすると、一列に並んでいた乗組員が敬礼をした。白い船員服~船員帽子の格好が良かった。磯村が写真機を手に持って歩き廻っていた。春燕とバオバオがこれ以上の幸せはないと言うふうに笑っていた。磯村が娘の写真ばかり撮っていた。春燕にとって新婚旅行なのである。龍田丸は北米航路用の船であった。主な寄港地は、香港~上海~神戸~横浜~ホノルル~ロサンゼルスおよびサンフランシスコであった。つまりこの航路を往復していたのである。

「航海士さん、今回はどうして大連へ寄港されたのですか?」

「満鉄の要請があったのです。去年の三月から上海の治安が安定して上海へ事業を拡げる日本の企業が増えています」

「龍田丸を雑誌か何かで見た気がするのですが」

「ご覧になったのは浅間丸でしょう。本船は浅間丸の姉妹船で、どちらの船名も神社にちなんだものです」

――ああ、そうだった。カレンが送ってきたサンフランシスコ到着の写真だ、、

「カピタン、凄っごい豪華なキャビンよ」と甲板を駆け回っていたイワノフとウランが興奮していた。最上階の一等船室はたしかに豪華そのものであった。長谷川と月岡~磯村と春燕とバオバオ、イワノフとウランに三室を取っていた。甲板から見上げると、二本の煙突が薄い煙を上げていた。

「カピタン、ハラヘッタ」

「イワノフ、先に食堂へ行ってテーブルを取ってくれ」

「オーチン、ハラショー」ふたりの親衛隊が飛んで行った。

龍田丸は移民船ではない。排日移民法が幅を利かせた時代だったからである。西欧人の富裕層を狙ったのである。そのためイギリスのクルーザーのデザインだった。

――航行時速二十八ノット。つぎの寄港地である上海に、三十一時間で到着する。上海で二晩停泊する。

長谷川が通信室に行った。普通電報を打って貰った。送信先は、寧波(にんぽ)路  の一色金造である。

――龍田丸で七月十日の午後一時に七名が上海第一埠頭に着く。春燕より。

すぐ返信があった。

――私が愛する春燕よ、心待ちにしている。埠頭で会いましょう。

イワノフとウランと生後七か月のバオバオを背負った春燕が船旅を満喫していた。西洋人を誘致する目的からラウンジ~読書室~ギャラリー~喫煙室~遊技場~プール~トーキー映写室~美容室~旅行社~松坂屋百貨店まであった。

月岡は、ほんの二か月前の真夜中、目隠しをされて死刑台の踏板に立っていたことを忘れてしまった。自分の運命が長谷川の「待ってください」の一言で変わった。

磯村と長谷川がラウンジで飲んでいた。

「香港でありますか?」

「そうだ。日本軍は広州を制圧した。香港の英軍は「今か今か」と戦々恐々としているんだ。香港を日本軍が占領する日が来る」

「大尉殿は、香港を今、見ておこうと?」

「ま、そうだが、特に深い考えはない」

「何を見るのでありますか?」

「上海で話す」

上海の埠頭で、一色金蔵と京子が一行を出迎えた。

「長谷川さん、お久しぶりです。早速ですが、ここは上海。どこで食べますか?」

「一色さん、まず、今回は軍務ではない。旅行中はエースと呼んでください」

「トランプのエースですか?それではエース、どの租界にも世界一の料理店があります」

「赤ん坊がいるので、大衆料理店がいい」

長谷川は日本人と顔を合わせたくなった。

「お父さん、海龍海鮮舫 にしましょう」と初めて京子がクチを開いた。上海のシンデレラと言われた京子はやはり美女だった。京子は長谷川と飛鳥が自分を救ってくれたことを心から感謝していた。ハンサムな長谷川の姿かたちに顔を赤くした。

「ボク、太平洋の魚が食べたいよ」とイワノフが言った。その大男に京子がびっくりした。一色とイワノフが抱き合っていた。
浦東新區東昌路に一色の運転するリンカーンとハイヤーが到着した。でっぷりと太った社長が出て来て挨拶をした。一色と懇意なのである。太腿が見える支那服を来て黒い髪を結い上げた胡娘が紹興酒を持ってきた。この店はお任せ料理なのだ。社長は、一色の好みを知っていた。

「ボク、紅焼家鴨も小籠包も食べるよ」とイワノフが宣言をした。

京子と春燕が何か話しては笑っていた。バオバオが春燕の乳を吸っていた。

――シンデレラは回復したなと長谷川が確信していた。

「京子さんは、卒業したのですか?」

「はい、おかげさまで小児科の医師になりました。上海大学病院に勤めています」

上海蟹にはじまり~小籠包~雀のキャラメル焼き、、イワノフの食欲に京子が目を丸くしていた。長谷川と一色が話していた。

「一色さん、明日、香港へ一緒に行きませんか?船室はありますよ」

「命令でしょうか?」

「いやいや、そんな。一緒に香港を歩きたいだけですよ」

「それでは、京子も連れて行きます。京子の方が私よりも広東語も英語も自然なんですよ」

「エース、桂林へはどう行かれるのですか?」

「磯村が、マーチョだと言ってる」

「いや、ダメですよ。段々畑のある山道で二百五十キロもあるのです」と京子が言った。

「加藤洋行さんをご存じですね?」

「上田社長さんは元気ですか?」

「香港のビクトリア・ピークにお住まいなんです」

「それは考えなかった。お会いしたいな」

「ええ、それと加藤洋行は貨物機を手配出来ます。桂林の日本軍基地へ輸送するためです」

聞いていた磯村が、クチが裂けるほど笑っていた。ワンタンスープを飲んでいたイワノフが何事かと平助を見た。バオバオが、すやすやと寝ていた。

「一色さん、その貨物機、あなたに頼むしかないな。山田社長とは取引があるのですか?」

「あるなんてもんじゃないです。加藤洋行はカッパ、カッパと儲けていますから」と一色がその太った手で背広の内ポケットへカネを投げ込む格好をした。みんなが笑った。京子が苦い顔をしていた。一色と長谷川が手洗いに行った。一色が声を低くして長谷川の耳に囁いた。

――張粛林~黄金栄~杜月生の三人は燃え上がるジャンク「緋龍」の船室で生焼けになった。だがまだ生きている。日本軍は上海を支配しきっていない。青封を外国租界、特にアメリカとイギリスが日本軍からかくまっている。だが、太湖のカジノが焼かれて大損をした。必死となって復活しようとしている。香港のやくざ黒封と密貿易を活発にやっている。

「一色さん、この店は大丈夫なのかね?」

「大丈夫ですよ。私が出資して社長は香港の華僑ですから青封は香港を敵に廻せないのです」

――いろんなことを学ばなければいけないと長谷川が思った。



「長谷川さん、お久しぶりです」と岸田武官が長谷川に挨拶した。そこへ上海総領事の黒駒勝男が大股で入ってきた。黒駒は自信満々の男である。

「総領事閣下、今回は事件ではないのですが、香港のお話を聞きたいのです」と長谷川が切り出すと、黒駒がとなりの一色金蔵を見て苦い顔をした。

「一色さん、あなたが成功されていることを嬉しく思っている。しかし今日はどういうご用件ですか?」

「一色社長に同伴を要請したのは自分です」と長谷川が割って入った。

輪姦事件で、すげなく陳情を断った岸田が動顛した。一色は総領事の質問に答えなかったばかりか、顔も見ず、三つ揃えのポケットに手を入れたままであった。

「こちらの方はどなたさまですか?」

「わたくし月岡夢次郎です。よろしくお願い致します」

一瞬、黒駒が月岡の顔を凝視した。

「あなたは、死刑囚ではなかったのですか?」

「どこでお知りになられたんですか?」

黒駒はそれには返事をしなかった。死刑囚と聞いて岸田武官が驚いた顔になった。

「閣下、香港のタイパンをご存知ですね?」

「長谷川さん、大班は誰でも知っていることだよ」と黒駒の言葉が荒くなった。一色と月岡を連れてきた長谷川に怒りを現した。

「いえ、ジョン・マーチン男爵のことです」

「ジョン・マーチン男爵?知らんな」

「それでは、香港上海銀行の玉森松雄頭取をご存じですか?」

「玉森?そのようなご仁を知らない」と言った黒駒総領事の目が神経質に動いた。

この二人のやりとりを聞いていた月岡と一色は総領事の顔を凝視していたがクチを出さなかった。それが黒駒の神経をさらに苛立たせた。長谷川~月岡~一色が総領事館を出た。黒駒が執務室に入ると交換手に香港の玉森を呼び出せと言った。

午後の五時、龍田丸は香港島と北の九竜半島の間の水道に入っていた。数隻のジャンクが浮かんでいる。一等航航海士が長い汽笛を三度鳴らした。船客が甲板に出た。長谷川と船長が艦橋に立っていた。左手に香港島が見えた。ビクトリア・ピークが夕日に赤く映えている。

「お父さん、いつ来ても香港はいい所だわ。ねえ、香港に引っ越しましょうよ。私、上海には好い想い出がないの」と京子が言うのを月岡が聞いた。

龍田丸は九竜側のビクトリア港、第六埠頭に入った。埠頭では歓迎の銅鑼が鳴った。そのあと、英国皇室吹奏楽団が君が代を吹奏した。日本と英国は、伝統的に仲良しなのである。

英国皇室香港移民局のヤム人が長谷川の旅券を見ては写真と顔を照らし合わせた。

「グイリンへ観光が目的で香港へ来られたのですね?」

「イエス、ザッツライト」と長谷川が流ちょうな英語で答えた。

「みなさんは一緒ですか?」

「イエス」と今度は京子が答えた。京子の美しさに移民官が目を見張った。

「帰りは香港を通過しますか?」

「いや、この一行は、帰りはグイリンから飛行機で上海へ戻る」と一色が答えた。移民官が一色の旅券を見た。

「ミスター・イッシキ。失礼をしました」と敬礼をした。一色金蔵は香港のタイパンの一人だからである。

香港洲際酒店は香港で五つ星のホテルである。一色と京子がこのホテルをよく使ったのだ。さすがの長谷川もホテルの豪華さに驚いていた。貧困の中で育った磯村と春燕が身震いしたほどである。春燕は――夢にまで見た香港についに来たと興奮が冷めないなかった。押し車のバオバオは匙を持って前のトレイをガンガンと叩いていた。

「エース、観光は明日にして、宴会をやろうじゃありませんか?」と一色が言った。みんな賛成である。

「ビジネス抜きならね」とエースがみんなを笑わした。四つの部屋が取ってあった。いったん、部屋で着替えてから階下の九龍飯店で会うことにした。どの部屋も眼前に香港島が見える。

「あれが香港上海銀行だよ」と長谷川が対岸の摩天楼を指さした。月岡がその高層ビルをじっと見ていた。

「エース、明日、行きましょう」と言ったジョーカーの目が光っていた。



朝、磯村が、バルコニーに出ると、南から湿った空気が入ってきた。積乱雲がビクトリア・ピークの上に立ち上がっていた。

「ヘエスケ、今日、絶対に買い物に行くわよ。香港はこれが最後かもしれないから」

「長谷川大尉が、みんなにおこずかいをくれたんだよ。ボクは兵隊だから断ったんだけど、春燕にやれって」

「アタイね、お父ちゃん、お母ちゃんにおカネ上げたけど、ハルピンに出発するとき、お母ちゃんが、十ドル持って行けってくれたの」

「エエ~?春燕はカネモチなんだ」

「ヘエスケに会ってからオカネモチ」

エースが「自由行動」と決めたので、イワノフとウランは朝早くから香港島へ行った。馬車でビクトリア・ピークを越えて南岸のアバデイーンへ行くと言った。京子は上海医学大学時代の同級生に合うから夕方まで帰らないと一色に言った。

エース~ジョーカー~一色が九竜の港へ行った。赤い帆が前~中~後ろの三か所に付いているジャンクに乗って香港島に渡った。ほんの三キロなのだが、帆かけ船は遅く四十分かかった。だが、これが楽しいのである。三人は白い夏服に香港シャツ、白いサハリ帽子を被っている。開襟シャツだからネクタイはなかった。長谷川がハンザ・キャノンでビクトリア・ピークを撮った。銅鑼湾というように、ジャンクが銅鑼をガンガン鳴らした。三人のダンデイな男たちは国際金融センターの前を歩いていた。左手に椰子が茂る大きな公園があった。ゲートに添馬公園と書いてあった。

「ジョーカー、俺たちつけられているね」

「知っています。人力車の男です」

「そこの喫茶店で見てやろうや」と長谷川が歩道に並べたテーブルのひとつに座った。月岡がセイロンの紅茶を女給に頼んだ。一色は万年筆を胸のポケットから取り出して手帳に何か書いていた。長谷川がいかにも観光客と言うふうに写真機を取り出した。そして風景を撮った。黒い幌の掛かった人力車が通りかかった。店の軒に吊り下げてあるヒューシャスの花を撮るふりをして幌の中の男を連続モードで盗撮した。人力車は戻ってこなかった。

「エース、なぜ、香港上海銀行なんですか?」と紅茶に角砂糖を二つ入れて、一色が質問をした。

「一色さんに頭取を紹介して欲しいだけです」

「何か問題が?」

「問題はないです。自分の口座を開きたいだけです」

三人が大理石のフロアに入った。ふたりの受付嬢が一色金蔵に面識があった。二人が立ち上がってお辞儀をした。一色は香港上海銀行の理事の一人だからである。

「玉森支店長に会いたい」

洒落た眼鏡をかけた受付嬢が三人をソファーに案内した。もうひとりが頭取の執務室へ電話を掛けた。

「一色社長、電話をくれれば埠頭に迎えに出ました」と玉森が笑っていた。玉森は支店長といえども、年下の上に、一色の部下なのである。

「いや、玉森君には、いつも京子が世話になってる。感謝している」

「こちらの紳士方はどちらさんですか?」とインテリ風の二人をみた。

「長谷川さんと西郷さんです」

一色も俊敏である。月岡に咄嗟に名前を着けた。月岡は、ついに俺も西郷隆盛かと満足していた。

「頭取の玉森松雄です」

「西郷さんは何かご用件でも?」

「いいえ、何もありません。長谷川さんと旅行で香港へ来たのです」

「どうぞ、こちらへお越しください」

四人は執務室に入って、頭取が内側から鍵を掛けた。

「玉森君、長谷川さんの定期預金口座を作ってくれんか?」

「はあ、英国政府は口座の持ち主のデータを要求しますが?」

「口座の持ち主は、長谷川道夫。職業は加藤洋行の運輸部の課長。住所は俺の上海の屋敷でどうか?」

「一色社長はタイパンですから完璧です。ですが、私にもう少し質問させてください」

「長谷川さんの本当のご職業は何ですか?」

玉森には長谷川の持つ空気が軍人に見えたのだ。長谷川が答えようとするのを一色が手を上げて押しとどめた。

「玉森君、知らない方が君の為になる」と一色が若い頭取をギョロ眼で睨んだ。一色の目付きに玉森松雄が震えた。

「それでは、用意をしますが、おいくら預金されますか?」

「百万円です。しかし、今、持っていません」

長谷川が言うと、玉森が驚いた。

「お金の出所を追及されますが?」

「俺だよ」と一色が不躾に言った。玉森がこの一発で沈黙した。

「長谷川さん、百円、お預かり出来ますか?」

「いや、百万円だ」と一色が遮った。

「加藤洋行と言っても貿易会社の運輸課長が百万円ですか?日本銀行の総裁の年収が四千円です。二百五十年分ですよ?日本の東北なら百万坪が買える金額です」と玉森が一色を糺した。

一色が銀行手形を胸の内ポケットから取り出した。「一金、百万円」と万年筆で書いて、署名捺印した。この間、西郷隆盛は眉毛一つ動かさなかった。

ダンデイな三人が、縦に長い長方形のマスクのヒルマン・ミンクスに乗り込んだ。頭取が手配したのだ。運転手は英国人だったが、行先を知っていた。ビクトリア・ピーク、一〇〇番地を知らないものは、香港にはいなかったからだ。ヒルマンは加藤洋行の山田社長の邸宅に向かっていた。夏のビクトリア・ピークは緑で覆われていた。ちょうど、日光のいろは坂を上るようだった。森の中で蝉が鳴いている。頂上付近に来ると香港島と九竜半島が眼下に広がっていた。ビクトリア湾は青々と美しい。長谷川が、豪邸が並んだビクトリア・ピークに圧巻された。赤レンガの上に鉄柵、、入り口には自動車が入れる道がある。敷地はどれも二千坪はあった。英国大使館~日本大使館~フランス大使館~ないのは、米国と中国とソ連だ。

その豪邸レーンの一角に加藤洋行の上田社長の館があった。英国風のガーデン~噴水~薔薇のトンネル、、客間も広く目の下に香港の繁華街が見えた。三人が風景を見ていると、チョビ髭で小太りの上田社長が入って来た。一色もだが、上田社長もなかなかのキャラクターである。月岡が――この二人は芸人にもなれると思った。上田が長谷川に挨拶をした。

「長谷川さん、お久しぶりです。飛鳥少佐は大変残念なことでした」とハンカチで鼻をかんだ。長谷川が上田の手を取った。

「上田さんが香港におられると聞いて表敬に上がりました」

「何でも私に出来ることを仰ってください」

「上田社長、貨物機を手配できるかな?」と一色が訊いた。ふたりは昵懇なのだ。

「どうして?」

「長谷川さんたちを桂林へ連れて行って欲しい」

「OKですよ。毎日、何機か往復しておるからね」と言った上田が月岡を見た。

「このお方はどなたはんですか?」

「月岡さんです」

「月岡夢次郎です。お世話になります」

上田が驚嘆するのが見えた。

「月岡さん?死刑になったんじゃないのですか?」

「月岡さんは、私の相談役なのです」と長谷川がハバロフスクの日本人救出作戦を説明した。上田の丸い目が驚きにさらに丸くなった。

「実は、大日本貿易からうちにもソ連と交渉するよう要請があったんやが、加藤洋行にはロシアにコンタクトがなく、なんも出来へん。社員が救出されたと聞いた。長谷川大尉のチームだったんやな」と関西弁になっていた。

月岡が囮になったと聞いて、一色と上田が改めて理知的な顔を持った前大蔵官僚を見た。そして、ソ連兵の月給五万ルーブルを持って帰ったとエースが言うと大笑いになった。ふたりの社長はジョーカーの殺人事件には触れなかった。なんとなく危険を感じていたのである。すると、ジョーカーがクチを開いた。

「社長さんたちは、満鮮銀行をご存じですか?」

エースが驚いてジョーカーの顔を見た。

「朝鮮の京城が本店なんですが、ここにも支店がある」と一色が言った。

「そうです」

「私らとは取引がない。とっつきの悪い専務でね」と上田社長が言った。

「私の銀行も取引がないよ」と一色が言明した。

「それなら良いのです。向こうから何か言って来ても接触なさらないようお勧めします」

一色と上田が何か感じるところがあるのか深く頷いた。一番若い長谷川は質問を控えた。

もう二日香港を観光して明後日の午後四時の便に乗せて貰うことにした。上田社長が晩餐を申し出たが一色が、赤ん坊や家族がいるからと丁寧に断った。長谷川と上田社長が固い握手をした。三人は、再びジャンクに乗って香港洲際酒店に戻った。西の空が夕焼けになっていた。汗をかいたので風呂に入った。それにしても香港シャツは快適だった。茜色の空をバックに赤い帆のジャンクが見事だった。長谷川が写真機を持っていた。

「エース、私も写真機が欲しいな」と月岡が長谷川の目をうかがった。

「そうだな。だが、このハンザ・キャノンは軍特用なんだ。明日の朝、マーケットへ行こう。磯村を誘おう」

ドアにノックが聞こえた。イワノフとウランが立っていた。

「カピタン、ハラヘッタゾ」

「みんなは?」

「ミス・キョーコの姿を波止場で見たよ。青年とキッスしてたよ」

「それ誰にも言うな」

「ワカッテマンガナ」

となりの部屋のドアが閉まるのが聞こえた。磯村夫婦が戻ったのだ。エースが一色に電話を掛けた。

丸いテーブルを八人が囲んだ。バオバオはすっかり寝込んでいた。一色が料理長お任せを注文した。――何が出るのかとイワノフと磯村がワクワクしていた。ジョーカーが磯村に写真機を買いたいと言うと、日本のメーカーの専門店があるとジョーカーを喜ばした。磯村は最新の写真機を知りたかったので、店に入ったのだと言った。

「何か、素人の私にでも撮れるのがありましたか?」

「それ、明日、見に行って話しましょう」

横の一色が京子と話をしていた。

「鎌倉君を誘えばよかったのに?」

「ええ、でも、明日、早番だって言ってた」

「香港に住みたい理由は鎌倉君か?」

「お父さん、私、二十二歳よ。結婚したいの」

一色が沈黙した。だが、結婚すれば京子は家庭を作る。これは自分も望むところだ、、

「一色さん、島原領事に預けてある百万円をハルピンから送金します。また上海でお会いしましょう」

「桂林を満喫してください」とふたりはハイヤーに乗り込んだ。一色親子が英国の旅客機で上海に帰って行った。

続く、、

お願い、、

みなさん、面白いですか? A)とても面白い。B) そこそこ面白い。C)つまらない。どれか選んでください。拍手かいいねでもいいんです。伊勢

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スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第九章



月岡が裸にされた。腕時計~ズボンのバンド~革靴~靴下~ワイシャツまで取られた。兵隊が作業服と靴を投げた。月岡がのろのろと着替えた。――こいつは歳取っている、、動作が鈍い、、

「オマエの名前を言え!」

「朴鮮明」

「チョソン?」

「ダ」

「日本語は話せるのか?」

「ダ」

収容所に入った初日である。日本人が収容されたバラックに入れられた。バラックには誰もいなかった。日本人の少年が三人残っていた。

「君は誰?」

「私は、沼田です」

「なんで残ったの?」

「ボクたちは、あなたと黒パンを焼いて森に持って行く」と沼田が言った。他にも、反政府ロシア人がやはり同朋のパンを焼いていた。四人でライ麦を機械で粉にしてミキサーで練った。クルミを粉砕機に入れて粒にした。塩を入れてカボチャぐらいの大きさに丸めた。表面に包丁で十文字を入れた。鉄板に並べてレンガの釜に入れた。月岡が焼きたての黒パンをクチに入れた。モチモチとしてクルミの味が結構美味い。ふたりの作業を三人の看守が見ていた。焼けあがった黒パンを監視兵の食堂に持ってこさせた。ブリキの食器にミルクを入れてソ連兵が食うのを月岡が初めて見た。貧しいものを食うわりには体格がいい。ジョーカーと少年たちは五百食のライ麦パンを焼いた。焼き上がると看守兵たちに配る役目をさせられた

トラックがパン焼き場の入り口で停まった。強制労働者五百人ぶんの黒パンを積んだ。三人の少年と月岡が乗り込んだ。

「あなたは日本人」と少年のひとりが月岡を驚かせた。

「どうして判るの?」

「ハバロフスクの人は、すぐ判る。ダダ、ダアダア、ダア?って言うから」

「私は月岡。ジョーカーって呼んでね」

「ジョーカーはなぜここにいるの?」

「君たち日本人を救出するため」と小声で答えた。その少年が月岡の顔をじっと見た。

「ボクたち未成年は釈放されるって言っている」

「何人いるの?」

「四人」

「ダバイ、しゃべるな」と看守が怒鳴った。手に警棒を持っていた。監守はパンを焼く囚人を殴ることを禁止されていた。パン焼きはつまみ食いも出来た。森林伐採に比べて生き延びる可能性が高かった。

月岡は監視兵の持っている武器を記憶した。トカレフの自動小銃を持っていたが、マンドリン軽機関銃はなかった。戦車と言えば、B―6軽装甲車が四両だけだ。銀行員だった月岡が初めて戦車砲を見たのだ。将校の食堂は別の棟にあった。黒パンとバケツに入ったスープを載せた台車を押して行った。二人が行くところに看守はついてこなかった。

一週間が経った。月岡は収容所の図面を書いた。真四角な収容所は二万坪あった。塀はなく有刺鉄線で囲まれているだけである。監視塔が四か所に立っていた。監視兵は五十人と書き入れた。森林伐採の囚人を監視する兵隊が三十人~十人の看守が収容所に残った。十人が軽装甲車兵である。軽装甲車隊を除いて監視兵はローテーションだろうと記した。月岡が得意とする錠前は原始的なカンヌキだけで、才能を持て余した。だが、どこかに金庫があるはずだと思った。だいたい検討が着いた。

「ジョーカー、ボクたち、今日、釈放される」と沼田という少年が言った。ジョーカーが少年にメモを持たせた。朝の十時、月岡は三人の少年が護送車に乗るのをみた。炊事をさせられていたカレリア人たちと黒パンとスープを看守が運転するジルで森へ行った。

「ジョーカー?」と日本人の囚人が笑った。まだ笑う余裕があるので月岡が安心した。

ブナの森の中であった。

「どこの社員ですか?」

「朝鮮銀行の銀行員です。京城から出張で来たのです」

ひとりが日本人はシベリアのマガダン強制収容所に送られると言った。

「いつですか?」

「来週にでも」

「何故ですか?」

「ハバロフスクの伐採は住民でも出来るけど、マガダンに行くものは囚人だけだから」

「何故、マガダン?」

――グーラッグと呼ばれる反政府活動家を連れて行く強制労働収容所を父が話したことがあると想い出した。

「マガダンには金鉱がある。港がある。八十キロ東にカムチャッカ半島がある。ペドロパブロフスクにソ連軍の海軍基地を建設している。ここをアメリカに取られるって言っている」

月岡が焦った。長谷川たちがこなければ自分もマガダン送りなのだ。壁に刻んだ日付けを見ると、五月十四日である。黒パンを多めに配った。

監視兵に連れられて収容所に戻ると、厨房の掃除が待っていた。月岡が逃げるとどうなるのか試すことにした。いつものように看守の食堂に夕飯を持って行った。台車を廊下に出すと月岡が走り出した。看守のひとりが月岡に飛び着いた。もう一人が加わった。ふたりの看守が月岡の尻を警棒で思いっきり殴った。月岡が激痛にうめいた。気を失った。

「おい、ジョーカー」と言う声が聞こえた。ぼやけた視線の中にエースの顔が見えた。エースがクチに指を当てた。エースがジョーカーを担いで部屋に入った。それを看守が見ていた。



「ウラン、カピタンの計画をどう思う?」

「叔父さん、ボクはそれしかないと思うよ」

ハバロフスク大橋の向こうの丘陵に陽が沈んで行った。

「よし出かけよう」 

ふたりが、エジソンが改良したB―6に乗り込んだ。濃緑色の車体に赤い星。誰が見ても極東赤軍の装甲車なのだ。キャビンの上に二〇ミリ機銃が据えてあった。五百メートル遅れてパブロとエジソンが乗ったジルがついてきた。ジルも濃緑色に赤い星である。ハバロフスク大橋を渡ったところで、検問に引っかかった。外套を着て赤い星の着いた帽子を深く被った兵隊が自動小銃を持って出てきた。

「トバリシ、ドーブルイ ヴィエーチル(こんばんは)」とウランが兵隊に声を掛けた。

「ダバイ」と橋を渡るパスを要求した。そしてウランの左に座っているイワノフの顔を観察した。

「シベリア鉄道の駅へ行くのか?」

「ダ」

もうひとりの兵隊が屋根の上の機銃を見ていた。イワノフが座席に置いていたトカレフを握った。

パブロのジルの中を見た。空であった。

「ダバイ」

シベリア鉄道は右方向である。ウランはそのまま西へ真っ直ぐ向かっていた。一時間走った。B―6が、ユダヤ・オブラストの南の検問所から一〇〇〇メートルの横道に入った。パブロもその横道を曲がった。新月であたりは真っ暗だ。星だけがキラキラと瞬いている。三人は黒装束である。ウランが検問所を見た。赤い火が見えた。ひとりの兵隊が外でタバコを吸っている。パブロがモンゴルの弓を手に持っていた。矢にキッスをして弓につがえた。矢を引っ張って的を絞った。距離は五十メートルだ。失敗した暁にはイワノフがトカレフで撃つ、、「ひゅん」と空気を切って矢が飛んだ。ソ連兵の心臓を撃ち抜いた。ウランも、矢をついだ。寝ていた兵隊が出てきた。「ひゅん」これは喉を貫いた。

イワノフが検問所に入って収容所内の司令室に電話をかけた。

「トバリシ、すべて平和ですよ」

「オーチン・ハラショー」と応答があった。

B―6を先頭にまた一時間走った。森の中に探照灯が見えた。ジルのジーゼルは音がうるさいので、一五〇〇メートルで停めた。計画通りだ。ウランはB―6を徐行して一〇〇〇メートルでエンジンを切った。郭公が鳴くのが聞こえた。角の監視塔のサーチライトが道路を照らしている。ウランとイワノフが楢の林の中を歩いた。イワノフが石油缶を二缶持っていた。数頭の犬が吠えた。だが、こちらへ走ってこなかった。パブロが鹿の肉を北の鉄条網の中に投げ込んだからだ。

監視塔の上から「ダバイ」という声が聞こえた。犬が走っていた方角に探照灯を向けた。イワノフが鉄条網を切って収容所の敷地に入った。監視塔の橋桁に石油をドブドブとかけた。ウランがマッチを擦った。イワノフが監視兵の宿舎の丸木小屋に石油をかけてマッチを擦った。放火されたことを監視兵は気が着かなかった。だが宿舎に火の手が挙がると驚いた。なんと自分たちの監視塔も燃えているではないか。

看守たちが廊下を走っていくのを長谷川が聞いた。振り返るとジョーカーがいないことに気が着いた。――月岡を失った。仕方がない。三十六名の日本人が廊下に出るとエースに従って反対方向に走った。B―6の音が聞こえた。イワノフがカッターで鉄条網を切った。目の前にジルが停まった。長谷川と三十六人の日本人を載せたジルが西へ走った。すると、四五ミリ砲を搭載した軽装甲車が追っかけてきた。軽装甲車が四五ミリ砲をぶっぱなした。だがパブロは南へ下がる道へ曲がった。ウランがB―6のスピードを上げた。たちまち、ソ連軍のB―6に追いついた。追い抜きざま、イワノフが荷台から首を出して二〇ミリ機銃を連射した。驚いた敵兵はハンドルを右へ切った。そして、クヌギの大木に衝突して停まった。イワノフが振り返ると、もう一両のB―6が角を曲がるのが見えた。二〇ミリを撃った。タイヤに当たったのかガタガタと揺れて停まった。収容所の空が赤く染まっていた。

「はははは」とジョーカーの声がした。なんと月岡が麻袋を膝に抱えてウランの横に座っていた。

ウランが東方向の道へ曲がった。パブロのジルがついてきた。ハバロフスク大橋が見えた。検問所からあの兵隊ふたりが出てきた。イワノフが機銃を撃ち込んだ。ハバロフスクの岸辺の道を南へ曲がった。前方に山塊の黒い影が見えた。いろは坂を登って走った。川が見えた。あの検問所から兵隊が出てきた。B―6に乗ったイワノフを見て不審な顔になった。ロシア兵が自動小銃を肩から外した。後ろにジルが着いてきて停まった。運転台に乗っていたエースのトカレフが火を噴いた。四時間後、山のカレリアに着いた。エースが時計を見ると、朝の一時であった。

ステファンが一行を迎えた。「宿泊客は断ったので今夜はいない」とエースに言った。囚人服の三十六人が裸になって岩風呂へ歩いて行った。エースも、ジョーカーも、イワノフも、ウランも、パブロも、エジソンもふりちんで野天風呂へ行った。

朝っぱらから大宴会が始まった。マーゴも、ドーチのアンナも起きていた。さっきまで囚人だった男たちが料理を手伝った。ステファンがすでに用意していたので皿に盛って食堂へ運んだ。イワノフがウオッカのボトルを開けていた。だが、エースがイワノフ以外に禁酒を命じた。部屋が与えられた。夜中に雨の音が聞こえた。

「みなさん、二時間寝たら起こします」

長谷川が、パブロとエジソンに脱獄作戦の二倍の金額を払った。彼らが命を張ったから成功したのである。B―6とジルが始動する音が聞こえた。やがて北へ消えた。



あっと言う間に二時間が立った。男たちがバタバタと起きた。イワノフが先頭になって川に行った。川は水かさが増えていた。流れが速い。男たちはタイヤのチューブを繋いだ即席の筏に恐怖を覚えた。

「あれに乗るんですか?」とジョーカーが悲鳴を上げた。エースが睨みつけたのでジョーカーが沈黙した。ステファンがパンとバターの入った箱をウランに渡していた。イワノフがステファンと抱きあった。ウランがアンナに接吻をしていた。

「おいくらですか?」とエースがステファンに訊いていた。

「おひとり三十ルーブルでどうでしょう?」

エースが一五〇〇ルーブルを渡した。

「また帰って来てください」とマーゴが長谷川の頬にキッスをした。イワノフがステファンに釣り竿を上げた。ステファンがリールを手で回して踊った。

数珠つなぎとなったラフトが岸を離れた。凄い勢いで川を下って行った。スピードを落とすためにイワノフがロープに結んだ岩石をラフトの後ろに放り込んだ。時速が二十キロぐらいに落ちた。

「カピタン、これだと、六時にはウスーリに出る」と救命具を着たイワノフが長谷川に言った。

二十分後、検問所が右手の岸に見えた。長谷川が自動小銃の安全子を外した。だが兵隊は出てこなかった。

空が明るくなっていた。

「あそこがウスーリ」

ウスーリの上流は川幅が狭く湾曲していて両岸に低い山があった。殺風景なアムールと違った。長谷川がハンザ・キャノンを取り出していた。河の博士に戻っていたのである。北が下流なのだ。ラフトのキャラバンが北のアムールに向かっていた。木造の教会がある島が見えた。

「クラズニー島」とウランが大きい島を指さした。

「カピタン、ウスーリは美しいよ。虎~山猫~茶色のヒグマがウヨウヨと棲んでるよ」

水草の紫色の花が一面に咲いていた。青い蓮の花の間に白鳥が浮かんでいた。

「魚の種類も違う。アムールの魚は化け物。ウスーリは日本の川と同じよ。流れが速いから魚も素早いのよ。だから川鱒が泳いでいる。極東は飢えることがない。それが理由で共産化しない」とイワノフは、なかなか自然科学者であった。

左岸が満州領。北にハバロフスクの街が見えた。

「エース、ハバロフスクへ帰るんですか?」とジョーカーの声がした。

「ハハハハ」とエースが笑った。満州側の岸に日の丸を上げた順天と雷艇三隻が停泊していた。順天が汽笛を鳴らした。ラフトの男たちが歓声を上げた。

「エース、何故、こんな回りくどい川下りなんかしたんですか?」とジョーカーが抗議していた。

「ははは、後で話す。ところで、その布袋は何かね?」と笑っていた。

順天と三隻の雷艇が松花江に入った。チャムスは上流である。航海速度が下がった。三日かかると明智艦長が言った。翌朝、南西に爆音が聞こえた。飛行艇がゆるゆると飛んでくるのが見えた。鶴が一斉に飛び立った。長谷川~月岡~イワノフ~ウランが乗った先頭の雷艇が停船して碇を降ろした。黒い機体の飛行艇が近着いてきた。長谷川と飛鳥が上海湾で見た川西九七式飛行艇だった。四発の発動機が轟いていた。飛行艇は長谷川たち四人を迎えに来たのである。操縦士と副操縦士を入れて九人乗りである。四人を載せると、水面を滑走し始めた。ふわりと水面を離れた。南西に向かって飛んだ。副操縦士が温かい牛乳とパンを配った。イワノフが二つ掴んだ。

「ハルピン埠頭まで三百キロであります。一時間二十分で着きます」

「エエ~?何故これでこれなかったんですか?」

「月岡さん、うちは陸軍。飛行艇は海軍の所有ですから。関東軍が貸せと言っても出さない」

「でも、今回は?」

「島原領事です。海軍は大連~青島~上海など太平洋岸にしか配置していないのですが、満州で使えるかどうかテスト中なのです」といかにもベテランと言う雰囲気を持った操縦士が答えた。

飛行艇が二重フラップを下げた。林立したホテル群が見えた。松花江大橋の埠頭に着水した。

一九四十年の五月二十日、四人がキタイスカヤへ戻った。ハルピンを出てから、ちょうど一か月が経っていた。

「長谷川大尉殿、ご無事にお帰りになって嬉しいです」と磯村が上官の背嚢を手に取った。春燕が生まれて四か月のバオバオを抱いて、おいおい泣いていた。

「少尉、俺たち疲れておるが博多屋へ行きたいんだ。君たちも来るか?」

「もちろんです。春燕も一緒で良いでしょうか?」

「日本飯うんと食いたいよう」とイワノフが駄目押しをしていた。ジョーカーが呆れていた。だが、自分も豆腐の入った味噌汁が恋しい。何でもいい日本の食い物なら、、

続く、、
07/13
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第八章



五月一日、長谷川が、外から聞こえた行進曲に目が醒めた。月岡はまだ毛布をかぶって寝ていた。メーデーだ。蓮の池ホテルの前のマルクス公園のポールに赤い旗が挙げられた。ハバロフスクの街に赤軍行進曲が鳴り響いた。窓という窓には赤旗が風にはばたいていた。長谷川が北大で習った日を想いだしていた。  

――メーデーは夏の始まりを祝うヨーロッパの祭りだった。これがのちに労働祭に変わっていった。圧制に喘いだヨーロッパやロシアの労働者が最低賃金と不当解雇防止を訴えた。資本家から弾圧が加わった。すると、労働組合が出来た。ロシアの社会主義革命以来、メーデーは労働者のデモ行進の日となった。日露戦争後の不況時代、日本にもメーデー事件が多く発生した。だが、二二六事件以来、治安維持法が施行されメーデーは戦後まで消えたのである、、

拡声器から流れるもの凄い音響に月岡が起きた。歯を磨き、顔を洗った。ロシアの平民服に着替えた。月岡は実に労働者風なのである。写真機を置いて行くことにした。ふたりが公園に行くと、イワノフとウランがパンを片手に紅茶を飲んでいた。長谷川と月岡も露天商のドーチからパンと紅茶を買った。五月晴れである。巨大な赤旗がアム―ルから吹いてくる風にはためいていた。エプロンを掛けたロシア娘が寄付金を集めていた。月岡がルーブルを箱に入れていた。長谷川がポケットに手を入れると、ウランが首を横に振った。それでもエースは寄付をした。それをポリスが見ていた。普段着でフェルトの帽子を被った男が寄付をした。その男をイワノフが見ていた。

「ドブラエ・ウートラ」と大声で長谷川に声を掛けた。

「ドブラエ・ウートラ、イワノフ」と答えてからロシア語でドーチに話しかけた。寄付のお返しに接吻された。フェルトの帽子の男が去った。

「五ルーブル寄付すると、この赤旗を貰えるのよ」とドーチが言った。エースが首を振った。だがジョーカーが、五ルーブルを箱に入れた。

「どうするんだ?それ?」

「磯村少尉にお土産ですよ」

「ジョーカー、俺、憲兵だよ」とエースが笑った。その長谷川もロシア人形を四つ買った。バオバオと青森の娘たちに持って帰る、、生きて帰ったらだが。民族衣装を着たコサックのダンスを見た。赤軍合唱団の民謡を聞いた。――カレンと双子はどうしてるのだろうか?イワノフが綿飴を手に持って食っていた。巨漢は戦争中でも人生を楽しんでいた。

「カピタン、ハラヘッタ」

「あそこの店で食おう」

「カピタン、エジソンが来いって言ってる」

「では、昼飯を買って持って行こう」

ジルによじ登って郊外のジャンクヤードへ行った。イワノフが鱒の入ったバケツを持っていた。エジソンが笑った。長谷川がホロンバイルで観た小型のイジョルスキーB‐6装甲車があった。濃緑色に赤い星が本物の極東赤軍に見えた。ないのは戦車砲だけだ。重い砲塔を取り除いたので、タイヤを細いものに換えていた。エジソンがボンネットを開けた。英国の大型車のエンジンに代わっていた。変速機も換えたと言った。東の岡に向かってテストドライブに出かけた。エジソンが速度を上げた。昇り坂でも、50~60~70、、下り坂ではジョーカーが悲鳴を上げた。

「エジソン君、改造前のB‐6の最高速度は何?」

「43キロ」

耐久性をテストした。加熱しない。それもエジソンがラジエーターを大きいものに換えていたからである。

「イワノフ、エジソン君に今夜メシ一緒に食おうと言ってくれ。そのときに、支払いをする」

「スパシーボ。カピタン、明後日、もう一人の友達に会う。闇屋だよ」

長谷川は武器商人だと思った。ジルに乗ってホテルへ戻った。

山中武官から受信していた。

――パリジェンヌは、スターリンホテルのことを知らない。玩具の兵隊が集まっていると聞いた。アイ・ラブ・ユー。ゴッホより

「山中さんは、なんて言ってきましたか?」とジョーカーが心配顔で訊いた。

――こちらスミドビッチ収容所の情報はない。ハバロフスクは極東赤軍の戦車部隊の基地である。収容所には間違いなく戦車を置いている。まず、状況を把握されよ。武運を祈る。山中。とエースが読み上げた。

イワノフが地図を拡げた。

「カピタン、アムールの西岸に渡ると真っ直ぐ西へ行く軍用道路がある。ここに極東赤軍の戦車部隊がある。ここを突破する方法を考えないといけない。ここと、ここと、ここに検問所がある」とイワノフが赤い丸を付けた。 

「収容所までの距離は、60キロだね?北の荒原はユダヤ自治区って書いてある」

「ハバロフスク・ユダヤ・オブラストっていう。西へ50キロ。北はアムールの支流まで40キロ。収容所はその西にある。理由は、その北西のタイガ森林。森林伐採に強制労働させる」

「月岡さん、今年、日本人狩りがあった。連行されたのは三十八人の若い男だけ。みんな、大日本帝国極東貿易の社員や請負の社員だよ」

「長谷川さん、ちょっとクチを挟んでよろしいでしょうか?」と月岡が朝鮮銀行の社員に戻っていた。

――ハバロフスクは、一九一七年のロシア革命前、明治の終わりころから昭和初めまでおよそ六〇〇人の日本人居留民が滞在するなど日本とは交流は非常に盛んであった。日本人居留者は商業~運輸などのサービス業に従事していた。その代表的な人物は竹内一次であった。竹内は一八九六年にハバロフスクに渡り写真館を開業した。

「ほほう、写真館をね?」とやっぱり日本人は写真が好きなんだと思った。

――さらに、野心と冒険が大好きな竹内は、日露戦争後、外国人で初めてハバロフスク・ウスペンスキー教会保有土地にロシア聖教の許可を得て、大日本帝国極東貿易を設立した。大日本帝国極東貿易は、ホテル~レストラン ~百貨店の機能を持つ複合ビルで貴金属商ローゼンベルグ商会と衣服~靴~雑貨などの販売をしていた。

「ローゼンベルグ?ユダヤ人だね」

「そうです。スイスからきたユダヤ人です」

「今、その富裕層のユダヤ人たちはどこにいる?」

長谷川が上海のサスーンがバグダッドのユダヤ商人だったと想いだした。

「神戸を経由してサンフランシスコに移住しています」

長谷川が世界に股を掛けるユダヤ民族の野望の大きさを感じた。日本を出ない日本人の民族性と対照的だと思った。長谷川はロシア人にも内向性があると感じていた。

「イワノフ、あの長い橋は何なの?」とエースに戻った長谷川が訊いた。

「ジョーカーの頭は、ボクよりもいいよ」と月岡を見た。

「そうですね、モスクワの赤い広場で血を流したのが一九一七年です。その前の年に、ニコライ皇帝が長年夢にみたアムール橋が出来たんです。理由はシベリア鉄道の国内線です。極東の貿易の拠点ですからね。モスクワのレーニンたちは、九〇〇〇キロも離れた極東まで手がまわらなかったのです。それで、ハバロフスクは反革命軍の制圧下にあったのです」と月岡がイワノフを見た。

「そうですよ」とイワノフが一瞬、真っ赤な顔になった。ウランが深く頷いた。

「日本は、極東の日本人入植者と権益をソ連から守るためにシベリアに出兵したのよ。極東共和国が出来たのよ。日本軍が撤退した理由がボクにはわからない。すると、モスクワは、ハバロフスクをすぐにソビエトの支配下に置いた。ボクのお父ちゃんはヴェプス人の自由主義者だったから殺された」

「でも、ハバロフスクの住民はモスクワの言うことなんか聞かない。伝統的に解放主義だから。平和に生活する人なら誰でも大歓迎なのよ」とウランが言った。

「今でも、日本人が多い方がいいって言ってる」とイワノフが日本のために命を賭ける理由を言った。

「イワノフ、この収容所襲撃をどう思う?」

「カピタン、襲撃は無理だよ。赤軍は一個師団を八角形に置いている。戦車は軽装甲車の6ーBだけど、あの規模なら十両は置いている」

長谷川が45ミリ砲を想いだしていた。

「では、どうすれば、四〇名の日本人を救出できる?」

イワノフが顎に手を当てて考え込んでいた。ときどき、タオルで汗を拭いた。ジョーカーが、長谷川とイワノフを交互に見ていた

「ジョーカーに収容所に入って貰うしかない」

「エエ~?」と月岡が悲鳴を上げた。だが、誰も笑わなかったので本気なのだと気が着いた。

「イワノフ、その三十七名はどう拘束されたのか?」

「料理屋やカフェで日本語を話しているだけで、スパイだと引っ張ったのよ。抵抗してその場で射殺された若い社員もいる」

長谷川の目が左右に動いた。そして月岡を見た。

そこへエジソンがやってきた。請求書を持って来なかった。「代金は要らない」と言った。五人が外へ出た。ユダヤ料理店に向かっていた。



五月三日の朝、月岡夢次郎がカフェで逮捕された。ジルの運転台にいた長谷川がハンザ・キャノンを連続モードにして収めた。ジョーカーを放り込んだ赤軍憲兵のバンは、ハバロフスク大橋に向かって走って行った。ウランがジルを始動させて追っかけた。橋の検問所の前のロータリーで引き返した。

イワノフがパブロと抱き合って頬に接吻をした。さみしい顔をした中年の男である。ロシア人にも見えない。北の山林の中の一軒家である。ドアにヒグマの毛皮が釣ってあった。パブロは猟師なのだ。

「パブロはカレリア人。パパが赤軍に殺された」とイワノフが話すと、パブロがもの凄い目つきになった。イワノフがロシア語でパブロに話した。パブロは静かに訊いていた。部屋の一角に物置がある。パブロが扉を開いた。大工道具のクロゼットである。ワノフが大工道具の木箱を引っ張り出した。パブロが床に背を屈めて、羽目板を取った。すると、階段が地下へ続いていた。パブロが先頭になって階段を下りた。長谷川が目を見張った。武器庫であった。見ていると、イワノフが指さしては、パブロが台車に載せた。チェコ製の狙撃銃~ダイナマイト~二〇ミリ機銃。

「イワノフ、二〇ミリ機銃はどこ製のもの?」

「一式陸攻の後ろに付ける恵式二〇粍機銃一型よ」

長谷川の目が左右に動いた。

「どうして手に入れたのか?」と長谷川が憲兵に戻っていた。

「武漢で墜落した日本機から八路軍が持って来た。それをソ連に売ったのをボクたちが襲って奪ったのよ」

「だが、タマが一連しかないじゃないか」と言うと、パブロが弾帯をもってきた。フランス製の弾丸だった。

「フランス製だけど、エリコンFFを買って改良したから口径は同じなのよ」

「それ、爆撃機を撃ち落とすための機銃だと聞いたけど?」

「そうよ」

蓮の池に戻った長谷川が収容所の写真を見ていた。丸太を組んだ木造であった。


続く、、
07/12
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第七章



四人がカザケビッチボで降ろされた。河だから水はあるものの、全く荒野と言うしかない。「月の裏面よりも寂しい場所」と明智が言っていた。イワノフが、順天がUターンして西へ消え去って行くのを見ていた。「お~い、戻って来てくれ」と叫びたくなった。右手の南からウスーリが流れてアムールに合流している。ウスーリの東がわに高い山塊が見えた。その山塊だけが緑が濃いいのだ。材木の生産地なのだろう。ハバロフスクはその山塊の北の裾野なのである。

「カピタン、どうする?」

「漁船を捕まえるしかない」

「漁船なんか来るの?」ウランまで心配そうな顔であった。

三時間が経った。夕闇が迫っていた。

「ここで野宿するしかないのかな?」とイワノフが悲しい声になっていた。長谷川が双眼鏡を目に当てていた。

「来たな。夜釣りか、夜の網漁か?」

イワノフが集めてあった枯草に火を付けた。それを上着で煽った。四人の男が漁船に手を振った。漁船は二隻だった。一隻が河岸に近寄ってきた。大きな船だ。屋根に煙突のある小屋が立っている。船が住み家の連中なのだ。

「你是谁啊?(あんたら誰?)」

「道に迷った。助けてくれ」とイワノフがロシア語で、それもハバロフスク弁で言った。

「トバリシ?」

「イワノフ・ジャポチンスキー」

「この人たちは誰?」となかなか警戒を解かない。

イワノフがルーブルの札束を見せた。すると、「乗れ」と手で招いた。気が変わらないうちにとウランが乗り込んだ。船頭が長谷川を見た。――満人ではないがアジアの顔だ。イワノフがすかさず、ルーブルの札束を男の手に握らせた。三人の満族の漁夫が目をギョロギョロさせていた。男が何かロシア語で言った。

「なんて言ってんだ?」

「このひとらは日本人だろ?見つかれば監獄に放り込まれる。もっとカネをくれ」

イワノフが殴りつけようとするのを長谷川が止めた。

「這個多少錢 ?」

「ひとりに五円」

「你(OK)」

四人が手を出した。

「ハバロフスクに着いたら払う」とイワノフが言うと何かまた言った。

「カピタン、あの山の南側にしか行けない。ロシアの警視船がいるからだそうです」

「你(OK)」

山の南の岸にニ時間で着いた。イワノフがひとりひとりに払った。

「好好」とニコニコと笑った。荒野の四人が背嚢を持って飛び降りた。月岡がよろけたのをウランが助けた。時計を見ると、なんと十一時になっていた。一キロぐらい北に建物の灯が見えた。四人が歩いて行くと飾り窓が開いて電灯の灯が道路を照らした。これは、電気があるということだ。扉が開いた、太ったロシア女が出てきた。

「オマエラ、イッパツヤルカ?それとも休憩か?」

長谷川は「イッパツ」が何のことかわからなかったが「オマエラ」とは無礼。だが抗議しなかった。

「泊まるつもりだ」とイッパツの意味が判っていたウランが言った。

「ひとり百ルーブル」

「高い」

「ドーチが着いている」と女が笑った。売春宿の女将なのだ。

「エエ~?」と月岡が叫んだ。

「イッパツヤラナイが、ウオッカあるか?」

「飲み物はなんでもあるよ」

長谷川が四百ルーブルを女に渡した。

「オマエ、好い男だね。本当にドーチは要らないのか?ナカナカイイヨ」

大きな部屋をひとつ借りた。新しい敷布を持ってこさせた。タイル張りの風呂があったが、入らないことにした。若い女がふたり、ウオッカとサラミ~ソーセージ~茸の塩漬けを持ってきた。若いが何か暗く鬱陶しい。笑わないし、目も死んでいる。「よっぽど夢華(もんふぁ)の方が好いわ」と長谷川が生きることに懸命な上海のストリッパーを想った。女たちが座ろうとした。イワノフが「ダバイ、ダバイ」と追い払った。

朝早く起きた。まだあたりは暗かった。イワノフが女将にハイヤーを呼ばせた。自分の亭主が運ちゃんだと言った。ロシア製の乗用車はダサかったが、歩くよりはいい。

「ハバロフスクで一番高いホテルへ連れて行け」とイワノフが言った。運転手が驚いたがそのホテルは客を連れて行くとチップをくれた。ハバロフスクのダウンタウンは意外に小さく混雑していなかった。大通りが四本~横道が八本であった。カール・マルクス通りをアムールの埠頭に向かって西へ降りて行った。四角いクラシックな公園があった。鶏頭の花が群れていた。ホテルは「蓮の池」という名前であった。これが最高なのだ。フロントへ行って、一番大きな部屋を二つ取った。三階の西向きである。バルコニーがアムールに面してあった。値段は、上海のホテルの五分の一であった。

「イワノフ、ここを拠点に出来るか?GPUはいないか?」

「いるけど、外貨が足りないから見て見ぬふりしてる。ボク、ドルで払ったよ」

「ウラン、部屋に仕掛けがないか見てくれ」

「カピタン、モスクワはハバロフスクには日本のスパイがいないとしているのよ。戦車以外、何もスパイするものがないから」

「上海租界の逆さまか」

「ここの人間は、意欲がないからね」

「それでも食っていかれるわけだね?」

「そうよ。ボクの親でも収入は少なかったけど、食い物に困ったことがない。全てレベルが低いけど全部あるのよ。それがマルクスの社会主義よ。でも、モスクワなどでは浮浪者が多い。犯罪も多い。モラルも低い」

「足をどうしようか?」

「ボクの幼な友達は自動車の修理屋だよ。目立たないのを一台借りる考えよ」

「連絡係をウランにやって貰おう。マルコーニをイワノフにやって貰いたい。俺と月岡さんは監獄を破る方法を考える」

「ボク、昼前に友達に会いに行く。夕方、監獄を見に行きましょう」

「では、朝風呂へ入って、メシ食おう」

「月岡さん、疲れたでしょう。今日は一日、好きにしてください。だが兵隊はメシを食わずに寝てはいけない」

長谷川は、月岡が自分よりも年上であることに気を遣った。月岡が背を丸めて浴室へ行った。背を丸めるのは、疲労が重なって背骨が体重に耐えられないからである。それも無理からぬことだ。何しろ死刑台の階段を昇り、袋を頭から被されて、踏板が落とされる寸前だったのだ。さらに、自分はこの男に命を捨ててくれと、ここまで連れて来たのだ、、

月岡が浴室から戻ってきた。越中のままベッドに身を投げた。そしてメシを食わずに深い眠りに落ちて行った。夢次郎、、言い名前だ。午後の三時まで長谷川も寝た。ドアのノックで起きた。イワノフが戻っていた。

「カピタン、車借りたよ。監獄を見に行く?」

長谷川と月岡が、イワノフが幼馴染から借りた自動車を見に行った。カリーナ通りにはそんな自動車はなかった。マルクス大通りの角に泊まっていた灰色の恐ろしく大きなトラックを見た。ヘッドライトが点滅した。なんとウランが運転台に座って笑っているではないか。長谷川が憂いていた。だが月岡は笑っていた。

「カピタン、これしかなかった。ドライブに行かない?」

運転台がバカでかい。イワノフが前に回ってクランクを回したが、なかなか掛からない。ウランがボンネットを開けてガソリンを油差しで差した。今度は掛かった。もの凄い音である。排気管から真っ黒な煙がもうもうと出ていた。月岡が逃げ出したくなった。

「ダイジョウブヨ」

四人が運転台に乗った。というか、月岡はイワノフの膝の上に乗っていた。ウランがレバーを入れた。トラックがガリガリと動き出した。速度が出なかったが、誰も文句を言わなかった。長谷川がクチを曲げてイワノフを睨んでいた。

「カピタン、これ、ジルっていう名車なのよ」

「バカモン。二時間も乗ったら腰が立たなくなるよ」と言うと月岡が吹き出した。

ジルは東の岡の上に向かっていた。展望台があった。ジーゼルを切らず降りた。ハバロフスクの街が一望出来た。

「アムールは海だね」と長谷川が写真に撮った。

「カピタン、あれが監獄よ」

イワノフが指さす方角を見た。アムールの向こう岸だ。森も林もない原野である。長谷川が双眼鏡を目に当てた。学生時代に見に行った甲子園球場の規模である。長方形の木造三階建てに正方形の窓が並んでいる。光らないのは鉄の格子窓だろう。機関銃が屋上とゲートの数か所に据えてあった。兵隊が熊のように歩いていた。長谷川が双眼鏡を月岡に渡して、ハンザ・キャノンに望遠レンズを付けた。改良型は重いが、手に安定感があった。向こう岸から水上機が飛んでくるのが見えた。日本海軍の川西94式一号水上偵察機に比べて劣っているのがその形に現れていた。長谷川~月岡~イワノフがジルに乗った。ウランがドアを閉めた。坂を下がった。コムソルスカヤ通りに出て北へ向かった。

「叔父さん、試すよ」

ウランがダッシュボードのレバーを引いた。突然爆発音がしたと思うとジルが速度を上げた。長谷川がドアの手すりに掴まっていた。時速五十キロ出ていた。ウランが廃車場にジルを入れてジーゼルを切った。イワノフを小型にしたような青年が笑いながら丸太小屋から出てきた。

「エジソン」と言って長谷川に手を出した。

「ドブラエ・ウートラ」

ウランがエジソンと話していた。エジソンが姿を消した。小型の貨物トラックを運転して来た。長谷川が見ると、ホロンバイルで襲ってきた装甲トラック6型ではないか。ただ、四五ミリ砲がないだけである。

「三日」とエジソンが言った。ジルに再びよじ登って四人が蓮の池に帰った。一階のレストランで極東料理をオーダーして部屋に帰った。

「ジルはダメか?」

「ダ」

「三日ってどういう意味か?」

「ジーゼルをガソリンエンジンに取り換える」とウランが答えた。

――速度を上げるためだなと月岡が聞いていた。

「ペンキを新しく塗り替える。タイヤを細いのに換える。防弾ガラスを入れる」

「20ミリ機銃を載せるよ」とウランが言った。

「そんなものどこで手に入るのか?」

イワノフは笑って答えなかった。

揚げパンの各種~マトンの串焼き~胡瓜~クルミパンが夕食だった。イワノフが揚げパンにバターをべったりぬってイチゴのジャムを塗り月岡に「食え!」とばかりに手渡した。満腹したとき、「明日も遠足だ。寝るぞ」と長谷川がみんなに言った。



「カピタン、ドブラエ・ウートラ」とイワノフとウランが入ってきた。ウランが大きな風呂敷を持っていた。朝の八時だ。階下の女給がフランスパンと紅茶を持って上がってきた。イワノフが床の上で風呂敷を解いた。迷彩服~迷彩帽子~迷彩Tシャツ~軍手~軍足、、大~中が二つ~小一つの四式があった。

「イワノフ、武器がないよ。南部一つ持ってこなかったんだからね」

「ワカッテマンガナ」というと月岡が笑った。顔につやが出ている。二晩、ぐっすりと寝たからだ。食欲も出ている。――月岡は行軍訓練を受けた歩兵ではないのだ。この疲労を計算にいれないと作戦は失敗する。われわれは玉砕する。

「エジソンにね、コストを恐れず貨物トラックを改良してくれと言っておくれ。島原領事が外交機密費をくれたんだ。生きて帰るぞ」

「カピタン、ボク、死ねないよ」

「遠足はどこに行く?」とウランが訊いた。

「あの山の峡谷に村があるらしいよ。そこで泊まろう」

「コルフォフスキーで山小屋やってる家族を知ってる。今、鱒が上がってきてるよ」とウランが言って笑った。

――ああ、それで、釣竿を持って来たんだ。

トラックによじ登った。座ると、イワノフがトカレフを長谷川にくれた。

「何処で手に入れたの?」

「エジソン」

「なぜ、トカレフが要る?」

「コルフォスキーはここから八十キロだけど、道は一本。坂が険しい。極東赤軍の検問所がある。ダイジョウブ」

「どうしてダイジョウブ?」と月岡が心配になった。

「トバリシ」

「長谷川さん、トバリシって何ですか?」

「同志とか朋輩とかです。ところで、長谷川さんと言うのは、現場にそぐわない。僕はあなたをジョーカーと呼びます。あなたは、僕をエースと呼んでください」というとイワノフがハハハと笑った。

「それでは、エースさん」

「いや、エースです。トランプを知ってますか?」

「金融学の教科書にあるのです。勝率の分析です」

「ジョーカーの意味は?」

「ピエロです」

「すると、ポーカーに強いのですか?」

「大学でチャンピオンでした。父によく叱られました」と笑った。

ハバロフスクから道は真っ直ぐだった。しっかりできていた。理由は花崗岩を掘り出してハバロフスクに運搬するからである。もっと南へ山塊を縦断するとウスーリ河に出る。そこから運搬船が出ている。

ジルはガラガラと快走した。ウランが窓を開けて五月の風に吹かれていた。イワノフが不思議な調べの民謡を歌っていた。標高は七百メートルあった。頂上から峡谷の村コルフォフスキーが見えた。下りはエンジンブレーキを掛けるので遅い。八十キロの行程を四時間もかかったが、誰も文句などない。戦闘でさえなければ、時間などどうでもよかったのである。

山荘というか、長屋に似た山小屋が道路のわきにある。急斜面の屋根にレンガの煙突が立っていた。煙突から薄い煙が出ていた。ハバロフスクは気温が二十一度だったのに、この小さな谷間は十六度とひんやりとしていた。夜は夏でもペチカを炊くとイワノフが言った。峡谷の入り口に遮断機のある検問所があった。ふたりの男が出て来た。ふたりとも大男だ。極東赤軍のユニフォームを着ていた。マンドリンという軽機関銃を肩から下げていた。イワノフと長谷川がトカレフを冷凍チョウザメの箱の中に放り込んだ。

「トバリシ、ドブラエ・ウートラ」

それには返事をせず、じろっと長谷川をみた。

「ダバイ」

「ヤポンスキーか?」

月岡を見たが無視された。

「ダ、ヤポンスキーだ」と長谷川が流暢なロシア語で答えた。「日本人拓殖者の弁護士だ」と身分証明書を見せた。検問兵が目をパチパチさせた。ひとりがトラックの後ろに回って荷台をみた。何も積んでいないので仲間のところへ戻ってきた。ひとりの兵隊は長谷川の身分証明書を裏返して見ていた。長谷川の顔を顔と写真を見比べていた。太ったほうの男が、イワノフに何か言った。イワノフがルーブル札を胸のポケットから取出していた。

「ダバイ、ダバイ」と手を振って「行け!」と合図した。

「スパシーボ、ドシダーニャ」とウランがウオッカのボトルを差し出した。太った兵隊が、 ワハハハと笑った。この間、月岡は全く無視されたのである。

四人がジルによじ登った、

「イワノフ、ボク、なぜ、無視されたのかな?」

「ジョーカーさん、あなたは敵には見えないのよ。だって、弱いんですもの」

「エエ~?」と月岡が目を三角にした。

屋根が八方に尖った山のカレリアが見えた。エプロンかけた夫婦が出てきて、イワノフとウランと抱き合った。山小屋と言っても百人が停まれるロッジと主のステファンが胸を張った。ステファンは五十歳を超えるユダヤ人だった。

「マーゴ、土産は何もないよ」とイワノフが言ってステファンの妻に新潟の反物を上げた。

「スパシーボ、これ欲しかったのよ。来年、ドーチの結婚式があるから」

「カピタン、魚釣る?」

「どこで?」

「この川で」とウランがロッジの目の前の川を指差していた。見ると、急流が石に当たって白い波が泡立っている。川幅は、十メートル。駒込川に似ているが、標高が三百メートルである。

「鮭は終わったけど、鱒がウスーリから昇っているよ」

「この川を下るとウスーリ?」と月岡が訊いた。ジョーカーが何かを考えている。

「夏は、カヤックの人が多くなる。河口まで二時間。そこからトラックで戻ってくるよ」

長谷川と月岡にステファンが手製の釣竿を持ってきた。雉の羽毛で出来た擬餌針である。バケツはなく紐だった。月岡がゴム長を履いて川に入った。足を取られた。ウランがジョーカーの腰を抱いた。

「スパシーボ」と言ったが、ウランがにやにやと笑っていて、なかなか放さない。

「おい、放せよ」

ウランが放した途端に月岡が石で滑った。後ろ向きに倒れた。南へ流された。

「助けてくれ~!」

下流にいたイワノフが月岡を両手で掬い上げた。そのまま抱いて川辺に歩いて行った。ステファンが笑っていた。

「ジョーカーさん、どうしたの?」とマーゴと十八だと言ったドーチが笑っていた。

長谷川の竿がしなった。リールはなくイワノフが手で手繰った。ウランが手網で掬った。銀鱒だ。鱒は一キロ級で一番美味いと言われていた。長谷川が一瞬にして駒込川の少年に戻っていた。イワノフが紐を投げた。長谷川が顎のエラから紐を通して浅瀬に置いた。ウランとイワノフがやはり一キロ級を次々と釣った。リールが着いた日本の釣り竿は世界一であった。

「あと、十匹お願い」と岸からマーゴが叫んだ。いつの間にかジョーカーが戻っていた。手にウオッカのボトルを持っていた。

「おい、トバリシ、飲みたいか?」とジョーカーが言うと、イワノフが歩いてきた。無言でボトルを掴んでゴクリと飲んだ。二時間で十四匹が釣れた。ステファンが日本の釣竿が欲しいと言った。ペチカだが、囲炉裏になっている。持ってきた二級酒を熱燗で飲んだ。鱒はやはり美味かった。イワノフが二匹食った。釣った鉄の鍋にノロのシチュウが煮えていた。長谷川がお玉杓子で掬った。小鹿だったらしい。ステファンが撃ったとマーゴがエースに言った。

「ジョーカーは、飲めるんだ?」

「朝鮮にはいい酒が出来るんです。銀行屋は飲兵衛が多いのですよ」

長谷川が何か聞こうとしてやめた。飲めないのはウランだけである。そのウランにドーチが茸の塩漬けやタンポポと水セリのサラダを持ってきた。

「マヨネーズは私が作ったのよ」とアンナは積極的であった。長谷川がカレンを想いだしていた。やはりユダヤ女性である。

「ミス・アンナ、ボク、ウラン」

「結婚するって、いつなの?」とイワノフがアンナに訊いた。来年の三月に従兄弟と結婚すると言った。

「それじゃあ、乾杯」とエースがコップをジョーカーのコップにカチンと当てた。ステファンがニコニコしていた。その晩は、他にやはり釣り竿を持った客が数人泊まっていた。アジア系のロシア人である。野天風呂に入った。入浴客が二十人はいた。コサックの子供たちが、日本人がいることに不思議な顔をした。

四人が長谷川の部屋に集まってウランの話を聞いていた。階下のペチカの煙突が通っているので暖房が効いていた。テーブルの上にリンゴの籠がおいてあった。その横にマルコーニ無線電信機が置いてある。受信機と送信機の二つである。

「釣りを楽しんでいる間に山中さんから受信があった」とウランが言った。エースの目が左右に動いた。

「無事なのか遊んでいないで知らせよって。たぶん、島原領事よね」

「ウラン、俺の心配はしゃべり過ぎることさ。おしゃべりをバズというが、ソ連領事館の盗聴屋が日本の交信だと感ずく。君ならどう返事する」

「クプチャプカーンって送信したよ」

これには、ジョーカーまで笑った。

「それで、返事はあった?」

「バカモンって」

「ははは、GPUは、子供の遊びだと思っただろうな。ただし送信は必ず俺に相談してくれ。これを送信してくれ」とエースがメモをウランに渡した。

――インド象の親子は元気か?小熊は元気か?うちの仔馬はゲンキ、ゲンキ、、

「イワノフ、ここから南へ行けるかな?」

「行けるけど、ここから二十キロ先に検問所があるよ」

「では、やめておく」

ジョーカーがほっとして息を吐いた。

「カピタン、明日の予定はナニ?」

「朝、ここで情報の収集をやろう。それ次第だが、陽が沈むまでに蓮の池に帰る」とエースが言うと、ジョーカーが手を挙げた。

「ウランって本当の名前ですか?」

「ウラノス・サマルカンド」と拳闘家が答えた。エースが何かポケットから出してウラノスに見せた。イタリア製の飛び出しナイフであった。ウランが手に取って、シゲシゲと見ていた。そして返そうとした。

「ウラノスにあげる」

ウランの目が輝いた。籠からリンゴを取って皮を剥いた。少年時代に野菜を売って生計を立てたウランは器用である。あっと言う間に三つ剝いて四つ切りにした。イワノフは丸のまま齧った。リンゴを食ったあと、部屋に帰って行った。

四人が、ステファンの一家に送られてジルによじ上った。ジョーカーがなかなか昇れない。イワノフが抱き抱えた、、

検問所に同じ二人組がいた。

「どこに行ったのか?」

「カレリアに泊まって鱒を釣った」とウランが窓からタバコを兵隊にくれた。

「ダバイ」と太った兵隊が言った。左側の山の上に太陽が燃えていた。午後の二時であった。六時には蓮の池に着く、、

続く、、
07/11
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第六章



二月~三月と難なく平和な時が過ぎて行った。月岡も――これが自分の家族だと自覚していた。三月の終わりが近着いていた。迎春花(インチョンホア)に可愛い蕾が着いていた。長谷川が決心をした。

「イワノフ、俺とハバロフスクへ行ってくれ」

島原領事~長谷川~磯村~月岡~山中武官~ウランがハルピンの日本総領事館の会議室に集まっていた。

「この秘密作戦を日本政府は知らない。知ったところで何も出来ないからだ。詳しくは長谷川君がここで説明する。長谷川君が作戦の司令塔である。この使命はたいへん難しい。ノモンハンよりも難しい。君たちが生きて帰らない可能性もある」とインド象が言ってイワノフの目を覗いた。

「ダ、コンサル・ジェネラル(総領事)さん、ボクはソ連と戦う為に生まれタよ。ウランは若いから死なさないヨ」

インド象が涙ぐんだ。磯村が拳闘家を見た。何の変化も顔に現れていなかった。それほど叔父を信頼しているのだ。

「それでは、みなさん、聞いてください」と長谷川が言ってから、ハバロフスクソ連国収容所の空撮を見せた。誰が撮ったものか非常に精密に撮影されていた。二年前にイワノフが入手したものである。島原と磯村が一枚一枚手に取って見ていた。ウランは横目で見ただけである。関心を最も示したのは月岡であった。この瞬間、月岡夢次郎は自分の宿命が何であるのか理解したのである。月岡が長谷川を見た。それを島原が見た。月岡の顔には不服が感じられなかった。

つぎに、長谷川がハバロフスクのマップを壁に画鋲で止めた。月岡が長谷川の真横の椅子に移った。よく見ようという熱意があった。磯村が、マップを数枚用意してきた。全員に配った。そして赤鉛筆を円卓の真中に数本置いた。月岡が赤鉛筆を取った。長谷川が数か所に赤く丸を描いて番号をふった。それから、地上で撮った写真を手に持って、数字を言った。全員が写真に番号を書き入れた。インド象までが真剣であった。

「収容されているのは、日本人~日系企業のアジア系ロシア人~ベラルーシ人~ウクライナ人~ユダヤ系ロシア人である。年齢は四十歳以上の者はいない。この意味するところは、シベリアのマガダンへ連れて行って森林伐採の労働をさせるからだ。そこでみんな死ぬだろう」

「一か所に収容されているのですか?」と初めて月岡が質問をした。長谷川が月岡を見た。

「そうです」

「日本人四十名を連れて帰るのですか?」

「そうです」

月岡が沈黙した。

「誰が行くのでありますか?」と一番知りたいことを磯村が訊いた。その声が震えていた。

「少尉、君は行かない。俺~イワノフ~ウラン~月岡さんの四人が行く」

「それではどういう方法でハバロフスクに行くのでありますか?」と月岡が最も気になる交通手段を質問した。

「イワノフ、説明を頼む」

イワノフが立ち上がって黒板の前の長谷川の横に立った。

「大尉殿、この会議録の記録として写真を撮っても良いでしょうか?」と磯村が質問した。長谷川がその端正な鼻の下に指を当てて考えていた。

「イワノフ、どうかね?」

「オーチン・ハラショー。問題ない」

「磯村少尉、門外不出だ。漏れたら、キサマをブッ殺す」と大声で笑った。これは本気だなとみんなが思っていた。長谷川が続けた。

「野生の四人は、ハルピンから四百キロ北東のチャムスに飛ぶ。そこから同江県幸福鎮まで川船で行く。二百二十キロある」とチャムスと幸福鎮に赤い丸を書いた。そこに、順天が待っている」と砲艦順天の写真を見せた。イワノフが鶏を抱いて写っていた。やけに心配そうな顔をしている。

「何故、鶏なんですかね?」と月岡が質問した。全員が笑った。イワノフがウランを睨んでいた。

「砲艦順天の明智三郎艦長は、日本海軍河川砲艦部隊の、、」とイワノフがうなり出した。

「イワノフ、浪花節はいいよ、船旅は長いから、話を取っておけ」

「幸福鎮からハバロフスクまでは下流なのね。二日以内に着くけど、ハバロフスクの港には入れない。その辺の計画はまだナイヨ」

「イワノフ、君は、どうしてハバロフスクに詳しんですか?」と月岡がイワノフのクレジットを疑っていた。

「イワノフも、ウランもハバロフスク生まれなんです」と磯村が――信頼して良いと、ばかりに言った。月岡は、そうとう慎重な性格のようだと長谷川が思った。

「それでは、いつ出発するお考えですか?」

「月岡さん、明日から平房の練兵場で戦闘訓練を一週間やる。心配しないでも良い。徐々にやる。その後も、データが新京からくるのを待つ。まず、別に急ぐことではない。ハバロフスク赤軍軍事法廷は五月です。それまでに現地入りして環境に慣れたい。つまり四月の末日にはハバロフスクだとお考えください」
長谷川の言葉は丁寧だった。



訓練が始まった。イワノフがハバロフスクの収容所の区画の通りに柱を立てた。赤~青~黄色と要所を色分けした。まず、四人は、三つの計画を立てた。その計画の通りに走った。磯村が、ストップワッチで何分かかったかを書き入れた。訓練後に討論した。これに一日かかった。つぎは武器をどうするか?長谷川は意外に手榴弾が役に立たないことを知っていた。ウランの地雷が最も効果が大きいのだ。狙撃の戦闘でもない。兵隊食堂に帰ってメシを食った。月岡を見るとゲートルを巻いた足を引きずっている。

「月岡さん、どうしましたか?」

「自分は足の筋肉が、へたっております」と苦笑いをした。

「まだ、ひと月ありますよ」

イワノフが、足はそう簡単に強くならないから手を考えると言った。つまり高学歴の人間ほど兵隊の役に立たないものはないのである。食後、長谷川は月岡~イワノフ~ウラン~磯村を自分の部屋に呼んだ。憲兵本部から各種の鍵を持ってこさせた。単純な施錠式から二重ダイアル式まで、、

「月岡さん、これを開けられますか?」

月岡が鍵を観察していた。施錠式は釘で開いた。金庫のような鉄の板に組み込まれた二重ダイアルを見た。――聴診器が要ると言った。磯村が医務室に行って聴診器を借りてきた。

「この二重ダイアルが多い。誰にも開けられないよ」とウランが言った。

月岡がダイアルを観察していた。紙に鉛筆で何かを書いた。それから聴診器を当ててダイアルを右や左に回した。上の小さいダイアルを時々回していた。十秒が経った。月岡はダイアルの左のプレートのネジをドライバーで回して外した。そこにはピンホールがあった。ヘアピンをさしこんだ。月岡はスイスの時計職人のように器用であった。「カチリ」と音がした。ハンドルを手で引くと鉄の扉が開いた。見事である。しかし、情報のドン、イワノフでさえも収容所の入り口~警備兵~扉の構造も知らなかった。長谷川が茫然としていた。そのとき、イワノフの心配がわかっていた月岡が「ご心配なく」と言った。



四月二十日、松花江は完全に氷から解放された。長谷川たち四人組が島原領事に出発が迫ったことを伝えに行った。長谷川が山中武官の部屋から、明智艦長に電話をかけた。順天はすでにハルピンの埠頭を出た。航行速度十ノットと遅い。現在、松花江を北東へ航行しているとハルピン河川艦隊本部の電信長が言った。そこで、長谷川は電信を打って貰うことにした。

――四月二十二日に四人組は平房からチャムスに飛んで、そこから川船で幸福鎮へ行く。十二時間で幸福鎮に着く。夕方の六時です。チャムスを出るときに電信を打つ。二十四日の朝にお会いする。よろしくお願いする。長谷川道夫憲兵大尉。

「カピタン、ボク、クララに会っておかなければ死ねない」

「三時まで待てるか?まだ野暮用が残っている。留守中のことだ。磯村と山中さんも来る」

「カピタン、ウランと買い物する。トトロで四時。それでいい?」

「わかった」

島原が入ってきた。手に茶色の封筒を持っていた。イワノフに封筒を渡した。イワノフが開けた。百ドルが入っていた。

「ドーシ・ダーニャ」と二人が抱き合った。

長谷川たち四人がトトロに入ると、イワノフがクララの親父と話していた。

「クララは六時まで来ないよ。今夜はトトロの招待だ」とハバロフスクへ行くと聞いたウクライナ人が言った。やはり、ロシアの弾圧と戦った同志なのだ。それに今回の行動は、恩人のインド象の要請なのだ。

イワノフが買い物袋から木箱を取り出した。親父が木箱を開けるとドイツ製のコダックスが出てきた。流行りの二眼レフだ。クララが夢見ていた写真機である。

「別に話はない。しゃべり過ぎたよ。イワノフ、踊るんだろう?」とステージの前の大きなテーブルを選んだ。親父がどんどん、お任せを持ってきた。長谷川が、ボルドー地方のワインを頼んだ。イワノフは特上のウオッカを頼んだ。

イワノフがクララと踊った。

「イワノフ、カメラを有難う。私のために生きて帰ってきてよ」とクララが言うのが聞こえた。

長谷川と磯村を山中が送った。部屋に戻ると、長谷川は、佐和子とカレンに手紙を書いた。



四月二十二日の午後一時、貨物機が予定通りに平房を離陸した。チャムスに一時間三十分で着いた。黒木隊長に挨拶に行った。

「長谷川大尉、噂を聞いた。おおイワノフ、元気そうだね。昼飯の時間だ。行こう」

黒木大佐はチャムス騎兵連隊の高速艇を出すと言った。一九四十年になってから、騎兵よりも偵察用の水上機を含む河川部隊に力を入れていると行った。兵隊食堂に写真と仕様があった。

――高速舟艇~排水量、七・二トン~カーマス式ガソリンエンジン一基~最高速度三七ノット~乗組員四名~武装兵八名、、

長谷川が博多湾の雷艇や豪胆な水島艇長を想い出した。同じ雷艇に見えた。

「これだと、幸福鎮まで、六時間で行けます」と艇長が胸を張った。聞いていたイワノフが笑っていた。前大蔵官僚の月岡は、自分の人生がどんどん変わっていくことに興奮を覚えていた。

「この人は軍人に見えないが」と黒木が怪訝な顔をした。

「黒木司令官殿、大変貴重な方なんです」

「長谷川大尉、順天は、船足が遅いから追いつく可能性がある。今、どこにいるのか聞いてみる」と黒木が中尉の襟章の士官を手で招いた。

「すぐつながるかね?」

「今年から、マルコーニ式無線機に代えましたので、雑音がなく非常に簡単になったのであります」

「ああ、持ってきたトンツウもマルコーニと書いてあった。注意書きに、コヒーラ管を壊さぬこと。コヒーラ管に電波衝撃を与えると遮断する」と書いてあったなと長谷川が通信技術の発達の速さに驚いていた。士官が戻ってきた。

「順天は、現在、幸福鎮から百二十キロ南を航行中です。朝の七時にここを出ますと、真昼の十二時に追い着きます」

翌朝七時にチャムスの港を出た。港の周りは漁船や小型運送船や客船で混んでいた。速度を八ノット以上出せない。行きかう船の影が薄くなったころ、艇長が北東へ向かって速度を上げた。二十ノットと河の流速を足すと、二十五ノットだと言った。高速舟艇は甲板の面積が狭い。みんな船室にいた。

「沈没したご経験はありますか?」と月岡が訊いていた。

「まだない。だが船と衝突すると、あっと言う間に河の底さ」と高速舟艇とびうおの雄舵手が笑った。イワノフが恐怖で固い顔をしていた。それを見た一等水兵が救命具を持ってきた。

「ボクがいるから大丈夫」とウランがイワノフにコッペパンを渡した。

とびうおは快適に走った。太陽が高くなっている。十二時に近い。

「見えたぞ」と航海士の声がした。乗客四人と水兵二人が甲板に出た。十キロ先に順天が見えた。煙突から黒い煙を吐いている。艇長が速度を上げた。飛魚のように水面を走った。順天が汽笛を三回鳴らした。とびうおが応じた。順天が河岸に停船して旗を上げた。碇を降ろすのが見えた。順天の水兵たちが手を振っている。とびうおが速度を落とした。ゆるゆると順天に接近した。水兵がロープを投げた。

「長谷川司令官、久しぶり」と明智艦長の声がした。

「明智艦長、お久しぶりです。また、お世話になります」と長谷川が挨拶した。

「話はあとで聞くが、とびうおの方々は、順天で休憩してはどうか?」

とびうおの艇長が「船を離れてはならない規則ですので」と丁寧に断った。四人が礼を言った。手を振って別れた。

「イワノフ元気か?鶏はどうした?」

「コモドール、アケチ、今度は甥がいますので」とウランを紹介した。月岡は自己紹介をした。東京などで見る会社員風の男なので明智が頸を傾げた。

明智が昼飯を命じた。銀シャリとクジラの大和煮の缶詰だった。イワノフが「美味い美味い」と、どんぶりの銀シャリに、ひと缶ぶっかけて食っていた。明智はイワノフの食欲を覚えていた。「いくらでも食わしてやれ」と給仕兵に行った。飲み物は冷やした麦茶に角砂糖だった。長谷川は時間が短縮できたことを幸運の兆しと受け取っていた。一番年上の月岡の体力を気にしていたのである。やはり、月岡はハンモックに入って寝てしまった。

長谷川が明智にハバロフスクへ行く目的を話した。豪胆な明智三郎が固い表情になった。

「民間人四十人をね?そこまで責任があるのか?」

「明智艦長、ソ連はこの長谷川を殺したいのです。民間人を拘束したのは復習なのです」とGPUとの決闘を話した。

「う~む」

長谷川が、飛鳥が門司で殺害されたと話すと、明智が目を瞑った。

「飛鳥君の最期は聞いた。君がその組長を殺したことも聞いた」

「済みません。悲報ばかりで」

「長谷川君、急ぐ旅でもない。この先に満人の鎮がある。小休止をして酒を呑もう」

イワノフを探すと、これもハンモックの中でぐうぐうと寝ていた。水鳥がけたたましく飛び立つ声がした。空を見ると、鶴の群れだった。

「ハバロフスクまで丸二日であります」と見覚えのある航海士が長谷川に言った。

朝が明けた。松花江の終点に着いた。何本も河があり中州がある。ここがアムールとの交差点である。ロシア領には基地すらもなかった。

「撃たれたことはない」と明智がウランに言った。

「撃たれたらどうなるのですか?」と月岡が質問した。

「シベリア鉄道か街に艦砲射撃を加える。奴らも知っとるから撃ってこんのよ」

「軍事バランスさえ均衡しているなら戦争は起きないのですか?」

「その通り。全てはバランスなのさ」

アムールは人間の争いには無関係だと緩やかに流れていた。川幅が広いので海と見間違うくらいである。時折、団兵衛船と行き交った。焼玉エンジンの音がした。石炭を西から運んでいるのである。漁船が網を投げていた。白魚という鯉の一種で、美味いというが日本人の肥えたクチには合わないと航海士が言った。

「今夜、ハバロフスクの南西に着くが、満州国の終点は、ウスーリ河との交差点であるカザケビッチボである。そこからハバロフスクまで、四十キロの距離だ」と明智が長谷川に航海図を見せた。

「そこまで、人影も村もないのですか?」

「月の裏側より寂しいよ」

「なぜ、ハバロフスクが繁栄したのでありますか?」

「大尉、それはね、山と川と森があるからだよ。それは住み心地の好い環境だが戦略的な意味の方が大きい。まず、日本海につながるウスーリが流れ込む。ロシアの交通手段は河だからこれは大きい。さらに、ハバロフスクはアジアとの大きな接点だ。つまり極東の自然と人間の力を無視することは出来ない。確かにウラジオストックよりもハバロフスクの方が繁栄した。ロシア皇帝の極東進出の拠点となった。昔からロシア極東の首都なのだ。日本人の入植は江戸時代後期からと言われている。日本人墓地があるからね。ロシアで最も他民族を受け入れた地域で、門戸開放が繁栄の元だろう」

「ご講義を有難うございました」

さすがは先祖が織田信長の九鬼水軍の水師だった明智三郎である。自分も、河と人類が専科だったと長谷川が博士に戻っていた。

続く、、
07/10
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第五章



長谷川関東軍憲兵大尉が札幌刑務所の所長室で月岡夢次郎を待っていた。看守に案内されて月岡が現れた。少し太ったようである。顔色も好い。月岡は受刑者の服を着ていなかった。国民服と運動靴を与えられたのだ。

「どうしてましたか?」

「新聞ばかり読んでおりました」

「正月は、家族にあったのかね?」

「いいえ、自分には妻子はありません」

「でも、親戚は?」

「付き合いがありません」

「月岡さん、あなたは本日を以て長谷川の部下になる。今から旭川へ行く。明日の朝、ハルピンへ飛ぶ。荷物はあるのですか?」

「大尉殿、ありません」

ふたりは刑務所を出た。所長が車を出した。国鉄札幌駅に向かった。月岡と長谷川は汽車に乗った。旭川まで月岡は窓外の雪景色を見ていた。二人は、一言もしゃべらなかった。旭川には四時間で着いた。旭川陸軍演習場の下士官がダットサンで迎えた。下士官が長谷川に敬礼をした。月岡の顔を見ると、クチを固く締めて緊張していた。軍隊に慣れていないのである。その月岡は、死刑囚であるよりもいいと思っていた。

一式貨物機が旭川を軽々と離陸した。ハルピンの平房飛行場まで一五〇〇キロである。ソ連領の沿海州を迂回するのである。飛行時間は四時間であった。月岡は飛行機に乗るのが人生で初めてであった。長谷川は月岡を窓際に座らせた。元死刑囚が窓外の景色を見ていた。

「写真を撮りますか?」と長谷川が初めてクチを開いた。

「自分は、写真機に触ったこともありません」と月岡が笑った。初めて笑ったのである。

長谷川がハンザ・キャノンをケースから取り出して渡した。そして撮り方を教えた。月岡は覚えるのが速かった。二時間が経った。幕の内弁当~モナカと緑茶が配られた。月岡の目に涙が光った。そして黙々と食った。下界は朝鮮のようである。月岡が写真機を構えた。

「あなたは朝鮮生まれだと聞いたが、日本人なのですか?」

「親は、伊豆諸島の三宅島の人間です」

「ほう、三宅島の人口は?」

「人家は二百戸、人口は八百人です。自分の親は大船渡の漁師です。先祖は流人だったと親父が言っていました」

「流人?」

「はあ、流刑を受けた薩摩侍でした。薩摩藩士、月岡豹太郎は腹を切ったと三宅島の伝説です」

「訊いても良いですか?あなたの職業は何だったのですか?」

月岡が黙った。それきりクチを開かなかった。カメラを長谷川に返した。長谷川が日記帳を出して一日の行動を書いた。

貨物機が牡丹江の南を飛んだ。雲の下では雪が降っていた。そこから一時間で平房に着陸した。あたり一面、銀世界であった。月岡を見ると、平房の陸軍基地を恐れたのか両拳を膝に置いて固い表情をしていた。貨物機の扉が開いた。長谷川がステップを踏んで降りた。地上兵が挙手した。長谷川が返礼した。

「長谷川君、ご苦労であった」と三国大佐が言ってから月岡を凝視した。月岡の腕が震えていた。月岡は軍隊が刑務所よりも怖いことを知っていた。長谷川が月岡の膝を手で叩いた。月岡がはっとした。

「月岡夢次郎です。よろしくご指導をお願します」と三国に自己紹介をした。

「うむ、生き残れ」と三国が言ってから下士官にふたりをキタイスカヤに送るように指示を出した。

アレックスの館にイワノフとウランが待っていた。長谷川が釣竿を二本持って帰った。ウランが両手を叩いて喜んだ。釣竿を持って、月岡を自分たちのアジトへ連れて行った。月岡は長谷川から解放されて寛いだ表情になっていた。イワノフが、日本語が上手なのに驚いていた。

「ツキオカ、メシクッタカ?」とイワノフが月岡夢次郎を睨んだ。

「食いたい」と月岡が睨み返した。ふたりとも相手を恐れない殺し屋なのである。

三人が博多屋の前で降りた。

長谷川と磯村が風呂に入った。春燕が夕飯を作った。風呂から上がると、テーブルの上に上海料理が並んでいた。さすがに上海で苦労した胡娘なのだ。磯村がニコニコしている理由の一つなのだ。

「ハセガワサン、ゲンキゲンキ。アタイも、ヘエスケもゲンキゲンキ」と片言だが心がこもっていた。磯村が紹興酒を温めた。長谷川が青森で買った土産を春燕にあげた。春燕が袋を開けると、ネルの産着が出てきた。

「謝謝。来週生まれるってお医者さんが言ってる」とエクボを見せて産着を抱きしめた。

「大尉殿、カレンさんから手紙が来ています」

メシを食うとふたりは一階の部屋に帰った。長谷川がベッドに転がった。手紙を開けたが、酔いが回って寝てしまった。翌朝の九時まで寝てしまった。磯村が,――朝飯が出来たから降りて来てほしいと呼びにきた。

「大尉殿、今日の予定は何でありますか?」

「月曜日に領事館へ行くまで三日間、何もない。イワノフに月岡をハルピン巡りに連れて行ってくれと頼んだだけだ」

「自分がやることはありますか?」

「日本で撮ったのを現像してくれ。その他は自由にしておくれ。俺も疲れた。ゴロゴロする。ま、夜、博多へ行こう」

「妹の腹も大きくなったようです」と磯村が笑っていた。

本当に長谷川は疲れていた。参謀室の軍事情報を読んだり、拳銃に油をくれたり、眠りこけたり、ゴロゴロしていた。イワノフが拳闘の試合に誘ったが断った。カレンの手紙はこうだった、、

私の愛するミチオへ、

私たちの愛の結晶、ベンジャミンとモルデカイが七か月になったのよ。とても、活発な子供なのよ。ミチオが青森に帰ったって島原領事さんから手紙を頂いた。楽しかった?私、ミチオの写真が欲しいの。双子の部屋に飾るから。お話も聞きたいの。私はミチオの夢をよく見るのよ。湖へ行った乗馬の旅は私の一生の想い出なの。私は、まだ二十一歳。あなたに会いたいわ。カレン・スター

双子の写真が入っていた。長谷川がそれを胸に抱いた。

「大尉殿、山中武官から手紙が届いています」と磯村が紅茶とクッキーを持ってドアを叩いた。

「おお、そうか。待ってたんだ。少尉、入れ」

「自分も知らなければいけないことですね?」

「月岡のことだ。俺には月岡の過去が判らないんだ。ただの思い着きで月岡を部下にすることにした。脱獄の天才だと聞いたからだ」

「脱獄の天才?」

「絞首刑寸前の深夜に執行を停止させた。だが、不安が残った。山中さんに月岡の身上調査を依頼したんだ」

「はあ?」

「少尉、俺が調査を読む間、そこで紅茶を飲んでおれ」

長谷川が調査報告に集中していた。磯村は、「う~む」となんども長谷川が言うのを聞いた。上官の目が左右に動いた。――何かを心配している、、

「大尉殿、どうして、月岡が必要なんですか?」

「イワノフとウランと月岡の三人にハバロフスクへ行って貰う。まだ先の話だ。島原さんと話さないと出来ない。イワノフと月岡のトラストにも掛かっている。月岡はしゃべらない。奇跡を待つしかないわけさ」

「深刻なことでありますか?」

「イワノフも、ウランも今度は生きて帰らない可能性がある」と言うと、磯村が卒倒しそうになった。

「自分は何をすればよいのでありますか?」

「春燕の横にいるだけさ。留守中はね、山中武官が最も重要なんだ」

「大尉殿、その身上調査を話してください」

「月岡は三宅島の人間だ。いわば東京の人間だ。朝鮮で育った。父親は朝鮮銀行の頭取だった。月岡には兄弟姉妹はいない。頭脳明晰なれども無口な子供と通知表に記録がある。月岡は京城日本帝国大学を卒業した。父親と同じ国際金融学である」

国際金融~大蔵省~朝鮮銀行と聞いた磯村の懸念が大きくなっていた。なぜなら朝鮮銀行ほど魔物が住む世界はないと聞いていたからである。

「月岡も京城の朝鮮銀行に勤めた。つまり、徴兵が免除されたのだよ」

「どのような部署だったのですか?」

「調査部」

「すると、月岡は朝鮮銀行の闇を知っていた?」

「磯村、正解である。君も数字に強いと聞いている。これを見たまえ」

目を通した磯村が――恐ろしいものを見たという表情になった。

「日本政府を敵に回した?」

「そうだよ」

「大尉殿、でも、どうして死刑囚になったのでありますか?」

「ここは山中さんもまだわからんと言うとる。何故、百貨店の社長を射殺したのか?社長の胸に一発、額に一発、至近距離から撃って留めを差している。生かしておけなかったのだろう」

「高級大蔵官僚の履歴を持つ月岡がどうして殺人をしなければならなかったのでしょうか?それに、絞首刑の判決にも反論しなかった」

「俺もわからん。よほどのことがなければ月岡はしゃべらん」

「どうしてハバロフスクなんですか?」

「今、言えない。島原さんのソ連外交と関係があるからだ」

「はあ?なにか恐ろしいです」

「少尉、ところで、春燕は環境に慣れたのかな?」

「慣れたどころじゃないんです。キタイスカヤのスターになっております」

「あのエクボにきさまも虜になったからね」と大笑いした。



一九四〇年の正月九日、月曜日の朝、イワノフが長谷川のドアをノックした。憲兵服を着て南部を胸に下げた二人が外に出た。ハルピン憲兵本部が回したフォードを改良したリムジンにウランと月岡が座っていた。長谷川の要請でハルピン憲兵本部が回したのである。イワノフが月岡の右に座った。月岡が嫌な顔をした。左はウラン。挟まれたからだ。だが、月岡は長谷川に一礼をした。長谷川は月岡の顔を見ただけである。磯村はハンザ・キャノンにフィルムを装填していた。

「月岡さん、あなたは島原領事をご存じか?」と長谷川が振り返って訊いた。

「お名前は新聞記事で存じております」

「あなたに言っておく。くれぐれも領事に失礼のないように。無礼を働けば、イワノフがあなたをその場で殺す」

月岡がイワノフを見た。イワノフがもの凄い目付きで睨んだ。せっかく絞首刑を逃れたばかりなのにと、あの寒い夜を想いだした。さすがの月岡も体の震えを抑えられなかった。

「イワノフは週末どうしてた?」と磯村が訊いた。

「ツキオカをハルピン巡りに連れて行った。川船にも乗ったよ。昨夜は拳闘の試合を観に行った。ウランは出なかったけど」

「月岡さん、あなたは面白かったのか?」長谷川が訊いた。

「面白かったですが、自分は監獄に長く入っていたので、群衆が恐いのであります。川船の方が合っております」

「あのね、月岡さん、あなたは軍人でも兵隊でもない。一般人の言葉でいいんだよ」

「それでは自分の上司はどなたなのですか?」

「俺だ。それから公の場所では、君とか、キサマと呼ぶ。それが日本陸軍将校の慣習だからだ」というと月岡が――生きるも死ぬもこの大尉次第だと深く頷いた。だが、なんとなく安心したようだった。

領事館に着いた。月岡が豆戦車テクの兵隊を見て恐怖の顔に変わった。玄関で山中武官が出迎えた。



「長谷川君、お帰り。青森は楽しかったかね?」とインド象が言ってから、月岡を観察していた。磯村が月岡の腕を引っ張った。月岡がはっとした。

「私、月岡夢次郎です。ふつつか者です。よろしくご指導をお願い致します」

「ここは満州です。生き残りなさい」

島原領事は、月岡が京城帝国大学を最優秀で卒業した大蔵官僚であると知っていた。月岡は小柄だが、決して学者には見えない締まった体をしている。目が澄んでおり鼻筋が真っ直ぐ通った月岡に理知的な印象を持った。一方の月岡は去年、自分が死刑の判決を受けた日に心臓発作で他界した父親を想い出していた。自分の父は優しかった、、島原には人に対する労わりがあると思った。月岡の表情の微妙な変化を長谷川が見た。

島原が磯村の作ったアルバムを見ていた。長谷川が撮った死刑台の暗い部屋を見て目を背けた。長谷川牧場の景色や宴会を見て笑った。ミチルが三味線を弾いている、、

「中支の戦況や独ソ戦の状況があるが、今度にしよう。今日は、長谷川君と磯村君と月岡さんの四人だけで話しがしたい」

イワノフ~ウラン~山中が電信室に行った。島原~長谷川~磯村~月岡は会議室に向かった。

「さて、今日は特別に案件がないが、ソ連極東赤軍は、ハルピンで長谷川君に負けた仕返しに、日系ロシア人~日系企業関連の貿易会社やその社員を拘束している。抵抗した者が殺された。ほとんどが、ハバロフスク~沿海州~ウラジオストックで起きている。拘束された者は、裁判を経て、マガダンの強制労働収容所に送られる。そこで、死ぬ。

「何名ぐらいが拘束されましたか?」

「おおよそだが、四十名の消息が判らない。ほとんどが大日本帝国極東貿易の社員で年齢の若い者を選んでいる」と領事が消息不明者リストに目を落とした。

「磯村君、磯村春燕の旅券が出来ている。これで、日本にも行けるよ」と書記に取りに行かせた。

「閣下、昨夜、春燕がバオバオを出産致しました。春燕に似て小さな胡娘(クウニャン)であります」

拍手が起きた。月岡も拍手をしていた。磯村が苗族の話をすると、インド象が興味を持った。

「ああ、そうだ。関東軍が君たちに見せたいものがあると言ってきた。三国さんが笑っていたから深刻な話じゃない。宝塚歌劇団が来るとか聞いたからその招待なのかな」

「ストリップなら結構です」と磯村が手を振ると、月岡までが笑った。

島原がイワノフを呼んで月岡を別の部屋に引き取らせた。

「長谷川君、私の印象では、月岡は信頼に足りる人物と思う。君たちに、ハバロフスクに迎春花が咲く頃、行って貰う考えだ」

「自分もインチョンホアを考えておりました。雪が解けないことには全てが困難ですから」

「君たちは、もう引き取っていいから、月岡を一日も早く兵隊にする努力をしてください」

「閣下、それでは、ここで帰ります」と言ってから向かいにある憲兵本部に電話を掛けた。

長谷川~磯村~月岡~イワノフ~ウランがリムジンに再び乗った。ふたりの憲兵は背広に着替えた。行先はトトロなのだ。アレックスの館に戻ると、差出人のない手紙が来ていた。長谷川が用心して、スタンドにかざして封筒の中を見たが、便箋のようだった。封筒をナイフで開けた。

「道夫兄さん、ボクは生きている」という文字が目に飛び込んできた。


続く、、
07/09
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第四章



一九三九年十二月二十日の八甲田山は雪が降った。佐和子と三人の娘が八甲田温泉のバス停で長谷川が帰ってくるのを待っていた。四人の女は綿入れを着て、マフラーを巻き、ゴム長を履いて、毛糸の手袋で雨傘を差していた。バスは北からくるが、枯れた田んぼの間をバスが走る田舎道は雪で覆われていた。それでも、四人は元気一杯である。

「お母ちゃん、バス来るのかねえ?」と、りんごのように頬を赤くしたミチルが心配そうに言った。バスの時刻表では、三十分前に着いたはずだからである。

「来るよ、絶対に。だって、青森駅から電話がなかったから」

「お父ちゃん、お土産買ってくるかなあ?」とミチコが言った。

「札幌で、うんと買ったって電話で言ってたよ」とミチルが言った。ミチルは九歳~ミチコ六歳~ミチヨは二歳であった。

こんこんと降りしきる雪で視界が三十メートルである。遠くに木炭バス特有の「ゆうゆうゆう」という音が聞こえた。「わ~い」と声が上がった。雪の中に円太郎バスが姿を現した。運転手が降りて来て、ドアを開けた。乗客は八人であった。後部座席の窓に長谷川の影が映った。最後に、関東軍憲兵隊の外套を着た長谷川がステップに現れた。耳隠しのある毛糸の防寒帽子を被って背嚢を背負っていた。「おかえりなさい」と言おうとした佐和子の声が詰まった。うるんだ目で夫を見つめていた。涙が氷に変わった。親子はいつもの八甲田温泉旅館に行って泊まった。朝、オート三輪が迎えに来た。父の清太郎と母の富子が泣いた。苦労ではなく、息子の元気な姿に泣いたのである。泣かなかったのは三人の娘だけである。お土産の袋を開けては歓声を上げていた。熊の毛皮やコザック帽子、支那の子供が着る服やパンツまであった。

「道、それで、いつまで青森におれるんか?」と清太郎が言った。

「お父さん、正月の四日に、ここを出るけど、何かあるの?」

「いや、何もないが、鮎が気になる」

「お父さん、明日、牧場を馬で回ろう。そのときに話す」



朝起きると、雪が止んでいた。寒いが快晴である。長谷川が故郷の空を仰いだ。これほど青くなれるかと思うほど紺碧であった。清太郎と長谷川が道産子に跨って雪原を南へ向かっていた。三頭の秋田犬が前後を守った。まだ成犬ではなかった。駒込川がカチカチに凍結していた。南に従って緩い岡である。雪の洞から純白のウサギが飛び出した。トウモロコシを刈り取った後の畑から雉が「ケーン、ケーン」と鳴いて飛び出した。

「お父さん、雷鳥を撃とう」と長谷川が馬から飛び降りた。それから村田式散弾銃を鞍の横に取着けられた革の鞘から引き出した。清太郎も道産子から降りた。雷鳥は敏感である。馬上からは撃てないのである。ミチルとミチコが、クマ~ケンタ~タマと名付けた秋田犬が腹這いになって岡を昇って行った。まるで、歩兵の匍匐前進なのである。百メートルは這って上った。長谷川でも息が切れた。後ろを振り返ると清太郎が、あきらめて懐から煙管を取り出していた。雷鳥は夫婦である。真っ白な二羽が雪の中から飛び出した。低空で岡の下へ飛んで行った。風向きが悪いのである。五十メートル先にまた雷鳥のつがいが見えた。長谷川がクマ、ケンタ、タマを一緒につないで――そこで待てとコマンドした。長谷川が猟師になっていた。斜面を横に這って行った。前から柔らかい風が吹いている。猫柳の傍に雷鳥が見えた。一羽しかいない。イワノフが散弾銃でも照準を見て撃つものだと言っていたのを想いだした。長谷川が札幌の「マタギ銃砲火薬店」で買った村田式散弾銃は、有坂三八歩兵銃が量産されると、旧式の軍用村田銃や洋式ライフル銃がライフリングを削り取られて散弾銃として民間に払い下げられたのである。だから「中折れ元込め単身銃」と呼ばれているのである。30ゲージとも言われた。直径が12・3ミリの実包を使用するものであった。なにしろ歩兵銃の改造品だから日本独自の番型であった。こんな散弾銃は世界のどこにもなかった。大きな熊などの獲物には向かない。撃たれて傷ついたヒグマに逆さまに噛みつかれる始末なのだ。鳥や兎の狩猟か、少年の練習用として愛されていたのである。

長谷川が銃身を折った。実包を元込めした。銃身と銃床をセットするとき、小さな音が出た。雷鳥が飛び出した。やはり二羽である。長谷川が照準を見ながら後ろの雌を撃った。すると、前方を滑空していた雄も落ちた。一部始終を見ていた清太郎がクマとケンタを放した。雷鳥をクチに加えて戻ってきた。やはり太って、体がひとまわり大きいのが雌であった。

「お父さん、もっと獲ろうか?」

「いや、やめてくれ。わしは雷鳥が好きなんだ。鶏がいくらでもおる」と清太郎が優しい一面を見せた。倅の道夫が、ハハハと笑った。

二人は牛小屋に行った。白い体に黒い斑点のあるホルスタインが十二頭いた。二人の青年が餌箱に麦と蕎麦の実を放り込んでいた。長谷川を見ると、頭の手拭を取って腰を曲げた。

「関口です」

「中村です」

「ごくろうさん。道夫が満州から帰省した。昼から宴会をやる。今日の作業は午前で終わりにして、君たちも奥さんと子供たちを連れて来てくれ」と清太郎が言った。

「お父さん、このホルスタインは成功したね」

「秋に農協の技師さんが来て、餌~獣医代金~作業員、、ボクらのことですが、コストと収入の分析をやってくれたのです」と中村が言った。

「その結果は?」と長谷川がワクワクしていた。

「日本一の収益率だと仰っておりました」と丙種不合格の若者が胸を張った。

「寒冷地と関係があるのかな?」

「そうですが、レンゲ~タンポポ~オオバ~駒込川のミズナが理由だそうです」

「道、おまえが正しかったんだ。なにしろ河の専門家だからな」と笑った。

「お父さん、従業員は、今、何人なの?」

胡麻塩頭の清太郎が指折り数えていた。

「佐和子を入れて、男が四人~女が三人~わしと家内で常時九人態勢だよ。ミチルが手伝うが機械で怪我されるといかんのでな。機械を使う日は農場に出さない」

「春と秋の農繁期にはどうしてるの?」

「役場を通して農家と契約している。酪製品の製造~梱包~出荷は、日にちを決めて四人の夫婦者が加わるんだ」

「あの、クロガネ号は最も重要なんです」と関口と名乗った年上の若者が言った。この
二十四歳の若者はいったん徴兵されたが、中支で足を失くして兵役を解除されていた。妻子を持っている。中村は、二十二歳の独身だった。関口の家族三人と中村は、長谷川牧場の納屋の上に住んでいた。

「君たちが一番欲しいのは何かね?」

「ジーゼル発電機とジーゼルポンプです。それがあると、製材が出来るし、三千五百坪のトウモロコシ畑に駒込川から水を引くことが出来るんです」

「それでは、明日の朝、クボタ農具へ行って聞こう」

午後一時から始まった宴会は、ジーゼル発電気一色の話題であったが、盛り上がった。理由は、搾乳器が作業を軽くするからである。つまり、ホルスタインを増やせるのである。

「農地のサイズは充分かね?」

「大将、今、七千坪ですが、家屋~牛舎!羊と山羊~名古屋コーチンの養鶏場に二千坪、、山林が二千坪ですから三千坪の農地では足りません」と関口が言った。

「大将はいかん。親方と呼べ。あと何坪欲しいのかね?」

「それでは、親方さま、あと五千坪あると良いと考えます。自分は来年、妻を娶りますので」と余計なことを中村が言った。

「ははは、、そうか。一万二千坪?アメリカの平均的農場だね。明日、役場へ寄って売地を聞こう」

「売地は南にはありませんが、駒込川の向こう岸にあります。ただ、買ってくれるならついでに働かしてくれと言っています」と関口が言った。

「ああ、あの山林は山城家の持ち物だよ。山城君は、わしの小学校時代の同級生だよ。いい奴だよ」

「お父さん、山城さんが先祖代々の土地を売る理由は何なのかな?」

「息子二人が杭州上陸戦で戦死したからだろう」

長谷川の胸が痛くなった。生き残った自分は戦死した息子たちの土地を買う、、う~む。

「それでは、山城さんに会おう」

「わしが呼んでくる。佐和子、それまで宴会は待て」と熱燗を持ってきた佐和子に言って、清太郎が立ち上がった。佐和子と青年たちの連れ添いが、おせち料理を作っていた。六人のこどもたちが歌留多で遊んでいた。そこへ、オート三輪の音が聞こえた。

「役場の理事長さんらですよ」と佐和子が道夫に言った。長谷川が立ち上がった。

「おお、道夫君、帰ったか。元気で何より」と川中島理事長が日の丸を手に持って帰省を祝った。

「わが一家がお世話になっています」

「だけど、八甲田一の納税者だからね」と笑った。

「道夫君、山城家の五千坪を買うのは良い考えだ。しかし、カネはあるのかね?」

「値段に依りますが、満銀の貯金を持って来ました」

「確か、一坪一円と言ってたな」

「道夫さん、うちは千円しか残金はないのよ。それも農場の経費なの。この若衆たちのお給料や臨時の方々の日当や家畜の餌、、」と佐和子が夫に言った。

そこへ清太郎と山城さんがやってきた。

「佐和子、呼ぶまで来んでよい」

「山城さん、長谷川道夫です。初めましてお目にかかります」

「長谷川道夫関東軍憲兵大尉は青森の英雄だと県庁で言っておりました」

「いや、お国の為です。歩兵も同じです」

「道夫さん、早速だが、値切らないで五千円で買って頂けないか?」と山城が長谷川の目を覗いた。

一同が息を飲んだ。――三十一歳の憲兵将校にそんなカネがあるわけがない。そして長谷川の顔を凝視していた。ところが、

「好いでしょう」と全員を驚かしたのである。

「それでは、念書を作りますか?」と役場の理事長が言った。

「いえ、要りません。明日、山城さんと役場に伺います」と言ってから、長谷川は横に座っているミチルに佐和子を呼びに行かせた。

「それでは、みなさん、お手を拝借」と理事長が音頭を取った。売買契約が約束された。宴会は長谷川帰郷祝いから長谷川農場発展の大宴会に変わった。男も女も手を打って津軽音頭で踊った。大漁節も出た。酒、肴が並べられた。伊勢海老~赤飯~赤鯛の塩焼き~牡蠣酢~ホタテの炭焼き、、戦時中とは思われないご馳走の山であった。

ひと騒ぎが静まった。清太郎が土瓶に入った熱燗を注いで回った。そこへ、ミチルが三味線を持ってきた。全員がどよめいた。九歳のミチルが三味線の音を調整していたからだ。


アー、お国自慢のジョンガラ節よ 若い衆、唄えば主の囃子、娘踊れば稲穂も踊る

アー、今宵おいでの皆様方よ さあさこれからジョンガラ節を歌いまするよ、お聞きなされ

アー、声はこの通り塩がら声で、調子はずれのこの節廻し、どこがよいやら男が惚れる

アー、お燗ついたよ、 一口あがれ、酔えば貸します私の膝を、酒の肴にジョンガラ節よ

アー、歌え、歌えと、わーばりせめる、唄の文句は数知らぬ、嘘でまるめたジョンガラ節よ

アー、通い通いも度重なれば、親の耳にもそろそろ入る、それを聞いては、ままにはならぬ、ジョンガラ節よ、、


二級酒の所為なのか、青森県人は泣いた。長谷川道夫がミチルの成長に驚いていた。



長谷川と関口が、中村が運転するクロガネ号に乗って八甲田温泉のクボタ農具店へ行った。

「長谷川さん、ここにあるジーゼルは、あなたの牧場には向きません。どこで製材するとか、どこから水をどこへ引くとか設計する必要があります。クボタはどのような条件にも合わせることが出来ます。また、ご心配なさっているジーゼル油の統制は酪農業には適用されません」と言った二股川社長は、技師を連れて、一万二千坪の地形を見にくると言った。クボタ農具の社長が言うには、現在、軍部が全ての内燃機関を統制していて、古い漁船の池貝焼玉エンジンまで軍の統制化にある。長谷川牧場は、給水用と発電用が必要だが、軍用ジーゼル発電機は不可能である。可能なものは、大正時代の池貝の焼玉だが音がうるさいので野鳥がいなくなる。日中6時間回すのであればいい。製材は生産が少量なら可能である。揚水は静かな水車小屋を増やすことを勧めた。

「う~む、それでは搾乳器はどうですか?」

「ドイツ製があるが、非常に値段が高い。酪農品の生産量と関係する」と二俣川社長が言って生産量とコストの比較票を見せた。

「お父さん、これ見ると、ホルスタインは最低でも三十頭だね?今、十二頭だけど、十八頭増やすと、人手が要る。これ計算しないと踏み切れないな」

「肉牛はダメかね?」と清太郎が発言した。――これは別の事業で両方やらんほうがいいと二俣川が言った。

「発電にしても、春が来るまで必要がないです」

「だが、この五千坪の利用を考えないといかん」

「羊と白色レグホンはどうですかね?」と中村が言った。

「春までそれで行こう。人手はどうする?」

「ご家さんや年配の女性は雇えるが、住宅が要る」と話が段々と大きくなっていた。

「これを誰が計算する?」

「役場がやってくれますよ」

「それなら今から川中島理事長に会おう」とクロガネに飛び乗った。クボタの二俣川社長も荷台に飛び乗った。役場へ行くと山城さんが待っていた。、五千坪の土地の代金を現金で払った。山城さんが署名捺印した。理事長が郵便局の口座係を電話で呼んだ。郵便局が農地売買の税金を差し引いた。一部が八甲田町の役場に支払われるのだ。

「必要と思われる施設や水車小屋や比較的静かな焼玉エンジンの見積もりを出してくれませんか?」と長谷川が言うと。理事長は、二の返事であった。役場は計理士の巣窟だからである。税金も全部やってくれる。

「理事長、見積もりの制作料金はどうすればよいのですか?」

「要らんよ。政府の助成金もあるし、八甲田町の税収が上がるからね」

「だけど、長谷川牧場は、あと二千円は最低要ると思う」と青森県庁の役人だった計理士が言った。みんなが長谷川の顔を見たが、クチを不思議な形にまげているだけで、何の変化もなかった。

「ところで、二俣川さん、上海でアメリカ製のエレベーターに乗ったが、日本にはないのかな?」

「いえいえ、あります。三菱が十二年前から作っているよ。建物用じゃなくてね、軍事用や水力発電所が使うんです」

「クロガネを、もう一台買おう。関口君、免許を取りなさい」と長谷川が言うと、左脚のない前歩兵の関口一等兵が喜んだ。

長谷川が役場の電話を借りて誰かと話していた。「所長さん」という声が聞こえた。そのあと、中村と関口と長谷川は製材所に行った。関口がリストを取り出した。冬季には、屋内作業が多いので、作業小屋を改善したかったのである。中村の父親は大工である。「親父に仕事ができた」と笑っていた。風呂もついでに大きくすることにした。

三人が八甲田町農協の玄関に入った。

「長谷川さん、何のご用でしょうか?」と驚いた書記が訊いた。

「家畜のリストを見せてくれたまえ」長谷川は軍人ことばが変え難いことに気が着いた。年配の書記長が分厚い「牛・豚・鶏」と書かれた和綴じのファイルをもって現れた。

「ホルスタインの値段が上がっています。養鶏が一番安いですが」

「これを一晩借りてもいいかな?」

「一晩でも、ひと月でもどうぞ」

八甲田町農協も長谷川牧場に期待をしていたのである。三人がクロガネ特別号を見に行った。新型は、エンジンの直径が大きくなっていた。車体そのものが大きいのである。積載量一・五トンと書いてあった。

「関口一等兵、これ欲しいか?」と長谷川が訊くと関口が涙をボロボロと流した。

「大尉殿、嬉しくて涙が出てしまったのであります。しかし、自分には自信がありません。中村君にあげてください。自分はこのクロガネを中村君から習います」と兵隊言葉になっていた。

三人が酒屋に入った。酒~焼酎~日本ビールをケースで買った。そして、クロガネでドカドカと牧場に帰って行った。

大晦日まで長谷川牧場は忙しかった。役場の理事~農協の役人~クボタ農具~材木の配達~風呂~鶏小屋の建て増し~納屋の拡大~来客用の離れ家一軒の建築が雪中で行われた。年末なのに鎚の音が絶えなかった。クロガネも納品された。長谷川も若者に交じって働いた。みんな襷に鉢巻きの姿であった。

大晦日の朝、長谷川と消防団が餅を着いた。佐和子が臼に手を入れた。子供たちが突きたての餅を丸めて莚に並べた。作業で日当を稼ぐおばさんたちが餡子餅を作った。若衆にオロシ餅を作った。

「長谷川牧場は無礼講です。なんぼ食っても、飲んでもよいのです」と長谷川が言った。年越し蕎麦を佐和子が作った。布団にはいると、ふたりは抱き合った。



一九四十年正月の四日の朝、長谷川道夫が憲兵の外套を着た。背嚢を背負っていた。清太郎と母親が泣いていた。

「お父さん、お母さん、来年の正月も帰ってくる」

長谷川が佐和子と三人の娘と中村が運転するクロガネに乗った。八甲田温泉のバス停に向かった。雪は積もっていたが快晴であった。長谷川道夫が円太郎バスに乗った。佐和子と三人の娘が手を振った。やがて、「ゆうゆうゆう」という音と共に雪原に消えた。

続く、、

07/08
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第三章



一九三九年の年末、長谷川の乗った貨物機が旭川陸軍飛行場に着陸した。可愛い双翼機が二機駐機している。長谷川がファインダーを覗いて写真を撮った。

「あれは赤とんぼです」と隣の陸軍士官が言った。

二年前の八月この旭川を発ったことが十年も昔に思えた。演習場で行軍している歩兵が見えた。――いつまでこの戦争は続くのか、、

佐和子に電話をかけると、ミチルが電話を取った。ミチルの弾む声が聞こえた。

「お母ちゃん、お父ちゃんよ」

「道夫さん、あなた三十一歳になったのね?」

「ああ、毎年、歳を取るなあ。札幌に用事があるので、三日間は北海道にいる」と佐和子に行った。佐和子が喜んでいるのが電話線を伝わって来た。後ろで三女ミチエの何かを要求する大きな声が聞こえた。

長谷川が司令部に帰省休暇を報告すると、士官クラブへ行った。誕生祝と理屈を付けてサッポロビールの生を頼んだ。

「札幌へ行きたいんだが、汽車の出る時間が知りたい」と給仕兵に訊いた。すると、隣のテーブルでサンドイッチを食べていた飛行隊の一人が立ち上がった。長谷川の襟章を見て敬礼した。

「大尉殿、札幌の郊外に丘珠陸軍飛行場があります。練習機でありますが、自分がお連れ出来ます」

「有難いが練習機かね?」

「赤トンボは名機なのです。体験されると忘れられなくなります」

長谷川は迷った。聞くと旭川から札幌は百二十キロしかないのだ。汽車でも途中停車を入れて四時間である。だが練習機は一時間だと言う。体力を節約するために練習機に乗って行くことにした。それに教官が遊覧飛行をすると言ったからだ。

双翼機は、百メートルも滑走したかと思うと軽々と離陸した。二分もすると、旭川の駅と鉄路が見えた。

「あれが石狩川であります」と線路の北側を指さした。うっすらと雪が積もっていた。

南西に丘陵が見える。

「あの丘の向こうが札幌であります。大尉殿は飛行機に興味がありますか?」

「ノモンハンで十二試艦戦を見たよ」と言うと、教官が驚いていた。

「十二試艦戦は最新の戦闘機であります。飛行士の夢であります」

二十分ほどすると、赤トンボが右へ旋回して北へ向かった。海が見えた。

「あれが、石狩湾で、その南の港が小樽港であります」

しばらく海上を遊覧した。そして左に旋回した。十分後、丘珠飛行場に着陸した。滑走路が二本で、一本が長かった。

「東京からエライサンが飛んでくるための飛行場ですが、一本は貨物機用であります」

長谷川が教官に礼を言った。飛行場から下士官がダットサンで札幌の旅館に連れて行ってくれた。札幌は戦時中でも赤い灯、青い灯、ネオンサインがチカチカと点滅していた。旅館の女将が憲兵将校の制服に緊張した。

「満州から帰省なんです。青森が故郷」と言うと、女将がにっこりと笑った。長谷川が久しぶりの畳と布団に幸せを感じた。風呂は温泉ではなかったが、数人の旅の客と共同であった。

「あなたさまは軍人さんですか?」と手ぬぐいを頭に載せたひとりが訊いた。関西の社長という感じである。

「そうです。下っ端であります」と言った。だがこの旅館は兵隊の泊まる安宿ではない。各部屋には電話が付いていた。社長が不思議な顔をしていた。それ以上の質問を控えた。長谷川が固い顔をしていたからである。長谷川は部屋に戻ると日記帳を取り出した。――昭和十四年十二月二十日、札幌石狩旅館、、三十一歳。

朝になった。外で小鳥が囀っていた。ぐっすりと寝たので気持ちがいい。わかめの味噌汁でメシを食うと、長谷川が電話機のハンドルを手で回して東京の憲兵隊司令部に電話した。交換手が電話を取った。誰かに代わった。

「長谷川大尉殿、お帰りなさいませ。ハルピンの三国大佐から電報を貰っております。自分は狭山憲兵中尉であります。今回は帰省されたということで宜しいのですね?」

「いえ、実は、札幌刑務所に行きたいのであります。月岡夢次郎と面会致す所存であります」

「はあ?自分にはその人物が誰なのか判りませんので、三十分ほど時間をください」と言って狭山が電話を切った。

三十分が経った。柱に取り付けられた電話のベルがじりじりと鳴った。狭山中尉であった。

「月岡夢次郎は死刑囚ですが、少佐が何の用事かと言っています」

「絞首刑が今夜の午前零時に執行されると聞きました。その執行を陸軍省のお力で停止して頂きたいのであります」

「札幌地方裁判所が許さないと思いますが。島津大佐とお話しになってください」

「長谷川大尉、島津だ。君のことは聞いている。出来ないことはないが、理由次第である」

「月岡は特殊な能力を持っております。自分の部下にする考えであります」

「電話では埒が明かない。狭山中尉をわしの代理として、札幌へ飛ばす。狭山が良いと言うなら、死刑執行を陸軍省の命令で停止する。それまでは、陸軍省は何も出来ないよ」

狭山中尉と長谷川が旅館の部屋で対面した。狭山は小柄だが理知的な風貌をしていた。――磯村と同じ歳だろう、、昼飯の時間である。

「昼ですが、何か取りますか?」

「ハッ、お願致します」

ふたりがザルソバを重ねた。どっちもクチをきかない。ズルズルという蕎麦をすする音だけである。女給が蕎麦湯を持って現れた。

「狭山中尉、月岡の犯罪だけど、誰かに代わって自主したと考えられる」と長谷川が言うと、狭山が抗議する目になった。

「銀座の百貨店の社長を射殺したのですよ。凶器のスミス・ウエッソンも、弾丸も、動機も、自白もぴったり合っている。はじめ、東京の裁判所は代理殺人ではないかと捜査しましたが、何も出てこなかったのであります」

「月岡の才能というのは破獄です。どのような監獄でも抜け出す天才なのです」

「聞いております。だから、死刑執行を急いだのでしょう」

「自分の配下に置くと島津大佐殿に申しましたが、月岡の脱獄能力を必要とするからです」

長谷川がその計画を狭山中尉に話した。驚いた狭山の目が丸くなった。そして、しばらく何も言わなかった。

「しかし、月岡は誰の為に死ぬ決心をしたのでしょうか?」

「クチが固くて判らない。だが恩人なのだろう」

「それでは電話を東京に掛けます」

狭山が長々と話していた。ことば使いから島津大佐だと判った。

「よろしいそうです。だが、東京の最高裁に伝えるからその旅館で待機せよと命令であります」

「それでは、風呂へ行きましょう。電話機の下に布団を敷いて昼寝をしましょう」

「はあ、自分も朝が早かったので昼寝は有難いです」

二人は夕方に起きた。まだ、島津大佐からなんの連絡も無かった。ふすまの外で音が聞こえた。長谷川が開けると女将だった。

「お客さま、札幌地方裁判所から長谷川さまに極秘と書かれた封筒が届きました。何か起きたのですか?」

「いや、何でもない」と封筒を受け取って、茶部台に置いた。狭山中尉が唾を呑みこむ音がした。

――本日の深夜、札幌刑務所で執行される月岡夢次郎の絞首刑を停止する。ただし、死刑囚が死刑台の階段を昇って落とし板に立たされ、ロープが刑吏によって月岡夢次郎の首に嵌められるまで待て。くれぐれもこの通達を失くしてならない。東京最高裁判所代表判事。多々羅正雄。

でっかい朱印が押してあった。さすがの長谷川の手が震えた。狭山中尉は真っ青になっていた。

「狭山さん、夕飯を食いますか?」

「いいえ、すみません、食欲がすっかり失せてしまったのです」



長谷川と狭山がハイヤーに乗り込んだ。「札幌刑務所へ行ってくれ」と言うと運ちゃんが振り返った。

「もう、刑務所の門は閉まっていると思いますがね」

「いや、先方に電話をかけてある」

札幌市街からほんの三十分の距離であった。夕闇が迫っていた。刑務所の塔がぼんやりと森の中に見えた。ハイヤーを門で停めた。守衛が誰何したが、狭山を見て東京の憲兵だと分かった。長谷川の襟章が軍令憲兵大尉であると即座に判った。狭山が運ちゃんに料金を払った。刑務所の敷地に入ると後ろで鉄の門が閉まる音がした。長谷川が腕時計を見ると、十時になっていた。森の中はシンと静まりかえっており、長谷川は自分の心臓の音が聞こえるほど緊張していた。

「なぜ、憲兵士官さんがこの時間に来られたのでしょうか?」

「月岡夢次郎の死刑執行を参観したいのです」と狭山が言った。

「どなたから許可を受けていますか?」と刑務所長が怒気を顔に表した。

「東京最高裁判所です」と通達を見せた。所長がびっくりした。

「また、どうしてなのですか?」

「それは日本陸軍の機密に関わるので言えません。電話を貸してください」

島津大佐がすぐに出た。打ち合わせてあったのだ。狭山が電話に出るように所長を手でまねいた。所長が大佐と話していた。受話器を持つ手が震えていた。

「ハッ、島津大佐殿、分かりました」と大声で言った。若い書記が何のことかわからないので怯えていた。

「刑吏を呼べ、〇〇・〇〇に死刑を執行する」

書記が隣の部屋に走って行った。死刑台はコンクリートの建物の片隅にあった。電灯がぼんやりと死刑台を照らしていた。

手錠を掛けられて、ふたりの刑吏に挟まれた月岡が処刑場に入ってきた。体格は決して悪くない四十男であった。月岡が周りを見回した。その目が澄んでいる。月岡は神経質な性格には見えなかった。

刑務官が三人、保安課長、教育課長、立会検事、検察事務官、医官二人が、すでに集まっていた。憲兵士官が所長と一緒に入ってきたので驚いた顔になった。

教誨師が読経を始めた。

「饅頭を食うかね?」と所長が月岡に訊いた。断るという風に月岡が横に首を振った。

「それでは、最後に何か言いたいことはあるかね?」

それにも月岡は首を振った。刑務官が月岡に付き添って階段を上がって行った。そして踏み台に立たせた。両膝を細引きで縛った。月岡の両手が微かに震えていた。白い布の袋を頭にすっぽりと被せた。執行官が落とし板を開くレバーに手を掛けた。

「待ってください」と長谷川が大きな声で言った。

「東京最高裁判所の命令によってこの死刑執行を停止する」と所長が言った。立ち合い検事や検察官まで騒めいた。

刑務官が布袋を取り払った。長谷川が通達書を読み上げた。月岡夢次郎が長谷川の目を見ていた。

「あなたさまはどなたさまですか?」

「満州国関東軍新京憲兵司令部の長谷川道夫大尉です」

月岡が長谷川に頭を下げた。月岡は拘置所に移された。

「追って沙汰があるまで君は札幌監獄のお客さまだよ。刑吏諸君は月岡さんを受刑者と扱ってはならない」

死刑囚、月岡夢次郎が月岡さんになった瞬間であった。

続く、、



07/07
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第二章




十月の十日の朝、外套を手に持った長谷川~磯村~イワノフ~ウランが平房を飛び発った。牡丹江飛行基地に着くと飛行連隊長に挨拶に行った。あの祝賀会で会った飛行機乗りだ。長谷川が、飛鳥少佐が狙撃されたと話した。鷹の目が曇った。

「連隊長殿、虎頭要塞へ貨物機で行きたいのであります」

「平房の三国大佐がそう伝えてこられましたが、密山(みっしゃん)までしか飛べないのです。そこから軽便鉄道です」

「この地図を見ると、虎林(ふりん)が最終駅ですね?三百八十キロかな。それなら虎林まで汽車で行きます」と長谷川が決めた。。

「明日朝、八時に汽車が出ます。虎林の北東二十五キロの丘陵にウスリーを見渡す関東軍最大の虎頭要塞が造られるのです。虎頭要塞は一箇所ではなく。砲台が周辺の丘に配備される。それらの砲台はトンネルで繋がる。対岸はシベリア鉄道のイマン駅です。貨物の引き込み線があり、ソ連はハバロフスクから戦車を運んでいるのであります」

四人が食堂へ行くと、山栗を焼く匂いがした。

「さて、君たちは自由だが、ここにいてくれ」

「カピタン、ボクたち通信室に入れる?」

「もう許可を貰ってある」

「牡丹江の傍聴は重要にナルヨ」

磯村は写真機を持って栗林に行った。三人は電信室に行った。顔なじみの電信技士が
笑顔で迎えた。

「最近の動きは何ですか?」

「ハ、牡丹江は鉄道に沿ってソ連の工作員が居るのです。だが、ロシア人ではなく、支那人と日本人であります。ロシア語がたどたどしいので判るのです」

「内容は?」とウランが訊いた。すると、技士がヘッドホーンをウランに手渡した。ウランが訊いている間、イワノフがテープを読んでいた。

「カピタン、ソ連は関東軍の特別演習を気にしてるネ」

「ノモンハンの情報戦で奴らは君たちに負けたからね」

「ソ連情報部はそうとうバカナノヨ。数字なんかメチャクチャヨ」

「それに、すぐに怒鳴り出す」とヘッドホーンを置いたウランが笑っていた。

「ウラン、一発、攪乱するか?」

「オーチン・ハラショ」と電鍵をカタカタと打った。

「ウラン、何を打ったのかね?」

「オマエのカカア、隣の亭主と寝ておるぞ」




四人が汽車に乗っていた秋空の気持ちの好い朝だった。食堂で弁当を作ってくれた。それをイワノフが手に持っていた。軽便鉄道は時速五十五キロである。鳥西に三時間で着いた。まだ、午前の十一時である。車掌が湯を配っていた。磯村が車掌を呼んだ。イワノフが牛丼弁当を開いた。イワノフには二箱ある。巨漢が牛肉の匂いに笑っていた。満人が窓に何か売りに来た。見ると、マントウとガチョウの卯で卵である。イワノフがマントウを買った。磯村が写真に夢中になっていた。

「少尉、地形を撮っておけ」

「ハッ、撮っております」

「春燕を喜ばす土産写真だけではダメだぞ」と長谷川がからかった。

汽車が密山に着いた。最後の集落なのである。

「イワノフ、あと二時間で終着駅の虎林(ふりん)に着く」とマントウを食っている重量挙げに言った。腕時計を見ると、午後の二時である。牡丹江を出てから六時間が経っていた。

「カピタン、その駅で泊まるの?」

「陸軍基地の兵舎に頼んである。虎頭要塞では土建屋の飯場に三晩泊まる」

虎林陸軍基地は基地と言ってもトラック部隊のデポであった。兵隊は百人であった。それでも、軍令憲兵の一行を歓迎した。夕飯ラッパは鳴らなかった。兵隊が呼びに来た。長谷川たちは、五時にメシを兵隊たちと食って野天風呂に入った。陽が沈むと早々と寝た。朝、六時に猛虎山の岡に出るからである。

さすがに、朝五時に起床ラッパが鳴った。「飯あげ!」という声を聴いたが、長谷川一行はメシを食わずに出た。イワノフが握り飯を持っていた。トラックは無蓋車である。
長谷川がハンザ・キャノンを持って運転兵の横に座った。あとの三人は外套を来て兵隊帽子を被った。荷台の建設機材と一緒だった。トラックはS字の坂道に喘いだ。

「空気が美味い」などとイワノフが言った。何でも美味い男なのだ。

二十五キロの山道を二時間も掛かった。虎頭要塞の砲台が見えた。なんと滑走路もあるではないか、、

要塞の建設現場は朝から騒々しかった。遠くでダイナマイトの破裂する音がした。陸軍一個大隊が駐屯していた。

「長谷川大尉、待っておった」と沢村と名乗った大佐が一行を歓迎した。長谷川一行が敬礼をした。

「大佐殿、関東軍憲兵司令部を代表して感謝致します」

「まず、野外食堂だが、そこでメシを食いながら説明を致そう」

天幕の食堂に給仕兵が干した鯵を炙って、麦飯と豚汁を持って来た。

「美味い」とイワノフが豚汁に喜んでいた。

「このロシア人、大きな男だねえ」と大佐が感心していた。

「重量挙げの選手なんです。こちらはウラノフ。拳闘家なんであります」と磯村が言うと大佐が、しげしげとイワノフとウランを見ていた。そして下士官が持って来た地図を広げた。指で差しながら説明を始めた。

「虎頭要塞は中ソ国境を流れるウスリー河添いの猛虎山~虎北山~虎東山~虎西山~虎嘯山の五つの山の要塞からなり、東西に二十キロ~南北は四キロの幅の設計である。主陣地の猛虎山には四十メートルの地下を造る。鉄筋コンクリートで固められた地下要塞には銃眼や弾薬庫~通信司令室~戦闘司令室~発電所~食糧庫~井戸~調理室などを備える。一万人の兵員を三ヶ月養える食糧~被服~弾薬~燃料を蓄える。陸の頂点には東洋最大といわれた口径四十一センチの榴弾砲をはじめ各種要塞銃砲~対空高射砲~対戦車速射砲などが備えられる。守備隊の兵員は一万二千人と決めた…昭和十九年には、東洋一の巨大要塞が完成する。だが、完成後は、自分が司令官ではない」

「それまでは、ソ連軍はウスリーを渡河しないのですか?」

「ドイツ軍がポーランドに攻め込んだと聞いた。スターリンは満州どころではないだろう」

「土建屋は新京の佐々木舗装ですね?」

「そうだ。佐々木ジャングイを知っておるかね?」

「日露戦争の生き残りで恐ろしい人だと聞きました」と長谷川が言うと、沢村大佐が笑った。

「いやいや、たいへんなご仁である」

「滑走路を見ましたが、いつ使えるのでありますか?」

「今朝、試験飛行をやるために、密山基地から偵察機が三機来る」

「何人が乗れますか?」

「後部座席にひとりだけだ」

「その試験飛行を見せて頂けますか?」

「聞いてみる」

磯村とイワノフが心配そうな顔になっていた。トラックに再び乗って滑走路へ行った。西の空に三つの点が現れた。フラップを広げると、次々と着陸した。あの海軍飛行隊二等航空兵曹であった岩田純一中尉と飛んだ同型の偵察機であった。長谷川が「乗ろう」という予感がしてイワノフが青くなっていた。

偵察機が再び離陸をした。離着陸を何度も繰り返していた。離陸するたびに旋回方向が違った。

「風向きをテストしているのであります」と地上兵が言った。

飛行服を着て飛行帽を被り、半長靴の操縦士たち三人が歩いて来た。沢村大佐に敬礼をした。

「設計通りであります。よく出来ております」と言った飛行隊長の中尉が長谷川の襟章を見ていた。

「軍令憲兵さんですか?何か問題が?」

「いや、問題はないです。視察であります」

「この滑走路は役に立ちます。敵の大砲はここまで届かないし見えないのであります。空中から視察されますか?」

「ハッ、お願致します」

磯村とイワノフが卒倒する寸前であった。だが、上官の命令である。外套を脱いで、しぶしぶと乗り込んだ。





三機の偵察機は要塞予定地の上空を二回回った。磯村が地図と見比べては写真を撮った。長谷川も同じことをやった。――猛虎山~虎北山~虎東山~虎西山~虎嘯山の五つの山を確認していた。東側にウスリー河が見えた。

「行ってみますか?」と中尉が訊いた。

「いいのかね?」

「ええ、いつも飛んでいますからね」

「撃って来ないかな?」

「撃って来ます」

「大丈夫かね?」

「撃たれ強くならんと偵察は出来ませよ」と操縦士の中尉がカラカラと笑った。

中尉がラジオを取って後続機に指示を出した。はじめ、川下に飛んだ。何もなかった。ウスーリは、森の中にあり意外に流れが速かったのが印象に残った。ユーターンすると、後続機もユーターンした。ゴロゴロと遊覧飛行のようだ。北にソ連軍の基地が見えた。向こうも見えたに違いない、、

ポリカリポフがスクランブルするのが見えた。中尉が高度を上げた。ここは岩田中尉と同じだった。ポリカリポフがぐんぐん接近して来た。中尉が速度をいっぱいにした。ポリカリポフの上を飛んだ。ソ連軍基地の上に来ていた。砲兵が高射砲に飛びつくのが見えた。

「ぽ~ん、ぽ~ん」

中尉が宙返りした。後続機も宙返りをしていた。ソ連軍の基地が逆さまに見えた。それを磯村が撮った。イワノフが「う!ん」と言うと、ションベンを垂れた。

二日間の視察は実りがあった。土建屋の親方とも話した。兵器の据え付けは工兵隊の仕事であるといった。四人の男が虎林駅から牡丹江行きに乗った。



「長谷川君、ハルピンに平和が戻ったね」

「ハ、奥様とご家族は戻ってこられても大丈夫と思います」

「家内は、もう決めて来週には来るよ」とインド象が笑った。

「君はまだ狙われるだろう。キタイスカヤから移動してはいけない」

「閣下、あのアレックスさんが家賃を受け取らないので困るんです」

「まあ、好いじゃないか。領事館が贈り物を届けている」

閣下、私は、正月、青森に帰ります。わが一家は何もかもうまく行っているのですが、ちょっと会いたい人物がおるんです。留守中は、イワノフとウランですが、平房の三国大佐にも警戒を解かないように依頼致しました」

「先週、日本から送って来たマルコーニ通信機は、とてもよく出来ている。一台は君のモノだ。日本は通信機産業が合っていると思うね」

「自分もそう思います」

「しかし、あの虎頭要塞は凄いね。でも、どうしてあんな危険な偵察飛行をしたの?イワノフが、もうもうもうと言ってた」と笑った。だが、長谷川はクチを曲げただけであった。

磯村と山中が入って来た。特に報告はないと言った。ただ、独ソ戦の状況を知りたかった。

「イギリス、フランス、カナダ、オーストラリアが対独戦布告をしたが、ただのジェスチャーだけで中身はない。アメリカも英国も中立を宣言した。日本も中立なのだよ」

「すると、当分はソ連の満州越境はないのですね?」

「その通りだよ」

「わ~い」と山中は言いたかったほど嬉しかった。

「君たち、トトロへ行くか?」

「絶対に行きますです」と磯村が言った。

「少尉は、春燕と食わんのか?」

「館へ帰ったら食いますです」

「おいおい、日本語が可笑しくなっとるぞ」とインド象が笑った。

山中が運転するダットサンがトトロの駐車場に入った。冬が近着いている。満人も、ロシア人も着ぶくれていた。店に入った。

「ドブラエ・ウートラ」という太い声が聞こえた。ウランもいる。いつもの部屋ではなくフロアのテーブルにした。間もなく、ダンスが始まるからだ。イワノフとウランが鴨猟に行く話しをしていた。また、セッターの子犬が産まれたと言っていた。クララがやって来た。イワノフが立ち上がって頬に接吻をした。遠くで親父が睨んでいた。イワノフが一番、値段が高いウラル料理を頼んだ。

「カピタン、日本へいつ行くの?」

「年末だよ。用事が済んだらすぐ戻る」

「カピタン、日本の釣り竿を持って帰って来てよ」とウランが手を合わせていた。

五人の男が、ばりばり食って飲んだ。アコーデオンが鳴った。イワノフが飛び出して行った。トトロの親父が目を釣り上げた。

続く、、

07/06
スペードのエースと呼ばれた男(完結編) 第一話
第一話
第一章




一九三九年、九月一日にド イツが西部ポーランドに侵攻した。その 十七日後にソ連軍がポーランド東部から軍を進めて行った。

「これは世界大戦の始まりである」と島原領事が言った。
ノモンハン事件は歴史に残った。長谷川たちが、ハルピンの踏切で、ベロゾフスキーを撃ち殺した翌月の九月が、ノモンハンの最大の激戦だったのである。九月が過ぎて、ホロンバイル草原に秋風が立つとコスモスが乱れ咲いた。日ソ間の戦闘は、突然、潮が退くように幕を降ろした。その原因は、日ソ両軍が疲れ切ったのである。九月十五日 、 モスクワで東郷大使とモロトフ外相間にノモンハン事件停戦協定が成立した。ホロンバイルに静寂が戻った。

日本軍
戦死 八四四〇
戦傷 八八六四
戦車 約三〇輌
航空機 約一六〇機

ソ連軍
戦死 九七〇三
戦傷 一万五九五二
戦車及び装甲車輌 約400輌
航空機 約360機

GPUの跳梁が活発だったハルピンに平和が戻った。ソ連は、拡大し続ける対独戦に神経を減らしていたからである。長谷川が、ソ連領事館にベロゾフスキーが線路に横たわった写真を送った。だが、何も起きなかった。長谷川暗殺も断念したようだ。GPUはふたりのヒーローを殺した進出鬼没のイワノフとウランの影を恐れていた。ソ連の諜報部隊は、ハルピンから遠ざかった。だがハバロフスク~上海~東京のトンツウが増えていた。

「磯村、東京に露探がおるね」

「ドイツ人の新聞記者、リヒャルト・ゾルゲは上海にいるんだとイワノフが言っております」

長谷川があの黒人のアメリカ女性、アグネス・スメリーを想い出した。すると、近衛内閣顧問となっている尾崎秀美との点と線とは何なのか?

「少尉、俺たちが上海に行ってもどうにもならんだろう」

磯村ががっかりした様子である。

「磯村、春燕(ちゅんえん)をハルピンに呼びたいか?」

「はあ、もうあきらめております」

「君は、もはや戦闘に出ることはない」

「はあ?解任でしょうか?」

「いや、今まで通りだ。つまり写真屋さ」と長谷川が笑った。

「そんなこと、新京が許すわけがありませんが?」

「もう、浜中大佐に報告したよ」

「それで、大尉殿、浜中司令官はどう仰っておりましたか?」

「好きなようにせよと、それだけだった」

「大尉殿、本年の残りの予定は何でありますか?」

「虎頭要塞を見に行くぐらいだ」

「いつでありますか?」

「十月だな。雪が降る前さ。イワノフとウランも連れて行く」

「大尉殿、さっきの春燕なんですが」

「ああ、上海領事館の岸田武官に春燕を上海に呼んで貰う。ハルピンまで陸軍の軍用列車なんだが、その方が安全だ」

「何とも感謝のことばがありません」と磯村平助が泣き出した。



イワノフとハンザ・キャノンを持った磯村が、ハルピン駅の出口に立っていた。「間もなく、軍用列車が到着致します」とアナウンスがあった。蒸気機関車の轟音が聞こえた。磯村がそわそわと立ったり座ったり目をせわしく動かしている。

「ああ、来た来た」とイワノフが言った。乗客は春燕だけではなく、軍人の家族も列車を満席にしていた。十月が近着いていたので、吐く息が白かった。春燕はカーデガンを肩に掛けて登山帽を被っている。春燕が磯村を見て笑った。あのエクボで、、下っ腹が大きくなっている。妊娠六か月なのだ。

花壇のあるロータリーが見えた。コスモスが満開である。

「ドブラエ・ウートラ」とウランの声が聞こえた。右の耳がないので春燕が驚いた。四人は、ハイヤーでキタイスカヤへ戻った。アレックス館に着いた。長谷川とアレックスが迎えた。磯村と春燕に一階の一部屋が与えられた。ふたりは部屋に入ると「春燕」「ヘエスケ」と、抱き合って、もの凄いキッスをした。

「春燕、疲れた?」

「ヘエスケ、ちっとも疲れてないよ。汽車は楽しかった。日本人がみんな親切にしてくれた」

磯村が春燕のおなかに触った。べービーが動いた。耳を着けてみたが心音は聞こえなかった。

「胡娘宝宝(クーニャン・バオバオ)」

「欢喜欢喜(フアンシ)。兵隊に行かなくていいから」

二人がキタイスカヤ大街に買い物に行った。博多屋の前を通った。

「ここね、非常好吃(美味しい)よ。でもね、アレックスさんが午後三時に宴会をやるって」

「アタイに?」

「そうだよ」とヘエスケが言うと春燕が大きなエクボで笑った。

館に戻って、長谷川に絵葉書のパックを届けた。

「磯村、春燕は満州国国籍になる。領事館が旅券を発行する。だけどね、籍はどうするのかね?」

「結婚する考えであります」

長谷川が頷いた。

「それでは、磯村春燕で良いのかな?」

「お願いします」

「明日、領事館へ行こう」


「ミスター磯村~ミセス磯村」とアレックスが大声でふたりを紹介した。アレックスの親戚とイワノフ~ウラン~長谷川が磯村夫婦の前に座った。もの凄い料理に春燕が目を丸くした。

続く、、

07/05
チャーリー・チャプリン


チャーリー、チャップリンはイギリスで生まれた。父親を知らず、母親は精神病院に入った。チャプリンは「貧しい子供の家」という施設で育った。施設では虐められないようにと笑われる道化を演じた。18になると、自分は、背は低く、手足も細く、労働には向かないとロンドンの劇場で働いた。劇場の主がチャプリンを喜劇にだすと観客が増えた。無声映画の時代、スラップ・ステイックというお笑い映画がアメリカで流行っていた。ロンドンの映画製作のキングとなったチャプリンはハリウッドへ行く。アメリカでもたちまちのうちに風刺映画の王様となる。巨大な富豪となったチャプリンはハリウッドを乗っ取った。これが災いして、チャプリンがイギリスへ帰る渡航中にアメリカはチャプリンのパスポートを無効にして再入国を禁じた。理由は「チャプリンは共産主義者だ」というものだった。イギリスもチャプリンを追放。チャプリンの映画の人気は衰えなかった。チャプリンはスイスで余生を過ごし、この世を去った。エリザベス女王はチャプリンに「サー」称号を与えた。喜劇俳優で称号を与えられたのはチャプリンだけです。ハリウッドは、「映画史上最大の貢献者」という記念碑を建てた。

「スペードのエースと呼ばれた男」下巻は未編集なので、しばらく時間をください。伊勢
07/04
スペードのエースと呼ばれた男(中巻) 第二話
第二話
終章



翌朝、長谷川が起きると、階下で話し声がした。階段を下りていくと、山中が領事を迎えにきていた。婦人武官も起きていた。領事がふたりを着替え室に案内した。クロゼットに和服と洋服が掛かっていた。

「久しぶりだわ」と年上の婦人武官が言った。

「私も、久しぶりに女に戻れます」と和子の影武者が言った。

領事と山中が出て行った。阿媽が支那粥を作った。インド象が解雇しないから心配するなと言ったので喜々として働いた。

「少尉、さあ、どうするかな?」

「大尉殿、まず婦人武官に任務を説明してください」

「う~む、俺、女性武官は苦手だ。では、呼んでくれ」

婦人武官が食卓に着いた。

「粥を食べながら聞いてくれるかね?」

「三国憲兵司令官が、大尉殿に従えと命令ですから」

「まず、山村登美子主計少尉には危険はない。だが、佐田美津子主計、あなたの命をお借りしたい」と長谷川が言うと、佐田が唾を飲み込む音がした。

「佐田主計、君が死ぬことはない。私が死ぬ可能性が高い」

ふたりの婦人武官は茫然としていた。なぜなら、主計課の自分がソ連のGPUと対峙するなんて想像も出来なかったからである。

「佐田君、今朝から島原和子令嬢に扮してください」と長谷川が言うと磯村が、和子の写真を見せた。佐田は写真を見て決心がついた。

「はい、自分は怖くはありません」

「有難う。この戦闘は予行練習することが出来ない。GPUもそこは同じだ。君は捕まるが強姦などは起きない。私が保証する。敵はこの長谷川の首が欲しいからだ」

「わたしたちの行動を指示してください」

「今日の午後一時に、おふたりは、ここを出て、聖ソフィア教会の近くにある英国の百貨店に行って貰う。そこで一時間三十分ほど買い物をして貰う。運転手の執事は聖ソフィア教会の駐車場で待つ。その後で。おふたりに百貨店の真向かいのカフェに入って貰う。そのカフェから駐車場に向かう。西十四道街で誘拐される可能性がもっとも高い」と長谷川が言うと決心をしていたが、二人の婦人武官の手が震えた。

「奴らは佐田君だけを浚うだろう。そしてメッセンジャーを送ってくる。私を呼び出してどこかへ連れて行く」

「それでは用意をしてください」と磯村がふたりに言った。和子嬢の影武者はワンピースに帽子~母役は絣の和服に着替えて日傘を手に持った。執事がダッジを玄関に回した。

オート三輪が官舎の裏庭にやってきた。ウランとイワノフが乗っていた。背広の長谷川と磯村が乗り込むと森を通って表通りに出た。オート三輪はダッジの二百メートル後ろに着いていた。ダッジを尾行する車はなかった。ふたりの婦人武官が百貨店に入った。オート三輪は西十四道街へ向かった。長谷川が腕時計を見た。午後の四時になっていた。

「来た来た」とバックミラーを見ていたウランが言った。長谷川が幌の中から見ると、婦人武官の前方に若いロシア人の女性がしゃべりながら歩いて来る。背の高い女はバッグを肩から下げている。イワノフの目が光った。

「カピタン、あの女たちはGPUだよ」

訊いた磯村が写真を撮った。女がバッグの中から何かを取り出していた。母役の和服の武官が立ち止まるのが見えた。和子嬢の佐田主計の脇腹にサバイバル・ナイフの刃が光った。走ってきたフォードに和子を押し込んだ。二人のロシア女が和子を真ん中にして乗り込んだ。フォードが東方面に走り去った。ウランがオート三輪を始動して、南へ向かった。百メートルほどで左折した。運河のある狭い道路に出た。土埃を上げて走った。オート三輪の強さである。三十分走って、鉄道を横切った。オート三輪はガタンガタンと飛び跳ねた。荷台の長谷川と磯村は手すりにしがみ着いていた。貯水塔が見えた。向かいからフォードが土埃を上げて走ってくるのとすれ違った。そのとき、バックファイアが起きた。フォードの中の男が振り返った。ウランがわざとバックファイアを起こしたのだ。磯村が連続写真を撮る音がした。四人が官舎へ帰った。島原領事と山中武官と山村婦人武官が待っていた。

「山村少尉、無事で良かった」

「私は役に立たなかった。佐田さんが可哀そうです」と涙ぐんだ。

「心配しなくてもいい」と長谷川が山村の肩を抱いた。

「長谷川君、家内たちは無事に日本へ着いたよ」と長谷川に頭をさげた。

「ハッ、それは何よりであります」

「メッセンジャーを待つほかないんだね?」

「そうでありますが、明日には来ます」



佐田美津子が真っ裸にされた。ふたりのGPU女性工作員が佐田の持ち物を調べたが、何も不審なものは出てこなかった。ひとりは日本語が出来た。

「カズコ・シマバラ?」

「ダ、ダ」と佐田が答えて震えて見せた。

背の高い女が写真を手に持って佐田の顔を凝視していた。そして――間違いないと言った。それから、衣服を着ろと言った。佐田がワンピースを着ると、誰かを呼んだ。背の高い赤髭の男が現れた。四十歳を超えていると佐田が思った。赤髭が佐田をじっと見ていた。赤髭が右手で佐田の乳首に触った。佐田が弱弱しく笑った。

翌朝の九時、ハルピン日本領事館の会議室にインド象~長谷川~磯村~イワノフ~ウラン~山中が集まっていた。外のゲートに人力車が停まった。客は乗っていない。豆戦車の兵隊が誰何した。満人の車夫が怯えた。そして封筒を懐から出した。これが長谷川の待っていたメッセ―ジであった。

――ヘイ、トバリシ、ハセガワ、オレタチ、ゲーペーウーは、カズコ・シマバラヲ、ホリョニシタ。オマエトコウカンシテモイイヨ。コンヤノ〇〇・〇〇トキニ、コノフミキリニヒトリデコイ。ヘンナコトスレバ、カズコヲコロス。へへへ、、ウラジミール・ベロゾフスキー
手で描いた地図の一か所に赤いX印と矢印が書いてある。長谷川の目が左右に動いた。磯村が息を呑んだ。

「長谷川大尉は、そこで撃たれる」と山中が暗い顔をした。

「いや、撃たれないだろう。ベロゾフスキーは、俺と対面したいんだ」

「確信はあるの?」インド象も深刻な目になっていた。

「カピタンをモスクワに連れて帰ると思う」とイワノフ。

「どうして?」

「いつか大物と交換する為に取って置く」と今度はウランが言った。

「拷問は?」と磯村が訊いた。

「拷問はするよ」とイワノフが断言した。

磯村が上官の顔を見たが何の変化もなかった。長谷川が磯村に耳打ちをした。イワノフとウランと三人で話したいとインド象に言った。会議室に三人が残った。長谷川が机の上にワラ半紙を置いた。

「イワノフ、ウラン、今夜は満月だ。GPUは踏切の東側からあのフォードでやって来る。佐田君が乗っているか確認しないといけない。交換するとき、ベロゾフスキーの子分は俺の体をまさぐる。クリーンだと確かめてから手錠を掛けるだろう。俺をフォードに押し込む。チャンスはそのときしかない」と長谷川がウランの目を見た。

「カピタン、あの周辺はGPUが見張っているよ」

「その通りだ。だが、ウランに千五百メートル離れた線路の上に腹這いになって貰う」

「カピタン、分かった。でも、ボク保証出来ないよ」

「ウラン、それが戦争というものだ」

「カピタン、そのフォードが動き出すと撃てないよ」とイワノフが言うと長谷川が笑った。

三人が、仕出し弁当を食っていると、山中と磯村が帰ってきた。

「少尉、山中さん、メシを食ってくれ」

「山中さん、自分が現像します」と磯村が出て行った。

「大尉殿、写真を見ればお分かりになる。面白いことが判りました」

「磯村、それを見たいな」

弁当をさっさと食い終わった山中が投射機を持ってきた。そこへ磯村が戻ってきた。壁のスクリーンに踏切が映った。線路が四本あるのが目に飛び込んできた。遮断機はないがガス灯が見える。二キロ北に貨物車が見える。南には何もない。電柱すらもない。貨物車の引き込み線の角に鉄の扉の倉庫が見える。その扉に白いペンキで狗肉と書かれている。

「その面白いことって何なの?」と長谷川が訊くと磯村が投射機にフィルムを入れた。籠に野良犬がギュウギュウに詰められている写真が映った。どの犬も哀れな顔をしていた。その籠が三十個はあった。

夜の十一時になった。雲ひとつない月光の中をイワノフとウランがオート三輪で出発した。オート三輪を倉庫の影に停めた。ウランが手にアリサカ銃を持って踏切から千五百メートル南に歩いて行った。イワノフがオート三輪を運転して北の引き込み線に行った。狗肉と書かれた扉の下に停めた。手にバールを持っていた。

真夜中の十二時になった。満月が真上に来ていた。長谷川がダットサンを下りて踏切に向かった。東側から自動車のヘッドライトが見えた。黒いフォードだ。フォードが線路を渡って西側に来た。運転手~GPU二人と佐田主計が扮する和子を車内に残して背の高い男がフォードの左のドアを開けて降りた。白いワンピースを着た佐田を除いて男たちは黒ずくめである。どれも目出し帽を被っていた。長谷川はグレーのソフトを被って、白い背広である。

「トバリシ。ハセガワ。オレダ。ベゾロフスキーダ」と目出し帽を被った男が言った。 長谷川も身長が百七十六センチあるが、ベロゾフスキーの肩の高さである。

「長谷川だ」とベロゾフスキーを見上げて言った。

「オマエノニョウボウノナマエヲイエ」

「サワコ」

「コドモハナンニンダ?」

「ドーチが三人だ」

ベロゾフスキーが車内のGPUに合図をした。佐田主計がフォードの外に出た。そして山中が運転するダットサンに乗り込んだ。ダットサンが走り去った。そのとき、北の引き込み線から貨物列車が動いた。機関車が蒸気をモクモクと噴き出している。煙突の前にガス灯を灯している。踏切に近着くと悲鳴のような汽笛を鳴らした。ベロゾフスキーが振り返った。長い列車であった。北の方角から野良犬の群れが走って来た。

「チクショウ」

腹這いになったウランがアリサカの銃座を起こしてハンドルで角度を調整した。照準鏡の中に写った二人を見た。二人はフォードの前に立っている。月光が照らしていたが影しか見えない。頭一つ低いのが長谷川だ。ソフト帽で判る。黒い覆面をした背の高い男がベロゾフスキーだ。ウランが引き金に指を掛けた。だが決心が付かなかった。そのとき、長谷川がベロゾフスキーに全力で体当たりした。びくとも動かない。それどころか、大きな手で胸に下げたトカレフを抜き出した。長谷川が地面に身を投げた。GPUの二人が飛び出してきた。

「ぽ~ん」と小銃の音がした。ベロゾフスキーが一瞬、驚いた眼をした。「ぽ~ん」とまた小さな小銃の音がした。ベロゾフスキーが喉を右手で抑えた。そして背丈二メートルの男が前のめりに倒れた。パン、パン、パンと日本陸軍南部拳銃の音がした。山中だ。GPUの二人がのけ反った。長谷川がダットサンに乗り込んだ。

「官邸へ帰ろう」

後ろでオート三輪のバックファイアが三度鳴るのが聞こえた。

「今夜は危ない。山中君も停まっていきなさい」とインド象が言った。全員が島原家に泊まることにした。佐田主計と上官の山村主計少尉が抱き合って泣いていた。

「GPUは怒り狂っている。たった今、平房に歩兵分隊を出して貰う。分隊が到着するまで動いてはいけない」

「それでは」と長谷川が官邸の中庭にある岩風呂に手拭と石鹸を手に持って出かけた。磯村が続いた。イワノフも、ウランも、山中も手拭いを持って続いた。

広間に戻ると、山海の珍味が円卓に並んでいた。インド象が手配したのである。誰もクチをきかない。黙々と食った。イワノフが時々、舌鼓を打つだけであった。午前四時にみんな寝た。磯村の耳に分隊が到着する声が聞こえた。

「閣下、関東軍が戒厳令を敷きました。ソ連領事館の前にも日本陸軍の戦車を据えました」と島原に分隊長が報告した。



一同が翌日の昼に起きた。長谷川が日記帳の八月三十日のページを開いた。日曜日である。阿媽がダイニングに食事を用意してあると伝えに来た。

「みなさんに満州国およびわが一族を代表して感謝を述べたい。私の家内と娘夫婦は無事に広島に着いた」とインド象が姿勢を正してお辞儀をした。

「イワノフとウランがいなければわれわれは暗闇に落ちていた」と言って、ふたりに休暇を出した。ウランがアリサカ銃を長谷川に返そうとした。

「ウランのものだよ」

ふたりが玄関を出て行った。イワノフの笑い声が聞こえた。下士官がきて、ふたりの婦人武官を平房へ連れて帰った。長谷川と磯村が残った。

「長谷川君、君に報告をしなければならない」と島原が長谷川の目を見た。

「ハッ、何でしょうか?」

報告とは、――土曜日の明け方にホロンバイルで大きな戦闘が起きた。その戦闘で、日本兵二千四百名が戦死した。負傷兵五千名。行方不明者が三十八名である。行方不明者は爆死したと思われる。その中に長谷川鮎二准尉の名前があった。磯村が息を呑んだ。長谷川を見ると、上官は天井のシャンデリアを見上げていた。長谷川の頬に一筋の涙が流れて顎を伝い円卓に落ちた。インド象が肘を円卓に着けて手を合わせた。

                  ~完~

(下巻)」に続く。

*みなさん、中巻はいかがでしたか?サデイスチックだなあと思った。戦闘ばかりでは殺伐となるので、対話を洒脱に書いた。上巻を応募した集英社は、文章力A~ストリーの展開A~歴史の記述A~キャラクターB。大衆文芸というジャンル。だから、戦争の話しでも、面白くなければならないと思って、中巻はアクションにしました。ご意見をください。伊勢
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