2014/01/03 (Fri) マッカーサーの足跡(戦後史その3)
比島作戦



1941年から1942年のフィリピンの戦い(比島作戦, 日本側作戦名「M作戦」, 1941年12月8日 - 1942年5月10日)は、太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦における日本軍のフィリピン進攻作戦である。本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。

フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。日本は1923年に帝国国防方針を改定してアメリカを仮想敵国の第一位としており、対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた。一方のアメリカも、想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた。だが計画には根本的な限界があった。マニラ湾の港には大艦隊を支援できる能力はないので、海軍基地は5,000マイル離れた真珠湾を使うしかない。日本の基地はフィリピンから1,500マイルしかなく、日本は短期間に大兵力を送り込むことができる。このような実情に合わせて、1936年に改定されたオレンジ計画(WPO-3)では、フィリピン全土の防衛は断念して兵力をマニラ湾周辺に集中する案が採用された。


コレヒドール要塞



マッカーサーは、バタン半島から48キロ離れたマニラ湾のコレヒドール島に逃げた。コレヒドール島はスペイン統治時代からの要塞であった。ちょうど、プエルトリコの「モロ要塞」のように。マッカーサー(62)の脱出は、ルーズベルトの大統領命令であった。彼は米国政府とマスコミによって「圧倒的な日本の大軍に一歩も引かずに戦う勇将」として米国民の英雄になっていた為、戦死や捕虜は国民の士気低下に繋がるという判断であった。しかし「部下を置き去りに敵前逃亡」したという事実は、プライドの高い マッカーサーにとって生涯の屈辱となった。脱出しなければ、降伏して捕虜になっていたであろう。その後の戦局にも影響があったと考えられる。1944年夏のフィリピン奪回は米海軍には不必要とされていた。だが、マッカーサーは、プライドを取り戻す為に上陸を強行した。


PTボート



1942年3月11日、20歳若い妻ジーン(42)と3歳の息子アーサーをPTボートに乗せて、マッカーサー(62)は、将兵と共にミンダナオ島へ向かった。時化(しけ)で海は荒れ狂っていた。海も空も、日本軍が圧倒的な力で制圧していた。ミンダナオに着いたのは二日後であった。ミンダナオからオーストラリアへ飛んだ。離陸するとき、窓外にジャングルに覆われた島々が見えた。 "I came through and I shall return."と言った。この宣言は、NYタイムズの見出しになった。3月21日、メルボルンに着いた。

コレヒドールの生活

arthur M 3 corregidor jan. 1942

1942年1月のコレヒドール。アーサーは3歳であった。軍用テントからその状況がよく判る写真である。

Mrs Jean MacArthur, Arthur MacArthur and Chinese amah Melbournee Marr.21 1942

3月21日、嵐のコレヒドールをPTボートで出発してから10日が経っていた。ジーン夫人(43)も、アーサー(3)も、阿媽(あま。中国人のメイド)も、疲れを見せず元気であった。宿舎のホテルへ向かう車の中の写真である。


伊勢爺のひとり言

1978年に市川猿之助NY公演でお会いした、ジーン・メリー・マッカーサー夫人は、79歳であった。マッカーサー元帥に「歌舞伎を禁止してはいけない」と説得した。2000年に101歳で天命を全うされている。この小説を書いていても、何か、他人に思えないのだ。ジーン夫人は、テネッシー生まれの南部人である。父親は南軍の将だった。一方のダグラスマッカーサーは、やはり南部のアーカンソーで生まれている。だが、父親は北軍の将だった。マッカーサーと結ばれたのはフィリッピンへ向かう軍艦の中だった。38歳のジーンにとって、二度目の結婚で、前の夫の間に二人の娘がいた。アーサーは、軍人を選ばず、コロンビア大学を出るとジャズミュジシャンとなった。自分の出身を知られたくないと改名している。

山下奉文・陸軍大将と本間雅晴・陸軍中将は、1946年4月にフィリッピンのモンテン・ルパで処刑された。これを、「マッカーサーの復讐」とする記述がある。マッカーサーは既に東京に来ており、「裁判をせずに処刑するだろうか?」と伊勢は疑問に思っている。ここは、もう少し調べる必要がある。だが、無用だろう。出版されるまで、細かい作業が続く。今は、歴史を検証しているが、真意のわからない部分は「私説」つまり「筆の魔術」で切り抜けるつもりである。荒唐無稽では仕方がないが、、伊勢平次郎 ルイジアナ






King of Pepper cover 1

「King of Pepper(胡椒の王様)」をアマゾンから出版しました。英語ですが読んで下さい。大正時代に書かれた「森鴎外の山椒太夫」のアダプテーションです。平安時代より、1000年も語り継がれた「日本の伝説」を英国の皇族に置き換えて、児童文学(13歳から上)にしました。日本以外では知られていない日本人の人権意識を知らせたかった。伊勢平次郎

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comment

日本の言い分:

”凛として愛”
http://www.youtube.com/watch?v=r2zwu_1bqIg
2014/01/03 16:31 | アンポンタン [ 編集 ]









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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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