2014/06/04 (Wed) マッカーサーのくび木(上巻)・満州を掴んだ男」
みなさん   

「マッカーサーのくび木(上巻)・満州を掴んだ男」をアマゾンから電子出版いたしました。自衛官や海上保安官の防人に送るものです。今、日米合同海軍構想がアジアの潮流です。その前に先の戦争を整理して置く必要がある。アメリカも、ソ連もその対日戦争には大義はなかった。今、平和か戦争か日本はその重要な鍵を握っているのです。安倍外交は地球の安保と人類の進歩を視野にしている。日本の国益がそれに沿えば良い。

さらに、隼の同志のみなさんに、上巻の(十一章~完)を公開しました。これも来週の金曜までです。読後に、ご献金をお願いします。 伊勢平次郎   



                   

 
                        第十一章

                       夕日と拳銃

   松花江や嫩(のん)江は、南が上流のウスリー(鳥蘇川)と合流して樺太のある北方に向かって流れこむ。 ウスリーは満州とソ連の沿海州を分ける東側の国境となっていた。今もである。関東軍は西部~北部~東部にきたるソ連軍の侵攻に備えていた。日本軍VSソ連・蒙古軍のノモンハン事件は、戦車隊による戦闘であった。関東軍は、満蒙の西部から来る可能性は低く手薄でも充分と考えていた。現在、振り返ると、この判断は間違いであった。ソ連軍の満州侵攻は155万人の兵だった。一方の日本軍は、60万人足らず、、

   北部戦線を考えると、黒河と対岸のブルゴベジェンスクの間は水深が深く、流れが速いので、戦車を積んだ船の渡河は無理であった。嫩(のん)江に沿って下りてくるのも、ハルビンまで350キロはある、、関東軍の新司令官となった板垣征四郎はこのあたりで馬占山と交渉したことがあったので、「ソ連軍は馬賊じゃない…これはない」と思っていた。すると、残るのは、東部戦線だけとなる。ソ連軍戦車大隊はこの黒竜省のハルビンから真っ直ぐ東の鳥西(チーシー)か、または牡丹江から興凱湖(はんかこ)の上部に当たる北東に上る虎林(フリン)線の終点である虎頭(ことう)の対岸を渡河するかと考えられた。そこで、このウスリーの満州サイドに多くの飛行場や要塞が必要となった。

                           *

   かって軍艦扶桑の水兵と技士の一行は松花江の見える日本人の経営する軍用ホテルに泊まった。早速、食堂で酒と肴で宴会となった。焼き魚のにおいが充満していた。「松花江の川魚は危険だ…だから、三陸の秋刀魚を焼いた」とホテルの社長が挨拶で言った。海軍の輸送船隊が日本の米~日本の漬物~日本の魚~北海道のバター~豚、牛まで日本本土から大連に陸揚げしていた。どれも塩漬けなので、しょっぱかったと父は言っていた。

   朝になった。ニッカボッカの親方と技士たちは関東軍司令部の一室に集まった。一通りの挨拶が終わると、陸軍飛行部隊の士官が日支鉄道(東満鉄道という半官半民の鉄道会社)の進捗状況や牡丹江あたりの治安状態を解説した。壁に大きな手書きの地図が貼ってあった。牡丹江の東に大きな湖があった。興凱湖(はんかこ)という。
   「今回の視察はここまで行かない」と武官が言った。
   「この湖はそうとう重要なんですか?」と技士のひとりが聞いた。

hanka lake frozen

   興凱湖(はんかこ)は中国東北部の黒竜江省とロシア連邦の沿海地方との間の国境地帯にある広大な水面である。中国側は黒龍江省鶏西(チーシー)市に属し、市街からは120キロ離れている。湖の面積は4190 km²で、湖の北寄りに直線状の国境線が引かれ、南側3030 km²はロシアに属し、北側1160km²は中国に属している。

   21世紀の現在、興凱湖周辺は、貴重な生態系が残る世界的にも重要な湿地帯である。中国側には興凱湖国家級自然保護区があり、ロシア側にはハンカ湖自然保護区がある。1996年に両国の首脳が湖の自然保護について共同保護協定を締結した。また、両国の自然保護区はともに、ラムサール条約登録地になっている。日本や太平洋一帯にも飛来する渡り鳥が多く住み、タンチョウとマナヅルの重要な繁殖地である。ほかにも多くの絶滅危惧種の野鳥・両生類・爬虫類・昆虫などが生息するほか、第三紀の植物群やチョウザメなど多くの淡水魚類、アムールトラなどもわずかながら生息している。かつてはトキもいたが、中露両国の農地開発などにより、第二次世界大戦後しばらくいたのを最後に確認されていない。この湖は科学調査(渡り鳥などの調査)のほかに、自然保護、エコツーリズムなどでも注目すべき場所である。しかしながら、中国側湖岸地帯の保護区の大半は国有農場地区に属しており、集団農場による農業、漁業、畜産などで天然資源が酷使されている。両国、特に中国側の密漁、排水による汚染なども問題となっている。

   「いずれソ連軍と対峙する日がやってくる…二つのルートが考えられる…興凱湖の南は湿原地帯である…」と士官が続けた。
   「すると、冬季なら凍結した湖を戦車が渡れる?」技士長が聞いた。
   「その通りだが、夏に攻めてくるだろう」とほとんどの技士が異口同音に言った。
   「すると、虎林線の虎頭にやってくる」と司令官が口を開いた。
   「もうその兆候が見えている」と士官。
   「兆候?」
   「ハバロフスクで、戦車大隊が訓練している」
   「露助は、ウスリーをどうやって渡るのか?」
   「工兵が橋を造るだろう」
   「日本軍はどう対処するのか?」
   「虎頭要塞を造る。巨砲を据えて渡河するソ連軍や列車を砲撃する」
   「う~む、向こうも爆撃機で押し寄せるだろう」

   討論は白熱を帯びていた。ニッカボッカの親方は「どの意見も現実味がある」と腕を組んで考えていた。武官が飛行部隊の構想を述べた。武官の横に飛行士が立っていたので、技士たちは飛行場建設の重要さに気が着いた。まず、日本の戦車はソ連の戦車に劣る…戦車一台の製造費は爆撃機よりも高い…その理由は、日本は島で、船で戦車を運ぶために軽量になると。ヨーロッパやロシアは大陸なので、戦車が大型なのだと。だから、日本軍には飛行機が向いている…飛行機には滑走路が必要…

   「100キロの間隔で、ウスリーとハルビンの間に飛行場と森林の中にも滑走路を置く必要がある」と飛行士が言った。
   「どのくらいの工期で造るお考えなのか?」と親方。
   「道路、複線の鉄道、地下倉庫、兵舎、武器弾薬庫、病院、虎頭要塞、、期限は1940年の夏。今から3年以内だ」
   「どうして3年以内なのか?」
   「今のところ、英国の輸送船がUボートに沈められているだけだが、いずれ英米のドイツ空爆が始まる。ドイツが負けたときに、ソ連軍の戦車部隊が満州に入ってくる」

   さすがのニッカボッカのわが父も「ゾ~」とした。ハルビン飛行部隊の武官の言った「1940年の夏までだ」というきつい表情が気になった。新京の関東軍司令部の中では、「ドイツは勝つ」と笑い声に充ちていたのだ。わが父が始めて、「日本は負けるのかも知れない」と思った瞬間である。これが現実となったから、人間の直感の鋭さは軽視できないものとなる。筆者は、「日米VS中国の軍事衝突はある」と直感している。たぶん、南シナ海で、、だから、この本を書いている。                           
                           *

   ハルビンから牡丹江の駅まで、250キロの距離だった。東支鉄道は狭軌道の軽便鉄道だったが、快適であった。初夏なので、窓が開きっぱなしであった。ワタの木が多いのか、白い綿が車内に入って来た。技士たちは遠足気分だったが、図面を見ている者もいた。車掌がヤカンを持って晩茶を配った。そして、牡丹江まで6時間だと言った。親方は、「3年だと冬も工事を強行するとなる」と呟いた。横の技師長が頷いた。
   「アスファルトは無限にあります」
   「チチハル、黒河、佳木斯(チャムス)、吉林に飛行場を建設しているから、暖房のある兵舎を造るとなれば、工事士が足らん。それに重機を日本から取り寄せる。間に合うのか心配だ」ニッカボッカの親方は、日本の力の限界が分っていた。
   「建設工事も戦争ですから…勝つか負けるか敵も同じなんです」と技師長。
   「興安嶺の鉄鋼は製鉄するまで時間が掛かる。日本海軍は日本の鉄を戦艦建造にみな使う。アメリカの屑鉄が必要だが、ここんとこ日米関係は険悪になっている…」とニッカボッカ。この二人は間もなく北京郊外の盧溝橋で発砲事件が起きると知りようもなかった。

   牡丹江の駅前は西瓜の山だった。満州は、西瓜や瓜の種類が多い。2歳ぐらいの満人の男の子が西瓜の山の上に座って、親が与えた西瓜に顔を埋めていた。技士のひとりが蛇腹の写真機でガシャと撮った。ほとんどの技士が写真機を持っていた。ニッカボッカの水兵は、「一周してくる」とインデアンに跨った。親方は腰に南部拳銃を着けた。技師長が連れて行ってくれとインデアンのサイドカーを指さしていた。二人は爆発音を残して走り去った。技師長がサイドカーの中で地図を見ては、右左と指さした。二人は、小高い丘に向かっていた。

   頂上の展望台から、市街や道路、畑を観察しては、写真を撮った。飛行部隊の士官がくれた飛行場予定地へ行った。低山に囲まれていた。
   「トンネルを掘って格納庫にする」と武官が言っていたので、どういう工事になるのか議論をした。
   「そうとうダイナマイトが要ります」と水野という技師長。
   「俺も同じことを考えていた。人夫の計算は君がやってくれ…重機の搬送も大仕事だ」
   「カネは無尽にあると関東軍の金庫番が言ってました」
   「そりゃそうだよ。戦争だから。負けたら、今まで投資したカネどころか満州国を失くす」と親方が言ったとき、真っ赤な夕日が西へ沈むのが見えた。

   20名の技士団は一ヶ月ホテルに滞在して、飛行場とインフラを設計した。それを「そろばん」という予算課が計算した。日に日に、その建設予算は膨大になって行った。飛行機が大型化する、、滑走路も、格納庫も大きく設計した。ニッカボッカの親方は、人夫を黒河から貨物列車で移動させることにした。賃金は満州札と阿片のペアであった。にわか親方となった扶桑の水兵は、阿片の製造を経営していた甘粕大尉を嫌っていた。元憲兵隊長だった甘粕  は社会主義者の夫婦と幼い息子を殺して井戸に投げ込んだことで、満州に追放されていた。だが、関東軍の板垣征四郎参謀は陰で甘粕に阿片を作らせたのである。理由は、寝返り匪賊も、日本側に着く軍閥も、バットの人夫も、満州札よりも阿片を要求したのである。煙管で吸って、ゴロゴロするというのではなく、阿片の相場は物価に変動して現金よりも安定があった。つまり阿片は通貨だった。筆者はこういった中国の国民性は民度が低いと思っている。現代でも…

                           *

   親方一行が新京に帰ってきた。佐々木社長に報告すると…
   「親方、ご苦労だった。君の留守中に大変なことが起きた」と盧溝橋事件を話した。わが父は何のことかよく理解出来なかった。日本陸軍が何を考えているのか判らなかったと戦後も言っていた。
   「板垣征四郎関東軍参謀が中支へ進軍される。そこで、君と記念写真を撮りたいと言ってきた」
   「はあ?」
   「参謀は東部戦線の防備を確認しておきたいのだろう」
   「防備の鍵は虎頭要塞ですよ」
   「それも君から聞きたいのだろう」

   記念写真を撮る日の朝、親方はタキシードを着込んで新京写真館へ出向いた。わが父はこの頃、運転手付きのセダンを持っていた。約束の10分前に写真館に着いた。だが、板垣参謀は来ていなかった。約束時間を10分過ぎた。わが父は自宅へ帰った。海軍で「5分前精神」を叩き込まれていたからである。どてらに着替えて、ビールを飲んだ。すると、玄関に自動二輪の爆音が聞こえた。
   「尾崎晴雄はここにおるか?」と玄関を開けた母に言った。軍刀を下げた二人の憲兵を見たわが母は青くなった。まだ、23歳だから無理もなかった。
   「おとうさん、憲兵が来てます」とわが母が父に言った。
   「もう着物に着替えた。昼寝の時間だと言ってくれ」母が、尾崎は写真館に約束の時間に行った。10分過ぎたところで主人は家に戻った」というと、「わかった」と憲兵は、ドカドカと爆音を立てて走り去った。一時間後、憲兵隊から電話が入った。「明日の正午に写真館へ来るように」とだった。

   翌日、わが父はタキシードを着て12時10分前に行った。すると、板垣参謀は既に来ていた。それも30分も前に来たと言った。大笑いになったのだと。ところで、この板垣参謀との写真がない。東京裁判で死刑が決まり、処刑された頃、写真を焼いたのではないかと推測している。板垣さんらしい人が移った宴会の写真は残っているが確証はない。

                        第十二章

                     飛行場は完成したが…

   1940年の初夏、ハルビンから牡丹江まで飛行場が1ダースは完成した。山にトンネルを掘って格納庫も出来た。燃料タンクも地下に造った。牡丹江の貨物引き込み線から飛行場まで、トロッコの線路を敷いた。関東軍の工兵たちは虎頭要塞を完成させた。

   「これで用意万端だ」と祝杯を挙げた。だが、ご周知のように、1945年の8月9日に砲撃を開始したソ連軍の戦車と50万人のロシア兵は虎頭要塞も、飛行場も、トロッコも粉砕したのである。虎頭要塞は9月27日に2400名が玉砕したというから、終戦を知らされていなかったという記事がある。事実はそうではない。吉林や新京の日本人を逃がすために降伏を拒否したのだ。その1945年の正月、既に、満朝組は南方に移動して、フィリッピンのルソン島で死体の山を築いていたのである。フィリッピン最終戦争は下巻で書くことになっている。靖国の英霊の中でも最も心を痛めるのが、ルソン島で、「草生す屍(かばね)」となられた若い日本の兵隊たちである。自衛官も、安倍晋三総理もこの日本の若者たちの犠牲を忘れてはならない。時代が代わっても戦争は同じだ。政治家に全ての責任があるのだ。中国が全面戦争を望むなら、習近平レジームを壊滅させるだけだ。中国の国民にも甚大な犠牲者が出るだろう。南シナ海の暴挙を見ていると、本気でやる気かな?と不思議でならない。中国の指導者は必ず破滅する。歴史がそう語っている。

                             *

   1941年、わが母は27歳。筆者を身篭っていた。それまでに、次女~長男を産んでいた。その正月、朝鮮人のネエヤが羅津(現在の北朝鮮の最北部。この辺境はその当時でも極貧に喘いでいた)の故郷に帰りたいと言った。わが母は長男や長女の着物や履物が無くなっていることに気が着いていた。ネエヤがお土産を買いに行っているとき、ネエヤの部屋の押入れを開けた。押入れの仲に大きな唐草模様の風呂敷があった。ほどくと、出て来るわ、出て来るわ…着物、靴、草履、鍋、釜、鋏、毛糸、帯留め、眼鏡、シャモジ、サジまで入っていたと。帰ってきたネエヤを叱ると、泣き出したので、ゆるしてやることにした。そのネエヤは羅津から戻らなかった。

わが父が春になったら、また牡丹江へ行くと言った。追加工事や拡張工事の検査だと。満人たちも、親方に慣れて経験も積んだので、人夫は優秀な者を残して解雇すると…ウスリーの対岸の沿海州に異変は報告されていなかった。関東軍指令部の話しでは、ドイツが1939年にポーランドに侵攻してから、英米仏が対独宣戦布告を出したのだと。それなら、スターリンはレニングラードの防備で忙しく、満州侵攻の余裕はないのだと…ドイツは英米をヨーロッパから追い出して、フランスを制圧した…日本は日独伊三国同盟に署名した…だが、世界を巻き込む大戦に向かっているのだと…ここまで聞いたわが父は、「満州に火が着くのも遠くない」と思った。


   その1941年の12月8日、日本連合艦隊がハワイを奇襲した。わが父母は電柱に貼られた号外を見た。「おとうさんが最も暗い顔をした日」と母が言っていた。その後も、号外は日本軍の連戦連勝を伝えていた。本間忠晴中将によるフィリッピン陥落~マッカーサーが、コレヒドールを逃げ出す(今でも、敵前逃亡と米軍事雑誌が書いている)~山下奉文大将によるシンガポール陥落…だが、いつまで、新京で生活していられるのか?長男の省吾は東京の明治大学の学生になっていた~次男は亀屋の養子となった~三男のみつおは新京商業高校へ入っていた…わが母の長女は7歳~次女は4歳~長男は2歳~筆者は生後6ヶ月であった…

その三男がだよ…

   1942年6月、わが父は海軍省の士官から、連合艦隊がミッドウエーでほぼ全滅したと聞いていた。その後、日本本土が始めて空襲を受けた…1943年になると、4月、 山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)~5月、 米軍、アッツ島に上陸。日本軍全滅し「玉砕」の語の使用始まる~9月 イタリアが連合国に降伏~10月、 東京の明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)~11月1日 ブーゲンビル島沖海戦~11月21日、 米軍、マキン・タラワ上陸(11月23日 、日本軍玉砕)~12月5日 マーシャル諸島沖航空戦…マリアナ海戦からニミッツ提督の南太平洋北上作戦は米海軍の優れた装備と艦上戦闘機によって、12月には、1942年1月以来日本軍が占領していたラバウルも陥落した… 

   勿論、わが父でもこれらの戦況が日本に不利になっていたことを逐一知っていたのではなかった。だが、満州建国当時には2千人もいた海軍省の武官が少なくなったことから想像が出来た。そこへ、佐々木社長の長男、次男も、大連から南方へ行くと言って輸送船団に乗り込んだ。佐々木さんが始めて恐い顔をした日であった。

   1943年の夏のある暑い日、わが父と三男のみつおが慈光路の家の庭の縁台に座って西瓜を食っていた。ふたりとも黙って食っていた。父が口を開いた。
   「みつお、おまえ予科練に志願したのか?」
   「志願した」と兄は答えて、「俺、親父に、ば~んと一発張られるかなと思った」と最近東京のホテルで会ったとき、語った。だが、父は殴らなかった。黙って、地面を見ていたと…

   みつお兄は、十七歳になっていた。父と西瓜を食った前の週に、新京商業高校の校庭に学生が集まっていた。夏の青空をゼロ戦が鳶(とび)のように円を書いて飛んでいた、、それが、校庭に着陸したのだ、、飛行士が発動機を切るとプロペラが停まった。コックピットが開いた、、飛行帽、首にマフラ、半長靴を履いた飛行士が降りた、、その精悍な顔の戦闘機乗りが少年たちに与えたインパクトは筆舌に尽くし難いものであった。「アタマの中を轟音が通り抜けたんだ」と兄は言っていた。
   「君、操縦桿を握ってみたいか?」
   「はい」兄が操縦椅子に着くと、飛行士が後ろから手を伸ばした、、そして始動したのだ。轟音があたりに響いた。兄は体が震えた、、だが、次第に「自分は飛行気乗りに生まれた」と思ったのだと…
   「予科練に入りたいかい?」
   「是非、入隊させて下さい」 十七歳の高校生が特高を志願した瞬間であった。                   

   「う~む、みつお、死ぬなよ」とわが父は言った、、同じ年、1943年11月に学徒動員が始まった。みつおが釜山行きの汽車に乗ったのを見送ってから、2ヶ月が経っていた。わが父の長男である省吾は明治大学の学生だったが徴兵された。そして、ひょろっと痩せて、眼鏡をかけたわが兄は、どことも知れぬ異郷に出征して行ったのである。戦後、わかったのはこの兄も朝鮮に行ったのだと…

                             *


   1944年の正月、「おとうさん、私、日本へ帰りたい」とわが母が言った。筆者は3歳、末弟は生まれたばかりだった。父は黙って、子供たちの顔を見ていた。三月になった。
   「和歌山の白浜に家を借りた」と父が言ったのである。
   「佐々木さんには話した」

   「それがいい。しかし、俺は君が必要なんだ」と佐々木さん。前水兵は大東亜舗装の社長になっており、佐々木さんは、満州銀行常務となっていた。
   「軍用機で新京へ戻ります」
   「そうしてくれ。君には大きな仕事がある」
   「儲かりますか?」と水兵が笑った。
   「わからん」と銀行のにわか取り締まり役の佐々木さんが言った、、佐々木さんは、南方へ船で出て行った二人の息子を想ったのか、遠くを見る目になっていた。前水兵は、息子さんたちはフィリピンのレイテに行ったと確信していた。レイテは日本の真珠湾だからだ。

                           *


   白浜に家族を住まわせてから、今や大東亜舗装の社長となった水兵は新京に軍用機で飛んで帰った。1944年の夏がやってきた。
   「どうも、ドイツが降伏したらしい」と佐々木さんが言った。
   「いよいよ、ソ連軍が満州に侵攻する?」
   「ハバロフスクの諜報が戦車を積んだ貨車がどんどん来ると電信してきた」
   「どのくらいの時間があるのですか?」
   「関東軍の将兵が少なくなったときだろう」
   「それで、親方、君にもう一度、牡丹江の飛行場を見てきて欲しい」
   「何か必要なんでしょうか?」
   「虎頭要塞を見てきてくれ。今回は、水野技師長と二人だけだから軍用機を新京から牡丹江まで出してもらう」

   16時間もかかる汽車と違って、軍用機は3時間足らずで牡丹江の郊外の飛行場にドカンと着陸した。二人は、着陸する前、自分たちが突貫工事で造った滑走路や建物を見ていた。山肌を削った高射砲陣地が目を引いた。伍長の肩章のある兵隊が親方と水野技師長を兵舎の中の食堂に案内した。昼飯の時間になっていて、飛行服の男たちが無言で大皿に持ったカレーを食っていた。給仕が豚カツカレーとビールを持ってきた。

   「いらっしゃい」と声が聞こえた。牡丹江陸軍飛行連隊の隊長だと自己紹介した。ことば使いが気さくな性格を表していた。親方はこういう人とすぐ仲良くなるのだった。水野技師長が立って挨拶をした。隊長にも豚カツカレーが用意されていた
   「今日と明日一日は、飛行場の必要な工事や改善して欲しいところをお見せします」と連隊長は、冷えたビールを持ち上げた。前水兵のジョッキから泡が溢れた。関東軍の誰かが、豚カツとビールがわしの大好物だと言ったのだろうか?と不思議な顔をしたが、そうではないことが判った。毎金曜日の定食なんだそうだ。
   「これ山東省の黒豚ですよ」と連隊長が言って笑った。水野技師長が「自分の生家は東北の養豚業者なんです」と笑った。前水兵は、「戦争さえなければなあ」と思ったが言わなかった。ただ、みんなに唱和するように声をだして笑った。周りの飛行兵たちが振り返った…

   水野技師長は主任設計士だった。翌朝の会議で飛行場メンテナンスの課長から改善したいという部分を聞いていた。ほとんどが夜間の離着陸に関してであった。基本的設計には大きな支障はないということであった。問題はソ連軍の規模の大きさによるのだと、、最前線は空中偵察からソ連軍の施設が日に日に大きくなっていると知っていた。一方で、北満と東満の関東軍の兵員が少なくなっている…陸軍飛行部隊の爆撃機も4割近く減少していた。減った分は鹿児島や沖縄や台湾の南部に移動していた。いずれ、チチハルの飛行部隊が牡丹江に合流するだろう、、長期戦になれば、食料庫を大きくする必要がある…病院は充分だ…親方は、満銀には充分なカネはあるのか?と想っていた。それにインフレの嵐が吹き荒れていた。満州札の価値が落ちているのだ。

   そのまた翌日の朝がきた。親方と水野技士長は偵察機に乗り込んだ。虎頭要塞へ行くのだ。飛び立って、急角度で高度を上げた。前水兵は膝の上に地図を広げていた。地図の上にコンパスを置くと偵察機が東へ向かっていることがわかった。30分も飛んだ頃、遠くに河が見えた。ウスリー(鳥蘇川)だ。大きな湖が現れた。興凱湖(はんかこ)だ。ソ連領は山が多い。森林も深かった。
   「沿海州です」と副操縦士が言った。
   「ソ連領を飛ぶとどうなる?」と前水兵が聞いた。
   「対空砲火に会う」と操縦士。そして「何度もソ連領を飛んで撮影をしてきた」と言った。また、「偵察機は敵地を飛ぶのが任務なのだ」と。「このあたりには敵の高射砲陣地はない」とウスリーの河の上を飛んでいた。虎頭まで30分と言う地点で、ソ連側に入った。飛行場が見えた。滑走路が長いのは、ソ連の爆撃機が大型だということなのだ。朝の8時になっていた。ポ~ン、ポ~ン…露助が高射砲を打ち出したのだ。戦闘機に駆け寄るソ連の飛行士や旗を振る地上兵が見えた。偵察機の操縦士が高度を上げた。爆音が大きくなったと思った瞬間、宙返りをした。水兵は、地平線が逆さまになったのを見た…虎頭要塞の岡が見えた。かなり高い岡であった。

虎頭要塞
   
(註)虎頭要塞は1934年に建設が始まり、1939年に完成した。要塞には第5軍に属する第4国境守備隊が配置されており、満州へのソ連労農赤軍の侵攻阻止と、シベリア鉄道~スターリン街道遮断を任務とした。1943年後半以降、もっぱら関東州警備にあたっていた関東軍は戦況の悪化した南方戦線に守備兵力を引き抜かれ、虎頭要塞においても九一式十糎榴弾砲や四一式山砲などの軽砲は南方に転用され(後述の重砲は転用されず)、また1945年3月に第4国境守備隊も解体となる。その後一時は臨時国境守備隊のみの状態となる。だが、対ソ戦を警戒していたことにより軍備は増強され、7月に総員約1400人の第15国境守備隊が再配置された。

1941年、帝国陸軍の関東軍特種演習(カントクエン)ならびに要塞建設に刺激されたソ連は、本要塞の火砲の射程圏内にあると思われたウスリー河対岸のシベリア鉄道イマン鉄橋を国境より15キロ迂回させた。シベリア鉄道が迂回されたことを危惧した帝国陸軍は、1920年代に開発され、そのあまりの大きさと運用コストのため日本国内で事実上放置されていた試製四十一糎榴弾砲の配備を決定した。同年10月に輸送が開始され(虎頭要塞への搬入は秘匿のため夜間に行われた)、翌1942年3月に配備が完了した。また、もとは東京湾防備のため富津射撃場に配備されていた最大射程50キロ(大和型戦艦の主砲であった四十六糎砲の最大射程は42キロ)を誇る九〇式二十四糎列車加農も、上述の理由のため改軌を経て試製四十一糎榴弾砲の移動と同時に本要塞に配備さた。


虎頭要塞の戦い

   1945年8月8日のソ連対日宣戦布告及び8月9日未明(午前1時頃)の侵攻開始により、虎頭要塞の第15国境守備隊と侵攻してきたソ連軍の間で戦闘が勃発。守備隊長は第5軍司令部に出張中で帰隊が不可能なため、砲兵隊指揮官が守備隊長代理として指揮を執った。周辺地域から、多数の在留民間邦人も要塞に避難し、計約1800人が籠城することになった。四十一糎榴弾砲はシベリア鉄道イマン迂回線の鉄橋を砲撃し、さらに砲身が射耗するまでソ連軍に砲撃を続けた。

   守備隊は絶望的な状況の中、8月15日に玉音放送を聞いたが謀略とみなした。17日、ソ連軍の捕虜となっていた日本人5人が、ソ連軍の軍使として日本政府の無条件降伏を伝え、武装解除に応じるように停戦交渉を行うが謀略として拒否された、、守備隊将校の1人が軍使の1人であった在郷軍人会の分会長を軍刀で斬殺した。その後も戦闘が行われ、ついに、8月26日、虎頭要塞は陥落した。生存者はわずか50名ほどだった。10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上にわたり防衛戦を行った虎頭要塞の戦いは、第二次世界大戦最後の激戦とされている。(調査すると、ウイキぺデイアがもっとも信頼性が高かった。それを筆者が簡略に書き換えた。伊勢)

                        第十三章

                   満州中央銀行の金庫の中…

manchuria currency
  
   大東亜舗装の社長となっていた前水兵は相変わらず「ニッカボッカの親方」と呼ばれていた。佐々木さんに「虎頭要塞」の報告をした。そこで、気になっていたことを質問した。
   「満銀の金庫にはいくらでもカネがあった…現在はどうなんですか」
   「日銀の融資が止まった、、関西金融界の満州投資が止まった…」
   「すると、虎頭要塞や牡丹江の飛行場改造の費用はない?」
   「その通り」
   「常務のお仕事って何なんですか?」
   「カネを取りにくる連中に嘘をつくことさ」
   「嘘?」
   「君は不動産をもっているのかね?」
   「興安大路にビル一件…慈光路の屋敷だけですが…」
   「君の家族は日本へ帰った。家もビルも今のうちに売り払え」
   「はあ?」
   「三井と蒙古政府が買うだろう」
   「満州札でですか?」
   「日本円でだ」
   「すると、満州国は滅亡する?」
   「そうだ」

   軍艦扶桑の水兵は全てを売った。娘のピアノまで売った。わが姉は長年「お父さんね、私のピアノを売ってしまったのよ」と言っていた。ビルは三井に売った。慈光路の屋敷は蒙古政府に売った、、佐々木さんに報告した…
   「佐々木さんは何時まで満州におられるお考えですか?」
   「わからんが、満銀の後始末をする…君には、俺が内地に帰るまでとどまって欲しい」
   「一緒に帰りましょう」

1945年が明けた…

   新京市内ががらがらになっていくのが誰の目にも明らかになった。関東軍司令部も、海軍武官省も、憲兵隊までも南方戦線へ移動して行った。居残った者はそれでも、日の丸を揚げた。四月になると、陸軍第七方面軍の板垣征四郎大将が英軍に降伏したと聞いた。板垣参謀は、この満州国を建国した人間である。もうひとりは石原莞爾である。この二人は馬賊の大玉張作霖を奉天で爆殺したとされている。本人たちは反論しなかったし~1931年には満州事変を起こした。満州建国はその翌年の1932年である。筆者の父はその翌年の1933年に38歳で渡満している。それから、12年が経っていた。前水兵はその四月に和歌山へ飛んだ。大阪の上空を飛んだとき、通天閣のある下町が焼け野原となっているのが見えた。和歌山の海軍航空隊基地に着いた。手にトランクを持って白浜の第五銀行の支店に行った。100万円という日銀の証書に支店長は驚いた。
   「このような大金を見たことがない…大阪の本店でなければ扱えないのです」とツルッパゲの支店長が本店に電話を入れた。本店から白浜に人を送るという返事であった。
 
   白浜の借家でわが母や子供たちと再会した。子供たちは日焼けして元気だった。わが父は東京の下町が空襲されて、10万人が焼け死んだと聞いた。一週間後に新京へ飛び立った。
   「かあちゃん、俺が死んだら子供たちを頼む…おまえは大丈夫だ」と言った。赤ん坊を抱いたわが母は、14年前に、大阪の新天地の料理屋で一緒になった男の顔をじっと見ていた。「なぜか、涙は出なかった」と言っていた。それは、「この人は生きて帰る」と信じていたからである。

   新京へ戻って、ヤマトホテルにチェックインした。12年前に泊まったホテルだ。不思議な感慨に浸っていた。「もうタキシードを着ることはないな」と…佐々木大将に電話すると、「関東軍の武官とヤマトホテルの花園大酒家で飯を食う」と言った。誘われたのだ。夕日が沈んだ。二人の陸軍武官、佐々木満銀常務そして大東亜舗装の親方が個室のテーブルに着いた。
   「牡丹江のソ満国境が慌しくなっている」と年配の武官が口を開いた。前水兵は「重要な件なのだな」と直感した。佐々木さんの表情も、いつもの磊落さがなかった。
   「どのような状況でしょうか?」と土建の親方。
   「50万人のソ連兵と3000台の戦車、500機爆撃機が写っている」と若い武官が空中写真数枚をテーブルに置いた。兵舎が地平線にまで広がっていた。親方は、あの日に見た虎頭要塞を思い浮かべていた。
   「虎頭要塞は完備しているんですね?」と佐々木さん。
   「完備は出来たが、兵員が足りない」と年配の武官。
   「すると、何時までもつのかということなんですね?」と親方。
   「わが方の装備は?」
   「41センチ 榴弾砲一本~野砲数本~爆撃機100機~軽量戦車400台~守備兵1500名…」前水兵は「玉砕する」と確信していた。

                           *

   その年の7月、佐々木満銀常務から電話があった。親方が出ると、佐々木さんが、ゴホンと咳をした。
   「倅二人がマニラで戦死した」と言った。わが父が黙っていると「今週、内地へ帰る」と続けた。
   「長らくごくろうさまでした」と水兵に戻った親方が言った。このひとは日露戦役以来40年も満州の地に居たのである。ー何という生涯だろう…乃木さんと同じだ」と遠くを見る目になった。
   「親方に最後の頼みがある」と佐々木大将がその頼みを打ち明けた。水兵は満銀常務の依頼の内容に驚いた。

                           *

   7月の末日になった。朝から小雨が降っていた。軍艦扶桑の前水兵がセダンを運転して佐々木さんの夏の家に着いた。新京市街から離れた伊通川の川べりの一軒家であった。鉄の門の前に立った…預かっていた鍵を廻して開けた…水兵は真っ直ぐ奥の書斎に行った。木の箱が部屋の真ん中に積んであった。20個はあった。ひとつの箱をバールでこじ開けた…「う~む」とうなった。箱の中に封印された満州紙幣がビッシリと詰めてあったのだ。インクのにおいがしていた。指示にあるように、部屋に灯油の一斗缶が二缶あった。水兵が部屋に灯油を隈なく撒いた。それから、灯油を玄関まで撒いた。赤燐マッチを擦った。ボ~と音を立てて火が廊下を奥の部屋に走って行った…軍艦扶桑の水兵だった男は足速(あしばや)に夏の家を出た。外は豪雨になっていた。満州国が消えた日である。満州を掴んだ男は四十九歳であった…

                           ~完~


「マッカーサーのくび木(上巻)」  2014年6月6日 わが七十三歳の誕生日…伊勢平次郎

                          *

「たちよみ」はここまでです。有志の方は、ハヤブサキカンに千円を振り込んで下さい。本になっても収入は極く少ないためです。ま、ベストセラーになれば別ですけど(笑い)。伊勢平次郎

A) 振込口座

1)金融機関   みずほ銀行・上大岡支店・支店番号 364
2)口座番号   (普通)    2917217
3)口座名    隼機関   ハヤブサキカン

B) 郵便局口座

1)口座番号  10940-26934811
2)口座名    隼機関   ハヤブサキカン


T.MIZU、、様からご献金を頂きました。このお方は、MEPHIST先生その他数人の方と同じように8年前からご献金して下さっている。伊勢を生かしてくれている。





伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから46年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聞き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ自動車工場、スバル・いすず工場の北米進出、日本の大手新聞社に雇われた。現在は、冒険小説、児童文学、政治ブログ「隼速報」を書いている。妻のクリステインと犬二匹で、ルイジアナの河畔に住んでいる。(2014・6・6)


著作権保護


   *本著は「著作権保護コンテンツ」として、アマゾンに登録されています。コピーは禁止されています。

   「マッカーサーのくび木(下巻)」を七月下旬に出版します。

   「胡椒の王様」はシリーズです。King of Pepper が英語版です。Amazon・
から購入が可能です。

   次回の作品は、「胡椒の王様・謎の箪笥」です。九月に出版します。

   小説「アブドルの冒険」も読んで下さい。英語版は、You Die For Meです。


   それでは、みなさん、ごきげんよう。 伊勢平次郎


comment

上の記事を有難うね。理不尽な要求を続ける韓国政府や在米韓国人に「痛烈」な結論となるよう期待している。その検証の結果、韓国が日本から離れていくのは大歓迎。これほど悪意を持った国と国民を見たことがない。

ウクライナのポロシェンコ新大統領とプーチンがノルマンデイーで会談した。オバマもプーチンと15分だが話した。これは良いこと。USの雇用と給与支払い総計が大きく改善した。だが、専門筋は「充分回復してはいない」と。一方、チャイナの李克強(経済)は、あらゆる手を打って、中国経済の崩壊に歯止めをかけている。だが、効果は現れていないと日経。さあ、南シナ海は戦場になるのか??伊勢
2014/06/08 02:53 | 伊勢 [ 編集 ]

「グレーゾーン」で大成果だそうです

「河野談話」見直しの結果、22日までに公表方針 政府答弁書 
2014.6.6 12:42
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140606/plc14060612420014-n1.htm

府は6日の閣議で、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の
河野洋平官房長官談話の作成過程にかかわる検証チームによる調査結果の
取りまとめ時期について、「(6月22日が会期末の)
通常国会の会期中にできるように作業している」とする答弁書を決定した。

また、「国会から求めがあれば、報告する考えであるとともに、
公表する可能性も検討している」として、国民に向け情報開示する考えを
示した。

新党大地の鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答えた。
2014/06/06 17:13 | [ 編集 ]

S.yuki,,さま

購読料を有難うね。73になりました(笑い)。疲労気味、、今から200キロ南西の湖にキャンプに行きます。英気を養って、「マッカーサーのくび木(下巻)」を殴り書きします。安倍さんの外交が成果を上げ始めた。安倍さんにとっても、韓国は「問題児」なんでしょう。見ているしかないが、やっていない(慰安婦)ことを認めるのには大ハンタイです。民族のプライドと何かを交換する???有難うね。伊勢
2014/06/06 02:40 | 伊勢 [ 編集 ]

尾崎君

元気でご活躍、安心しています。
★「マッカーサーのくび木・満州を掴んだ男」の出版をお祝い申します。
プログ立ち読みで、私の70年前と重ね合わせ、
興味深く、懐かしく拝読しました。
★私は昭和18年4月に旅順師範学校に入学しました。
宮崎の日豊線富高駅~関釜連絡船~京城~平城~新義州~
安東~奉天~周水子~旅順の3泊4日の一人旅。
★その7月学徒動員でソ満国境綏陽に弾薬庫整理に出掛けました。
旅順~大連~奉天~新京~ハルピン~牡丹子~綏陽の行程でした。
私は車中で42度3分(人間の限界体温)高熱を出し、一面パで下車入院。
~旅順に帰還~旅順病院入院、腸チブスに羅病、四カ月入院~退院~帰国。
★その翌年9月に再度渡満、学徒動院で周水子(大連空港)で飛行機の格納庫造り。
11月まで。翌昭和20年5月学徒動員。特別甲種幹部候補生として熊本陸軍予備士官学校に入る。8月終戦復員。
以上です。
くろきひかる


黒木先生

戦争はいったん始まると、正義も大義もなくなり、攻撃と報復の応酬という暴力だけが残る。それも段々、過激となり、やがて、大量無差別殺戮へ、、勝ったほうは傲慢に正当化し~負けたほうは泣き寝入りする、、でも、その無知蒙昧な時代はインターネットなどの科学技術によって終わったと思う。大衆も政府や経済界に騙されない。今問題を起こしている中国とロシアは、G7という経済先進国によって制裁される。西アフリカなどの非人権暴力政府は地球軍を作って(中露が理事国の国連はだめです)掃討すべし。安倍さんは着々とその構築を目指している。日本のかかえる問題でも朝鮮半島が問題児のような存在です。これ今に始まったものでない。何もかも、日帝の所為にして現実を回避する。南北問題は日本の問題じゃないですね。韓国がG7に入る時代はきません。実は、ぼくは、政治ブログをやめて、文芸と世界観を日本人に説きたい。今朝から、3日キャンプに行きます。和英で小説2作、今回は「満州を掴んだ男」、、15ヶ月のマラソンに少々疲労。でも、健康はうそのように回復。過去9年間の闘病にほとんど人生が終わったかに思えましたが、黄泉の両親のおかげで生き返った。黒木先生のおかげでもあります。有難う。おざき生
2014/06/05 20:00 | 伊勢 [ 編集 ]









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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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