2014/06/09 (Mon) 「マッカーサーのくび木(上巻)・満州を掴んだ男」の全文です。


6月6日、わが73歳の誕生日のことであった、、は、は、は 伊勢

みなさん   

表紙満州を掴んだ男  (1)

「マッカーサーのくび木(上巻)・満州を掴んだ男」をアマゾンから電子出版いたしました。自衛官や海上保安官の防人に送るものです。今、日米合同海軍構想がアジアの潮流です。その前に先の戦争を整理して置く必要がある。アメリカも、ソ連もその対日戦争には大義はなかった。今、平和か戦争か日本はその重要な鍵を握っているのです。安倍外交は地球の安保と人類の進歩を視野にしている。日本の国益がそれに沿えば良い。

「まだ読んでいたのに、削除されてしまった」という方からメールがありましたので、全文を再び公開します。読後に、千円のご献金をお願いします。 伊勢平次郎   

A) 振込口座

1)金融機関   みずほ銀行・上大岡支店・支店番号 364
2)口座番号   (普通)    2917217
3)口座名    隼機関   ハヤブサキカン

B) 郵便局口座

1)口座番号  10940-26934811
2)口座名    隼機関   ハヤブサキカン



 


                        はじめに


「満州建国」は、日本人が誇る歴史である。この壮大な建国計画は満州事変を経て、1932年に実現した。そして、1945年8月9日、ソ連は対日宣戦布告を出した。ソ連軍沿海州部隊の55万人がウスリー河を越えて、東満州に侵入した。

「マッカーサーのくび木」は歴史小説である。登場人物は実在された人々である。対話は筆者の創作だが、どれもいまや黄泉の住人となったわが父母や兄たち、姉たちが語ったものである。70年前の戦争の中でも、満州ほどドラマに満ちた大地はない。日本人の誇る歴史を残しておきたかったのである。

2014年6月6日、伊勢平次郎 


                           *
   
   日本人は叫んだ…この頸木(くびき)を外してくれと…占領軍は平和憲法を日本民族に押し付けた。マッカーサーは、不平等条約と知りながら無抵抗となった日本人の首に家畜に着ける頸木を嵌めた。キリスト教徒白人の優位を永遠に保つために…これが日本人にとって、半永久的な軛(くびき)となった…

   「マッカーサーのくび木」は、日本の防衛を命を賭して担う自衛官~海上保安官~その家族への激励のメッセージである。筆者は、防人(さきもり)たちが超えなければならない試練を分かち合うために書いたのである。本年七月、英語版をアマゾン・キンドルで出版する計画である。

   やがて、日米合同海軍が南シナ海へ出撃する日が来る。日米の将兵が過去の恩讐を越えて真の戦友となる機会なのである。日米合同海軍の南シナ海プレゼンスは中国との戦争を回避することを目的とするものである。もしも戦争になれば、日米軍は中国軍に圧勝する。日米の将兵が心をひとつにするために、先の日米戦争を整理しておく必要がある。現代、在日米軍の将兵は日本人の味方である。もしも、命を賭けて任務を果たす米軍人を傷付けたなら謝ります。友人の心を傷付けることが著者の目的ではないからである。                      

   家畜に着ける「くび木」は、マッカーサーが嵌めたものである。だが、日本の自民党政府にはその軛(くびき)を破棄する機会は多くあった。かの高名なる米国事情専門のジャーナリストである日高義樹さんは、「日本は逃げまくった」と書かれた。理由は経済的メリットであった。在米46年の浪人である筆者もそう思っている。だが、この意図的な責任回避は、日本の防人(さきもり)たちの罪ではない。安部晋三総理大臣の率いる自公連立政権の責任なのである。青年は、この軛(くびき)を苦悩する必要はない。軽々と超えていけば良いだけである。


                        第一章

                  集団自衛権は必須なのである…

   民意が集団自衛権行使に反対ならば、米国政府に平謝りに謝る他ない。それでも、米軍の要請があれば、同行するべきである。南シナ海は日本だけではないが、世界の船舶輸送の30%が通るのである。「シーレーン」と呼ぶ。チャイナが制海権を握れば、航海の自由を失う。問題を起こしている中国もこのルートに頼っている。上海沖の深水港は出入り不可能になるのだが、習近平主席のアタマはそうとうおかしい。

   南シナ海で、中越~中比~米中~日中が軍事衝突するということは、プーチンのクリミア・ロシア編入と同じか、もっと大きな経済制裁を中国は受けるだろう。一兆ドルは最低でもふっ飛ぶ。従って、ベトナム沖の掘削櫓(やぐら)は撤去するべきなのだ。中国の軍事行動は卑怯者の行動である。日本軍の真珠湾攻撃のような大胆さを中国首脳は持っていないということである。ただ、面子を異常に大事にする民族性だ。あのハリボテ空母遼寧が出てくれば、バージニア級潜水艦の電探魚雷の餌食になるだけだ。ブクブクと遼寧が沈没すれば、これほど大きな面子を失うことはないとなるのだが、チャイニーズという人種は不思議なアタマをしている。

   「遼寧は原子力でなくジーゼルなので、22ノットぐらいで台湾海峡を通過した…」と川村純彦・前海将補さんですね。漁船でも、35ノットは出るからこれはお話にならない。遼寧は「浮かぶ棺桶」なのである。日高義樹さんのご著書に、「バージニア級原潜も、ロスアンゼルス級も、水中から打ち上げる核ミサイルを8本も搭載していて~北京に照準を合わせている」と書かれている。

                         第二章

                     全てはここから始まった…



明治元年(1868)10月12日、明治天皇が即位されて、江戸城を皇居と定められ、東京城(江戸城)に入られた。東京都民に酒三千樽を下賜された。天皇は十六歳でした。

幕末の動乱…

   1867年1月30日、孝明天皇が崩御され、同2月13日、満14歳で践祚(せんそ)の儀を行い皇位に就く。こうして明治天皇が生まれたのである。践祚から間もなくして、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。次第に討幕派が優勢になり始めると、これをかわすために征夷大将軍・徳川慶喜が1867年11月10日に大政奉還の上奏を行い、明治天皇はこれを勅許した。形式的に政権を朝廷に戻されたものの、引き続き徳川幕府の統治機能は存続したため、対抗策として討幕派に(1868年1月3日)に王政復古の大号令を発し、新政府樹立を宣言。反発した旧幕府勢力と明治元年(1868年)正月に京都南郊で軍事衝突する(鳥羽・伏見の戦い)これに勝利した新政府軍は旧幕府勢力を「朝敵」・「賊軍」とし、明治二年(1869年)にかけての内戦(戊辰戦争)を経て、これを平定した。

日本は科学技術で遅れていた…

   明治の夜は明けたが、英米とは日本は科学技術で40年は遅れていた。その代表的な科学技術は蒸気機関車と蒸気船だった。明治の日本人は「英米に追いつく」ということでアタマがいっぱいだった。



   咸臨丸はオランダ製の蒸気船であった。百馬力の蒸気機関でスクリューを出入港時のみに使った。1860年1月19日三本マストの帆船は、勝海舟~福沢諭吉~ジョン万次郎たちを乗せて浦賀を出港した。ホノルル停泊後、2月26日にサンフランシスコへ入港した。時速6ノットで37日間の航海だった。太平洋は天候が荒れておりアメリカ人の水兵を除いて日本人は全員船酔いした…



   サンフランシスコの写真館で撮ったと思われるが、福沢諭吉はクレバーな顔の人である。アメリカは、既にピストルの国となっていた。

ちょんまげ侍たちが模型を始めて見た…

english steam loco

   それでは、「最初の産業革命」とは何時のことなのか?ブリテンすなわちイギリスにおいて生まれたとされる最初の産業革命には諸説があるが1760~1840年くらいとされる。その産業革命の代表が蒸気機関車である。1825年、蒸気機関を利用する鉄道が初めてイギリスで実用化された。炭鉱から石炭をリバプールの港へ運んだ。この技術は約30年後、幕末(1853年)の日本に蒸気車の模型として到来した。

   日本で初めて走った鉄道は、艦船に積んで運ばれてきた模型であった。幕末の嘉永6年7月(1853年7月)、ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる4隻の軍艦が長崎に入港して江戸幕府と開国の交渉を行った。約半年におよぶ滞在期間中に何人かの日本人を艦上に招待して、蒸気車の模型の運転を展示した。招待されたのは幕府の川路聖謨~佐賀鍋島藩の本島藤夫~同じく飯島奇輔らで、彼らは藩に戻って藩主に報告した。

   長崎に続いて、1854年、横浜で蒸気車の模型が走った。これはペリーが2回目の日本訪問に際してフィルモア大統領から将軍への献上品として持参したものである。ちなみにフィルモアはタカ派の大統領と記されているから、「鎖国中の日本を砲艦外交でこじ開けた」というのが事実であろう。以来、アメリカは西へ西へと進み、日本に突き当たったのである。現在、チャイナに突き当たっている。

   話し戻って、模型といえど機関車には機関士が乗って運転し、客車は6歳の子供なら客車の中に入れるかどうか、という大きなものであった。これを見て幕臣河田八之助が、客車の屋根にまたがれば乗れるのではないかと交渉の上、乗車したというのが、日本の地で客車に「乗った」初の日本人である。またこの模型を江川太郎左衛門も見物し、自らの手で運転したいと申し出て、みごとに運転を成功させている。

               日本人が始めて作った蒸気機関車の模型…

長崎での展示から2年後の1855年2月、佐賀藩の「からくり儀右衛門」の名で知られる田中久重が蒸気機関車の模型を完成させた。

                 アメリカ鉄道網がヨーロッパの二倍に…

wild west loco,otives

   蒸気機関車による鉄道が発達し始めると、まもなくそれは大きな利益の上がる事業であると判明し鉄道への投資が殺到した。いわゆる鉄道狂時代である。これにより、アメリカ合衆国の東部では急速に鉄道網の整備が進み、1850年代までにミシシッピ川以東に路線網ができあがってきた。

                  日本の鉄道事業が始まった…



   新橋鉄道蒸気車之図・ 歌川広重画(三代) 明治4年(1871)頃。新橋停車場の駅舎は「新橋ステーション」と呼ばれ、絵葉書に取り上げられるなど新時代を象徴する名所となりました。横浜駅や横浜税関などの設計も手掛けたアメリカ人建築技師・ブリジェンスの設計によるものです。(鉄道絵巻)

   日本の鉄道は、明治5年(1872年9月12日)に、新橋駅~横浜駅間で正式開業した。鉄道は大評判となり、開業翌年には大幅な利益を計上したが、運賃収入の大半は旅客収入であった。

   明治という黎明期の日本は、40~50年近く、イギリスとアメリカに遅れていた。だが、日本は現在、世界で最も鉄道網が発達した国となったのである。この日本人の「英米に追いつく」という情熱はすさまじかったし、今でも変わらない。
   航空機産業は軍事産業が柱なことから、日本には、大きなハンデキャップがある。だが、「造れない」ということではない。コンピューターは、ほとんど追いついてしまった。電子分野は日本人の性質に向いているからである。追いつけない分野は多くあるが、日本人とアメリカ人が仲良く共存すれば、不足することはない。こんなところに、TPPの主旨があると筆者は思っている。

                 現在の日米の航空機産業は協力体制…

   航空自衛隊の戦闘機~輸送機~潜水艦探知機の全てではないが、米国のロッキード・マーチン社・三菱重工などのライセンス契約で製作されている。中国とロシアの間にも同じような関係がある。だが、ロシアはタービン技術を中国に渡さないので、エンジンが故障すると、ロシアに修理を依頼すると川村純彦・前海将補さんが語っている。ロシアの電子工業技術が遅れていることが中国空軍の悩みなのだそうだ。

honda jet dream

ホンダジェットの量産初号機(ホンダ提供)

   2014年5月21日, 本田技研工業(7567)の米国子会社ホンダ エアクラフト カンパニー(HACI)は現地時間5月19日、小型ビジネスジェット機の量産初号機を公開した。

   航空自衛隊にはないB54-4型機であるが造ろうと思えば造れるものである。しかし、肝心の「造る理由」がない。日本軍が強い分野は「海軍」と「地上軍」だから。「米空軍も、米海軍も負けたことがないが、米陸軍は第二次大戦以来、勝ったためしがない」と言ったら、「怒るかな?」と思ったが米空軍の飛行士が頷いた。これがアメリカ人の良いところですね。中国人なら食って掛かってくる。アメリカ人には、「誠」も「徳」もあるのです。日本人もです。この美徳が中韓の大衆~為政者~軍人にはないのです。

                    全てここから始まった(その2)…

   1869年5月21日 京都に日本初の小学校が開校(明治元年(1868)の翌年です)京都で日本最初の小学校として、現在の京都市中京区の御池通り沿いに「上京第二十七番組小学校」が開校しました。「番組」とは当時の京都の町衆による自治組織のことです。同じ年、首都は京都から東京に移り、衰退を恐れた京都の町衆にとって、小学校創設は強い願いでした。この小学校が開校してから数か月の間に京都で60以上の「番組小学校」が創設されました。現在は小学校でなく、「京都市立京都御池中学校」という中学校になっています。勿論、男女共学であった。明治の黎明期、これほど日本人は進歩したのである。

                    日本の電話の歴史を読むと…

   1890年の頃、使用されていた電話機は「2号共電式壁掛電話機」という小型化された電話機が登場していたので、家庭にも次第に普及していったものと思われる。現在では、1号共電式壁掛電話機を見かける機会は少ないと思うが、現在でも、非常に個性的で魅力あるインテリアとなりうるものだ。グラハム・ベルによって電話が発明されたのは、1876年になるが、その後、日本に電話が開通するようになったのは1890年のことになる。(日本の電話史より)

(筆者)すると、京都に小学校が開校してから、21年後となる。小学校でも電話の科学を教えたに違いない。こうして、日本は男女共に識字率の高い近代国家へと駆け上って行った。日本の近代化が速かった理由は先達の教育への情熱にあったのである。

   当時の明治政府は、日本の電話を「東京-横浜」間で試験的に営業を開始することに決定した。1890年というと日清戦争がはじまる4年前のことになるので、非常に古い時代であるような印象を受けるが、ちょうどこの時代に日本で電話の営業が開始されたことになる。その後、15年ほど経過して日清戦争・日露戦争が終結すると、国内でも電話への加入を希望する人が急激に増えることになった。当時の国家財政が芳しくなかったなど、一定の困難はあったものの、1910年には、電話加入者数が10万人を突破するほどにまで成長した。(日本の電話史より)

*わが父は、明治28年(1895)に生まれたから、電話が話題になった頃、5歳だったとなる。勿論、電話も電気もない山奥の貧農の息子であり、農夫になるのが定めであった…


                         第三章                      

                       ある水兵の一生

fuso 1915

1915年の扶桑。兵員1193名。わが父は20歳の機関兵であった。

                  日露海戦  

   司馬遼太郎は「坂の上の雲」という時代小説を1967~1972の4年間、産経新聞に連載した。後、六巻の単行本となって、二千万部が売れたとされる。売れた理由は、NHKドラマになったからである。司馬は生前、「映画やテレビにしてはならない」と言っていた。それは司馬史観が多くの学者から批判されたからである。

   筆者も、伊勢志摩の田舎の兄たちが読んでいたので全巻を読んだ。30年も昔のことである。自分は司馬小説から大きな影響を受けたと思う。史実ではないと批判されても、やはり好い印象が残っている。何故だろうか?その理由は、明治に日本人は「誇りとロマン」を持っているからである。日本の開明期の人たちは「志と情熱」持っていたと思うからである。私自身は父が大正海軍の水兵だったことと直結している。父は、伊勢の国(三重県)志摩半島で生まれた。磯部という村の貧農の9男だった。南には、伊雑(いぞう)の浦があり、養鰻で名を為した穴川の船着場から渡鹿野島に巡航船が出ている。古来、渡鹿野島の船宿は宿泊客に女性を提供する習慣があった。女郎というのではなく、感謝料を払うフリーセックスという風習であった。十代の娘も多くその特殊サービスに参加して収入を得ていた。この日本の性風俗は、日本全国に亘っていたが、「売春」という犯罪ではない自然体の副産業だった。「伊勢の人間は色を好む」とわが父は言っていた。伊勢の女性は、誘えば応じる「おおらかさ」がある。だから、未婚の女性は少ない。

   磯部には、現在スペイン村というテーマパークが出来ている。関西方面ならご存知の方が多いと思う。磯部の裏山である朝熊(あさま)岳の峠を越えると、清流がさらさらと流れる五十鈴(いすず)川に出る。この川は伊勢市の西側を流れていき~土手に植えられた桜で有名な宮川となり~伊勢湾に流れこんでいる。朝熊街道を北側の山麓へ下りて行く、、新橋と言う橋を渡ると赤福本店の瓦屋根が見えてくる。川沿いに歩いていくと「お伊勢さん」こと、皇太神宮の大鳥居が見えてくる。「内宮さん」である。宇治橋を渡って手水舎に寄り、口を漱ぐ…五十鈴川の緋鯉に麩(ふ)を投げる、、しばらく歩き、ようやく、御正殿への石段に辿りつく、、その後、何々宮の石段を登っては賽銭を投げ柏手を打つた。これが毎年正月四日のわが父の行事であった。母が作ったお稲荷さんの入った重箱を風呂敷に入れて、夜が明けないうちに家を出た。朝熊岳の茶屋から伊勢湾が見え、「浜松」と父が対岸の町を指さした。その向こうに、頂上に雪を被った富士山が見えた。8時間は歩いた、、小学生だった弟が「お父ちゃん、腹が減った」と泣き出しても、父はさっさと先を歩いて行った。参拝が終わった…再び宇治橋を渡って右に曲がると「お祓い通り」がある。父と小学生の弟、中学生の兄とやはり中学生だった私が縁台に座った…赤福本店である。「営業中」と看板が出ていた…

   この「伊勢参り」が父との最後の遠足となった。当時、弟と妹は伊勢志摩の田舎の小学校へ通い~兄と私は東京品川の中学校に通っていた。父が南品川に家を持っていたからである。二年後、上京していた父が亡くなった。その正月、弟と妹が伊勢志摩から上京した。父親との別れのために…弟、妹と私が死の床に伏せている父親の横に正座していた。妹はセーラー服だった。弟と妹が泣き出した…すると、父が子供たちに顔を向けた…そして、「泣いたらいかん、負けたらいかん」とつぶやいたのである。これが、わが父の遺言となった。父は六十三歳になったばかりであった。

   わが父、晴雄は貧農の9男に生まれたと書いた。「両親は新生児を養う力がなく~母親は乳も出なかった」と父が話した。英虞湾(あごわん)の村落に神明村があった。今では阿児町となっているが。村の庄屋はその名を「勘兵衛」と言った。なまって、「亀屋」と村人は呼んでいた。乳飲み子のわが父は亀屋の使用人で瓦職人の尾崎次郎吉とたまの養子となった。

   伊勢の国、志摩半島は瓦の材料である粘土で出来ている。山肌に触ると「ねとっ」とするほどの粘土層が埋もれている。奈良平安時代に平(たいら)の忠盛や清盛の「平家」が権勢を振るった。忠盛が志摩半島で造った瓦を京都の三十三間堂に寄進したことから、六波羅(警察)となったのである。平家は「伊勢平氏」と呼ばれていたが、平氏は「瓦氏」なのであった。「伊勢の国は、米も酒も不味いが、伊勢神宮~魚~女~包丁~瓦で食っていく」と言われた。伊勢の大衆は金銭に固執していたし、今も変わらない。「伊勢乞食」などと蔑まされた。

   だが、「伊勢の国の兵隊は強い」と言われた。平家~九鬼水軍~伊勢新九郎(北条層雲)~尾張の織田信長の影響が残っている。伊勢の人は強いものに着く性質である。戦国時代の最終決戦でも、豊臣にも、徳川にも着かず戦局を見守っていた。今でも、この「どっちつかず」の性質は変わっていない。陸軍では、中国大陸で恐れられた名古屋陸軍第三師団がある。「名古屋師団」こと陸軍第三師団は西南戦争を始めに日清戦争~日露戦争~シベリア出兵~満州事変~日華事変~太平洋戦争など日本が関係したすべての戦争に参加し、南京大虐殺があったと言われる南京攻略では主力部隊の一つとなった。日露戦役では、志摩半島から多くの若者が出征して戦死している。「凄い白兵戦だった」と父が話したのを憶えている。今でも、海辺のお墓に忠霊碑がある。だが、大東亜戦争になると、戦艦か輸送船の乗組員になる若者が多かった。筆者の穴川の従兄弟には戦艦大和に乗っていた人がいる。「勝ちゃん」と呼んでいたとか。勝ちゃんは生き残った。戦後、英虞湾の巡航船の機関士となり、ある日、「首振りエンジン」という剥き出しのジーゼル機関に巻き込まれて死んだ。

   わが父は明治28年(1895)に伊勢志摩の磯部村で生まれた。1912年に鳥羽の海兵団に入った。三重県度会郡宿田曽村の漁師の倅と二人だけが海兵団に合格した。「養父母は命の恩人だった…海軍に入って仕送りをしたかった」と父は言っていた。実際は、尾崎次郎吉の夫婦に女の子が生まれたのである。粘土をこねて「かま」で焼く瓦職人では、家計はどうにもならないと十六歳になった少年は知っていた。ここで話しは脱線するが、父が亡くなった後、母と高校生の作者が金庫を開けて帳簿を調べた。借用書が出てきた。父は、借金を残しておらず、山林を売ってその契約金の100万円を受け取っていないことが判った。

   「宿田曾ってどこ?」
   「浜島の向こうにある五ヶ所湾というところよ」
   「その山崎という人に会いに行こうよ」
   「う~ん」と母はあまり乗り気ではなかった。

   父が残したホンダのベンリー号を引き出して、もんぺの母を後部に乗せた。母はどう言っても跨らず横座りを好んだ。仕方がないので、帯で滑らないように括った。伊勢路という山道を5時間も走った。前方に真夏の海が見えた。漁港が見えた。

   「お母ちゃん、あれが宿田曾じゃないかな?」S字型の山道を海に向かって降りた。

   宿田曾漁協の玄関の引き戸は開いていた。中年の事務員が出て来た。
   「あんたら、東京の人やな。山崎さんは漁協の親方やでえ。用件はなんや?」と威圧的な口調で言った。
   「漁労長さんに会うまで話せません」と母が事務員を睨みつけた。
   「そんなら、そこで待っておれ!」と椅子を指さした。
   「今どこにおられるんですか?」
   「沖や。夕方には、宿田曾に入って来る」とそっけなかった。

   日が沈む時間になっていた。船体を青いペンキで塗ったかなり大きい漁船が岬を廻ってくるのが見えた。マグロ漁船が遠洋から帰って来たのだ。漁協から事務員たちが駆け出して行った。船体には「バギオ丸」と書いてあった。高校生の作者は不思議な名前の船を見つめていた。100トンぐらいの、はえ縄漁船が岸壁に繋がれた。アタマに鉢巻をした初老の漁労長が最初に降りた。顔が日焼けしていて、イガグリアタマ、、白髪に胡麻をふったように見事な美男子であった。親方は母と私を目で捉えていた。
   「あの人らは、どなたさんや?」
   「志摩郡の尾崎さんという人らです」
   「尾崎?志摩郡?」船長兼漁労長は遠くを見る目になった。そして母に歩み寄った。
   「晴雄君が亡くなったって?」みるみる山崎漁労長の目頭が濡れた。事務員がびっくりした顔になった。
   「奥さん、ここでは暑い。事務所に入って話しましょう」
   「貴様ら、何故、部屋に通さなかった?酒と刺身を持って来い!」と事務員を怒鳴った。親方のもの凄い目つきに事務員たちが震えあがった。

   山崎さんが部屋に入ると、戦友を失くしたことに再び涙を流した。山崎さんが呉海兵団の話をされた。面白い話をした。なんと、わが父は「高利貸し」だったのだと。 
   軍艦扶桑の水兵たちは給料日になると、花札に打ち興じていた。父と山崎さんは機関士こと「釜焚き」であったと。一日6シフトで、石炭を釜に放り込んでいた。筆者は、父は士官だったと思い込んでいたので、実話に驚いた。「ま、後に、二人とも魚雷手になったから偉いさんや」と高校生を慰めたのだ。
   父も、山崎さんも、賭博も、酒もやらなかった。故郷の父母に仕送りするためにカネを貯めていたからである。花札でスッテンテンになった水兵らは、父がカネを貯めていることに目を付けていた。
   「おい、二等機関兵、カネ貸してくれ」
   「トイチですよ」10日で1割というムチャクチャな高利を要求した。期限が来る…キャッシュのない者は酒保で給付される菓子やタバコを利息代わりに持ってきた。わが父は、山崎さんと菓子を食っては笑った。

   扶桑が大連に向かっていた…青島半島の軍港に停泊したその夜に支那軍から砲撃を受けた。日清戦争の恨みであった。扶桑は錨を挙げた…支那軍の大砲が届かない沖に出て、33センチ砲で青島の山麓の砲台を撃った。シフトではなかった尾崎二等機関兵がニギリ飯を持って甲板にやって来た…砲撃手は煙管(きせる)を咥えながらドカンドカンと砲撃を楽しんでいた…わが父は、砲撃手の肩をとんとんと叩いた。振り返った水兵に手を出した。集金の日だったのだ。
   「おい。おい。戦闘中だよ」
   「いや、約束だから」
   「これしかない」と砲撃手。若い高利貸しは、領収書に、残高~期限~元利合計を書いて砲撃手に渡した…

   尾崎君は「扶桑銀行なんて言ってた」と大声で笑った。義妹の絹子叔母さんに、父が亡くなったことを知らせると、「義兄さんは仕送りを絶やさなかった」と電話口で泣いた。

(注意)漁労長さんは「山崎」という名前であったか定かではない。機会があったら、ご遺族にお聞きしたいと思う。伊勢

(註)日露戦争後の1906年(明治39年)、英国が弩級戦艦「ドレッドノート」を就役させると、列強各国の間で建艦競争が勃発した。弩級戦艦はすぐに超弩級戦艦へ進化し、日本海軍も金剛型巡洋戦艦「金剛」を英国に発注し、その姉妹艦を国産化することで最新技術の導入に成功した。扶桑型戦艦は日本海軍最初の超弩級戦艦「第三号戦艦」として1911年(明治44年)に呉海軍工廠で建造が開始され、1914年(大正3年)3月28日に伏見宮博恭王立会いのもと進水、1915年(大正4年)11月8日に「軍艦扶桑」として竣工した。3万トン級の巨艦をドックで建造することは、世界初の試みであった。ドック方式の進水式は船台進水より派手さがないため、「扶桑」の場合は圧縮空気で紙吹雪を飛ばしている。
   
日本海軍の「個艦優越主義」により、扶桑型は連装砲塔6基・12門の主砲を搭載する、当時の最重武装艦となった。なお、主砲塔の数だけならば、33センチ連装砲塔7基を配置した英国戦艦「エジンコート」が扶桑型を上回る。出力4万馬力から出る速力も当時の戦艦としては比較的高速の22、5ノットとなり、完成当初は扶桑型と同時期に建造された米国のネヴァダ級戦艦、英国のアイアン・デューク級戦艦、ドイツのケーニヒ級戦艦を上回る世界最大最武装最速の戦艦であった(ウイキぺデイア)。

                                第四章

                          ある水兵の一生(その2)
  
    母と高校生の息子はその夜、宿田曾の旅館に泊まった。一晩中、潮騒が聞こえた。浜辺は玉砂利が多いので、ひときわ波の音が大きかった。焼き魚~目玉焼き~焼き海苔~ミルという海草の入った味噌汁~胡瓜の漬物と白米のご飯が朝飯だった。「蓼(たで)」というちょっぴり辛い野草が出たのを憶えている。7時になっていた。障子を開けた。漁協の玄関は開いていて、わが父晴雄の戦友、山崎さんの声が聞こえた。組合のひとが台の上に載せられたマグロを解体していた。取り巻いている人たちは、みんな鉢巻をしていた。

   事務所に入って、山崎さんに用件を話した。領収書のことである。
   「奥さん、あれはね、山を買うというのは晴雄君でね、それを理由に100万円をこの漁協に貸してくれたんです」と親方は驚くべきことを語った。
   「はあ?伊勢路の山ですか?」母が始めて聞いた話にびっくりした。すると、山崎さんがお茶を持って入って来た事務員の女性に「何々を呼べ」と言った。あの居丈高な男が入って来て、正座すると、アタマを深々と下げた。
   「おい。金庫の中のカネを全部持って来い」
   「マグロの仲買人が今朝入札しますので、それまで待てないでしょうか?」
   「いくら入っとる?」
   「120万円です」
   「全部持って来い」男が部屋を出て行った。そして、お盆に札束を載せて帰って来た。
   「奥さん、お返しします」
   「山はどうなるんですか?」
   「この辺りの山は国有林で、宿田曾には何もないのですよ」
   「はあ?すると、この借用書は?」
   「何の法的な意味もありません。私の署名だけだから」
   「すると、主人は借用書もなしに100万円を用立てた?」
   「そうです戦友ですから」 母は戦友の約束とはそううものなのかと納得したようだったが不思議な顔をしていた。

   山崎さんは、「20万円は扶桑銀行への利息です」と笑っていた。120万円の現金の入った風呂敷を受け取ったのである。ベンリーの後部シートに母を括りつけた。あの男が買い物入れにマグロの塊と氷を入れた。「失礼を許してください」と言った。おおくの人々の見送る中で、始動ペダルを蹴った。宿田曾を後にした。

                        第五章

                   通天閣のある新世界…



初代通天閣は、1903(明治36)年に開催された第五回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門を模した初代通天閣…

   わが父は1912年に海兵団に入った。どのくらい呉海兵団にいたのか?何年、軍艦扶桑の水兵だったのか?写真は残っているが記録がないのである。憶測では、30歳ぐらいまで海軍に居たのではないか?なぜなら、昭和5年(1930年)35歳の父は大阪城の修復工事の人足の監督をやっていたからである。当時、母は道頓堀の料理屋の女給をやっていたと姉らが言っていた。18歳の母は、17も年上のわが父と結ばれたと、後年、母と忌憚なく話せるようになった長姉が顛末をよく聞くと、「その料理屋の小部屋で私を押し倒して、手込めにした」とか…「結ばれた」というが、結婚したのではなかった。既に、父は亀屋の娘を妻にしており、三人の息子がいたのである。だが、この女性は、父の親方の娘ということから、気位が高かった。庄屋の娘は、父を使用人と同じように扱った。それが理由で、大阪へ飛び出して行った。わが父は生涯、大阪の話をした。大阪の自由な雰囲気が好きだったのである。

   父は、扶桑銀行でも商才を見せたが、大阪城修復は父の「ハッタリ」が効いてか、「海軍」という肩書きが効いたのか、次々と工事を請けた。母にいきなり500円をくれた。当時、タバコ1箱が10銭の時代である。今の15万円に当たる。

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敷島の発売は明治37年、煙草専売局初の口付紙巻き煙草だつた。「敷島」の全盛期は大正期だが、漱石が「文鳥」を書いた明治41年の価格は10銭でおおくの人が喫煙していた。大戦中の昭和18年、製造が中止された。

   大阪城の工事が終わった。父と母は姫路城を見物した後、山陽線姫路駅のプラットホームに立っていた。
   「広島に仕事がある。でも、どこへ行っても仕事は探せる」と父が言った。
   「私、東京という所へ行ってみたい」と母が言った。そこへ、東京行きの汽車が入って来た。父がステップに脚をかけた、、こうして、二人は初めて東京を見た。昭和6年(1931)であった。
   
   甘いもの好きの十九歳の娘の夢は、饅頭屋を経営することだった。父は日本橋牡蠣殻町に小さな旅館を買った。母が社長で、饅頭も作って売った。父は商売が嫌いだった。饅頭の売上金が入った笊に手を突っ込んで小銭をポケットに入れた。都電に乗って東京を見物してばかりいた。とくに動物園が好きで上野によく行った。二年が経った…
   「上野に乞食が増えている。相当、景気悪いね」と父が言った。
   「饅頭は売れるけど、旅館は客がないわ」と二十一歳の母が言った。その年、女の子が生まれた。父も母も、この長女を目にいれても痛くないように可愛がった。
   「母ちゃん、旅館を売った。わし、満州へ行く。このカネを持って神戸の父親の所に行け」と突然、父が言った。母は目の前が真っ暗になったが、東京が物騒な町だと思うようになっていた。

   1933年のある朝、わが父は、妻と乳飲み子を残して下りの汽車に乗った。神戸港から大連行きの客船に乗った。トランクひとつで、建国したばかりの満州へ渡ったのである。大連には扶桑時代に来たことがあった。大連の海軍省へ行った。「新京の海軍省へ行け」と武官が言った。父は、「あじあ号」に飛び乗った…



1934年(昭和9年)11月1日から運転を開始した「あじあ号」は最高速度130km/h、大連 - 新京間701キロは所要8時間30分で表定速度は82キロメートル。これは、当時日本の鉄道省で最速の特急列車だった「燕」(表定速度70km/h)を大きく凌ぎ、戦前の日本最速である阪和電気鉄道の超特急(表定速度82km/h)に匹敵する蒸気機関車牽引による高速運転であった。
   
   全指定席であった。通路が広く、扇風機が内臓されていた。その広い通路を押し車を二人の若い女性がひとりは引っ張り~一人が押してやって来た。可愛い顔立ちの女性たちは紺の制服に白いエプロンと白い手袋をしていた。飲茶(やむちゃ)を売っているのである。朝からなにも食べていなかった父が飲茶を指さした。ひとりの娘が「アリガト」と言った。
   「あの娘たちは日本人じゃないね?」と後から来た車掌に言った。
   「満州娘です。満州国国民です」
   「満州には、どんな仕事があるのか?」と切符にパンチホールを開けている車掌に聞いた。
   「満鉄の保険課がセールスマンを募集してますよ」と車掌が話した…

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  新京に着くと、興安大路の関東軍指令部へ出向いた。歩いてもいけたが、ハイヤーを雇った。二条城のようなお城が関東軍司令部だった。東京の国会議事堂よりも威風堂々たる建物であった。38歳になっていたわが父はここで骨を埋めると決心したのである。

  受付で、海軍省の手紙を見せると、二階へ案内された。机の向こうに軍服を着た下士官が座っていた。
   「座れ」と椅子を指さした。そして、手紙をじっと見つめていた…電話を取って誰かと話していた…海軍の制服を来た士官が入って来た。士官はわが父の顔をじっと見ていた。
   「君、尾崎君じゃないか?」と聞いた。その士官は扶桑の1200名の水兵の一人だったのである。
   「保険の勧誘員には勿体ない」と言った…
                              


                        第六章

                    満州娘にひとめ惚れ…



(註)満鉄(南満州鉄道株式会社)が1909年に建てた「大和ホテル」である。現在は「春誼賓館」と名称を変えている。このホテルは日本関東軍初代司令官、本庄繁と溥儀(ふぎ)皇帝が泊まったこともあって、内外に広く知られている。

   わが父が新京に来て初めての夜だった。満鉄が用意したヤマトホテルに泊まった。その威容に「満州は成功すると思った」と戦後、父は語った。
   「何日、宿泊されますか?」すでに関東軍司令部から電話があったのか、若い社長が出迎えた。
   「一ヶ月ぐらい。土地柄がわからんから」軍艦扶桑の釜焚きが上手に出た。
   「お部屋に新京市案内のグラビアと官庁のリストを用意しました」トランクを台車に乗せた従業員は日本人だった。エレベーターがなく、一階のフロアが見えるようになっている回廊状の階段を登った。3階の部屋はベッドが二つ並んでいて、ベランダから長春(新京)の市街を一望できた。北に新京駅と円形の興安大路が見えた。西には、鉛色に鈍った川がくねっていた。グラビアのマップをめくると、伊通川とあった。市街と近郷の写真には説明文が付いていた…

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(註)中国の東北中心部にある吉林省長春市は戦前、1932年3月溥儀の執政から1945年8月終戦までの14年間は旧満州国の都「新京」であった。この都市には現在、1930年代初頭において建てられた多くの行政施設がある。長春市政府は改革•開放が本格化した1980年代から、一部代表的な施設を「重要文物保護対象」と位置づけるとともに、当地の観光資源として活用している。満州国政府施設の多くは約2キロにわたる順天大街を中心とした官庁街に並んでいる。関東軍司令部、憲兵隊司令部ならび皇宮など一部の施設はそこからやや離れた別の場所にある。

   「一階に花園大酒家があります…24時間営業していますのでいつでもご利用ください」三十八歳の前水兵は空腹を覚えた。*ここから、「水兵」とだけにする。
水兵は10人は座れるかというテーブルに案内された。テーブルは純白のクロスが覆っており、ひまわりの大輪がこれも巨大な花瓶に活けられていた。詰襟の支那服を着た女給がやってきた。背は高くも、低くもない可愛い顔立ちの満州娘であった。
   「ニイハオ」と水兵が中国語で話しかけた。わが父は先手を取る名人なのだ。
   「ニイハオマ」案の定、18歳ぐらいの満州娘が小声で言うと微笑んだ。その瞬間、わが父は「ここで死んでもいい」と思ったそうである。だが、水兵は神戸においてきた若妻と一歳になる長女を想った。
   
   ところで、わが父は、生涯、中華料理を好まなかった。理由が判らないが想像が着く。それは、不衛生な食材や厨房だったのだろうと。「支那人は手鼻をかむ」と言っていた。海軍でも中華は出なかったのだと。扶桑が旅順港へ入港したときでも、麦飯~豚カツ~味噌汁~納豆~漬物、、今流行りの海軍カレーはなかったと言っていた。刺身もあまり好きでなかったし、酒もやらなかった。「何が美味いんや、こんなもん」と言う始末なのだ。来客が大酒を飲んで、刺身を箸で食うのを嫌っていた。自分がホストなのに、宴席に背を向けて座布団の上に寝ていた。毛布をかけてあげると、いびきをかいて寝てしまうのであった。大体、食い物に意見を挟まない人であった。父の人間形成は、海軍だったのだ。紅茶とトースト~バター~豚カツ~ナイフとフォーク、、常に白い手袋、、美味いもん食いは、わが母であった。「芝居~金時~茄子~かぼちゃ」などと、常に女の好みを訴えていた。当然、中華もせっせと造った。わが母の作った饅頭のように大きい焼き餃子は、今でも母の上を行く者はいないのである。

                          第七章

                   関東軍司令部に呼び出される…

   あの扶桑の士官と会ってから一週間が経った。水兵はヤマトホテルのハイヤーで、新京市内を隈なく見物していた。動物園に行くと、シベリア虎が睾丸を上に向けて岩の上にゴロゴロと寝ていた。満州料理と中華の食い物の違いにも気が着いた。概して、満蒙の料理は不味いものである。2005年に長春へ行った筆者とその妻もそう思った。満蒙料理というのは、ロシア料理と似ているといえば判るだろうか。フライパンの上に羊か山羊か筋の入った硬い肉塊が青葱と香辛料で転がっているのである。その獣の脂は日本人には耐えられないものだ。

   スープはもっと酷い。筆者とその妻は、何々湯というのを注文した。価格が米ドルで50セントというのが気になっていた。大きなどんぶりに骨つきのスープを十四歳ぐらいの白いブラウスを着た満州娘が持ってきた。うちの青い目のアメリカ女房が韮(にら)の臭いに顔をしかめた。肉はおそろしく硬く、骨が金槌で粉砕されていた。結局、ひと匙も飲まなかった。ヤマトホテルに帰ってからフロントに聞くと、「駱駝のスープ」なのだと。つまり、北京の郊外の山岳には、蒙古産の二瘤駱駝が放牧されていて農耕に使う…その駱駝が歳を取ると、「スープ屋」という商人が買いに来るのだと。
   「げげ~」とうちのカミサンが呻いた。
  
   話しが脱線した。ま、脱線しやすい話しだから勘弁してください。わが父が長春(新京)に着いたのは夏だった。長春の夏は、湿気が強く、背広は合理的ではなかった。その朝、関東軍司令部から電話があった。「昼飯に来い」と命令であった。水兵が服装を聞くと、「背広で良い」とすげなかった。それならと、わが父は、タキシードを用意するようにロビーに言った。鏡の前に立つと、自分でもびっくりするほど貴族に見えた。「よし、これで行こう」と、ハッタリ屋の水兵は笑った…

                           *

   関東軍司令部のお城のひとつは憲兵隊本部であった。いかつい顔の憲兵が門前に到着したハイヤーの中をジロジロと見た。ひとりの憲兵は銃剣を持っていた。「降りて、付いて来い」と言った。関東軍は陸軍の支配下にあったが、海軍を優遇した。気が着かれていると思うが、東京では仲の険悪な陸軍と海軍は満州では一心同体となっていた。日本海海戦の大勝利もあるが、陸兵を大連港に運ぶのは海軍だからであった。さらに、海軍の飯は美味かった。ただ、海軍省は飲酒を禁止していた。それで、酒好きの海軍の将校は陸軍の食堂に出かけたのである。
   「君は酒を飲むか?」
   「飲めない体質です」
   「よし、今日は酒抜きだ」と陸軍士官が言った。そこへ、扶桑時代の海軍士官が入ってきた。そして…
「僕が、今日の会議の責任者だ」と言った。水兵は安堵した。陸軍の将校の横柄な言動が嫌いだったが、そうも言えない雰囲気だからである。
   「尾崎君、日露戦役はよくご存知か?」
   「はい、僕が海兵団に入った年の十一月に乃木さんが割腹されたのです」
   「よし。日本海海戦がこの満州国の建国の出発点なのだ。だから君は歓迎されるんだ。だが、満州国の治安は関東軍が取り仕切ってきた。ここをよく理解せよ。つまり関東軍の命令に従え」水兵は黙って頷いた。そこへ、もうひとりの軍服を着た年配の紳士が入ってきた。その紳士は女性の秘書を連れていた。
   「佐々木さんだ」と扶桑の士官。水兵はこの人が大事になると直感した…その紳士は「佐々木だ」と言ってタキシード姿の、前水兵の顔を凝視していた。
   「佐々木さんは、日本帝国陸軍第四軍…野津道貫大将の兵士だったのです。奉天会戦の…」わが父は―どうしてこんな恐い人と会わせるのだろう?と内心恐れたと後日、母に語った。
   「尾崎君、君は佐々木さんの右腕になる」
   「はあ?」
   「部下ではない。海軍を代表するからだ」
   「仕事は何ですか?」
   「俺が後で説明する」と佐々木さんが言った。

   仕事とは、新京~ハルビン~黒河など黒竜江沿いに飛行場を作ることであった。佐々木建設社長は「尾崎は部下ではない」という関東軍指令部の命令に怒っていた。佐々木社長は奉天会戦の生き残りであり、野津道貫大将や朝鮮で戦った黒木為楨ほど偉い人間は、この世にいない~バルチック艦隊を海に沈めて英雄になっていた東郷平八郎や秋山真之参謀など、お洒落な海軍の兵士を嫌っていた。

   扶桑の士官が、「佐々木社長は、歴戦の古年次兵であるだけでなく大の頑固者…君は参謀の位置に着くが、10歳も若い上に、並大抵の意見具申では聞き入れられまい」と軍艦扶桑の前水兵に警告したのである。だが、わが父は逆に「生き甲斐というか、死に甲斐がある」と思ったのである。この水兵の五男である筆者は、この時代の日本人の「死生観」に驚くばかりである。つまり、凄まじい人々であったと思う。

                         第八章

                    インデアンという自動二輪車…

   「これを貴様にやろう」と佐々木社長が言った。その自動二輪がアメリカ製であると水兵は知っていた。佐々木社長の贈り物に心臓が破裂するかと思ったと後日、母に語った。
   「どうして手に入れられたのですか?」
   「馬占山から土産に貰った」
   「馬占山?あの馬賊の?」それには返事をせず、始動の仕方を教えた。まず、蓋の付いた小さな穴にインチラッパでガソリンを数滴落とす…チョークを閉めて、ペダルを蹴る、、もの凄い爆発音がして黒い煙が消音機から噴出した…
   「一回倒すと、一人では起こせないぞ」それから、「インデアンは補助タンクを着けると、ソ満国境まで給油の必要はない」と言った。
   「ソ満国境?」
   「そうだよ」
   「ぼくに、ソ満国境に行けと?」
   「そうだよ」
   「ぼく一人でですか?」
   「いや、20人ぐらいでだ」
   「土木技術者たちですね?」
   「その通り」
   「社長、お聞きしたいのですが、何故、ぼくを選んだのですか?」
   「ハッタリ屋が必要だからだ」
   「ハッタリ屋?」
   「そうだよ。満州人も、馬賊も、満州浪人も、ヤクザな土木屋らも、スカンピンの軍人などに目もくれないからだ。奴らの目的は、一攫千金を掴むことだからな。かく言う俺もそうだ」 わが父が真っ直ぐな野心に目が覚めた瞬間であった。
   「この満州では、みんなジャングイ(大将)なんだ。まったく地位のない人間が将軍だったと自称している。学歴詐称~軍歴詐称~出自詐称が許される世界だ。これを満州相場という。貴様もそうしろ!」
   「はあ?」だが、水兵には願ってもない幸運の土地に思えたのである。佐々木社長もジャングイだった。この歴戦の勇者は他人の意見など聞く耳を持っていなかった。だが、難問を次々に解決する尾崎に一目を置くようになった。難問の中でも、最も困難だったのが、満人のクーリーを集めることだった。クーリー(苦力)は、「バット」という毛布一枚を持って集まって来るのだが、着ているものは綿入れだけなのだ。ひとつの飛行場を造るには5千人の人夫が要った。ところが、ソ満国境の黒河などは、冬季には、冷下50度になるという地球上で最も寒い場所なのだ。クーリーは凍死した。春の雪解けになると、カチカチに凍った満人の死体をトラックに積んでどこかへ運んで行った。「たぶん、黒竜江に投げ込んだんだろう」とわが父は言っていた。

   「この冬は石炭が200トンは要るぞ」と佐々木大将が言った。貨物列車は軍専用なので、石炭は黒竜江か運河を運搬船で持ってくるしかなかった。わが父は、「これでは、またクーリーが多く死ぬ」と黒河の飛行場建設現場から逃げ出したくなった。そのとき、満人の工事監督が「ジャングイ、シンパイ、イラナイヨ」と手を振って言ったのだと。
   「じゃあ、どこから持ってくるんだ?」
   「ココヨ」とその満人は地面を指さした。「ジャングイが立っているここです」と…さらに、「石炭を掘るんだ」と言えば、人夫は、イクラデモアツマルアルヨ」と…人夫には掘った石炭の半分をやればいいだけで、賃金を払う必要はナイヨ…

   わが父は、関東軍から石炭調達のために50万円を貰っていた。50万円は大金であった。前にも書いたが、タバコ一箱が、10銭の時代だったからである。即座に「俺は千金を掴んだ」と知ったのだと…――これで、妻と娘を呼ぶことが出来る…
   四十歳の前水兵は慈光路に三階建ての館を建てた。満州娘の女中~地下室のボイラーマンを雇って住まわせた。子供連れのボイラーマンを「ロートル」と呼んでいた。

   筆者とその妻は、2005年に長春へ行って、生まれ育った館を見に行った。慈光路はゴミの山の町になっていたが、父の建てた館は健全だった。5家族の中国人が住んでいた。「ここで生まれた」というと、「飯を食っていけ」と招いてくれた。満州人は親日なのだ。そこへ、誰かが電話したのか、赤い腕章を巻いた共産党員の一団が現れた。だが、わが青い目のアメリカ女房を見て立ち去った。2005年の夏には、反日デモが長春でも起きた。だが、その群集の中を歩いても、「日本人だ」と言っても問題は起きなかった。そればかりか、子供たちにボールペンを配ると、親や先生がお礼を言ったのである。旧満州国の子供たちは「英語を習って、アメリカに住みたいの」と言った…

                        第九章

                  満州が大東亜戦争の導火線となった…

   「満州が大東亜戦争の導火線となった」と書いた。これに異論のある人は少ないと思う。「ペリーの黒船から始まった」という評論家もいるが、到底、賛成できない。当時のアメリカには「西進」というモーメントがあったからである。支那大陸に興味を持ったのは米西戦争の後である。筆者はテオドール・ルーズベルトの「白色艦隊」の世界一周を指摘したい。自分勝手なアメリカ論を得々と述べる評論家とは限りない論争だけが待っている。筆者は座談会にも出ないことにしている。伊勢平次郎は作家なのだから、それも、「実話」を書いているつもりなのだ。この満州講談でも、全て、父母~満州から出征した三人の兄ら~亡くなった姉~横浜の姉~田舎の義姉さんらから実際に聞いた話しである。従って、筆者にとって、トルーストーリーなのである。

   先の章で馬賊のことに触れた。「北は馬~南は舟」というように中国大陸の文化は北と南では天と地の違いがある。北京の郊外から満蒙まで、広大な大地に猛古馬が放牧されていた。北京の郊外、山海関から満州と呼ばれたテリトリーにかけて万里の長城がある。この意味するところは、満蒙は、「夷狄(いてき)」の棲む城外の荒野ということであった。城内とは、ジンギス汗のモンゴル族や女真族(ジョルチン)の支配した元や清の時代を除いた漢族が住んだ地域である。「夷狄」について、KOTOBANKは以下のように解説している。

   中国の周辺地域に存在する異民族。一般に、東夷~北狄~南蛮~西戎とよばれる。周礼(しゆらい)職方氏では四夷~八蛮~七閩(びん)~九貉(はく)~五戎~六狄、、礼記(らいき)明堂位篇や白虎通礼楽篇では九夷~八蛮~六戎~五狄など,そのかぞえかたはさまざまである。ところで「夷狄」は民族的、地理的概念であるとともに、よりすぐれている「華夏」つまり中国との対極をなす政治的、文化的概念であった。いわゆる中華思想の所産であって,夷狄は華夏の「礼楽」すなわち文化と道義性の欠如体にほかならず、人間と禽獣の中間の存在とさえみなされた。(KOTOBANK)

   夷狄とは野蛮人。つまり差別言葉なのである。日本人は「東夷の蛮族」と蔑まされていた。今でも、中韓にはこういった中華思想が強く残っているのである。従って、日中~日韓の闘いというのは、レイシズムとの闘いなのである。これは解決しない公算のほうが高い。

   1930年代のモノクロ写真集を見ると、関東軍司令部の広場でも、自動車は見られない。ここで、馬賊というのは、「満州馬賊」のことである。その馬賊の代表格が馬占山なのだ。



   ここで、簡略だが、馬占山を書くことにする。馬占山は、中華民国(満州国)の軍人。関東軍から見れば、「反逆者」である。貧しい農民の息子として吉林省公主嶺市に生まれた。その後馬賊に身を投じるが、馬賊の大物、張作霖の側近だった呉俊陞に見出され1911年に連隊長、1925年には旅団長となった。

嫩江鉄橋での戦い(1931年)



(註)嫩江(のんこう)は、ユーラシア大陸・中国東北部を流れる河で、アムール川(黒竜江)水系に属する松花江最長の支流である。水量はアムールのように多くはない。黒竜江は満州語で、「ヘイランジャン」である。

   筆者夫婦も、ハルビンの松花江の川べりのホテルに泊まった。船頭つきの川舟を借りた、、流れは遅く~濁っており、船底が時々砂洲に当たって、ゴースターンをかけるのだ。船頭にの横に若い娘が座って肉饅頭を食っていた、、伊勢爺が黄色いパンツを履いた姑娘に千円をやると、にっこり笑った。そして、「ニッポンエン、ハオハオ、アナタ、オカネモチ」と言った。
   「女房か?」と船頭に聞いた。
   「いや、彼女だ」と小指を立てて見せた。
   「マイバン、ヤッチョルカ?」と聞くと、大笑いになった。中国人は明るい人には明るく、硬い人には同じように硬く対応する。つまり軽い性格なのである。

   嫩江(のんこう)は、大興安嶺山脈の北部にある伊勒呼里山系に発している。大興安嶺と小興安嶺の間を流れて~黒竜江省と内モンゴル自治区の境界をなす。中流域以降は黒竜江省の西部を流れ~チチハルなどの都市を経由し~吉林省白城市で松花江に合流する。下流域の松嫩平原は黒土地帯で、中国の重要な穀倉地帯・牧草地帯なのである。この土地は肥沃である。北京政府は「常時、2年分の食料がある」と言っている。

   1931年(昭和6年)9月、満州事変が勃発すると馬占山は張学良(張学良は、日本の工作員に爆殺された張作霖の長男で、ハワイに亡命して、そこで豪奢な生活をして死んだ。米国政府は優遇した)によって黒竜江省政府主席代理に任命された。10月中旬、嫩江(のんこう)にかかる鉄橋を破壊し、関東軍および関東軍に協力した寝返り軍閥の張海鵬の侵攻をチチハルで食い止めようとした。

   関東軍と馬占山軍は十一月上旬、嫩江鉄橋よりも北側に位置する大興駅付近で衝突した。極寒の中旬には関東軍が馬占山軍に対し、チチハル以北へ撤退するよう求めたが馬はこれを拒絶したので、再び小競り合いが続いた。第2次若槻内閣は、「関東軍のチチハル侵攻は国際世論の硬化をまねく」として内閣総辞職を示唆した。結局、関東軍はチチハルに侵攻して、激しい戦闘ののち馬占山はチチハルを放棄した。関東軍も小部隊をチチハルにとどめて撤退することになった。そののち、下旬にはハルビン在住の張景惠が関東軍の後押しのもとに、黒竜江省の地に新政権を樹立した。だが、2万の大軍を擁し、声望高かった馬占山は最後まで抵抗し続けた。

戦場の馬占山(1931年)

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   1931年12月7日、満州事変の真っ最中、関東軍参謀の板垣征四郎は馬占山の本拠地に乗り込み、新しい満州国家の黒竜江省省長の地位を約束して説得工作をおこなった。馬は謝介石の説得に応じるかたちで独立政権樹立の動きに参加した。1932年(昭和七年)2月5日、ハルビンが陥落。これによって、満州国家樹立の動きが加速し、2月7日、ようやく馬が関東軍に帰順したのである。2月16日、馬が日本軍機でハルビンより奉天入りするのを待ち、同日の夕刻、大和(ヤマト)ホテルにおいてひらかれた張景惠(黒竜江省長)~臧式毅(奉天省長)~煕洽(吉林省長)~馬(直後に黒竜江省長に就任)の四巨頭会談(建国会議)に参加した。翌17日、張景惠を委員長とし、馬も委員である東北行政委員会が発足し、18日、同委員会は電文を発し、東北地方の国民政府からの離脱を宣言した。1932年3月1日、東北行政委員会は張景惠の屋敷で「満州国」建国宣言をおこない、満州国が誕生した。馬は、黒竜江省長とともに同年3月9日には満州国軍政部長を兼ねた。

   しかし、馬占山は、その1ヶ月もたたない同年4月1日に黒河を密かに脱出し、ラジオを通じて東北全土に徹底抗戦を呼びかけて東北救国抗日聯軍を組織した。こうしてゲリラ戦を展開したものの軍事的な劣勢を跳ね返すことはできず、1933年(昭和8年)にはソ連へと脱出した。その後、ヨーロッパ経由で再び中国に入国し、蒋介石に徹底的な抗戦を要求したが拒絶され、軍事委員会委員に棚上げされて、結局、天津の租界に寓居することになった。

   1936年(昭和11年)に張学良・楊虎城によって西安事変が起きると張らを支持、1937年の盧溝橋事件ののちは東北挺進軍総司令に任命され、山西省において八路軍(共産匪)と協力しながら抗日闘争を続行した。馬占山は、馬賊時代の経験を生かした巧みなゲリラ戦術をもって知られ、日本軍将兵から「東洋のナポレオン」の異名をとった。その後、病に倒れて北平に住み、中国人民解放軍が北平に侵攻する際には傅作義によって鄧宝珊とともに解放軍との交渉にあたった。中華人民共和国成立後の1950年、政治協商会議の委員となるも出席できず北京で死去した。65歳。

  
                        第十章

                      果てしなき大地…

manchuria map

   満州は日本の三倍の大地である。大体、軍閥か馬賊か匪賊しかいない荒野であった。つまり、宗主のいない広っぱだったのである。ツングース系だの女真族(ジョルチン)だの、その先祖が金帝国を建てただの、その末裔が清朝の150年とか、、筆者夫婦もハルビンでタクシーを一日雇って、金帝国跡を見に行ったが、田舎道の両側は狗肉と看板のある凄まじい環境だった。

   万里の長城は、北京北東の山海関から満州国境まであった。つまり、漢族は「何もかも俺のもの」としているが、厳密には満州は漢族の住家ではなかった。1932年3月、満州国が建国されたが、「日本のもの」とする根拠がなかった。なので、間接統治を行った。この間接統治は大英帝国のマウント・バッテン総督が「インド領ラジ」やら「ビルマ領」を統治したのとまったく同じなのだ。すると、いずれは、満州も日本から独立して独立国となったのだろう。だが、1932年当時の世界情勢ではそこまで考えた人間はいなかった。筆者の理解するところでは、アメリカとイギリスは満州国を建国して、どんどん鉄道網を敷いていく、、それも、もの凄い速度で拡げて行った日本帝国を恐れたのだと信じている。日本の資本は日本国内よりも巨大な投資を満州に注ぎ込んでいたからである。

                           *

   1934年の初夏にわが母と1歳になる長女がついに長春へ到着した。父が大連まで迎えに行ったのだ。母は、慈光路の邸宅にびっくりした。

   「まあ、半年で建てたのですか?」わが父の答えは、満州には人夫がいくらでもいると、、母が、早速、神戸の父親を呼んでもよいかと聞いた。父は、「長男の省吾(12)も、三男のみつお(7)も呼んである。みんなで、ここで住もう」と言った。そこへ、大東亜舗装の佐々木社長から電話がかかった。前水兵、今大将は、インデアンに跨った…
   「おい、貴様のハッタリはよく効くようだのう」
   「ジャングイ、おいと貴様は、そろそろやめてくださいよ」
   「ン?じゃあ、どう言えば良いと思うか?」
   「それじゃ折角のお言葉ですから、親方ではどうでしょうか?」
   「おお、それで行こう」と佐々木大将が言った。そして、関東軍の襟章をくれたのである。―吉林省の外では着けるなと注意をした。市民の格好をした匪賊に殺されるのだと、、大体、支那包丁でアタマを割られるのだと…
「護身用の拳銃をくれませんか?」すると、佐々木さんは、―ああ、そうだったという顔になった。机の引き出しから、南部拳銃を取り出した。
   「来週、ハルビンの関東軍司令部へ行ってくれ」
   「物騒ですか?」
   「当たり前のことを聞くなよ」 と社長が笑った。ハルビン郊外に移住した朝鮮人開拓団が子供も女も皆殺しになったと、、やがて、日本人も殺されると…
   「匪賊は武装しているんですか?」
   「ソ連製、アメリカ製の小銃を持っている。この5月、、関東軍が張学良軍の銃器弾薬庫を襲ったが、入ったときには空だった…これは、関東軍の中にスパイがおるということだ…たぶん、朝鮮人だろう…朝鮮人はうわべは忠実に振舞うが、必ず裏切ると思え」
   「う~む」と空港建設の親方は腕を組んだ。
   「インデアンを持って行きたいんですがね」と言うと、佐々木社長は―関東軍の襟章がものを言う。貨車に乗せて行けと答えた。―南部拳銃とインデアンか、、おれも格好いいなあなどと、たわいもないことを思って笑った。

   出発の朝、二十人の技士が長春駅に集まった。親方は、ドイツ製のニッカボッカのズボンが似合っていた。ナチスのSSのような格好だったが、、憲兵が「日産のトラックを一台関東軍が出してくれる」と言った。軍用列車は、大砲~戦車~戦闘機~爆撃機~勿論、爆弾も乗せていた。各地で降ろしたり、積んだり、、技師一行がハルビン駅に着いたのは、日暮れだった。

                   ハルビンは日本軍の命綱

   ハルビンは関東軍にとって満州最大の戦略要点であり、最大の兵姑基地であった。ハルビンには1940年以降、関東軍第28師団がおかれた。また、第12飛行団飛行第一戦隊(孫家)、同第一戦隊(ハルピン)、第12航空地区司令部(ハルビン)、第12飛行場大隊(孫家)、第23飛行場大隊(ハルビン)、第12野戦航空廠(平房)などの飛行隊もおかれていた。平房の航空廠から日本軍の飛行機が満州各地へ、グワーン、グワーンと飛びたっていった。

usuri river

   ウスリー(鳥蘇川)の右の対岸はロシアである。河と丘がある。結構、緑が濃い。

   ハルビンとその周辺にはたくさんの飛行場が造られた。その理由は、ハルビン市の東240キロメートルには牡丹江と言う大集落があり、そこから、ソ連国境まで80キロメートルだからである。この著で「ソ満国境」というのは、この黒竜江省と河を挟んで隣接しているソ連のことなのである。もっと正確に書くと、ハバロフスクへ流れるウスリー河やその支流のイマン河の対岸がソ連であった。この辺りの鉄道地図を見てください。牡丹江から北東へ延びている虎林(ふりん)線がある。東安から終点の虎頭まで240キロメートルほどである。この虎頭にある「虎頭要塞(ことうようさい)」が、ソ連軍の砲撃と戦車群によって満拓団と言われた開拓団を入れた、2400名が玉砕した。要塞には東洋で最大の大砲が据えられていた。戦争記念館があるが、行っても、面白いところではないといって置くね。そういう場所を見て廻っても、進歩しないからね。

41センチ 榴弾砲 最大射程20km 

41センチ 榴弾砲 最大射程20km。だが、コレヒドール要塞の大砲もデッカかった。

   この虎頭の対岸のソ連の鉄道の駅はイマン駅で、これがウスリー鉄道である。始発駅は、日本海側のウラジオストック、北上するとハバロフスク。そこから西北へ蒙古の東側まで走っている。お分かりのように、満州も、ソ連も、その鉄道は河に沿って敷かれている。理由は単純だ。石炭が主なる積荷だったが、その運搬船との組み合わせなのだ。これは、ミシシッピー河でも同じである。虎林(ふりん)などの地名だが、中国名も、ロシア名もわかり難い。「日本語で発音を書くのもなあ」と思って省いた。従って、適当に読んでください(謝々)。



   段々とソ連軍の脅威が広がった1942年当時、ハルピン~綏化~延寿~珠河~孫家~平房~王崗~双城~拉林~一面坡~葦河~陶頼昭~背陰河~安達などに飛行場が建設されていた。ハルビンの平房には気球兵器研究部隊までもあった。それほど、日本軍は、スターリンのソ連軍の満州侵攻を警戒していたとなる。実際にそうなったのだが…

                       第十一章

                      夕日と拳銃

   松花江や嫩(のん)江は、南が上流のウスリー(鳥蘇川)と合流して樺太のある北方に向かって流れこむ。 ウスリーは満州とソ連の沿海州を分ける東側の国境となっていた。今もである。関東軍は西部~北部~東部にきたるソ連軍の侵攻に備えていた。日本軍VSソ連・蒙古軍のノモンハン事件は、戦車隊による戦闘であった。関東軍は、満蒙の西部から来る可能性は低く手薄でも充分と考えていた。現在、振り返ると、この判断は間違いであった。ソ連軍の満州侵攻は155万人の大軍だった。一方の日本軍は、60万人足らず…
   北部戦線を考えると、黒河と対岸のブルゴベジェンスクの間の黒竜江は水深が深く、流れが速いので、戦車を積んだ船の渡河は無理であった。嫩(のん)江に沿って下りてくるのも、ハルビンまで350キロはある。関東軍の新司令官となった板垣征四郎はこのあたりで馬占山と交渉したことがあったので、「ソ連軍は馬賊じゃない…これはない」と思っていた。すると、残るのは、東部戦線だけとなる。ソ連軍戦車大隊はこの黒竜省のハルビンから真っ直ぐ東の鳥西(チーシー)か、または牡丹江から興凱湖(はんかこ)の上部に当たる北東に上る虎林(フリン)線の終点である虎頭(ことう)の対岸を渡河するかと考えられた。鳥西には多くの満拓団が入植していた。そこで、このウスリーの満州サイドに多くの飛行場や要塞が必要となった。

                             *

   前・軍艦扶桑の水兵と技士の一行は松花江の見える日本人の経営する軍用ホテルに泊まった。早速、食堂で酒と肴で宴会となった。焼き魚のにおいが充満していた。
   「松花江の川魚は危険だ…だから、三陸の秋刀魚を焼いた」とホテルの社長が挨拶で言った。海軍の輸送船隊が日本の米~日本の漬物~日本の魚~北海道のバター~豚、牛まで日本本土から大連に陸揚げしていた。どれも塩漬けなので、しょっぱかったと父は言っていた。

   朝になった。ニッカボッカの親方と技士たちは関東軍司令部の一室に集まった。一通りの挨拶が終わると、陸軍飛行部隊の士官が日支鉄道(東満鉄道という半官半民の鉄道会社)の進捗状況や牡丹江あたりの治安状態を解説した。壁に大きな手書きの地図が貼ってあった。牡丹江の東に大きな湖があった。興凱湖(はんかこ)という。
   「今回の視察はここまで行かない」と武官が言った。
   「この湖はそうとう重要なんですか?」と技士のひとりが聞いた。

hanka lake frozen

   興凱湖(はんかこ)は中国東北部の黒竜江省とロシア連邦の沿海地方との間の国境地帯にある広大な水面である。中国側は黒龍江省鶏西(チーシー)市に属し、市街からは120キロ離れている。湖の面積は4190 km²で、湖の北寄りに直線状の国境線が引かれ、南側3030 km²はロシアに属し、北側1160km²は中国に属している。

   21世紀の現在、興凱湖周辺は、貴重な生態系が残る世界的にも重要な湿地帯である。中国側には興凱湖国家級自然保護区があり、ロシア側にはハンカ湖自然保護区がある。1996年に両国の首脳が湖の自然保護について共同保護協定を締結した。また、両国の自然保護区はともに、ラムサール条約登録地になっている。日本や太平洋一帯にも飛来する渡り鳥が多く住み、タンチョウとマナヅルの重要な繁殖地である。ほかにも多くの絶滅危惧種の野鳥・両生類・爬虫類・昆虫などが生息するほか、第三紀の植物群やチョウザメなど多くの淡水魚類、アムールトラなどもわずかながら生息している。かつてはトキもいたが、中露両国の農地開発などにより、第二次世界大戦後しばらくいたのを最後に確認されていない。この湖は科学調査(渡り鳥などの調査)のほかに、自然保護、エコツーリズムなどでも注目すべき場所である。しかしながら、中国側湖岸地帯の保護区の大半は国有農場地区に属しており、集団農場による農業、漁業、畜産などで天然資源が酷使されている。両国、特に中国側の密漁、排水による汚染なども問題となっている。

   「いずれソ連軍と対峙する日がやってくる…二つのルートが考えられる…興凱湖の南は湿原地帯である…」と士官が続けた。
   「すると、冬季なら凍結した湖を戦車が渡れる?」技士長が聞いた。
   「その通りだが、夏に攻めてくるだろう」とほとんどの技士が異口同音に言った。
   「すると、虎林線の虎頭にやってくる」と司令官が口を開いた。
   「もうその兆候が見えている」と士官。
   「兆候?」
   「ハバロフスクで、戦車大隊が訓練している」
   「ウスリーはどうやって渡るのか?」
   「工兵が橋を造るだろう」
   「日本軍はどう対処するのか?」
   「虎頭要塞を造る。巨砲を据えて渡河するソ連軍や列車を砲撃する」
   「う~む、向こうも爆撃機で押し寄せるだろう」

   討論は白熱を帯びていた。ニッカボッカの親方は「どの意見も現実味がある」と腕を組んで考えていた。武官が飛行部隊の構想を述べた。武官の横に飛行士が立っていたので、技士たちは飛行場建設の重要さに気が着いた。まず、日本の戦車はソ連の戦車に劣る。戦車一台の製造費は爆撃機よりも高い。その理由は、日本は島で、船で戦車を運ぶために軽量になると。ヨーロッパやロシアは大陸なので、戦車が大型なのだと。だから、日本軍には飛行機が向いている。飛行機には滑走路が必要…

   「100キロの間隔で、ウスリーとハルビンの間に飛行場と森林の中にも滑走路を置く必要がある」と飛行士が言った。
   「どのくらいの年月で造るお考えなのか?」と親方。
   「道路~複線の鉄道~地下倉庫~兵舎~武器弾薬庫~病院~虎頭要塞…期限は1940年の夏。今から3年以内だ」
   「どうして3年以内なのか?」
   「今のところ、英国の輸送船がUボートに沈められているだけだが、いずれ英米のドイツ空爆が始まる。ドイツが負けたときに、ソ連軍の戦車部隊が満州に入ってくる」

   さすがのニッカボッカのわが父も「ぞ~」とした。ハルビン飛行部隊の武官の言った「1940年の夏までだ」というきつい表情が気になった。新京の関東軍司令部の中では、「ドイツは勝つ」と笑い声に充ちていたのだ。わが父が始めて、「日本は負けるのかも知れない」と思った瞬間である。これが現実となったから、人間の直感の鋭さは軽視できないものとなる。筆者は、「日米VS中国の軍事衝突はある」と直感している。たぶん、南シナ海で…だから、この本を書いている。                           
                           *

   ハルビンから牡丹江の駅まで、250キロの距離だった。東支鉄道は狭軌道の軽便鉄道だったが、快適であった。初夏なので、窓が開きっぱなしであった。ワタの木が多いのか、白い綿が車内に入って来た。技士たちは遠足気分だったが、図面を見ている者もいた。車掌がヤカンを持って晩茶を配った。そして、牡丹江まで6時間だと言った。親方は、「3年だと冬も工事を強行するとなる」とつぶやいた。横の技師長が頷いた。
   「アスファルトは無限にあります」
   「チチハル、黒河、佳木斯(チャムス)、吉林に飛行場を建設しているから、暖房のある兵舎を造るとなれば、工事士が足らん。それに重機を日本から取り寄せる。間に合うのか心配だ」ニッカボッカの親方は、日本の力の限界が分っていた。
   「建設工事も戦争ですから、勝つか負けるか敵も同じなんです」と技師長。
   「興安嶺の鉄鋼は製鉄するまで時間が掛かる。日本海軍は日本の鉄を戦艦建造にみな使う。アメリカの屑鉄が必要だが、ここんとこ日米関係は険悪になっている…」とニッカボッカ。この二人は間もなく北京郊外の盧溝橋で発砲事件が起きると知りようもなかった。

   牡丹江の駅前は西瓜の山だった。満州は、西瓜や瓜の種類が多い。二歳ぐらいの満人の男の子が西瓜の山の上に座って、親が与えた西瓜に顔を埋めていた。技士のひとりが蛇腹の写真機でガシャと撮った。ほとんどの技士が写真機を持っていた。ニッカボッカの水兵は、「一周してくる」とインデアンに跨った。親方は腰に南部拳銃を着けた。技師長が連れて行ってくれとインデアンのサイドカーを指さしていた。二人は爆発音を残して走り去った。技師長がサイドカーの中で地図を見ては、右左と指さした。二人は、小高い丘に向かっていた。

   頂上の展望台から、市街や道路、畑を観察しては、写真を撮った。飛行部隊の士官がくれた飛行場予定地へ行った。低山に囲まれていた。
   「トンネルを掘って格納庫にする」と武官が言っていたので、どういう工事になるのか議論をした。
   「そうとうダイナマイトが要ります」と水野という技師長。
   「俺も同じことを考えていた。人夫の計算は君がやってくれ…重機の搬送も大仕事だ」
   「カネは無尽にあると関東軍の金庫番が言ってました」
   「そりゃそうだよ。戦争だから。負けたら、今まで投資したカネどころか満州国を失くす」と親方が言ったとき、真っ赤な夕日が西へ沈むのが見えた。

   20名の技士団は一ヶ月ホテルに滞在して、飛行場とインフラを設計した。それを「そろばん」という予算課が計算した。日に日に、その建設予算は膨大になって行った。飛行機が大型化する…滑走路も、格納庫も大きく設計した。ニッカボッカの親方は、人夫を黒河から貨物列車で移動させることにした。賃金は満州札と阿片のペアであった。にわか親方となった扶桑の水兵は、阿片の製造を経営していた甘粕大尉を嫌っていた。元憲兵隊長だった甘粕は社会主義者の夫婦と幼い息子を殺して井戸に投げ込んだことで、満州に追放されていた。だが、関東軍の板垣征四郎参謀は陰で甘粕に阿片を作らせたのである。理由は、寝返り匪賊も、日本側に着く軍閥も、バットのクーリーも、満州札よりも阿片を要求したのである。煙管で吸って、ゴロゴロするというのではなく、阿片の相場は物価に変動して現金よりも安定があった。つまり阿片は通貨だった。筆者はこういった中国の国民性は民度が低いと思っている。現代でも…

                            *

   親方一行が新京に帰ってきた。佐々木社長に報告すると…
   「親方、ご苦労だった。君の留守中に大変なことが起きた」と盧溝橋事件を話した。わが父は何のことかよく理解出来なかった。日本陸軍が何を考えているのか判らなかったと戦後も言っていた。
   「板垣征四郎関東軍参謀が中支へ進軍される。そこで、君と記念写真を撮りたいと言ってきた」
   「はあ?」
   「参謀は東部戦線の防備を確認しておきたいのだろう」
   「防壁の鍵は虎頭要塞ですよ」
   「それも君から聞きたいのだろう」

   記念写真を撮る日の朝、親方はタキシードを着込んで新京写真館へ出向いた。わが父はこの頃、運転手付きのセダンを持っていた。約束の10分前に写真館に着いた。だが、板垣参謀は来ていなかった。約束時間を10分過ぎた。わが父は自宅へ帰った。海軍で「5分前精神」を叩き込まれていたからである。どてらに着替えて、ビールを飲んだ。すると、玄関に自動二輪の爆音が聞こえた。
   「尾崎晴雄はここにおるか?」と玄関を開けた母に言った。軍刀を下げた二人の憲兵を見たわが母は青くなった。まだ、23歳だから無理もなかった。
   「おとうさん、憲兵が来てます」とわが母が父に言った。
   「もう着物に着替えた。昼寝の時間だと言ってくれ」母が、―尾崎は写真館に約束の時間に行った。10分過ぎたところで主人は家に戻った」というと、「わかった」と憲兵は、ドカドカと爆音を立てて走り去った。一時間後、憲兵隊から電話が入った。「明日の正午に写真館へ来るように」とだった。
   翌日、わが父はタキシードを着て12時10分前に行った。すると、板垣参謀は既に来ていた。それも30分も前に来たと言った。大笑いになったのだと。ところで、この板垣参謀との写真がない。東京裁判で死刑が決まり、処刑された頃、写真を焼いたのではないかと推測している。板垣さんらしい人が移った宴会の写真は残っているが確証はない。

                        第十二章

                     飛行場は完成したが…

   1940年の初夏、ハルビンから牡丹江まで飛行場が1ダースは完成した。山にトンネルを掘って格納庫も出来た。燃料タンクも地下に造った。牡丹江の貨物引き込み線から飛行場まで、トロッコの線路を敷いた。関東軍の工兵たちは虎頭要塞を完成させた。
   「これで用意万端だ」と祝杯を挙げた。だが、ご周知のように、1945年の8月9日の未明に砲撃を開始したソ連軍の戦車と50万人のロシア兵は虎頭要塞も、飛行場も、トロッコも粉砕したのである。虎頭要塞は9月27日に2400名が玉砕したというから、終戦を知らされていなかったという記事がある。事実はそうではない。吉林や新京の日本人を逃がすために降伏を拒否したのだ。その1945年の正月、既に、満朝組は南方に移動して、フィリッピンのルソン島などで死体の山となっていたのである。フィリッピン最終戦争は下巻で書くことになっている。靖国の英霊の中でも最も心を痛めるのが、ルソン島で、「草生す屍(かばね)」となられた若い日本の兵隊たちである。自衛官も、安倍晋三総理もこの日本の若者たちの犠牲を忘れてはならない。時代が代わっても戦争は同じだ。政治家に全ての責任があるのだ。中国が全面戦争を望むなら、習近平レジームを壊滅させるだけだ。中国の国民にも甚大な犠牲者が出るだろう。南シナ海の暴挙を見ていると、本気でやる気かな?と不思議でならない。中国の指導者は必ず破滅する。歴史がそう語っている。

                            *

   1941年、28歳のわが母は筆者を身篭っていた。それまでに、次女~長男を産んでいた。その正月、朝鮮人のネエヤが羅津(現在の北朝鮮の最北部。この辺境はその当時でも極貧に喘いでいた)の故郷に帰りたいと言った。わが母は長男や長女の着物や履物が失くなっていることに気が着いていた。ネエヤがお土産を買いに行っているとき、ネエヤの部屋の押入れを開けた。押入れの仲に大きな唐草模様の風呂敷があった。ほどくと、出て来るわ、出て来るわ…着物、靴、草履、鍋、釜、鋏、毛糸、帯留め、眼鏡、シャモジ、サジまで入っていたと。帰ってきたネエヤを叱ると、泣き出したので、ゆるしてやることにした。そのネエヤは羅津から戻らなかった。

   わが父が春になったら、また牡丹江へ行くと言った。追加工事や拡張工事の検査だと。満人たちも、前水兵の親方に慣れて経験も積んだ。人夫は優秀な者を残して解雇すると…ウスリーの対岸の沿海州に異変は報告されていなかった。関東軍指令部の話しでは、ドイツが1939年にポーランドに侵攻してから、英米仏が対独宣戦布告を出したのだと。それなら、スターリンはレニングラードの防備で忙しく、満州侵攻の余裕はないのだと…ドイツは英米をヨーロッパから追い出して、フランスを制圧した…日本は日独伊三国同盟に署名した…だが、世界を巻き込む大戦に向かっているのだと…ここまで聞いたわが父は、「満州に火が着くのも遠くない」と思った。

                              *

   その1941年の12月8日、日本連合艦隊がハワイを奇襲した。わが父母は電柱に貼られた号外を見た。「おとうさんが最も暗い顔をした日」と母が言っていた。その後も、号外は日本軍の連戦連勝を伝えていた。本間忠晴中将によるフィリッピン陥落~マッカーサーが、コレヒドールを逃げ出す(今でも、敵前逃亡と米軍事雑誌が書いている)~山下奉文大将によるシンガポール陥落…だが、いつまで、新京で生活していられるのか?長男の省吾は東京の明治大学の学生になっていた~次男は亀屋の養子となった~三男のみつおは新京商業高校へ入っていた…わが母の長女は7歳~次女は4歳~長男は2歳~筆者は生後6ヶ月であった…

                        その三男が…

   1942年6月、わが父は海軍省の士官から、連合艦隊がミッドウエーでほぼ全滅したと聞いていた。その後、日本本土が始めて空襲を受けた…1943年になると、4月、 山本五十六連合艦隊司令長官がブーゲンビル島上空で戦死(海軍甲事件)~5月、 米軍、アッツ島に上陸。日本軍が全滅し「玉砕」の語の使用始まる~9月 イタリアが連合国に降伏~10月、 東京の明治神宮外苑にて出陣学徒壮行式開催(学徒出陣のはじまり)~11月1日 ブーゲンビル島沖海戦~11月21日、 米軍、マキン・タラワ上陸(11月23日 、日本軍玉砕)~12月5日 マーシャル諸島沖航空戦…マリアナ海戦からニミッツ提督の南太平洋北上作戦は米海軍の優れた装備と艦上戦闘機によって、12月には、1942年1月以来日本軍が占領していたラバウルも陥落した… 

   勿論、わが父でもこれらの戦況が日本に不利になっていたことを逐一知っていたのではなかった。だが、満州建国当時には2千人もいた海軍省の武官が少なくなったことから想像が出来た。そこへ、佐々木社長の長男、次男も、大連から南方へ行くと言って輸送船団に乗り込んだ。佐々木さんが始めて恐い顔をした日であった。

   1943年の夏のある暑い日、わが父と三男のみつおが慈光路の家の庭の縁台に座って西瓜を食っていた。ふたりとも黙って食っていた。父が口を開いた。
   「みつお、おまえ予科練に志願したのか?」
   「志願した」と兄は答えて、「俺、親父に、ば~んと一発張られるかなと思った」と最近東京のホテルで会ったとき、語った。だが、父は殴らなかった。黙って、地面を見ていたと…

   みつお兄は、十七歳になっていた。父と西瓜を食った前の週に、新京商業高校の校庭に学生が集まっていた。夏の青空をゼロ戦が鳶(とび)のように円を書いて飛んでいた…それが、校庭に着陸したのだ。飛行士が発動機を切るとプロペラが停まった。コックピットが開いた。飛行帽、首にマフラ、半長靴を履いた飛行士が降りた…その精悍な顔の戦闘機乗りが少年たちに与えたインパクトは筆舌に尽くし難いものであった。
   「アタマの中を轟音が通り抜けた」と兄は言っていた。
   「君、操縦桿を握ってみたいか?」
   「はい」兄が操縦椅子に着くと、飛行士が後ろから手を伸ばした、、そして始動したのだ。轟音があたりに響いた。みつお兄は体が震えた。だが、次第に「自分は飛行機乗りに生まれた」と思ったのだと…
   「予科練に入りたいか?」
   「是非、入隊させて下さい」 十七歳の高校生が特高を志願した瞬間であった。                   

   「う~む、みつお、死ぬなよ」とわが父は言った。同じ年、1943年11月に学徒動員が始まった。みつおが釜山行きの汽車に乗ったのを見送ってから、2ヶ月が経っていた。わが父の長男である省吾は明治大学の学生だったが徴兵された。そして、ひょろっと痩せて、眼鏡をかけたわが兄は、どことも知れぬ異郷に出征して行ったのである。戦後、わかったのはこの兄も朝鮮に行ったのだと…

                            *

   1944年の正月、「おとうさん、私、日本へ帰りたい」とわが母が言った。筆者は3歳、末弟は生まれたばかりだった。父は黙って、子供たちの顔を見ていた。三月になった。
   「和歌山の白浜に家を借りた」と父が言ったのである。
   「佐々木さんには話したよ」

                            *

   「それがいい。ただ、俺は君が必要なんだ」と佐々木さん。前水兵は大東亜舗装の社長になっており、佐々木さんは、満州銀行常務となっていた。
   「軍用機で新京へ戻ります」
   「そうしてくれ。君には大きな仕事がある」
   「儲かりますか?」と水兵が笑った。
   「わからん」と銀行のにわか取り締まり役の佐々木ジャングイが言った、、佐々木さんは、南方へ船で出て行った二人の息子を想ったのか遠くを見る目になっていた。前水兵は、息子さんたちはフィリピンのレイテに行ったと確信していた。レイテは日本の真珠湾だからだ。

                            *

   白浜に一家を住まわせてから、大東亜舗装の社長となった前水兵は新京に軍用機で飛んで帰った。1944年の夏がやってきた。
   「どうも、ドイツが降伏したらしい」と佐々木さんが言った。
   「いよいよ、ソ連軍が満州に侵攻する?」
   「ハバロフスクの諜報が戦車を積んだ貨車がどんどん来ると電信してきた」
   「どのくらいの時間があるのですか?」
   「関東軍の将兵が少なくなったときだろう」
   「それで、親方、君にもう一度、牡丹江の飛行場を見てきて欲しい」
   「何か必要なんでしょうか?」
   「虎頭要塞を見てきてくれ。今回は、水野技師長と二人だけだから軍用機を新京から牡丹江まで出してもらう」

   16時間もかかる汽車と違って、軍用機は3時間足らずで牡丹江の郊外の飛行場にドカンと着陸した。二人は、着陸する前、自分たちが突貫工事で造った滑走路や建物を見ていた。山肌を削った高射砲陣地が目を引いた。伍長の肩章のある兵隊が親方と水野技師長を兵舎の中の食堂に案内した。昼飯の時間になっていて、飛行服の男たちが無言で大皿に持ったカレーを食っていた。給仕が豚カツカレーとビールを持ってきた。
   「いらっしゃい」と声が聞こえた。―牡丹江陸軍飛行連隊の連隊長だと自己紹介した。ことば使いが気さくな性格を表していた。親方はこういう人とすぐ仲良くなるのだった。水野技師長が立って挨拶をした。連隊長にも豚カツカレーが用意されていた。
   「今日と明日一日は、飛行場の必要な工事や改善して欲しいところをお見せします」と連隊長は、冷えたビールを持ち上げた。水兵のジョッキから泡が溢れた。関東軍の誰かが、―豚カツとビールがわしの大好物だと言ったのだろうか?と不思議な顔をしたが、そうではないことが判った。金曜日の定食なんだそうだ。
   「これ山東省の黒豚ですよ」と連隊長が言って笑った。水野技師長が「自分の生家は東北の養豚業者なんです」と笑った。水兵は、「戦争さえなければなあ」と思ったが言わなかった。ただ、みんなに唱和するように声をだして笑った。周りの飛行兵たちが振り返った…

   水野技師長は主任設計士だった。翌朝の会議で飛行場メンテナンスの課長から改善したいという部分を聞いていた。ほとんどが夜間の離着陸に関してであった。基本的設計には大きな支障はないということであった。問題はソ連軍の規模の大きさによるのだと。最前線は空中偵察からソ連軍の施設が日に日に大きくなっていると知っていた。一方で、北満と東満の関東軍の兵員が少なくなっている…陸軍飛行部隊の爆撃機も4割近く減少していた。減った分は鹿児島や沖縄や台湾の南部に移動していた。いずれ、チチハルの飛行部隊が牡丹江に合流するだろう…長期戦になれば、食料庫を大きくする必要がある…病院は充分だ…親方は、満銀には充分なカネはあるのか?と想っていた。それにインフレの嵐が吹き荒れていた。満州札の価値が暴落していた。

   そのまた翌日の朝がきた。親方と水野技士長は偵察機に乗り込んだ。虎頭要塞へ行くのだ。飛び立って、急角度で高度を上げた。前水兵は膝の上に地図を広げていた。地図の上にコンパスを置くと偵察機が東へ向かっていることがわかった。30分も飛んだ頃、遠くに河が見えた。ウスリー(鳥蘇川)だ。大きな湖が現れた。興凱湖(はんかこ)だ。ソ連領は山が多い。森林も深かった。
   「沿海州です」と副操縦士が言った。
   「ソ連領を飛ぶとどうなる?」と前水兵が聞いた。
   「対空砲火に会う」と操縦士。そして「何度もソ連領を飛んで撮影をしてきた」と言った。また、「偵察機は敵地を飛ぶのが任務なのだ」と。「このあたりには敵の高射砲陣地はない」とウスリーの河の上を飛んでいた。虎頭まで30分と言う地点で、ソ連側に入った。飛行場が見えた。滑走路が長いのは、ソ連の爆撃機が大型だということなのだ。朝の8時になっていた。ポ~ン、ポ~ン…露助が高射砲を打ち出したのだ。戦闘機に駆け寄るソ連の飛行士や地上兵が見えた。偵察機の操縦士が高度を上げた。爆音が大きくなったと思った瞬間、宙返りをした。水兵は、地平線が逆さまになったのを見た…虎頭要塞の岡が見えた。かなり高い岡であった。

                        虎頭要塞
   
(註)虎頭要塞は1934年に建設が始まり、1939年に完成した。要塞には第5軍に属する第4国境守備隊が配置されており、満州へのソ連労農赤軍の侵攻阻止と、シベリア鉄道~スターリン街道遮断を任務とした。1943年後半以降、もっぱら関東州警備にあたっていた関東軍は戦況の悪化した南方戦線に守備兵力を引き抜かれ、虎頭要塞においても九一式十糎榴弾砲や四一式山砲などの軽砲は南方に転用され(後述の重砲は転用されず)、また1945年3月に第4国境守備隊も解体となる。その後一時は臨時国境守備隊のみの状態となる。だが、対ソ戦を警戒していたことにより軍備は増強され、7月に総員約1400人の第15国境守備隊が再配置された。

   1941年、帝国陸軍の関東軍特種演習(カントクエン)ならびに要塞建設に刺激されたソ連は、本要塞の火砲の射程圏内にあると思われたウスリー河対岸のシベリア鉄道イマン鉄橋を国境より15キロ迂回させた。シベリア鉄道が迂回されたことを危惧した帝国陸軍は、1920年代に開発され、そのあまりの大きさと運用コストのため日本国内で事実上放置されていた試製四十一糎榴弾砲の配備を決定した。同年10月に輸送が開始され(虎頭要塞への搬入は秘匿のため夜間に行われた)、翌1942年3月に配備が完了した。また、もとは東京湾防備のため富津射撃場に配備されていた最大射程50キロ(大和型戦艦の主砲であった四十六糎砲の最大射程は42キロ)を誇る九〇式二十四糎列車加農(カノン砲)も、上述の理由のため改軌を経て試製四十一糎榴弾砲の移動と同時に本要塞に配備さた。

                 虎頭要塞の戦いは第二次世界大戦最後の激戦であった…

   1945年8月8日のソ連が対日宣戦布告を出した。不意討ちである。―8月9日未明(午前1時頃)は土砂降りであったと記録されている。侵攻開始により、虎頭要塞の第15国境守備隊と侵攻してきたソ連軍の間で戦闘が勃発。守備隊長は第5軍司令部に出張中で帰隊が不可能なため、砲兵隊指揮官が守備隊長代理として指揮を執った。周辺地域から、多数の在留民間邦人も要塞に避難し、計約1800人が籠城することになった。四十一糎榴弾砲はシベリア鉄道イマン迂回線の鉄橋を砲撃し、さらに砲身が射耗するまでソ連軍に砲撃を続けた。*犠牲者の数は記録によって違う。

   守備隊は絶望的な状況の中、8月15日に玉音放送を聞いたが謀略とみなした。17日、ソ連軍の捕虜となっていた日本人5人が、ソ連軍の軍使として要塞にやって来た。―日本政府の無条件降伏を伝え武装解除に応じるように停戦交渉を行うが謀略として拒否された。守備隊将校の1人が軍使の1人であった在郷軍人会の分会長を軍刀で斬殺した。その後も戦闘が行われ、ついに、8月26日、虎頭要塞は陥落した。生存者はわずか50名ほどだった。10倍以上の戦力で攻勢をかけたソ連軍を相手に2週間以上にわたり防衛戦を行った虎頭要塞の戦いは、「第二次世界大戦最後の激戦」と記録されている。(調査すると、ウイキぺデイアがもっとも信頼性が高かった。それを筆者が簡略に書き換えた。伊勢)

                       第十三章

                  満州中央銀行の金庫の中…

manchuria currency
 
   大東亜舗装の社長となっていた前水兵は相変わらず「ニッカボッカの親方」と呼ばれていた。佐々木さんに「虎頭要塞」の報告をした。そこで、気になっていたことを質問した。
   「満銀の金庫にはいくらでもカネがあった。現在はどうなんですか?」
   「日銀の融資が止まった。関西金融界の満州投資が止まった…」
   「すると、虎頭要塞や牡丹江の飛行場改造の費用はないと?」
   「その通り」
   「常務のお仕事って何なんですか?」
   「カネを取りにくる連中に嘘をつくことさ」
   「嘘?」
   「君は不動産をもっているのかね?」
   「興安大路にビル一軒…三井に貸しています。それと慈光路の屋敷だけです」
   「君の家族は日本へ帰った。家もビルも今のうちに売り払え」
   「はあ?」
   「三井と蒙古政府が買うだろう」
   「満州札でですか?」
   「日本円でだ」
   「すると、満州国は滅亡する?」
   「そうだ」

   軍艦扶桑の水兵は全てを売った。娘のピアノまで売った。わが姉は長年「お父さんね、私のピアノを売ってしまったのよ」と言っていた。ビルは三井に売った。慈光路の屋敷は蒙古政府に。佐々木さんに報告した…
   「佐々木さんは何時まで満州におられるお考えですか?」
   「わからんが、満銀の後始末をする…君には、俺が内地に帰るまでとどまって欲しい」
   「一緒に帰りましょう」

                     1945年が明けた…

   新京市内ががらがらになっていくのが誰の目にも明らかになった。関東軍司令部も、海軍武官省も、憲兵隊までも南方戦線へ移動して行った。居残った者はそれでも、日の丸を揚げた。四月になると、―陸軍第七方面軍の板垣征四郎大将が英軍に降伏したと聞いた。板垣参謀は、この満州国を建国した人間である。もうひとりは石原莞爾である。この二人は馬賊の大玉張作霖を奉天で爆殺したとされている。本人たちは反論しなかったし~1931年には満州事変を起こした。満州建国はその翌年の1932年である。筆者の父はその翌年の1933年に三十八歳で渡満している。それから、12年が経っていた。前水兵はその四月に和歌山へ飛んだ。大阪の上空を飛んだとき、通天閣のある下町が焼け野原となっているのが見えた。和歌山の海軍航空隊基地に着いた。手にトランクを持って白浜の第五銀行の支店に行った。百万円という日銀の証書に支店長は驚いた。
   「このような大金を見たことがない…大阪の本店でなければ扱えないのです」とツルッパゲの支店長が本店に電話を入れた。本店から白浜に人を送るという返事であった。
 
   白浜の借家でわが母や子供たちと再会した。子供たちは日焼けして元気だった。わが父は東京の下町が空襲されて、10万人が焼け死んだと聞いた。一週間後に新京へ飛び立った。
   「かあちゃん、俺が死んだら子供たちを頼む…おまえは大丈夫だ」と言った。赤ん坊を抱いたわが母は14年前に、大阪の新天地の料理屋で一緒になった男の顔をじっと見ていた。「なぜか、涙は出なかった」と言っていた。それは、「この人は生きて帰える」と信じていたからである。

   新京へ戻って、ヤマトホテルにチェックインした。12年前に泊まったホテルだ。水兵は不思議な感慨に浸っていた。   「もうタキシードを着ることはないな」と…佐々木大将に電話すると、「関東軍の武官とヤマトホテルの花園大酒家で飯を食う」と言った。誘われたのだ。夕日が沈んだ。二人の陸軍武官、佐々木満銀常務そして大東亜舗装の親方が個室のテーブルに着いた。
   「牡丹江のソ満国境が慌しくなっている」と年配の武官が口を開いた。水兵は「重要な件なのだな」と直感した。佐々木さんの表情も、いつもの磊落さがなかった。
   「どのような状況でしょうか?」と水兵が訊いた。
   「50万人のソ連兵と3000台の戦車、500機爆撃機が写っている」と若い武官が空中写真数枚をテーブルに置いた。ソ連軍の兵舎が地平線にまで広がっていた。親方は、あの日に見た虎頭要塞を思い浮かべていた。
   「虎頭要塞は完備しているんですね?」と佐々木さん。
   「完備は出来たが、兵員が足りない」と年配の武官。
   「すると、何時までもつのかということなんですね?」と水兵。
   「わが方の装備は?」
   「41センチ 榴弾砲一本~野砲数本~爆撃機100機~軽量戦車400台~守備兵1500名…」
   水兵は「虎頭要塞は玉砕する」と確信していた。

                            *

   その年の七月、佐々木満銀常務からヤマトホテルに電話があった。前ニッカボッカの親方が出ると、佐々木さんが、ゴホンと咳をした。
   「倅二人がマニラで戦死した」と言った。わが父が黙っていると「今週、内地へ帰る」と続けた。
   「長らくごくろうさまでした」と水兵に戻った親方が言った。―このひとは日露戦役以来40年も満州の地に居たのである。「何という生涯だろう…乃木さんと同じだ」と遠くを見る目になった。
   「親方に最後の頼みがある」と佐々木大将がその頼みを打ち明けた。水兵は満銀常務の依頼の内容に驚いた…

                            *

   1945年7月の末日になった。その日は朝から小雨が降っていた。軍艦扶桑の前水兵がセダンを運転して佐々木さんの夏の家に着いた。新京市街から離れた伊通川の川べりの一軒家であった。鉄の門の前に立った…預かっていた鍵を廻して開けた…水兵は真っ直ぐ奥の書斎に行った。木の箱が部屋の真ん中に積んであった。20個はあった。ひとつの箱をバールでこじ開けた…「う~む」とうなった。箱の中に封印された満州紙幣がビッシリと詰めてあったのだ。まだ印刷されたばかりのインクのにおいがしていた。指示の通り、部屋に灯油の一斗缶が二缶あった。水兵が部屋に灯油を隈なく撒いた。それから、灯油を玄関まで撒いた。赤燐マッチを擦った。ボ~と音を立てて火が廊下を奥の部屋に走って行った…軍艦扶桑の水兵だった男は足速(あしばや)に夏の家を出た。外は豪雨に変わっていた。満州国が消えた日である。満州を掴んだ男は49歳になっていた…

                            ~完~


「マッカーサーのくび木(上巻)」  2014年6月6日 わが七十三歳の誕生日…伊勢平次郎


blue berry

伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから46年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聞き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ自動車工場、スバル・いすず工場の北米進出、日本の大手新聞社に雇われた。現在は、冒険小説、児童文学、政治ブログ「隼速報」を書いている。妻のクリステインと犬二匹で、ルイジアナの河畔に住んでいる。(2014・6・6)


著作権保護


*本著は「著作権保護コンテンツ」として、アマゾンに登録されています。コピーは禁止されています。

「マッカーサーのくび木(下巻)・日本は負けなかった」を七月上旬に出版します。

「胡椒の王様」はシリーズです。King of Pepper が英語版です。Amazon・
から購入が可能です。

次回の作品は、「胡椒の王様・謎の箪笥」です。九月に出版します。

小説「アブドルの冒険」も読んで下さい。英語版は、You Die For Meです。


それでは、みなさん、ごきげんよう。 伊勢平次郎

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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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