2014/06/11 (Wed) 「胡椒の王様」全文公開
みなさん 

「まだ読んでいたのに、削除されてしまった」という方からメールがありましたので、全文を再び公開します。読後に、千円のご献金をお願いします。 伊勢平次郎   

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1)口座番号  10940-26934811
2)口座名    隼機関   ハヤブサキカン



 



                

                     胡椒の王様


                     ―はじめに―

   「山椒大夫」は、日本が誇る児童文学である。森鴎外は平安時代から一千年以上もの期間に語り継がれた「安寿と厨子王丸」を文学にした。1915年、日本国帝国陸軍軍医総監(中将)であった森鴎外の代表作となった。40ページにも満たないが、文体は簡潔で残酷な部分を切り捨てている。

   「胡椒の王様」は著者の創作である。厳密に言えば、「山椒大夫」のアダプテーションである。日本の伝説を英語で紹介したかったのである。昨年のクリスマスにアマゾン・キンドルで出版を果たした。アマゾンの編集部から身に余る高い評価を頂いた。

   著者は人間の犯す罪の中で、子供の人身売買ほど残酷なものはないと思っている。そこで、英国の皇族を主人公に選んだ。もしも、王室を愛するイギリスの人々を傷付けたなら謝ります。人の心を傷付けることが著者の目的ではないからである。  2013年のクリスマス  伊勢平次郎


                         序章


   英国の皇族は英連邦王国の君主の血縁と近縁を含む。皇族の定義において、誰々は皇族で、誰々は皇族でないという厳格な法律はない。皇族のリストの中には、まったく皇族とは思われない人々も混じっている。しかしながら、「女王陛下」「国王陛下」「卿」と尊称される人々は明らかに王室に属する貴族である。

   ミッテントロッターは、そういう人々であった…


                            1
                    ボンベイ ・1947年の10月

   四人が桟橋からビクトリア女王号の舷側に取り付けられたタラップ(舷門)を上って行った。ビクトリア女王号は英国のキューナード汽船会社が所有する最新の客船であった。ボンベイの港はインドで最大の港で、その水深が深かった。長距離航海用の豪華船は四号埠頭につながれていた。出航時刻は、1947年10月、この日の0930であった。

   「ロープをしっかり掴んで…タラップが揺れますから」とアイロンのかかった白い制服の一等航海士がチャーリーに注意した。一等航海士は英国海軍の襟章を着けていた。一等航海士は大英帝国海軍の士官学校を出ていたからだ。
「アイアイサー」ショートの釣りズボンを履いたチャールスはタラップを駆け上って行った。甲板に降りると背筋を伸ばして士官に敬礼をした。士官は笑って頷いた。チャールスの三メートルほど後ろから少女がリュックサックを腕に持って上ってきた。チャールスの姉のアンである。士官はタラップを数歩降りてアンの腕からリュックを取った。二人の子供の母親が「幸せがいっぱい」という笑い顔で上ってきた。その後ろにインド人の若い女性が続いた。二人の子供の子守りである。女性は美貌であった。
   甲板に立った四人は埠頭に立っている中年の紳士に向かって、手が千切れるほど振った。その紳士は手入れの行き届いた白いスポーツジャケットに白いキャンバスの帽子を被っていた。彼は、英国領インドの最後のボンベイの知事であった。当時のインドは英国インド帝国「英国領ラジ」と呼ばれていた。つまり国ではなかったのである。その紳士は英国人女性の夫であり、二人の子供の父親であった。
   甲板では、乗組員がロープを解いていた。クイーン・ビクトリア号は埠頭を数センチ離れて海へ向かって動いた。インド南部海岸に熱帯性低気圧が発生したというニュースをものともせず…こうして英国へ二十八日の航海が始まったのである。黒いペンキで塗られた船体は光っており、三階建ての客室が白雪を被ったように眩しかった。灰色の海面に浮かぶクイーン・ビクトリア号は黒と白の見事なコントラストを作っていた。豪華船はインドの西海岸に沿って、360海里南のバスコ・ダ・ガマに向かった。その名は、十六世紀、ポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を廻ってインドの西海岸に到着したことが由来なのである。だが、それは西欧人の付けた名前である。インド人はゴアと呼んでいた。この1947年の10月の日、朝露(あさつゆ)がボンベイ湾をすっぽりと包んでおり、風がうなりを上げて甲板に吹き付けていた。
   チャールスは十歳、アンは十三歳、母親は三十六歳そして、子守り女のBBは二十歳であった。アンは、チャールスを「チャーリー」と呼び、チャールスは、姉を「アンナ」と呼んでいた。普段、母親は愛称を認めなかったが、この長い航海の間、子供たちに一定の自由を与えることにしていた。チャーリーとアンナは船上の他の子供たちと同じように扱われたかった。彼らは、英国王室の血縁であることを知られたくなかったのである。

   ミッテントロッター卿は妻と子供たちがボンベイにとどまることに不安を持っていた。インドにおける大英帝国の外交官の生活環境はインド人たちと同様に急速に危険なものに変化していた。インドの全国で暴動が起きていた。彼の家族は厳しい現実から守られた生活を楽しんできた。卿は家族をイギリスへ帰す決心をした。彼は、愛する家族をクイーン・ビクトリア号で祖国イギリスへ戻すプランを選んだ。良き想い出になるように…十月はインド洋によく台風が発生した。だが、キューナード汽船会社の支配人は、――十月半ばを過ぎたから台風は比較的におとなしい。ご心配は無用ですと言った。
   ――後で会いましょう。ミッテントロッター卿はデッキに立っている四人に叫んだ。卿自身は年末に軍用機でロンドンへ帰ることになっていた。

   マハトマ・ガンジーは、大英帝国が統治するインドで傑出した指導者であった。彼は、自由の闘士であり、民族主義者であった。ガンジーは非暴力抵抗主義を提唱してインドを独立に導いた。ガンジーの勝利は公民権と自由を勝ち取る運動へと世界中に拡がって行った。1947年8月14日、大英帝国がパキスタン・イスラム共和国の分離独立を実行した。新しい国家が生まれたのである。その翌日の深夜、インドも英国の植民地から解放されたのである。インド大陸における350年もの英国の統治が終焉した。大英帝国最後のインド総督となったマウントバッテン卿はインド大陸最大の宗教紛争に終止符を打った。パキスタンを分離して独立させたのである。大移動が始まった…イスラム教徒はインドを離れて東パキスタンと西パキスタンへ移動して行った。このインド分離決定は大英帝国史最大の過失となったのである。ガンジーは分離に賛成しなかった。一度も賛成すると言わなかった。今日の歴史家は「大英帝国はインド人同士を永遠に争わせる意図を持っていた」と主張している。
   東のカルカッタだけでも五千人が殺された。イスラム教徒はヒンズー教徒を殺し、その逆も同じであった。東海岸のボンベイが大英帝国の傀儡であったラジ中央政府に選ばれた。だが、ボンベイにも暴動が拡がった。火をつける、棍棒で殴る、商店を壊して商品を持ち出す、それにレイプが頻繁に起きていた。これがインド自由解放の初期の様相であった。

                            *

   チャーリーとアンナは船内のプラネタリュームに集合した子供たちの中にいた。太陽系の惑星と航海ルートを勉強することになっていたからである。
   「アンナ、地球って姉妹惑星に比べて凄く小さいね。見て、火星なんか見えないぐらい小さい星だよ」とアンナに囁いた。
   「イエス、チャーリー、でも、地球は他のどの惑星よりも水が多い星なのよ。木星が一番大きい惑星だけど水がないの。土星はほとんどガスで出来ているんだって…と姉のアンナはイギリスの小学校で習った知識を弟のチャーリーに与えた。
   「今、私たちはこの小さな惑星のインド洋にいる。その惑星は太陽の廻りをグルグルと廻っている」とアンナが続けた。
   「道理で眩暈(めまい)がするわけだ」チャーリーの明敏なあたまの回転とユーモアは、常にアンナをクスクスと笑わせた。
   イギリス人女性の教師がステージに上がった。「私たちは、今夜、星を見ることが出来ないのです。遠くアラビア海から嵐がやってくるからです。強い風と雨を持ってくるんだそうです。でも、航海の残りが二十八日もあるんです。紅海を通過する日の夜は星を見るのに最高なんです。サハラ砂漠の空ほど澄み切った空はないからです」生徒の子供たちは手を叩いて歓声を上げた。
    「では、一等航海士のマーフィー士官に英国へ行くルートを説明して頂きます」ミス・グリフィスは士官の方角を見た。彼女の青い目が一瞬、輝いた。惚れた女(ひと)の目であった。
   クイーン・ビクトリア号の一等航海士は選びに選ばれた人なのである。イギリスの船員たちの羨望の的なのだ。まず、大英帝国海軍大学校の出身であること。ハンサムであること。肉体が健康であること…さらに背が高いこと…もっとも重要なのが、正しい英語を習熟していることなのである。絶対に言葉は乱すことが出来ない…その背の高いハンサムな一等航海士は、ミス・グリフィスが熱い視線を投げたことを知りながら投射機のスイッチを押した。銀幕に地図が映し出された。ボンベイからロンドンまで赤い線が描かれていた。

   「もうみなさんはご存知だと思いますが、このクイーン・ビクトリア号はわが社が持つ長距離クルーザーでは一番小型の客船なのです。クルーを含めて800人の収容力があります。どうして、今回の航海にそんな小さな船を選んだと思いますか?君はどう思う?」と最前列で目を大きく開いて聞いていたチャーリーを指差した。チャーリーは立ち上がった。
   「僕たちは紅海とスエズ運河を通ります。――紅海もスエズ運河も底は深いけど幅が狭くて混雑するところだと僕のお父さまが教えてくれました」子供たちは「お父さま」と言った少年の顔を不思議そうに見た。
   「素晴らしい答えです。君は素晴らしい船員になれます。ボンベイからロンドンまで3892海里あります。最初のストップは、パキスタンのカラチ港で停泊します。そこから紅海の入り口までどこにも寄りません。紅海のアデン港で停泊します。その次がスエズ運河の出口にあるエジプトのアレキサンドリア港…翌朝、地中海へ出ます。ギリシアのクレタ島~ジブラルタル海峡を通って大西洋に出る~フランスのノルマンデイに立ち寄り~最後に私たちのホームであるイギリスへ。この経路で二十八日間、航海します」
   「台風が近付いていると聞きましたが、何かそれに関してお話しして頂けますか?」と女性教師。
   「みなさん、心配は要りません。熱帯性低気圧リタは現在、800キロメートル南にいます。リタは速度がたいへん遅いのです。クイーン・ビクトリア号はリタが半島に上陸する数時間前にバスコ・ダ・ガマ港に入ります。錨(いかり)を降ろす予定は、明日の夕刻の五時としています。それから本船はリタが通過するまで港に停泊します。ホテルに宿泊する手配が済んでいます。ひとり残らず泊まります。美味しいカレーマドラスを用意してあるそうです」歓喜の拍手が起こった。子供たち全員が笑っていた。

                             *

   ミッテントロッターの一等船室は、長椅子のある広い居間、マスターベッドルーム、少し小さいベッドルーム二つと豪華な化粧室が配置されていた。四人は朝の九時にはみんな起きていた。アンナがシャワーを浴びていた。チャーリーは、母親がトランクから取り出した長ズボンと白いシャツに着替えた。
   チャーリーは、居間へ歩いて行った。子守りのインド人女性の部屋の前を通るとドアが半開きになっていた。彼女が豊かな黒髪を櫛で梳いているのが見えた。チャーリーは――彼女は美しいと思った。彼女はまだ寝巻き姿だった。チャーリーは、ミスBBの豊かな胸を見詰めた。彼女はチャーリーが自分を凝視しているのを感じてドアを閉めた。ミスBBは、彼女の花のつぼみが開くような体に少年が惹かれているのを知っていた。調度、ミス・BBがドアを閉めたときアンナが化粧室から出てきた。アンナは、ドアの前に立っているチャーリーを優しく手の平で押した。
   ミッテントロッター夫人が、彼女のベッドルームの開いたドアから全てを見ていた。そして微笑した。――何と娘のアンは成長したのだろう…と思った。アンは幼い弟に対して母性を見せたのである。

                           2
                    バスコ・ダ・ガマに着いた…

   最初にゴアの岬の灯台を見つけたのはチャーリーだった。一等航海士が――バスコ・ダ・ガマと言った。ポルトガルの探検家だったバスコ・ダ・ガマは、大西洋からアフリカの喜望峰を廻ってインドに達した最初のヨーロッパ人であった。
「アンナ…アンナ、こっちへ来て。あそこに灯台が見える。てっ辺にランプがグルグル廻っている」とチャーリーは興奮していた。
   「灯台は見えるけど、霧が深くて町の灯が見えないわ。ゴアはどこにあるのかしら?」
アンナの心配を聞いたボースン(航海長)が現れて、――クイーン・ビクトリア号は、今、ローカルの水先案内人の監督下にあり、濃霧の中を岩礁の多いゴア湾に入って行くところです…とアナウンスした。
船長の声が船内に張り巡らしたスピーカーで聞こえてきた。――私はウエイクフィールド船長です。ゴアの埠頭に一時間で到着します。ご一家に付き、二日間宿泊するだけの所持品をひとつのトランクに詰めて下さい。その他のトランクは船内に残して下さい。サンキュー。一同は、海の掟である船長命令なのだと理解した。
BBは腕時計を見た。二十歳になった誕生日にミッテントロッター夫人が贈ったものだ。BBは、白いエナメルの文字盤とカチカチと動く黒い秒針を見飽きることがなかった。四人は右舷に立ってタラップが取り付けられるのを待っていた。埠頭には何百もの人力車、荷車、それを牽くロバの群れが見えた。馬車の轍の音と御者の掛け声…
   埠頭はエネルギーに満ちていた。ホテルが100組のファミリー…合計で500人の船客の移動に用意したのだ。
船客たちは行列になった。先頭のミッテントロッターがタラップを降り始めた。BBが前の一台に、チャーリーとアンナが後ろの一台に乗り込んだ。トランクは馬車で運ばれた。これだけの人々が整然と行動していた。イギリス人は自分の番が来るまでじっと待った。これが先進国英国のマナーなのだ。小雨が降り出していた。車夫たちが幌を引っ張ってスナップした。幌の隙間から雨が降り込んできて座席を濡らした。車夫が「ソーリー」と言った。ゴアのインド人は優しかった。彼らの収入はチップなのだ。トランク、帽子の入った箱、手提げ袋は馬車に積まれて後ろからついてきた。人力車と馬車がパレードを造っていた。舗装がない時代のインドの道は激しさを増した雨にぬかった。チャーリーは好奇心の塊だった。家鴨の群れが道を横切ると奇声を上げ、ホテルが見えてくると立ち上がった。アンナが座らせようと手を引っ張った。ガタガタ道のキャラバンは三十分で、バスコ・ダ・ガマ・ホテルの円形の玄関に着いた。車夫が幌を開けるとチャーリーは飛び降りた。ミッテントロッター夫人が微笑していた。ゴアはインドの富裕な町のひとつと知られていた。その富の源泉は、紅茶農園、ココナッツ農園、綿農園とゴム農園が稼ぐ外貨であった。
   亜熱帯性低気圧リタは天気予報の通り小型台風だった。ウエイクフィールド船長はクルーと話し合っていた。翌朝、錨を揚げたいのだと…船長の提案はクルーによって、即座に否決されたのである。
   ラジオ係りが、「船長、リタはのろのろと東へ進行方向を変えている。リタは西海岸に上陸する。たぶん、上陸点はゴアでしょう…リタが通過するまで錨を揚げず大事をとりましょう。何しろ、乗客が増えますから」と勧めた。乗客が増えると聞いた船長は頷いた。台風が通り過ぎるまでじっと待つのが正しいと…

   ホテルの306号室のドアをノックする音が聞こえた。BBがドアを開けるとホテルの従業員が箱に入った長いローソクを手に持って立っていた。「マダーム、今夜はローソクが必要になります。窓のシャッターに鍵を掛けても良いでしょうか?」と言った。
   晩餐会場の夕食の間に停電が一度あった。――道理でローソクがテーブルに立ててある…とチャーリーは思った。外の雨は豪雨に変わっていた。窓を打ちつける雨が滝になっていた…風が舞う音が聞こえた…クラシックな造りのホテルの木製の窓が音を立てた…アンナとチャーリーは庭園に面する窓の外を見ていた。
   「お母さん、あの赤い花を見て!前に見たことがないわ。あんなに多く咲いている…」アンナは生命のソフトな一面に魅入られていた。
   「兵隊の行進を思い起こす…赤い花の軍隊…」チャーリーは詩人になっていた。
   「ハリケーンの百合(ゆり)という花なの。台風の季節に咲く。十日ぐらいで花は首からポトンと落ちるのよ…」とミッテントロッター夫人が言った。
   「この妖しい赤い花が闇の中に咲いているのを見ると、背筋がぞ~とするわ。お墓の周りや鉄道の線路際に咲くのよ」とBBが身震いをしていた。
   「何か不吉なことが起きる予兆だと信じられているのよ」と母親は窓際に行って、妖しい赤い花を見詰めている子供たちに言った。
   「不吉の予兆ですって?」とBBが呟いた。若い女性は未知の将来に慄いていた。
そのとき、テーブルの電話が鳴った。BBが受話器を取って夫人に渡した。ボンベイのミッテントロッター卿からだった。彼は、クイーン・ビクトリア号が台風が上陸するバスコ・ダ・ガマに入ったことを知っていた。妻と子供たちを心配していた。
   「あなた、心配要らないわ。このホテルは、とても安全なの。嵐が過ぎるまでホテルから出ないのよ。汽船会社も船長さんも、私たち船客を第一に考えて下さっているの」夫人は電話を掛けてきた夫を愛していた。「子供たちは船旅を楽しんでるわ。今夜やってくる台風にまで興奮してるのよ。ローソクの光がロマンチックなんだって 」それを聞いたミッテントロッター卿がクスクスと笑った。自分が子供だった頃を想い出していたのだ。
真夜中に近くなっていた。夫々の部屋のベッドにもぐり込んだ。夫人は、アンナとチャーリーにマスターベッドルームを与えた。一緒に寝るために…彼らは、灯台や埠頭の光景を想い出していた。100台はあった人力車、道路を横切った家鴨の一家…妖しい赤い花の軍隊…興奮が冷めなかった。姉と弟は毛布の中で話していた。夫人は子供たちがゲチャゲチャ笑うのを聞いた。
   「お母さん、チャーリーが私の胸に触るの。ダメって言って」
   「ローソクを吹き消しなさい。静かに寝なさい」が母親の応えであった。
嵐の吹く夜は良く眠れる。安全な環境なら、これほど平和な時間はない。ボンベイの邸宅だと、家族が一緒に寝るなんて起きないからである。屋根から落ちる雨音は最高の子守唄なのだ。

   朝八時にドアがノックされた。モーニング・サービスだ。ボーイたちが入ってきた。アール・グレーの紅茶、熱々のホットチョコレートの甘い香りが部屋に充ちた。若い方の給仕がカーテンを開けて、嵐用のシャッターのロックを外した。冷えた風が吹き込んできた。チャーリーが窓に走って行った。西の方角から波が岩礁に打ち砕ける音が聞こえた。チャーリーは、そぼ降る雨の中で「ハリケーンの百合の軍隊」が満開に咲いてるのを見た。
   「マダーム、リタは、午後には北へ移動します。朝食のバフェは緑の部屋です。十時きっかりに閉まります」と若い給仕がミッテントロッター夫人に伝えた。
   ――朝食と聴くや否や、チャーリーは、既に片足をズボンに入れていた。バフェまで聴いていなかった。アンナとBBが笑った。チャーリーは、いつも腹が減っていた。少年は日々に育っていたから。朝食はチャーリーの最も好きな時間なのであった。
   レストランのラジオがリタは予定通りだと報じた。十二時がピークで夕刻にはゴア半島を出る。だが、ホテルの支配人は全員ホテルから出ないようにと依頼した。――多くの娯楽施設とプログラムを用意しました。映画館、ゲームの部屋、室内ゲートボール、室内テニス、スクワッシュ、ボーリング…十分に楽しんでください。
   その日の夕刻、屋上で晩餐会が行わた。台風の後の空は青かった。夕日が沈んで行くのが窓から見えた。スピーカーからウエイクフィールド船長の声が聞こえてきた。
   「船客が150人増えます。キッチンとルームサービスの従業員が増えます。クイーン・ビクトリア号が、バスコ・ダ・ガマの埠頭を出航する時間は、0900です。650人とクルーが0700までに埠頭に集合します。人力車や馬車が用意されています。お持ちのお荷物を今夜9PMまでにドアの外へ出して下さい」ウェイクフィールド船長は「それでは、みなさん、バスコ・ダ・ガマの最後の夜を楽しんで下さい…サンキュー」と付け加えた。晩餐が終わったとき、窓の外は、すっかり暗くなっていた。チャーリーが一番星を見つけた。

   夜明けに、再び人力車と馬車のパレードが始まった。650人を運ぶ人力車が不足していた。従業員やクルーは馬車に乗って先に埠頭へ行っていた。船客たちは幸せがいっぱいと騒々しかった。ボンベイを出てから海も空もどんよりと灰色だったが、今朝は秋空のように空が高く青かった。埠頭に着いたころ、東から朝陽が昇ってきた。波は高く波頭が白かった。だが、荒々しくはなかった。クイーン・ビクトリア号は揺れていた。タラップがギシギシと鳴った。その揺れるタラップをチャーリーが駆け上って行った。
   「おはよう。チャーリー」と一等航海士が船客を迎えた。
   「おはよう。ミスター・マーフィー」
   「おはようございます。私が、みなさまをキャビンへご案内さし上げます」英国人の客室係りの英語には強い訛りがあった。アンナでも聞き取れなかった。それに、この背が高い男に見覚えがなかった。――ゴアで乗り込んだ従業員なのだろうと思った。ミッテントロッター夫人が男にチップを与えた。BBが大きな革製のバッグを男に渡した。美貌のインド人女性を男はジロジロと見た。そして笑い顔になった。――宝を見つけたという顔であった。
   「マダーム、朝食は一等船客用食堂で十時にサービスされます。お早めに行かれることを勧めます…一等船客も増えていますので混雑すると思います」訛りのある英語を話す男は、四人に催し物のプログラムを手渡した。プログラムは、大人・子供・女性・男性と目録が分かれていた。
   チャーリーが「船内ツアー」という題名を見て喜んだ。機関室、操縦塔、船長室そして厨房が加えてあった。――キッチンは見学するに値します。戦争室と言います。650人分の食事を一日三回出しますので、本当に戦争だからです。繊細なアンナは男の冷笑を含んだ口調を嫌った。彼女の背筋が寒くなる口調だったからである。ミッテントロッター夫人が、この男は「コックニー」という東ロンドンの訛りだとBBと子供たちに説明した。男はゴアで乗船した…たぶんこの男が航海中私たちの船室係りなのだろう…アンナが失望した顔をした。その姉をチャーリーが横で見上げていた。

   朝食が済んだ。二日間ホテルに閉じ込められたので子供たちが運動不足になっていた。真昼の太陽が頭上にあった。気温は摂氏二十度で快適だった。柔らかい風がアンナの長いアンバー色の髪を吹き流していた。チャーリーは三人の女性の数歩前を歩いていた。歓声が上がった。チャーリーが前方を指さしていた。「イルカだ!」と誰かが叫んだ。何十頭ものイルカが二十二ノットの速度で海面を切って進むクイーン・ビクトリア号と競争していた。
   バスコ・ダ・ガマを出港したその日の午後二時、一等航海士とミス・グリフィスは六十人の生徒を連れて厨房に向かっていた。厨房は大食堂と扉で仕切られていた。一等航海士とミス・グリフィスが、もはや、他人ではないことが誰の目にも明らかだった。チャーリーとアンナの横にBBがいた。皇族の子供が大衆と行動するとき、メイドが付き添うのである。がっしりとした体格のインド人のチーフコックが一行を迎えた。
   「ようこそいらっしゃいました。みなさんに世界一と言われる英国の外洋客船のキッチンをご案内します。私たちコックは、ビクトリア女王陛下がインドをご訪問された航海でも、一日三度のお食事を女王陛下にさしあげました。あなたたちにも、皇室と同じ献立が用意されています 」
   チーフは、巨大な冷蔵室の扉を開いて子供たちを招いた。見学者の先頭はチャーリーだった。冷凍庫の中は、霧が吹き込まれていて、ひんやりと冷たかった。真ん中には通路があり電灯が点いていた。金網で囲まれた棚が並んでいた。---金網は食料が落ちないためのものだと子供たちにも分った。樫の木で造ったドアのある部屋に入った。何十頭もの牛の片身が大きな釣り鈎(つりかぎ)に下がっているのを見た幼いチャーリーがびっくりした顔をした。豚、子羊、何だか分らない肉塊と続いた。鶏、家鴨(あひる)、鵞鳥(がちょう)、チョコレートの塊と箱入りのバター。牛乳の入った缶はいくつあっただろう。――これほど多くの食べ物を見たことがない。――これなら絶対におなかが空かないとチャーリーは安心したのである。
   チーフが指差していた。十二台のミキサーが音を立てて廻っていた。パンの生地を練っているのだ。「夕食はハンガリー風ビーフシチュウを用意します。デザートは、手作りのアイスクリームです」とチーフ。子供たちが手を叩いて歓声を上げた。コックほど、子供に重要な人は船にはいないからである。
   「さあ、次は機関室よ」とミス・グリフィスが言った。機関室は一番下の三等キャビンの床の下にあった。これが船底なのだ。そのまた下は荒海なのだ。見学者たちは橋梁から恐る恐る下の機関室を見ていた。動いているものはどこにもなく、意外に静かだった。エンジンと思われる鉄で出来た巨大な円筒が三本並んでいた。その上に鉄の梯子があった。その梯子を作業服の人が床から上って行くのが見えた。一等航海士のマーフィー士官がその人を指差した。「あの人が私たちの機関長さんです」その声を聞いた機関長がキャットウォークを見上げて手を振った。
   「タービンが三本並んでいます。この船にはスクリュウが三本付いているからです」と機関長が唸りを上げるタービンに負けない大声で言った。ゴトン、ゴトン、とクランク・シャフトを廻すピストン・エンジンのように騒々しくなかった。十人ほどの作業員が配置された箇所を点検していた。彼らは、円筒の上、横、床に穿ってある穴にインチラッパで油を差していた。蒸気タービンはバランスが良いので振動もなかった。チャーリーは生まれて始めて蒸気タービンを見た。少年は耳も目も全開にして、一部も見過ごさなかった。機関長が子供たちがいる橋梁に上がって来た。チャーリーが手を挙げた。
   「機関長さん…どうして蒸気がこの大型汽船を二十七ノットで走らせることが出来るのですか?」
   「お若い人、なかなか良い質問ですよ」と機関長はチャーリーの好奇心を褒めた。そして、物理学の方程式を黒板に書いた。――なんて、不思議な文字だろう…勿論、何のことか分らなかった。

   「おお、そういうことなのか」と年上の少年がおどけた。一同、大笑いとなった。
   機関長が湯沸かし器を助手から受け取って持ち上げた。
   「これは何ですか?」
   「湯沸し」子供たちが一斉に答えた。
   「このコードをコンセントに繋ぐと何が起きますか?」
   「ポットの中の水が沸く」とひとりの少女が答えた。
   「どうして、沸騰したのか判るの?」
   「ポットの口がヒュウヒュウと音を立てて、蒸気が噴出すからです」同じ少女が答えた。
   「正解です」と機関長が言うと助手が紙の風車を手渡した。機関長が風車に息を吹きかけた。風車が廻った。強く吹けば、速く廻り、弱く吹けば、ゆっくりと廻った。
   子供たちは、蒸気タービンの仕組みを何となく理解した。――タービンとは風車のことで、蒸気の力で廻るのだと…
   「蒸気タービンが発電機を廻して電気になる。その電気がモーターを廻す。そのモーターがプロペラを廻す」

   機関長は蒸気タービンは、――1884年にイギリス人技師が開発したのですと言うと、イギリス人の少年少女は胸を張った。インド人の子供たちも、ヨーロッパの子供たちもイギリス人の英知に拍手したのである。

                           3
                       海賊の襲撃

   「オーケー、それでは艦橋へ行きます。船長室も見せて貰います…ついて来て下さい」一等航海士のマーフィー士官が言った。
   ウエイクフィールド船長は子供たちを一度に十人つつ操舵室に招いた。「ホイールハウス」と呼ばれる操舵室は艦橋の真ん中に配置されていた。見張り番の士官OOWとスポット士官ABが前方や遠い海上を双眼鏡で監視していた。一等航海士が操舵手に耳打ちした…すると、突然、船がジグザグに走った。巨大な外洋汽船が舵三を簡単に廻すだけで方向を変えることに子供たちは興奮した。
   ウエイクフィールド船長、この船は、今どのくらいのスピードで航行しているんですか?」とひとりの少年が質問した。
   「十八ノットです。波が高いから」
   「ゴアからどのくらい来ましたか?」と、もうひとりの少年が訊いた。
   「現在、午後の三時。バスコ・ダ・ガマの港を出たのは六時間前です。インドの西海岸から90海里、西北へ来ています」船長は子供が好きであった。
   見張り番(AB)航海士は子供たちの見学に加わらなかった。無言で前方を双眼鏡で見ていた。ABが振り返って、一等航海士に双眼鏡を渡して右舷の海上を指差した…二隻の高速船がクイーン・ビクトリア号に真っ直ぐ向かっていた。
   マーフィー士官が、ミス・グリフィスに「プリーズ、子供たちを大食堂に連れて行ってください」と言った。その声は静かだったが、彼の表情から命令であると理解した。マーフィーの真剣な一面を始めて見た恋人は身震いした。
   「みなさん、三時よ…お茶の時間よ」と教師は言うと艦橋を離れて、大食堂に向かった。
   「何が起きた?」船長は操舵室のドアを閉めてから双眼鏡を目に当てた。
   「PTボートに見える」とマーフィーが答えた。
   「それなら、なにも心配することはない。米海軍だから」と船長が言った。
   「船長、これは海賊です。星条旗も米海軍旗も揚げていないからです」
   「奴ら、どのくらいのスピードで向かっている?」と船長。
航海士のひとりが計算していた。「奴らは、五十ノットで海面を走れる。ビクトリアは、PTボートの速度には太刀打ち出来ない…」
   「乗船している警備兵はどのくらいの火器を持っている?」ウエイクフィールド船長がマーフィーに訊いた。
   「艦橋へ来て貰います」とマーフィーは電話を取った。一等航海士で海軍士官であるマーフィーは冷静であった。
   「われわれの海域へ入って来るまでどのくらいの時間がある?」見張りのOOBが質問をした。
   「一時間以内…彼らは最高速度で進んでいる」

   ウエイクフィールド船長は電信係の後ろに立っていた。電信係はジャックを無線機に差し込むと遭難信号のSOSを打ち始めていた。――SOS…SOS…海賊の襲撃…海賊の襲撃… 即座に遭難信号に応答が入って来た。応答したのはインド洋上を航行していた英国海軍の駆逐艦であった。電信係がモールス信号を読んだ。――駆逐艦は、クイーン・ビクトリア号の位置から100海里北におり、付近の海域にはスピードの速い巡洋艦がいない…
   1943年、日本海軍がインド洋から撤退すると、英国海軍の艦船は日本海軍の艦隊を追った。シンガポール、マラヤの海域を英国が取り戻したのである。
   駆逐艦の艦長がビクトリア号の船長にメッセージを送った。 ――小艦はあなた方の海域へ全速力で向かっている…三時間で到着する。ビクトリア号の警備隊の力を私は疑っていない。紳士諸君、あなた方の安全を心から祈る…

   クイーン・ビクトリア号の警備隊は英国海軍がキューナード汽船会社の要請によって配備したものであった。警備隊は二十名の精鋭が選ばれていた。その精鋭部隊が艦橋に到着するのに五分もかからなかった。警備隊長と海兵の数人が双眼鏡で接近するPTボートを監視していた。
   「ブレンを持ってこい。舳先(へさき)に二基据えろ!」と赤ひげの少尉が機銃班に命令を下した。その赤ひげが振り向いた。「船長、ビクトリアを百八十度、廻して海賊たちと向き合ってください」と言った。
   「何ですって?」
   「はい、敵と向き合う、敵がはっきり見えるまで待つ、、これが敵の襲撃への対抗策のベストなんです。速度を、五ノットに落として下さい」
   ウエイクフィールド船長が頷いた。――機関長に伝えるように命令を下した。ビクトリア号は速度を落として船首を廻した。波が高いので旋回中ローリングしたり、ピッチングで揺れた。
   船客たちは、叫び声や弾薬箱を持って走る兵隊の慌しい足音を聞いた。デッキが真下に見える二階の船客たちがパニックし始めた。揺れる船…恐い顔で甲板を走る兵隊…何か深刻な事件が起きると感じていた。
船長は船内放送のPAシステムを使って船客にアナウンスしようとした。だが、PAは作動しなかった。こんなことは初めてだ…船長がマーフィー一等航海士の目を不思議といった表情で覗いた。マーフィーも怪訝な顔をしていた。マーフィーは下士官のひとりを大食堂に送った。
   その下士官が大食堂に入って来た。そして、不安に怯えている船客たちに叫んだ。――どうか船室へ戻って下さい。そしてドアの鍵を中からロックして下さい…
   「質問してもいいですか?一体、何が起きたのですか?」老いた紳士が下士官に訊ねた。
   「海賊!われわれは間もなく海賊と対峙する。英国海軍の警備隊が乗船していますから、ご心配は不要です。すぐに終わります。どうか、キャビンに戻って下さい」

   大英帝国武器廠が造った軽機関銃「ブレン」二基が船首に…右舷に二基…左舷に二基、合計六基の7.7ミリ・ブレン軽機銃が据えられた。機銃手たちが位地に着いた…警備隊長の命令を待っていた。艦橋から、二隻のPTボートが裸眼で見えた。ビクトリア号から3000メートルの距離に接近して来た。
   「命令があるまで撃つな!」赤ひげは訓練の行き届いた兵隊を信頼していた。
   「少尉殿、奴らも機関銃を船首に据えている」とマーフィーが指差していた。
   「波が高い海上では、PTボートの機関銃は不安定で的に当たらない。脅威ではない…1500メートルに近付いたら、警告射撃を数回撃つ」少尉の冷静な声に自信があった。

   ミッテントロッター夫人、アンナ、チャーリーとBBは大食堂を出るところだった。四人は、キャビンへ戻る人々の後列にいた。そのとき、あのキッチンの大扉が開いたのだ。船客たちは、あの背の高い、細身の、訛りのあるコックニーを話す英国人の男を見た。コックニーが、六人のインド人の男たちと現れた。その男たちは、みんな日本軍のピストル「ナンブ拳銃」を手に持っていた。六人のガンマンらは、大声を上げて後列の人々を人質に取った。
   大食堂の反乱は艦橋の船長たちに伝わった。クルーの間に混乱が生じた。まず、誰が最高責任者なのか?命令が船長だったり、少尉だったり、、全てがあまりにも短い時間に起きていた。

   マーフィーがデスクの引き出しから英国製のブルドッグ45口径リボルバーを取り出していた。そして弾丸を六発、装填した。士官の計画は、コックニーを射殺することであった。BBDリボルバーは銃身が短く弾薬が大きい。至近距離から撃てば、轟音が耳をつんざく。――ボスのコックニーを排除すれば、あとのギャングは手を挙げるだろう…
だが、この計画は一瞬にして頓挫した。コックニーが率いる四人の盗賊が船長室に押し入って、コックニーが「ナンブ拳銃」をウエイクフィールド船長の右耳に押し付けたのである。
   マーフィーは、盗賊たちに拳銃を気着かれないようにした。後ろに手を廻して、ゆっくりと、慎重にブルドッグをズボンと尻の間に差しこんだ。二人の盗賊が人質を連れてデッキに出てきた。その人質の中にミス・グリフィスがいるのが見えた。教師でマーフィーの恋人が…ミス・グリフィスは恐怖に慄いていた。マーフィーはミッテントロッターの家族が人質の中にいるのを見た。
   コックニーがデッキに降りた。武器を持った警備兵を見た。兵隊は二十人である。「武器を捨てろ!捨てないなら、この少女を海に投げ込む!」コックニーがアンナの腕を掴んだ。デッキに緊張が走った。
   マーフィーは、その瞬間を逃がさなかった。ブルドッグをズボンの後ろから抜いた。その瞬間、乾いた破裂音が聞こえた。デッキの人質たちは凍ったように立ちすくんだ。その空気を裂く音はデッキの上から聞こえた。ライフルを持ったインド人の盗賊が階段に立っているのが見えた。その男が二発目を装填する引き金の音がした。マーフィー一等航海士は死んだ。
   ミス・グリフィスが目を覆って悲鳴を上げた。ウエイクフィールド船長が――警備兵たちに抵抗しないように命じた。兵隊は、ブレン軽機関銃、ライフル、ピストル…全ての武器を海中に投げた。
   二隻のPTボートが左舷の海面に着いた。盗賊たちがデッキから網梯子を投げた。六人のインド人が登ってきた。どれも、スカーフで覆面をしていた。写真に撮られてはまずいからである。チャーリーは、男たちのふくらはぎを見ていた。赤松の根っこを思わせる筋肉をしていた。アンナとBBは恐怖に震えて抱き合っていた…彼女たちは生まれて初めて海賊に面していた。
   海賊が船客にデッキに出るように命じた。キャビンに入って、宝石や現金を袋に詰めた。船客たちはコックニーのふてぶてしい態度を恐れた。コックニーは価値があると思われる男女を選んだ。船客たちは怯えた――この男は宝石だけが目当てではない「人さらい」なのだと判ったのである。
   二十分ほどで人選が終わった。十五歳から十八歳ぐらいの十八人のインド人の少年少女が網梯子を下りるように命令された。子供たちはPTボートに乗せられた。
   コックニーがミッテントロッター夫人と子供たちを見ていた。浚う価値があるかどうかと…コックニーが横の子分に、反って尖がった顎をしゃくった…ミッテントロッター夫人がアンナの腕を掴んだ。BBはチャーリーの腕を…
   コックニーは、アンナとチャーリーを母親とメイドから離すように子分に命じた。子供たちは一台のPTボートに、夫人とBBはもう一台のボートに乗せられたのである。海賊のボスがコックニーと口論をしていた。そのインド人の頭目は、英国人とそのメイドを浚うことを躊躇っていた。
   「白人を売るのはダメだ。イギリスは軍隊を送る。俺たちは、イギリス海軍に追い回される。皆殺しにされる」海賊のボスとコックニーはヒンズー語で話していた。
   「こいつらはカネになる」とコックニーが言い返した。

   BBがミッテントロッター夫人に何が起きているのか耳打ちしていた。
   「BB、この男たちに子供たちと別れたくないと言っておくれ」BBがコックニーに懇願した。細身の英国人はニヤニヤと笑っていた。
   二台のPTボートがクイーン・ビクトリア号の舷側を離れた。轟音と黒い煙りと共に走り去った。艦橋の航海士はPTボートがインドの西海岸へ向かっているのを見ていた。三十分で海賊のスピードボートが水平線から消えた。夕闇が迫っていた。1947年、十月下旬のある日、0600PMのことだった。

                           4
                    コロンボの南・セイロン

   二台のPTボートは飛沫(しぶき)を上げて海面を疾走していた。チャーリーとアンナは、ボルトで据付けられた鉄製の椅子にしがみついていた。幼い姉と弟は手を握りあっていた。ふたりは後ろからついて来る母親とBBが乗っているもう一台のPTボートから目を離さなかった。PTボートが速度を落とした。もうひとつのPTボートが波間を揺れながら進んで来て横に並んだ。コックニーが乗っているPTボートの海賊が他方のPTボートの舳先に立っている仲間に手を振った。人質たちは西の方角に小高い山のシルエットを見た。そのシルエットを背景に漁船が現れた。二台のPTボートは停止した。海賊が漁船にロープを投げた。ターバンを巻いた大男のインド人の船頭がコックニーのPTボートへ飛び乗った。
船頭とコックニーが低い声で話していた。船頭が手に持っていた麻袋の中から金貨や銀貨を取り出して勘定して見せた。コックニーが袋ごと受け取って大声で笑った。十人の子供とミッテントロッター夫人、BBが漁船に乗せられた。子供たちは自分たちの運命を知って泣いた。人買いに売られたのだ。チャーリーとアンナが叫んだ。ミッテントロッター夫人が子供たちの名を呼んでいた。夫人が漁船から海に飛び込もうとした。人買いが夫人を船底へ突き飛ばした。買ったばかりの奴隷を乗せて漁船は浜へ向かって行った。夜空は晴れており、星が満点に拡がっていた。山の後ろから上ってきた月は満月であった。ミッテンとロッター夫人とメイドのBBは、アンナとチャーリーがふたりの名を呼ぶのを闇の中に聴いた。
   アンナとチャーリーは、母親とBBを失った。気温がぐんぐん下がっていた。アンナが汚れた毛布を引っ張り上げた。姉と弟は泣き疲れてお互いの腕の中で眠りに落ちて行った。
   アンナが先に起きた。母親の乗ったPTボートを探したが、見つからなかった。海賊が誘拐した子供たちにナン(インドのパン)とミルクを配った。男は船尾のトイレを指差した。アンナが岩礁の上に灯台の灯を見た。PTボートは岩礁の多いインドの南端部に来ていたのだ。東の空が明るくなっていた。新しい日の始まりだった。
   二時間後のことだった。漁船が朝陽を背景に向かってくるのが見えた。六人のインド人の子供たちが人買いに売られた。コックニーが金貨と銀貨の入った袋を受け取って笑った。「こっちの四人は売り物じゃない」と漁船の船頭に言った。そして、インド人の若い女性ふたり、チャーリーとアンナの四人に漁船に乗れと手で招いたのである。PTボートの海賊たちはどこかへ去った。
   十人の子供とコックニーが海岸に向かっていた。陽が高くなっていた。漁船はセイロン島のコロンボの南の砂浜に乗り上げた。漁船の底が玉砂利に触れて「ザー」という音がした。船頭とその子分たちが、六人の子供をどこかへ連れて行った。インド人の女性二人、チャーリーとアンナに「船を降りろ」とコックニーが言った。短パンツを穿いたチャーリーが長い靴下を脱いで海水の中に降りた。さざ波が少年の足を洗った。チャーリーは一瞬の間、平和な気分になった。振り向くと、アンナが、スカートをたくし上げて、海に入るのが見えた。姉が弟に微笑した。弟が微笑を返した。チャーリーは、十歳、アンナは十三歳であった。  

                           *
   
   浜辺の林の中に古いアメリカ製の軍用トラックが待っていた。コックニーが四人の獲物を鎖でトラックの床に繋いだ。トラックはキャンバスの幌が掛けてあり、奥に四つのベンチがあった。そのベンチには先客が座っていた。――インドで浚われて船で運ばれたのだろう…とアンナは思った。十五歳から十八歳のヒンズー(インド人)の男女が四人だった。後部の椅子に「ナンブ拳銃」をベルトのホルスターに差したインド人の男が座っていた。男はサクランボを口に入れては、その白い種を床に吹き出した。
   チャーリーは、これほどマナーの悪い男を見たことがなかった。チャーリーがユーモアだと受け取ってクスクスと笑った。アンナは微笑していた…弟の環境に順応する能力が高いことに安心したのだ。
   トラックは海岸に沿って走っていた。土が湿っているのか埃が立たない。アンナは後部のベンチに座っていた。トラックが市街に入った。アンナの目にローカルの情景が入ってきた。色とりどりの果物や瓜類を積み上げた果物市場を見た。緑の枝にたわわに下がったバナナを見た。アンナはバナナを食べたくなった…トラックが速度を落とした。水牛が荷車を牽いて十字路を横切っていたからだ。麦わらの屋根が続いた。.蒸し暑くなっていた。アンナは、陽の高さから十時を過ぎていると思った。

   大きな十字路を右へ曲がった。十字路の角に尖塔のある古風な教会が見えた。鐘楼の鐘が鳴るのが聞こえた。アンナは、――十六世紀に、帆船で、はるばるヨーロッパからやってきたポルトガル人がセイロン島の土民をキリスト教徒に改宗させるために建てた教会だと…ボンベイの学校で習ったのを想い出していた。
   トラックは東へ向かった。教会の鐘の音が小さくなって、やがて尖塔が見えなくなった。その代わりトラックのジーゼルが轟音を出した。運転手がギアを一段落とす音が聞こえた。S字にくねる坂道を二時間走った。チャーリーがベンチから滑り落ちた。
   坂道をうんうんと喘いでいたトラックが下り坂を滑らかに走り始めた。丘陵が見える草原で停車した。ナンブ拳銃のインド人がキャンバスを取り除いた。子供たちはトラックを降りて深呼吸をした。空気は冷たく澄んでいた。――なんて美味しい空気だろう…アンナが思った。チャーリーもアンナも帽子をどこかで失くしてしまった。昼下がりの太陽が頭上で照りかえっていた…英国人の白い肌を容赦なく焼いた。浚われた青少年の中で、アンナとチャーリーのふたりが一番幼かった。インド人の青年がチャーリーに麦わら帽子を渡した。アンナが「サンキュー」とヒンズー語で言うと、青年は、にっこりと笑った。それをコックニーが横目で見ていた。
   フォードが速度を上げていた。やはりS時の山道だったが、下り坂だったからだ。空は高く青かった。秋なのだ。高原の空気が清々しい。チャーリーがベンチに掴まって立ち上がった。アンナが弟のバンドを捕まえていた。谷間に緑の草原が広がっているのが見えた。前方に大蛇がくねっているような河が見えた。川面がきらきらと光っていた。フォードが木製の橋をカタカタと音を立てて渡った。

   「アンナ、見て!見て!アンナ、象の群れが河にいる。赤ちゃんがお母さんの横にいる」とチャーリーが興奮していた。野生の象や仔象を見たら、少年なら誰もが興奮する。少年は自分たちが浚われたことを忘れていた。
   インド人の青年男女がチャーリーの持つ子供の純粋さに笑った。ひとりひとりが違ったストーリーを持っていたが…自分たちは、もはや自由の身ではなく労働を強制される運命であることを一瞬だが忘れていた。運転手がトラックを停めた。ランチを食べるために…青年男女と幼い姉と弟は、パン、バナナ、ブリキの缶に入れた水を受け取った。 

                            5
                  「胡椒の王様」という名の農園

   野原のランチの後、四時間走った。コロンボの海岸を出てから九時間が経っていた。チャーリーはアンナの肩に頭を乗せて眠りに落ちた。眼が覚めたとき、自分がどこにいるのか判らなかった。アンナが弟の縮れ毛を指で梳いた。チャーリーは、コバルト色の群青(ぐんじょう)の空を見た。その西方の空が黄色くなっていた。陽が沈んで行くのを見た。アンナがチャーリーに微笑んだ。
   彼らは谷間に茶畑が山の麓(ふもと)まで広がっているのを見た。その向こうに青い山脈が見えた。チャーリーは「胡椒の王様」という名の茶農園に着いたあの夕刻を一生涯、忘れることはなかった。弟が姉に――これほど美しい景色を見たことがないと何度も言った。
   チャーリーとアンナにひとつの小屋が与えられた。セメントの床だったがベッドが二つ、粗雑なドアの付いたトイレ、カーテンだけのシャワー室、それに木製のアイスボックスが洗面所の横に置いてあった。フルーツや水を保存するためであった。――チャーリーが夜中にお腹が空いたら、何か食べさせれるわ…とアンナは思った。東南に面した窓があった。茶畑が四方に広がっていた。たった一つの窓から完璧に近いすり鉢型の山が見えた。
   ――あの山は日本の富士山に似ているわ。日本の人々がどんなに富士山を愛しているか小学校で習ったのよ。日本の美術家は何年もの間、いろんな角度から富士山を絵に描いたって。私も私たちの富士山を絵に描くわ。後日、アンナは、その山の名が「アダムの高峰」と呼ばれていると教えられた。

   「胡椒の王様」は、住み心地の好いところに思えた。ふたりはその生活も売られるまでの期間だと知らなかった。姉と弟はコックニーが英国人の子供をアラブの王様に売る計画を知らなかった。
   アンナとチャーリーは、小屋の中や天井を見回していた。自分たちの運命を悟っていた。セイロンの山の中の農園に幽閉されたという現実がふたりを大人にした。アンナも、チャーリーも、もう泣かなかった。お互いの顔をじっと見詰め合っていた。ことばを交わさなくても、弟は姉が、姉は弟が何を考えているのかわかった。ふたりが考えていることは、農園を脱出して、イギリスへ帰り、父母と再会することであった。
   それが農園に来た最初の夜だった。アンナが天井から下がっている電灯の紐を引いた。「おやすみ、愛するチャーリー」「お休み、ぼくの大好きなアンナ…」暗闇で弟が応えた。  

                            *

   夜明けに姉と弟はガーンという凄い音に飛び起きた。誰かが小屋のドアを棍棒で叩いたのだ。数人のガードが木造の長屋の棟と小屋のドアや壁を叩いていたのだ。チャーリーが窓の扉を開けると馬の嘶(いなな)きが聞こえた。その方角に100人ほどの農民が長い行列を作っているのが見えた。朝食を受け取る行列だった。
   「ランチ、クッキー、甘い紅茶が畑に配達される。インド人のガードが吼えた。
   「ヒンズー」と呼ばれるインド人たちは暴力を振るわなかった。殴ったり蹴ったり、杖で叩くことは厳禁されており、規則を破れば、厳罰が待っていたからだ。奴隷の目の表情にヒンズーに対する恐怖はなかった。レイプには最も厳しい罰が与えられた。柳の鞭で百叩きのあげく、犯人は奴隷の身分に落とされるのであった。
   だが、馬に跨ったチーフ・ガードはライフルを馬腹に着けた革の鞘に差していた。手には、樫で出来た杖を持って奴隷たちを威嚇していた。そのチーフがチャーリーとアンナを行列の中に見た。---この英国人の子供たちをどうしろと言のか?と馬上のコックニーに訊いた。その低く抑えた声には、コックニーを詰(なじる)る響きがあった。
   「何かに使え。アラブに売るまでだ」
   コックニーとチーフは他の者に聞こえない低い声で話していた。ヒンズー語がわかるアンナの体が震えた。十三歳のアンナは、――ハーレムに売られて、アラビアのキングとセックッスをさせられると想像していた。少し離れていたチャーリーの耳には聞こえなかった。アンナは男たちの会話を弟に話さなかった。
   「この男の子は胡椒の森へ連れて行け。女の子には茶の葉を摘む仕事をさせろ!」とコックニーが言うのが聞こえた。
   チーフ・ガードが女たちにトラックに乗れと命じた。トラックは混んだ。奴隷たちは荷台に立っていた。東の丘の後ろから朝陽が上ってきた。農園の空気に芳しい香りが満ちていた。時間は、0800。アンナを乗せたトラックは走りだした。チャーリーが心配そうに見送った。「ノー、ウォーリー」と姉が弟に言った。

   十人のインド人の少年とひとりだけ肌が白いチャーリーが残った。馬のひずめが聞こえた。ひとりのガードが十二頭の馬を馬小屋から出していた。一人一人の少年に梯子と竹篭が与えられた。少年たちは竹篭を背負って馬に跨った。チャーリーには、梯子はなく、竹篭だけが与えられた。チャーリーは地面に落ちた胡椒の実を夕方まで、拾う仕事なのだ。――その竹篭を胡椒の実でいっぱいにしろ!とガードが冷たく言った。 チャーリーが睨み返した。チャーリーは姉のアンナが心配だった。トラックが去った方角に走り出したくなっていた。

   胡椒の森へ向かうグループのリーダーは、サタナンドという名の青年だった。サタナンドとは、「シバ神の使い」という意味だと後日知った。サタナンドは二十歳のシンハリーズなのだとこれも後日知った。その「シバ神の使い」がチャーリーに微笑した。白い歯が印象的だった。サタナンドは、その大きな馬に軽々と跨った。鞍のない裸の馬なのだ。サタナンドがチャーリーに「乗れ」という風に手を伸ばした。遊園地の子馬にしか乗ったことがないチャーリーが躊躇った。だが手を出すと、サタナンドがチャーリーを引き上げた。大きな強い手であった。チャーリーは、リーダーの前に座った。馬がブルルルーと文句を垂れて、反抗の印しとばかりに大きな糞を落とした。
   サタナンドは鋭い目付きのガ―ドとどこかが違った。サタナンドの口元は厳格に見えたが、目は優しい人の目であった。チャーリーを元気着けるようにチャーリーの肩に大きな温かい手の平を置いた。十歳の英国の少年はその瞬間、サタナンドが大好きになった。
   十二頭の馬と十三人の少年たちが土の道路を二列になって北へ進んだ。遠くに岩山がそびえているのが見えた。道路のわきに紫色の草花が咲き誇っていた。谷間を霧が覆っていた。空気は冷たいが乗馬で秋の高原を行く…チャーリーは自分が奴隷の身であることを一瞬忘れた。幸せを感じていた。父母と別れたことだけが少年の胸を押し潰していた。
   先頭のサタナンドとチャーリーが茶畑の切れたところで東北へ曲がった。小川の横の畦道を行き、そま道に入った。やがて、森の中に入った。森はブナの大木が茂っており、木の間から陽が筋になって射していた。

   アンナが一人のヒンズーの女性を見た。ビクトリア号の船内で見た顔だ…この若い女性は、PTボートにも一緒に乗っていた。コロンボの海岸から農園までフォードのトラックにも乗っていた。女性はキッチン・ヘルパーだった。キューナード汽船会社の十六歳の社員だった。少女である。そのインド人の少女もアンナに気が着いていた。――こっちにおいでと手を振った…
   「私の傍にいなさい」と彼女が言った。彼女の名前は、アアシリア。「ヒンズーの神様の国から来た」という意味であった。アアシリアがアンナにスカーフをくれた。頭に巻いて肩に掛けるやりかたを教えた。アンナは憶えるのが早かった。オレンジのスカーフを被ったアンナは美しかった。十三歳の英国人の少女アンナも環境順応力が高かった。
   ふたりの少女は、逆境の中で姉妹になった。ふたりはよく笑った。コロコロと朗らかに笑った。年上の女性たちは、幼いアンナと十代の少女アアシリアが茶畑で働くのを心配していたが、明るい笑い声に安心した。――この娘たちは強いんだわ…ふたりで逆境を乗り越えるだろう…そして、ふたりに茶の葉の摘み方を教えた。「お茶摘み」たちは、一日五つの篭をいっぱいにするのがノルマだったが、アアシリアとアンナは篭三つをいっぱいにすれば良いのだと…
   アンナは高原の空気に秋を感じていた。黄色い柿が枝がしなるほど、たわわになっているのを見た。十月の中旬なのだ。――まだ熟していないと思った。
   「来月、収穫するのよ」と年上のヒンズー女性がアンナに言った。アンナは母親を想った。――ママ、今、どこにいるの?BBは一緒なの?涙が少女の頬を流れ落ちた。 

   「胡椒の王様」と呼ばれる農園はセイロンの東南部の山岳地帯にあった。谷間が広く浅瀬の河が大蛇のようにくねっている。両岸は岩場が多い。何箇所かに大きな湖が出来ている。そして雨季がある。ベンガル湾から大雨がやってくるのである。理由はこの時期に地球の軸が傾くからだ。赤道まじかのセイロン島でも気温が下がる。そして雨が降る。乾季でも四方を海に囲まれたセイロン島には定期的に雨が降る。河の水量は多く、鯉、やまめ…川魚の影が濃い。森は密林に近い。畑は肥えている。作物はなんでも取れる島であった。インドに比べて豊沃な土壌なのだ。セイロンの象は小型で丸い形である。耳も、牙も小さく性質が優しい。島人は象を大事にする。――理由は、お釈迦さまは白象の生まれ変わりで、セイロンで永眠されたと信じられており、セイロン象は信仰の象徴なのだった。セイロンの多数民族、シンガリーズは仏教徒なのである。仏教徒は菜食か穀物主義者が多い。だから狩猟をしない。それで大小の野鳥が多く棲んでいる。狩猟と野鳥を食べるのはアボリジニ(原住民)だけなのだ。さすがに彼らも、天国の鳥、孔雀は食べないが…
   お茶の収穫期は終わりに近付いていた。だが、大農園の奴隷たちには、いくらでも仕事があった。ひとつの収穫が終わると、もうひとつの収穫が待っていたからだ。どの農園にもコプラの木が茂っていた。コプラはココナッツ(椰子)の種(たね)である。コプラ工場とはココナッツ・オイルを作る工場なのだ。コプラは「貧乏人の椰子油」と呼ばれていた。茶摘みの季節が過ぎると、女奴隷は椰子油工場で働いた。男奴隷は紅茶の製造工場で働いた。茶の葉を乾燥機に入れる、裁断機で細かく切る、缶に詰める、木箱に入れる、トラックに積む…男たちには、もうひとつ仕事があった。牛と山羊の飼育である。家畜は食肉用ではなかった。男たちが造ったのは、ミルク、バター、チーズなどの酪乳品なのであった。セイロンの象は性質が優しい。若衆は象を連れてブナの森に伐採に行った。老いた奴隷たちは、牛馬と山羊の飼育や搾乳を専業にしていた。製材所があった。奴隷小屋を建てる材木とチークの製材なのだった。チークは英国の貴族の家具となった。チークと紅茶が高価な英国ポンドを稼いだのだ。「胡椒の王様」は富豪なのだ。

    強制労働と現代では呼ばれるが、「奴隷」が当時の共通語であった。農園の奴隷はロシアの農奴ではない。農園の奴隷は過酷な労働を強いられたのでもなく、惨めな住居に押し込められたのではなかった。奴隷たちは宗教が違う者がいたが、彼らのお祭りの日には、コックニーは自由と小費いを与えた。奴隷たちは自分たちの祭日でなくても、同じように小費いを貰った。「バザー」は近隣の農園がローテーションする慣わしだった。男たちは、天幕を張ったり屋台を造った。女たちはクッキー、キャンデイ、手製の靴下、スカーフ、マフラーとセーターを作って売った。近隣の農園はそれぞれの特製品を競った。バザーはこの谷間で毎月、第三日曜日と決められていた。アンナとアアシリアはチームであった。ふたりの少女は姉妹になった。年上のアアシリアがアンナに――民芸品を作るとコストのわりに儲かると教えた。アンナはクレヨンで描いた風景画を売った。台の上の笊にルピーが溜まった。アンナが下着を買いたいと言った。チャーリーにコットンのパンツと白いシャツを買った。残ったルピーは素焼きの壷に入れて将来に備えたのであった。 

                            *

   1947年のクリスマス・イブ、胡椒の王様に来てから二ヶ月が経っていた。アンナは、聖母マリアがキリストを抱いている絵をクレヨンで描いた。ついで額を作って壁に掛けた。松材のテーブルに瓶を置いて野菊を飾った活けた。そしていつも、ナップサックに入れて持ち歩いていた聖書を机の上に置いた。五本のローソクに灯を点した。五本のローソクは、父、母、チャーリー、アンナとBBの五人なのだ。姉と弟は、カーペットに膝ま着いた。チャーリーは、ローソクの前で小さな手を組んだ。そして静かにお祈りをした。彼らは農園でたった二人のキリスト教徒なのであった。
   一月と二月は一年のうちで、最も寒く空気が乾燥する季節であった。それでも水が凍ることはなかった。男たちは茶畑に出て行った。この時期に肥料を撒き、お茶の苗を植えるからだ。逃げようと思えば逃げれる環境だった。だが、ライフルを持ったガードに監視された男たちに逃げる術(すべ)はなかった。捕まれば杖で打たれることを知っていた。彼らはあきらめていた。
   男の奴隷は黙々と枯れた茶の枝にハサミを入れた。来年初夏の収穫の準備だった。女たちは作業着を縫った。布団に綿を詰めた。農園では奴隷の男女が結婚することは許されていた。農園主たちは奴隷が結婚することを奨励していた。労働力を確保出来るからである。女性たちは、妊娠する月を注意深く選んだ。赤ん坊は正月に生まれることが多かった。

   「どうして、ヒンズー教徒の海賊が、同じヒンズー教徒の人々を誘拐するの?」不思議で仕方がないという風に、チャーリーがサタナンドに訊いていた。ふたりは茶畑にランチを届けるために馬車のコーチに並んで座っていた。
   「カースト制度なんだよ。捕まったヒンズー教徒はインドでもっとも貧乏な人々なんだよ。女の子は親に売られることがある」サタナンドが悲しい目をした。
   「どこに胡椒の王様はいるの?」
   「彼は、英国人なんだ。この農園に住んでいない」
   「じゃあ、誰がボスなの?」
   「コクニー。キングの甥だから」
   「どうして胡椒の王様って呼ぶの?この農園は紅茶農園だし、王国じゃないのに?」チャーリーはサタナンドを質問攻めにしていた。

   以下がサタナンドの説明であった。セイロンの歴史を英国の少年に解説した…
   ――十五世紀にバスコ・ダ・ガマがインドの南西の海岸に着いた。セイロンではなくて…セイロン島は、数年経ってから、ポルトガルの商船団が見つけた。彼らは、コロンボ湾が水深が深いことを知って港を造ったんだ。彼らは胡椒を探しに来た…布教のためにカトリックの教会を建てた。チャーリーは、――コロンブスというイタリアの海洋探検家がスペインの女王の求めで、インドへ行く航海に出たが、アメリカの島に着いた…コロンブスはすっかりインドだと勘違いして、「西インド諸島」と名付けたと父親が話してくれた夜を想い出していた。
   ――ポルトガル王国が没落するとオランダ人がやって来た。彼らは、ポルトガル人よりも造船や土木技術が発達していたので、コロンボに街路を設計して運河を切り開いた。ここへ来る日にコロンボを見たでしょ?道路が整然としてたでしょう?彼らの造った道路や運河がセイロンの農産物や材木を運ぶルートになった。コーヒー、コプラ、シナモン、チークがコロンボの港へ農園から運ばれた。十九世紀に入ると、イギリスがフランスに戦争に勝った。それが英仏百年戦争の終わり…
   ――イギリスはオランダ王国の守護者だったからオランダの植民地であったセイロンを統治したんだ。チャーリー、君のご先祖さまさ。イギリスはオランダの数倍の工業力があった。鉄鋼業~蒸気タービン~巨大な汽船~蒸気機関車~蒸気タービン発電機…
   ――イギリス人は紅茶の文化…コーヒー畑をやめさせて茶畑を開拓した。これがセイロン茶の歴史…茶の木の交配技術がどんどん発展したので、今じゃ世界一の紅茶の輸出国となった…
   ――自動車が発明されると、タイヤのゴムの需要が大きくなった。チャーリー、ゴムの木を見ただろう?あの幹が緑のゴムの木さ。だけど、胡椒は自然に採れる。密林の木という木に胡椒の蔦(つた)がてっ辺まで絡まっているからね。これほど手間の要らない産物は世界中にない。ただ、拾うだけなんだから…
   聴いていたチャーリーが地面の胡椒を拾った最初の日を想い出して笑った。
   ――でも、今じゃ、紅茶の輸出が島の収入の全体を占める。胡椒産業はマラヤとインドネシアに移った。――でも胡椒の王様という名は残ったんだよ…とサタナンドが締め括った。
   お話し上手のサタナンドがチャーリーに微笑していた。
   「胡椒の王様になりたいか、チャーリー?」
   「おお、ノー、絶対にノー!」とチャーリーが答えた。

                           6
                    セイロンは独立したが…

   「アンナ、サタナンドがセイロンが独立したって言ってた。それじゃ、――なぜ、僕たちは紅茶農園の奴隷なの?って訊いたら、サタナンドは頭を振って、質問に答えなかった」姉と弟が新しい情報を交換していた
   1948年2月4日、セイロンは大英帝国の統治から独立した。インドが「英国領ラジ」と呼ばれた英国の統治から独立してから六ヶ月後であった。アンナが、彼らの父親、ミッテントロッター卿が家族をイギリスに帰す決心をした理由は――インドの独立はそう簡単じゃなかった。――誰が何をコントロールする?ボンベイに大暴動が起きていたから、とチャーリーに話した。
   「チャーリー、親友のアアシリアもBBと同じヒンズーなのよ。ヒンズーというのはヒンズー教徒のことなのよ。だけど、サタナンドは仏教徒のシンハリーズなんだって。ここへ来てから、ボンベイでは聞かなかった言葉を沢山聞いたわ」アンナとチャーリーが夜食を食べながらしゃべっていた。
   「おお…アンナ…サタナンドが、僕たちにお釈迦さま(永眠に着いたお釈迦さまの石像)を見せてくれるって…北の丘にあるんだってさ」とチャーリーが興奮していた。

                            *

   「シンハラって誰のことなの?」チャーリーとサタナンドは馬で胡椒の森に向かっていた。相乗りだが、チャーリーはサタナンドの前で手綱を持っていた。サタナンドがチャーリーに乗馬を教えていたのである。馬に乗って梯子と篭を持った十一人のヒンズーの少年たちが後に続いた。サタナンドは、コックニーに浚われてきた英国の小年の保護者になっていた。
   「シンハラは私たちの話す言語なんだ。私たちはシンハリーズと呼ばれているセイロン島人なんだ。シンハリーズは、ヒンズーと、どこかから流れてきた海洋民族の混血なんだが、インドのヒンズー教徒ではなくて仏教徒なんだよ。私たちは、何千年もこの島の山岳地方に住んでいた。セイロンの80%が私たちシンハリーズなんだ」
   「なぜ、農園にシンハリーズがいないの?」
   「この土地は私たちのものなんだ。シンハリーズは英国人やインド人の農園で働くことを拒絶している。外国人の農園で日当を貰う生活を拒絶している」
   「それじゃあ、どうして、あなたはこの農園にいるの?」チャーリーがサタナンドを振り返った。
   「私はこの農園で生まれた。両親がこの農園で雇われていたから。売られたのじゃない。英国人の胡椒の王様に働きたくはない。でも、行くところがない。チャーリー、このセイロンには仕事がない」
   「タミールって誰のこと?」少年は質問を続けていた。

   ――タミール・ナズはヒンズー教徒の中でも最も貧乏なんだ。インドでは、「アンタッチャブル(賤民)」と言われている。彼らは、インド南部に多くが住んでいるんだ。マドラスに集中しているんだ。
   チャーリーはバスコ・ダ・ガでのホテルで食べた、こってりとした「カレー・マドラス」を想い出していた。確か、赤い山羊の肉が入っていたと。
   ――何百年もの期間、彼らはインド南部から仕事を求めてセイロンにやってきた。インド南部とセイロンは、いくつかの小島と岩礁で繋がっているんだ。小船を漕いで、セイロンにやってきた。この二月にセイロンが独立した。コロンボにあるセイロン自治議会は、80%の大多数のシンハリーズが選出した代議士が取りし切っている。セイロン議会はタミールに市民権を与えなかった。だから、タミールは政府の仕事につけない。セイロン国軍にも入れない。町の警官にもなれない。タミールは、「やくざ」になった。元々、不法移民だったし、体格がよく、暴力が大好きな連中だし…町のタミールは分離独立を要求している。シンハリーズの政府がそれを認めるわけがない。そこで、タミール・ナズたちは、農園のガードという「私兵」になっている。彼らは武装しており、暴力を振るう。タミールは雇われヤクザなんだよ。
   「チャーリー、セイロンは、長い歴史を持つ島なんだ」
   「僕、ようやく、タミールが農園にいる理由が判った。――これはタミールの農園だと言っているのを聞いたよ。サタナンド、もしも奴隷が逃げたらどうなるの?」
   「去年、若い女奴隷が逃げた。彼女は犬に追っかけられた。ガードに捕まった。彼女は、罰として焼印を額に押された。それ以来、誰も逃げなくなった…」
    「その若いヒンズーの女性を見たことがある。おでこに火傷の痕があった。丸の中に十字が刻まれた…誰が可哀そうな女性に動物のように烙印を押したの?」チャーリーは身震いをしていた。
   「片目のタミールがやった…コックニーの命令で…」
   「胡椒の王様は残酷な人間だ。英国は、セイロンだけでなく、インドの全ての農園を破壊するべきだ」チャーリーの声に奴隷の主人に対する憎しみがあった。

                           7
                  お釈迦さまの涅槃像に参る

   1948年4月8日…お釈迦さまの誕生日、サタナンド、彼の両親、弟と小さな妹がアンナとチャーリーの小屋にやってきた。仏教徒の国民祝日であった。イギリス人のコックニーと言えども、この仏教徒のお祝いには勝てなかった。毎年、この日、彼らは北の丘にあるお釈迦さまの涅槃の像に参拝する習慣だった。つまり、お釈迦さまの誕生日を祝う日なのだ。礼拝は儀式だったが、趣向は青空の下のピクニックなのだ。サタナンドの一家はご馳走を沢山作って重箱やバスケットに入れて持っていた。アンナは重箱を包んだ入りとりどりの風呂敷を美しいと思った。親友アアシリアも招待されていた。サタナンドの両親が米と水と草花を手に持っていた。一行は馬小屋に向かって歩いた。サタナンドとチャーリーが、二頭の挽馬(ばんば)と馬車を引き出した。チャーリーは、すっかり馬を扱うことに慣れていた。サタナンドが教えたのである。
   「さあ、ピクニックへ行こう」と御者のサタナンドが馬に鞭を当てた。横にチャーリーが座っていた。「幸せがいっぱい」という顔をしていた。馬車のベンチにランチボックスをしっかり抱いて…彼らは北の丘へ向かった。――二時間で着くとサタナンドが言った。アンナとアアシリアは自分たちが作ったビスケットや飴を持っていた。チャーリーは水を汲むバケツ係りなのであった。サタナンドが不思議な調べの民謡を口ずさんでいた。前方の丘に幾重にも曲がった道が見えた。馬たちが白い息を吐きながら坂道を登りだした。
   「チャーリー…あの青い峰を見て!あの峰の100キロ北の谷間にカンデイがあるんだよ。昔、カンデイは王国だった。仏教徒のセンターなんだよ。シンハリーズの国の心臓なんだ。この4月の8日に、カンデイで仏教徒のお祭りがある。いつの日にか、歯の寺院を見せてあげるよ」サタナンドの声には、シンハリーズの誇りがあった。
   「私の息子は民族主義者なのよ」と青年の母親がアンナに言った。
   「はい、そうです。お母さん、ぼくは英国人所有の農園を取り戻したいし、タミールをセイロンから追い出したいんだ」 
   二頭の馬と六人が公園の入り口に着いた。お釈迦さまが寝ている姿が見えた。チャーリーが飛び降りて、走って行った。少年は、嬉しさのあまり両手を挙げて空を仰いだ。チャーリーは、十一歳に近くなっていた。赤ちゃんの脂肪が脚から消えていて、ふくらはぎの筋肉が発達し始めている。――お母さんに見せてあげたい…アンナが微笑んだ。アアシリアが、サタナンドの母親に手を差し伸べた。アンナはお菓子、果物、チャーリーの水バケツを持って降りた。サタナンドが、カーペットを草の上に広げた。最後に降りた父親が泉水へ行った。丸い泉水の真ん中に大理石で出来た象が置かれていた。象は鼻を持ち上げていて、その鼻の先から水が流れていた。みんなは手を洗うために並んだ。サタナンドの父親が先に手を洗って、水を口に含むとうがいをした。これが一千五百年の仏教徒の伝統なのであった。次が母親、サタナンド…年功序列の世界なのだ。
   チャーリーが、サタナンドについて行った。お釈迦さまの石像の前に筵(むしろ)を敷いた。サタナンドが草花を像の周りに立ててある竹筒に差した。チャーリーがそれを見て、白菊の花やタンポポを集めた。ふたりは並んで、筵の上に膝ま着いた。目を瞑って、手を合わせた。アンナが弟を見ていた。 弟は呟いていた。――ママ、今どこにいるの?必ず探し出して、助けに行くよ。待っててね。アンナは、弟の頬を涙が流れ落ちるのを見た。

   ピクニックは楽しかった。チャーリーが、サタナンドにヒンズー語で話していた。チャーリーのヒンズー語の上達の早さにみんなが驚いていた。ふたりは馬の話に夢中になっていた。アンナがスケッチブックと箱に入ったクレヨンを取り出していた。ボンベイの屋敷を出るときから肌身離さず持っていた絵の道具なのだ。航海の旅にと父親が買ってくれたドイツ製の写真機は海賊に盗られてしまった。蛇腹式の最新型の写真機だった。アンナがお釈迦さまを描いた。次に、遠方に聳え立つ岩山を描いた。

                            8
                      日曜学校が始まった…

   1948年6月6日にチャーリーは十一歳になった。アンナは十月十四日まで十三歳だったが…チャーリーは楽天的で明るい性格の少年だった。少年は滅多に泣かなかった。だが、ときどき、想いに沈んでいることは明らかだった。アンナは、ある日の夜中、弟がベッドの中で咽び泣いているのを聞いた。姉は弟を起こした。ついで、ローソクに灯を点(とも)して、聖書を取り出した。

   ――夜は間もなく終わる。朝が近付いている。闇の行いを横において、朝陽の鎧(よろい)を着けよう…

   アンナは弟に聖書を読むことを教えた。毎朝が、三十分の聖書の朗読で始まった。それと、日曜日の午前は、読み、書き、算数を教えた。チャーリーは賢い少年だった。旧約聖書の節を一度聞けば憶えた。十三歳の姉は正しい英語の話し方も教えた。

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                      カンデイの大競馬

   1949年10月、チャーリーは十三歳と四ヶ月になっていた。十月の天候は好かった。「天高く、馬肥ゆる」とセイロンでも言われた。その十月のある日の午後、コックニーとタミールのガードたちが「カンデイの大競馬」から帰ってきた。
――あいつらは機嫌が悪いぞ。また競馬で入賞しなかったからだ。今までに、この農園の馬が勝ったことがないと、サタナンドがチャーリーに囁いた。
   サタナンドが――盛大な競馬が三年ごとにカンデイで行われる。セイロンの農園の主を私たちローカルは、「キング」と呼んでいる…そのキングや外国の富豪がスポンサーとなって、十月の最初の日曜日を「カンデイの大競馬」の日と定めている…とチャーリーに話した。サタナンドは、「ああそうだ」という顔になった。――チャンピオンの農園はね、銀のカップ、賞金一万ルピーズ、ジョッキーには、24カラット3オンスの金メダルが与えられると言った。 そして、
「チャーリー、1952年の秋の大競馬で、この農園のためにブラックパールに乗って欲しい」とサタナンドが、チャーリーを驚かしたのである。

   アラビア種のコルト(雄の子馬)が生まれた。その日、サタナンドがコックニーに「十二歳の英国の少年、チャーリーにその子馬を上げてくれ」と懇願した。その子馬は母馬が茶色一色なのに、体全体が黒光りしていた。チャーリーが、ブラックパールと名付けた。
   「ご主人さま、三年後には、コルトも、チャーリーもカンデイの大競馬に出る準備が出来ています」
   「ボーイは乗馬がうまいのか?」
   「今まで、私が訓練したジョッキーの中でベストです」とサタナンドはコックニーの灰色の目から目を離さなかった。
コックニーは、優勝杯を一度も抱いたことがなかった。それがこの男の生涯の夢であった。タミールのジョッキーにはうんざりしていた。
   「やらせてみろ!」と言って、立ち去った。

                           *

   ある朝、コルトを見るために、コックニーが馬小屋にやってきた。チャーリーが子馬に麦をやっていた。
   ――チャーリー、おまえは、森に胡椒を取りに行く必要はない。これから、馬の世話をやれ!その黒い子馬を育てろ!
   それを聞いたサタナンドが白い歯を出して、にっこりと笑った。調教師のサタナンドは、チャーリーをすでに訓練していた。競馬の騎手に求められるのは、足、腰、腕、背中の筋肉なのである。サタナンドは、騎手志願の少年に筋肉トレーニングの日課を決めた。十二歳の英国の少年は、毎日5KMを走った。腕立て伏せは、言われずとも率先してやった。
   ――そんなにやると、明日は起きられなくなるよ…とサタナンドが言うと、チャーリーは笑った。木の枝にぶら下がって、あごがその枝の上をクリアするまで頑張った。雨天だろうが、カンカン照りの日だろうが…それがチャーリーの日課になった。少年は生きる希望を持ったのである。

   チャーリーは、「黒い真珠」と名付けた子馬が二歳になるまで馬小屋で一緒に寝た。姉と一緒に夕食を食べるとき~聖書を朗読するとき~シャワーを浴びるとき~着替えるときだけ小屋に帰った。
   ブラックパールが二歳になった。子馬は若い馬に育っていた。その日、始めて鞍を着けた。ブラックパールは何が起きるのか知っていたように嘶いた。少年は、ブラックパールを囲いの中に連れて行って跨った。その日は軽く一時間歩きまわった。サタナンドが柵に腕を置いて、何も言わずに見ていた。チャーリーは、徐々に乗馬の時間を増やした。やがて、一日、四時間訓練するところまできた。訓練が終わると、河へ行って、騎手志願の少年と愛馬は水浴した。愛馬の毛が乾くと、少年はその黒光りする毛に、何時間もブラシを掛けた。
   「チャーリー、馬に角砂糖を一日に十五個以上やってはいけない。多くの競馬用の馬は糖尿病なんだ。砂糖を与え過ぎるんだ。糖尿気がある馬は、最後の四番コーナーを廻って、ラスト・スパートのときになると息が切れる」とチャーリーに忠告をした。チャーリーは、サタナンドの忠告を真剣に聞いた。子馬の体重を量り日記に付けた。
                            *

   1951年の初夏…ミッテントロッター卿がボンベイの埠頭でクイーン・ビクトリア号の甲板に立っている四人に別れの手を振ったあの日から四年が経っていた。四人が海賊に連れ去られた日の出来事は永遠の記憶となった。アンナは十月に十七歳になる。チャーリーは、六月に十五歳の誕生日を迎える。幸運なことに、アンナもチャーリーも深刻な病気にならなかった。チャーリーが一度だが日射病に罹った。麦わら帽を被っていなかったからだ。アンナは、茶畑の労働や、食べ物や、粗末な小屋の生活環境に強かった。彼女は風邪を引いても、一服の風邪薬で翌朝には、ベッドから起き出した。セイロンの人々は「スリ・ランカン」と自分たちを呼んでいた。彼らは果物や西瓜(すいか)、みかん、柿などの新鮮な成り物以外は、煮るか、焼くかして食べた。スリ・ランカンの昔からの知恵だった。ふたりはローカルの食習慣に従った。このダイエットが姉弟を救った。
   チャーリーは筋肉が発達したハンサムな青年に成長した。アンナは、弟はセクシーだと思った。アンナは成熟した。少女の影はどこにもない若い女性になっていた。胸が大きく、豊かだった。――姉はチャーミングだ。コットンのパンツを履いていても、気品がある…彼女は、いつか両親と会えると確信している…と弟は思った。
   チャーリーが十五歳になったとき、チャーリーはサタナンドの小屋に移った。アアシリアはアンナの小屋に移った。サタナンドは二十四歳、アアシリアは二十一歳、アンナは十八歳の誕生日に近付いていた。この移動はアンナの提案だった。コックニーの管理事務所も同意した。

                            *

   ――カンデイの大競馬があと一週間で開催されると…サタナンドがチャーリーに言った。1952年10月のことである。
   「アンナとアアシリアも一緒に来れるの?」 チャーリーがサタナンドに訊いた。
   「イエス、彼女たちも、一緒に行く。コックニーの招待なんだそうだ」
   「サタナンド、僕たちは、セイロンへえ来てから始めて農園を出ることになる。この五年間余りの年月、警察は、僕たちを、捜していなかったの?もしも、警官が僕に質問したら、僕はどう答えればいいの?」チャーリーの心配は、警察が白人のアンナとチャーリーがコックニーの一団に加わっていることを発見したとき、警官はどうするのだろう、という心配であった。
   「チャーリー、警官はシンハリーズなんだ。彼らは僕たちを見もしない。なぜなら、武装したタミールのガードと一緒だからだ。昨年、ちょっとした誤解から、二民族の間に紛争が起きた。十五人のシンハリーズの警官がタミールに殺された」サタナンドはチャーリーの心配を理解していた。
   「それにね、多くの白人がコロンボから競馬を見にカンデイにやってくる…チャーリーは、その一人っていうわけさ」サタナンドの答えは明快だった。
   「カンデイにはどうやって行くの?」
   「山岳鉄道の始発点バドゥラへトラックで行く。そこからカンデイへ汽車で行く。ブラックパールと他の馬は客車の後ろの貨物車に載せる。四時間の行程なんだ」サタナンドがチャーリーに鉄道地図を見せた。
   「この地図を、僕にくれる?」チャーリーが訊いた。一瞬、サタナンドが少年の顔を見た。そして、地図を少年に与えた。

                           10
                      歯という名の寺院

   コックニーが、六人のタミール・ガードを連れていた。他に、二人の馬丁(ばてい)、サタナンド、チャーリー、アンナとアアシリア、合計で十三人がバドゥラの駅で汽車に乗り込んだ。1952年10月の木曜日の朝だった。蒸気機関車は予定の時間きっかりに動きだした。客車は一台…車掌が来て、――カンデイに午後二時に到着すると、アナウンスした。乗客は、お菓子、パン、ジュース、紅茶、水を車内で買える、と付け加えた。
   コックニーとギャングらも含めた全員が興奮の渦の中にいた。出発の前に、サタナンドと馬丁が貨車に行って、十一頭の馬に水と麦を与えた。馬たちはすぐに食べ始めた。水を飲み干した。客車の興奮が馬にも移っていた。馬は嘶いて、ひずめでガンガン床を踏んでいた。
   四時間後、客車一台、貨車一台を牽引して蒸気機関車がカンデイに着いた。バドゥラから来る汽車の終点であった。コックニーとギャングは駅のカフェへ入った。紅茶と甘い菓子を食うために…馬丁とサタナンドが馬を貨車から引き出した。コックニーが――馬を見張れと命令した。特に、ブラックパールを…アアシリアがひとりのガードに洗面所に行きたいといった。そのガードが立ち上がって彼女たちについて行った。男は洗面所の入り口で見張っていた。カフェの隣に土産屋があった。アアシリアがガードに指差すと、「オーケー」とガードが言った。アンナは絵葉書とカンデイの市街地図を買った。アアシリアは口紅と化粧道具一式を買った。ふたりの女性は幸せだった。文明と再び遭遇したからである。
   一行はカンデイの市街を観光した。一昔前、カンデイは王国だった。王様は横暴な独裁者だったとか…だが、カンデイは日本の京都のように、山紫水明の景観と仏教寺院や道路が見事に設計されている古都であった。アンナとアアシリアは、その美しさに声も出なかった。ふたりは、数人のヨーロッパの婦人を見ていた。ひとりの女性は、――夢かしら?と思うほど華麗な羽毛の帽子、カラフルなドレスを着て、赤いパラソルを手に持って、美しい庭園を散歩していた。ひとりの婦人は右手にプードルと左手に娘と手をつないで、レモンの街路樹のある大通りを歩いていた。――フランス人に違いない…とアンナは憧憬していた。
   カンデイは仏教徒のセンターだが、カソリック教会もある。キリスト教大学もある。ないのは、ヒンズー教の寺院だけであった。
   「仏陀さまに表敬しよう。今度こそ優勝杯を持って帰るように祈れ!」とコックニーが大声で笑った。十一頭の馬のキャラバンは、カンデイ駅から二キロ北へ来ていた。カンデイの名所である「時計塔」のあるロータリーを右に曲がった。マーケット通りである。角に「カンデイ警察本署」があった。タミールたちは、警察署の正門に立っている警官に目もくれなかった。先住民のシンハリーズとインド南部から移住したタミールとは、何百年の紛争を起こしていた。警察署長は「秋の大競馬」の期間の停戦を呼びかけた。この二民族は競馬が終わると再び抗争を始めるのであった。
   キャラバンが「歯の寺院」の前に着いた。インド象に乗った白人の観光客が一列になって記念写真を撮っていた。象が大好きなチャーリーがにっこりと笑った。チャーリーは、十五歳と四ヶ月になっていたが、少年のあどけさが残っていた。サタナンドが馬から降りて、蓮の花の上で瞑想しているゴールデン仏陀に合掌した。そこから、キャラバンは、カンデイ湖の南岸に沿って競馬場に向かった。収穫の済んだ麦畑が右に広がっていた。数人のシンハリーズの女性が落穂を拾っていた。アンナは、ジャン・フランソワ・ミレーの油絵「落穂拾い」を想い浮かべていた。
   チャーリーは視力が良かった。その目が競馬場を見ていた。草競馬用のハードルのある草原を見ていた。その外側に土のトラックがあった。チャーリーとブラックパールが奔走する土俵である。心臓の動悸が速くなった…少年は神経質になっていた。のどかな農園では気分が悪くなることがなかったからである。チャーリーはアンナの姿を探した。姉は弟が始めて競馬に出るプレシャーに押し潰されているのがわかった。アンナが右の目を瞑って見せた…そして微笑んだ。アンナはオレンジ色のスカーフを被っていた。それが彼女のカールした髪と十代の少女でありながら成熟した女性の美しさを惹き立たせていた。

   ふたりの馬丁、チャーリーとサタナンドが馬を厩舎に連れて行った。「ゴドム」というフィリイ(雌の三歳馬)が何度も嘶いていた。嘶きが終わると、アタマを左右に振った。
   「ゴドムは競馬場の雰囲気に慣れていないんだ」
   ――サタナンドは、なんでも知っている。――的確に判断するとチャーリーは、二十五歳になった調教師を尊敬していた。

   ひとりのガードがアンナとアアシリアをテントに連れて行った。タミールたちが隣りのテントに入るのをアアシリアが見ていた。まだ夕方になっていなかったが、涼しいそよ風が吹いていた。厩舎から帰ってきたサタナンドがストーブに火を入れた。その上に、ヤカンを置いて湯を沸かした。アンナがクッキーをナップサックから取り出してテーブルの上にある素焼きの鉢に入れた。
   アンナが、アアシリアを見て「ねえ、アアシリア、明日の朝、カンデイへ買い物に行けないかしら?」と訊ねた。
   「そうね、コックニーに自動車が使えるか聞いてみるわ」アアシリアが答えた。
   「自動車ですって?」アンナが驚いていた。
   「そうよ、コックニーがサタナンドに――車が要るなら、ロッジのセダンを使えって言ったのよ。キングたちが宿泊してるロッジに運転手付きのセダンが八台あるんだって。コックニーが、――あんたらは、俺たちのジョッキーのシスターだ。車を使えって。あの冷酷なコックニーも心の中では英国人なのよ」
   サタナンドがタミールのテントへ行って、夕飯を持って帰った。子羊の焼肉と炒めたマハトマ米と胡椒の効いたスープを持って帰った。四人は、おしゃべりしながら、すっかり平らげた。アアシリアが柿の皮をナイフで剥いた。チャーリーの好物だった。四人は、すっかり家族になっていた。テントは二つの部屋に仕切られていた。陽が落ちたばかりだったが、早々と寝ることにした。アンナとアアシリアが一室、チャーリーとサタナンドが夫々のコット(簡易ベッド)にもぐりこんだ。数秒でサタナンドがいびきをかいて寝てしまった。快い疲労が睡眠薬よりも効いていたのである。

   競馬場の近くの農家の雄鶏(おんどり)のトキの声でみんな目を覚ました。――床に着いたばかりなのに、とチャーリーは思ったが、テントの上方に陽が射すのが見えた。夜が明ける瞬間だった。

   ひとりのタミール・ガード、アアシリアとアンナが丘の上のロッジに向かって歩いていた。ガードは背の高い男だった。男は黒いターバンを巻いて左の目に黒いパッチを着けていた。その男は獰猛な目をしていた。男は片目でアアシリアの胸や腰をジロジロと見ていた。アアシリアは二十歳になっていた。彼女はタミールと同じヒンズー教徒だが、洗練されたヨーロッパ風の都市であるゴアの出身だった。――あの男を見ないことにしてるの…とアアシリアが英語で言った。
   ロッジの駐車場にダーク・グリーンのオースチンが待っていた。車の中で運転手が待っているのが見えた。降りてきた中年の運手が後ろのドアを開けて――グッドモーニングとアンナに言った。――グッドモーニングとアンナとアアシリアが同時に応えた。ふたりは後部座席にすべりこんだ。座席は、なめし革の匂いがした。アンナは自動車に五年以上乗っていなかった。父親のあずき色のロールスロイスを想い出していた。運転手がクランクを廻すとエンジンがかかった。クラシックなオースチンだが力強い音を立てた。片目の男が運転台の左座席に座った。ターバンを巻いた頭が天井に着くほどの大男だった。運転手がタミール・ガードを見た。一瞬だったが、憎しみのある目であった。運転手はシンハリーズなのだ。ふたりの間に挨拶はなかった。
   英国製のオースチンは一時間に35kmを走る。これは馬の歩行速度の四倍に当たる。カンデイの下町まで三十分のドライブだった。ポプラの並木道に入った。アンナは地図を広げてその並木道が「ラジャ・ビージャ通り」であると記憶した。直角に左へ曲がると商店の看板が見えた。アアシリアが運転手に――アーミーストアはカンデイにあるか?と身を乗り出して訊いた。アーミーストアというのは、インド陸軍省の放出品の専門店である。運転手が前方の旗を指さしていた。セイロンの旗が商店街を飾っていた。オースチンが大きな飾り窓のある店の前で停まった。飾り窓に、兵隊服や帽子やブーツ、ダッフルバッグが陳列されていた。アンナがにっこりと笑ったのを、アアシリアは見た。運転手が降りてドアを開けた。
   「ゆっくり買い物をして下さい」と英語が流暢だった。
   アンナはポーチャー(布で出来た袋)に手を入れると、ルピーの札を6枚取り出して片目のガードと運転手に3ルピーずつ与えた。タミールが珍しく微笑を顔に浮かべた。タミールが隣りのカフェが歩道に並べたテーブルに着くとウエイターに、ビールとピーナッツを注文した。ウエイターは緊張した。タミールの帯にナンブ拳銃のグリップを見たからである。運転手は気の好い人柄だったが、タミールに加わらず運転台に残った。
   アンナは水筒がフックに着いたダッフルバッグを買った。ついで、インド陸軍の戦闘服、帽子、革の手袋、馬の革のブーツを店主に指差したのである。アアシリアは、アンナが、鉛筆でショッピング・リストにチェックするのを見た。アンナは普段には見せない真剣な顔をしていた。――アンナは何かを計画している…
   アーミーストアから出たふたりは隣りのキャンデイストアに入った。アンナは、箱に入ったクッキー、キャラメル、オレンジのソーダ水を買った。彼女はセダンで待っていた運転手にそのソーダ水を上げた。
   タミールは、コックニーから開放された自由を満喫していた。二杯のビールもこの残虐な男をハッピーにしていた。そのためなのか、男はアンナの大きな買い物袋を検査しなかった。
   買い物の後、カンデイの町をドライブした。カンデイには湖が南にある。その湖の周りの丘には豪邸が並んでいた。アンナの目に鮮やかな紅葉(もみじ)が見えた。二時間後、テントに戻った。――カンデイ湖の景色を絵に描きたいわ。明日、湖に連れて行って下さる?とアンナが運転手に訊いた。

   翌朝は土曜日だった。アンナが起きたときには、チャーリーとサタナンドの姿が見えなかった。
   「ボーイたちは、朝早く起きて、サンドイッチと紅茶の水筒を持って出たのよ。ブラックパールとゴドムを運動させるって笑いながら出て行ったわ。よっぽど嬉しいのね」とアアシリアが起きて目を拳でこすっているアンナに言った。テントの中はストーブに火が入っていて、紅茶の甘い匂いがしていた。
   アアシリアが朝食の用意をしていた。朝陽が登ってきた。――外のテーブルで食べようとふたりは同時に言って笑った。アンナは何を言ってもコロコロと笑う年頃なのだ。ナンとピーナッツバターと苺のジャム、それに濃い紅茶が美味しかった。
   ボーイたちが出て行ってから二時間が経っていた。二頭のサラブレッドを歩かせてから厩舎へ戻って餌と水を与えた。ふたりがテントに帰ってきた。明日の大競馬を胸に描いて興奮していた。ふたりは自信満々に見えた。
アンナが、――アアシリアとカンデイ湖のダムに行って紅葉を見に行くのよ、とふたりに言った。
   「許可は出たの?」とサタナンド。
   「ええ、昨日と同じセダンが使えるって。タミールが言ったから、コックニーがOKを出したんでしょう」とアアシリアがサタナンドに心配無用という風に話した。
   「ミス・アン、カンデイ湖のピクニックを楽しんで下さい」サタナンドが笑った。サタナンドは彼女たちが自ら探検するのを喜んでいた。
   「コックニーが、午後の四時までにキャンプに帰るようにと言っている。今夕、キングたちを招いて大競馬のイブの晩餐会が行われる。私たちも招待されている。女性たちは、一番上等のドレスを着るようにとさ」サタナンドが、アアシリアを見詰めていた。

   真昼になった。陽が高く空気が暖かかった。サタナンドとチャーリーが厩舎へ戻りブラックパールとゴドムを競馬場へ連れて行った。六十頭の競走馬が午前の部と午後の部に分かれて練習した。練習時間は振り分けられていた。ジョッキーたちと調教師はそれぞれの戦略を練っていた。さらに、他の競争馬の力量を知りたかった。多くの観客が観覧席で見ていた。
   サタナンドが「ブラックパールを好きなように走らせろ。この馬は勝ちたいんだ。吐く息で判る。私はこの馬の心がわかる」とチャーリーに言った。
   チャーリーが鞭を左手に持って鐙(あぶみ)に足を掛けるとブラックパールに跨った。チャーリーは小柄の少年である。観客の目が黒光りするコルトに軽々と乗った少年の姿を見ていた。ひとりの観客が「あの騎手は若いが…」と言いかけて口をつむいだ。
   チャーリーはブラックパールを柵に沿って走らせた。サタナンドが腕時計の秒針を読んでいた。第一コーナー、第二コーナー…時間は完璧だった。それに、サタナンドの前に帰った騎手も馬も疲れをみせなかった。だが、サタナンドは別の計画を持っていた。サタナンドが持っていた画用紙を広げた。画用紙には競馬場の見取り図がクレヨンで描かれていた。アンナが描いたのである。いまや、サタナンドはプロのトレーナーになっていた。チャーリーもすっかりプロの旗手になっていた。トレーナーはスタートからフィニッシュまでの2KMを、どのようにブラックパールを駆けさせるか、チャーリーに詳しい戦略を教えた。――コルト(雄の三歳馬)のレース。これが、世界のスポーツの中で最も興奮する二分間なんだよとサタナンドが言った。
   ――ブラックパールは、十七頭の馬の中で一番右端の枠から走り出す。サタナンドはクレヨンで赤い線を引いた。遅れて出たからと急いではならない。最後尾の馬に追い付け。ブラックパールの鼻が前の馬の尻に付くくらい真後ろに着けろ。だが、追い越してはいけない…
   そこに、サタナンドがX印を付けた。――この第一コーナーで、外側に出て、目の前の馬に並べ。あるジョッキーは、チャーリーが子供だと知っている。アマチュアだと知っている。だから、最後尾の馬と並んでも無視する。第二コーナーも同じだ。バックストレッチの800Mで、先方の馬たちに追い付け。六番目か七番目のポジションに付け。リードしているジョッキーたちはそれも無視する。なぜなら、君が内側に入って来ないし、馬を緩やかに走らせているからだ…
   ――第三コーナーで…とサタナンドは言ってX印を付けた。――リードしている馬の仲間に入れ。スピードも、ポジションも同じだが、この動きは先頭の一団を驚かすだろう。だが、レールに近寄ってはいけない。馬の間に居ろ。理由は、プロの旗手は新参の旗手にトリックを仕掛けるからだ。もし、チャーリーがレールに近寄り過ぎると、ブラックパールの首に鞭を当てるんだ。驚いたコルトが柵にぶつかることを期待して…柵にぶつかることは大した問題ではない…だが、もしもブラックパールが柵の支柱に左脚を打ちつけた場合、脚が折れる…
   チャーリーが身震いした。少年は、ブラックパールを失うことを恐れたのである。
   ――ラストコーナー、これが最も重要なポイントなんだ。サタナンドがチャーリーをじっと見詰めた。ふたりの目が五秒間ロックした。チャーリーは、彼のトレーナーの指示に最大の集中力を傾けていた。
   ――ここで勝負に出る。先頭の馬を追い越せ!コーナーを廻るとき、レールに接近しろ!先頭のジョッキーは、ブラックパールに体当たりしてくるだろう。だが、馬がコーナーを廻るとき、その馬は柵の柱にはぶつからない。その理由は遠心力だ。物理学の法則さ。先頭の馬が再び体当たりしてくるかも知れない。そのとき、ブラックパールに鞭をくれろ!ブラックパールは先頭に出る…
   「僕は、一度も、ブラックパールを鞭打ったことがない」チャーリーが告白した。
   「それは願ってもない好いことだ」と調教師、トレーナーそして保護者のサタナンドが言った。

   アースチンのセダンが、二人の女性と片目のガードを迎えにきた。二人の男は目を合わさない。挨拶もない。アアシリアがランチのバスケットを持っていた。ガードの分も用意した。
   「お嬢さん方、グッドモーニング」と運転手は言ってからアアシリアからバスケットを受け取った。
   「グッドモーニング、観光に連れて行ってくれることを感謝します」とアアシリアが朗らかに笑った。
アンナはスケッチブックとクレヨンの入った箱を手に持っていた。彼女は、シンハリーズの伝統である明るい緑色のサリを着て、紫のスカーフで頭を包んでいた。アンナは、今月、十八になる。彼女は眩しいほどの美しい女性になっていた。

   四人がカンデイ湖の南端のダムに着いた。――二十分もかからなかったからキャンプから歩ける距離だわ…とアンナは思った。
   アンナがセダンを降りて、ダムの上の橋の真ん中まで歩いて行った。そして、橋の鉄製の欄干に掴まって下を流れる川を見ていた。急流が岩を噛んで白い飛沫を上げていた。橋の上から六十メートルはある、、――アンナが欄干を越えて飛び込むんじゃないかと想像して、アアシリアは背筋が寒くなった。

   「アアシリア、紅葉が真っ赤よ」アンナがスケッチブックを取り出した。
   ――あんなに美しいアンナが自殺するなんてバカバカしいと安心した。この季節は気温が急に下がるので、紅葉(もみじ)の葉が燃えるように赤くなるのだ。枝が傘のように四方に広がっていた。アンナは、こんなに素晴らしい景色を英国でも見なかった。
   アアシリアが公園の木で出来たピクニックテーブルに白いクロスをかけた。運転手がランチに加わった。タミールガードは隣りのテーブルのベンチに座った。帯のホルスターにナンブ拳銃が見えた。---何のためだ?と運転手がひとりごちた。
   アンナは絵を仕上げた。日付けを記してサインをした。その絵をアアシリアと運転手に見せた。
   「まあ、あなたは本物の芸術家なのね」とアアシリアが言うと運転手が大きく頷いた。
   「おお、ノー、私は、まだまだ勉強が足りないのよ」アンナが最も信頼する友人に微笑した。

   四人がキャンプに帰ってきた。アアシリアが腕時計を見ると、午後の三時三十分だった。アンナが髪を編んで欲しいとアアシリアに頼んだ。髪が結いあがった。アアシリアが一歩下がって出来具合を見た。一本の長い三つ編みがアンナの背中に下がっていた。カールのかかった茶色の髪が十八歳の女性の顔を引きき立たしていた。

   秋の大競馬の晩餐会が始まった。夕陽が西へ沈む時間だった。ロープで張り巡らされた電灯に灯が点った。ブラスバンドがセイロンの国歌を演奏した。カンデイの知事がマイクロフォンの前に立った。ウエルカム・スピーチが始まったのだ。
   「紳士淑女のみなさん、ようこそカンデイの大競馬へお越し下さいました。カンデイの大競馬は三年毎に行われます。この競馬の目的はこの美しいセイロンを愛する人々の心を結束することです。カンデイの全市民を代表して、セイロンの各地から来られた農園の持ち主さんたちの寄付金を感謝いたします。さらに、遠くから来られた外国のお客さまにも感謝を述べさせて頂きます。今夜は大競馬のイブです。私たちが用意した食べ物と飲み物を楽しんで下さい。どうか、政治をお家に置いてきて下さい」
   全員が立ち上がって拍手をした。興奮が会場に満ちた。アアシリアの目がコックニーを捕らえていた。コックニーが隣りの大男と話していた。その大男がアラビア人で富豪であることは明らかだった。金の腕輪がサハラ砂漠の民族衣装の袖から見えた。男の太い首には銀のネックレス、、頭に巻いているターバンに大きなダイアモンドが光っていた。コックニーが男に耳打ちをしている間、アラブの富豪がアンナを凝視していた。
   ――アンナが売られた! アアシリアが左横のアンナを見た。来賓席で何が話し合われているのか知っているはずだが、アンナの表情に変化はなかった。晩餐会は終わった。コックニーとアラブがセダンでロッジに帰って行った。
象が行列を作っていた。五十頭はいただろうか。農園のキングたちや外国の来賓の乗り物なのだ。象の行列がロッジへ向かって歩き出していた。

   四人も会場を出た。テントへ戻る途中で雷が鳴るのを聞いた。サタナンドがカンデイ湖の北側の山にジグザグに走る落雷の閃光を見た。やがて、大粒の雨が降ってきた。四人がテントの中に駆けこんで大笑いした。サタナンドがストーブに薪と枯れた松葉を入れてローソクの火で点火した。外は豪雨に変わっていた。雨水が滝のようになって、テントの屋根から地面に当たる音が聞こえた。
   「もしも雨がやまなかったら、明日の競馬はどうなる?」とチャーリーが心配そうにサタナンドの目を見た。
   「心配は要らない。朝までにやむから。雷が北東へ移動したのが判る」
そのとき、アンナが、――今夜はサタナンドの部屋で寝るようにとアアシリアに言った。それを聞いたサタナンドが驚いて目を丸くした。だが彼はアアシリアと一緒の部屋に寝ることにハッピーだったのである。

   ――チャーリー、今夜、私の横で寝て頂戴とアンナが弟に言った。アアシリアが持ち物を持って仕切りの向こうへ移動した。チャーリーも同じように荷物をまとめてからサタナンドにウインクをした。サタナンドが笑っていた。
   アンナの部屋に入ると若い女性独特の匂いがした。悩ましくなる匂いである。チャーリーは、姉のベッドの上にインド陸軍のダッフルバッグを見た。アンナが、灰色の下着、灰色のシャツ、灰色の靴下を畳んでいるのを見た。アンナが、ダーク・グリーンの戦闘服、戦闘帽、茶色い革製のブーツをチャーリーに見せた。アンナはその三品をダッフルバッグに詰めた。最後にクッキーの箱とキャラメル数箱、チョコレートを入れてジッパーを締めた。チャーリーは沈黙していた。
「チャーリー、これは、私のクリスマス・プレセントなの。お返しに、私のために、明日の競馬でチャンピオンになってね」姉の顔には、いつもの微笑はなかった。姉は、その美しい口元をきりっと結んでいた。弟は姉のことばを命令だと受け取っていた。チャーリーが口を開いた。
   「有難う。アンナ、でもね、どのコルトも競馬の経験を持っている。その中の何頭かは優勝している。明日の競馬は、ブラックパールの緒戦なんだ。僕にとっても生まれて始めてのレース。ジョッキーたちは高いカネで雇われたプロ…僕は最年少のジョッキー…
   そこまで聞いていたアンナが、「チャーリー、私の傍に座りなさい」とベッドを拳で叩いた。姉の横に座った弟は、姉がブラウスのボタンを外し、脱ぎ、ブラジャーを外すのを見ていた。アンナの乳房は象牙の色をしており、乳首が上を向き、そして外側を指していた。ミケランジェロの「ビーナス」の像と同じ完璧な形をしていた。
   「触りなさい」とアンナがチャーリーに言った。それは命令だった。チャーリーは農園へ来た頃の少年ではなかった。厩舎の労働とサタナンドの訓練で逞しい十五歳と四ヶ月の青年になっていた。チャーリーが途惑った。だが、今夜のアンナはどこかが違った。何が起きている?チャーリーは理解出来なかった。だが要請の通り右手で姉の左の乳房に触れた…アンナがチャーリーの手を取って乳房に押し付けた…そして弟の目を十秒間、見詰めた…長い十秒間…
   「レースが終わったら、ここへすぐ帰ってきて。勝っても負けても。わかった?」アンナが沈黙を破った。

                            *

   「ノー、結婚するまで待つのよ」仕切りの向こうからアアシリアの声が聞こえた。
   「どのくらい待つの?」とサタナンド。
   「もうすぐよ。おバカさん」アアシリアがクスクスと笑った。そして、――あの人たち、明日、脱走すると思う…と将来の夫に囁いたのである。

                           11
                     大競馬が始まったが…

   紅茶やゴムの農園のキングたち、つまり王様が到着したと吹奏楽団がカンデイの競馬に集合した群衆に知らせた。王様たちは象でやってきた。乗り物の象は色とりどりの絨毯で覆われていた。ある象のあたまには活花の鉢まで据えられていた。群集は王様たちの入場に拍手をした。いつもは嫌っているキングに…今日おこなわれる競馬は華麗なら華麗であるほど良いと…空は青く、小さな白い雲がぽっかりと浮かんでいた。
   高原の澄んだ空気の中にトランペットが高らかに鳴った。馬が入場するという合図なのだ。土は乾いていた。競馬場の従業員が挽馬に引かせた鋤でトラックの土をならしていた。
   六十頭の馬が走る。サラブレッドばかりではなく、種々の馬が出る。アメリカ産クオーター・ホース、モルガン、アラビアン、雑種…全ての馬に優勝杯と賞を勝ち取るチャンスが与えられていた。
   「インデイアン・ステイープル・チェース」が最初のレースで、出馬が多いので、農園主、土地のファン、持ち主の家族、血縁がそれぞれの馬を大声で応援する。競馬というよりも、お祭りに近いが大衆に人気があった。馬の性別も年齢も体重もまちまちだが、出場する馬は過去に入賞したものに限られていた。警察官が見守る中で馬券が売られた。タミール・ガードたちは、自分たちの故郷の馬に賭けていた。

   ガ~ンガ~ンガ~ンと鐘が鳴った。ステイープル。チェースが始まった。三十頭の馬が造られた丘を駆け上ったり、駆け降りたり、小川を飛び越えたりすると、観衆が自分たちの町の馬や農園のネームを叫んだ。タミール・ガードたちが最も騒々しかった。アルコール類は禁止されていたが、興奮で酔い痴れていたのだ。ハードルを飛び越えるとき、馬が前のめりに倒れて、ジョッキーが怪我をした。馬丁が飛び出していき、落ちた騎手が運ばれて行った。
   第一レースが終わった。カンデイの馬が勝った。タミール・ガードたちは北東の出身者が多い。彼らの出身地トリンコマリーの馬は入賞もしなかった。
   一時間後に、弟二レースが始まるとアナウンスがあった。「フィリイ」の競争である。フィリイとは、三歳以下の雌馬のことである。挽馬の鋤で整備されたトラックに何本もの筋が着いていた。

   再びトランペットが鳴った。観覧席の下のトンネルから出場する馬がトラックに出てきた。スタートに向かっている…チャーリーとサタナンドが、十四頭の馬の中にゴドムを見つけた。ゴドムは胡椒の王様のシンボルである青いマスクを着けていたからである。シンハリーズの騎手がゴドムに手を焼いていた。そのフィリイの目が恐怖にひき攣っていた…ゴドムはたて続けに嘶いて、後ずさりをした。騎手がゴドムを鞭で打った。それがさらに状況を悪化させた。いまや、ゴドムはレースを拒絶していた。馬丁たちがゴドムを枠の中に押し込んだ。二キロのレースが始まる瞬間であった。
   「サタナンド、ゴドムは走るべきじゃない。あまりにも神経質になってる。すぐ停めて!」チャーリーが懇願した。
   「僕も心配だ。ゴドムは恐れている、でもね、コックニーが言い張っているから」ふたりは自分たちが奴隷であることを自覚していた。

   バ~ン!ピストルが空砲を撃った。フィリイたちが一斉に駆け出した。誰もが驚くことが起きた。ゴドムが先頭に立ったからだ。それも二番目の馬を五馬身も引き離して…雌馬は一心に駆けた。最後の弟四コーナーまでリードした。だが、彼女の疲労は誰の目にも明らかだった。いまや、ゴドムは先頭馬の三馬身も後ろを駆けていた。騎手が鞭を当てたが、ゴドムは反応しなかった。彼女はさらに速度を落とした。最後部の馬が彼女を追い抜いた。そのとき、悲劇が起きた。彼女はレールの柱に左脚を引っ掛けて、前のめりに倒れた。前脚を骨折した。ジョッキーは空中に放り出された。観衆は息を飲んだ。淑女たちは目を覆った。
   ゴドムを除いて全ての馬がゴールインした。馬丁ふたりがゴドムに駆け寄った。馬丁のひとりが首を振った。もうひとりの馬丁がピストルを腰のホルスターから抜いた。ゴドムは銃殺された。チャーリーがサタナンドを見た。サタナンドが死んだゴドムを見ていた。言葉はなかった。

                           *

   カンデイの知事がマイクロフォンを掴んでいた。ゴドムが観衆の目前で銃殺されたそのショックが競馬場の雰囲気を鎮鬱(ちんうつ)なものにしていた。
   「第三番目のグランドレースが一時間後に始まります。スタンドで軽食を注文できます…」と観衆を元気付ける様に言った。――チャンピオンに名誉の金メダルが授与される。――優勝馬の農園には銀の優勝杯と一万ルピーが授与される…報道陣が号外記事のために写真を撮る…その写真の一枚はカンデイ競馬記念館に飾れる…
   十七頭のサラブレッドがトラックに出た。これがこの日の最大のイベントなのだ。ブラックパールはゴドムと同じ青いマスクを着けていた。鞍の上のチャーリーは深い想いに沈んでいた。そのとき、大きな暖かい手がチャーリーの肩に触れた。サタナンドの黒い瞳がチャーリーを励ましていた。
   「私たちの真珠を信じよう」彼がチャーリーの耳に囁いた。

   ブラックパールは見事に黒光りする馬だ。三歳の雄馬には静かな自信が見られた。チャーリーは大きく深呼吸をすると、サタナンドに微笑した。 白人の騎手が三人いた。一人はチャーリー、他の二人はオランダとポルトガルのプロの騎手だと聞いた。――君はどこの国の騎手か?と訊かれたが英語がわからないという風に首を振った。ほとんどの騎手はマドラスから来たインド人だった。ブラックパールは準備が出来ていた。それが馬の呼吸で判った。スー、ハー、スー、ハー。ブラックパールの鼻腔が大きくなっており、マスクの目が真っ直ぐ前方を見ていた。今日のレースに生まれてきたんだ。騎手と馬は一緒に呼吸をしていた。馬と少年は一体となっていた。サタナンドが計画図をもう一度見せた。チャーリーが頷いた。

                          12
                       最後のレース

   ブラックパールとチャーリーが出発点の右端に連れて行かれた。この位置は最も不利であると誰もが知っていた。または、その位置の馬は重要な馬ではないのだと…チャーリーはポケットから五個の角砂糖を取り出して、ブラックパールに与えた。一週間、砂糖を与えなかったので、黒い真珠は喜んだ。調教師のサタナンドは砂糖の秘密を知っていた。与えなければ努力する。与え過ぎれば怠けると。ブラックパールは訓練の成績によって角砂糖を貰った。今日、風のように駆けて、レースに勝てば、角砂糖を貰えるんだ…

   バ~ン!
   十七頭の馬が先頭を争って駆け出した。観衆は爪立ちになっていた。自分たちがありったけのルピーを賭けた馬の名を叫んだ。馬格がダントツにいい栗毛の馬がリードを取った。北部のゴム農園の馬だと観衆は知っていた。その栗毛はレールに沿って軽快に走っていた。チャーリーとブラックパールは最後尾を走っていた。チャーリーは、――これは二キロのレースだ。スタミナが要るんだ…と、サタナンドが言っていたのを憶えていた。ブラックパールは早くも遅くもない速度で走っていた。まるで、計画がわかっているように、、彼は、前の馬と一馬身の距離で付いていく…だが、遅れることはなかった。
   チャーリーは、黒い真珠を信じていた。ブラックパールは、第二コーナーを廻ってバックストレッチに入るまで外側を走った。自分で速度を上げて前方を走る群れに加わった。ブラックパールは群れのど真ん中にいた。観客席のサタナンドやギャングたちはブラックパールとチャーリーが何処を走っているのか簡単に判った。黒い馬は一頭…その上に小さな騎手…フルスピードで走っている。コルトの立て髪と尻尾が疾風に靡(なび)いている姿は輝く太陽に見えたのである。題三コーナーに入ったが、ブラックパールは、同じポジション、同じスピードを保っていた。
   「なぜ、レールに沿って走らないんだ?」コックニーが苛々した声で言った。

   第三コーナーまで百メートルのポストでブラックパールが速度を上げた。前を走る三頭の馬に追い着いた。コックニーが踊りあがって、パール、パールと叫んだ。アラブとコックニーは夫々の持ち馬に大金を賭けていた。 あの馬格の大きい栗毛が三番目に下がった。灰色の馬が先頭に立った。その灰色の馬が今年の人気馬であった。
   ラストコーナーの手前で、ブラックパールは二番手に上がった。ラストコーナーに入った。チャーリーがブラックパールをレールに寄せた。先頭を走る灰色の馬は速度を出し過ぎていた。灰色の馬が大回りしたその隙間に入った。遠心力の法則…ヒンズーの騎手がチャーリーを見た。赤い鞭を振り上げてブラックパールを思い切り打った。ブラックパールはレールにぶつかった。だが支柱には脚をひっかけなかった。
   灰色の人気馬が黒い真珠に懸命に追い付こうとしていた。ブラックパールは半馬身、灰色の馬を抜いていた。二人の騎手は鞭を激しく馬に当てた。ブラックパールは瞬間に反応した。だが、灰色の馬はフィニッシュラインの八十メートル手前で後ろへ下がり始めた。アラブが持ち主の灰色のサラブレッドは糖尿病だったのである。 ブラックパールが、グランド・ホース・レースで優勝した。灰色のコルトと四馬身の距離を置いて…

   「今年のグランド・ホースレースの優勝馬は、胡椒の王様のブラックパール…」
   カンデイの知事が「チャーリー」という名の少年を祝福した。金メダルをジョッキーの首に掛けた。馬丁がブラックパールの黒い首に大きな白い薔薇のネックレスを掛けた。次に大きな銀の優勝杯をチャーリーに渡した。チャーリーが左横に立っているコックニーに渡した。右横に並んでいたサタナンド、アンナ、アアシリアが涙を手で拭いた。カメラマンたちがフラッシュをボ~ンと焚いていた…
   アアシリアがアンナを見た。数秒前にチャーリーの頬に接吻をしていたアンナがいなかった。お手洗いに行ったんだろう…と思ったその瞬間、アアシリアの背中に旋律が走った。アンナは逃げた!

   上機嫌のコックニーがチャーリーに500ルピーを与えた。チャーリーが微笑して、――テントへ帰っても良いか?シャワーを浴びて祝賀会に出るために着替えたい…その許可を頂きたいと訊いた。コックニーがOKを出した。
   「ヘイ、若者よ、自由にしな。おまえは、俺をハッピーにした」と言った。
   ――胡椒の農園の者は好きにして良い。ガードもだ。コックニーの声を聞くやいなや、タミールたちは、煙管(きせる)でタバコをスパスパと吸いながら、トランプをカーペットの上に配って、盛大にギャンブルをやり始めていた。ガードもボーナスが手に入ったからだ。
   チャーリーがテントに入った。彼のベッドの上にダッフルバッグが置いてあった。その傍にノートがあるのを見た。
アンナのメッセージは、次ぎのように書かれていた。

   ――私のもっとも愛するチャーリー、私はひとりで逃げます。たった今、逃げなさい!時間を一秒も無駄にしてはいけない。Xマークをつけた鉄道の上の橋に行きなさい。北へ行く列車の屋根にジャンプするのよ…午前の二時に列車がその橋の下を通る。終着駅のトリンコマリーまで行くのよ。チャイナ・ベイのRAAFを見つけなさい。あとで会いましょう。約束よ。アイ・ラブ・ユー、、あなたの姉、アン。

   チャーリーは即座に行動した。最初に、インド陸軍の戦闘服、戦闘帽、ブーツ、手袋を次々に身に着けた。黒いオイルの缶を開けて顔に塗った。ダッフルバッグを肩にかけると、テントを出た。誰も見ていなかった。若者は、戦場から復員してきたインド軍の兵隊に見えた。セイロンでは、復員兵は尊敬されていた。チャーリーは厩舎へ歩いて行った。夕闇が迫っていた。誰もが、優勝を祝っていた。
   チャーリーがサタナンドを見ると、サタナンドがブラックパールにブラシを掛けていた。サタナンドが人影に凍りついた。その影が話すまでチャーリーだと判らなかったからだ。
   「僕、馬が要る」
   「おお、チャーリー、びっくりした」サタナンドは、若者が脱走することを一瞬のうちに知った。そして、馬の中からアメリカ産のクオーター・ホースを挽き出した。長距離の歩行に最適な馬だったからだ。
    「ちょっと待って。ボブの馬鉄を交換するから。その橋へ行くには、山をいくつか超える。山道は岩が転がっているんだ」サタナンドは急いだ。
   「チャーリー、歯の寺院大通りから、ラジャ・ビージャ道路を北へ行くんだ。六時間ちょっとかかる。

   「サタナンド、サタナンド、あなた、ここにいるの?」アアシリアが走ってきた。
   サタナンドが厩舎を出てアアシリアに会った。チャーリーは――何かが起きたと直感した。アアシリアが十秒ほどサタナンドに話していた。チャーリーが馬に鞍を着けているところへ、サタナンドが走って帰ってきた。
   「チャーリー、ミス・アンナが…ダムの上の橋から身を投げた」
   チャーリーが沈黙した。姉を失った若者に言葉はなかった。姉が死んだ。僕のために…逃げるチャンスを作るために…全てが計画されていたんだ。
   「ゆっくりと歩め!道に出てもだ。急いでは、タミールが気着く」サタナンドがチャーリーに最後の指示を下していた。   三人は声もなく泣いた。アアシリアの頬を涙が滂沱となって流れた。 チャーリーがブラックパールの額に接吻した。そしてボブに跨ると、踵(きびす)を返して夕闇の中に消えて行った。

                           13
                      優しい象たちを放せ!

   タミール・ガードのテントの中ではギャンブルが盛大に行われていた。テントの天井窓からタバコの煙がモクモクと噴き出していた。片目の男が、ドスンドスンと地面が揺れるのを感じた。何か、外が騒がしい。叫び声が聞こえた。
   「象が逃げたあ」
   「何頭?誰だ象を放したのは?」とひとりのガードがテントから首を出して外の男に訊いた。
   「全部だ、、少なくても六十頭。誰が放ったのか知らない。誰がゲートを開けたのか判らない」男が答えた。
   「逃げろ!走れ!象がこっちへ向かってくる」象の雄叫びがキャンプ中に聞こえた。丘の上のロッジにまで聞こえた。

   サタナンドとアアシリアが観覧席のベンチでキャンプ村を見ていた。自分たちが放した象の群れが土煙を上げてテントを踏みにじっているのを観ていた。一発の銃声が静かな夕闇の中に聞こえた。その銃声と悲鳴がタミールのテントからだと判った。片目のタミールが、22口径のナンブ拳銃で雄の象を撃ったのである。その弾丸は象の分厚い皮膚を掠(かす)っただけであった。象は怒り狂った。体重が三トンはある巨象が拳銃を撃った男を前脚で踏ん付けた。片目の男の背骨が砕ける音がした。黒いターバンの男は地獄超特急に乗って奈落へ落ちて行った。
   チャーリーが振り返った。象の群れがテント村を駆け抜けて行くのを見た。銃声とそれに続く悲鳴が聞こえた。若者はメイン・ゲートに着いた。どこにも守衛がいなかった。チャーリーはカンデイ村を難なく出た。馬上から姉が身を投げたカンデイ湖のダムの方角を見て頭(こうべ)を垂れた。半月が雲間に出ていた。チャーリーは北斗七星を探したが見えなかった。――時間が早過ぎるのだろう。チャーリーはボブという名の馬をゆっくっりと歩かせていた。誰にも気着かれることのないように…
   三十分で「歯の寺院」に着いた。泉水の前で馬を下りたチャーリーは水筒を手に持っていた。水筒を山から流れてくる清らかな水で満たしたいからだ。寺院の門衛がインド陸軍の兵装をしたチャーリーを見て直立して敬礼をした。チャーリーが門衛に頷いた。そして、大理石の象の鼻から流れる水を水筒に詰めた。門衛にヒンズー語で有難うと言った。馬に跨り、ラジャ・ビージャ道路を北へ向かった。

   テント村では、三人のタミール・ガードが象に踏み潰された。多くの者が巨象の行進に怪我をした。コックニーはそのとき、ロッジの食堂にいた。他のキングたちと飲み食いしていた。 フロントのクラークが食堂に入ってきた。そしてコックニーに象がテント村を荒れ廻っていると耳打ちした。
   それを聞いたコックニーが走り出した。オースチンの運転手を追い出して自分で運転して出て行った。タミールのテントが潰れているのを見たコックニーが、ひとりのガードに「アンナは何処だ?」と訊いた。コックニーは、アラブに大金で売った十八歳のアンナのことを言っているのだ。
   そのガードは頭を横に振った。コックニーが――アンナを探せ!さもないと、おまえらのアタマをビシャイテヤルと凄い目付きでガードたちを脅した。
   群衆の中で「白人の若い女性がダムで投身自殺をした」と言う声が聞こえた。コックニーは即座にその女性がアンナであると理解した。
   「小僧も消えた」ともうひとりのガードが言った。
   「おまえら、小僧を探せ!さもないと」ガードたちは、今まで、コックニーが逆上するのを見たことがなかった。
「小僧はカンデイの駅へ行ったに違いない。コロンボ行きの汽車が八時に出るから。駅長を電話で呼べ!俺の名前を言え!小僧を汽車に乗せてはならないと言え!サタナンドは何処にいる?誰かサタナンドを見た者はおるか? 」
   チャーリーはカンデイの駅に行って、コロンボ行きの下り列車に乗るだろうと意見が一致した。理由は単純だった。コロンボは大都市でヨーロッパ人が多く住んでいるからだと。小僧は白人に紛れてやがては英国大使館に駆け込むだろうと。.
   「畜生!俺たちは、でっかい穴に落ちたぞ。小僧を殺すしかない」
   コックニーと二人のタミールがオースチンに飛び乗ってカンデイ駅に向かった。もの凄いスピードで…土埃を上げて…

                            *

   チャーリーとボブがカンデイとコロンボを結ぶ鉄道の踏み切りに来ていた。遮断機のない踏み切りを横切ると十字路があった。チャーリーは地図を見た。そして、きらきらと輝く北斗七星に従って北へ向かった。
   コックニーとその子分たちがカンデイの駅に着いた。ところが、肝心のチャーリーの姿がどこにも見当たらない。シンハリーズのの改札はその若者を見ていないと素っ気なかった。
   「小僧は次ぎの駅へ行ったに違いない」とガードのひとりが言うと、「そうだそうだ」とコックニーと、もうひとりが賛成した。オースチンが気違いのごとく走りだした。カンデイの南へ…
   チャーリーとボブは岩石のころがっている坂道を二時間は登った。テント村を出てから四時間が経っていた。ボブは全く疲れを見せなかった。チャーリーは。この馬を選んだサタナンドに感謝した。――あと二時間で橋に着く…とひとりごちた。
   チョコレートを一枚ポケットから取り出して、割って口に放り込んだ。インド兵の服を着た若者は姉のアンナを想って咽び泣いた。月光の中にアダムの高峰のシルエットが見えた。チャーリーとボブが頂上の見晴らし台に到達した。一休みすることにした。チャーリーはボブに水と角砂糖を与えた。サタナンドがくれた腕時計の針が十一時を指していた。気温が下がっている… ダッフルバッグからタートルネックのセーターを取り出して上着の下に着た。アンナが編んでくれたものだ。

   ――チャーリー、あなたは小川に架かる木の橋にきます。 その小川にアンナはXマークを付けていた。――その小川から鉄道の上の鉄橋には、たったの八キロメートルです。一時間ちょっとだと思う。すると、トレッスルの鉄橋(溝脚で支えられた鉄道橋)が見えるはずです。そこにも、Xが印してあった。――午前二時になると、北へ行く列車が来るわ。鉄橋の前方が急カーブだから列車は速度を落とす。 そのとき、鉄橋から飛び乗るのよ!

   鉄橋が前方に見えた。アンナの説明は正確だった。時計を見ると、午前の一時になっていた。鉄橋の手前まで来たチャーリーがボブから降りた。そして、鉄橋の真ん中まで歩いて行った。鉄橋の下に一本の線路が見えた。遠くで、狼の仔がキャンキャンと鳴くのを聞いた。何匹かの仔が母狼を慕って泣いている。チャーリーがボブに麦と水を与えて、それ行け!と手綱を解いた。だが、ボブは動かなかった。代わりに、ボブはその長い鼻でチャーリーを押した。「あっそうか!」チャーリーはあるだけの角砂糖をボブの口に入れた。そして尻を叩いた。アメリカ産のクォーターホースは自分が来た道を軽く走り出した…
   「有難うよ、ボブ」チャーリーが叫んだ。

                             14
                          トリンコマリーへ…

   チャーリーは蒸気機関車の悲鳴を上げるような汽笛を聞いた。南の方から三回聞こえた。鉄橋の下を通るという合図なんだろう…蒸気を吐く音がまだ聞こえないから500mの距離だろうか?チャーリーは、革(かわ)のベルトでダッフルバッグを背中に縛り着けた。次に靴の紐を確かめた。サタナンドが兵隊のやり方を教えてくれたのだ。それから、二、三回、飛び上がって背中のバッグが動かないことを確かめた。
   蒸気機関車の機械音と蒸気を吐く音が聞こえたが山の向こうなのか姿が見えない。若いチャーリーは身震いした。カーブを曲がって黒い怪物がその姿を現した。300mぐらいの距離だった。煙突からボッボッボッと黒い煙を噴き出していた。客車が一台、貨車六台を牽引していた。速度が相当遅い。チャーリーは安心した。――疾風する競走馬に乗るよりも易しいだろう…と元ジョッキーは思った。若者は二番目の貨車の屋根の上に難飛び降りた。
   汽車の天蓋に乗った旅…列車は二時間ほど走った。それは寒い十月の月夜のことだった。汽車がスローダウンした。前方にぼんやりと灯が見えた。「駅だ!」若者は駅に着く前に飛び降りる準備をした。チャーリーは注意深く貨車の横に付いている鉄の梯子を降りて、線路際に跳んだ。転ばなかった。騎手トレーニングのおかげだ。脚腰の筋肉が発達していたからである。
   チャーリーは角の長い白い牛を見た。男たちが貨車に押し込んでいた。少なくとも、二十頭の牝牛と三頭の仔牛だった。喉の乾いた機関車がシュートから水をボイラーに入れていた。車掌が客車のステップを降りて、赤い屋根の駅に入って行くのが見えた。入り口の上の看板に「マホ」と書いてあった。
   チャーリーがマホの駅に入って行った。乗車券売り場はひとつだった。その窓口へ真っ直ぐに歩いて行った。「トリンコマリーへ片道一枚」とヒンズー語で言った。窓口の係員が、インド陸軍の兵隊服を着たチャーリーをしげしげと見ていた。一瞬、チャーリーが緊張した。 係員が口を開いた。――あなたは兵隊さんです。無賃で乗車出来ます。チャーリーは係員に感謝のことばを述べた。そして、ダッフルバッグの中からキャラメルを二箱取り出して、どうか食べて下さいと言った。
   「サンキュー、私には幼い娘が三人います。彼女たちは甘いものに目がないんですよ」と笑った。

   ほんの数人しか乗客はなかった。男が四人、女が二人、子供二人、牛の持ち主が一人…コロンボから乗った客も数人で客車の中は空席が多かった。セイロン島の人々は、ヒンズーも含めて、他人をジロジロと見ない習慣が着いていた。グループはお喋りを楽しんでいた。笑ったり、食べたり、ソーダ水を飲んだり… チャーリーはローカルの人々から離れて最後尾の座席の窓際に座った。ダッフルバッグを引き寄せて開いた。中にサタナンドがくれた地図を見つけた。マホからトリンコマリーまでは、遠い距離であると判った。アンナがくれたスケッチブックを取り出して開いた。多くのクレヨンで描いた風景画やマリアの像の絵もあった。二通の封筒がスケッチブックの間から床に落ちた。一通の封筒は糊で閉じていなかった…切手も貼ってなかった。ただ、「チャーリーへ」とだけ書いてあった。

   ――私が最も愛する弟、チャーリー、この手紙を読むころ、あなたは、私がもはやこの世の住人でないことを知るでしょう。どうして私が自ら命を絶ったのかと惑うかも知れません。私はあなたの荷物になりたくなかったのです。あなたは一人の方が早く動ける。ガードたちは競馬で優勝したことを祝っているので、あなたが消えたことに気が着かない。私はあなたのように馬に乗れない。チャーリー、私は売られたのです。明日になれば、私は、アラブに連れられて知らぬ他国へ行く。私はあなたと別れることに耐えられない。あなたには、何とでもして、イギリスへ帰って、父や母を捜して欲しいのです。私たちの父母に私は天国の住人となって、イエス・キリスト、私の天主様の腕に抱かれていると話して下さい。私はあなたが故郷に戻り、そしていつの日にか知事、グロイスター のチャールス・ミッテントロッター卿。最も優れたイギリスの知事になることを信じています。私たちの家の隣にある墓所に私の為に小さなお墓を造って下さい。私はあなたを愛しています。チャーリー、私をいつまでも憶えていてね。あなたの姉、アン。

   チャーリーはタオルを顔に押し当てた。こみ上がってくる嗚咽を抑えることが出来なかった。大粒の涙がまぶたから溢れた。若者は静かに泣いていた。 アンの手紙を畳んで心臓に近いポケットに入れた。 もう一枚の封筒を開けなかった。その封筒は糊で閉じてあり、表に父と母の名前が書いてあったからである。チャーリーはスケッチブックから一枚のページを抜いた。そして、父親のミッテントロッター卿に手紙を書いた。列車が線路のきしみで揺れた。膝の上で書いていた手紙が床に落ちた。

   ――僕の最も親愛なるお父さん、僕は生きています。もうすぐ家に帰ります。アンと僕は人さらいに浚われてセイロンの農園に売られた。アンは死にました。永遠の休息に就きました。父上にお会いしたときに、全部を話します。今、僕は汽車に乗って、チャイナ・ベイのRAAF空軍基地へ向かっています。彼らに僕をイギリスへ連れて帰って欲しいと頼みます。もうすぐ会えます。あなたの息子、チャールス、1952年10月7日。

   車掌が紅茶の入ったガラスのコップと角砂糖を持ってきた。車掌が列車は朝の九時、あと五時間で終着駅トリンコマリーに到着すると兵隊に告げた。それまで寝るように勧めた。到着する三十分前に誰かが起こしに来ますと言った。兵隊は車掌の親切に感謝を述べた。
   約束通りに同じ車掌が帰ってきた。沸かしたての紅茶を載せたお盆を持っていた。三十分で終着駅ですと告げた。
   「タクシーはありますか?」チャーリーが紅茶を受け取って質問した。
   「イエス、駅の構内を出たところにタクシースタンドがあります」と車掌が答えた。

   汽車の窓から見える景色は平らで沼が多かった。朝陽の中に水田が見えた。米の穂、水牛…赤い花が畦道に群生していた。チャーリーは、この赤い妖しい花、曼珠沙華を遠い昔に見た。五年前にバスコ・ダ・ガマで見たことを想い出していた。嵐の夜…豪華な部屋…アンと一緒のベッドに寝た。母親も、メイドのBBも近くにいた。
   列車が速度を落としていた。間もなくトリンコマリーだ。兵隊はダッフルバッグを持ち上げて汽車を降りた。若者は車掌に一礼して構内を出た。
   チャーリーが一台のタクシーの窓に「チャイナ・ベイのオーストラリア空軍基地へ連れて行ってくれますか?」と訊いた。
   「三十分、八ルピー」と運転手が素っ気ない返事をした。

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                         チャイナ・ベイ

   タクシーの運転手が王室オーストラリア空軍基地の第一ゲートに停まった。インド人のポリスに身分証明書を見せた。そのポリスは後部座席に座っているインド陸軍の兵隊チャーリーを見て首を傾げた。若者がインド人には見えなかったからだ。身分証を要求した。驚いたことに、そのインド兵はIDを持っていないと答えたのだ。ポリスが電話機を取った。第二ゲートの英国陸軍のポリスを呼んだのだ。一分もしないうちにジープが現われた。MPが二人降りてタクシーに近寄った。
   「サー、あなたの名前は?」と厳格な表情のMPが尋問した。
   「チャールス・ミッテントロッター二世です」とインド兵が答えた。
   「年齢は?」
   「十五歳と四ヶ月です」チャールスは自分の年齢を五年間も話したたことがなかったので、すらすらと答えが出たことに自分でも驚いていた。
   「なぜ、この空軍基地へ来たのですか?」
   「イギリスへ帰りたいからです」チャーリーはMPの目を真っ直ぐ見た。――ここで待っているようにと言ったMPが門衛のボックスに入って電話のダイアルを回した。当直のぺテイ・オフィサー(下士官)を呼んだのである。
その下士官は、チャーリーを凝視した。そして一緒に来るようにと言った。
   インド兵のユニフォームを着てダッフルバッグを手に持った若者はジープの後部座席に乗った。基地の中に入ったジープは歌を歌いながら白いショートパンツでジョッギングする一団に遭遇した。一団はイギリスの行進曲「ボギー大佐の行進」を合唱していた。チャーリーは、とてつもない安堵が全身に満ちるのを感じた。ついに英国に帰ってきたと…
   ジープが二階建ての白い真四角なビルの前に停まった。チャーリーが、緑色の風雨除けの扉の付いた窓を見ていた。グロイスターのホームは、どれもこの緑りの飾り窓があったのを想い出していた。下士官がチャーリーを二階に案内した。
   「ぺテイ・オフィサーのクーパーだ。お若いの、昼飯は食ったかい?」と中年の下士官がチャーリーに訊いた。「あと一時間で食堂で昼飯だ。俺たちと一緒に食うか?」ことばは粗雑だったが、緊張の連続だったチャーリーは、下士官のことばに温かいものを感じた。
   「サンキュー、サー」チャーリーはいつも腹が減っていた。
   「それでは、君は、チャールス・ミッテントロッター君。ミッテントロッター卿の息子さんなんだね。お姉さんのアンは何処にいる?」
   「私の姉は昨日、死にました」チャーリーは俯いて目を閉じた。下士官はその若者をじっと見ていた。
   「詳しい話を昼飯の後で聞かせてくれ給え」下士官ががっしりした木の椅子から立ち上がった。そしてチャーリーの肩に手を置いてふたりはドアに向かった。

                            *

   下士官とチャーリーは庭を横切って「メス・ホール」と兵隊が呼んでいる兵隊食堂へ歩いて行った。食堂というが、自分で好きなものを取って、好きな仲間と食う「カフェテリア」なのだ。丸いテーブルが100はあった。食堂の中はいつも騒々しい。今日は特に騒々しかった。それには理由があった。エアメンたちの話題は、タブロイド「RAAF・デーリー」の記事だった。 大きな見出しが出ていた。――謎のジョッキー、カンデイ大競馬で優勝。優勝した騎手とチャンピオンの馬の写真の下に記事があった。――謎の白人の少年が大競馬で優勝した。だが現在失踪中!

   RAAF司令官、クーパー下士官とチャーリーが食堂に入って来て隅のテーブルに就くのをジャンプスーツを着たエアマンが見ていた。そのエアマンは戦闘機のパイロットだった。パイロットは状況を正確にすばやく捉える目を持っている。このインド兵のユニフォームを着た若者はどこか特別だと感じていた。 まず、アングロサクソンの特徴である長い脚、幅がある肩、上向きの鼻、英国人独特の口元… そのパイロットが「謎のジョッキー」の写真を見た。そして口をあんぐりと開けた。 彼は、隣りのおっさん風のエアマンの腕を突いて囁いた。――司令官の横に座っているあの若者を見てみな。
そのおっさんも口をあんぐり。そのおっさんが横の兵隊の腕を突いた。その兵隊も口をあんぐり…そして「あの若者が謎の騎手だ!」と叫んだ。
   クーパー下士官が、エアメンがチャーリーを見詰めているのに気が着いた。司令官に、――チャーリーを紹介してはどうでしょう?と囁いた。
   「クーパー下士官、全く君が正しい」と司令官は言うと、チ~ン、チ~ン、チ~ンとテーブルの上のコップをスプーンで叩いた。
   「ジェントルメン、ご想像の通り、私の横に座っている若者が、昨日、カンデイのグランド・レースで優勝した謎のジョッキー、チャールス・ミッテントロッター君だ。 この驚天動地のアナウンスを聞いた男たちが椅子から一斉に立ち上がった。歓喜の声を挙げて、ついで拍手の嵐が起きた。
「それでは謎のジョッキーのご挨拶を聞こう」司令官がチャーリーを手で招いた。チャーリーが立ち上がった。
   「ハロー、チャールス・ミッテントロッターです。私は、あなたたちの翼(つばさ)が私を故国イギリスへ運んで下さるまで、この空軍基地にいます。あなたたちのおもてなしを感謝します」
   かっての競馬の騎手は、多くの視線を浴びて声が上ずっていた。チャーリーが座ると、エアメンが叫んだ。拍手の波が続いた。
   エアマンのひとりが力のある声で、「イエス、われわれの翼で故郷にお連れします。飯を食わします。英国まで、ず~と快適な空の旅を提供します」
   「フラ~!フラ~!」兵隊たちの感情は限界に達していた。ある兵隊は目を拭っていた。
指令官が立ち上がって、「さあ、この事件がいかに繊細なものか君たちにはわかったと思う。チャールス・ミッテントロッター君がこの基地にいることを外部に話してはならない。君たちの間だけで話すのは許可する。つまり、お喋りの新聞記者に発覚することほど有害なものはこの世にない。 この若者と遊んでやってくれ。基地を案内してやってくれ。チャイナ・ベイを空から見せてやってくれ、魚釣り、ラグビー…これは私の命令なのだ」
   「イエサー、全て了解!ただし条件が一つあります。アラビア馬の乗り方を俺たちにも教えて欲しいんだ」とひとりの兵隊が叫ぶと爆笑が再び起きた。

                            *

   エアメンはチャーリーに「チャック」という愛称を付け、彼らの弟分という位置に置いた。早速、教官がその日の夕方に遊覧飛行に誘った。チャーリーは生まれて始めて、エアランカという練習機に乗った。可愛い複葉機のエンジンは直列六気筒で90馬力。飛行速度も最大でも時速120kmと赤トンボ並みだったが、離陸するときの快感にチャーリーは飛行機が大好きになってしまった。チャーリーが前部で教官が後部の座席似座った。教官が操縦しながら説明をした。高度を1600mに設定してチャイナ・ベイの海上に出た。青い海原が水平線まで見えた。チャーリーは海の広さに息を飲んだ。若者は海を五年以上も見ていなかったのだ。「この海は、ベンガル湾と言うんだ」とチャーリーが海を見下ろしているのに気がついた教官が言った。
   「その操縦桿を両手で持って右へ傾けてみな」チャーリーが操縦桿を左へ傾けると機体が震えて左へ旋回した。
   「今度はゆっくりと右、左、右」
   「おお、これは面白い!。パイロットになりたい」エンジンの出力を上げて高度を上げる体験もした。着陸で速度を落とすと、練習機は、どんどん高度を下げた。
   「操縦桿の右横の円盤を手前に止まるまで回してみな」言われた通りに回すと、「ガクン」という音がしてフラップが45度の角度で下がった。着陸は教官がやった。練習機がガツンと滑走路にタイヤを当てた。あとは、タクシーのように滑走して駐機場に停まった。チャーリーは、ほっとして、胸を撫でた。
   「英国空軍に入隊してパイロットになりたい」
   「イエス、入隊出来るよ。祖国に奉仕したいか?」
   「イエス、エアマンになりたい」教官とチャーリーの会話は父親と息子の会話であった。チャーリーがそのとき、故郷の父を想った。
   クーパー下士官が当直室で待っていた。チャーリーが報告すると、「遊覧飛行はどうだった?」と訊いた。そして、――爆撃機が五日後に香港から飛来する。チャーリーはそれに乗って英国へ帰ることになった、と言った。
チャーリーが胸のポケットから父親に宛てた手紙を取り出していた。
   「僕の父を探して、この手紙を送って頂けますか?」
   「勿論だとも。チャーリー、君の父上、ミッテントロッター卿は、このチャイナ・ベイ空軍基地が理由でボンベイに送られたんだ。知ってるかい?」クーパー下士官の話は興味深かった。チャールス・ミッテントロッター二世が始めて父親の任務が何であったかを知った。
   「僕は、もっと歴史を学ばなければいけない。大英帝国の歴史と世界の歴史を学ばなければいけない」
   「その通りだ。いつの日か、君は、グロイスターの知事になると聞いた。パイロットになるのではなく」とクーパー下士官が言って、1942年に日本軍がセイロンを爆撃した歴史を語ったのだった。

   「復活祭の空襲」と言われる日本軍のコロンボ空襲は1942年の復活祭であった日曜日に起きた。二、三日後、トリンコマリーも空爆された。これらの空襲は大英帝国のインド洋艦隊に対する兵站を断つ日本海軍の計画であった。
日本軍によるセイロン空襲の被害は大きかった…コロンボ港の英国海軍の艦船が沈められた。巡洋艦二隻、空母一艦。だがもっとも打撃を受けたのはセイロンの島人であった。彼らは、日本軍が上陸して来ると信じて疑わなかった。そして日本兵を恐れた。何が南京で起きたのかを知っていたからである。空襲のあった日、セイロンの島人はパニックとなった。コロンボから北の山岳部へ逃げ、船でインドへ渡った。このパニックは「日本軍の上陸用舟艇がコロンボの浜辺に押し寄せた」という情報から起きた。その情報とは、オーストラリア陸軍の小隊がウミガメを上陸用舟艇の襲撃と間違えて伝えたためであった。

   「RAAFは、ローヤル・オーストラリアン・エア・フォースの頭文字なんだ。 チャーリー、君が食堂で会ったエアメンは、イギリス人、オーストラリア人、アメリカ人の飛行兵やエンジニア、機銃手、爆弾屋たちなのさ。 混成部隊を不思議に思う?それはね、RAAFは「イギリス連邦戦争省の一部だからなんだ。オーストラリア空軍はインド洋の支柱となっていたんだ。どうしてかと言うと、他の連合国の大部隊は、ほとんどが南西太平洋の戦場に出ていたからだ。ミッテントロッター卿がイギリス連邦を代表されて1942年にボンベイに赴任された理由なんだ。君の父上の任務というのは、セイロン自治政府とこのチャイナ・ベイのRAAFの拡張の交渉だった。 イギリスは航空技術が発達して、大きな爆撃機を造ることに成功していたから、長い滑走路の建設が必要となった。一方で、レーダーがアメリカで発達したから、そのレーダー基地を丘の上に建設することが必要となった。空軍基地には、レーダーほど重要なものはないんだ。接近する日本軍の爆撃隊を感知出来る…そこで、迎撃する戦闘機のスクランブル滑走路が二本必要となった。輸送船の入れる埠頭もだ」とクーパー下士官がRAAFを解説した。
   RAAF・チャイナ・ベイは、セイロンの北東部にあった。日本海軍の空母から発進した爆撃隊がコロンボの港湾とチャイナ・ベイのRAAFを襲った。 セイロン議会はチャイナ・ベイの拡張工事に即刻、同意した。この交渉のあと、ミッテントロッター卿は、もう一つの任務に就かれた。ボンベイの英国代理知事であった。この先が見えない戦時に誰かが「英国領ラジ」という植民地の政府を監督する必要があったから。ミッテントロッター卿とマウントバッテン・インド総督は英国王室の縁戚の関係だった。長い年月の間、インド政策で協力する関係だった。
   マウンテンバッテン・インド総督がミッテントロッター卿にボンベイの英国代理知事を要請した…お父上は即座に引き受けられた。ミッテントロッター卿は、第二次世界大戦は、それほど遠くない日に終わると知っていた。それはね、1943年になると、日本軍の空襲も日本艦隊の砲撃もパタっと止んだからだ。RAAFはビルマの日本軍を空襲した。しかしね、変化はそれだけで終わらなかった。インドの各地で大暴動が起きた。このセイロンでは、シンハリーズの政府とタミール武装集団との間に流血の内乱が起きた。両側に何千の死者が出た。まず、収入の格差、ことばの違い、そこへ宗教争いが加わった。内戦の典型さ。クーパー下士官が若いミッテントロッターに歴史を教えていた。生徒は一言も逃さないと耳を全開にして聞いていた。

                           16
               チャーリー、アブロ・リンカーンという怪獣に乗る…

   その朝、チャーリーが英連邦空軍飛行兵のジャンプスーツを着ていた。両手でダッフルバッグを胸に抱いていた。それが唯一の姉、アンの想い出だったから。それと、RAAF・タブロイド新聞の記事の切り取り取りだけがセイロンのメモアールであった。
   「チャーリー、父上のご住所がグロイスターのお屋敷だと判った。今朝、ボンベイの英国大使館から電信が入った。それから、ロンドンに着いたとき、RAFのエージェントにこの書類を見せなさい。君の身分証明だ」クーパーとチャーリーが下士官の部屋で話していた。
   「チャールス・ミッテントロッター二世、チャック!お家へ帰る準備は出来たか?」下士官は微笑していた。
   「あれが、君を祖国へ運んでくれるアブロ・リンカーン重爆撃機だ」クーパーがジープに乗ったチャーリーに、滑走路に待機する巨大な爆撃機を指差していた。
   「エアプレーン?翼が付いた戦艦に見える」
   「君が正しい。チャック、あれはモンスターだ。イギリスまで二日のフライトなんだ。最初の空港がカイロ。そこからロンドン」
   チャーリーは飛行機のスピードに驚いていた。セイロンからイギリスまでたったの四十八時間だ…彼は、ビクトリア号の一等航海士が遠洋クルーザーはボンベイからロンドンまで二十八日の航海だと言っていたのを憶えていた。
   チャーリーがジープを飛び降りた。アブロ・リンカーンの乗組員十二人がたった一人のゲストを出迎えた。キャプテン、一等飛行士、2機関士、2ナビゲーター、無線係り、前部機銃士、後部機銃士と3爆弾投下班である。
   「グッドモーニング、チャック、この鳥でホームへお連れします」と満面笑みのキャプテンが挨拶をした。
   「感謝します。こんな名誉のあるもてなしを生まれてから一度も受けたことがありません」とチャーリーが応えた。
   「あなたを歓迎します。四十八時間、一緒です。必要なものは何でも仰って下さい」
   「早速、必要なことがあります。この空飛ぶマシーンの操縦を教えてください」
   「われわれは爆撃隊です。あなたは爆弾を落とすことを習いたいのですか?」
   「ノー、ノー、ただこのモンスターを操縦したいだけです」クルーが大笑いした。チャーリーは農園の生活を一時忘れていた。
   「サー、今日は何日ですか?」チャーリーが爆弾屋と呼ばれる兵隊に訊いた。
   「今日は金曜日、、1952年10月14日です」兵隊の英語にオーストラリア訛りがあった。

   ――誕生日おめでとう…僕の最も愛する姉アン…チャーリーが囁いた。――アンの写真が一枚でもあればと思った。 
   「チャック、これを君に上げます。イギリスまで良い空の旅を」クーパー下士官がチャーリーに大きな茶色の封筒を渡して握手した。チャーリーは下士官の親切なもてなしに感謝して、力一杯の握手を返した。そして、怪獣の後部のドアに取り付けられたステップを駆け上がって行った。
   「空を飛ぶ怪獣」アブロ・リンカーンが、地上で見送るクーパー下士官の耳がツンボになるほどの爆音を残して離陸した。チャールス・ミッテントロッター二世が、アンの十八歳の誕生日にセイロンを飛び立ったのである。

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                     空を飛ぶ怪獣の旅が始まった…

   チャーリーはコックピットの後ろの小さなキャビンに座っていた。汽車のキャビンに似ていた。テーブルが真ん中にあり、それを挟んで六つの座席が配置されていた。テーブルも椅子もボルトで床に据えられていた。空軍の士官たちが外地へ赴任したり帰任するときの部屋であった。 怪獣がチャイナ・ベイを離陸してから二時間が経った。部屋もフライトも快適だが、一つだけ問題があった。このキャビンには窓がないことだった。通路側にカーテンがあるだけだった。ナビゲーターがキャビンへ来て、何か必要なものはあるか?と訊いた。
   「このボックスに二日、僕は座っているわけですか?」
   「はい、そうですよ。景色が観たいの?ポパイに訊いてみる」
   「景色が観たいんです。どうか訊いて下さい。後生だから…」チャーリーは、ほとんど懇願していた。ナビゲーターが大笑いした。「ンじゃあ、重爆ツアーの開始だ」

   ポパイという愛称のエアマンは機銃手であった。このオーストラリア人だが、大きな顎の先っぽがしゃくれていた。筋肉の盛り上がった腕に金髪の毛がモウモウと生えていた。チャイナ・ベイ空軍基地の映画館で観た漫画のポパイに似ていた。
   「戦友は俺をポパイとかゴールデン・アームとか色々のニックネームを付けている。俺は金髪だからね」と太い腕を指差した。
   チャーリーがにっこりと笑った。若者はひと目でポパイが好きになった。ポパイとチャーリーはコックピットの階下の「砲塔」と呼ばれる部屋に入った。
   「この砲塔は二階造りになっているんだ。上の部屋は俺たち機銃手の砲塔さ。二連装20mmが据えてあるんだ。この機銃は凄いよ。ヒスパノと俺たちは呼んでいる。機銃手はこの丸い防弾ガラスの砲塔で敵の戦闘機が近付いてくるのを発見して、撃ちまくるんだ。撃墜するんだ。勿論、敵というのは日本海軍のゼロ戦さ。実際はね、怖い仕事なんだ。この砲塔が敵に先にやられると、飛行速度ののろい重爆ほど無防備なものはこの世にないんだ。攻撃してくる日本軍のゼロ・ファイターは俺たちの頭の真上から、さかさまにこの砲塔ぎりぎりの距離でトンボ返りして撃ってくるんだ。奴ら、サーカスのつもりなんだぜ。敵はこの重爆の弱点をよく知っている。だから、敵の制空権では、俺たちは三万フィートの高度で飛ぶわけだよ」 機銃手のポパイが大きな目を開いて聞いているチャーリーを見た。チャーリーは空中の戦闘を想像していた。
   「この床のガラス窓から爆弾を投下する位置を定めて投下のスイッチを押す。1トンもある爆弾が重爆の真ん中の腹から吐き出される」とポパイが、階下の爆弾室に入ったチャーリーに窓を指さした。。チャーリーはポパイの爆弾ツアーに興奮していたが、爆弾屋とか、ガンナー(機銃手)になりたくないと思った。どうも、イメージが自分には合わない…

   ガラス窓の下を見ると、綿のような白い雲が広がっていた。雲間から海が見えた。ハリケーンの季節なのだ。
   「雨季に入る前のインド洋は大体こんな曇りの日が多いんだ。パキスタンのカラチの上を飛ぶよ。そこからは快晴だ。広大な陸も見える。乾燥した砂漠が見えるよ」 ポパイは、興味深々といった目のチャーリーにエアメンの仕事場を案内していた。
   「ポパイ、もう十一時です。おなかが空いた。僕はいつも空腹なんです 」
   「オーケー、それじゃあ、ガンマンに何かオーブンで焼いてくれと頼むよ」ポパイが砲塔の電話の受話器を取った。
   「ガンマン?」チャーリーが驚いて訊いた。
   「そうだよ。機銃手は平和な世の中では最も役に立たない連中なのさ。だから飯を作るのが任務なんだ」ポパイが耳がツンボになるほどの大声で笑っていた。
   ナビゲーターが一枚のペーパーをチャーリーにくれた。重爆の仕様書だった。爆弾積載量十トン、、
   「黄金の腕の教授、僕たちそんなに多くの爆弾を積んでるの?」とチャーリーが心配そうに質問した。
   「いいや、先週、5トンの爆弾を6000フィートの高度からマラヤのマオイスト(毛沢東派共産軍)の頭の上に落としたので、空っぽなんだ。それで、いつもはのろいこの怪獣の巡航速度が30%速いんだ」
   「この獣のエンジンは巨大なエンジンに違いない」
   「ロールス・ロイス・マーリン85・スーパーチャージが四発付いている。重爆の胴体を大きくしたので、燃料タンクも爆弾の積載量も増えた。最初にイギリスが開発した重爆、ランカスターよりも、リンカーンは高度が高く航続距離も長い」
   「こんな鯨のような飛行機を作るアイデアを誰が考えたのですか?」
   「サー・ウインストン・チャーチル卿だよ。イギリス国防長官だった。長官は俺たちの部隊を「英連邦の重爆隊」と名付けたんだ。俺たちは、爆撃コマンド学校で訓練された。俺たちは、「爆弾、爆弾、爆弾」という歌を歌うんだ」ポパイがチャーリーが笑っていないことに気が着いた。「勿論、悪い冗談だ」と訂正したのであった。
   「あと何時間でエジプトに着く?」
   「十六時間でカイロに着く。朝の二時に着陸する。そこで十二時間、給油や整備があるので駐機する。君をピラミッド、ナイル河、サハラ砂漠を観に連れて行ってくれるかイギリス大使館に訊いてみる」
   チャーリーがアンを想いだしていた。---ビクトリア号が、アレキサンドリア港に寄港したら駱駝に乗ってギザのピラミッドを観に行くわとアンが言っていたのを想い出していた。涙がポロリと出た。手でそっと拭いた。それをポパイがじっと見ていた。
   イギリス大使館はポパイのリクエストを拒否した。カイロの市外は暴動が起きていた。エジプトの国民はイギリスがスエズ運河をクレームしているのを拒絶していた。――ミスター、チャールス・ミッテントロッターは大使館で休息するようにと。
   「僕の胸の中はあまりにも多くのことが起きていて…父に早く会いたいんです」チャーリーがポパイの配慮に感謝した。
   「チャック、ピラミッドを観ることが出来ないんだそうだ。その代わりコックピットを見学に行く?」キャプテンとポパイがチャーリーと昼飯を食べるためにキャビンに戻ってきた。
   「臭い駱駝の尻に乗って、ピラミッドの周りを歩くよりもその方が面白い」キャプテンとポパイがチャーリーのウィットに笑った。チャーリーは何を見ても新鮮な反応を見せた。

   「カンガルー一匹、カンガルー二匹?」いまやコックのガンマン(機銃手)がチャーリーに訊いた。RAAFの朝飯、カンガルーというのは単純。焼き卵二個、ソーセージ二本、ライ麦のトーストにバターとマーマレード、紅茶と砂糖だった。キャプテンがテーブルの上にフライト・プランと地図を開いた。カイロからロンドンまで直線が引いてあった。
   「われわれは地中海を横切る。ギリシアとイタリアの間のアドリア海を北上する。オーストリア、スイスのアルプスを越えて、フランスのパリの上空を通過する。イギリス海峡を飛んでロンドンに着く。あと十六時間飛ぶ。天候は予想したよりも良い。とキャプテンが説明した。キャプテンが話している間、いつもはお喋りのポパイは黙っていた。
   チャーリーはコックピットの計器類の多いのに目を見張った。レーダー、半月形の操縦桿と何本ものレバー、、操縦室から見る地上の景観は見事だった。チャーリーが副操縦士が操縦桿を握っていないことに驚いた。彼は、ただ計器を見てダイアルを調整しているだけだった。
   「この怪獣はオートパイロットのモードで飛んでいるんだ。副操縦士の後ろはエンジンの出力を担当するフライト・エンジニア。われわれコックピットはシフトで働く。副操縦士、エンジニア、ナビゲーターは今から昼飯と体操に行く。私と新しいクルーに代わる」とキャプテンがコーヒーを飲みながら話した。

   「ウォー、いい匂いがする。俺もコーヒーを一杯欲しいなあ」オーストラリア人のナビゲーターがコックピットに入って、チャーリーの横にドカッと座った。
   「イセッサー、コーヒーとミルクと砂糖ですか?他に何か?」とポパイが立ち上がった。
   「紅茶とブロンド(ミルク)と砂糖を俺に」とエンジニアが加わった。新しいクルーは、今起きたばかりという顔をして、両腕を上に挙げてあくびをしていた。
   アブロ・リンカーンは、二万フィートの高度で飛んでいた。チャーリーが下界の景色を見た。アドリア海は、雲ひとつなく、コバルト・ブルーの海が見えた。ロールス・ロイスのエンジンが軽快な爆音を発していた。眠気を誘う音である。みんなが眠気と闘っていた。――だから、コーヒーや紅茶が必要なんだなとチャーリーが思った。
   「向こうに見えるのが、イタリアだよ」ナビゲーターがチャーリーに言った。彼は、ブラック・コーヒーに、スプーンで山のように砂糖を入れクッキーを掴んだ。「俺は幸せなんだ」という顔をしていた。

                            *

   チャーリーとポパイが体操に行った。いろんな機械があった。エアメンの体調をキープするマシンだ。ベンチ、バーベル、重いボール、鉄棒…ないのはプールだけだった。
   「俺たちは、飛行中はあんまりすることがない。飛んで、食って、マガジン読んで…マガジン読みたい?」とポパイがチャーリーに訊いた。十五歳の元競馬の騎手から返事がなかった。ポパイが「どうした?」という顔をしていた。そして、「本は読めるの?」とチャーリーの目を覗き込んだ。
   「読めます。だけど限界があるんです」チャーリーは、姉のアンが読み書きを自分に教えたといった。
   「なるほど、、君のお姉さんは、君の母親であり、教師でもあったわけだね」ポパイがキャビンを出た。ポパイの金髪の睫毛(まつげ)が濡れていた。一分もしないうちにポパイが腕一杯にロンドン・デーリーミラーの特別号を持って戻ってきた。

   チャーリーは自分の持つ読解力の全てを絞って記事を読んだ。特別号は世界第二次大戦の解説と記録写真であった。イギリスがナチス・ドイツに勝った…太平洋の植民地を日本から取り返した…だが全てのイギリの植民地に問題が続発した…インド、マレーシア、インドネシア、ビルマ、北アフリカ…ソビエト・ロシアの後押しを得て、共産ゲリラが世界中に叛乱を起こしていたのである。
   アメリカも同じ問題を抱えていた。ルーズベルトは膨大な軍資金と武器を上海の殺し屋だった蒋介石に与え、国民軍を育てた。仕掛人は蒋介石の妻であった宋美齢が――日本軍がキリスト教会を焼き払っていると…上海でキリスト教を広める活動をしていた宣教師たちを扇動して、結果的に熱心なクリスチャンであったルーズベルトを扇動した。勿論、日本軍がキリスト教会を焼き払ったなどは真っ赤な嘘だったのである…
   日本軍はアメリカが指導する連合軍に敗れた。アメリカは日本の二都市に原爆を落とした…日本は降伏した。しかし、蒋介石の国民軍は、高等学校の教師のマルキシスト、毛沢東に勝てなかった…

                           18
                    イギリスに帰ってきたけれど…

   空飛ぶ怪獣、アブロ・リンカーンは、時速340KMでパリの上空を通過して英仏海峡に向かっていた。ポパイがチャーリーを起こしにキャビンに来た。ふたりは砲塔へ行った。
   「あれがフランス側のカレだ。今から英仏海峡を渡る。イギリスは、今日は見えないよ。雨雲が覆っているから」黄金の腕がイギリスの方角を指していた。ポパイが「ピースープ(えんどう豆のスープ)」と言った。

   空飛ぶ怪獣のエアメン十二人と若いミッテントロッター二世が英国王室空軍ノースホルト空軍基地の滑走路に着陸した。1952年の10月16日の午後であった。

                            *

   英国安全保障局のエージェント二人がチャールス・ミッテントロッターに面会した。年上のエージェントがバッジを見せて若い方のエージェントと自分を紹介した。
   「それでは、あなたは、チャールス・ミッテントロッター二世…ミッテントロッター卿の息子さんなんですね?」エージェントが質問に入った。この若者は、チャールス・ミッテントロッターと名乗っている。彼らの任務はこの驚くべき「人さらい事件」の主人公の身元を検証することであった。
   「父親のネーム、母親のネーム、姉のネーム、いつイギリスを出発したのか?」チャーリーの答えは、真っ直ぐで明瞭であった。
   「君は何歳ですか?」
   「十五歳と五ヶ月です」
   「そのナップサックを開けて頂きたいのですが」と若いエージェント。
チャーリーが、インド陸軍の兵装とブーツ~アンのお下げ髪~アンの手書きのスケッチブック、それと怪獣に搭乗するときに、下士官がくれた大きな茶封筒をテーブルの上に並べた。
   「この茶封筒を開けてください」
   「僕も何が入っているのか知らないのです。チャイナ・ベイの空軍下士官がくれたのです」
   チャーリーが封筒を開けた。十二枚の写真が入っていた。どれも、カンデイ大競馬の写真であった。アン、アアシリア、サタナンドが写っていた。アンがチャーリーの頬に接吻している写真があった。チャーリーが金メダルを首に掛けてトロフィーを手に持っていた。クーパー下士官のメモがあった。――この写真は、RAAFが新聞社から入手したものです。
   「あなたの横に立っているレデイは、ミス・アン・ミッテントロッターさんですか?」
   「イエス、僕の姉、アンです」
   「最後の質問ですが、われわれは、あなたの英語が最近の若者たちの話す英語と違うことに気が着いている。なぜですか?」
   「僕は過去の五年間余り学校へ行っていないのです。僕の姉が読み書きを教えたのです。僕らが農園にいたとき、彼女も学校へ行っていないのです。アンが持っていた聖書だけが教科書だったから…」
   「聖書ですって?」

   ――夜は間もなく終わる。朝が近付いている。闇の行いを横において、朝陽の鎧(よろい)を着けよう…チャーリーが気に入っている聖書のおしえを唱えた。

   ふたりのエージェントが頷いた。「私たちと一緒に来て下さい。父上にお会い出来るようにグロイスターへお連れします」
   若い方のエージェントがRAFに電話を掛けて、オートジャイロを出して貰うように要請した。グロイスターはイギリスの西の端に位置する。フライトは一時間半だった。オートジャイロが、「セバーン川」の見えるラグビー場に着陸する姿勢を取った。この都市は611年にローマ帝国が建てたものである。チャーリーはイギリスの緑に覆われた都市を見ていた。ワイ河と古城が見えた。子供の頃に見た古城を憶えていたが、ネームを忘れていた。ワイ河の西の岸は、昔、王国だったウエールスである。

                             *

   ラグビー場に警官が待っていた。彼らは五年以上も失踪していたミッテントロッター卿の息子を乗せたオートジャイロが着陸するのを見ていた。チャーリーとエージェントたちが降りた。雲ひとつない夕焼けが西の空に見えた。秋の空気は、ぱりっとして清浄だった。薔薇の匂いが幽かに匂っていた。その方角をチャーリーが見ると、色とりどりの薔薇が咲いていた。チャーリーが黒いセダン近付くと警官がドアを開けた。ラグビー場からワイ河のほとりに出た。そこから北へ向かった。三十分走ったとき、右へ曲がった。セダンは鉄の門の前に来ていた。森の中に屋敷が見えた。チャーリーの横に座っていたエージェントが――僕の住んでいた家と呟くのを聞いた。

   チャーリーは、数人の人々が門前に花と灯の付いたローソクを手に持って集まっていた。花束で造られた祭壇の前に婦人が二人しゃがんでお祈りをしていた。
   ――誰か亡くなった? チャーリーが凍った。父親のイメージが頭脳を横切ったからである。玄関に続く石段を足早に上がって、扉に着いた重い真鍮の輪を持ち上げて強く当てた。中に足音が聞こえた。内側からゆっくりと扉が開いた。中年の女性が口に手を当てて叫んだ。
   「おお、神様、チャールス王子が家に帰って来た」彼女がチャーリーの手を取って家の中に入れた。
   「ミッテンとロッター卿が昨夜、亡くなられたのです」彼女はチャーリーの腕を掴んでむせび泣いた。チャーリーはことばを失った。
   チャーリーが懐かしい家に入った。この家の中を駆けまわっていた幼い日を想い出していた。二人のエージェントが玄関に立っていた。「ご紳士方どうか家の中に入って下さい」と女性が言った。
  その女性はイーデスという名前だった。チャーリーの子守兼母親の代理であった。イーデスはチャーリーが生まれたときからミッテントロッター家に住んでいた。ミッテントロッター一家がボンベイに行ってからは、屋敷の留守番をしていた。彼女がミッテントロッター卿が亡くなった状況を話した。
   「チャールス、家族を失ったお父さまは、イギリスへ帰って来られてから何年もの間、鬱病になっておられた。お父さまはほとんど何も食べなくなった。かろうじて体を維持するという食事でした。家から出なくなり、窓にカーテンを降ろして部屋に閉じこまれていた。あなたのお父さまは暗闇に生きておられた。社交はなく知事の任務だけをなされた。 先週、脳梗塞で入院されたのです。そして昨夜、真夜中、睡眠中に息を引き取られたのです。四十九歳のお歳で…イーデスの体が悲しみに震えた。
   「ミッテントロッター卿は、あなたがチャイナ・ベイから出した手紙を受け取りました。チャールス、お父さまは、アン王女がセイロンで死んだと知って泣きました。何度も泣いていました。その日からというものは、一日中、椅子に座って、ひとりごとを言うようになったのです。私が息子のチャールスが帰って来ると言っても、耳に入らなかった。何かを呟いていました」
   「イーデス、僕は王子じゃない。アンも王女じゃない。僕たちは王室の遠い親戚なんだ」チャーリーは母親代わりのイーデスを腕の中に抱いた。
   「いいえ、あなたは、いつも私の王子なんです。チャールス、いつも王子なんです」エディスの声がチャーリーの肩で押し潰された。

   チャーリーが父親の棺(ひつぎ)に歩いて行った…額に手を当てた。そして膝ま着いてお祈りをした。
   「僕は世界でたった一人になってしまった」若いミッテントロッターは手で顔を覆って、しのび泣いた。
   「チャールス、あなたにはお母さまがいる…私がいる。そしてブルーノもいる。お母さまを捜しましょう」イーデスがミッテントロッター家の権威となっていた。ブルーノは、チャーリーが五歳のときのクリスマスに父親がプレゼントした茶色のラブラドール犬でなのである。1944年の春、チャーリー七歳、アンナ九歳とミッテントロッター夫人がボンベイの彼らの父親と一緒になるためにインドへ渡った。愛犬を連れて行くわけには行かなかった。いまや、ブルーノは大きな太った八歳の犬になっていた。尻尾を振って、ご主人さまとの再会を大喜びしていた。

                           19
                    グロイスターの森のお墓に…

   ミッテントロッター卿の葬儀は生前一緒に生きた人々のためにカテドラル(カトリックの大伽藍)その後、ボディは屋敷の傍の森を切り開いた先祖代々の墓所に運ばれた。チャーリーが棺の中の父親の横にアンのお下げ髪を入れた。アンがダッフルバッグのポケットの中に入れたものだ。 ほんの数人の人々が集まっていた。父親の親戚である。チャーリーは、叔父も叔母も従兄弟も識別が出来なかった。彼はエディスとブルーノの傍に立っていた。お坊さんが聖書を読んだ。プライベイトな葬式は昼前に終わった。
   家に帰った。イーデスが紅茶を持って入って来た。いまや、チャーリーがミッテントロッター卿の書斎の住人となっていた。県庁から電話が入った。イーデスが受話器を取ると「県議会議員があなたに面会したいといってるわ」とチャーリーに言った。
   「いつ?」
   「今日の午後」
   「彼らは突然の面会の理由を言ったの?」
   「チャールス王子、あなたはお父様の任期が終わるまで知事なのよ」エディスはチャーリーの上司になっていた。

                            *

   イーデスが県庁の公用車が玄関に来たことをチャーリーに伝えた。グロイスターの市街に入るとカテドラル(カソリックの大伽藍)の塔が遠くに見えた。この地域はアングロサクソンがグロイスターとその付近を征服した時代から急速に発展した。グロイスターはイギリスに君臨する金融のパワーハウスとなった。さらに、西の端、向こう岸がウエールス。その河口には、水深の深い港があったから工業も商業も百花繚乱となった。チャーリーがグロイスターの中央のスクエアにある県庁に着いた。玄関に警官が待っていた。チャーリーを知事室に案内した。チャーリーが会議室に入ると、十六人の県議が立ち上がって新知事に頭を下げた。チャーリーが歩いて行って全員と握手と挨拶をした。真ん中に会議用の長いテーブルがあり、両側に八人ずつ座った。チャーリーは、テーブルの頭に当たるところに置かれた知事用の革の椅子に座った。

   「ミッテントロッター二世、われわれ県議会は、ミスター・ガーキンを副知事および知事の執政に選びました。あなたの父上の任期が終わるまで、ガーキンさんが、あなたの代わりに知事の業務を勤めます。それがグロイスターの法律です」と長老のリットン議員が述べた。
   「僕、いや、私は知事の任務が分かりません」チャーリーが自分は全くの素人だと認めた。
   「まず最初に、裁判長と警察長官を選んで下さい。父上がお亡くなりになると同時に任期が切れるためです、、そのまま継続して頂くのもあなた次第なのです」ミスター・リットンがオプションを示した。
   「いつ、その裁判長と警察長官を指名しなければならないのですか?」
   「明日の朝です。この執務室に二人の候補者が来ます」ミスター・リットンの声には長老の権威があった。

   テーブルのヘッドに座った若者は、もはや、チャーリーではなかった。チャールス・ミッテントロッター二世と呼ばれるグロイスターの知事なのである。彼の人生は劇的に変わったのだ。もう姉の死や、父親の死、そして今も消息不明の母親の境遇を悲しんでいる時間はなくなった。
   「あなたは、パワフルな人になった。もしも復讐を計画していないでしょうね?この男のことです。あなたや、母上や、お姉さまや BB をインド洋で浚ったコックニーのことです。復讐を考えておられるのですか?」執政、ミスター・ガーキンがチャーリーの目を真っ直ぐに見ていた。
    「汝、復讐や憎しみをあなたの仲間の誰にも抱くなかれ!反対に自分を愛するように愛せよ、、私が天主である。旧約聖書 Leviticus 19:18.」
   「目には目を。そして歯には歯を…同じ旧約聖書」チャーリーが言い返した。
   「復讐心は世界を盲目にする…マハトマ・ガンデイ」ミスター・ガーキンが言い返した。
   「それじゃあ、私はどうすればいいんだ?どうすれば、母を見つけることが出来ると言うの?」チャーリーは、溢れそうになる涙をこらえた。
   「法律に沿って行う」ミスター・ガーキンが言った。
   「コックニーを逮捕出来ますか?」
   「この男はインド情報局が、昨日、逮捕した」
   「昨日ですって?何処で?」チャーリーは自分の耳を信じられなかった。
   「インドの南のケララで。あなたがカンデイから姿を消したとき、コックニーは深刻な結果になると悟った。農園に帰らず、コロンボの空港へ自動車で行き、そこからケララに飛んだ。小型の飛行機でインド南西の海岸町のケララまで一時間だから…奴は仲間に匿われた。人買いの仲間に守られた…」
   「人買いですって?」
   「そうです。コックニーと、その仲間は巧妙なネットワークを組織していた。女子供を売買する。ミスター・ガーキンがチャーリーに、――インド全国の奴隷商人らは、一網打尽となったのだと語った。コックニーはイギリスに送還され、裁判にかけられるのだと話した
   「胡椒の王様はどうするのですか?」
   「グロイスターは、ロンドンのスコットランド・ヤード警視庁に逮捕状を要請した」
   「何という名前ですか?」
   「ジョージ・V・ドラム」
   「逮捕出来る?」チャーリーはこの極悪人の逮捕を主張した。
   「スコットランド・ヤードの報告を待っている。ミスター・ドラムは、イギリス連邦に住んでいないのです」

                           20
                      スコットランド・ヤード

   チャーリーが任命した「チーフ」と呼ばれるグロイスターの警察長官は、朝早くロンドン行きの汽車に乗った。スコットランド・ヤードと呼ばれている英国警視庁へ出張したのである。
   ケンドール警察長官は、ロンドン中央駅に、二、三時間早く着いた。――どこかで昼飯を食べようと考えていた。拾ったタクシーをベーカー通りで降りた。ユダヤ食を食べたくなったのだ。ユダヤ人の伝統はレストランではなく、ユダヤ食料品の店、つまりストアの中に簡単な食堂があるのだ。 ケンドールは、ライ麦のパンにどっさりと挟んだパストラミとカラシ、マッツォボール・スープとルートビール・ソーダ水一本を注文した。 ケンドールがベーカー通りを昼飯のスポットに選んだのには理由があった。このストリートを訪れるものは誰でもシャーロック・ホームズとドクター・ワトソンがこの狭い石畳の道を遊歩して向かい側のユダヤの店に入るイメージを抱くのである。実際にそれを真似したのは、グロイスターから汽車でやって来たケンドール警察長官のようであった。

   「チーフ・ケンドール、われわれは、何がミッテントロッター一家に起こったのか、ほぼ、その全容を把握している」とスコットランド・ヤード英国警視庁の監督官が「不運な皇族の事件」を語り出した。
   「いまや、若いミッテントロッター 二世 が、グロイスターの知事になったことは強力なヘルプになるのです。彼が強い権力を握ったからです。それに、この知事は英国王室の縁戚ですからね。 インド法務省はたいへん協力的ですよ。彼らは、冷血の毒蛇コックニーを逮捕したのです。コックニーの名前は、ババ・クライドと言います。ご存知ですか?」
   「いいえ、知りません。それで、今、そのババという男は、何処に留置されているんですか?」
   「ケララの留置場です」
   「この男の仲間の人買いは、どうなったんです?」
   「連中は、PTボートで逃げた。インド沿岸警備隊がカノン砲をバ~ンと撃ったら、みごとにボートに命中した。バイキン野郎どもを海の底にお送りしたんだ。人買いどもは永眠なされたわけさ」監督官が、は、は、は、と笑った。
   「どうやって、奴らはPTボートを手に入れたんですか?」チーフ・ケンドールがいかにも理解し難いとばかりに訊いた。
   「ジョージ・ドラムは、いろんな怪しい商売をやっているんです。セイロンの紅茶とインド南部のゴム農園、香港の銀行、マカオのカジノ、パキスタンのカラチ港にある廃船の解体業…インド洋の戦争が終わったとき、アメリカは破損して使い物にならなくなった海軍の船をダンプした。PTボートもね。ドラムがアメリカ海軍の契約者となって、一括してキャッシュで買った。
   「チーフ、英国情報局の紳士をここに招聘してある。一時間でやって来る。紅茶一杯どうですか?」監督官が部屋を出て行った。そしてセイロンの紅茶を二杯とビスケットの缶を持って帰ってきた。

   ――英国情報局インド特別班の調査官の報告は以下であった…

   ――インド連邦警察と英連邦エージェントの混成部隊が先週インド南西部ケララ州で操業していたゴム農園を手入れした。インド連邦警察がインド独立後からこのゴム農園を調査していたが、内戦や暴動が全国に広がっている状況では、インド各地の農園や工場で不法強制労働が行われていると知っていても、新政府に人員もなければ予算もなかった。本年1952年に入ってから本格的な奴隷農園の摘発がインド全国で開始された。イギリス陸軍の助力も、イギリスの援助資金も追い風となった。英国領ラジの時代からこのケララ州には奴隷農園があることは知られていた。先月の十月に農園を逃げたヒンズーの奴隷がケララ州警察長に駆け込んだ。――このゴム農園に白人の奴隷もいたとの情報から一斉検挙に踏み切ったのです。われわれは、キッチンで働かされていたBBという名のヒンズーの女性を見つけた。彼女はミッテントロッター夫人に仕えた子供たちのメイドだったと…インド情報局の調査官に次ぎのように誘拐事件を語ったのです。ミッテントロッター夫人、アン、チャールスとBBの四人は1947年の十月のある朝、ボンベイの港からクイーン・ビクトリア号に乗船した… 遠洋航海クルーザーは最初の寄港地ゴアに向かった。ゴアはボンベイから380km南方のインド西海岸の町、ゴアからイギリスへ帰る人々を乗せるためだった。台風がインド洋の南方で発生していた。クルーザーは、バスコ・ダ・ガマ港に丸二日間、停泊を余儀なくされた…台風が過ぎ去った後、クイーン・ビクトリア号は錨を挙げてインド洋に出た…
   バスコ・ダ・ガマ港を出航をしてから五時間が経った頃、二隻のPTボートが水平線に現われた。クイーン・ビクトリア号に急速に接近してきた…コックニーはミッテントロッターの客室係りだった…コックニーの率いるインド人のギャングらは、大食堂にいたミッテントロッターの四人と他のインド人の男女を人質に取った。一等航海士が射殺された。コックニーは、ビクトリア号に乗船していたイギリス海軍の警備兵の武装解除を船長に命令した。
   コックニーと子分のインド人ギャングが二十二人の船客を浚った…二隻のPTボートに乗るように命令した…そして海岸へ向かって猛スピードで発進した。アンとチャールスはコックニーの乗るボートに…ミッテントロッター夫人とBBと他に八人の男女がもうひとつのボートに乗せられて…コックニーのボートの後ろについて行った。PTボートがケララの海岸の見える海上へ来ていた。そこへ、小さな漁船が近寄ってきた…ミッテントロッター夫人、BB,八人のインド人の男女が金貨、銀貨と交換された。つまり売られたのです。人買いは、浚ってきた女子供を物資と見ていた。
   「物資?豆のような?」チーフ・ケンドールが頭から湯気が出るほど憤怒した。
   「BBという二十五歳のインド女性がわれわれに話した。彼らはゴム農園に連れて行かれて、ゴムの原料を加工する工場で労働を強制された。チャイナのスウエット・ショップと同じ奴隷労働です。二年が経った。ミッテントロッター夫人は精神異常となり、さらに失明した…夫人は子供の名を呼んで泣いてばかりいた。農園主が夫人をケララに連れて行って路上に捨てた…」

   こんな悲劇を聞いたことがない信仰の深いアイルランド人のケンドール警察長官は大声で泣き出していた。
   「それで、夫人の居場所はわかったのですか?」チーフが長い鼻を持った英国情報局の調査間に訊いた。
   「われわれが知っていることは、国際赤十字社が盲目のホームレスの白人女性がケララの路上を彷徨(さまよ)っているのを見つけたのです。彼らは即座に女性を収容しました。 その女性がミッテントロッター夫人なのか確証はありません。だが、夫人である可能性が高い。その盲目の女性の記録を入手したのです。女性はあまり話しません。話すときは、意味不明なのです...
   ケンドール警察長官がまた泣き出した。情報局調査官が、くしゃくしゃのハンカチを差し出した。
   「それで、その女性をどうしたのですか?」
   「赤十字の記録では、この女性はボンベイのイギリス大使館に引き取られたとある」
   「それから?」
   「彼女はモーズリー精神病院に送られた。ロンドンの南のデンマークの丘の...この病院は治療が不能な精神病患者を収容するベッドラムと違って、精神病の治療が可能な患者を収容するところです。問題が多くある。この女性には身分証明書がない。さらに、1950年のクリスマスに収容されてから彼女を家族だとクレームする人がいないのです。
「それから二年が経ったわけですね?」チーフは、もはや、泣いていなかった。彼は深い考えに沈んでいた。チーフが顔を上げると、グロイスターの知事の執政、ミスター・ガーキンを呼び出したい…電話を使わせて頂きたいとスコットランド・ヤードの監督官に訊いたのであった。

                            21
                        デンマークの丘

   グロイスターの知事チャールス・ミッテントロッター二世と執政のミスター・ガーキンを、モーズリー精神病院の院長が出迎えた。医務室に招かれると、二人の精神科医が自己紹介をした。そして謎の盲目の女性のカルテを取り出した。
「実際には、この患者さんは気が狂っているわけではない。精神病でもない…盲人でもないのです」と切り出した。「彼女は何か激しいショックによって視力と話す能力を失ったのです」と女性の担当の精神科医が言った。
   彼女は日常の生活に問題がない。それどころか、毎日の活動に異常が見られないのです。起床は毎朝、同じ時間…衣類を自分で洗濯する。着替える。食堂で食べる…庭園を散歩する。しかし、ちょっと奇妙な行動を私は見たのです」
   「奇妙な行動ですって?」ガーキンが訊いた。
   「彼女の部屋は、自活出来る患者の部屋なんです。つまり自力で生活する…簡単なことだけですが。食後の片付け、家具の塵を雑巾で拭う。この患者はそれらの仕事に加わらないのです。庭で花を摘んだり、活けたり…」
   「われわれは、この女性は上流社会の人だと認定したのです」
   「その女性に会えますか?」とチャーリーがドクターに訊いた。

   四人は薄暗い廊下を歩いて行った。ドアの中から、キャアという叫び声、女性のひとりごと、ケラケラと笑い声…泣き声が聞こえた。廊下の端に来ると、鍵の掛かった鉄の扉があった。その棟は、比較的に精神病の軽い患者が生活出来る環境になっていた。「生活能力がある人々」というネームがついていた。普通の家のように思えた。窓にも、庭に出る玄関にも鍵はなかった。部屋の中には看護婦もいなかった。鍵のかかったドアの向こうの廊下で見た看護婦だけだった。
チャーリーが窓際の椅子に座っている女性を見ていた。女性は細身で灰色の髪を束ねておらず、その長い髪が痩せた両肩に掛かっていた。そして椅子に座って窓の外を真っ直ぐ見ていた。庭の樫の木の枝に百舌(もず)が鈴なりに並んで囀るのを聞いていた。
   「彼女は時々、音楽に反応するんです」と年上の医者がチャーリーに言った。
   「どういうソングですか?」とガーキンが訊いた。
   「聖歌です」
   「クリスマス・キャロル?」チャーリーが医者を振り返って訊いた。
   「そうかも知れません」

   チャーリーが、姉のアンが夏でもクリスマス・キャロルを口ずさんでいたのを想い出していた。
   「彼女に近付いても良いでしょうか?」チャーリーは部屋に入ってからその女性から一瞬も目を離さなかった。心臓の動機が速くなっていた。
   「勿論ですとも」女性の担当の医師がチャーリーのために椅子を持って来て、女性の横に置いた。
   「お母さん」チャーリーが低い声で語りかけた。応えはなかった。
   「お母さん」と再び声をかけたが、やはり応えはなかった。
   「ママ!僕だよ、チャーリー…あなたの息子…」チャーリーは絶望的になっていた。
このとき女性が声のする方角にゆっくりと顔を向けた。そして両手を伸ばした。チャーリーがその手を取って顔に当てた。
「おお、私のチャールス…私の息子」と女性が叫んだ。

                           22
                        胡椒の王様

   チャーリーは、イーデスが、サタナンドとアアシリアが到着したと言ったとき、書斎に居た。若いグロイスターの知事は、セイロンから来た親友を出迎えるために玄関に急いで行った。

   「僕はセイロンから出たことがない。僕らは飛行機に乗ったこともなかった。と旧友を抱きしめながらサタナンドが言った。アアシリアが少し太っていることにチャーリーが気が着いた。
   「僕がカンデイ村を去ったとき、象たちがテント村を駆けぬけて行く大騒動が聞こえた。サタナンド、アアシリア、私はあなた方に命を助けて貰った。ひとつ提案をしたい。断れない提案をしたいとチャールスが言った。サタナンドがチャーリーの真剣な表情に体を硬くした。提案を恐れたのである。だが、アアシリアは、女性の直感で、その提案が自分たちに良いニュースであると知っていた。
   「僕は、胡椒の王様を買った。紅茶農園の新しい持ち主になった。僕はあなた達に農園を経営して貰いたい。あなた達は結婚したのですか?」
   「イエッサー、僕たちは夫婦です。アアシリアはもうすぐ母親になる」サタナンドがアナウンスした。誇りで背丈が伸びたように見えた。
   「そして、サタナンドあなたは父親になる…」チャールスことチャーリーがあの競馬のあった夜、カンデイを去った後に起きたことを話した。

                            *

   一週間前のことであった。スコットランド・ヤードの監督官がチャールスに電話で報告をした。コックニーが死んだと。コックニーがケララの留置場で同房の入所者ら  に殺されたと言ったのである。
   「毒蜘蛛はブーツで踏み潰された」
   「誰が殺したのですか?」チャールスが混乱していた。
   「胡椒の王様が殺すように命じた。甥がイギリスへ帰って来て、裁判官の前で喋るのを封じたのです。胡椒の王様が知らないところで、コックニーは、人を浚って高い値段で売るという商売をやっていた」監督官はスコットランド・ヤードの「捜査力」を誇りに思った。
   「なるほど。それで、胡椒の王様は今、何処にいるのですか?」
   「われわれでも、ボスの居場所が判らない。ただ、ジョージ・ドラムがセイロンの財産を売りたいとドラムの弁護士から電話があったんです」
   チャールスは、しばらく考えていた。そして口を開いた…
   「二ペンスで私が買うと弁護士に伝えて下さい」とチャールスが言った。これが私の最高額なんだ」
   「知事さん、奴は、そんな安い値段では売らない。入札をする」
   「もし、ドラムが、私の申し出を拒絶するなら、私は、あるったけの権力を使って復讐をすると伝えて下さい」若い知事は譲らなかった。

   「サタナンド、胡椒の王様は、農園を二ペンスで僕に売った。僕は、世界一の紅茶をあなたに作って貰いたい。セイロンの紅茶を世界に知らせたい。僕は、奴隷を禁止する条例をセイロン政府に要請した。条例は採択されて、セイロンの全島におふれが出された。公共でも、私有の農園でも、工場でも、労働者には時間給と医療給付、母親は保育の給付を受け取る法律も発令した」
   長い沈黙が続いた。ついにサタナンドが口を開いた。「それでは、あなたが胡椒の王様なんですね?」
   「いいえ、私は、ただのチャーリー…あなたのジョッキー」とチャールス・ミッテントロッター卿が言った。

                           ‒完‒


   伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから46年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聞き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ自動車工場、スバル・いすず工場の北米進出、日本の大手新聞社に雇われた。現在は、冒険小説、児童文学、政治ブログ「隼速報」を書いている。妻のクリステインと犬二匹で、ルイジアナの河畔に住んでいる。(2014・2・28)

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「胡椒の王様」はシリーズです。King of Pepper が英語版です。Amazon・USAから購入が可能です。

次回の作品は、「胡椒の王様・謎の箪笥」です。2014年9月に出版します。

伊勢平次郎による小説「アブドルの冒険」も読んで下さい。英語版は、You Die For Meです。


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伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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