2015/03/06 (Fri) アメリカ実業家伝・テキサス国(その9)
1830~1839には、ボストンやプロビデンスで織機産業が起きたことを「アメリカの実業家(その5)・鉄道王バンダービルト」の章で書いた。これがバンダービルトが「蒸気船の王者」から「鉄道の王者」に変わった大きな原因である。始めは、このニューイングランド地方とヨーロッパへ、とくにイギリスに輸出する港のハブであるニューヨークを鉄道とフェリーで結んで行った。1939年、45歳となったバンダービルトは、ニューヨークの南のニュージャージー州の現在プリンストン大学のあるあたりまでを結んだ。この1839年だが、フランスで写真技術が生まれた年である。日本には、1860年、上海で写真館をやっていた日本人から伝わった。アメリカでは、蒸気機関車も貨物列車も大きくなって行った。バンダービルトが海運の王様から鉄道の王様になった期間なのだ。もうひとつ大きな変化があった、、


アラモの砦

alamo 1836 march

アラモの戦いは、1836年2月23日 - 3月6日の13日間にメキシコ共和国軍とテキサス分離独立派の間で行われた戦闘である。テキサス側の拠点だったアラモ伝道所はテキサス州サンアントニオ中心街の一角に遺跡がある。伊勢夫婦はテキサスは隣の州なので、何度も行った。サンアントニオは運河のある小さな街だが、スペイン風の町とサンブレロを被ってポンチョを肩にかけたメキシコ人がギターとトランペットで唄う情熱的なマリアッチが良く似合っている。名物は「テキサス・バーベキュー・ビーフ」だ。

texas long horn parade

テキサス風バーベキューだが、「テキサス・ロングホーン」という大きな牛を丸ごと焼いて、肉がほぐれるほど煙で蒸す。それにハラピニョの入った辛いウースター・ソースをかけて食べる。ドリンクは、ビールとバーボン・ウイスキーである。うちの青い目のかみさんは南コロラドの牧場の娘である。「ロングホーンは安いが、ステーキでは固くて肉も美味くない」と言っている。和牛も、ロッキー山脈のコロラドで育つ。宮崎県のお爺さんが合弁で経営している。TPPの先駆者となるだろうう。これがフロンティア精神なのさ。

さて、話し戻って、、もともと、アラモはスペインの布教所として1718年にサン・アントニオ・デ・ベハルと呼ばれた。後のテキサス州サンアントニオだ。(トヨタが大型SUVの組み立て工場を建てたので、テキサスは、たいへんな親日州だよ) 

19世紀初頭にスペイン軍の騎兵隊が駐屯し、その要塞を「アラモ」と呼んだ。メキシコからの独立を画策していたアングロサクソン系テキサス(テキシアン)は、サンアントニオ市を占領した。

メキシコ側

コス将軍の敗北でメキシコ軍はテハス{テキサスの旧名)での拠点がなくなっていた。これに対しメキシコは翌年、大統領兼将軍であるサンタ・アナが反乱軍の鎮圧を決定した。メキシコの戦争相ホセ・マリア・トルネルとビチェンテ・フィリソラ将軍は1814年以来のテハス遠征で実績のある船での進軍を提案した。しかしサンタ・アナはその案では時間がかかり、その間に敵が米国からの援助を受けるとしてこれを拒否した。

サンタ・アナは1836年始めにサン・ルイス・ポトシで、概算で6、100人の兵士と20門の大砲を集め、テハスに向けコアウイラのサルティジョまで進んだ。軍勢は悪天候の中リオ・グランデを渡り、吹雪の山の小道を進んだ。*記録によると、この雪中行軍でメキシコの南のユカタン半島出身の歩兵インディオたちが凍え死んだと。絵を見たが、ぼろ衣一枚を着ている。

サン・アントニオ・デ・ベハルは彼にとって中間的な目標の一つだった。彼の最終目標はテキサス政府を捕え、反乱州に対し中央の支配、或はメキシコの「中道」政権の立直しを図ることだった。彼はこれ以前1835年にサカテカス州の反乱を抑えていた。

spanish escopeta alamo 1836

サンタ・アナとその軍勢は2月23日にサン・アントニオ・デ・ベハルに到着した。歩兵大隊を温存するため、それは歩兵と騎兵の混成部隊だった。彼らはイギリス製のベーカー、時代遅れで射程は短いが威力のあるタワー・マスケット、Mark III、ブラウン・ベスマスケットなどを装備していた。メキシコ人の軍人の背丈の平均は 155cm で、その多くが戦闘経験のない新米の徴集兵だった。メキシコの軍隊は個々の射撃の技量に劣った。しかし彼らはよく標的を打ち抜いた。

ビチェンテ・フィリソラ(イタリア)、アントニオ・ガオナ(キューバ)など、一部のメキシコ軍指揮官は熟練した傭兵だった。またサンタ・アナもメキシコ独立戦争で経験があった。*サンタ・アナは、「クリオール」というスペイン系の白人なのだ。ハリウッド映画はメチャクチャである。映画のメキシコ人はみんな山賊のような日焼け顔の混血だからね(笑い)。その「クリオール」のサンタ・アナは自ら2、000の軍勢を率いて進軍、サンアントニオ市を包囲した。

アラモの守備隊

当時、アラモを守備することになっていたのはジェームズ・ボウイ大佐である。また、騎兵隊中佐に就任したばかりの若きウィリアム・トラヴィスも1836年1月に州政府から30人の志願兵と共に派遣され、2月3日にサン・アントニオに到着した。トラヴィスは、家族の病気のために部隊を離れて、12日後に戻る約束をしていたジェームズ・C・ネイル大佐を飛び越えて正式な指揮官に任じられ、テキシアン軍を指揮した。

ナイフの使い手で知られるジェームズ・ボウイの名声などにより、正規の軍人でない志願兵も砦を守るために集まってきた。ボウイとトラヴィスは作戦と指揮を巡って度々口論したが、ボウイが2月27日結核のため病床に就くと、指揮権をトラヴィスに委任した。アラモには約200名程度の軍勢しかいなかったた。そのめ、トラヴィスは成立したてのテキサス暫定政府に再三援軍を求めた。だが、テキサス軍将軍サミュエル・ヒューストンは兵の召集を待っていたために援軍の派遣は志願して行った30名程度だけだった。

米国政府は、当時、「アラモ砦の戦い」をアメリカ移民のメキシコへの反抗とみていた。だが、実際に多くのメキシコ系テキサス人(テハノス)も反乱側を支持していた。この闘争を1776年のアメリカ独立戦争と同じ概念で見るものも多かった。テハノスたちは、メキシコに1824年のメキシコ憲法で表現された「州権」を支持する緩やかな中央政府を望んでいた。最後の突撃の前に伝令として送り出されたフアン・ネポムセノ・セギン大尉(後に大佐)もテハノスの1人だった。

テキサス遠方の各地からも多くの守備兵が集まった。28の国と州から男たちが集まり、最も若いものは16歳のガルバ・フィキュアで、最も老いたものは57歳のゴードン・C・ジェニングスだった。民衆の間で絶大な人気を誇っていたテネシー州出身の元下院議員デイヴィッド・クロケットも防衛に参加した。12人の「テネシーの志願兵」は、2月8日にアラモに到着した。

ニューオリンズからは「ニューオリンズ・グレイズ」という集団が歩兵として戦うためにやって来た。グレイズを含む2つの中隊が12月に、ベハルの籠城戦に参加した。メキシコと戦う約束を残し、グレイズの大部分はマタモロスへ都市を略奪する遠征のためにサン・アントニオ・デ・ベハルを去った。しかし約24人がアラモに残った。

トラヴィス中佐は戦いの前に伝令を急派したように、3月3日にも戦況をテキサス暫定政府に報告し援助を要請することができた。しかし、サム・ヒューストンのテキサス陸軍はメキシコの陸軍と戦いながら持ち場を離れられる程の戦力も持ち合わせていなかった。またテキサス暫定政府はメンバー内の争いにより混乱していた。トラヴィスは助けを求めてジェームス・ボーナムを含む数人の伝令をジェームス・ファニン大佐にも送った。アラモから南東に100マイル 離れたゴリアドで450人以上のテキサス軍を指揮していたファニンは、2月28日に320人の兵と大砲をアラモに送る行軍を組織的とは言えないやり方で試みたが、不十分な輸送方法により救援を中止した。ファニンと配下の大部分は降伏後にメキシコ軍によって虐殺されたのである。

3月1日の午前1時頃に32人のテキシアンが、ゴンザレスの町からジョージ・キンベル大尉とジョン・W・スミスと共に到着し、メキシコ人の戦線をかいくぐってアラモの守備隊に合流した。彼らはトラヴィスの援軍要請に対する唯一の反応だった。32人の1人アイザック・ミルサプスによって書かれたとされる手紙が、アラモの籠城戦の前夜の様子を克明に記している。*手紙については、ほぼ偽物に違いないとする議論が歴史家の間に存在する。

最後の襲撃

攻撃に参加したメキシコ兵は、5千人いたと報告されているが、包囲と最後の襲撃に参加したのは、1、600人だけだった。サン・ルイス・ポトシでの当初の兵力は、6,500人だったが病気や脱走で兵が減少した。メキシコ軍の攻城戦は科学的、職業的でナポレオン流に指揮されていた。

アラモが包囲された。トラヴィス中佐の最後の発信はテキシアン精神の激しいものだった。彼は「敵は私の降伏を要求した。私はただ一発の大砲で彼らの要求に答えた。私は決して降伏しない」と書いた、、

包囲開始から13日目の3月6日の早朝、メキシコ軍の一斉攻撃が開始された。メキシコ軍は隊を4つの部隊と捕獲、追跡、保安部隊に分けアラモを、早暁の05:00から攻撃した。*暁の攻撃は先頭の常識なのだ。睡眠から起きたばかりの人間はもっとも戦闘に向いていないコンディションだからね。マルティン・ペルフェクト・デ・コスの率いた300人 - 400人の最初の部隊はアラモの北西の角に向かって進んだ。

フランシスコ・デュゲ大佐の指揮する380人が2番隊がアラモの壁に達する前に攻撃部隊は200 ~300ヤード の広々とした地面をカバーする必要があった。テキサス人の逃亡や援軍の侵入などの試みを防ぐために、サンタ・アナは、ラミレス・イ・セスマ准将の配下に350騎の騎兵を周囲の田園を警戒させるよう配置した。

寝込みをつかれたテキサス勢は応戦するも劣勢であった。一つの攻撃部隊を押返したが、午前5時には、指揮官トラヴィスが頭に銃撃を受け想像では北の壁近くで大砲の隣で戦死したと。ボウイは簡易ベッドに寝ていたところを抵抗むなしく殺されたと信じられている。クロケットは配下の数人と共に捕らえられたが、サンタ・アナの命で処刑されたと。サンタ・アナは攻撃を継続し、コスの部隊が北の壁を突破した。接戦の末、女子供とトラヴィスの黒人奴隷を除いて守備隊の男のほとんどすべてを殺した。午前6:30に最後の銃撃戦が終了しアラモは陥落した。

メキシコ軍は戦闘後、ボウイの奴隷のサム、トラヴィスの奴隷のジョーと24人の女とこどもを解放した。これまで歴史に記されていないが、ジョーは「ジョンという名の奴隷と別の女奴隷が戦闘で殺されるのを見た」と語った。別の報告された生存者はブリギド・ゲレロでテキシアンの独立運動に加わったメキシコ軍の脱走兵だった。彼は自らの意に反して囚人にされたとメキシコ人の軍人に納得させることができた。

損害

メキシコ側、、

死傷者の数の報告はおよそ250人からメキシコの公式の集計において1,400人まで、後のテキサスの集計で1,500人までと、そうとう異なる。ほとんどの歴史家が、正確な数が未知であり、およそ300人~400人のメキシコ人が死亡し、300人が負傷したと信じている。

テキシアン側、、

戦いの後に、183人~ 250人のテキシアン及びテハノスの遺体がみつかった。しかしサンタ・アナのメキシコシティでの報告では、個人秘書のラモン・マルティネス・カロに命じて、反乱者600人の遺体がみつかったと発表した。歴史家はこれを偽りの主張であったと信じている。

テキサス国の独立

テキサスの独立は3月2日に宣言されていた。暫定政府はデイビッド・G・バーネットを暫定大統領、ロレンソ・デ・サバラを副大統領に選んだ。アラモにいた者はこれを知ることはなかった。ヒューストンは上級司令官の地位を維持していた。アラモを陥落させたメキシコ軍は軍勢を数個に分けて、東下するヒューストン将軍を追った。テキサス軍はアラモの戦いの時点で兵力が2、000人以下だった。ゴリアド、レフュジオ、マタモロス、サン・アントニオ・デ・ベハルと負け続け、兵力は約1、000人まで減った。

4月21日のサンジャシントの戦いで1,250人強の軍勢を率いたサンタ・アナの本隊を、910人の今日有名な「アラモを忘れるな! ゴリアドを忘れるな!」のときの声をあげたヒューストン将軍の軍勢が破った。メキシコ軍はその日の敗戦で約650人が死亡し、730人が捕虜になった。テキシアンの死亡はたったの8人、負傷が18人だった。ヒューストンの完勝である。サンタ・アナは逃亡を図った。自らの服を捨て一般の兵士の服を着た姿で捕虜になった。サンタ・アナはメキシコに撤退することになっていたヴィチェント・フィリソラやホセ・デ・ウレアの指揮下の軍勢に命令を下そうとした。サンタ・アナは自らの命と引き換えにテキサスの独立を承認したのである。こうして「テキサス共和国」が成立した。

伊勢は、「鷹と大鷲」という小説をテキサスのホテルで読んだので、ほぼ、以上のエンサイクロぺデイアの記述を信じている。かくして、サム・ヒューストンは歴史上の人物となり、サンタ・アナは「卑怯な将軍」と烙印を押されたのである。伊勢平次郎


みなさん

隼速報は2007年の4月に始動して~今年の4月で足掛け8年になります。ここで、一旦、政治トピックスを短縮して~「モロン論争・炎上」と「世界を変えたアメリカの実業家シリーズ」の組み合わせにリストラします。強制のない「有料サイト」になります。購読料とは、一ヶ月、ワンコイン(五百円)とします。下記の2口座のどちらかに、一月五百円、または、10年分一括して振り込んでください(笑い)。

1)「モロン血風録・炎上」英語の論戦。週一回にするね。時間がかかる上に、毎日、論戦する記事が出るわけじゃないのでね。英語の新造語や、スラングや、慣習を学んでくださいね。

2)「アメリカの実業家伝」は、南北戦争(1861~1864)直後に起きた近代工業化に命を賭けた実業家四名の生き様を描きます。その四名とは、、「鉄道王」コーネリウス・バンダビルト~「石油王」ジョン・D.ロックフェラー~「鉄鋼王」アンドリュウ・カーネギー~「投資銀行王」J.P.モーガンの四名です。ご期待を乞う。伊勢平次郎 ルイジアナ


海外広報に、ご献金を頂きたい

A) 振込口座

1)金融機関   みずほ銀行・上大岡支店・支店番号 364
2)口座番号   (普通)    2917217
3)口座名    隼機関   ハヤブサキカン

B) 郵便局口座

1)口座番号  10940-26934811
2)口座名    隼機関   ハヤブサキカン

MEPHIST先生が10、000円を下さった。WA・EIさまが、ニ月も1000円下さった。有難うね。再び、MZ・TKさまが、ニ月も、20、000円ものご献金を下さった。このお方は、七年以上の年月、伊勢を支援して下さっている。また、IS・NA(ご婦人)が、一月に、5000円ものご献金を下さった。IS・NAさまは、二月にも5000円を下さった。どう、ご恩を返せるのか?「今やっていることを続けよ!」というご意思なのだと理解している。感謝しています。伊勢


米国の株銘柄の選び方

生徒さんが二人になったわ。嬉しいわい。伊勢爺は「生きている限り、日本の力になってやろう」と決心している。一年間の授業料は、たったの2万4000円です。毎日、一通か二通のメールで速報とアドバイスを提供している。日本人の問題は英語の速読なんですね。だからと、英語を中年から始めても、時間がやたらと過ぎていく。そこへ、伊勢爺さんをカマセば済むことなんです。おひとりの在米駐在員さんが「自分の知らなかったことが理解できて、たいへん勉強になっています」とメールをくれたよ。こぞって、応募して下さいね。NIPPONFALCONS@GMAIL.COM  伊勢





comment









ブログ管理人にのみ表示を許可する

プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

FC2カウンター

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

ブログ内検索



RSSフィード



リンク

このブログをリンクに追加する