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日本の起業家・井深大(ソニー) |
東京通信工業を品川の御殿山に移したときの写真。右端が盛田昭夫(26)。その隣が井深大(39)。「図らずもあの戦争体験がわれわれを奮起させた」と井深さん。
栃木県上都賀郡日光町(現在の日光市)に生まれる。祖先は会津藩の家老であり、親戚には飯盛山で自刃した白虎隊の井深茂太郎や明治学院総理を歴任した井深彦三郎、ハンセン病に一生を捧げカトリック看護師協会の会長を歴任した井深八重がいる。。2歳の時、青銅技師で水力発電所建設技師あった父、甫の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父の基に引き取られる。
母と共に5歳から8歳まで東京に転居、その後は再び愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現在の安城市立安城中部小学校)卒業。 のちに再婚した母に従い、母の嫁ぎ先の神戸市葺合区(現在の中央区)に転居。兵庫県立第一神戸中学校、第一早稲田高等学院、早稲田大学理工学部卒業。学生時代から奇抜な発明で有名であった。卒論は「変調器としてのケルセル 附光線電話」。
東京芝浦電気(現在の東芝)の入社試験を受けるも不採用。大学卒業後、写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory、通称 PCL)に入社、取締役であった増谷麟の屋敷に下宿する。学生時代に発明し、PCL時代に出品した「走るネオン」という製品がパリ万国博覧会で金賞を獲得。後に日本光音工業に移籍。その後、日本光音工業の出資を受けて、日本測定器株式会社を立ち上げて、常務に就任した。 日本測定器は軍需電子機器の開発を行っていた会社であり、その縁で、戦時中の熱線誘導兵器開発中に盛田昭夫と知り合う。
敗戦翌日に疎開先の長野県須坂町から上京し、2か月後の1945年(昭和20年)10月、東京 ・日本橋の旧白木屋店内に個人企業「東京通信研究所」を立ち上げる。後に朝日新聞のコラム「青鉛筆」に掲載された東京通信研究所の記事が盛田の目に留まり、会社設立に合流する。翌年5月に株式会社化し、資本金19万円で、義父の前田多門(終戦直後の東久邇内閣で文部大臣)が社長、井深が専務(技術担当)、盛田昭夫が常務(営業担当)、増谷麟が監査、社員20数人の東京通信工業(後のソニー)を創業。
• 1950年(昭和25年):東京通信工業社長に就任
• 1951年(昭和26年):テープレコーダーを発売
• 1955年(昭和30年):トランジスタラジオを発売
• 1958年(昭和33年):それまで商標名として使っていたSONYを正式な商号に採用してソニーと改称し、ブランド名と社名を統一した
• 1961年(昭和36年):トランジスタテレビを発売
トランジスタラジオのプロトタイプは、テキサス・インスツルメンツがトランジスタのデモ用として作成した。東京通信工業(東通工、現:ソニー)の井深大は、1952年アメリカ合衆国での技術研修に出かけた際、ベル研究所の3人のスタッフがトランジスタを開発・特許をとっており、親会社のウエスタン・エレクトリック社(WE社)が2万5000ドル(当時約900万円)で公開していることを知る。
日本の通産省は「ちょっとやそっとのことで、トランジスタなんかできないよ」と否定的で、当初は東通工への外貨割り当てを拒否するほどだったが、1953年盛田昭夫がアメリカに渡りWE社を訪問すると、東通工の技術力が高く評価され「ライセンス料の支払いは後でもいい」ということになったため、同社とライセンス契約を結んだ。その際、WE社は盛田に対して何に使うのかを問うと「ラジオに使いたい」と応じたが、この時WE社はやめるようにと勧告を行った。
初期のトランジスタは温度特性が悪く、またラジオの放送周波数帯で増幅器に用いるには特性が不安定であったため、真空管を代替することはできないと見られていた。商業用の製品としては補聴器が実用化されていた程度であった。しかし、同行した東通工技術スタッフの岩間和夫はトランジスタの技術開発を取材、「岩間レポートメモ」としてまとめ、それを基にトランジスタラジオの試作品を製作した。だが、この試作品について井深は「とても商品として使えるものではない」と回顧している。
その間、1954年にアメリカのライバル社・リージェンシー(IDEA)がテキサス・インスツルメンツ製4石トランジスタを使った世界初のトランジスタラジオ TR-1(en)を発表、クリスマス商戦にむけ発売($334)。世界初を目指した東通工は落胆したが、その後1955年に複合型トランジスタ5石を使ったTR-52を市販しようと試作した。しかしこの「国際連合ビル」を連想させるTR-52のキャビネット格子(プラスチック製)が夏季の気温上昇により、出荷寸前になって反り返るトラブルが発生したため発売中止となってしまった。その後8月に改めてTR-55を開発し、その年の8月に市販開始。これが日本初のトランジスタ携帯ラジオとなったのである。
トリニトロンテレビと盛田昭夫さん。冷静な表情に「強い負けん気」を感じる。
井深大(65)と盛田昭夫(52)のときの写真。成功者となってからのお二人には、敗戦した日本人の表情はないね。これが現代の日本人への遺言なのです。つまり平和な時代でも「競争」という戦争は続いているわけだから、、伊勢
◆鈍る物価上昇 追加緩和で割れるリフレ派
金融緩和で物価を上げるリフレーション。安倍晋三政権の基軸となってきたリフレ派の人たちに、温度差が出てきた。2月の消費者物価は増税分を除くと横ばいにとどまった。景気に追い風の原油安で物価上昇が鈍り、追加緩和の必要性について評価が割れる。消費増税が絡む財政運営でもズレが目立つ。異次元緩和から4日で2年。マクロ政策運営は胸突き八丁にさしかかっている。(日経新聞 4.1.2015)
伊勢爺の呟きだが
べつに安倍経済政策を批判するつもりはない。しかし、根性がなってないゾ~!
みなさん
一ヶ月500円のご献金をお願いして一ヶ月半が経ちました。成果がないので断念します。今朝もBB紙で在米中国人とクチ喧嘩した。アメリカ人、カナダ人、ロシア人までが伊勢の味方なのです(笑い)。伊勢
わが戦友とのやりとり
大兄
おはようございます。盛田さんは気さくなひとだった。尾張~三河~伊勢に多いおおらかな性格のね。あなたから見て、あの終戦直後の起業家と現在(平成)の日本の起業家の違いって何んですかね。息子らも普通だし。やはり戦争体験ってのがもの凄い「ばね」になっていると思う。ぼくも、1968(NY)、1979(NY)、1984(サンフランシスコ)で会っているしそのときは運転手兼通訳で野球場や香港酒家へ行った。井深さんのお顔だけだったけど見た。良子夫人、大賀さん夫人とゴルフ場へ行った。盛田さんに、ぼくのミルトン・フリードマンのインタビュー記事を見せると、「ソニーへ来ないか?」と言われたけど、ぼくと仲の悪 い四兄が品川本社の特許部長だったので断ったわ(笑い)。おざき生
尾崎大兄
盛田さんが倒れたというニュースが出た日をよく覚えています。次期経団連会長に内定し、日本の経済界も大きく変わる期待が高まっていました。私も財界担当記者として何度か盛田さんと話していたので、大ショックでした。
ただ、それ以降は、「過去の人」扱いになってしまい、ほとんどメディアでも扱われなくなりました。もし、というのは歴史にはありませんが、日本が変われる機会を逃したのはかえすがえすも残念です。T拝
大兄
ダウは赤いままの一日だった。今日は肉うどん10杯の小さい赤字だけど、持っている、どの銘柄も堅実。夜だけど、水泳に行った。盛田さんは、72で脳卒中~6年後に亡くなった。テニス場で脳梗塞で倒れて急救車を呼んだときから肺炎で息を引き取るまで幸せではなかったと想像がつく。日本では大菊花勲章だのと書くがその6年間のことは書かない。最後の8%が大事なのですよ。今、それをクリステインに説教していた(笑い)。ぼくは突然死しないよ。だって、心臓と肺水腫で10年も苦しんだおかげでさ、脳梗塞なんかにならないよ(笑い)。死んだら全てフェードアウト。つまり死んだらお終いなのですからね。おざき生
尾崎大兄
おっしゃるとおり、昔とくらべものにならないくらいビジネスチャンスは大きくなっていますね。お金の量も(笑い) T拝
大兄
今、豊田喜一郎~本田宗一郎~井深大が夫々、30台後半で頭角を現した記事を読んでた。終戦後の1946~1947には、トヨペット・クラウンが生まれている。豊田に出資したのは三井と東海銀行で今もね。野球も盛んになった。中国大陸では、まだ国民軍と共産軍が撃ち合っていた。1947年には、ソニーの22人はまだ国民服だったが、御殿山に作業所を開いた。盛田さんは、26歳だった。辺りは焼け野原が片付いていたがごみの山だった。1955年には日本でトランジスタを始めて造った。早速、ラジオを量産した、、そこから驀進して行った。われわれはもっと恵まれているよね。「製品が世界に無いなら使えないほどのカネが出来ると」いう好例ですね。おざき生
以上順不同、、