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十六人のロビンソンクルーソー |

十六人のロビンソンクルーソー
終戦後、十二年が経っていた。宮城県気仙沼港から大王丸が処女航海に出た。百八十トンの大王丸は遠洋はえ縄マグロ漁船である。乗組員は伊勢者十六人であった。乗組員の練習を兼ねて三陸沖から北海道の函館沖でクロマグロを追った。大王丸が焼津で初荷を降ろした。十月、近海マグロの漁期が終わった。十一月の初旬、大王丸は、南太平洋に足を延ばすことにした。ニューカレドニアヘ行って、ビンナガを取った。年末に気仙沼港に帰った。水揚げも良く、乗組員に事故もなく、病気も出なかった。乗り組員にボーナスを払った。十六歳のリクが生まれて初めてボーナスを貰った。
「親方、水産庁が、メバチ、ビンナガならハワイ沖、ニュージーランドから南極海ヘ行けば、ミナミマグロの季節や言うとるわ」と船長の甲子男が漁労長に言った。
「南極海か?ちょっと遠いなあ。保険も上がったしな」
「そんなら、ビンナガ追ってハワイヘ行こう。わしら、南極海は行った事がないし、海難事故にでも遭ったら、二度と日本の土を踏めへんで」と航海長のゲンタロウが言った。ゲンタロウは甲子男の叔父さんである。
昭和三十四年の正月、大王丸が気仙沼を出港した。ウエーキ島の沖で、二千本の針の着いた枝縄を海水に降ろした。六時間後、はえ縄を引き揚げると、メバチが掛かっていたが、頭だけ残して胴体がなかった。
「シャチや!」
「親方、これやとハワイもあかんやろ。マーシャル群島ヘ行こか?」
「甲子男、おまえが言うとったニュージーランドの南ヘ行かへんか?タスマニアが安全やが、アホウドリが釣ったマグロを食い荒らすそうやで」と親方が言った。
気仙沼を出てから十四日が経った。大王丸は、五千四百七十六キロ南へ来ていた。北緯〇度、東経 一六〇度である。ニュージーランドの南へ五百キロ行くとマッコウ鯨が潮を吹くのがあちこちに見えた。はえ縄を流した。ついに、ミナミマグロの顔を拝むことができた。マグロで、船倉をいっぱいにして大王丸が焼津ヘ帰った。水揚げが終わると再び北極海に戻った。だが、親方が、マグロの数が減っていると甲子男に言った。
「水温が上がっとんのや」
「親方、もっと南へ行ったら獲れるんか?」
「南氷洋へ行けばおるやろな」
ふたりは、そのときは、まさか、あんなことになるとは思わなかったのである。
六月に入った。大王丸がニュージーランドから千キロ南に来ていた。水温が十度でマグロが好む温度である。やはり、連日の大漁であった。ところが、四日目、二千本の針に一匹も掛からなかった。
「マグロは何処へ行ったんやろか?」
「水温が十五度に上がっとる。南へ行ったんや」
大王丸は西経一八〇度線を南に下っていた。南緯は五〇度であった。これは、南極海の真っただ中ということである。そこからさらに南は氷が漂う南氷洋である。
「船長、これ以上、南は怖いで。氷山が浮かんでおるやろ」とゲンタロウ叔父さんが、甥の甲子男を船長と呼んだ。――おまえは、十六人の命を預かる船長やでと言いたいのだろう。
はえ縄を五時間掛かって海水に流した。二時間後、引き揚げると五十本ほどのミナミマグロが掛かっていた。次の日も同じであった。二日目の夜、低気圧の中にいた。大王丸が高波の中に突っ込んで行った。船尾が宙に浮くとプロペラがカナキリ声を出した。そのとき、短波ラジオが警報音を出した。捕鯨船団だ。
「大王丸、それより南は氷山の棚が横たわっている。北へ進路を取られよ」
「こちら大王丸。警告了解。視界、極悪。北へ戻る」
「航海の安全を祈る」
「甲子男、この暗い海では何が起きるか判らん。わしは、氷山が怖い。方向を北へ取ってからいくらも進んでおらん。さっきの大波で短波ラジオのアンテナが壊れてしもた」
「叔父さん、何が原因なのか速度が出んのや」
「わしら西へ流されとるで。雪まで降って来た」と髪に白いものが混じった親方が悲痛な声を出した。日本に残してきた家族を想っているのだ。
六月の八日、霞が関の海上本庁が捕鯨母船から報告を受けた。ラジオで呼びかけたが大王丸が応答しないと言っていた。海保が色めき立った。
六月十八日の朝、雲間に青空が見えた。海面に流氷が漂っていた。あるものは大形トラックぐらいのサイズであった。どういうわけなのか靴の形をしていた。ゲンタロウが煙突の上に上って行った。見ると煙突そのものが半分に折れていて、一部が中に落ちていた。これが大王丸の速度が出ない原因であった。アンテナのディッシュは根こそぎ消えていた。甲子男が機関を停めた。こうして、大王丸は海上に漂っていた。煙突は修理できたが、短波のディッシュがどうにもならかった。甲子男は機関を始動させて北ヘ進路を取った。ゲンタロウが船首の探照灯を点けた。甲子男が航速を十五ノットに上げた。ジーゼルが力強い音を立てた。だが、午後五時を過ぎたころ、再び北風が吹き出して波が高くなった。ピッチングとローリングに翻弄された。その上、みぞれ交じりの小雪が降り出した。
「甲子男、小さくても氷山は怖いで」とゲンタロウが言うと、甲子男が航速を五ノットに落とした。これでは、波間に停止しことになる。それでも暗闇で氷山に衝突するよりは良いと考えた。
「みんな寝ろ。起きとるのは、叔父さんと俺だけや。叔父さんも寝たらどうやな?船は停止したも同じやから俺だけ起きとりゃええ」
この判断は間違っていた。昼間の疲れが出た甲子男がウトウトと眠ってしまったのである。
「甲子男、起きろ!右舷を見ろ!」
甲子男が目を覚ますといつの間にかゲンタロウが横に来ていた。探照灯の中に氷山がぼんやりと映っていた。戦艦大和ぐらいのサイズなのだ。甲子男が舵輪を左へ回した。大王丸が見えなかった氷山に当たった。大王丸が横転した。ぐっすりと寝ていた乗組員たちがベッドから放り出された。三人の少年がパニックした。親方がリクの頬を平手で叩いた。
「救命具を着けろ!」と航海長が伝声管に向かって怒鳴った。だが、大王丸は海面に横にはなったが、沈まなかった。左舷側に、甲子男、ゲンタロウ、玉夫と乗組員たちが立っていた。辺りが明るくなり初めていた。気温がグングンと下がって行った。
「みんな、船室を整頓しろ!」
「甲子ちゃん、ジーゼルは、何人かかっても起こせへんで。そやけど、救命ボートの発動機で発電できるかも知らん」
これはうまく行った。電灯が点いた。。料理用のプロパンガスも使えた。湯を沸かして船室を温めることができた。食料は心配なかった。餅、うどん、肉類、牛乳、乾燥野菜が氷点下で凍っていた。
「叔父さん、運命を天に任せるしかないなあ。このままやと、南極へ流れ着くで」
「甲子男、失望したらいかん」
漁船員は楽天家が多い。誰も悲観しなかった。鉱石ラジオを持っている者がほとんどだった。演歌を聞いたり、落語、漫才、浪曲、、広沢虎造の森の石松を聞いた。
「甲子男、海保がイギリスの砕氷船に俺たちを捜してくれと頼んだらしい」
八月三十日になった。遠くに飛行機の爆音が聞こえたが、機影は見えず、北へ飛び去った。六月十九日に、大王丸が氷山に衝突してから七十日が経っていた。ゲンタロウが六分儀とクロノメーターを睨んでいた。みぞれもなく、波浪も静かだった。
「甲子男、西経は三五度、南緯は四〇度に近いでえ。すると、五千キロは西へ来とるね」
ゲンタロウが地図を広げて赤鉛筆で、ある地点に丸を描いた。
「ええ~?ケイプタウンの南におるんやな?そのサソリのような形の岬はなんや?」
「ラーセン氷棚ちゅうんや。陸地の岸にできた氷の縁側なんや」
「ほなら、わいらは南極ヘ来とるんか?」
「親方、その通りや。今日、南極が見えるやろ」
「叔父さん、南極が見えた」と甲子男がゲンタロウに双眼鏡を渡した。双眼鏡に高く険しい山脈が映った。夕刻にラーセンに着いた。氷原にテントを張った。船内ヘ戻って、米、味噌、醤油、塩、砂糖、、持てるだけの食料を担ぎ出した。リキが東の空を見てドキッとした。巨大な闇がこちらに向かって走ってくる。月の影なのだ。その影は瞬く間に空の半分を覆った。西を見ると太陽がみるみる弱くなった。オレンジ色のコロナの輪が見える。まるで悪夢を見ているようなのだ。
翌朝、リクが小便にテントを出ると、ペンギンが並んで見ていた。ゲンタロウが指揮して救命ボート二隻を持ってきた。気温はマイナス二度だった。
「叔父さん、救命ボートをどうするんや?」
「運搬用のソリを作るんや。食い物やが、持てるだけ持って行こう」
ラーセンの岸に着くのに三日かかった。雪原にテントを張った。
「機関長、これいかんな」と甲子男が自作のアンテナを試して言った。
「甲子ちゃん、増幅器がないとあかんのや」
飯を作る以外、やることがなくなった大王丸の一家が南極探検を楽しんだ。セイウチや白熊を見て喜んだ。だが、ついに十月になった。南極に春が訪れたのである。リクたち三人の少年が湖を見つけた。リクが戻って来た。
「航海長、湖の底に森があるでえ」
みんなが驚いて見に行った。湖底に針葉樹の森が鬱蒼と茂っていた。生き物はいなかったが、毬藻のような藻が生えていた。
昭和三十五年の正月が来た。青年たちが残りの餅で雑煮を作った。スキ焼、白菜の漬物、、鯵の干物、、日本酒を鍋で沸かして祝った。食料が尽きる一歩手前であったが、アザラシを食えばいいと思うようになっていた。
甲子男が毛布に包まって寝転がると通信科学入門を読んでいた。甲子男がガバッと起きて機関長の肩を叩いた。
「玉夫さん、これ読んでみい。モールス信号の簡単なのができると書いてある」
ふたりの興奮した声を聞いてみんなが集まって来た。二時間で無線機が完成した。電線でアンテナを張った。全員が注目していた。海軍で通信を習ったゲンタロウが電鍵をカタカタと打った。返事はなかった。二時間、なんども繰り返したが返事はなかった。
「届かんのやろ」と親方が悲しい声を出した。そのとき、電鍵がカタカタと鳴った。ゲンタロウがガバッと起きて無線機の前に座った。五分ほどで電鍵が停まった。
「おい、甲子男、南アフリカのケープタウンからやで」
甲子男が目を丸くした。
「何を言うてきたん?」
「位置を知らせよと言うて来た」
「万歳!」
クルーが踊り上がった。ゲンタロウが位置を知らせた。五分後、また電鍵が鳴った。
――シャベルはあるか?雪を慣らして、八〇〇メートルの滑走路を造れ!明日の正午、北の空を見よ。貨物機が見えるか、または、爆音が聞こえるはずだ。病人はいないのか?
――全員、十六名は元気である。貴国の親切を忘れることはない。
「おい、リク、コーヒーを沸かせ!パンを焼け!残りの一五名は滑走路を造れ!」と甲子男が船長に戻っていた。
去年の正月、気仙沼の港を出てから一年近くが経っていた。快晴である。午前十一時、親方がベンチを壊して作った薪に火を着けた。十六人が北の空を見ていた。爆音が聞こえた。双発の軍用機だ。十六人が千切れるばかりに手を振った。軍用機が頭の上を一周すると楽々と着陸した。胴体のドアを開けてパイロットが二人降りた。十六人が駆けだして行った。
「ハロー、ロビンソンクルーソー』
大王丸の一六人を乗せたアブロアンソンが雪原を離陸した。水平飛行に入ると、副操縦士が紅茶のポットとビスケットを持ってきた。ケープタウンまで六千九百キロで、十六時間だと言った。紅茶を一口飲んだ十六人の頬を涙が流れて膝の上に落ちた。
完
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