2011/11/23 (Wed) カリズマについて、織田信長(その1)


系譜を見ると、織田信長の持っていたカリズマは、日本一であることが判る。“カリズマとは何なのか?”考えてみたい。なぜなら、現代の日本の指導者には、カリズマが皆無に見えるからである。政界だけのことではない。経済界~宗教界~教育界、、それらの斯界にもカリズマの高い指導者は見当たらない。世界を見渡しても、見当たらない。全てを議論と採決で決める議会制民主主義の下では、指導者にカリズマは必要ないのだろうか?民主主義と自由経済の理念は、個人や企業の選択肢を拡大した。数々の技術革命と市場のグローバリゼーションを生んだ。そうして、高度な経済を造った。だが、現在、アメリカと欧州の二大経済圏の金融システムに崩壊の兆しが見える。第一次世界大戦以来、過去100年間、アメリカが指導してきた文明が終わったのかも知れない。人類の秩序は混沌としてきた。伊勢平次郎 ルイジアナ






信長の生きざま

織田信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の1人。尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。室町幕府を滅ぼし、1)織田政権を確立~2)豊臣秀吉による豊臣政権~3)徳川家康が開いた江戸幕府へと続く戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物~強力な中央政権の基礎を築いた人物である。

少年期

天文3年(1534年)5月12日、尾張国の戦国大名・織田信秀の次男として、那古野城で生誕。幼名は吉法師。なお、信長の生まれた「織田弾正忠家」は、尾張国の守護大名・斯波氏の被官で下四郡(海東郡・海西郡・愛知郡・知多郡)の守護代に補任された織田大和守家(清洲織田家)の家臣にして分家であり、清洲三奉行・古渡城主という家柄であった。

奇妙な行動

母・土田御前が信秀の正室であったため嫡男となり、2歳にして那古野城主となる。幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた。日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話などが知られる。また、身分にこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子(12歳ぐらい)であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せた。また、今川氏へ人質として護送される途中で松平氏家中の戸田康光の裏切りにより織田氏に護送されてきた松平竹千代(徳川家康)と幼少期を共に過ごし、後に両者は固い盟約関係を結ぶこととなる。

斉藤道三との出会い

天文15年(1546年)、古渡城にて元服し、上総介信長と称する。天文17年(1548年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、道三の娘・濃姫と政略結婚した。15歳であった。

天文18年(1549年)(異説では天文22年(1553年))に信長は正徳寺で道三と会見し、その際に道三はうつけ者と呼ばれていた信長(15歳)の器量を見抜いたとの逸話がある。また同年には、近江の国友村に火縄銃500丁を注文したという。

家督を継ぐ

天文20年(1551年)、父・信秀が没した為、家督を継ぐ(17歳)。天文22年(1553年)、信長の教育係であった平手政秀が自害。これは諌死であったとも、息子・五郎右衛門と信長の確執のためともされる。信長は嘆き悲しみ、師匠の沢彦和尚を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔った。

家督争いから尾張統一

当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰えていた。そのため、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかった。にも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大した。信秀の死後、信長が跡を継ぐと、信友は信長の弟・織田信行(信勝)の家督相続を支持して、信長と敵対した。信長謀殺計画を企てるが、信友により傀儡にされていた守護・斯波義統が、計画を信長に密告した。これに激怒した織田信友は斯波義統の嫡子・義銀が手勢を率いて川狩に出た隙に義統を殺害する。

斯波義銀が落ち延びてくると、信長は叔父の守山城主・織田信光と協力し、信友を主君を殺した謀反人として殺害する(信長20歳)。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となった。なお信光も死亡しているが、死因は不明である。

美濃国を譲られる

弘治2年(1556年)4月、義父・斎藤道三が子の斎藤義龍との戦いに敗れて戦死(長良川の戦い)。信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取り勢いに乗った義龍軍に苦戦した。道三敗死の知らせにより退却した。この時、斎藤利治より道三から託された美濃国譲り状が信長(22歳)に渡された。

こうした中、信長の当主としての器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)~林通具~柴田勝家らは、信長を廃して聡明で知られた弟・信勝(信行)を擁立しようとした。これに対して信長には、森可成~佐久間盛重~佐久間信盛らが味方し、両派は対立した。

弟信勝を殺す

“道三の死去を好機と見た”信勝派は、同年8月24日に挙兵して戦うも敗北(稲生の戦い)。その後、信長は、末盛城に籠もった信勝を包囲するが、生母・土田御前の仲介により、信勝・勝家らを赦免した。更に同年中に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城の簒奪を企てたが、これは事前に情報を掴んだ為に未遂に終わった。信広は程なくして降伏し、赦免されている。しかし、弘治3年(1557年)に信勝は再び謀反を企てる。この時、稲生の戦いの後より信長に通じていた柴田勝家の密告があった。事態を悟った信長は、病と称して。弟である信勝を清洲城に誘い出し殺害した(信長23歳)。直接手を下したのは河尻秀隆とされている。

尾張の国主となる

さらに信長は、同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵、織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破って(浮野の戦い)これを追放した。新たに守護として擁立した斯波義銀が斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。こうして、永禄2年(1559年)までには尾張国の支配権を確立し、信長(25歳)は尾張の国主となった。

足利義輝に謁見する

永禄2年(1559年)2月2日、信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見した。当時、義輝は尾張守護・斯波家(武衛家)の邸宅を改修して住しており、信長はそこへ出仕した。

今川義元の尾張侵攻

尾張国統一を果たした翌・永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻してきた。駿河・遠江の本国に加え三河を分国として支配する今川氏の軍勢は、2万人とも4万人とも号する大軍であった。織田軍はこれに対して防戦したが総兵力は5,000人。今川軍は、三河国の松平元康(後の徳川家康)率いる三河勢を先鋒として、織田軍の城砦を次々と陥落させていった。

桶狭間の戦い

信長(26歳)は静寂を保っていた。だが、永禄3年(1560年)5月19日午後一時、幸若舞「敦盛」を舞った後、昆布と勝ち栗を前に、立ったまま、湯漬け(出陣前に、米飯に熱めの湯をかけて食べるのが武士の慣わし)食べ、出陣し、先ず熱田神宮に参拝。その後、善照寺砦で、4,000人の軍勢を整えて出撃した。今川軍の陣中に強襲をかけ今川氏の前当主で隠居の義元をの首を討ち取った。現当主である氏真の実父を失った今川軍は、氏真の命で本国駿河国に退却した。これが織田信長の命運を決めた「桶狭間の戦い」である。

徳川家康と手を結ぶ

桶狭間の戦いの後、今川氏は三河の松平氏の離反等により、その勢力を急激に衰退させる。これを機に、28歳の信長は今川氏の支配から独立した松平氏の徳川家康(松平元康より改名)と手を結ぶことになる。それまで織田家と松平家は敵対関係にあり、幾度も戦っていた。だが、信長は美濃国の斎藤氏攻略のため~家康も駿河国の今川氏真らに対抗する必要があった為、こちらの利害関係を優先させたものと思われる。両者は永禄5年(1562年)、同盟を結んで互いに背後を固めた(清洲同盟)。

美濃攻略と天下布武

斎藤道三亡き後、美濃を譲られた22歳の信長と斎藤氏との関係は険悪なものとなっていた。桶狭間の戦いと前後して両者の攻防は一進一退の様相を呈していた。しかし、永禄4年(1561年)に斎藤義龍が急死し~嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、斎藤氏は家中で分裂が始まる。対斎藤戦で優位に立った信長(30歳)は、永禄7年(1564年)には北近江国の浅井長政と同盟を結び、斎藤氏への牽制を強化している。その際、信長は、妹・お市を輿入れさせた。一方で、信長は永禄8年(1565年)より滝川一益の援軍依頼により伊勢方面にも進出し、神戸具盛など当地の諸氏とも戦っている。

ついに美濃の国主となる

永禄9年(1564年から1565年)、竹中重治と安藤守就が岐阜城を占拠後、西美濃攻略から中濃へと戦略を変える。中濃攻略戦において美濃国の要所である加治田城(佐藤忠能)や加治田衆を味方にし(後に信長の近親、斎藤利治を忠能の養子とした)、中濃の諸城(鵜沼城・猿啄城・堂洞城・関城)を堂洞合戦・関・加治田合戦において手に入れ、さらに西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、ついに永禄10年(1567年)、斎藤龍興を伊勢長島に敗走させ、美濃国を手に入れた(稲葉山城の戦い)。こうして尾張・美濃の2ヶ国を領する大名になったとき、信長は33歳であった。このとき、井ノ口を岐阜と改称している。

天下統一を目指す

同年11月には、僧・沢彦から与えられた印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめており、本格的に天下統一を目指すようになったとみられる。11月9日には、正親町天皇より綸旨を与えられ。上洛の正当性を獲得する。

永禄の変

中央幕府の情勢では、永禄8年(1565年)、かねて京を中心に畿内で権勢を誇っていた三好氏の有力者三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が、幕府権力の復活を目指して三好氏と対立を深めていた将軍・足利義輝を暗殺して、第14代将軍として義輝の従弟・足利義栄を傀儡として擁立する(永禄の変)。

久秀らはさらに義輝の弟で僧籍にあった一乗院覚慶(足利義昭)の暗殺も謀ったが、義昭は一色藤長・和田惟政ら幕臣の支援を受けて奈良から脱出し、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、義景が三好氏追討の動きを見せなかったため、永禄11年(1568年)7月には美濃国の信長へ接近を図ってきた。信長(34歳)は義昭の三好氏追討要請を応諾した。

武田氏との外交

信長は、「美濃国」と接する「甲斐国」の武田信玄と、信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に養女(遠山夫人)を娶らせることで同盟を結んだ。だが、遠山夫人は永禄10年(1567年)11月、武田信勝を出産した直後に早世した。そのため、信長は、同年末には、嫡男・信忠と信玄の六女・松姫との婚姻を模索し友好的関係を持続させるなど、周囲の勢力と同盟を結んで国内外を固めた。

足利義昭上洛の警護

永禄11年(1568年)9月、信長(34歳)は、“他国侵攻の大義名分として”将軍家嫡流の足利義昭を奉戴して、上洛を開始した。これに対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の猛攻を受け、観音寺城が落城する(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。

信長が上洛すると、三好長慶死後の内輪揉めにより崩壊しつつあった三好義継・松永久秀らは、信長の実力を悟って臣従し、三好三人衆に属した他の勢力の多くは阿波国へ逃亡する。唯一抵抗していた池田勝正も信長に降伏した。

副将軍を遠慮した賢い信長

足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、和泉一国の恩賞だけを賜り尾張へ帰国。この時、信長は義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・副将軍の地位等を勧められたが、桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り遠慮したとされる。

六条合戦

永禄12年(1569年)1月、信長(35歳)が率いる織田軍主力が美濃国に帰還した隙を突いて、三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が共謀し、足利義昭の御所である六条本圀寺を攻撃した(六条合戦)。しかし、信長は豪雪の中をわずか2日で援軍に駆けつけるという機動力を見せた。 もっとも、浅井長政や池田勝正の援軍と明智光秀の奮戦により、三好・斎藤軍は、信長の到着を待たず敗退していた。

堺の商人衆

1月10日には三好軍と共同して決起した高槻城の入江春景を攻めた。春景は降伏したが、信長は再度の離反を許さず処刑した。ついで、和田惟政を高槻に入城させ、摂津国を守護・池田勝正を筆頭とし伊丹氏と惟政の3人に統治させた(摂津三守護)。同日、35歳の信長は、「堺」に、2万貫の矢銭と服属を要求する。これに対して、「堺の商人衆」は、三好三人衆を頼りに抵抗した。だが、三人衆が織田軍に敗退すると支払いを余儀なくされた。*これで、信長は、「商業勢力」を敗退させたわけである(伊勢爺)。

伊勢国へ侵攻

同時期に伊勢国への侵攻も大詰めを迎える。伊勢国は、南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていた。だが、34歳の信長は、まず永禄11年(1568年)北伊勢の神戸具盛と講和し、三男の織田信孝を神戸氏の養子として送り込んだ。更に北畠具教の次男・長野具藤を内応により追放し、弟・織田信包を長野家当主とした。そして翌・永禄12年(1569年)8月20日、滝川一益の調略によって具教の実弟・木造具政が信長側に転じると、信長は、その日の内に岐阜を出陣し南伊勢に進攻した。北畠家の大河内城を大軍を率いて包囲し~篭城戦の末10月3日に和睦し~次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだ。後に北畠具教は幽閉され、天正4年(1576年)に信雄により殺害される。こうして信長は、養子戦略により北伊勢攻略を終える。

第一次信長包囲網

1570年(元亀1年)の戦国大名勢力図永禄12年(1569年)、信長(36歳)は足利義昭の将軍としての権力を制限するために、「殿中御掟」9ヶ条の掟書、のちには追加7ヶ条を発令し、これを義昭に認めさせた。しかし、これによって義昭と信長の対立は決定的なものになったわけではなく、両者はお互いを利用し合う関係となった。

朝倉義景討伐

元亀元年(1570年)4月、36歳の信長は、度重なる上洛命令を無視する朝倉義景を討伐するため、浅井氏との盟約を反故にし~盟友の徳川家康の軍勢とともに越前国へ進軍した。織田・徳川連合軍は朝倉氏の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎で盟友であった浅井氏に背後を突かれた。挟撃され窮地に追い込まれた織田・徳川連合軍は、殿(しんがり)を務めた池田勝正~明智光秀~木下秀吉~徳川家康らの働きもあり、なんとか京に逃れた(金ヶ崎の戦い)。信長が京に帰還したとき、従う者は僅か10名ほどであった。

浅井氏を討伐

同年6月(金ヶ崎の戦いの2ヵ月後)、信長は、浅井氏を討つべく出撃。近江国姉川河原で徳川軍とともに浅井・朝倉連合軍と対峙する。浅井軍の先鋒・磯野員昌に、15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦しつつも、織田・徳川連合軍は勝利した(姉川の戦い)。

石山本願寺が挙兵

8月、信長は摂津国で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、その隙をついて石山本願寺が信長に反旗を翻し挙兵した(野田城・福島城の戦い)。しかも、織田軍本隊が摂津国に対陣している間に軍勢を立て直した浅井~朝倉~延暦寺などの連合軍3万が近江国・坂本に侵攻してきた。織田軍は、劣勢の中、重臣・森可成と信長の実弟・織田信治を喪った。

伊勢長島の一向一揆衆の反乱

9月23日未明、信長は本隊を率いて摂津国から近江国へと帰還。慌てた浅井・朝倉連合軍は比叡山に立て籠もって抵抗した。信長はこれを受け、近江国・宇佐山城において浅井・朝倉連合軍と対峙する(志賀の陣)。しかし、その間に石山本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻し、信長の実弟・織田信興を戦死に追い込んだ。

11月21日、信長は六角義賢・義治父子と和睦し、ついで阿波から来た篠原長房と講和した。さらに足利義昭に朝倉氏との和睦の調停を依頼し、義昭は関白二条晴良に調停を要請した。そして正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日、勅命をもって浅井氏・朝倉氏との和睦に成功。このとき信長は義景に対し“天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し”とまで言ったという。*1570年、36歳の信長は、人生最初の危機に直面したのだ(伊勢爺)。

比叡山焼き討ち

元亀2年(1571年)、37歳になった信長は、朝倉・浅井に味方した延暦寺を攻める。9月、信長は何度か退避と中立勧告を出した後~なおも抵抗し続けた「比叡山延暦寺」を焼き討ちにした(比叡山焼き討ち)。*これで、信長の「宗教勢力討伐」が始まった(伊勢爺)。

第二次信長包囲網・信長VS武田信玄

一方、甲斐国の武田信玄は駿河国を併合。信玄は、三河国の家康や相模国の後北条氏、越後国の上杉氏と敵対していた。だが、元亀2年(1571年)末に後北条氏との甲相同盟を回復させると、徳川領への侵攻を開始する。この頃、信長は足利義昭の命で、武田・上杉間の調停を行っており、信長と武田の関係は良好であった。だが、信玄は、信長の同盟相手である徳川領への侵攻を事前通告なしで行った。

元亀3年(1572年)7月、信長は嫡男・奇妙丸(後の織田信忠)を初陣させた。この頃、織田軍は、浅井・朝倉連合軍と小競り合いを繰り返していた。しかし戦況は織田軍有利に展開し、8月には朝倉義景に不満を抱いていた朝倉軍の前波吉継、富田長繁、毛屋猪介、戸田与次らが信長に寝返った。

10月、信長は足利義昭に対して17条からなる詰問文を送り、信長と義昭の関係は決定的に悪化する。11月、東美濃の国衆、遠山氏は、織田・武田の両属関係にあったが、遠山氏の岩村城が攻められるなか、当主の遠山景任が病死する。家督を巡って信長が軍事介入すると、遠山氏は武田方に帰属し、武田・織田間の対立が顕在化する。

織田・徳川連合軍は、武田軍に大敗する

また、徳川領においては、徳川軍が「一言坂の戦い」で武田軍に大敗し、さらに遠江国の要である二俣城が開城・降伏により不利な戦況となる(二俣城の戦い)。これに対して信長は、家康に佐久間信盛・平手汎秀ら3,000人の援軍を送ったが、12月の三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍は、武田軍に大敗。汎秀らは討死した。

元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は、遠江国から三河国に侵攻し、2月には野田城を攻略する(野田城の戦い)。信玄の上洛に呼応する形で、足利義昭が、三好義継・松永久秀らと共謀して挙兵。3月25日に信長は、三河国にいる武田軍を無視して岐阜から京都に向かって進軍した。信長(39歳)が京都に着陣すると幕臣であった細川藤孝や荒木村重らは義昭を見限り信長についた。信長は上京を焼打ちして義昭に脅しをかけた。だが、4月5日、正親町天皇から勅命を賜ることによって義昭と和睦した。4月12日、武田信玄が急死し、武田軍は甲斐国へ帰国した。

室町幕府滅亡

武田氏の西上作戦停止によって信長は態勢を立て直し、元亀4年(1573年)7月には再び抵抗の意思を示した足利義昭が二条御所や山城守護所(槇島城)に立て籠もった。だが信長は、義昭を破り追放し~これをもって室町幕府の勢力は京都から消滅した。加えて7月28日には元号を“元亀から天正”へと改めることを朝廷に奏上し、これを実現させた。

越前国に侵攻と浅井・朝倉の自刃

天正元年(1573年)8月、39歳の信長は、細川藤孝に命じて、淀城に立て籠もる三好三人衆の一人・岩成友通を討伐した(第二次淀古城の戦い)。信長は同月、3万人の軍勢を率いて越前国に侵攻。刀根坂の戦いで朝倉軍を破り、朝倉義景は自刃した。9月、信長は、小谷城を攻略して浅井氏に勝利し、浅井久政・長政父子は自害し~長政の母・小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とした上で殺害した(執行を担当したのは秀吉であり、処刑方法が信長本人の意向か秀吉のものであるかは不明である)。なお、長政に嫁いでいた妹・お市らは落城前に落ち延びて信長が引き取った。

伊勢長島に侵攻

9月24日、信長は、尾張・美濃・伊勢の軍勢を中心とした3万人の軍勢を率いて、伊勢長島に行軍した。織田軍は、滝川一益らの活躍で、半月ほどの間に長島周辺の敵城を次々と落とした。しかし撤退途中にまたも一揆軍による奇襲を受け、林通政が討死した。

三好氏の滅亡

11月、河内国の三好義継が足利義昭に同調して反乱を起こした。信長は佐久間信盛を総大将とした軍勢を河内国に送り込む。しかし、信長の実力を怖れた義継の家老・若江三人衆らによる裏切りで、義継は11月16日に自害し~三好氏もここに滅亡した。12月26日、大和国の松永久秀も多聞山城を明け渡し、信長に降伏した。

長島一向一揆の制圧

天正2年(1574年)1月、朝倉氏を攻略して織田領となっていた越前国で、地侍や本願寺門徒による反乱が起こり、守護代の桂田長俊は一乗谷で殺された。それに呼応する形で、甲斐国の武田勝頼が東美濃に侵攻してくる。信長はこれを信忠とともに迎撃しようとしたが、信長の援軍が到着する前に東美濃の明知城が落城し~信長は武田軍との衝突を避けて岐阜に撤退した。

3月、信長は上洛して従三位参議に叙任された。

7月、信長は3万人の大軍と織田信雄・滝川一益・九鬼嘉隆の伊勢・志摩水軍を率いて、伊勢長島を水陸から完全に包囲し、兵糧攻めに追い込んだ。一揆軍も地侍や旧北畠家臣なども含み、抵抗は激しかったが、8月に兵糧不足に陥る。織田軍の猛攻で大鳥居城が落城して一揆勢1,000人余が討ち取られる。9月29日、長島城の門徒は降伏し、船で大坂方面に退去しようとしたが、信長は一斉射撃を浴びせ掛けた。他方、一揆側の反撃で、信長の庶兄・織田信広、弟・織田秀成など織田一族の将が討ち取られた。これを受けて信長は中江城、屋長島城に立て籠もった長島門徒2万人に対して、城の周囲から柵で包囲し、焼き討ちで全滅させた。この戦によって長島を占領した。

翌天正3年(1575年)3月、荒木村重が大和田城を占領したのをきっかけに、41歳の織田信長は、石山本願寺・高屋城周辺に10万兵の大軍で出軍した(高屋城の戦い)。高屋城・石山本願寺周辺を焼き討ちにし、両城の補給基地となっていた新堀城が落城すると、三好康長は降伏を申し出これを受け入れ、高屋城を含む河内国の城は破城となる。その後、松井友閑と三好康長の仲介のもと石山本願寺と一時的な和睦が成立する。*信長は「宗教勢力」を壊滅させたわけだ(伊勢爺)。

長篠の戦い

信長包囲網の打破後、信長や徳川家康は甲斐の武田氏に対しても反攻を強めており、武田方は織田・徳川領への再侵攻を繰り返していた。天正3年(1575年)4月、勝頼は武田氏より離反し、徳川氏の家臣となった奥平貞昌を討つため、1万5,000人の軍勢を率いて貞昌の居城・長篠城に攻め寄せた。しかし奥平勢の善戦により武田軍は長篠城攻略に手間取る。その間の5月12日に信長は、3万人の大軍を率いて岐阜から出陣し、5月17日に三河国の野田で徳川軍8,000人と合流する。

3万8,000人に増大した織田・徳川連合軍は5月18日、設楽原に陣を敷いた。そして5月21日、織田・徳川連合軍と武田軍の戦いが始まる(長篠の戦い)。信長は設楽原決戦においては5人の奉行に1,000丁余りの火縄銃を用いた一斉射撃を行わせるなどして、武田軍に圧勝した。

越前侵攻

この頃、前年に、信長から越前国を任されていた守護代・桂田長俊を殺害して越前国を奪った「本願寺門徒」では、内部分裂が起こっていた。門徒達は天正3年(1575年)1月、桂田長俊殺害に協力した富田長繁ら地侍も罰し、越前国を一揆の持ちたる国とした。顕如の命で守護代として下間頼照が派遣されるが、前領主以上の悪政を敷いたため、一揆の内部分裂が進んでいた。

これを好機と見た信長は、長篠の戦いが終わった直後の8月、越前国に行軍した。内部分裂していた一揆衆は協力して迎撃することができず、下間頼照や朝倉景健らを始め、12,250人を数える越前国・加賀国の門徒が織田軍によって討伐された。越前国は、再び織田領となり、信長は越前八郡を柴田勝家に与えた。

安土城築城

天正3年(1575年)11月4日、41歳の信長は権大納言に叙任される、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)に叙任する。この就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。同日、嫡子の信忠は秋田城介(鎮守府将軍になるための前官)に叙任する。以後、信長のよび名は“上様”となり、将軍と同等とみなされた。足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる。

11月28日、信長は1週間前に、東美濃の要・岩村城を陥落させた嫡男・信忠に一大名家としての織田家の家督ならびに美濃・尾張などの織田家の領国(織田直割領)を譲った。しかし、引き続き信長は、織田政権の政治・全軍を総括する立場にあった。

天正4年(1576年)1月、信長自身の指揮のもと琵琶湖湖岸に安土城の築城を開始する。安土城は、天正7年(1579年)に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は、“その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである”と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

第三次信長包囲網

天正4年(1576年)1月、信長(42歳)に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。

石山本願寺軍を撃破

信長は、4月、明智光秀・荒木村重・塙直政を大将とした3万人の軍勢を大坂に派遣したが伏兵の襲撃に遭って大敗を喫し、直政を始め1,000人以上が戦死した。織田軍は本願寺軍の攻勢に窮し天王寺砦に立て籠もるが、本願寺軍はこれを包囲し、天王寺で織田軍は窮地に陥った。5月5日、信長は若江城に入り動員令を出したが、集まったのは3,000人ほどであった。5月7日早朝、その軍勢を率いて自ら先頭に立ち、天王寺砦を包囲する本願寺軍1万5,000人に攻め入り、信長自身も銃撃され負傷する激戦となった。信長自らの出陣で士気が高揚した織田軍は、光秀率いる天王寺砦の軍勢7,000人との連携に成功。本願寺軍を挟撃し、これを撃破した(天王寺砦の戦い)。

毛利軍の参戦

その後、織田軍は石山本願寺を水陸から包囲し兵糧攻めにした。ところが7月13日、石山本願寺の援軍に現れた毛利水軍800隻の前に、織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた(第一次木津川口の戦い)。

この頃、越後守護で関東管領の上杉輝虎(上杉謙信)と信長との関係は悪化していた。謙信は天正4年(1576年)に石山本願寺と和睦し、信長との対立を明らかにした。謙信を盟主として、毛利輝元~石山本願寺~波多野秀治~紀州雑賀衆などが反信長に同調し結託した。

紀伊国から撤兵

天正5年(1577年)2月、信長(43歳)は、雑賀衆を討伐するために大軍を率いて出陣(紀州攻め)した。だが、毛利水軍による背後援助や上杉軍の能登国侵攻などもあったため、3月に入ると雑賀衆の頭領・鈴木孫一らを降伏させ、形式的な和睦を行ない、紀伊国から撤兵した。この頃、北陸戦線では、織田軍の柴田勝家が、加賀国の手取川を越えて焼き討ちを行っている。

丹波を掌握

大和国の松永久秀がまたも信長を裏切り挙兵すると、信長は織田信忠を総大将とした大軍を信貴山城に派遣し、10月に松永を討ち取った(信貴山城の戦い)。久秀を討った10月、信長に抵抗していた丹波亀山城の内藤定政(丹波守護代)が病死する。織田軍はこの機を逃さず、亀山城・籾井城・笹山城などの丹波国の諸城を攻略。同年、姉妹のお犬の方を丹波守護で管領を世襲する細川京兆家当主・細川昭元の正室とすることに成功し丹波を掌握した。

信長包囲網は崩壊した

11月、能登・加賀北部を攻略した上杉軍が加賀南部へ侵攻。その結果、加賀南部は上杉家の領国に組み込まれ、北陸では上杉側が優位に立ったが、天正6年(1578年)3月13日に上杉謙信が急死。謙信には実子がなく、後継者を定めなかったため、養子の上杉景勝と上杉景虎が後継ぎ争いを始めた(御館の乱)。この好機を活かし織田軍は斎藤利治を総大将に、越中国に侵攻(月岡野の戦い)。その後、柴田勝家軍が上杉領の能登・加賀を攻略、越中国にも侵攻する勢いを見せた。かくしてまたも信長包囲網は崩壊した。

織田方面軍団の編成

天正期に入ると、同時多方面に勢力を伸ばせるだけの兵力と財力が織田氏に具わっていた。信長は部下の武将に大名級の所領を与え、“自由度の高い統治”をさせ、周辺の攻略に当たらせた。研究者の間では、これら信長配下の新設大名を「軍団」「方面軍」と呼称した~または信長軍・信長機動隊ともいう。

尾張の兵を弓衆~鉄砲衆~馬廻衆~小姓衆~小身衆など機動性を持った直属の軍団に編成し、天正4年(1576年)にはこれらを安土に結集させた。既に織田家には、直属の指揮班である宿老衆や先手衆などがおり、これらと新編成軍との連携などを訓練した。

1)上杉景勝に対しては、柴田勝家~前田利家~佐々成政らを、2)武田勝頼に対しては、滝川一益~織田信忠らを、3)波多野秀治に対しては、明智光秀~細川藤孝らを、4)毛利輝元に対しては、羽柴秀吉を、5)石山本願寺に対しては、佐久間信盛を配備した。

荒木村重の反乱

天正6年(1578年)3月、播磨国の別所長治の謀反(三木合戦)が起こる、また毛利軍が、同年7月、上月城を攻略し、信長(44歳)の命により放置された山中幸盛ら尼子氏再興軍は処刑される(上月城の戦い)。10月には摂津国の荒木村重が有岡城に籠って信長から離反し(有岡城の戦い)、本願寺と手を結んで信長に抵抗する。一方、村重の与力の一人であり東摂津に所領を持つ中川清秀・高山右近は村重にはつかなかった。

中国地方の攻略

同年11月6日、44歳の信長は九鬼嘉隆の考案した鉄甲船を採用、6隻を建造し毛利水軍を撃破(第二次木津川口の戦い)。これにより石山本願寺と荒木は毛利軍の援助を受けられず孤立し、この頃から織田軍は優位に立つ。

優劣逆転

天正7年(1579年)夏までに波多野秀治を降伏させ、処刑。同年9月、荒木村重が妻子を置き去りにして逃亡すると有岡城は落城し、荒木一族は処刑された。次いで10月、それまで毛利方であった備前国の宇喜多直家が服属すると、織田軍と毛利軍の優劣は完全に逆転する。

11月、46歳の信長は、織田家の京屋敷・二条新御所に皇太子である誠仁親王を住まわせることを思いつき、直ちに実行した。

この年、信長は徳川家康の嫡男・松平信康に対し切腹を命じた。表向きの理由は信康の12か条の乱行及び築山殿の武田氏への内通などである。徳川家臣団は信長恭順派と反信長派に分かれて激しい議論を繰り広げたが、最終的に家康は築山殿を殺害し、信康に切腹させた。ただし、これに関しては、家康・信康父子の対立が原因で、信長は娘婿信康の処断について家康から了承を求められただけだとする説もある。また伊勢国の出城構築を伊賀国の国人に妨害されて立腹した織田信雄が、独断で伊賀国に侵攻し大敗を喫した。信長は信雄を厳しく叱責するとともに、伊賀国人への敵意をも募らせた(第一次天正伊賀の乱)。

天正8年(1580年)1月、別所長治が切腹し、三木城が開城。4月には正親町天皇の勅命のもと本願寺軍も織田軍に有利な条件を呑んで和睦し、大坂から退去した。同年には播磨国、但馬国をも攻略した。8月、信長は譜代の老臣・佐久間信盛とその嫡男・佐久間信栄に対して折檻状を送り付け、本願寺との戦に係る不手際などを理由に、高野山への追放か討ち死に覚悟で働くかを迫った。佐久間親子は高野山行きを選んだ。さらに、古参の林秀貞と安藤守就も、かつてあった謀反の企てや一族が敵と内通したことなどを蒸し返して、これを理由に追放した。

印旛国を攻略

天正9年(1581年)には鳥取城を兵糧攻めで落とし因幡国を攻略、さらには岩屋城を落として淡路国を攻略した。同年、信雄を総大将とする4万人の軍勢が伊賀国を攻略。伊賀国は織田氏の領地となった(第二次天正伊賀の乱)。

京都御馬揃えと高野山包囲

天正9年(1581年)、47歳の信長は絶頂期にあった。2月28日には、京都の内裏東の馬場にて大々的なデモンストレーションを行なっている。いわゆる「京都御馬揃え」であるが、これには信長はじめ織田一門のほか、丹羽長秀ら織田軍団の武威を示すものであった。このときの馬揃えには正親町天皇を招待している。

高野山の蜂起

同年に荒木村重の残党を匿ったり、足利義昭と通じるなど、高野山が、信長と敵対する動きを見せる。「信長公記」によれば、信長は使者十数人を差し向けたが、高野山が使者を全て殺害した。一方、「高野春秋」では、荒木村重探索の松井友閑の兵32名が高野山の領民に乱暴狼藉を働いたために高野山側がこれを殺害したと記している。いずれにしても、この行動に激怒した信長は、織田領における高野聖(ひじり)数百人を捕らえる(高野聖は諜報活動を行っていたともいう)と共に、河内国や大和国の諸大名に命じて高野山を包囲させた。

武田征伐

天正9年(1581年)5月に越中国を守っていた上杉氏の武将・河田長親が急死した隙を突いて、織田軍は越中に侵攻、同国の過半を支配下に置いた。3月23日には高天神城を奪回し、武田氏を追い詰めた。紀州では雑賀党が内部分裂し、信長支持派の鈴木孫一が反信長派の土橋平次らと争うなどして勢力を減退させた。

長篠合戦の敗退後、武田勝頼は越後上杉氏との甲越同盟の締結や新府城築城などで領国再建を図る一方、人質であった織田勝長(信房)を返還することで信長との和睦(甲江和与)を模索したが進まず、新府城築城のための普請増大などで却って国人衆には不満が増大していた。

天正10年(1582年)2月1日、武田信玄の娘婿であった木曾義昌が信長に寝返る。2月3日に信長は武田領国への本格的侵攻を行うための大動員令を信忠に発令。駿河国から家康、相模国から北条氏直、飛騨国から金森長近、木曽から織田信忠が、それぞれ武田領攻略を開始した。信忠軍は軍監・滝川一益と信忠の譜代衆となる河尻秀隆・森長可・毛利長秀等で構成され、この連合軍の兵数は10万人余に上った。武田軍は、伊那城の城兵が城将・下条信氏を追い出して織田軍に降伏。さらに信濃国の松尾城主・小笠原信嶺、江尻城主・穴山信君らも先を争うように連合軍に降伏し、武田軍は組織的な抵抗が出来ず、敗北する。

武田氏の滅亡

信忠軍は猛烈な勢いで武田領に侵攻し武田側の城を次々に占領していき、信長が武田征伐に出陣した3月8日に信忠は武田領国の本拠である甲府を占領し、3月11日には甲斐都留郡の田野において滝川一益が武田勝頼・信勝父子を討ち取り、ここに武田氏は滅亡した。

武田氏滅亡後、信長は戦後処理として「武田狩り」を命じた。また駿河国を徳川家康に、上野国を滝川一益に与え、旧武田領の監督を命じ、甲斐国を河尻秀隆、北信濃を森長可、南信濃を毛利長秀に与え、一益の与力に付けて、北条氏直への抑えとしつつも同盟関係を保った。

本能寺の変

天正10年(1582年)夏、49歳の信長は、四国の長宗我部元親攻略に、三男の神戸信孝、重臣の丹羽長秀・蜂屋頼隆・津田信澄の軍団を派遣する準備を進めていた。

3月11日、北陸方面では、柴田勝家が富山城、魚津城を攻撃(魚津城の戦い)。上杉氏は北の新発田重家の乱に加え、北信濃方面から森長可、上野方面から滝川一益の進攻を受け、東西南北の全方面で守勢に立たされていた。

5月15日、駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪れた。そこで、信長は明智光秀に接待役を命じる。光秀は、15日から17日にわたって家康を手厚くもてなした。家康接待が続く中、信長は備中高松城攻めを行なっている羽柴秀吉の使者より援軍の依頼を受けた。信長は、光秀の接待役の任を解き~高松城を攻めあぐねていた秀吉への援軍に向かうよう命じた。後世、「明智軍記」などによって江戸時代以降流布される俗説では、この時、光秀の接待内容に不満を覚えた信長は小姓の森成利(蘭丸)に命じて、光秀の頭をはたかせた、としている。

1582年5月29日、信長は、中国遠征の出兵準備のために上洛し、本能寺に逗留していた。ところが、秀吉への援軍を命じていたはずの明智軍が突然、京都に進軍し、6月2日に本能寺を襲撃した。この際に、光秀は、“部下の信長に寄せる忠誠の篤き”を考慮した。現に、光秀への忠誠を誓う者が少なかった。そのため、侵攻にあたっては、“標的が信長である”ことを伏せていた。そのことが本城惣右衛門覚書からもうかがえる。100人ほどの手勢しか率いていなかった信長であったが、初めは自ら槍を手に奮闘した。しかし圧倒的多数の明智軍には敵わず~居間に戻った信長は自ら火を放ち~燃え盛る炎の中で自害した。享年49歳だった(1534~1582)。

光秀の娘婿・明智秀満が信長の遺体を探したが見つからなかった。当時の本能寺は、織田勢の補給基地的に使われていたため、火薬が備蓄されており、信長の遺体が爆散してしまったためと考えられる。しかしながら、密かに脱出し別の場所で自害したという説や~信長を慕う僧侶と配下によって人知れず埋葬されたという説もある。なお、最後まで信長に付き従っていた者の中に黒人の家来・弥助がいた。弥助は、光秀に捕らえられたものの後に放免となっている。それ以降、弥助の動向については不明である。

平成19年(2007年)に行われた本能寺跡の発掘調査では、本能寺の変と同時期にあったとされる堀跡や大量の焼け瓦が発見された。これにより、城塞としての機能や謀反に備えていた可能性が指摘されており、現在も調査が続いている。


(伊勢爺のつぶやき)

ウイキぺデイアを読みやすくした。「信長公記」は本棚にあるが、まだ、読んでいない。黒人の召使「弥助」がいたことに興味を持った。ハリウッド映画の脚本になるからだ。

織田信長の生涯は、「戦いの生涯」だ。信長のカリズマの右に出る日本人はいない。信長は、軍事専門家であり、実際に、日本史最大の「軍事・経済力」を掌握した。その経済力と軍事力を以って、堺の商業勢力~比叡山・高野山・石山本願寺・一向宗の宗教勢力を破ったのである。

1534年の5月12日に生まれ~1582年の5月29日に没している。日本の歴史には、高いカリズマ性を持った「革命児」が多く出た。だが、どれも、信長とは比較にならない。“凄まじい生きざま”だと言える。

422年前の、日本の戦国時代に生きた男の“生きざま”なのだ。70歳の伊勢爺は、自分と信長の“生きざま”を比較してみた。“おぎゃあ”と生まれて~親のもとで育って~成人となり~妻を娶って~子供を生む~そして、老いて行く~やがて天命は終わる、、ここまでは、同じだ。違っているのは、信長の人生には、「目的」があったことだ。「天下統一」という明確な目的があったことだ。伊勢平次郎


comment

村石太ウーマンさま

どうして、こんな古いエントリ読んでるの(笑い)。信長を書くと長くなるけども、その非情~豪胆~妻への愛情~計算~忍耐~芸術、、ものすごい才能ですね。死ぬことを臆せず向かっていった。今の首相らには期待できないね。自民にもいないわ。伊勢
2012/01/19 10:59 | 伊勢 [ 編集 ]

戦国武将で 信長は 人気ですね。鎖国時代での弱肉強食 鎖国の内乱
信長 秀吉 家康の 対比は おもしろいですね。
現代 その子孫は どうしているのだろうか?
2012/01/19 09:02 | 村石太ウーマン [ 編集 ]

>>経済はひどいことになりますが日本人は終戦の詔勅を聞くようなことになるかもしれません。

日本人は、いつの時代でも、“仕方がない”と、あきらめた。今回の財政破綻にも、既に、あきらめが見える。この“打って出ない”受身の姿勢がなんとも理解し難い。それでいて、“アメリカに搾取される”と騒ぐ。自分を被害者の立場においている。だから、どんどん後退する。残念だが、事実だと思う。伊勢
2011/11/25 15:25 | 伊勢 [ 編集 ]

伊勢さん、日本人で抽象思考能力を持つ人はおそらく100人い一人でしょう。そのくせ数学者は優れた人が多い。kenjiも少し我流で勉強しました。それより見ると大体そのくらいでしょう。
 ヨーロッパの出来事は遠いところで、抽象思考をしないと実感を持って感じることができず、その対策も抽象思考をしないと無理です。それは数学の証明のようなものです。

 高校くらいで抽象思考とはどのようなものかを教えればいいですが計算ばかりです。
 経済も似たようなものでしょう。kenjiは40歳を過ぎて、物の値段はどのようにして決まるのかを考え始めました。それから見ると現代の人々の経済観念は変です。
 ことは負債性の経済を認識することです。

 既に2006年からこの経済変調は大恐慌になると見ていた人はいますよ。kenjiは2007年2月頃にネットで色々見て思いました。アメリカの住宅価格の下落です。
 一番興味を持ったサイト(今はありません)の運営者に何故それが分かったのかとたずねたら<住宅価格の下落の曲線が変であったから>との返事。<では何故それに注目したか>と尋ねると<アメリカ人と結婚した人が亜米利加で住宅を買うべく色々書いているブログにおいて、ボストンの価格が下落したとあったからである>
との返事でした。
 その際との予測はデータを示して、それに対する見方と予測がかいてあり、その時ケースシラー指標でしたか、知りました。
 指標の一つに過ぎませんけれども。
2008年8月にヨーロッパのインターバンク市場がフリーズしました。わが国においても1996年でしかた、起きました。それから類推すると、先は見えていました。

 現状は銀行が債務超過で、企業なら手があるでしょうが銀行は信用で成り立っていますから、倒産は起きないが起きる時はすぐです。
 個人的には先は第三次世界大戦と見ています。
手を打つことのできる人は既に皆打っているでしょう。

 今回は前回とは異なります。それは各国の人口が多いからです。自壊していく国が多いでしょう。

>こういった経済状況も理解出来ず、特亜もヘッタクレもないのですよ。伊勢

 ですね。しかし韓国との通貨スワップはわが国に被害をもたらしますが、しないのでももたらすのがわが国の朝鮮問題の基本形態です。
 個人的には軍事予算をさらに増強して、南北朝鮮を制御することでしょう。明治以降わが国は朝鮮に苦しめられましたから、もうけりをつけるべきです。

 蒙古が来た時当時の高麗王朝は自らすすんで蒙古に日本征伐を提案して、実行しています。
 この歴史と今回の韓国のFTAは似ています。
オバマ大統領の前における李大統領の表情や態度と我国総理大臣のまえとは面白いほど違います。アレが朝鮮人かなとおもいました。
 日本人も似た要素がありますがその元の仕組みが異なります。
 ある人が<朝鮮人は囲うと降参するが日本人は囲うと、攻撃する、後先考えずに>といいましたが今回のTPPに現れています。
 経済はひどいことになりますが日本人は終戦の詔勅を聞くようなことになるかもしれません。
2011/11/25 10:03 | kenji [ 編集 ]

ウィキぺディアは日本の武将の歴史までずいぶんと詳しく紹介しているのですね。

本日のニュースで株価が下がったとあります。毎度のことながら知識不足で恥ずかしいですが、適正とされている水準からはかなり低く危険である事は承知いたしております。
欧州一の経済大国ドイツの国債も評価が低かったのだとか。世界恐慌の再来にならない事を切に願っています。
2011/11/24 20:31 | 一有権者 [ 編集 ]

みなさん

伊勢爺が経済記事を書いても、コメントはない。朝鮮人・韓国人への憎悪を書けば、ランキングは上がるようだ。だがね、経済を学ぶことほど大事なことはないのです。

現時点の「S&P500指標」は、、

S&P 500  1,167.86  -20.18  -1.70% です。あと、1.5%下がれば、1,150以下となり~“経済は後退に入った”とされる。欧州発のリセッションは、日・米・欧・中の株価(ダウ平均)の30~40%を蒸発させる。リーマンショックの第二波だと思っていい。

こういった経済状況も理解出来ず、特亜もヘッタクレもないのですよ。伊勢
2011/11/24 01:00 | 伊勢 [ 編集 ]









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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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