2012/02/03 (Fri) 裏稼業・アメリカ情報局と岸信介(その2)


ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー(Dwight David Eisenhower, 1890年10月14日 - 1969年3月28日)は、アメリカ合衆国の軍人~政治家。第34代大統領及び第二次世界大戦中のヨーロッパの連合軍最高司令官。愛称は「アイク」。

1961年、70歳。日米安保改正の頃の写真。伊勢爺と同じ歳だが若い風貌だ。さすがは、ノルマンデイ上陸作戦の総指揮官だ。カンサス高原育ちのアイゼンハワーは、第二次大戦後の大統領で、“もっとも好ましい大統領”とされる。伊勢爺もそう思っている。アメリカ情報局(CIA)を活用したのもこの人である。岸信介の才覚を買っていたことは明らかだ。アイゼンハワーも、岸信介も強烈な反共闘争を行った。それでも、現在でも左翼思想は陰湿に蔓延している。伊勢爺は、サヨクはパラサイト(寄生虫)だと認識している。大学や~教育界~マスコミ~政界~沖縄の血を吸っている。それらの反日団体のパトロンが中国共産党だ。だから日米同盟による反共闘争は続くのである。伊勢平次郎 ルイジアナ






CIAの日本関与

日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄、正力松太郎などをエージェントとして、揺籃期の自由民主党に活動資金を提供し、政治及び国内のアメリカニゼーションと政府の親米化に一役買った。

2006年7月18日に公開されたアメリカ国務省編纂の外交史料集によると、冷戦時代にはアメリカ政府の反共政策に基づき日本の親米勢力や左派穏健勢力に秘密資金を提供していた。秘密資金の提供を受けたのは岸信介、池田勇人両政権下の自民党有力者と社会党右派(後に民社党を結党する勢力)とみられている。この結果、右派が民社党をつくり、日本社会党は弱体化することになった。

冷戦終結後、双子の赤字に苦しむアメリカ政府がCIAの人員や経費の削減等を行う危機に直面したCIAは、日本等の友好国の経済情報などの非軍事分野での情報収集と分析をはじめた。 1990年4月にはウェブスターCIA長官が「日本やヨーロッパ諸国の経済上の競争相手に対する情報戦略を扱う企画調整室を設けた」と発言し、1992年4月にはゲーツCIA長官が「業務の約4割、予算の2/3は経済分野に当てる」と演説した。2011年にはジェラルド・カーティスが対日工作者の一人であると名指しされている。

日本の指定暴力団ともコネクションを持つとされる。 岸の系列から、統一協会への関与も主張される。 エージェントの正力松太郎を使って日本全土を縦断する一大反共軍事通信網を構築する構想があったとされる。(→正力マイクロ波事件)


アメリカ情報局(CIA)の歴史

第二次世界大戦中のOffice of Strategic Services(OSS-戦略事務局)がCentral Intelligence Group(CIG-中央情報グループ)及びOffice of Political Coordination(OPC-政策調整局)を経て1947年に成立した国家安全保障法により改組され誕生した。

第二次世界大戦終了後、アレン・ダレスはドイツから数千人ものナチス出身者を招聘(連行)して、CIAの作戦能力を強化させた(ペーパークリップ作戦、MKウルトラ作戦など)。

東西冷戦時代は共産主義国の転覆を狙っていたこともあり、特に有名な活動が1961年のキューバにおけるピッグス湾事件である(詳細は該当記事参照)。 この作戦は失敗し、当時のアメリカ大統領であったジョン・F・ケネディは作戦そのものやその後始末に失敗したことに激怒し、CIAの解体を宣言した。 しかし、実現する前にケネディ自身がケネディ大統領暗殺事件で凶弾に倒れたため結局解体には至らなかった。 このため映画や小説の中では、事件にも関与していたとされることもある。
1980年代ソ連崩壊直前には、世界中で主要敵であるソ連国家保安委員会(KGB)の諜報員の離反を成功させるなどして冷戦の終結に貢献した。


日本の妖怪・岸信介

岸信介伝は、一読する価値がある。伊勢(ウイキぺデイアから)



岸 信介(きし のぶすけ、1896年11月13日 - 1987年8月7日)は、日本の政治家、官僚。内閣総理大臣(第56・57代)。位階は正二位、勲等は大勲位。旧姓佐藤。元衆議院議員。満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、自由民主党幹事長(初代)、外務大臣(第86・87代)などを歴任した。

東京帝国大学法学部卒業後、農商務省に入省、同省廃止後は商工省にて要職を歴任した。建国されたばかりの満州国に渡ると、国務院の高官として実業部次長や産業部次長など要職を歴任し、「満州開発五か年計画」などを手がけた。その後、日本の商工省に復帰すると次官に就任した。東條内閣では商工大臣として入閣し、のちに無任所の国務大臣となった。なお、東條内閣の閣僚を務める間も、商工省の次官や軍需省の次官を兼任していた。

その経歴から、太平洋戦争後にA級戦犯容疑者として逮捕されるが、不起訴となり公職追放。公職追放解除後に政界に復帰すると自由党に入党するが、その後日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると幹事長となった。石橋内閣にて外務大臣に就任。首班である石橋湛山の病気により石橋内閣が総辞職すると、後任の内閣総理大臣に指名された。
第61 - 63代内閣総理大臣佐藤栄作は実弟、第90代内閣総理大臣安倍晋三は外孫である。  

生い立ち

山口県吉敷郡山口町八軒家(現在の山口市)に、山口県庁官吏であった佐藤秀助と茂世(もよ)夫妻の第5子(次男)として生まれる(本籍地は山口県熊毛郡田布施町)。信介が生まれた時、曽祖父の佐藤信寛もちょうど山口に来ており、非常によろこんで、早速“名付親になる”といって自分の名前の一字を取って「信介」という名が付けられた。数え年3歳になった頃、父親の秀助は勤めをやめて、郷里に帰り、酒造業を営むようになった。

秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で造り酒屋を営んだ(佐藤家は酒造の権利を持ち、母が分家するまでは他家に貸していた)。

学生時代

岡山市立内山下小学校から[5][6]岡山中学校に進学したが、叔父の松介が肺炎に依り急逝したため2年と一ヶ月足らずしかいることが出来なかった[7]。山口に戻り、山口中学(戦後の山口県立山口高等学校)に転校。中学3年の時、婿養子だった父の実家・岸家の養子となる。

1914年(大正3年)、山口中学を卒業。間もなく上京して高等学校受験準備のため予備校に通ったが、勉強より遊び癖の方がつきやすく、受験勉強そっちのけでしばしば映画(当時は活動写真といった)や芝居を見に行ったりした。第一高等学校の入学試験の成績は最下位から2、3番目だったが、高等学校から大学にかけての秀才ぶりは様々に語り継がれ、同窓で親友であった我妻栄、三輪寿壮とは常に成績を争った。

1917年(大正6年)、東京帝国大学法学部に入学。法学部の入学試験はドイツ語の筆記試験だけで、難なく合格した。大学時代は精力を法律の勉強に集中し、ノートと参考書のほか一般の読書は雑誌や小説を読む程度で、一高時代のように旺盛な多読濫読主義ではなく、遊びまわることもほとんどなかった。我妻栄と二人で法律学の勉強に精を出し、昼食後や休講時などに、大学の運動場の片すみや大学御殿下の池の木などで、最近聞いた講義の内容や、二人が読んだ参考書などについて議論を戦わせた。

このころ岸は北一輝の思想に魅了され、中込に北を訪ねている。のちに岸は北について「大学時代に私に最も深い印象を与えた一人」と認め、「おそらくは、のちに輩出した右翼の連中とはその人物識見においてとうてい同日に論じることはできない」と語っている。

1920年(大正9年)7月に東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業。憲法学の上杉慎吉から大学に残ることを強く求められ、我妻もそれを勧めたが、岸は官界を選んだ。優等生であった岸が内務省ではなく二流官庁と思われていた農商務省に入省したことは意外の念をもって受け止められ、同郷の政治家で両省に在職経験のある上山満之進はこの選択を叱責したという。


満州国時代

農商務省へ入ると、当時商務局商事課長だった同郷の先輩、伊藤文吉(元首相伊藤博文の養子)から「外国貿易に関する調査の事務を嘱託し月手当四十五円を給す」という辞令をもらった。同期には平岡梓(作家・三島由紀夫の父)、三浦一雄、吉田清二などがいたが、入って間もなく、岸は同期生およそ20名のリーダー格となった。

1925年(大正14年)に農商務省が商工省と農林省に分割されると商工省に配属された。その当時の上司が、吉野作造の弟で、のちに商工省の次官・大臣となった吉野信次であった。1933年(昭和8年)2月に商工大臣官房文書課長、1935年(昭和10年)4月には商工省工務局長に就任。1936年(昭和11年)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任して渡満。1937年(昭和12年)7月には産業部次長、1939年(昭和14年)3月には 総務庁次長に就任。この間に計画経済・統制経済を大胆に取り入れた満州「産業開発5ヶ年計画」を実施。大蔵省出身で、満州国財政部次長や国務院総務長官を歴任し経済財政政策を統轄した星野直樹らとともに、満州経営に辣腕を振るう。同時に、関東軍参謀長であった東條英機や、日産コンツェルンの総帥鮎川義介、里見機関の里見甫の他、椎名悦三郎、大平正芳、伊東正義、十河信二らの知己を得て、軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き、満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。


東條内閣の閣僚時代



内閣総理大臣東條英機(最前列中央)ら東條内閣の閣僚と岸(前から2列目左から2人目)

伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し、1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。その後、商工大臣に座った小林一三と対立、直後に発生した企画院事件の責任を取り辞任する。1941年(昭和16年)10月に発足した東條内閣に商工大臣として入閣。太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙で当選し、政治家としての一歩を踏み出した。1943年(昭和18年)、戦局悪化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。

1944年(昭和19年)7月9日にはサイパン島が陥落し、日本軍の敗色が濃厚となった。宮中の重臣間では、木戸幸一内大臣を中心に早期和平を望む声が上がり、木戸と岡田啓介予備役海軍大将、米内光政海軍大将らを中心に、東條内閣の倒閣工作が密かに進められた。

同年7月13日には、難局打開のため内閣改造の意向を示した東條に対し木戸は、東條自身の陸軍大臣と参謀総長の兼任を解くこと、嶋田繁太郎海軍大臣の更迭と重臣の入閣を求めた。東條は木戸の要求を受け入れ、内閣改造に着手しようとしたが、すでに岡田と気脈を通じていた岸が、閣僚辞任を拒否し内閣総辞職を要求する。東條側近の四方諒二東京憲兵隊長が岸宅に押しかけ恫喝するも、「黙れ、兵隊」と逆に四方を一喝して追い返した。この動きと並行して木戸と申し合わせていた重臣らも入閣要請を拒否。東條は内閣改造を断念し、7月18日に内閣総辞職となった。

1945年(昭和20年)3月11日、岸は翼賛政治会から衣替えした親東條の大日本政治会には加わらず、反東條の護国同志会を結成した。


戦犯容疑者から復権まで


1948年12月24日、内閣官房長官公邸にて内閣官房長官佐藤榮作(右)と

1945年(昭和20年)8月15日に太平洋戦争が終結した後、故郷の山口市に帰郷していた所をA級戦犯容疑者として逮捕された。東京の巣鴨拘置所に収監されたが、冷戦の激化に伴いアメリカの対日政策が大きく転換(逆コース)。日本を「共産主義に対する防波堤」と位置づけ、旧体制側の人物を復権させたため、戦犯不起訴となる。東條ら7名の処刑の翌日の1948年(昭和23年)12月24日に釈放、公職追放となる。


保守合同

公職追放処分を受けて岸は、東洋パルプの会長などを務めていたが、1952年(昭和27年)のサンフランシスコ講和条約の発効にともない公職追放解除となり、4月に「自主憲法制定」、「自主軍備確立」、「自主外交展開」をスローガンに掲げ、日本再建連盟を設立、会長に就任した。1953年(昭和28年)、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけるも党内の反対が激しく入党はできず、自由党に入党、公認候補として衆議院選挙に当選したが、1954年(昭和29年)に吉田茂首相の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。

11月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任。かねて二大政党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主導。

1955年(昭和30年)10月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、これに対抗して11月に新たに結成された、自由民主党の初代幹事長に就任した。かくして「55年体制」が始まる。


岸内閣誕生

1956年(昭和31年)12月14日、自民党総裁に立候補するが7票差で石橋湛山に敗れた(岸251票、石橋258票)が、外務大臣として石橋内閣に入閣した。2か月後に石橋が脳軟化症に倒れ、首相臨時代理を務めた。巣鴨プリズンに一緒にいた児玉誉士夫の金と影響力を背景に石橋により後継首班に指名された。国会の首班指名時において自民党総裁以外の自民党議員が指名された形となった(首相就任の1ヵ月後の3月21日に自民党総裁に就任)。石橋内閣を引き継ぐ形の「居抜き内閣」で前内閣の全閣僚を留任、外相兼任のまま第56代内閣総理大臣に就任した。就任記者会見では「汚職、貧乏、暴力の三悪を追放したい」と抱負を述べ、「三悪追放」が流行語にまでなった。また石橋内閣が提唱していた1千億円減税も就任直後に実施している。1958年(昭和33年)4月25日に衆議院を解散。5月22日の総選挙で勝利し(自民党は絶対安定多数となる287議席を獲得)、6月12日に第57代内閣総理大臣に就任し、第2次岸内閣が発足した。

1958年(昭和33年)に日米安全保障条約改定にあたり、米側は「在日米軍裁判権放棄密約事件」で露見した裁判権放棄を公式に表明するよう要求したが、国内の反発を恐れた岸はこれを拒否した。

当時の岸内閣は、警察官職務執行法(警職法)の改正案を出したが、「デートもできない警職法」と揶揄され、社会党や総評を初めとして反対運動が高まり、撤回に追い込まれた。また、日本教職員組合(日教組)との政治闘争においては、封じ込め策として教職員への勤務評定の導入を強行した(これに反発する教職員により「勤評闘争」が起こった)。

この他、最低賃金制や国民皆保険や国民皆年金など社会保障制度を導入し、後の高度経済成長の礎を構築した。また、鳩山とともに復古的改憲論を主張した。


岸信介と安保改定

岸の総理大臣在任中の最大の事項は、日米安全保障条約・新条約の調印・批准と、それを巡る安保闘争である。1960年(昭和35年)1月に全権団を率いて訪米した岸は、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。

新条約の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾。5月19日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決するが、国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て、暗黒街の親分衆(=暴力団組長)の会合に派遣。錦政会会長稲川角二、住吉会会長磧上義光やテキヤ大連合のリーダーで関東尾津組組長・尾津喜之助ら全員が手を貸すことに合意。さらに3つの右翼連合組織にも行動部隊になるよう要請。ひとつは岸自身が1958年(昭和33年)に組織した木村篤太郎率いる新日本協議会、右翼の連合体である全日本愛国者団体会議、戦時中の超国家主義者もいる日本郷友会である。「博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達を説得し、アイゼンハワーの安全を守るため『効果的な反対勢力』を組織した。最終計画によると1万8千人の博徒、1万人のテキヤ、1万人の旧軍人と右翼宗教団体会員の動員が必要であった。彼らは政府提供のヘリコプター、セスナ機、トラック、車両、食料、司令部や救急隊の支援を受け、さらに約8億円(約230万ドル)の『活動資金』が支給されていた」(『ファーイースタン・エコノミック・レビュー』)。

連日デモ隊に包囲され、6月10日には大統領来日の準備をするために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)が羽田で群衆に包囲されてヘリコプターで救出され避難する騒ぎになった。6月15日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内では警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学学生樺美智子の死亡事件が発生した。こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを濃くしていった。岸は、「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りである。私には“声なき声”が聞こえる」と沈静化を図るが(いわゆるサイレント・マジョリティ発言)、東久邇・片山・石橋の3人の元首相が岸に退陣勧告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得ない状況となった。

6月15日と18日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・赤城宗徳が拒否。安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追いつめられたが、6月18日深夜、条約の自然成立。6月21日には批准、昭和天皇が公布した。新安保条約の批准書交換の日の6月23日、岸は閣議にて辞意を表明、7月15日、混乱の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。辞任直前には暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負っている。

岸は「安保改定がきちんと評価されるには50年はかかる」のいう言葉を残している。岸が取った一連の行動については、文芸評論家の福田和也などが「本物の責任感と国家戦略を持った戦後唯一の総理」として高く評価している。


日韓国交回復

岸は首相退陣後も政界に強い影響力を保持し、日韓国交回復にも強く関与した。時の韓国大統領朴正煕もまた満州国軍将校として満州国と関わりを持ったことがあり、岸信介・椎名悦三郎・瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫らとは満州人脈が形成される。
日韓国交回復後、岸・椎名・瀬島らと日韓協力委員会を組織する。また日韓の反共政策を推進する過程で「統一協会」とも1973年(昭和48年)より親交を持ち「国際勝共連合」結成に協力、1984年(昭和59年)に関連団体「世界言論人会議」開催の議長を務めた際、米国で脱税容疑により投獄されていた教祖文鮮明の釈放を求める意見書をレーガン大統領(当時)に連名で送るなど、同教団が政界へ影響力を広げるにあたって重要な役割を果たしたとされる。


中華民国・蒋介石との関係

岸は中華民国の蒋介石総統とは勝共連合の設立(1954年)を通じて親密であり、1957年(昭和32年)首相就任3ヵ月後には台湾を訪問、蒋介石と会談し日華協力委員会を作った。また日本で活動する反蒋介石・台湾独立運動家の強制送還も、胸三寸で決められるほどの影響力を行使した。その蒋介石死後も岸は「蒋介石総統遺徳顕彰会」の中心として日本各地に蒋介石を讃える石碑を建立する活動を行った。古沢襄は、岸の名刺を示すだけで蒋介石や息子の蒋経国に面会できたと語っている。


岸信介の晩年

政財界に幅広い人脈を持ち、愛弟子の福田赳夫と田中角栄による自民党内の主導権争い(角福戦争)が勃発した際も、福田の後見人として存在感を示した。

1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙で長女洋子の娘婿であり後年岸派を福田赳夫から継承する安倍晋太郎が山口1区(当時)で落選。地元山口県での影響力低下が取りざたされる。岸は山口1区選出の自民党議員・周東英雄の後援会長を務めていた藤本万次郎の自宅を現職総理大臣である佐藤栄作と二人で訪れ、安倍後援会会長への就任を要請する。藤本を後援会長として迎えた安倍は1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で復活を果たし、岸の影響力も旧に復した。

1969年(昭和44年)の第32回衆議院議員総選挙では、側近の1人今松治郎の秘書だった森喜朗が自民党の公認得られず無所属新人として旧石川1区で出馬する際、岸の秘書中村長芳に岸の応援を懇願してきた森の要望を快諾し、岸の応援で陣営に勢いがつき初当選を果たした森は生涯恩義を忘れていない。

弟の佐藤政権が憲法改正などの問題に取り組まないことに苛立ち、首相再登板を模索したこともあったとされる。しかしそのために具体的な行動を起こした形跡はなく、後継者たる福田赳夫の首相就任を悲願としていた。1972年(昭和47年)の自民党総裁選挙で福田が田中角栄に完敗したときは、気の毒なほどに落胆していたという。

1979年(昭和54年)10月7日の衆議院解散を機に、地盤を吹田あきらに譲り、政界引退。国際連合から「国連の人口活動の理想を深く理解し、推進のためにたゆまぬ努力をされた」と評価された。

晩年は御殿場の別邸で悠々自適の生活を送る一方、保守論壇の大立者として、「自主憲法制定国民会議」を立ち上げる(1969年、現「新しい憲法をつくる国民会議」)など自主憲法論に関し積極的な発言を続けた。これは女婿安倍晋太郎、外孫安倍晋三など後世に大きな影響を与え、自民党清和政策研究会の基本政策となって現在まで受け継がれている。1976年(昭和51年)10月には“民主主義・自由主義体制を尊重しつつ、政党・派閥を超えて、国家的課題を検討・推進する”政治団体「時代を刷新する会」を設立。

死ぬまで自民党内で影響力は衰えを見せず、事実上の安倍派(福田派)の元老であり、フィクサー、黒幕、昭和の妖怪(この渾名に関しては自身も「私も昭和の妖怪と呼ばれておりまして」と冗談めかしながら発言し笑いを誘うこともあった)とも呼ばれた。また、正力松太郎などとともにアメリカCIAから資金提供を受けていたとされる。


(伊勢爺のつぶやき)

とにかく、たいへんな妖怪である。伊勢が中学時代、わが父は、”岸信介さんは偉い”と言っていた。岸さんは、91まで生きた。アイクさんは、79でこの世を去った。伊勢も、馬齢70歳となり、ようやく、「巨人」の意味がわかった。出典は多くの資料を基にしているが、ウイキぺデイアから抜粋した。


comment

 ジョン著る。・・大茄子亭 金武。・・
2012/02/21 10:19 | 山中 雅和 [ 編集 ]

 ロシア語やフランス語は、活用などが多くて
とてもニュアンスがゆたかです。日本語も文語
や漢文が日常的に用いられ、幼児より素読など
が寺子屋や藩校等へ行く前から続けられていた
江戸時代は人々の共通の素養が高くとても表現
も豊かで今よりもずっと味わい深い言語だった
だろうと想像します。・・
 
 英語も、活用が少ないので、身につけやすい
と簡単に思ってしまうと一生ちゃんとした物が
身に付かない。・・それでも良い人はそれでも
良いのだと思います。・・
 
 判る言語学者には、しゃべってる事や文章を
観て「何人の成りすましだな」って、直ぐ判る
と思います・・あまり無理なことを言われると
何もかけなくなってしまいます。・・すぐれた
点を汲み取るべきでしょう。・・日本語さえも
怪しい納豆教信者・・「納豆は人類の御先祖様
だ」と確信している。・・
 
 ・・・
 
南無・納豆・大権現様。。。「身は縦令・・」
 
 
 
 
2012/02/08 09:27 | 山中 雅和 [ 編集 ]

>kenji様へ一言だけ
日本語の敬称は難しいものがあり、それらは承知しています。
 
2012/02/07 15:09 | kenji [ 編集 ]

kenji様へ一言だけ。

伊勢様が仰るとおり私も敬称はつけるべきと思いますよ。故人であろうとも。
お殿様や公家の方の場合例えば織田信長氏ではなく織田信長公です。
はたで見ていてもあまり良い気分がいたしません。これはマナーと思います。善処される事を。
2012/02/07 12:09 | 一有権者 [ 編集 ]

>ぼくらはあなたの実名すら知らない。米内と呼び捨てにするほど、あなたは偉い人なんですか?天皇陛下から信任を得て、ポツダム宣言を受諾した人ですよ。あなたは、天皇陛下よりも、自分を高いところに置いている。これが、ぼくを不愉快にしている


以前は名称についてはフルネイムで、氏をつけていた。たとえば織田信長氏といいいますか?日本語の生理が働くから、物事が見えなくなります。
 これは日本語論になりますから、別の機会に。
 そのため死者は名前だけにしました。
終戦において彼が果たした役割は十分に承知しています。彼がいなかったら無理だったでしょう。

個人的のことですが対米戦争の可否をとわれたとき
<ジリ貧を恐れてドカ貧にならないように。>と答えたとあります。最初のそれを読んだ時、<何故米内光政は、そのために駆けずり回らなかったんだろう。答えるだけではなく>と思いました。

 我々はあくまで歴史的事実を基にすることです。
米内光政は依然として理解ができない人です。
 彼について記した本ばかりから、推定していますから心もとないですが実際の資料を調べる段階ですがそれは無理です。
 大東亜戦争の終結は紙一重でした。そのことを日本人が自覚していないことが大きな危機の一つです。
 北千島のシュムシュ島の守備隊は政府命令を最初、無視して(ポツダム宣言を無視して)、上陸したソ連軍と戦っています。その判断をした指揮官は米内光政より階級は下ですが、したことは北海道のソ連占領を防ぎました。このての判断をした人はほかに根本博がいます。
 彼等の行動はいかがでしょうか。

米内光政たちは戦争の終結方法を実に簡単に考えていました。彼等は初めから対米戦争が負けることを知っていましたからなおさらその終結状態を開戦時以降考えることではなかったのではないか。

 上記のことは皆、後智恵でしょう。しかし後智恵でも少なくとも考えないよりはましだと思います。

岸信介は満州国の高官でした。では満州国の軍事的な防衛は満州国軍だけでできたか?
違うでしょう。大日本帝国軍隊が必要でした。
 この構造と同じ構造が戦後のわが国において、生じました。ここが岸信介はなにを考えて、どのような具体策を持っていたか。そしてその将来をどのようにするつもりであったか?
 これは満州国において彼が考えたことと同じにあるでしょう。

 では彼はどのように考えていたか?
この点奉天領事をしていた、吉田茂も同じす。
 戦後日本の立ち位置はそこに大きな元があると見ています。
2012/02/07 09:20 | kenji [ 編集 ]

>>米内は調べると不思議な感じがします。

Kenjiさん、

ぼくらはあなたの実名すら知らない。米内と呼び捨てにするほど、あなたは偉い人なんですか?天皇陛下から信任を得て、ポツダム宣言を受諾した人ですよ。あなたは、天皇陛下よりも、自分を高いところに置いている。これが、ぼくを不愉快にしている。伊勢
2012/02/06 23:04 | 伊勢 [ 編集 ]

>>その阿南が<米内をきれ>とはなしたそうである。この言葉の意味をもう一度考えるべきではないか。

これは事実かどうかは不明ですが仮に阿南がいったとするなら彼はなぜそのような判断をしたかを知る必要があるがこれはわからない。噂というならそれはそれでおしまいとなるが、そこまで事実関係を調べることはできない。
 米内は調べると不思議な感じがします。
支那事変が上海へ飛び火したとき、そこへ陸軍を投入せよと主張したのは米内で、陸軍は反対でした。
 このとき邦人をすべて引き上げたならその後の展開は大きく変わったはずです。
 伊勢さんがなぜ
>上の文章を読んで不愉快になった。
となられるかわからない。
 海軍善玉陸軍悪玉論はもう日本人は捨てるべきでしょう。米内が終戦に努力したことは、また彼がいたから収まったという意見には賛成です。

政党についてですが、我が国の政党はイギリスのそれともアメリカのそれとも異なります。
 政党政治の理念からすると結局は現在の支配層と非支配層に別れ、前者は保守党(現状維持派)後者は革新党(改革派)に分かれます。王党と民衆党です。
しかし我が国の政党はそれとも異なる、独特のものがある。一例を挙げれば共産党だがこの政党は我が国にまったく基盤が無い。ナゼナラその元は外国にあるからです。この要素が我が国の政党においてきわめて大きく、岸信介が保守合同をしたとき、それは政党の合同ではなく、べつなもので依然として民主党自由党が残ったままで、しいて言うならこの二党が上記にあげた王党と民衆党で、そのとき他にあった社会党その他は政党とは関係ないものだということです。
 したがって現在の民主党は党でもなんでもなく。別なものですから、何もできるものはない。確かに言葉として党という政党政治の理念からでる、言葉を使っていますが、別物です。
 時系列を追って書くつもりでいたがちょっと無理です。
結論だけ記しておきます。満州国は理想の国家を作る事でしたから、当時としては社会主義的な要素が大きく、それに沿って政策をしたはずで、それは本来大陸においては成立しないものだったはずです。かの地は弱肉強食でおよそ、社会的政策など地肌として受け付けません。
 それを我が国において、実現しようとした政策は弱肉強食の要素が少なくするもので、現在のとんでもない社会福祉政策の大本になったと見ています。
 
2012/02/06 18:14 | kenji [ 編集 ]

>その阿南が<米内をきれ>とはなしたそうである。この言葉の意味をもう一度考えるべきではないか。

今、朝の7時。まもなく、うちのがサンフランンシスコに着陸する。お犬さんらはまだ寝ている。今日も雨模様だ。上の文章を読んで不愉快になった。視点が違うからではない。素直でないものを感じるからだ。Kenjiさんとは、対話は不可能だ。議論好きな性格と思う。ぼくには、議論をしている時間は無い。このアメリカで戦っているからだ。伊勢
2012/02/05 22:15 | 伊勢 [ 編集 ]

岸信介 4

岸信介が巣鴨にいたとき、何を思ったかは興味深いがただ彼は人を見る目をさらに高めただろうとは推測できる。捕虜生活はその人の生地をあらわすからである。非常な困難な時と同じように、緩やかな落ち着いた義務のないときにもそれが現れるからである。
 その彼が巣鴨から出たとき、弟の佐藤栄作の家へ行きそこで二人でタバコをすう写真があるがそれは見ようによってはやれやれという印象を与える。しかし彼はその後活動を再開するが彼と吉田茂の関係はどのようなものだっただろうか。吉田の軍部嫌いは国家の軍隊としての見方がなく、非常に個人的な要素によるとおもわれ、それがその後のわが国の軍事政策に大きな影響をあたえた。彼はその吉田と衝突して自由党を除籍されてその後民主党を作って政治活動を進めた。その後保守合同が起きて自由民主党ができた。
問題はここである。岸信介のその後の政策は満州国で行ったようにされたといわれるが、それは別として問題は戦後できた政党の性質についてである。
 現在のわが国の政治的混乱はこの保守合同にあるとkenjiは見ているから、わが国の政党とは何かを少し考えようと思う。
2012/02/05 18:09 | kenji [ 編集 ]

>僕の父は、米内(よない)光正さんを尊敬していた

これは調べると難しいものがあります、渋る陸軍をたたいて上海に敵前上陸をさせたのも米内です。また重慶爆撃を主張したのは確か米内か井上成美です。
 ガダルカナル飛行場建設を建議したのも確か井上です。
 山本五十六を次の海軍大臣に推薦しておくこともできたはずです。
 また南京攻略以後の和平を強く主張しなかった事も変です。
 何かわからない要素がある人です。終戦時におけるソ連期待の和平も変ですし、スイスの藤原機関でしたかその和平交渉ルート(ダレスを通じたもの)も真剣には検討していない。
あの状態ですから、わかりませんが終戦には寄与しました。紙一重でした。海軍はたたかうにも船が無いからウムをいえなかったが陸軍は異なる。
、陸相・阿南はその立場がよくわかっており、彼が自決したことは終戦に大きく寄与した。それは計り知れないものがある。その阿南が<米内をきれ>とはなしたそうである。この言葉の意味をもう一度考えるべきではないか。
 元も海軍が戦争をしたがっていたから。陸軍のソ連攻撃を抑止するつもりで南部仏印進駐をしたと思われるからである。なぜドイツのモスクワ攻略のときソ連攻撃の決断をしなかったのか不思議である。

 米内はソ連駐在武官をしていたはずである。あるいはポーランドだったか?

 大東亜戦争においてよく戦ったのは陸軍で海軍は差ほどでもないではないか。
 だいたいアウトレンジ戦法など相対的に考えると、無理があることにきずかなかったのか?
 多くの疑問がある。大本はアメリカとの戦争において太平洋全域の海軍作戦はたてられていない、かろうじて山口多聞が考えていたにすぎない。

 だいたい我が国の艦艇は押し寄せる外国の軍艦を日本近海で迎え撃つという前提で作られていた。したがってそれらの艦艇は南太平洋で軍事作戦をするには無理があった。外洋作戦ができない。丁度南氷洋におけるシーシェパードを撃退するには無寄港で南氷洋まで行き作戦を実行できる軍艦が無い。それを作らないと雄0ストらリアかニュウジーランドに寄港せねばならず、ソレヲ拒否されたら防ぐ事ができない。
 これがシーシェパードの基本問題でことは国内問題に過ぎない。
そのことを我が国外務省または政府は国民に言うことである。したがって米内が<我が国の海軍はアメリカとの戦争用には作られていません>と答えている事が正しいがそれを国民に向かっていうことである。しかしおもてではアメリカの戦争ができるように国民に示していた。この態度が大きな問題ではなかったか?
 それならなぜ軍備をという疑問を国民が抱いたら手が無いからである。
今も昔も日本国民が問題はどこにあるかを把握しない事シーシェパードの問題についてみればいいでしょう。
 そのため捕鯨調査船はカミカゼ攻撃のような事をさせられている。ひどい国民である。
まあいろいろあるでしょう。
 
2012/02/05 17:30 | kenji [ 編集 ]

>>I am now in Tokyo waiting for flight, the crew usually comments how civil Japan is after Korea and Thailand.

うちのが今、成田で、サンフランシスコ行きを待っている。日本の抱える暗闇の深さはアメリカ人には解らない。それで、いいのかも知れない。伊勢
2012/02/05 16:24 | 伊勢 [ 編集 ]

多史済々先生

僕の父は、米内(よない)光正さんを尊敬していた。“昭和天皇は、陸相・阿南の本土決戦を制して、ポツダム宣言を承諾した米内さんを支持した”と言っていた。このわが父のことばから、推測できるのは、日本海軍には、三国同盟・日米開戦反対のコンセンサスがあったということです。米内さんは、東京裁判の被告リストにも乗らなかった。GHQが米内さんの履歴を詳細に知り尽くしていたからだと。キーナン主席検事は、”米内ほど終戦に貢献したひとはいない”と、日本を発つとき、晩餐会に招待している。米内さんは、健康を理由に辞退している。まもなく、肺炎で亡くなった。68歳だった。海外にまで知られた日本の偉人ですね。伊勢
2012/02/05 14:27 | 伊勢 [ 編集 ]

ワイオミングのmissileerさんからです。伊勢

>>日本赤十字に勤めてる友人が最近特に「日本人男性の献血」が少ない理由は「針が痛い」からだそうです。いい時代になりましたね?

クイズ(by日赤の友人)

1)総理大臣-猪八戒
2)副総理-フランケンシュタイン腐乱死体
3)幹事長-ミイラ

この三妖怪が棲んでるのは何処の国の何てパーティですか?
2012/02/05 13:19 | 伊勢 [ 編集 ]

 kenjiさま

 最後(?)の内務大臣安部源基(特高のトップでもあった)をご存知でしょうか?終戦に導くため例の御前会議を建議し、その御前会議にも参列した人物です。多分、岸信介より二歳上だと記憶します。私は岸信介や安部源基のような人物を尊敬しますが、戦後の日本では国民に人気がなかったのでしょうね。だいたい、特高などというと悪の権化のような印象ですが、実際はどうだったのでしょう。
2012/02/05 13:12 | 多史済々 [ 編集 ]

みなさん

姉が“父はよく床屋に行った”と話すので、朝から床屋へ出かけた。その後、5ヶ月ぶりにプールへ。一往復(50M)すらも出来なかった。深い部分で溺れると思ったので、歩いて浅いほうへ戻った。子供たち用の浅いプールで運動するのがいいと思った。ジムには、ジャクジ風呂がある。湯の中で屈伸運動して、シャワーでアタマ洗った。外に出ると、土砂降りの雨が降っていた。お犬さんらのために、ジープの窓を大きめに開けていたから運転台もびしょ濡れ(笑い)。それでも、深い昼寝が出来た。父の床屋好き話しで良い一日となった。わが父に感謝。明日夜、うちのが帰ってくる。伊勢
2012/02/05 12:40 | 伊勢 [ 編集 ]

岸信介 3

 岸信介は当時のわが国において最も頭がいい人々の一員で、当時最俊英は陸軍海軍政府高官、実業界を目指した。ただ陸海軍は極端なはなし、当時の貧乏家庭の優れた人々がお金が必要ないことを頼りにめざした。
 ただ海軍陸軍の学校における試験は完全公平ではなく縁故があった。これは以前読んだ本にあった。海軍陸軍の将官の師弟は入れるというやつである。
それが陸海軍を堕落させたとも確かかいてあった。どうも海軍のほうがひどかったようである。

 岸信介は違う。いったいわが国のいわゆる頭がいい人々は自国の歴史についてどのように思っているだろうか。
 その象徴として当時天皇を現人神といったが(これは昭和17年以降)その見方について、どのような考えを持っていただろうか?
 これはひとつの理想に対してどのような態度で接するかに密接に関係する構造を持っている。
 それより見ると岸信介は満州国の理想に対してどのようにたいしたのだろうか?
 今でも覚えているが新幹線が開通したときか試験運転のときか覚えはないがテレビである人を写した。そのとき、彼が窓から外を眺める表情がなんともいえないものがあった。前国鉄総裁十河信二(?)であった。妙に記憶にのこっており、ずいぶん時間がたってから彼が満鉄にかかわっており、いわゆるアジア号の開発に力を注いだ人だと知ったとき、その表情を思い浮かべた。彼は満州でアジア号を走らせるのではなく、国内で走らせるべきであったと考えただろうか?それともその夢が満州では実現しなかったが国内で実現したと思っただろうか?
 なぜ当時国内でアジア号を開発して走らせることができなかったか?
そのわけは何か?
 これは岸信介にも言える。かれはいったい何を理想として何を実現しようとしたのか?
 このことは北一輝にもいえる。彼は当時のわが国において何を実現しようとしたのか。彼の著作に書かれていることを本当に実現するつもりだっただろうか?
 これは大いに疑問がある。
さて岸信介は満州国の高官である。満州国は独立国であると当時の日本は主張したがそれなら岸信介は満州国国民で国籍は満州国だったのか?
少なくともそのような意識をもっただろうか?満州国は外国人を政府高官にしてつかうか。これは非常に支那的であるが、いったいどのようなものだっただろうか?
 満州国はソ連が宣戦布告したとき、宣戦布告してそして敗れただろうか?
ここがおおきなかつ肝心なところである。
 いったい当時の満州国は独立国か?これは国内における主張を検討すると奇妙なものがでてくる。
 それはアフガニスタンのカイザル政権が独立した政権としてみるか、傀儡と見るかで、独立というなら満州国も独立といいうる。傀儡というなら満州国も傀儡といいうる。したがってアメリカの主張に対してアフガニスタンの政権を持ち出してわが国は満州国を擁護できるがそのような思考は国内にはない。なぜであろうか?
 ここが当時の満州国に対する表向きの主張と実際にしていることがまったく異なり、それが世界中にわかっていたにもかかわらず、それを無視した結果である。
 これはアメリカの中東に対する主張と行動を比べると雲泥の差である。やはり外国を支配した歴史をもった人々との違いでしょう。
 岸信介が満州国で育てたことは戦後彼の政策にどのような影響を与えたか?

 話は変わりますが戦後A級戦犯で処刑された人々はみな中華民国とかかわった人々で、裏交渉をしていた人々が多い。
土居原、板垣、東条、松井、広田 武藤、木村はみな当時の中華民国との交渉をした人々である、しかも情報機関の人もいる。
 彼らが生きて、なまなましい交渉を暴露したら中華民国の立場はない。
海軍においてそれを出せば戦後の太平洋におけるアメリカの海軍戦略に大きな影響が出るから、それはしない。つまりしけにしたのはそれぞれの国の思惑が阿多からに過ぎない。
さりげなく父親(第二乙)が<A級戦犯は支那人がころしたかったからだ>といった。今それを言うと、<そんあこといったかなあ>で、真顔で言う。
月日は過ぎていく。

2012/02/05 10:07 | kenji [ 編集 ]

皆様おはようございます。

「科学の進歩はアメリカから来る」ではなく中国の場合殆どが盗むではないでしょうか。先進各国のみならず色々な国の政治機関や企業の情報をサイバー攻撃によって侵入を試みているもののかなりの数が中国のサイトが関与していると。
満州は清国時代は漢民族の流入を防いでいたと聞いております。中国の王朝になった清朝でさえ何らかの危機感を持っていたのかと思います。思えば中国と一口にいっても満州人(女真族)漢人、モンゴル人西方のウイグル人、チベット人他あまたの少数民族がいる中国ではありますがこれら諸民族を平等に扱い生活すると言うのは難しい事ではあるでしょう。
それでも大戦後も中華人民共和国は侵略を行いチベットや東トルキスタン、内蒙古を自国の領土として弾圧や搾取を行っている。次のターゲットを今も虎視眈々と狙っているでしょう。次は南シナ海か尖閣沖縄か。?
日本政府、省庁は情報をつかんでいても自衛力の増強や対抗措置も行わずたぶん日本国民に知らせる事も無いのでしょうね。
2012/02/05 08:34 | 一有権者 [ 編集 ]

山中 雅和先生、Kenji先生

日本史も、米国史も、世界のどの歴史書も怪しいものです。高校時代、“歴史は小説の類(たぐい)”と言ったら、日本史の先生に、どえらく叱られた。先生言うには、“疑わしいなら研究せよ”と。そのとおりだけど、他にも、フランス文学、英書、自動車のエンジン(自動車部にいた)などに興味があったから、日本史は鬱陶しかった(笑い)。今でも、歴史を語るのは、エンターテイメントの一種だと位置付けている。まったく、疑っているわけでもない。ただ、自分の足で歩いた土地~自分の目で見た風景~実際に会った人々、、それ以外を書いたことはない。記事に写真添付する人もいるけど、それも偽物が混じっている。とくに中国韓国の歴史観は大嘘が多い。中国人には、頭脳の良い人がいる。ただ、確信がない。だから、迷って、長い期間低迷する。現在の中国でも、実際に進歩は見られない。“科学の進歩はアメリカから来る”といっても過言じゃない。シナ大陸とアメリカ大陸の違いは大きい。シナ国は固定観念が進歩を妨げている。アメリカ人というのは、常に、フロンテイアを模索する。次回のエントリーは、「アメリカ人の使命感」を書いてみたい。伊勢

うちのが、さっき、真夜中のバンコックに着陸。“汚れて、不潔で、整頓されていない”とメール。タイにある米空軍基地からUターンして、成田へ飛ぶんだと。“成田空港で何か、美味いもの買ってきて”と頼んだが、、伊勢
2012/02/05 03:26 | 伊勢 [ 編集 ]

 満州国の運営は、相当巧く行っていた。・・
 
 1.高橋是清蔵相暗殺せず米国とも通貨交換。
 2.リットン調査団報告を甘受し、国連存置。
 3.太平洋開戦しないで、降伏した独伊条約
 破棄後日米&日英条約締結。これら条件が
 揃えば満州国は、存続していたでしょう。
 
 新渡戸稲造国連事務次長のような人も居ま
 した。何故、軍部は米国と戦争を選んだの
 でしょうね。何故、松岡洋祐外相は勝手に
 国連の席を蹴って脱退する事が出来たので
 しょうね。・・それはね、明治憲法よりも
 他の何かに遵ったからです。内乱・外患。
 
 普通の日本国民は、内心、そんな事をして
 欲しくは、なかったと思います。米国人も
 多くは日米開戦は望んでいなかった。・・
 御蔭で米国は、欧州戦線に上陸出来たとも
 言えなくはないのですが。・・
 
 法益不権衡の蔑憲パラダイム路線・・
 現代もそれです。堕胎中絶・住専処理。
 
 芦田条項?・・9条2項。・・世界の人が
 理解出来ない。多分。美濃部達吉博士の
 明治憲法を尊重すべきだった=正解。
 
 
2012/02/05 01:11 | 山中 雅和 [ 編集 ]

岸信介 2
アイゼンハワーという映画がある。ストリーはノルマンジー上陸作戦のときの彼の行動を示したものだが、彼がその作戦において空てい部隊を敵陣地後方に送り込むわけだがその犠牲率が70パーセントを越すため苦悩する。そして、GOのサインを出す前に、その部隊を訪問する。
そして、作戦が実行される。犠牲率は30パーセントに収まり、彼の判断に敬意を表するというものだった。
 この映画は作戦前に犠牲率を計算していることだが、我が国の軍事作戦において、する前にその計算を示したものがどうにも見つからない。
 これが誠に奇妙で、もちろん味方の犠牲率も相手への損害率の事前の計算がまったく無い。
 コレハななぜであろうか。
満州国の建設によってその影響がどのように及ぶか、いいめんと悪い面の測定がない気がする。
 少なくともわかる範囲内におぴてそれをする必要があるがあるがない。
 満州国を回顧して書いた本に
<満州国健康記念祭の日にいつも使う支那人が来て(だんな満州国建国おめでとうございます、あっしが見たところ満州国の寿命は15年ですぜ>話した。、<なぜ満州国は崩壊したのか?アノ支那人は15年となぜ判断したのか?彼は何を基にして判断したんだろう。われわれは満州国の前途は計り知れないと見ていたそのときに別の見方をして、それが正しかった。なぜであろうか?>
と書いた本があります。岸信介はどのように見ていたかなと思う。

 ある町にいきったとき、支那人が中華料理屋をしており、従業員全員が支那人だった。
<どこから来たのか><???だ><満州国の奉天だろう><そうだ><満州国は本当によかったね>というと<えっ>という表情をして笑った。
<お前らが積極的に協力しないからだ>とその一面をいいたかったがやめた。
2012/02/05 00:11 | kenji [ 編集 ]

 故・岸信介首相や故・福田赳夫首相が清廉で
極めて明晰な頭脳の持ち主だった事は羨ましい。
こういう人は、科挙の勉強を幼児から始めた人
或いは胎教時代からの”氏育ち”が違う人に見
られるような気がします。氏育ちというと差別
用語のような感じを受ける人も、いるようだが
要するに、思考の回路等の枠組み形成や予習が
先祖代々、巧くいっている人だと思うのです。
 
 軍師竹中半兵衛もそんな人でした。うつけ者
と、頼り無げに見られていましたが、父の留守
中に襲われた城を13歳で家臣達を率いて敵軍を
撃退し、守り切りました。・・
 
 また、難攻不落と言われた稲葉山城を僅かの
手勢で奪取してしまいました。信長に美濃半国
と交換にと所望されたが断り後、斉藤家に返す。
 
 明智光秀も元斉藤家の家臣でした。半兵衛と
は、13歳の頃から因縁遺恨?・・信長に直接は
与力しなかった。その頃光秀は信長の出世頭で
した。これにはお市や信康の処遇も関係あった
かも知れません。・・半兵衛は、姫路で陣没と
されていますが、私は秀吉の陣を出奔本能寺に
(信長)を討ち(光秀)に濡れ衣を着せ姿を消した
と考えています。・・後、天海として、関東で
家康に遭遇?関が原で家康軍幕中の軍師として
参陣したのではないか?(信康は~石田光成~
以心崇伝)・・
 
 黒田官兵衛の子松寿丸を殺せと秀吉に命じた
(信長)に逆らってこの時も密かに匿っています。
 
 歴史で伝えられている事は勝者が口裏を合わ
せば、どうとでも歪曲出来る。光秀が信長を討
つとは考え難い。・・光秀は実は信長の影武者
で、信長は既に没していたので、本能寺の主。
 
 明智軍を率いていたのは、明智佐馬の助だっ
たのではないか?・・佐馬の助が中国取り放題
を命じられた。・・尼崎辺りから本能寺の変を
聞いて京都へ戻る途中で秀吉の大群に追撃され
木っ端微塵。・・こういう話をすると、古文や
歴史の先生に酷く怒られるので試験で書かない
ようにしていました。・・ここだけの話です。
 
 ・・・
 
 岸信介や福田赳夫を私は、ほぼ非の打ち所の
無い指導者と認めますが人口問題に関する業績
は全く評価しません。こういう人達日本を対米
開戦と敗戦に導いたのだと私は考えています。

 
40億年降ったり已んだり、照ったり曇ったり。
 
 
2012/02/04 21:30 | 山中 雅和 [ 編集 ]

みなさん

満州国は、「遠く過ぎ去った昔」じゃないです。書物による満州はともかくとして、ぼくの父と岸信介さんは同い年。お二人とも、満州に命を張った。1929年、わが父は、神戸港から船に乗り、トランクひとつで大連へ渡った。やがて、母も長女(亡くなった)を抱いて大連へ渡った。二番目の姉、兄、ぼく、弟(亡くなった)の4人が新京市(長春)の慈光路のわが家で生まれた。わが父は、関東軍司令部、飛行場、道路舗装、耐寒煉瓦ビル建設で成功した。石原莞爾、板垣征四郎と交際があった。“甘粕はだめだ”と言っていた。岸信介さんに会ったとは聞いていない。

1960年の安保闘争の前の年にわが父は、63歳でこの世を去った。僕は東京品川の高校二年生だった。同じ波乱万丈の生き様を通した岸信介さんは、91歳まで生きられた。

2002年、うちの青い目の妻を連れて大連から北京へ行った。2005年には、反日デモの荒れる中、瀋陽~長春~ハルビンへ汽車で行った。旧満州には、親日中国人が多い。婦人警官も、旅行社も、給仕も、タクシーの運ちゃんたちも親切だった。特に、旧大和(やまと)ホテルのクラークたちは懇切丁寧だった。読売新聞の退職された記者さんの団体とロビーで記念写真を撮った。“なんか、親日的じゃない?”と言うと、“以前から満州は親日的なんですよ”という答えだった。

CIAの日本関与の動機は、“日本を防共の砦にする”ということだった。アジア太平洋に浮かぶ「万里の長城」と思えば解りやすい。日本の右翼史を紐解けば、旧福岡藩士たちが玄洋社を起こして「大アジア主義」を唱えたことが大きい。日本の右翼は、玄洋社の指導者であった頭山満~内田良平の反欧米主義に始まっている。敗戦後、CIAから資金を得た児玉誉士夫~笹川良一~岸信介らが、反共親米路線を敷く。伊勢は、この時代の様変わりには驚かない。第二次大戦後のアメリカの経済~科学~技術革命には目を見張らないわけにはいかなかったからだ。灰の中で立ち上がらなければならなかった日本。勝戦国といっても、中国は貧困の中に呻いていた。CIAは日本に価値を見た。アジアの民主化の旗手を日本に見た。今、南アフリカがアフリカ大陸の旗手であるように。ソ連は崩壊して自由選挙の国となった。中共も自由経済に変わった。そこへ、インターネットがコミュニケーションのメインとなってきた。「中東の春」も大きな時代の変化だ。アメリカの描く、世界民主化は現実のものとなってきたのだ。しかし、民主主義国家も、経済の裏打ちなくしては、民衆にとって地獄には変わりない。問題は資源の獲得紛争なのだ。その資源紛争の発端が、日本の領土領海を自分のものだと言い出して、石垣島あたりに軍艦を出している中国なのだ。東シナ海の海底ガスをどんどん盗んでいる。こんな泥棒国家の留学生にカネをばら撒く?一時やめたらどうか?

ここまで、書けば、もうお分かりでしょう。これからも、在京米国大使館内にある「アメリカ情報局」の存在なくして、日本国は危ういことがです。伊勢
2012/02/04 16:58 | 伊勢 [ 編集 ]

岸信介 1

うろ覚えで恐縮だが岸信介は確かやんちゃ坊主で小学生のとき近くの貧乏な家庭の子供がバンドをはめてきた事を生意気と見て、それを取り上げたてすてた。その生徒が再びはめてきたら、同じように取り上げた、やがてバンドなくなると、今度は縄をバンド代わりにしてきた。それも取り上げた。やがて背の生徒はこなくなった。彼はそれを終生の悔恨として、心の傷となったようである。
 岸といえば満州国、満州国といえば岸か甘粕である。満州国建国に参加した人が、<早くから彼は将来首相になる器だと見られていた。掌を指すようにあらゆることを知っていた。裏町の売春婦の値段も知っていた>と書いた人がいる。
 では当時なぜ多くの人が満州に理想の国を作ろうとしたか?作るならなぜいますんでいる日本に作ろうとしなかった?
 これが今を生きるkenjiの素朴な疑問である。

これは緒方貞子女史がわが国国民に向かっていろいろ能書きを言うが、世界におい彼女がしようとしていることを、国内でせよがkenjiが彼女にいたいことである。これは満州国建国の理想の残滓が彼女に取り付いているに過ぎない。
 結論から書くと上記のような意見が出てくる。

当時満州に理想の国を作ろうとして満州へ渡った当時の志がある人々はいくらでもいた。そして多くは技師として、そしてその技術を教える学校の教師となって続々と満州へ行った。
 現在の山西省の<ふふほと>には確か満州人及び蒙古人のための師範学校があったはずである。

 この疑問<つまりなぜ満州に理想の国を作ろうとせずに自分が住んでいる日本にその国を作ろうとしなかったのか>この疑問への回答を当てることが戦前のある一面に対する理解が進む。

 背景は明治維新が一つの理想(思想)基にしたものだがそれは政治思想である。では満州国の政治思想の理想は何か?
とってつけたような<五族協和>である。調べると何もないことがわかるから、それが不思議で、ただあるのは産業を興して経済を発展させることだけである。なぜであろうか?

 もう一度書くが、<満州国建国に参加した人々は満州に理想の国をというがその理想の国の政治的思想的基盤は何であったか?
 またその理想の国をなぜ満州に作ろうとせずに生まれた、目の前にある日本に作ろうとしなかったか、日本ではなく満州に作るということは間違いではないかとなぜ当時思わなかったか?>
 上記の疑問の回答をkenjiはえたい。

ここが岸信介の内政、外交の大きな特徴である。

それともうひとつ北一輝との付き合いである。つまり北一輝とは何者か?
岸信介が上杉慎吉博士の弟子とは始めた知りました。うかつですね。
上杉博士の天皇観と北一輝のそれは相容れない。まったく。
 岸信介の天皇観はいかなるものであったか、知りたい。さほど深く考えていなかった。普通のものだと推測していた。
 北一輝が昭和前期において与えた影響は計り知れないものがあると思うがそれを詳しく調べたものはないようである。kenjiもそれを知りたいと思ってさがしたがない。kenjiにはそれを調べる力はない。
 岸信介が上杉博士と北一輝との付き合いが会ったとは、驚きです。
2012/02/04 11:55 | kenji [ 編集 ]

イスラエル、今春にイラン核施設攻撃か…米紙

中東
 
米紙ワシントン・ポスト(電子版)は2日、パネッタ米国防長官が、イスラエルが今春、イランの核施設を攻撃する可能性が高いと分析していると報じた。

 記事は、同紙の著名コラムニスト、デビッド・イグナチウス氏が執筆した。同氏は、イラン核開発に対するイスラエルの認識について〈1〉イランが近く、地下深くの施設に爆弾製造に十分な濃縮ウランを貯蔵し終わると予測している〈2〉貯蔵完了後は、単独攻撃による兵器開発阻止は難しいと危惧している――との見方を示した。パネッタ長官は「そうなる前の4月か5月、6月」に、イスラエルが攻撃を行う可能性が高いと見ている、とした。

 長官は同日、訪問先のブリュッセルで、「コメントしない」と記者団に語り、報道を否定しなかった。また、イスラエルのバラク国防相が2日、イラン攻撃に言及したことについて、米国は「懸念を伝えた」と述べ、自制を求めたことを明らかにした。

(2012年2月3日11時16分 読売新聞)
2012/02/03 12:35 | 伊勢 [ 編集 ]









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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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