2012/07/05 (Thu) 窃盗団・サムスン電子(その2)
韓国最大の企業

サムスン電子は、2010年の売上高が260兆ウォン(約18兆4500億円)で韓国のGDPの22%~株式時価総額は162兆ウォン(2011年12月現在)で韓国株式市場時価総額の25%~韓国の輸出額の24%を占め、関係企業の資産を含めると430兆ウォン(約30兆5200億円)となり韓国の国富の3分の1に迫る、韓国最大の企業である。フォーチュン500社・グローバル世界企業番付ではランキング33位(2010年)。

社員19万人を擁し、世界各地に65の生産法人、および130の販売法人を展開し、総合電子部品メーカーのサムスン電機、デジタルカメラや製造装置や軍事機器などを生産するサムスンテックウィン、薄型テレビ用パネルや二次電池などを生産するサムスンSDIなど数多くの関連企業を傘下に持つ。特に大きなシェアを持つ製品は、薄型テレビや液晶ディスプレイ、有機EL、携帯電話、リチウム電池、半導体(DRAM、フラッシュメモリ)、デジカメ、ビデオカメラ、プリンター、SSD、白物家電、ホームシアターなどである。(ウイキぺディアより抜粋した)


今日のエントリーは、韓国最大の企業サムスンの創業から今日までを選んだ。「日韓段階的断交」をメッセージとする隼機関だが、出稼ぎ売春婦や~韓国人の犬に対する残虐行為だけでなく、韓国企業を知ることも日韓関係を理解するために必要と思ったからである。軍事~経済~忌まわしい文化、、深い考察が必要のようだ。伊勢平次郎 ルイジアナ






歴史

samsun dram 256M

サムスンのDRAM(Samsung 256M DDR SDRAM)


Samsun TimeWarnerCenter

ニューヨークのマンハッタン。タイムワーナー社の中にあるサムスンの展示館。


1)創業から1980年頃まで

食品と衣服からスタートする

1938年の日本統治時代の朝鮮で設立されたサムスン電子の親会社であるサムスングループは、食品と衣服が主力事業であった。

1969年1月にサムスン電子工業株式会社が設立され、12月には三星三洋電機が設立、 電子産業に進出した。これは、当時急速に拡大していた韓国国内の需要市場をターゲットにした決定であった。1970年1月には三星NECが設立され、白物家電やAV機器の生産が行われた。1977年には韓国半導体を買収して半導体事業に参入し、1980年3月に韓国電子通信を買収した。1980年頃からは海外に次々と現地販売法人が設立され、ポルトガルやアメリカには工場が設立された。


2)1980年頃から2000年代まで


半導体事業での成功

1983年2月に、創業者の 李秉 (イ・ビョンチョル)が「資源がほとんどない韓国の自然条件に適合して、付加価値が高く高度な技術を要する製品を開発することが第2の跳躍を図る唯一の​​道だ」と表明し、DRAM事業に進出。半導体で先行する日本を目標とする「東京宣言」を発表し、サムスン電子の東京支店が同年に開設され、日本から韓国へ半導体製造装置の輸入を開始した。翌1984年にはマイクロンより設計技術移転の支援を受け、6ヶ月の開発期間を経てマイクロンと東芝に続く世界で3番目の64kのDRAMを開発。同年、光州電子を合併して、サムスン電子工業からサムスン電子に会社名が変更された。

ほどなく256K DRAMの開発にも成功する。一方日本の東芝(東芝のDRAM部門は後にマイクロンに買収)は、1984年に舛岡富士雄が世界初のNOR型フラッシュメモリを開発、1985年に世界初の1M DRAMを開発、1987年に世界初のNAND型フラッシュメモリを開発するなど盛んに次世代メモリの開発を行なっていたが、東芝やマイクロンなどのトップ企業が次世代メモリに移行することで旧世代メモリの品薄現象が生じたため、あえて256K DRAMに注力したサムスンは1988年だけで3200億ウォンの莫大な純利益を出し、一気に会社の規模を拡大した。この経営判断を行ったのが李秉の三男であるサムスングループ副会長の李健熙で、李秉が1987年に死去した後は李健煕がサムスングループの第2代会長に就任する。1992年には世界初の64M DRAMの開発に成功、1993年にはDRAM市場で13.5%のシェアを確保し、12.8%に留まった日本の東芝を抜いてついにシェア世界1位となった。以来トップを維持している。なおNAND型フラッシュメモリでも2002年に世界1位となっている。

1988年に携帯電話を開発、1992年には10.4インチのTFT液晶モニタを開発するなど、2000年代以降の主力商品となる基礎もこの頃に開発された。しかし当時のサムスン製品は粗悪品が多く、半導体以外の事業ではグローバル市場で成功していなかったため、新たに会長となった李健煕は1988年、量より質を重視し、変化と改革を求める新しい経営理念「第2創業」を宣言。1993年には「新経営」宣言を出している。


日本からの技術コピー

1986年、東芝半導体事業本部長の川西剛(後の代表取締役副社長)は、東芝の国際担当専務の仲介でサムスン電子からの訪韓の誘いを受け、李秉会長や幹部総出のVIP歓迎を受けた。同業他社の歓待を受けるということの意味を理解していたか否かは定かではないが、川西はサムスンの建設途中の半導体工場を見せられた見返りに、最新鋭の東芝の大分工場を見せなければいけない結果となった。 1986年、その前年に当時世界最大容量の1M(メガバイト)DRAMを開発していた東芝の半導体部長がサムスンを訪問し、その後サムスン側が東芝の当時最新鋭の工場であった大分工場を訪問した。 すると同1986年にサムスン電子も1MDRAMの開発に成功し、その後、東芝の大分工場の生産ラインを統括する製造部長がサムスンにスカウトされ、大分工場と同じ設備を持つ製造工場がサムスンに建設されることになった。また、サムスンは1987年5月にアメリカと日本に研究所を設立し、1988年に半導体事業の売上高が905百万ドルに達し半導体メーカー売上高ランキングでは18位に躍り出た。


日本の技術者をヘッドハンティングする

1988年には半導体企業トップ10社のうち6社が日本企業だったが、1991年のバブル崩壊の直撃を受けて日本の半導体企業は資金繰りが悪化、メモリー事業撤退や工場閉鎖など大掛かりなリストラが行われた。ここで韓国政府のバックアップもあり、サムスン電子はリストラされた日本の半導体企業の技術者たちを技術顧問として高給でヘッドハンティングすることで最新技術を獲得していった[6]。バブル崩壊後、サムスン電子には東芝のほかにも、松下電器(現パナソニック)、三洋電機、シャープ、NECなどの77人の日本人が技術顧問で在籍しており、サムスン電子の外国人技術者の殆どは日本人だった。

こうした中、東芝は1992年にサムスン電子との間でフラッシュメモリの共同開発と技術仕様・製品情報の供与契約を締結した[6]。翌1993年に、サムスン電子は韓国初の6Mフラッシュメモリを開発、1995年には、バブル崩壊の余波で資金難に陥った東芝はやむなくサムスン電子と64Mフラッシュメモリ技術の共同開発で提携をした。

日本から技術者を獲得をすることによって驚異的な早さでサムスン電子のDRAM技術が発展し、1991年に半導体メーカー売上高ランキングでサムスン電子は売上高が1473百万ドルで12位だったが、1995年には売上高が8329百万ドルで6位と急上昇をした。

このようにしてサムスン電子は、半導体売上高ランキングで米国のインテルに次ぐ2位の地位を2002年から2011年まで維持するようになっている。


3)2000年代から現在まで

1990年代までの韓国国内におけるサムスン電子の位置づけは、主要企業の中の一社に過ぎなったが、上述の半導体事業での躍進などもあって2000年代以降は韓国国内の事業規模や韓国経済に与える影響面などは圧倒的な物を持つようになり、また、世界の電機メーカーの中でも有数の大企業に成長した。

特に1997年のアジア通貨危機は、国家経済の危機とは裏腹にサムスン電子を強力な企業に成長させるきっかけとなった。通貨危機で韓国の大企業30社のうち16社が破綻し、サムスン電子も韓国政府から公的資金が注入される事態となり、倒産寸前にまで追い込まれた。だが、破綻を避けるために広範な構造改革の断行や効率的な経営計画の実行などにより、サムスン電子は半官半民の韓国の将来をかけた企業として、グローバル企業への成長を加速させた。インターネット・バブル崩壊後の2000~2003年にもサムスン電子は純益伸び率5%を記録した。

また、サムスン電子は、90年代から半導体で得た莫大な利益を、2000年代前半当時としては次世代産業であったLCD事業や携帯電話事業に大規模に投資を行い、様々な製品の世界市場でシェアを伸ばした。またマーケティング活動とコマーシャル活動を大規模に行っている。例としては、1996年には「TOPスポンサー計画」を通じてオリンピックの公式パートナーになり、1998年には長野冬季五輪の公式スポンサーとなり、2000年代以降は継続してオリンピックのスポンサーを務めている。

2009年に、サムスン電子は売上高基準でドイツのシーメンスと米国のヒューレット・パッカードを超え、世界最大のIT・家電メーカーとなった。2009年のサムスンのシェアは、薄型テレビと半導体メモリで世界第1位~携帯電話が世界第2位~白物家電でも上位を占めている。また、同年には、2020年の目標として売上高4,000億ドル達成を目指すビジョン2020を掲げた。これを実現するために、既存のセット・部品中心の情報、通信、AV事業(Infotainment)に、ソフトウェアとソリューションを中心とした医療/バイオ、環境/エネルギー、利便性/癒しなど暮らしの質を向上させるライフケア(Lifecare)を新たな事業領域に盛り込み、「21世紀型のビジネス構造」への変身を図っている。


ソニーとサムスンの合弁解消

ソニーとサムスン電子は、合弁で液晶パネルを製造するS-LCDを韓国の忠清南道に設立していたが、2011年、ソニー側が、合弁会社の株式を全てをサムスンに売却する形で合弁を解消した。


サムスンとアップルの訴訟合戦

2011年現在、サムスンとアップルの訴訟合戦が起こっており、サムスン電子の製品がアップルのiPadやiPhoneのデザインや特許権を侵害したとしてサムスン電子を提訴している。しかし逆にサムスン電子側も、アップル製品がサムスン電子の特許を侵害しているとして提訴をしている。双方とも勝訴・敗訴判決をそれぞれ一回以上受けており、この訴訟合戦は泥沼化している[17]が、一方ではサムスンがアップルにCPUやパネルを供給するなど強固な協力関係にあり、2012年発売のiPadにもサムスン製パネルが継続して採用されている。


ルーシー・コは、KCIA工作員なのか?

lucy koh judge

“ルーシー・コ判事は韓国系米国人”と「ぼん」さんから、ご指摘があった。亭主がスタンフォード大の教授だとウイキぺディア。夫も韓国系だろうか?韓国政府とのリンクが臭う。ちょうど、マイク・ホンダの慰安婦決議に韓国外務省(キム・ドンソク)が関与していたようにである。あのケースも、ホンダとの接触役は「徐玉子」というキリスト教伝播カレッジの教授であった。伊勢爺さんはこの女と電話で話したことがあるよ。“徐玉子さんですか?”と聞くと、いきなり、“私、教授よ、教授”と言った。つまり、“プロフェッサー徐”といって欲しかったのである。傍受していたウチのが笑った。伊勢

                              ~続く~

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2012/07/07 18:36 | [ 編集 ]

Venom先生

日本の外交で最も難しいのが日韓関係かな?韓国人のエリートは戦前戦中なら日本の大学や陸軍仕官学校などで学んだ。なかなか優秀ですね。彼らが、戦後、韓国企業のリーダーや大統領となった。日本も同じですね。その秘密は頭脳ではなくて、人脈と金脈でしょう。人脈は旧財閥~カネはアメリカの戦後復興資金だったマーシャルプラン。それ、現在は、OECDとなっているね。

日韓断交国民運動だけど、誰が声を出す?不快は不快と伝えなければ、日韓関係は改善しない。さらに、伝えても、改善されない場合を考えなければいけない。

“竹島などあげたら?”と大前健一。バカヤローというしかない。“慰安婦もついでに謝って、カネ渡したら?”という国会議員までいるね。

最近、古森さんとザカリアの慰安婦番組を再び見て、“ホストのザカリアは詰問調だな”と思った。これ、さかさまにザカリアのバイアスを指摘するべきなんだけどね。"You are accusatory, I am not comfortable. I thought we are discussing the matter. I am not here for argument"とね。つまり、ホストが慰安婦決議を支持している。個人的な道徳観まで前に出している。BBCの女性司会者も同じだったね。古森さんにはジャーナリストの限界があるんだから、“自分には日本を代表する資格はない”と断っておくべきだったねえ。伊勢
2012/07/05 10:28 | 伊勢 [ 編集 ]

イ・ビョンチョルは、早稲田の出身ですね。戦前は日本に朝鮮米を売って財をなした。
韓国の教科書には「日帝による米の収奪で韓国人は飢えに直面した」とあるが、それが事実なら、イ・ビョンチョルは親日派の裏切り者であり、サムソンは民族反逆企業です。

戦後はアメリカから李承晩政権が受け取った援助物資(小麦粉・綿花・砂糖、これらを称して「三白」という)の払い下げを一手に引き受け、大儲けした。
それにはイ・ビョンチョルが李承晩政権への贈賄工作に長けていたのが大きい。
第一製糖(CJ)・第一毛織などは今でもサムソングループの中核企業です。
これまた、韓国民の生き血をすする行為ですが、韓国人はそれを知らない。
2012/07/05 08:27 | Venom [ 編集 ]









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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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