2012/07/19 (Thu) 病める沖縄(その1)
沖縄地上戦が反米・反日本政府の源泉



これを見て反米にならない日本人はいないだろう。赤ん坊を抱いて崖から飛び降りる女性の動画をニューオーリンズの「第二次世界大戦・太平洋戦争記念館」で見たとき。甥のデービッドが、“I like to apologize”と言った。“サンキュー、デービッド、今、新たな試練が迫っている~日本とアメリカは一緒に戦わなければならない”と言うと、前米陸軍情報(対ソ)将校だった甥は頷いた。伊勢平次郎 ルイジアナ






沖縄戦:「鉄の暴風」死者20万人 徹底抗戦で「捨て石」に (毎日新聞)

1945年6月23日 組織的戦闘は終わる

 45年4月1日、本島中部西海岸に上陸した米軍は、当時の沖縄県民45万人(推定)を上回る総兵力54万8000人(後方部隊を含む)。これに対し、守備軍は約12万人に過ぎなかった。米軍はほとんど抵抗を受けないまま翌2日には東海岸に達して本島を分断し、北部は2週間余りで占領した。北、中の両飛行場を奪い、制空権を完全に掌握した。

 守備軍は首里の司令部を取り囲むように丘陵地帯に布陣した。4月8日から本格的な戦闘が始まり、宜野湾(ぎのわん)の嘉数(かかず)高地や浦添(うらそえ)の前田高地などで激戦が展開される。米軍にとっても「ありったけの地獄を一つにまとめた」戦闘であった。5月4日、守備軍は総反攻に出たが、失敗して再び持久戦に戻した。日本軍の支援は散発的な「特攻」攻撃にとどまり、沖縄は孤立した。

 同(5月)22日に首理撤退が決定され、司令部は魔文仁(まぶに)に移される。それは多数の住民がガマなどに避難している本島南端部が戦場になることを意味していた。

 大本営にとって沖縄戦は、長期戦で米軍を消耗させ本土進攻を遅らせる意味があった。まさに沖縄は「捨て石」となった。徹底抗戦が継続される中、「鉄の暴風」と称される米軍の砲爆撃により、住民や動員学徒は次々に命を失っていった。結局、守備軍司令官の牛島満中将は6月23日に自決し、組織的戦闘は終わる。ただ、散発的な抵抗は続き、守備軍の降伏は日本が降伏文書に調印した5日後の9月7日だった。

 沖縄戦の死亡者は日本側18万8000人以上、米側1万2520人とされる。日本側の半数約9万4000人(推計)が住民だった。


現在の沖縄の反米感情はここから来ている

tetsunobouhuuokinawatimes 1950


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「ひめゆりの塔」吉永小百合・浜田光男。1968年の作品。NHKが何度も放映した。


沖縄タイムスが沖縄の世論を作ってきた



(創設)沖縄本島で地上戦開始後、首里市の新聞社壕で発行を続けていた沖縄新報は、1945年5月25日に解散した。最後まで壕にとどまった沖縄朝日新聞を中心とした社員10人のうち9人(社長代行の高嶺朝光、編集局長の豊平良顕、具志堅政冶、前田宗信、牧港篤三、大山一雄、稲嶺盛国、仲本政基、島袋俊一)が創設メンバー。

(創刊)1945年7月時点で米軍の準機関紙「ウルマ新報」(現・琉球新報)が、教師などの新聞発行未経験者の手により発行されていたが、沖縄タイムスは「新聞人による新聞発行」を目指し、1948年7月1日創刊された。創刊号発行前の6月29日、米軍占領下の軍票(B円)への通貨切り替えのスクープを号外で出し、これが実質的な創刊となった。

(左派の論調)論調としては琉球新報と同じく、「平和主義~アメリカ合衆国軍基地撤廃~死刑廃止」といわゆるリベラル・左派のスタンスをとっている。1990年代に、由井晶子が全国紙、地方紙を通じ、初めて女性として編集局長に就任した。『新南島風土記』などを著した新川明、川満信一ら沖縄の文化を牽引する記者を輩出した。

(朝日新聞と密接な関係)朝日新聞那覇総局と共同通信那覇支局が沖縄タイムス本社内に入居している(毎日新聞、読売新聞、産経新聞、時事通信の支局は琉球新報本社内に入居)。創刊メンバーの豊平良顕が戦前、大阪朝日新聞那覇通信部の記者だったことから朝日新聞社とは特に縁が深く、創刊時から協力関係にあった。世論調査を共同で実施し、現在も人事交流がある。

(県内99%のシェア)沖縄県では、全国紙の多くが本土との同時発行を行っていないことから、ライバル紙である琉球新報と合わせて県内でのシェアは99%近くを占め、地元紙でほぼ寡占状態となっている。長年、諸事情により日本ABC協会非加盟であったが最近加盟した。(ウイキぺデイア)

                            ~続く~

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プロフィール

伊勢平次郎

Author:伊勢平次郎
 
伊勢平次郎はペンネーム。アメリカへ単身移住してから50年が経つ。最初の20年間は英語もろくに話せなかった。英語というのは、聴き取りにくく、発音しにくい厄介なものだ。負けん気だけで生きた。味方を作ることが生き残る道だと悟った。そのうち、コロンビア映画、スピールバーグ監督、トヨタ工場、スバル・いすゞ工場の北米進出、日本の新聞社に雇われた。2013・6 冒険小説You Die For Me アブドルの冒険(邦題)をアマゾンから出版した。昨年のクリスマスには、King of Pepper(英語版)胡椒の王様を出版した。日本、英国、デンマーク、ドイツの読者が読んでくれたわ。妻のクリステインと犬2匹で、ルイジアナの湖畔に住む。

写真は、ハヤブサ F. p. japonensis。カタカナで書かれる。瞬間飛翔速度は、時速300キロという猛禽。

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